著述 本54 ヘロドトス『歴史 上』 第一巻

ギリシア
  1. 第一巻 リュディア編
  2. 一、リュディア王国
    1. リュディア王朝の交代
      1. リュディア王朝の領域
      2. ギリシア人との関係
      3. ヘーラクレース家からメルムナス家へ
        1. リュディア王国の王朝交代史
      4. ヘーラクレース王朝とは?
      5. ギュゲスの簒奪
    2. メルムナス家の小アジア統一
    3. アリュアッテスのリュデイアVSミレトスの戦争
    4. ミレトスの僭主とコリントスの僭主の蜜月
      1. ミレトス僭主トラシュブロス
      2. コリントス僭主ペリアンドロス
    5. クロイソスの即位
      1. 父アリュアッテスのミレトス戦争終結と銀製品のデルポイ奉納
        1. キオス人が鉄製品の溶接技術発明
      2. クロイソス即位とクロイソスの血統
    6. クロイソスのイオニア征服
      1. 小アジア本土のイオニア人・アイオリス人の諸都市を制覇
      2. 島嶼のギリシア人征服へ・・・賢人のアドバイスで阻止
        1. イオニア人、賢人のアドバイスで征服阻止作戦
      3. 本土のハリュス河以西の諸民族の征服完了
    7. ソロンの来訪
      1. ソロンの逸話は、アテナイ人がヘロドトスにした作り話の可能性が大
      2. ソロンの幸福論
    8. 人格者クロイソス
    9. クロイソスのオカルト実験とデルポイの神託
      1. クロイソスのオカルト実験
      2. ペルシアとの戦争の是非を問うデルポイの神託
        1. デルポイ人はフェニキア人
        2. 奉納品のぜいたく品を造るのはフェニキア人
        3. 奉納品を収めてから神託伺いするクロイソス
        4. デルポイの神託の答え
        5. 仕合せのおすそ分けをする名社長
    10. 本土のギリシア人との同盟をさぐる
      1. ヘロドトスのアテナイ人とスパルタ人の認識
        1. ヘロドトスのドーリス族の認識
        2. ヘロドトスのペラスゴイ人
  3. 二、ペイシストラトスの僭主政
    1. ペイシストラトスの誕生
      1. ペイシストラトス誕生秘話、ペイシストラトスの父ヒッポクラテス
      2. ペイシストラトス、僭主をめざす(第一僭主政)
        1. 海岸党・平原党・山岳党
        2. ペイシストラトスの劇場型クーデタ
        3. ペイシストラトスの僭主政の讃美
      3. ペイシストラトスの第二僭主政
        1. テーバイとの固い絆
          1. 家族の尊重(息子ヒッピアスを大事にする)
          2. テーバイと親密(フェニキア系の出自:ピュロス系テッサリア人×テーバイ人)
          3. アルゴス、ナクソスなどフェニキア系諸都市からの支援
        2. マラトンを拠点に無血革命
      4. アテナイの島嶼支配に先鞭をつける
        1. ナクソスを反対派の牢獄に(処刑しない)
        2. デロス島の浄祓
    2. スパルタの現状
      1. リュクールゴスの国制
      2. リュディア(クロイソス王)との友好
  4. 三、ペルシア(キュロス)のリュディア征服
    1. リュディアとメディアの姻戚の起源
      1. スキュタイ人の人肉料理
      2. リュディアVSメディア戦争
        1. タレスの日蝕予言
        2. リュディアとメディアの婚姻
    2. ペルシアVSリュディア戦、クロイソスがキュロスの助言者に
      1. ヘルモス河の戦いであっけなく敗北
      2. スパルタの長髪
      3. キュロスの恩赦
  5. 四、エトルリア人縁起
    1. 技術の創始者リュディア人
      1. 貨幣鋳造の創始者
      2. 遊具の発明
    2. リュディア人がエトルリア人に
      1. アテュス王の時代
      2. 飢饉が原因
      3. エトルリア人誕生
  6. 五、キュロスのイオニア征服
    1. キュロスとは?
      1. メディア王権
      2. 捨て子伝説
    2. キュロス、イオニア征服へ
      1. パンイオニオン
  7. 六、イオニアの人種
    1. イオニア四方言
      1. 南方方言(カリア地方)
      2. 内陸方言(リュディア地方)
      3. 島方言(キオス島・サモス島・エルイトライ半島)
    2. イオニア12都市
    3. ドーリス人のヘクサポリスがペンタポリスになったわけ
    4. ペロポネソスのイオニア12都市
      1. イオニア人のペロポネソスでの12地区
      2. イオニア植民に混血した種族
      3. ミレトスに植民したアテナイ人
      4. ミュカレのポセイドーン神域(ヘリケのポセイドーン)
    5. アイオリス人の12都市
      1. スミュルナ脱退の経緯
      2. 島のアイオリス人
    6. スパルタの対応
  8. 七、ハルパゴスのイオニア征服
    1. ポカイア征服
      1. ポカイア人とは?
      2. タルテッソス王アルガントニオスの作り話
      3. ハルパゴスのポカイア攻撃
        1. ポカイア人、キオスに脱出するも植民拒否される
      4. キュルノス(コルシカ)へ植民
      5. フェニキア系キュルノス人と確執してレギオンへ
      6. ポカイア人捕虜を処刑したアギュラ人(カエレ人)
      7. エレア市建設
    2. テオス征服
    3. 二都市以外のイオニア諸都市は、属国受け入れ
    4. 島国のイオニア人も自発的に服属
    5. 賢人たちのアドバイス
      1. プリエネのビアスの勧告
      2. ミレトスのタレスの勧告
  9. 八、ハルパゴスのカリア人、リュキア人、カウノス人の征服へ
    1. カリア人とは?
      1. カリア人の出自は、フェニキア系クレタ人(クレタ人の説)
        1. ギリシア文化の戦争装備はカリア人の発明
        2. あとからイオニア人とドーリス人が合流
      2. カリア人「生え抜き」説(ヘロドトス時代のカリア人の説)
    2. カウノス人とは?
    3. リュキア人とは?
      1. フェニキア系クレタ人+「土着民」
      2. リュキアの名祖リュコスの到来
      3. 徹底した女性上位のリュキア人は、フェニキア系
    4. カリア人、リュキア人、カウノス人のハルパゴス対応
      1. カリア人は降伏
      2. クニドス人
      3. クニドス人の立地と出身
      4. 島化のための運河開鑿作戦
        1. 運河開鑿を封じる神託
      5. リュキア人は玉砕
      6. カウノス人も玉砕
  10. 九、キュロスのアッシリア征服と新バビロニア人(カルデア人)
    1. アッシリアのニネヴェ陥落後の首都バビロン攻め
    2. 驚異の都市バビロン
      1. 架空の女王セミラミス
      2. 架空の女王ニトクリス、実はネブカドネザル二世
      3. ネブカドネザルの大工事
      4. バビロン人(カルデア人)の習俗は、フェニキア系そのもの!

第一巻 リュディア編

一、リュディア王国(リュディア王国の歴史・クロイソスのイオニア征服)
二、ペイシストラトスの僭主政
三、ペルシアのリュディア征服
四、エトルリア人縁起(リュディア人がエトルリア人へ)
五、キュロスのイオニア征服
六、イオニアの諸民族
七、ハルパゴスのイオニア征服
八、ハルパゴスのカリア、カウノス、リュキア征服
九、キュロスのアッシリア(バビロニア)遠征と新バビロニア王国

一、リュディア王国

リュディア王朝の交代

リュディア王朝の領域

クロイソスはリュディア人で、アリュアッテスの子として生れ、ハリュス河以西の諸民族を独裁的に統治していた。

ハリュス河とは、シリアとパプラゴニアとの間を南から流れてきて、北へ向かって、いわゆる黒海エウクセノイスに注ぐ河のことである。

ハリュス河は、小アジア半島の真ん中から北海へ注ぐ河。
ハリュス河は、黒海からみればちょうど東西で見て中間くらいだが、半島南の地中海から見れば、東端となる。つまりキリキアの北部に流域を持つ川である。
つまり当時、小アジア半島をほぼ制圧していたといえる。

ギリシア人との関係

すなわち彼はイオニア人、アイオリス人およびアジアに住むドーリス人を征服する一方、ラケダイモン(スパルタ)人とは友好関係を結んだのであった。

小アジアのギリシア諸都市を形成するイオニア人、アイオリス人、ドーリア人はすべて征服し、
ラケダイモン人とは同盟を結んだ。

クロイソスの統治以前は、すべてのギリシア人が自由であった。クロイソスより以前にも、キンメリア人がイオニアに侵攻したことがあったが、これも国々を征服するというようなことではなく、単に掠奪を目的とする侵入にすぎなかったからである。

ヘーラクレース家からメルムナス家へ

ところで、ヘラクレス家の掌中にあった主権が、メルムナス家と呼ばれる、クロイソスの一門に移ったいきさつは次のとおりである。

リュディア王国の王朝交代史

カンダウレスという人物は、ギリシアではミュルシロスの名で呼ばれているが、ヘラクレスの子アルカイオスの後裔で、サルディスの独裁者であった。

アルカイオスの子ベロスの子ニノスを父とするアグロンが、ヘラクレス家の一統でサルディスの王となった最初の人物であるが、
ミュルソスの子カンダウレスは、その最後の王であった。

アグロン以前にこの国に君臨したのは、アテュスの子リュドスの子孫たちで、この国の住民たちを一括してリュディア人と呼ぶのは、リュドスの名にちなんだものである。
彼らはそれ以前はマイオニア人と呼ばれていた。

マイオニア人王朝
リュディアの名祖は、アテュスの子リュドスである。
民族的にはマイオニア人である。

ヘーラクレース王朝(ヘーラクレースの末裔のアグロンの王朝)
ヘーラクレースが小アジアでつくった子アルカイオスの子ベロス(バアルを思わせる)の子ニノスの子アグロンが、始祖である。
最後の王がカンダウレス(ミュルシロス)である。

ヘーラクレース王朝とは?

ヘラクレス家の一族は、神意に基き、このリュドスの後裔から委託されて主権を掌握したのであるが、彼らはイアルダノスという人物の使っていた奴隷女とヘラクレスとを祖とする家柄で、二十二代、五百五年間、父子その主権を相継ぎ、ミュルソスの子カンダウレスの代に至ったのである。

トロイア攻めの直前にヘラクレスがトロイアを制圧した神話があり、フェニキア人がリュディア王国ヘラクレス朝を形成した可能性が高い。

ギュゲスの簒奪

さて、このカンダウレスは、自分の妻を溺愛するあまり、・・・・
ダスキュロスの子ギュゲスという男がいたが、

ここ8節から12節までが、カンダウレスの妻とギュゲスのヘラクレス朝簒奪事件を語る。

ギュゲスは、自分が殺されるか、カンダウレスを討つかの瀬戸際に追いつめられ、・・・王を殺し、妃と王国を二つながらわがものとしたのだが、
このギュゲスの話は、同じ頃の人であるパロスの詩人アルキロコスも、そのイアンボス六脚詩に歌っている。

かくてギュゲスは王位を手中にしたが、さらにその地位はデルポイの神託によって、安固なものとなった。すなわち、リュディア国民がカンダウレスの横死に憤激して、武装蜂起したとき、ギュゲス一味の反乱者とその他のリュディア人との話し合いの結果、もし神託がギュゲスのリュディア王たることを認めたならば、ギュゲスが王となること、然らざるときは、ヘラクレス家に主権を返還すること、で意見の一致を見たのである。
しかるに神託はそれを認めたので、ギュゲスはかくて王位に就いたのである。

メルムナス家の小アジア統一

さてこのギュゲスも、王位に即いてから、ミレトスとスミュルナに軍を進め、コロポンの市街を占領するということがあったが、彼の在位三十八年の間、それ以外は大した事績もないので、彼については以上の記述にとどめたいと思う。

ギュゲスの後王位に即いた、ギュゲスの子のアルデュスについて述べよう。
このアルデュスはプリエネを占領、ミレトスに侵攻したが、彼がサルディスを支配している時期に、キンメリア人がスキュティア系遊牧民の圧迫で定住地を追われて,アジアの地に入り込み、サルディスをそのアクロポリスを除いてことごとく占領した。

このアリュアッテスは、・・・キンメリア人をアジアから駆逐し、
コロポンの植民都市であるスミュルナを占領し、クラゾメナイに侵攻した。
ただしクラゾメナイでの作戦は思うにまかせず、散々な目に遭って撤退したのであった。

初代ギュゲスは、何もできず、二代目アルデュスは、プリエネを占領。
四代目のアリュアッテスは、スミュルナを占領。

アリュアッテスのリュデイアVSミレトスの戦争

すなわち彼はミレトスと戦ったのであるが、・・・
このような作戦によって、彼は一一年間戦い続けたのであるが、この間ミレトスは二回にわたって大損害を蒙った。一回は自国領のリメネイオン、もう一回はマイアンドロス河畔の平野における戦闘によってである。

イオニア諸都市の内、ひとりキオスを除いては、ミレトス人のこの戦争に援助しようとする都市は一つもなかった。キオス人は以前エリュトライアと戦った際、ミレトス人が加勢してくれたことに恩義を感じ、同じような行為によって報恩しようと、彼らを援助したのである。

リュディアの都サルディスは、小アジアの中央から西に地中海に注ぐヘルモス河の南岸にある。
ヘルモス河は、マグネシア市を経由して、スミュルナの北で、地中海に注ぐ。
スミュルナの南にエリュトライ半島が突き出しており、その入口にクラゾメナイが位置し、
エリュトライ半島の中央にエリュトライ市が位置する。
その半島の対岸に浮かぶのが、キオス島である。

ミレトスの僭主とコリントスの僭主の蜜月

ミレトス僭主トラシュブロス

キュプセロスの子ペリアンドロスは当時ミレトスの独裁者であったトラシュブロスときわめて懇意な間柄にあったが、・・・

コリントスの僭主ペリアンドロスとミレトスの僭主トラシュブロスはたいへん親しい仲。

コリントス僭主ペリアンドロス

ペリアンドロスはキュプセロスの息子で、トラシュブロスに例の託宣のことを報せたのはこの人物である。
彼はコリントスの独裁者であったが、彼の在世中、世にも珍しい事件があった。

メテュムナの人アリオンが、海豚に乗って海上をタイナロン岬まで運ばれたというのである。

アリオンは当時彼に比肩するものなしとされた竪琴弾きの歌い手で、われわれの知る限りではディテュランボスの創始者で命名者でもあり、コリントスでこれを上演もした人物である。

ディテュランボスはディオニュソス讃歌、パイアン(アポロン讃歌)と対比される。アリオンは、レスボス島のメテュムナの出身。比類なきキタラ演奏家としても有名。レスボス島の都市ミュティレネはエレクトロン貨の鋳造で有名。
ということで、フェニキア系の色のつよい竪琴弾き。

コリントス人の話では、アリオンは多年ペリアンドロスの許にいたが、イタリアとシケリアへ渡る気を起し、・・・・再びコリントスへ帰ろうとした。
コリントス人をどこの人間よりも信用していたアリオンは、コリントス人の船を雇い、タラス(タレントゥム)から出航した。
アリオンの方は一頭の海豚が彼を拾い上げて、タイナロン岬に運んだという。

タイナロン岬は、現マタパン岬。メッセニアのペロポンネソス南西端の岬。

コリントスの僭主ペリアンドロスと親しいフェニキア系の竪琴弾きアリオンが、イタリアのタラス(ラケダイモン人の植民都市)に出かけて、コリントスに帰ろうとしたところ遭難して、
イルカが拾って、メッセニアのタイナロン岬まで乗せて来たという。
コリントスのイストミア祭の起源となったメリケルテースは、コリントス市の建設者シーシュポスの時代に死体が流れ着き、イルカに乗った少年の姿で祀られている。
アリオスは、この神話にちなんで作り話を謳ったのではないか。

クロイソスの即位

父アリュアッテスのミレトス戦争終結と銀製品のデルポイ奉納

リュディア王アリュアッテスは、ミレトスに対する戦争を終えた後歿した。
在位五十七年であった。
病が癒えたときデルポイに感謝の奉納をしたが、・・・彼の奉納したのは巨大な銀の混酒器と、鉄を溶接して作った混酒器の台とである。

キオス人が鉄製品の溶接技術発明

後者はデルポイにあるすべての奉納物中でも逸品で、キオスの人グラウコスの作に成る。
グラウコスは鉄の溶接の技術を発明した世界中でただ一人の男である。

鉄製品が貴重品の時代。
鉄溶接技術発明はキオス人。リュディア発の技術、エレクトロン貨、キタラなどはフェニキア系イオニア人の発明の可能性大。

クロイソス即位とクロイソスの血統

アリュアッテスの死後、その子クロイソスが三十五歳で王位を継いだ。

クロイソスの一族は、ヘーラクレース朝を王妃と共謀して簒奪した伝承が、始祖ギュゲスのひ孫アリュアッテスの硬貨から知られている。ギュゲスは「祖父」という意味で、カリア系の可能性が大。カンダウレスの妻の名は伝わっていないため、これがアリュアッテスの創作した神話である可能性も考えうる。
いずれにせよ、カリア系であることは確かで、ヘーラクレース王朝の支配が長期にわたったため、ヘーラクレースの子孫(テーバイ系フェニキア人)が上流階級を占めていた可能性が大である。

クロイソスは、カリア人(カドモス時代のテュロス人の子孫)とテーバイ人(後のフェニキア系ギリシア人)の混血であろう。

クロイソスのイオニア征服

小アジア本土のイオニア人・アイオリス人の諸都市を制覇

クロイソスが攻撃の戈を向けた最初のギリシア都市はエペソスである。
ついでイオニア、アイオリスの全都市にさまざまな言い掛りをつけて攻撃した。

クロイソスは、小アジアの西部・西岸のイオニア人とアイオリス人の植民都市を制圧。そのイオニア系ギリシア人(フェニキア人)の技術を接収した。

島嶼のギリシア人征服へ・・・賢人のアドバイスで阻止

アジアのギリシア人が征服されて朝貢するようになると、今度は船を建造して島に触手を伸そうと考えた。造船の準備万端が整った頃のことである。

イオニア人、賢人のアドバイスで征服阻止作戦

一説によればプリエネの人ビアス、別の説ではミュティレネの人ピッタコスがサルディスに来て、ギリシアで何かニュースはないかと訊ねたクロイソスに、次のような話をして彼の造船計画を止めさせたという。

「もしあなたが島を征伐なさるため船の建造を計画なさっておりことを、島の者たちが知ったならば、誓ってリュディア軍を海上に捕捉し、あなたによって隷従させられております、大陸在住のギリシア人たち報復を遂げよう、と念願するとはお考えになりませぬか。」

リュディア人は海戦が苦手である。陸上の騎馬戦は得意だが。
船の建造も海戦の技術も、フェニキア系の技師に頼るしかなかった。

クロイソスはこの結論が大層気に入り、彼のいうのがもっともであると考えたので、その言を容れて船の建造を中止し、島に住むイオニア人たちを友好同盟を結んだのであった。

本土のハリュス河以西の諸民族の征服完了

その後しばらくの間に、ハリュス河以西の住民はほとんど全部クロイソスに征服された。
すなわちキリキア人とリュキア人とを除き他のすべての民族を、クロイソスは自分の支配下に制圧したのである。

これらの諸族とは、リュディア人、プリュギア人、ミュシア人、・・・
トラキア系のテュノイ人とビテュニア人、カリア人、
イオニア人、ドーリス人、アイオリス人、パンピュリア人である。

キリキア人とリュキア人を除く、小アジア系のリュディア人、プリュギア人、ミュシア人、トラキア系のビテュニア人、ギリシア系のイオニア人、ドーリス人、アイオリス人など小アジア本土の西部を制圧。

ソロンの来訪

ソロンの逸話は、アテナイ人がヘロドトスにした作り話の可能性が大

これらの諸民族がクロイソスによって征服されリュディアに併合された後、殷賑の頂点に達したサルディスへは、当時世にあったギリシアの賢者がことごとく、かわるがわる訪ねてきたが、名に負うアテナイ人のソロンもその一人であった。

さてこうした事情もあり、また見物の目的もあって国を離れたソロンは、エジプトのアマシス王を訪ね、さらにサルディスのクロイソスの許にも姿を現わした。

ソロンの幸福論

さればクロイソス王よ、人間の生涯はすべてこれ偶然なのでございます。
あなたが結構な御生涯を終えられたことを承知するまでは、私としましてはまだ何も申し上げられません。

ソロンは、人生偶然説。ピュタゴラスの因果(カルマ)の法則、輪廻転生説を知らない。この世で無事に生涯を栄光のうちに終えればそれが幸福。

きわめて富裕ではあるが不幸であるという人間は、幸運な者に比べてただ二つの利点をもつに過ぎません。幸運な者は不幸な金持ちよりも多くの点で恵まれております。

なるほど一方は欲望を充足したり、ふりかかった大きな災厄に耐える点では、他方より有力ではございましょう。

金持ちの利点はこの二点
金持ちは、安全と欲望の充足において優れているとみとめる。これは重要である。古代のような危険な社会では、神託を買収することも可能であったから。

体に欠陥なく、病を知らず、不幸な目にも遭わず、良い子に恵まれ、容姿も美しい、という訳でございますから、

ソロンの道徳観(幸運な者の定義)
これはソロンが金持ちのバルバロイと比較したさほど金持ちでないギリシア人の理想である。肉体的卓越性と家族的卓越性である。

実はこの両者は、実にもろいものであることがわかる。
ソロンの知恵とはそんなケチなものである。人間は年を取り、肉体は衰え、家族に先立たれることもある。
金持ちであることより幸運とは思われない。
精神の陶冶による幸福を求めるストア派などの哲学と較べて「賢人」にもとる道徳観である。
タレスのように自然科学に関心を示さないのが、アテナイのえせ「賢人」ソロンならではである。

人格者クロイソス

同じ頃ミュシアのオリュンポス山に途方もなく大きい野猪が現れた。

このとき例の外国人ー殺人の穢れを祓ってもらったアドラストスという男であるがーが猪を狙って槍を投げたが的が外れ、クロイソスの息子を刺してしまった。すなわちアテュスは果たして槍にかかって倒れ、夢の話が実現したのであったが、

クロイソスはこれをきいて、自分自身これ程の不幸に見舞われておりながら、アドラストスを憐れに思い、こういった。

最愛の息子を殺した者を、たとえ過失致死とはいえ、赦すクロイソスの人徳は、ソロンなぞよりはるかにすぐれたものであろう。
クロイソスのこの人徳が、彼を処刑の薪から救ったのであろう。
注目すべきは、ヘロドトスがクロイソスなどバルバロイを人徳者として描いていることだ。

クロイソスのオカルト実験とデルポイの神託

クロイソスのオカルト実験

ペルシアの国勢が日に日に増大するに及んで、・・・・
クロイソスは、ギリシアおよびリビアにあるもろもろの神託所に使いをやって神託を伺わしめた。
デルポイをはじめポキスのアバイ(アポロンの神託所)、またはドドネ(エペイロスのゼウスの神託所)、更にはアンピアラオス(テバイにあり夢占いで有名)やトロポニオスの神託所、またミレトスのブランキダイの許(ミレトス付近のディデュマのアポロンの神官の家柄)にも使者が送られた。
以上が神意を訊すためにクロイソスが使者を送ったギリシアの神託所であるが、リビアではアンモンの神の許へ別の者を派遣して神託を乞わしめた。

クロイソスがこのように諸方に使いを出したのは、それらの神託が果たしてまともなものであるかどうか試してみて、もし真実を告げるものであると判ったら、改めてそこへ使者をやり、ペルシア出兵を断行してよいかどうかを訊ねるつもりであったのである。

すなわち彼らがサルディスを出発した日から数えて百日目に神託を求め、リュディア王なるアリュアッテスの子クロイソスが、現在何をしているかを問え、というのである。

この神託をうのみにせず、オカルト実験をするクロイソスは、いかにもフェニキア人的である。

ペルシアとの戦争の是非を問うデルポイの神託

デルポイ人はフェニキア人

デルポイの巫女ピュティア長短々六脚韻ヘクサメトロスの調子で次のように答えた。

我は知る真砂の砂の数も海の広さも、
唖者の心を悟り、物言わぬ者の声を聞く。
堅き甲羅の亀の香いがしてきたぞよ、
青銅からかねの鍋に山羊の肉と共に煮えたる亀の香いがな。
その下に青銅敷かれ、青銅はまた上にもあるぞ。

ギリシア語の手本になる有名な神託である。

デルポイの神託が霊験あらたかなのは、アポロンが実在するからではない。
ここの巫女は、もともとフェニキア人の養成した巫女であり、フェニキア人の密儀の伝統を体得したものであったのだろう。

神聖戦争を通じて、ポキス人とデルポイ人が戦った時、アテナイ人は常にポキス人の味方で、テーバイ人は常にデルポイ人の味方であった。
デルポイは、カドモスの昔から、テーバイ帝室に支配されていたといってよかろう。

しかしデルポイの神託を聞くと、すぐに兜を脱いで、その正確なことを認めたのである。それはまさに彼がしていたとおりを見抜いていたので、デルポイの神託こそ唯一の真の神託であると信じたのであった。
とうてい言い当てることのできぬようなことを案出した彼は、亀と小羊を切り刻み、自らこれを一緒に青銅の大釜に入れ、蓋をして煮たのであった。

奉納品のぜいたく品を造るのはフェニキア人

その後クロイソスは莫大な犠牲を捧げて、デルポイの神の恩寵を得ようとした。すなわちあらゆる種類の犠牲獣三千を屠り、巨大な薪の山を築いて、金銀の金具を打った寝椅子、黄金製の皿、紫衣の衣裳、肌着の類を焼いた。

フェニキア人の生産物であるぜいたく品を焼いて捧げたのは、それでフェニキア人は商売繁盛になるからである。

奉納品は、フェニキア人職人に発注された。
フェニキア人のすてきなぜいたく品を皆が楽しく使ってくれることで、ウィンウィンの関係を築くのが、フェニキアの平和主義である。

犠牲の儀式を済ますと、今度は莫大な量の黄金を鋳つぶして、金の煉瓦百十七個を作らせた。その内四個は純金で一個の重さがニタラントン半あり、残りは金と銀の合金で、重さはニタラントンであった。
彼はまた純金製で重さ十タラントンの獅子の像を作らせた。この獅子はデルポイの神殿が火災に遭った際(前548年)、台座になっていた金の煉瓦から落下し、今は「コリントス人の宝蔵」にあり、重量は六タラントン半になっている。三タラントン半が溶け落ちたのである。

黄金製および銀製の二個の巨大な混酒器を奉納したが、・・・
これらの混酒器も神殿焼失の際場所を移されて、黄金製の方は現在「クラゾナイ人の宝蔵」に納まっており、銀製の方は神殿の前廊の隅に置かれ、・・・
テオパニアの祭のときに、デルポイ人がこれを混酒器として使用するからである。デルポイ人はこの器がサモスの人テオドロスの作であるというが、私もそうであると思う。

サモスのテオドロスとは、パウサニアスによれば、鉄鋳造の発明者。青銅鋳造の改良者。彫刻家にして建築家。サモスのドーリス式神殿ヘライオンの建設者。
サモス島は、カドモス一行のギリシア本土植民の行きにも植民され、何代目からのヘーラクレースによってアルゴスに遷都したテーバイ帝室によっても再植民された。
この何代目かのヘーラクレースは、アルゴス王エウリュステウスが投影されている。

奉納品を収めてから神託伺いするクロイソス

「リュディア人並びに他のもろもろの国民の王たるクロイソスは、貴社の御神託をば世界において唯一の真の神託と信じ、その霊妙なる託宣に相応しき奉納品の数々をお納めいたしたが、今ここに、果してペルシアに出兵いたして宜しきや否や、またいずれかの同盟軍を自軍に加えるべきや否やをお伺い申す。」

最初に奉納品をふんだんに納めてから、伺いを立てるクロイソスは人徳とともに敬虔さも持ち合わす理想の人格として描かれている。

デルポイの神託の答え

このような口上を述べて神託を伺うと、双方の神託は全く同じ答えをした。
すなわち、クロイソスがペルシアに出兵すれば、大帝国を亡ぼすことになろうといい、ギリシアの中で最強の国はいずれの国々であるかを調べ、これを同盟国とするよう勧告したのである。

滅びる大帝国をペルシア帝国と誤認。

クロイソスが自分の王権が永続するかどうかを神に訊ねたのに対し、デルポイの巫女は次のような託宣を下した。
 されど騾馬がメディアの王になったらば、
 足柔のリュディア人よ、その時は礫も多のヘルモス河に沿うて逃れ止まることなかれ、臆病者の名を恥ずることも要らぬぞよ。

キュロス二世が騾馬である見破れなかった。

仕合せのおすそ分けをする名社長

クロイソスは使者の復命した託宣を聞くと大いに喜んだ。キュロスの王国を亡ぼすことができると思い込んだ彼は再びデルポイに使者を送り、デルポイの人口を調べた上で、デルポイ人の一人一人に黄金ニスタテルずつを贈与した。

支配者だけでなく、市民ひとりひとりに黄金を贈与するという人心掌握術がすごい。

本土のギリシア人との同盟をさぐる

その後彼は、同盟国とすべきギリシア最強の国とはどこの国かと思案し調査した。調査の結果、ラケダイモン(スパルタ)とアテナイの二国が他国に卓絶していることが判った。

ヘロドトスのアテナイ人とスパルタ人の認識

一方はドーリス族、他はイオニア族の系統を引く国である。
実際この両者が他にぬきんでて強大であったが、
アテナイ人は古くはペラスゴイ民族であり、ラケダイモン人の方はヘラス(ギリシア)民族であった。

ヘロドトスは、ペラスゴイ民族=イオニア系という認識。
イオニア人には、「生え抜き」のレレゲス人、ペラスゴイ人、(すなわち「生え抜き」とプロト・カルタゴ人)も、ダナオイ人も、カドモス(テーバイ)人も、アカイア人も含まれると考えられる。

ヘロドトスのドーリス族の認識

デウカリオン王時代にはプティオティスの地に、ヘレンの子ドロスの時代には、オッサ、オリュンポス両山に近いヒスティアイオティスという地方に住んでいたが、
カドメイオイによってヒスティアイオティスから追われてのちは、ピンドスに住み、マケドノス族の名で呼ばれた。
さらにここからドリュオピス地方に移り、このドリュオピス地方から最後にペロポンネソスに移動して、ドーリス族と呼ばれるようになったのである。

最初はテッサリアに住み、ボイオティアに侵入するがカドモス一統(フェニキア人)に追われ、マケドニアに後退、そこからドリュオピス地方(ドーリス地方)(ピンドスとヘラクレス終焉の地オイテー山の中間の土地)へ南下し、さらにペロポンネソスへ南下した。
つまり、ドーリス人=アイオリス人、アイオリス王家である。
ヘラクレス王家(ヘラクレイダイ)は、彼らのリーダーとなったフェニキア人=テーバイ人である。

ヘロドトスのペラスゴイ人

ペラスゴイ人がどういう言語を話していたかについては、私には確かなことは判らない。
しかし今も現存するペラスゴイ人ー例えばテュルセノイ人(エトルリア人)の北方にある町クレストンに住み、かつては今のテッサリオティスの地に定住していたドーリス族と境を接していたペラスゴイ人、さらにヘレスポントスのプラキア、スキュラケの二市を建設し、同地でアテナイ人と共住していた同族のものたち、さらに右のほか、後に名称を変えたが本来はペラスゴイ族であった諸都市の住民等ーによって判断してよいのならば、彼らの言語は非ギリシア語であったらしい。

ここではヘロドトスは、小アジアやトラキアのイオニア人について言っている。
クレストンは、「〔註〕クレストンと読む限り、これは北方カルキディケ半島のテルメ湾に臨む町の名とする外はない。」とあり、カルキディケの地方の都市、
プラキアやスキュラケも「〔註〕この二市は厳密にいえば、ヘレスポントスではなくプロポンティス(マルサラ海)に沿い、キュジコスの東方にある。」とある。
したがって、ヘロドトスは、イオニア地方に移住したギリシア系が、非ギリシア言語を使っていることを指摘しているわけだ。
ギリシア本土が古くからギリシア語を使っていなかったことの証明にならない。

ギリシア本土に関して言えば、実はカドモスがアルファベットを線文字Bとして導入した時、すでにプロト・カルタゴ人や「生え抜き」はギリシア語を話していたらしい。もしくは、カドモスがギリシア語を導入したのか?コリントスやヒュアキントスは、テーバイ帝室と関わりが深いが、セム語なのか?

ところでペラスゴイ族全般について、右のことがいえるとすれば、アッティカの住民たちは、もとペラスゴイ系であったのであるから、ギリシア民族に吸収されたとき、同時にその言語も変えたことになる。

二、ペイシストラトスの僭主政

ペイシストラトスの誕生

ペイシストラトス誕生秘話、ペイシストラトスの父ヒッポクラテス

さてクロイソスは、右にあげたギリシア諸部族のうちアテナイが、ヒッポクラテスの子で当時アテナイの独裁者であったペイシストラトスの治下に在って、内紛に苦しみ分裂していることを知った。

ところでこのヒッポクラテスが個人の資格でオリュンピアの競技の見物に行ったとき、大変な奇跡が起こったのであった。
すなわち彼が犠牲を献じた時のこと、肉と水をみたして捉えられた釜が、火もつけぬのに煮こぼれたのである。

スパルタの人キロンがたまたまそこに居合わせ、この奇跡を見てヒッポクラテスに忠告したのは、先ず妻帯して子を設けぬこと、次にもし既に妻帯しているのならばその妻を離縁すること、さらにもし既に子もあるのならば、その子の籍を外すことであった。

しかしヒッポクラテスは、キロンのこの勧告に従おうとしなかった。

ペイシストラトス、僭主をめざす(第一僭主政)

その後彼にペイシストラトスが生れたが、このペイシストラトスこそアテナイで海岸党と平原党の二派が、一方はアルクメオン(アルクマイオン)の子メガクレスを、他方はアリストライデスの子リュクルゴスを党首として相争っていた時、独裁政治を目指し第三党を起した人物で、同志を集めて自ら高地党の党首と称し、次のような計略をめぐらした。

海岸党・平原党・山岳党

〔註〕海岸党はスニオン岬を頂点とするアッティカ半島の南半分を根拠地とする富裕な商人、貿易商などの一派。平原党は半島の西南地区、ケピッソス河流域を占める地主の一党で、いわゆる貴族階級である。これに対してペイシストラトスの結成した高地党(もしくは山岳党)は農夫や牧夫などのいわば無産階級をその主体とした。

ペイシストラトスの劇場型クーデタ

自分で自分の体と騾馬を傷つけておき、アゴラに車を乗り入れて、敵方が田舎へ行こうとした自分を襲って殺そうとしたが、その手を逃れてきたところだといった。そして、自分が以前メガラい対する作戦指導に勇名を馳せ、ニサイアの占領はじめ幾多の殊勲を樹てたことを引き合いに出して、何らかの護衛をつけてほしいと国民に訴えたのである。

アテナイ国民はまんまとペイシストラトスの術中に陥って、市民の中から選抜して護衛をつけることを認めたが、ただしこの護衛はペイシストラトスの場合、通常の「槍持ち」ではなく「棒持ち」であった。

ペイシストラトスの僭主政の讃美

彼は既存の管制を乱したり、法律を改変したりはせず、従来の国制に遵って国を治め、見事な政治をしたのであった。

ペイシストラトスの第二僭主政

テーバイとの固い絆
家族の尊重(息子ヒッピアスを大事にする)

ペイシストラトスは、・・・メガクレスとのかねてからの約束に従って、その娘を妻に入れた。しかし彼は既に成人した息子がたちがあり、・・・新しい妻から子の生れるのを望まず、不自然な仕方でしか夫婦関係をもたなかった。
メガクレスは大いに怒り、再び反対派と和解してしまった。

ペイシストラトスは、・・・・綺麗さっぱりと国を退散し、エレトリアへ行き、ここで息子たちと計画を練った。

家族を大切にするのは、フェニキア系の特徴である。

テーバイと親密(フェニキア系の出自:ピュロス系テッサリア人×テーバイ人)

独裁権を奪回せよというヒッピアスの意見が通ったので、彼になんらかの恩義を感じている町々から、義捐金を募りはじめた。多数の都市が募金に応じ、その金額は莫大なものになったが、中でもテバイの醵金額は遥かに他の都市を凌駕した。

テバイがペイシストラトスの僭主制確立に貢献。やはりペイシストラトスはフェニキア人と親しいか、親族か、フェニキア系であっただろう。

彼が母方でコドロス以来のアテナイの名門というソロンの親族であるというヘロドトスの言を信じるならば、テーバイ帝室がアカイア人から奪還したアテナイに、移住して来たピュロス系のイオールコス人の子孫という可能性もある。
しかし、ペイシストラトスの出自は、ピュロス系ということぐらいしか公表されていない。
家系のどこかで、フェニキア系のつまりテーバイ系の血が入っている可能性が大である。
彼の政治は、フェニキア系のものであるし、ペイシストラトス一族の僭主政の間中、テーバイとラケダイモンというフェニキア系の二大都市と、蜜月であったこと、
アリストゲイトンらフェニキア系の帰化人が勢力を持ったことなどが傍証となる。

アルゴス、ナクソスなどフェニキア系諸都市からの支援

すなわちアルゴス人の傭兵がペロポンネソスから到着するし、またリュグダミスというナクソスの男が、軍資金と手兵を携え、異常な熱意をもって、自発的に参画してきた。

アルゴスやナクソスというフェニキア縁の土地からのシンパ。

マラトンを拠点に無血革命

ペイシストラトスの一党は、エレトリアを出発し、十一日目にようやく帰国を果した。彼らがアッティカに入って最初に占領した町は、マラトンであった。

マラトンは、平原党の勢力域で、ミルティアデスらアイアキダイの拠点であった。

ペイシストラトスは、アテナイ軍が四散したままで、再び集結せぬようにしておくために、まことに賢明な策を講じた。すなわち父の命をうけて、騎馬で先発したペイシストラトスの息子たちが、敗走するアテナイ人に追い着いては、父親から言いつかったとおりに、各自安んじて自宅へ帰れ、とすすめたのである。

聡明なペイシストラトスの無血革命。

アテナイの島嶼支配に先鞭をつける

ナクソスを反対派の牢獄に(処刑しない)

先頃の戦闘ですぐに逃亡せず最後まで踏み留まったアテナイ人の子供を人質にとり、これをナクソス島に移した。
ペイシストラトスは既にこの島を攻略しており、リュグダミスに統治させていたのである。

ナクソス島はもとからシンパ、制圧しており、シンパのリュクダミスに統治委託。敵の子弟の人質の監獄とする。

デロス島の浄祓

さらにまた、彼は神託に従って、デロス島の浄祓を行なった。浄祓は次のように実施された。すなわち、神殿から見はるかせる限りの全域から、埋葬されている遺体を掘り出し、これを島の他の地域に移したのである。

ディオニューソス、ヘルメースからアポローンへ主神の軸が移ったのは、テッサリア系出身のペイシストラトスのオリュンポス12神の創設と、アポローン主神の宗教政策によるのだろう。
アポローン信仰は、テーバイ帝室がテッサリア系との共闘で、導入していたが、
ゼウスの子ども、第三代目(第四代目)ポジは、ディオニューソスやヘーラクレースであった。
フェニキア系のラケダイモンも、ヘリオスをアポローンに踏襲させて、アミュクライオスがアポローンとなったのであろう。
ヘレネスの中心が、アイオリス王家となったのも、オリュンポスに12神が集結して、天上の宮殿を創設したのもペイシストラトス一党であろう。
ペイシストラトスの汎ヘレネス友愛政策の一環である。

スパルタの現状

一方スパルタの方は、非常な苦難を切り抜けたところで、今やテゲアをも圧せんとする勢いになることを、クロイソスは知った。

リュクールゴスの国制

スパルタの国制・・・
しかしスパルタ人自身の伝承によれば、これはリュクルゴスが、彼の甥で当時スパルタの王であったレオボテスの後見役となった後、クレタ島からもたらしたものであるという。

このリュクールゴスは、どこの馬の骨とも知れぬ者である。アテナイ人の捏造が入っている可能性がある。
ラケダイモンの国制は、リュクールゴスのような個人が考案したものではなく、クレタ島の国制をまねたものである。フェニキア起源である。
ただ、ラケダイモンは、メッセニアに騙され籤で負けて、不毛のラコニアを引き当てたため、各差を極力なくして、ペリオイコイとヘイロータイと共闘できる体制にしたのである。

すなわち彼は甥の後見役になるとすぐ、法律をことごとく変改し、新法の違反を厳重に取り締まったのである。リュクルゴスはその後さらに、兵制を改めて血盟隊、三十人隊、共同食事シュッシティアなどの制度を定め、また監察官エポロイ長老会ゲロンテスを創設したのである。

二王制、監察官や長老会、民会という三権分立は、クレタ起源である。
これはカルタゴも引き継いだ。

リュディア(クロイソス王)との友好

クロイソスは使者を通じてこのように申し入れたのであるが、
彼らはリュディアの使者来訪を喜び、友好同盟の誓約をたてたのであった。
それには訳もあって、スパルタは以前クロイソスから若干の恩恵を受けており、その恩義に報いる責任を感じていたのである。

右のような理由から、スパルタはクロイソスからの同盟の申し出を受諾したのであったが、それにはクロイソスがギリシア全土の中から、特にスパルタを友好国として選んでくれたということもあずかって力があった。

スパルタもヘラクレイダイの子孫が王で、上流階級がフェニキア系であり、リュディアも、正式にはヘーラクレース朝の後継であり、上流階級はフェニキア系であったからだろう。

三、ペルシア(キュロス)のリュディア征服

クロイソスが兵を進めた理由というのは、・・・
キュロスに対してアステュアゲスの仇を討ちたいと思ったからであった。
アステュアゲスはクロイソスの義兄弟に当たり、メディアの王であったが、カンビュセスの子キュロスが、彼を屈服せしめ支配下に置いたからである。

リュディアとメディアの姻戚の起源

スキュタイ人の人肉料理

遊牧民のスキュタイ人の一隊が、本国で謀反を起し、メディア国内に逃れてきた。
当時メディア王であったのは、キュアクサレスであったが、彼は初めこれらのスキュタイ人を保護嘆願者ヒケテスであるというので、親切に面倒を見てやった。
キュアクサレスは彼らを高く評価していたので、子供たちを彼らにあずけ、その言語や弓術を学ばせたりした。

スキュタイ人たちは、自分たちの許にあずかって教えている子供の一人を殺し、これをいつも獣を料理しているとおりに料理し、狩りの獲物だといってキュアクサレスの許へ届け、届けたら直ぐにサルディスにいるアリュアッテスの許へ逃げることにしたのである。

リュディアVSメディア戦争

その後、キュアクサレスがそれらのスキュタイ人の引き渡しを要求したのに、アリュアッテスが応じなかったので、リュディアとメディアの間に戦争が起こり五年に及んだが、・・・

タレスの日蝕予言

ある時などは一種の夜戦を戦ったこともあった。
ある合戦の折、戦いさなかに突然真昼から夜になってしまった。
この時の転換は、ミレトスのタレスが、現にその転換の起こった年まで正確に挙げてイオニアの人々に預言していたことであった。

〔註〕天文学者の計算によれば、アリュアッテス在位中、この地方(小アジア)には二回日蝕があり、一つは六一〇年九月三十日、もう一つは五八五年五月二十八日であったという。完全な皆既日蝕は後者で、ここに物語られるのもこの時の日蝕を指すとされる。

七賢人のうち、タレスだけが、自然科学に詳しかった。

「Thales alone seems to have known more of physics than was necessary to supply man’s every-day needs; all the others having gained their reputation for political wisdom.」
とプルタルコスの「ソロン伝」にあるとおりであろう!
賢人の名に値するのは、タレスのみであっただろう。

リュディアとメディアの婚姻

リュディア、メディア両軍とも、昼が夜に変わったのを見ると戦いをやめ双方ともいやが上に和平をいそぐ気持ちになった。
そしてアリュアッテスの娘アリュエニスをキュアクサレスの子アステュアゲスに嫁入りさせることをきめた。

メディア王アステュアゲスが、リュディア王クロイソスの義兄弟となった。

ペルシアVSリュディア戦、クロイソスがキュロスの助言者に

ヘルモス河の戦いであっけなく敗北

両軍はサルディスの町の前面にある平野に殺到したが、ここは一本の木もない広大な原で、ヒュロス河はじめ数本の河が貫流し、ともにヘルモスという大河に激しく流れ込む。ヘルモス河は母なる神ディンデュメネの聖山に発し、ポカイアの町あたりで海に注ぐ河である。

ヘルモス河の戦いで惨敗

スパルタの長髪

ところがちょうどこの頃たまたまスパルタ自体が、テュレアという地区をめぐってアルゴスとの係争にまきこまれていた。

この時以来アルゴス人は、以前は長髪にする慣わしであったのに、頭を丸坊主にしてしまい、テュレアを奪回するまでは、アルゴスの男子は一人たりとも長髪を貯えてはならぬ、また女子には黄金の装身具を用いさせぬ、という呪いをこめた掟を作った。それに対してスパルタは、これと反対の掟を定め、それまで長髪でなかったのを、その時以来髪をのばすことにしたのであった。

ラケダイモン人が古典時代長髪であったことはたしかだが、おそらくずっと長髪だったと思われる。

キュロスの恩赦

火あぶりになっておるクロイソスを、神はお救いになったではないか。
ロクシアスは、クロイソスがペルシアに出兵いたせば、大帝国を亡ぼすとのみ預言された。
神の申される大帝国とは、己の国を指すのかそれともキュロスの国の謂であるかを訊ねさせるべきであったのじゃ。

ロクシアスが騾馬のことを申されたが、これもクロイソスは正しく悟り得なんだ。キュロスこそ騾馬であったのじゃ。なんとなればキュロスは種族を異にする両親より生れ、母は高貴の、父は卑賤の出であった。
すなわち母はメディア人にて、メディア人の王アステュアゲスを父とするに対し、父はペルシア人にてメディア人の配下にあり、どの点より見るも下層のものであったが、主筋の女を娶ったのじゃ。

キュロスは、賢人でもあるクロイソスを助けて、助言者にする。

四、エトルリア人縁起

技術の創始者リュディア人

貨幣鋳造の創始者

リュディア人はわれわれの知る限りでは、金銀の貨幣を鋳造して使用した最初の民族であり、また小売制度を創めたのも彼らであった。

エレクトロン硬貨を初めて鋳造したのはリュディア人。しかし、それはイオニアのフェニキア人の技術ではあるまいか。リュディア王族・貴族はヘーラクレースの末裔、つまりフェニキア系。

遊具の発明

またリュディア人自らのいうところでは、今日リュディアとギリシアに普及している遊戯は、自分たちが発明したものだという。

リュディアでこれらの遊戯が発明されたのは、彼らがテュルセニアに植民した時のことだといい、それについてこんな話を伝えている。

リュディア人がテュルセノス人(エトルリア人)!
トロイア人もリュディア人の一部だから、そうなる。

リュディア人がエトルリア人に

アテュス王の時代

マネスの子アテュスが王の時に、リュディア全土に激しい飢饉が起った。
そしてこの時、ダイス(キュボイ)、骨さいころ、毬遊びなど、あらゆる種類の遊戯が考案されたというのである。

マネス王の血筋が王権を持っていた頃、すなわちヘラクレイダイに王位を禅譲する前のリュディア人。
おそらくトロイア戦争はなかった。
ヒッタイトが衰えたころは、アカイア人はヒッタイトに敗れてギリシア本土に移動しつつあった。
逆に、テーバイ帝室とテッサリア人は、ヘーラクレースとイアーソーンを団長に、小アジア遠征を行い、植民を行なって、海岸地帯のイオニア地方は制覇していただろう。

このリュディア王朝は、小アジアに昔植民したフェニキア系だったのであろう。
だからヘーラクレース王家に禅譲した。
トロイア人は、小アジア在住のテーバイ帝室シンパで、フェニキア系であっただろう。

したがって、フェニキア系のエトルリア人は、フェニキア系のカルタゴ人と友好し、環テュレニア海共栄圏を築いた。

飢饉が原因

二日に一日は、食事を忘れるように朝から晩まで遊戯をする。次の日は遊戯をやめて食事をとるのである。
このような仕方で、一八年間つづけたという。

王はリュディアの全国民を二組に分け、籤によって一組は残留、一組は国外移住と決め、残留の籤を引き当てた組は、王自らが指揮をとり、離国組の指揮は、テュルセノスという名の自分の子供に取らせることとした。

テュルセノス人の名祖は、リュディアの王子。

エトルリア人誕生

国を出る籤に当たった組は、スミュルナに下って船を建造し、必要な家具一切を積み込み、食と土地を求めて出帆したが、多くの民族を過ぎてウンブリアの地に着き、ここに町を建てて住みつき今日に及ぶという。
彼らは引率者の王子の名にちなんで、リュディア人という名称を変え、王子の名をとってテュルセノス人(テュルセノイ、エトルシキ人のこと)と呼ばれるように成ったという。

つまりエトルリア人=リュディア人(フェニキア系)ということ。

五、キュロスのイオニア征服

キュロスとは?

メディア王権

スキタイ人は、・・・シリアの町アスカロンへきたとき、・・・「アフロディテ・ウラニア」の神殿を荒らしたのである。この社は私の調べたところでは、この女神の社としては最古のものである。キュプロスにある社もその起源はここに発していることは、キュプロス人が自らいっており、またキュテラの社は、シリアのこの地方からいったフェニキア人が創建したものである。

アスカロンの社がキュプロスより古いというのは驚きだ。またアスカロンはペリシテ人のペンタポリスだがフェニキア人=ペリシテ人説でもある。

捨て子伝説

アステュアゲスが王位を継いだ。アステュアゲスにマンダネという娘があったが、・・・
カンビュセスという名のペルシア人に娘を与えたのである。

ところがマンダネがカンビュセスに嫁いだ最初の年に、アステュアゲスはまた夢をみた。この娘の陰部から一本の葡萄の樹が生え、その樹がアジア全土を蔽ったという夢である。

アステュアゲスは、ハルパゴスの子供が来ると、殺して手足をバラバラに切り離し、肉を焼いたり煮たりして料理を整え、宴の始まるのを待ち受けたのである。ハルパゴスにはわが子の、頭と手足以外の肉がそっくり供されたのである。

メディア王アステュアゲスに背いて、キュロスを救ったハルパゴスは、自分の子どもの料理を食う羽目に。

アステュアゲスは、お前は世にも愚かな人間であり、またこの上ない悪人でもあるといって、その訳を説いて聞かせたが、・・・

キュロスはアステュアゲスには何ら害を加えず、死ぬまで自分の許に置いた。

キュロス、イオニア征服へ

パンイオニオン

キュロスは怒りに駆られて彼らにこういったのであったが、このことはイオニアの町々に報告され、イオニア人はこれを聞くと、それぞれ町のまわりに城壁を築き、ミレトス以外の全イオニアの住民がパンイオニオンに習合した。

ミレトスが参加しなかったのは、キュロスがミレトスとだけは、リュディア王と同じ条件で協定を結んでいたからである。

ここからも、ミレトスはフェニキア人が有力な都市であったと思われる。

さてその他のイオニア人は協議の結果、スパルタに使者を送り、援助を求めることを満場一致で議決した。

六、イオニアの人種

さてパンイオニオンを共有するこれらイオニア人であるが、我々の知る限り世界中で彼らほど気候風土に恵まれたところに町を作っているものはほかにない。

イオニア四方言

これらのイオニア人の話している言葉は同一のものではなく、四つの方言に分かれている。

南方方言(カリア地方)

イオニアの諸都市の内、最も南方の町はミレトスで、つづいてミュウス、プリエネがあり、これらの町はみなカリア地方にあり、お互いに同じ方言を話している。

カリア地方:イオニア南部
マイアンドロス川流域。
マイアンドロス川の北のサモス島に手を伸ばすように張り出したミュカレ山をなすミュカレ半島の南麓にプリエネが位置する。
南にマイアンドロス川の河口がある。
その南にミュウスが位置する。
湾を挟んで、南にミレトスが位置する。
ミレトスの先に小さなラデ島が位置する。

内陸方言(リュディア地方)

次にリュディアにある町は、エペソス、コロポン、レベドス、テオス、クラゾメナイ、ポカイアで、
これらは前に挙げた町とは言葉が違うが、お互い同士は同じ方言を使っている。

リュディア地方:イオニア中部
南から海岸地帯にエペソス。
エペソスから北の内陸部に山上にコロポン。
エリュトライ半島の付け根にテオス。
湾奥にスミュルナ。
ヘルモス河河口。
さらに北にポカイアとキュメ。
ヘルモス河の中流にリュディアの首都サルディスがある。

島方言(キオス島・サモス島・エルイトライ半島)

イオニアの町はそのほかになお三つあり、そのうち二つは島にあって、すなわちサモスとキオスがそれであるが、
もう一つはエリュトライで、これは大陸にある。
そしてキオスとエリュトライの住民は同一の方言を話すが、サモス人だけは孤立しており独自の方言を用いる。
以上が四種の方言である。

島嶼部:イオニア南部・中部
サモス島:ミュカレ半島の先に浮かぶミレトスなどの南部とつながりの深い島。
キオス島:エリュトライ半島の先に浮かぶ中部の島。

イオニア12都市

さてこれらのイオニア諸都市の内、ミレトスはペルシアと協定を結んでいたから、脅威を感ずることはなく、また島に住む者にも怯える理由は何もなかった。
当時はまだフェニキア人はペルシアに従属しておらず、ペルシア自体は海軍国ではなかったからである。

これらの(アジアの)イオニア人が他のイオニア人から切り離された理由はほかでもなく、当時はギリシア民族全体が無力であったのだが、中でもイオニア族が格段に弱く、一番問題にされなかった。
事実アテナイを除けば、ほかにはこれという町は一つもなかったのである。それであるからアテナイをはじめ他のイオニア人も、イオニア人と呼ばれることを好まず、その名称を避けたのであったが、今日でもなお、多くのイオニア人はその名称を恥じているように私は思われる。

ところが前に挙げた十二の町だけは、この名称に誇りをもち、自分たちだけで聖地を定め、これをパンイオニオン(全イオニア神社)と名付けたが、他のイオニア人には一切この聖地にあずからせないことを議決した。
もっともスミュルナを除いては参加の希望を申し出た町は一つもなかった。

イオニア12都市
南部の3市:ミレトス、プリエネ、ミュウス
中部の6市:エペソス、コロポン、レベドス、テオス、クラゾメナイ、ポカイア
島の3市:エリュトライ、キオス、サモス

ドーリス人のヘクサポリスがペンタポリスになったわけ

このやり方は、今日の五市ペンタポリス、以前は六市ヘクサポリスといっていた地区のドーリス人のやり方と同じである。

彼らは近隣のドーリス人のどの町もトリオピオンの聖地に入れぬようにしているが、そればかりか自分たち同士の間でも、聖地に関して法を犯したものは、参与を禁じて締め出してしまったのである。

〔註〕カリアのクニドス半島の町、アポロンの神殿があった。

「トリオピオンのアポロン」の競技には、以前は優勝者に青銅の鼎が賞品に出されたが、賞品を得た者はそれを聖地から持ち帰ってはならず、その場で神に奉納せねばならぬ掟になっていた。

ところがハリカルナッソスの者でアガシクレスという男が、優勝した後その掟を無視して鼎を我が家へ持ち帰り、家の前に釘で留めて吊るしたのである。この咎を盾に、五つの町、すなわちリンドス、イアリュソス、カミロス、コス、クニドスの諸都市は、第六番目の町に当たるハリカルナッソスの参加を禁じて締め出したのである。
ドーリスの五市はハリカルナッソスにこのような罰を加えたのであったがー

ペロポネソスのイオニア12都市

イオニア人のペロポネソスでの12地区

さて、イオニア人が十二市の同盟を作って、それ以上の町の参加を受けいれようとしなかったのは、彼らがペロポンネソスに住んでいた時にも、彼らをペロポンネソスから追い出したアカイア人が現在そうであるように、十二の地区に分かれていたからであると私は思う。

すなわちシキュオンの町に最も近くペレネが先ずあり、つづけてアイゲイラとアイガイーアイガイの町には水の涸れることのないクラティス河があり、イタリアの同名の河は、その名を負うているー、ブラ、イオニア人がアカイア人との戦いに敗れて逃げ込んだ町ヘリケ、さらにアイギオン、リュペス、パトレエス(パトライ)、パレエス、大河ペイロスを擁するオレノス、デュメ、および唯一の内陸の町トリタイエエス(トリタイア)がそれである。

アカイア地方にあったイオニア人の12都市。ヘリケは、イオニア人が逃げ込んだ都市だった。

これらの十二の地区は、現在ではアカイアであるが、当時はイオニア人の土地であったのである。

シキュオン、アイゲイラ、アイガイ、ブラ、ヘリケ、アイギオン、リュペス、パトレエス(パトライ)、パレエス、オレノス、デュメ、トリタイエエス(トリタイア)の12都市。

イオニア植民に混血した種族

彼らの重要な構成要素を成しているエウボイアのアバンテス人は、名前からいってもイオニアとは何の関係もない種族であるし、またオルコメノスのミニュアイ人も彼らに混入しており、さらにカドメイオイ人、ドリュオペス人、ポキス人の一分派、モロッシア人、アルカディア人のペラスゴイ人、エピダウロスのドーリス人、その他さらに多くの種族が混ざり合っているのである。

カドメイオイ人=テーバイ人。

〔註〕アバンテス人は本来トラキアの古い住民であったという。後にキオスにその一部が移住したことが知られる。
例えばミニュアイ人はイオニアのミレトス、プリエネ、コロポンに、
ポキス人はポカイアというふうに、それぞれイオニア植民に参加しているのである。

アバンテス人(トラキア人→エウボイア)→キオスへ
ミニュアイ人(プロト・カルタゴ人)→ミレトス、プリエネ、コロポン
ポキス人→ポカイア(アテナイ人も)
カドメイオイ人(フェニキア人)
アルカディア人(ペラスゴイ人)
エピダウロスのドーリス人などが植民。

ミレトスに植民したアテナイ人

このイオニア人の内に、アテナイの市会堂プリュタネイオンから移住の第一歩を踏み出し、イオニア人中最も高貴な血統を誇る一団があるが、彼らは移住の際女を連れてゆかなかったので、彼らの手によって両親を失ったカリアの女を妻としたのであった。この殺戮のためにこれらの女たちは、決して夫と食事を共にせず、夫の名を呼ばぬという掟を自分たちで作って、それを守る誓いを互いに交わし、その掟は娘にも伝えたのである。
現在の夫が自分たちの父や夫や子供を殺し、そうしておきながら自分たちを妻にしたという恨みからである。これはミレトスで実際に行なわれていたことである。

〔註〕ギリシアの町から移民が出る時には、母市メートロポリスであるその町の市会堂にある火をうけて出発する慣わしであった。
アテナイの聖火をもって移住した一団は、いわばアテナイ公認の移民というわけで、その素性を誇ったのである。

ミュカレのポセイドーン神域(ヘリケのポセイドーン)

パンイオニオンはミュカレの山の北斜面にある聖域で、イオニア人が共同して「ヘリケのポセイドン」に捧げたものである。
ミュカレは大陸から西方サモス島に向かって伸びている岬で、
イオニア人たちは例の町々からここへ集まり、「パンイオニア(全イオニア祭)」の名で呼んでいる祭を祝うのである。

アイオリス人の12都市

次にアイオリスの町としては、
プリコニスの異名のあるキュメ、レリサイ(ラリッサ)、ネオン・テイコス、テムノス、キラ、ノティオン、アイギロエッサ、ピタネ、アイガイアイ、ミュリナ、グリュネイアがある。
これら十一の町は古くからアイオリスの町であった。
数が十一であるのは、その一つであるスミュルナが、イオニア人によって切り離されてしまったからで、もとは大陸のアイオリス都市も数は十二あったのである。

キュメとスミュルナくらいしか有名でない・・・

スミュルナ脱退の経緯

アイオリス人がスミュルナを失った事情はこうである。内乱を起して敗れ祖国を追われたコロポン人の一隊を、アイオリス人が受けいれてやったことがあった。ところがその後にこのコロポンの亡命者たちは、スミュルナの市民が城壁の外でディオニュソスの祭を行なっているところを見すまして門を閉め、町を占領してしまったのである。
アイオリス人は全力をあげてその救援に駆け付けたが、結局協定が成立し、イオニア側は家財一切を引き渡す代わりに、アイオリス人はスミュルナを退去することになった。スミュルナ人が協定に従ったので、アイオリスの十一市は分担して彼らを収容し、それぞれの町で市民権を与えたのであった。

島のアイオリス人

大陸にあるアイオリス人の都市は右のとおりである。
次に島に住むものとしては、レスボス島に五つの町があり、
テネドス島に一つ、それからいわゆる「百島ヘカトンネーソイ」にもう一つがある。

〔註〕レスボスの五つの町とは、ミュティレネ、アンティッサ、ピュラ、エレソス、メテュムナをいう。
(特にミュティレネとメテュムナが重要)
〔註〕レスボスと大陸の間に介在する小島の一群を指す。

スパルタの対応

さてイオニア人とアイオリス人とが送った使者がスパルタへ着くと、・・・その救援を求めたのである。
しかしスパルタ人はそれに耳を貸さず、イオニア救援を拒絶することに決めた。
スパルタではイオニアの使者は追い返しておきながら、幾人かのものを五十櫂船で彼地に派遣したのである。
スパルタは決して座視しないから、ギリシア領土内のいかなる町をも犯すな、というスパルタの決議をキュロスに伝えるためである。

七、ハルパゴスのイオニア征服

マザレスの死後、ハルパゴスが後任の司令官としてこの地に下った。

ポカイア征服

ハルパゴスがイオニアで最初に手をつけたのはポカイアである。

ポカイア人とは?

このポカイア人はギリシア人の中では遠洋航海の先駆者であり、
アドリア海、テュセニア、イベリア、タルテッソスなどを発見したのもこのポカイア人である。
彼らは航海には丸形の船を用いず、五十橈船を用いた。

〔註〕円形の船は安定しており貨物船としては有利であるが船脚が遅い。
五十橈船はいわゆる「長い船」で、軽快で速度が早い。軍船はこの型である。遠洋航海にこの型を用いたのは、・・・自らも海賊行為をする意味もあったであろう。

円い船を商船としたフェニキア人は、純粋に貿易をしたが、ポカイア人は後見られるように半分海賊であった。

タルテッソス王アルガントニオスの作り話

ところで彼らはタルテッソスへ行ってから、その地の王アルガントニオスのお気に入りになった。この王はタルテッソスに君臨すること八十年、まる百二十歳の高齢に達した人である。

さてポカイア人はこの人に大層気に入られ、はじめ王は彼らにイオニアを離れ、この国のどこなりと好きな処に住むようにすすめられたほどであったが、その後ポカイア人を説き落とすことができぬと見ると、メディアの勢力が増大していることを彼らから聞いた王は、町に城壁をめぐらすがよいと彼らに金を与えた。

ハルパゴスのポカイア攻撃

ポカイア人、キオスに脱出するも植民拒否される

ハルパゴスは兵を進めてポカイアを攻囲すると、・・・
ハルパゴスが軍隊を城壁から遠ざけたすきに、ポカイア人は五十橈船を海におろして、女子供に家財全部をそれに載せ、神社の神像やそのほかの奉納物も、青銅製や大理石製のものおよび絵画類をのぞいては全部積み込み、最後に自分たちも乗り込んで、キオスに向かって出帆した。
こうしてペルシア軍はものめの殻となったポカイアを占領したのである。

ポカイア人はキオス人からオイヌッサイという一群の小島を買おうとしたが、キオス人はこれが商業の中心地であり、そのため自分たちの島が通商活動から締め出されるのを恐れて売却に応じなかったので、
彼らはキュルノス(コルシカ島)へ向かうことになった。

キュルノス(コルシカ)へ植民

というのもそれに先立つこと二十年、ポカイア人は神託に基き、キュルノスにアラリアという町を建設したからである。

キュルノス目指して出発したポカイア人たちは、先ずポカイアに航行し、ハルパゴスからひきついでこの町を警備していたペルシアの守備隊を殺し、これを首尾よく仕終えると、
こんどは一行の内で遠征隊から脱落するものの身にふりかかるべき恐ろしい呪いをかけた。さらにこの呪いに加えて、真赤に焼いた鉄塊を海中に投じて、この鉄塊が再び海上に浮き上がるまでは、ポカイアに戻るまいと誓ったのである。

しかしいよいよキュルノスに向かうことになると、市民の半数以上のものは、祖国や住みなれた所を慕わしくまたいたわしく思う心に耐えかねて、誓いを破りポカイアへ船を返していった。
そして誓いを守った者だけが、オイヌッサイから出帆し船を進めたのである。

フェニキア系キュルノス人と確執してレギオンへ

一行はキュルノスへ着くと、彼らより先に移住していた者たちと一緒にこの地に五年間住み、聖所も建てた。
しかし彼らは近隣に住む者たちに対し手当たり次第に掠奪を働いたので、テュルセノイ人(エトルスキ人)とカルケドン人(カルタゴ人)とが協同して、それぞれ六十隻の船をもってポカイア人を攻めたのである。

ポカイア人も六十隻の船に兵員をみたし、いわゆるサルディニア海へ出動し迎え撃ったが、海戦を交えた結果ポカイア人の得たものは、世にいう「カドメイアの勝利」で、船四十隻を失い、残存の二十隻も船首の衝角がへし曲げられて用をなさなくなった。
そこでポカイア人はアラリアへ帰航すると、妻子のほか船に積める限りの家財をまとめ、アラリアを捨ててレギオンへ向かったのである。

ポカイア人捕虜を処刑したアギュラ人(カエレ人)

カルケドン人とテュルセノイ人は、沈没したポカイア船の乗員を籤によって分配したが、中でもアギュラ人は他の町に比して遥かに多数の捕虜を得、これを町の外に引き出して石打ちの刑で処刑してしまった。
ところがその後アギュラでは、ポカイア人が石打ちの刑にあって埋められている場所を通ったものは、家畜、荷曳き用の獣、人間の別を問わず、手足が曲がったり不具不随になったのである。

〔註〕アギュラはローマに近くその西北にあるエトルリアの町、後のカエレである。

アギュラ人は、カエレのエトルリア人。
ポカイア人が海賊として、カルタゴ人・エトルリア人の同盟に戦争をしかけたための当然の酬いである。

エレア市建設

ポカイア人の一部はこのような最期を遂げたが、一方レギオンに逃れたものは、この地を根拠にして、オイノトリア地方に今日ヒュエレ(後のエレア)と呼ばれる町を作った。

エレア派の哲学はひとりよばりな唯心論であるのも納得だ。

テオス征服

テオスの市民のとった行動も、右のポカイアの場合に似ている。
ハルパゴスが盛り土戦術でテオスの城壁を占領すると、テオス人は全市民船に乗り込み、海路トラキアに向い、ここにアブデラの町を建てた。
この町はこれより先クラゾメナイの人ティメシオスが植民したところであるが、トラキア人に追われ有終の美をおさめることができなかった。
彼はしかし現在アブデラ在住のテオス人によって英雄神として祀られている。

テオス人はリュディア方言グループ。ボイオティア人、ミニュアス人、アイオリス人などの混血。アブデラはデモクリトスを輩出

二都市以外のイオニア諸都市は、属国受け入れ

隷属に甘んずることを潔しとせず祖国を離れたのは、右の二つの町だけで、残りのイオニア人はミレトスを除き、みな離国組と同様にハルパゴスと戦い、いずれも救国の戦いに武勇を輝かしたが、結局戦い敗れて占領されて、それぞれ祖国に留まり、ペルシアの命に服することになったのである。

島国のイオニア人も自発的に服属

ハルパゴスが大陸のイオニア諸市を征服すると、島に住むイオニア人たちもこれに恐れをなして、自発的にキュロスに降伏してしまった。

賢人たちのアドバイス

プリエネのビアスの勧告

イオニア人が悲運に陥った後も、相変わらずパンイオニオンに集まっているのを見て、プリエネの人ビアス(七賢人)がきわめて有益な意見を述べた、と私は聞いている。
ビアスの勧告というのは、イオニア人は一致団結して海路サルディニアへ移り、ここに全イオニア人の町を一つ建設せよというもので、かくすれば世界最大の島に住んで近隣の住民に号令し、隷従の悲運を免れて繁栄できるであろう、彼らがイオニアに留まる限り、自由が訪れる見込みはもはやない、とビアスはいったのである。

これは、テュロスが実践しカルタゴを建設したことと同じである。
イオニア人がなし得なかった行動を海洋民族のフェニキア人はなした。

ミレトスのタレスの勧告

プリエネのビアスのこのような意見は、イオニアの敗北以後に述べられたものであるが、イオニアの敗北以前にミレトスのタレスの述べた見解もまた有益なものであった。
タレスの祖先はフェニキア人であったが、彼の意見というのは、イオニアは単一の中央政庁を設けて、イオニアの中央に当たるテオスにこれを置く、ただし他の町々はそのまま存続しいわば地方行政区と見做される、というものであった。

この全イオニア都市連邦案は、これもフェニキア系テーバイ人エパメイノンダスが、ボイオティア連邦・アカイア連邦・メッセニア連邦を創設し統合し、ペロポンネソス連邦を構想していたのに実践を見る。

八、ハルパゴスのカリア人、リュキア人、カウノス人の征服へ

さてハルパゴスはイオニアを征服した後、イオニア人とアイオリス人との麾下に加え、カリア人、カウノス人およびリュキア人の攻略に向った。

カリア人とは?

カリア人の出自は、フェニキア系クレタ人(クレタ人の説)

右の民族の内カリア人は、島から大陸に渡ってきたものである。
というのは、古くはミノス王(クレタの王)の支配下にあってレレゲス人と呼ばれ島に住んでいたのである。
しかし彼らは、私が口碑を頼りにできるだけ過去に遡ってみた限りでも、貢物なるものは一切納めず、ミノス王の要求があれば、その度ごとに船の乗員を供給したのであった。
ミノスは広大な地域を制圧し戦争では常勝の勢いであったから、カリア民族もこの時期においては、あらゆる民族の内で最もその名が轟いていたのである。

カリア人は、フェニキア系クレタ人。カドモスが行路での植民した人々の子孫。
ミノスのクレタ島が、アトランティスのモデルの一つとするなら、フェニキア人といっていいだろう。

ギリシア文化の戦争装備はカリア人の発明

カリア人の発明にかかるもので、ギリシア人も用いたものが三つある。
すなわち兜の頂に羽飾りをつけることと、盾に紋章をつけるのを発明したのがカリア人であり、また盾に把手をつけたのも彼らが最初である。それまでは盾を使うものはみな、把手なしで持ち歩いていたもので、頸から左肩に懸けた革帯で処理していたのである。

あとからイオニア人とドーリス人が合流

その後ずっとたってから、ドーリス人とイオニア人とが彼らを島から逐い、かくして大陸へ移ってきたのであった。

小アジア半島の西海岸が、北から南に、イオニア地方、カリア地方、とあり南がリュキア地方である。ウンブルン難破船もカリア地方沖に沈んだ。

カリア人「生え抜き」説(ヘロドトス時代のカリア人の説)

カリア人についてクレタ人の伝えるところは右のようであるが、カリア人自身はこの説には不賛成で、自分たちは土着の大陸人であり、ミュラサにある「カリアのゼウス」の古い神殿で、この神殿にはミュシア人もリュディア人も、ともにカリア人と兄弟関係の民族というので参与を許されている。彼らの伝承によればリュドスとミュソスはカルの兄弟だというのだからである。それでこのニ民族には参与が許されているが、それ以外の民族に属するものは、たとえカリア人と同じ言語を話すものでも、参与が許されない。

〔註〕リュドス、ミュソス、カルはそれぞれリュディア、ミュシア、カリア各民族の祖とされる神話的人物。

つまり、カリア人は「生え抜き」で、イオニア人やドーリス人の子孫がカリア語を話しても、「カリアのゼウス」の祭儀に参加させないとする。
しかし、昔クレタから植民した歴史を忘れているのではあるまいか。

プルタルコス『モラリス』に「ラブリュス(双斧)」の語が、斧を意味するリュディア語として登場。ミュラサのカリア人が双斧をリュディア王から授かり、「カリアのゼウス」の神像に持たせたという記事があるらしい。
つまりミュラサのゼウス像は双斧を持っていたのであり、これはクレタ島から到来したというのが自然である。

カウノス人とは?

カウノス人は土着民らしく私には思われるが、彼ら自身はクレタの出身であるといっている。言語上はカリア近いが・・・

土着のカウノス人は、クレタ人にあこがれ、クレタ人だったカリア人は出生を隠そうとするのは世のならいか。

リュキア人とは?

フェニキア系クレタ人+「土着民」

次にリュキア人はその古い起源をたずねるとクレタに発しているー往古のクレタはことごとく非ギリシア人に占拠されていたのである。
クレタではエウロペの二子サルペドンとミノスとが王位を争い、ミノスがその争いに勝つと、サルペドンとその一味を放逐してしまった。

エウロペ=フェニキア王女の子孫、つまりフェニキア人のミノスの支配にクレタはあった。

追放されたサルペドンらはアジアのミリュアス地方に移ってきたが、現在リュキア人の住む地方が、すなわち昔のミリュアス地方であり、ミリュアス人は当時ソリュモイ人の名で呼ばれていた。
さてサルペドンが支配していた間は、この党はクレタ在住以来の名前をそのままに、テルミライ人と呼ばれていた。

リュキア人は、フェニキア系クレタ人であるテルミライ人が、「生え抜き」のソリュモイ人を征服して共住したのが起源。

リュキアの名祖リュコスの到来

ところがパンディオンの子でリュコスという者が、彼もまた弟のアイゲウスに追われてアテナイを去り、テルミライの国へ来てサルペドンの許に身を寄せて以来、その名にちなんでリュキア人と呼ばれるようになったのである。

リュコス=狼で複数の神話上の人物として描かれる。
テーバイのリュコスは、ヒュエリウスの子で、ニュクテウスの兄弟であり、アンピオンとゼトスに殺された叔父。
アテナイのリュコスはアイゲウスと兄弟で兄に追われた。
アテナイ人は、みなアテナイ人を祖先にしたがる。
リュコスが狼から来ている以上、いちばん可能性が高いのは、アルカディアの王リュカオーンの子のリュコスであろう。
しかし、アイゲウスがパンディオーン系なので、アテナイのリュコスは、テーバイ系であろうとすると、このリュコスから来たのかもしれない。
いずれにせよ、フェニキア人が統治するリュキアに入植したのだから、テーバイ系フェニキア人であろう。

徹底した女性上位のリュキア人は、フェニキア系

彼らの風俗は一部クレタ風、一部はカリア風であるが、一つだけ独特な風習をもっており、この点においては他のいかなる民族とも類を異にしている。
つまりリュキア人は自分の名を父方でなく母方からとって名乗るということである。
また市民権をもつ女が奴隷と同棲した場合、その子供は嫡出子として認められるが、男の市民の場合は、たとえ町の有力者であっても、外国の妻または妾に生ませた子供は、市民権を与えられないのである。

この徹底した女性上位は、クレタ由来であるかもしれないが、いずれにせよ、リュコスから来た人々もフェニキア系であろう。

カリア人、リュキア人、カウノス人のハルパゴス対応

カリア人は降伏

カリア人は何ら華々しい働きを示すこともなくハルパゴスに征服されてしまった・・・

これから、カリア人はクレタ島からのフェニキア系だったという傍証になる。

クニドス人

クニドス人の立地と出身

スパルタから移民してくたクニドス人もその一つである。
彼らの住む地域は海に面し、トリオピオンの名で呼ばれる地域がそれであるが、(東は)ビュバッソス半島に起る。
クニドスの領土は僅かな地域を除いてことごとく海に囲まれ、北方をケラメイコス湾、南とシュメおよびロドスの海域が限っているが、

クニドスは、スパルタの移民の創建。
カリア地方の西、カウノスに隣接するコス島に手を伸ばしたビュバッソス半島に位置する。
北は、コス島の浮かぶケラメイコス湾、南はロドス島が浮かぶ。
半島の先端に位置し、カルタゴ型の都市である。

島化のための運河開鑿作戦

クニドス人はハルパゴスがイオニア征服にかかっている期間中、自領を島にしてしまう計画で、五スタティオンほどのこの狭い地峡に運河を掘り始めたのである。

運河開鑿を封じる神託

さてクニドス人が多数の人員を使って運河を開鑿中に、作業員が岩石の破片で体のいろいろな部分、それも特に眼を傷つけられることがしばしばで、それも通常の度を超えて頻発するので、なにか神意によるものではないかと思われた。そこでデルポイに神託を伺う使者を送り、作業を阻碍する真因を訊ねさせたところ、巫女は短長六脚韻トリメトロスの詩句によって次のように答えた、とクニドス人は伝えている。

地峡に砦を構えることも、壕を掘ることも相ならぬそ。
ゼウスにその御心あらば、島になされた筈じゃ。

コリントス運河の開鑿失敗といい、古代人は運河開鑿は神意にもとると考えていたふしがある。

巫女がこの託宣を下すとクニドス人は運河の開鑿を中止し、ハルパゴスが軍を率いて来攻するや、戦わずして降伏してしまったのである。

実はアテナイ系が狂気の玉砕主義であり、ラケダイモン人は、民衆重視の降伏主義である。

リュキア人は玉砕

一方リュキア人は、軍をクサントス平野に侵入させたハルパゴスを迎え撃ち、劣勢を顧みず大軍にあたって数々の武功をあらわしたが、戦いに敗れて市内に追い詰められると、妻子、家財、奴隷をアクロポリスに集め、これに火を放ってそのことごとくを焼いた。そうしておいてから互いに決死の誓いを立て、出撃して戦い、かくてクサントスの町の住民は一人残らず戦死を遂げたのである。
今日リュキア人と称しているクサントスの住民は、八十家族を除いては、その大部分が他国から移住者である。この八十家族はたまたま国内にいなかったため生き残ったのである。

この行動から、やはりアテナイ人があとからアテナイのリュコスの植民で移民していたのが多数を占めたようである。
リュキアの首都が、クサントスであったということは、テーバイ帝室がギリシア本土を奪還したとき、テーバイから逃げたクサントス王の一党と、アテナイからのダナオイ系のリュコスの一党が移住したのが、玉砕したクサントスの住民の先祖であったと推察される。
アテナイ(ダナオイ系)とアカイア系は、民衆を無視して、男尊女卑、気ちがいじみた玉砕を好む。
ただし、これ以降のリュキア人は、ドーリア系が移住したと思われる。

カウノス人も玉砕

これと同様な仕方でカウノスも占領した。
カウノス人も大体においてリュキア人の行動にならったのであった。

クレタ人の子孫を名乗ったカウノス人は、やはり命知らずの「生え抜き」であったように思われる。

*******************

かくて、狂気の玉砕主義のアテナイ系(ダナオイ人とアカイア人の子孫)は、ポカイアを始め、リュキアなど、ことごとく小アジアから姿を消した。

残るはフェニキア系のクレタ、テーバイ、ラケダイモンからと、アイオリス系の子孫のギリシア人のみが、ペルシア帝国に恭順する形で、住民の生活を安堵することになる。
弱腰といわれようと、住民本位のフェニキア系が生き残った。

九、キュロスのアッシリア征服と新バビロニア人(カルデア人)

アッシリアのニネヴェ陥落後の首都バビロン攻め

さてキュロスは大陸をことごとく自分の支配下におさめると、今度はアッシリアの攻撃に向った。・・・
さらにニノス(ニネヴェ)が荒廃に帰した後王宮の所在地となっていたのはバビロンである。

この時、アッシリア帝国を滅ぼした新バビロニア王国の統治下であったが、キュロスのペルシアは、アッシリア帝国という認識だったようだ。
当時のバビロニアは、カルデア人やアラム人の諸都市が林立する状態であり、北には強大なアッシリア帝国があった。
サルゴン二世、センナケリブ、アッシュールバニパルと立て続けに、征服され、アッシリアの属国となっていた。
このアッシリアの反乱軍の指導者として登場したのが、ナボポラッサルである。
「彼は、自らを「誰でもない者の息子」と碑文に書いており、その素性は謎に包まれている。カルデア人であるとか、アッシリアの将軍であったという説もあるが、現在の研究では、バビロニア南部にあるウルク市の有力な一族出身であったと考えられている。ウルクは親アッシリアであり、元々アッシリア派であったという過去を隠すため、自らの出自を隠したとみられる。」とウィキペディアにあり、
彼は、シュメル人の子孫すなわちフェニキア系であったと思われる。
前626年に新バビロニア王として即位、
前612年にメディア王国と結んで、アッシリアの王都ニネヴェを陥落させた。
前609年最後の王アッシュル・ウバリト二世が死に、アッシリアが滅亡する。
前605年にネブカドネザル二世が王位継承。
ネブカドネザル二世の死後、王家は衰え、ナボニドスとベルシャザル父子に簒奪される。
この父子は、ハラン出身のアラム人だったらしく月神シンを、主神マルドゥクの代りに主神としたらしい。
したがって、メディア王国から見れば、新バビロニアは短命のアッシリア帝国の反乱暫定政権のように映ったのであろう。

驚異の都市バビロン

バビロンがどのような町であるかというと、それは広大な平野の中にあって四角形を成し、・・・類のないほど美しく整備された町でえもある。

彼らは壕を掘るのを並行して、掘り出された土を煉瓦状に形作り、窯に入れて焼いたのである。次にモルタル代わりに熱したアスファルトを用い、・・・先ず壕の壁を築き、つづいて城壁自体を同じ方法で作ったのである。

壕を掘り、その土を利用して、アスファルトで素焼き煉瓦を繋いで市壁と城壁を作った。合理性。

城壁の全長にわたって百の門があり、総青銅造りで、門柱も上部の横木も同様であった。

この驚異の都市バビロンを建設したのは、アッシリア帝国ではなく、その前の新バビロニア王国(カルデア王国)であり、その在籍は、前625年ー前539年の86年間である。

架空の女王セミラミス

「アッシリア史」・・・その諸王の中に二人の女性が交っている。
二人の女性の内はじめの女性は後の女性よりも五世代前に承応オリュンピア期であった人で、その名をセミラミスといった。
バビロンの平野を貫く、実に驚くべき堤防を築いたのはこの女性である。
それまではユーフラテス河が全平野に氾濫し、さながら海のようになるのが常であった。

〔註〕セミラミスはむしろギリシア人に親しまれた伝説上の人物。歴史的には前九世紀のバビロンの女王サンムラマットと考えられるが、ディオドロスの伝えるセミラミス像はほとんど伝説の世界に属する。

ディオドーロス・シケリオーテスの伝えるセミラミスは、ペリステのペンタポリスのアシュケロンの出身。つまりフェニキア系。
モデルはサンムラマットと思われる。

架空の女王ニトクリス、実はネブカドネザル二世

セミラミスにつづいて第二の女王になった女性はその名をニトクリスといい、先の女王よりも聡明であった。

〔註〕この名は巻二、一〇〇節に語られるエジプト女王と同名で、従ってエジプト系の人物かとも考えらるが、ここに彼女の業績として語られるのは、実はネブカドネザル(六〇五ー五六二)の業績なのである。
ルグランはネブカドネザルのペルシア語形ナブクドラチャラをギリシア人が女性名と誤解したところから生じた伝説ではないかと想像している。

ネブカドネザルの大工事

彼女は巨大な石を切り出させ、石が揃い池の開鑿が完了すると、河の流れを悉く堀り終えた場所に向けかえた。
池に水が満ちてゆくに従い、もとの河床は干上がっていったけであるが、その間に町に沿う河の両岸と小門から河に通ずる降り口を、城壁を作った時と同じやり方で焼いた煉瓦で固めたのである。
一方またほぼ町の中央部に、掘り出した石と鉄と鉛で接着して橋をかけた。
橋には昼の間だけ四角な木板を置いて、バビロン人が通れるようにした。
夜間はこの板をとりはずすことになっていたが、それは両地区の住民が夜間にこの橋を通って互いに盗みを働かぬようにするためであった。
開鑿した池が河の水で満たされ、また橋の工事が完了したとき、女王はユーフラテス河を湖からまた元の河床へ戻らせたのである。

新バビロニア王国、カルデア人の王国は、フェニキア系だったのではあるまいか。
驚異の建設技術と占星術の高度な知識は、フェニキア系のものである。

バビロン人(カルデア人)の習俗は、フェニキア系そのもの!

次にその服装はというと、先ず足まで届く長い麻の肌衣をつける。そしてその上にもう一枚毛の下着を重ね、白の軽い上衣をそうの上に羽織る。履物はこの地方独特のものを用いるが、ボイオティア人の穿く靴によく似ている。
髪は長く伸し髪紐ミトラで結び、体中に香油を塗る。
また各人が印章と手作りの杖をもっている。そして杖には必ず林檎とか薔薇とか百合とか鷲とかその他いろいろの模様が彫ってある。


コメント