- 第二巻 エジプト編
- 一、序論
- 二、エジプト地誌
- 三、エジプトの神話
- 四、エジプトの王朝の歴史(ミンからアマシスまで)
- エジプトの風土が生んだ蚊帳と船
- 最初の王ミンのメンピス建設とプター神殿
- 女王ニトクリス
- モイリス王
- セソストリスの大遠征
- パシス河畔のエジプト人
- 幾何学の発展
- フェニキア人ファラオのプロテウス
- ヘロドトスの執筆スタンス
- 暴君ケオプス
- ヘタイラのロドピス
- ナウクラティス
- サバコス(シャバカ)の王朝
- セトス王の時代にセンネケリブ来攻
- エジプト王朝、一万年!?
- 太陽が西から昇るオカルト発言
- ヘロドトスの師ヘカタイオス
- 神の子の否定・エジプト人の科学性
- エジプト人の神話時代
- 最後の神オロス(ホロス)
- ギリシアとエジプトの神々の違い
- 12王時代
- モイリス湖南方の「迷宮」
- 人工湖「モイリス湖」
- プサンメティコスの政権奪取
- プサンメティコスのギリシア人優遇
- ネコスの時代
- アプリエスの兵士始末陰謀
- アマシスの反乱
- エジプトにおける技術者蔑視
- サイス王朝はネイト(アテナ)信者
- テスモポリア
- ナウクラテス
第二巻 エジプト編
一、序論
二、エジプト地誌
三、エジプト神話
四、エジプトの王朝の歴史(ミンからアマシスまで)
一、序論
一、カンビュセスのエジプト遠征
キュロスの歿後、カンビュセスが王位を継いだ。
さてキュロスとこの女性との間に生れたカンビュセスは、イオニア人およびアイオリス人を父から譲られた奴隷のごとく見做していたので、エジプト遠征に当たっては、領内から徴集した兵力のほか、支配下のギリシア人をも遠征に加えたのである。
ヘロドトスの各都市神官への聴取
私はテバイやヘリオポリスへも足をのばしたが、それはそれらの町の祭司たちの話が、メンピスの祭司の話と一致するかどうかを知りたいと思ったからであった。ヘリオポリスの住民は、エジプト人の中で最も故実に詳しいといわれているのである。
ヘロドトスは、ギリシア文明の起源をエジプトとする根拠を、エジプト訪問で形成したと思われる。
彼は、ヘリオポリス、テバイ、メンピスなどの祭司に、話を聴取した。
ヘロドトスの文化エジプト起源説(ヘリオポリス祭司の説)
さて人間界のことに限っていえば、彼らの一致していうところは、一年という単位を発明したのはエジプト人であり、一年を季節によって十二の部分にわけたのもエジプト人が史上最初の民族である、ということである。
彼らはそれを星の観察によって発見したのだといっていた。
暦の計算の仕方はエジプト人の方がギリシア人よりも合理的であるように私には考えられる。
なぜかというと、ギリシア人は季節との関連を考慮して、隔年に閏月を一ヵ月
挿入するが、エジプトでは三十日の月を十二ヵ月数え、さらに一年について五日をその定数のほかに加えることによって、季節の循環が暦と一致して運行する仕組になっているからである。
〔註〕ギリシアの暦は太陰暦で、ソロンによってはじめて整備されたと伝えられる。
また彼らの言い分では、十二神の呼称を定めたのもエジプト人が最初でギリシア人はエジプト人からそれを学んだのであるといい、さらに神々の祭壇や神像や神殿を建てることも、また石に模様を刻むことも、エジプト人の創始によるものであるという。
二、エジプト地誌
上下エジプトの今昔(ヘリオポリス祭司の説)
ミン王の時代(下エジプトは水面下)
また彼らの語るところでは、エジプト初代の人間王はミンであったという。
この王の時代には、テバイ州を除いてはエジプト全土が一面の沼沢地で、
現在モイリス湖の下方(北)に当る地域一帯は、今日海からナイル河を遡行して七日間を要する距離にわたっているが、当時は全く水面下に沈んでいたという。
初代のミン王の時代、
下エジプトは水面下で、上エジプトは沼沢地であり、テバイ州のみが、固い土地として島のように浮かんでいたという。
今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物というべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである。
さらにその土質が隣接のアラビアとも、リビアとも、またシリアとも(アラビアの沿岸地域はシリア人に占められている)似ておらぬことなどである。
エジプトの土壌は泥と、ナイルがエチオピアから運んできた沖積土とから成っているので、黒色で脆いのであるが、リビアの土はむしろ赤味を帯びて砂質であり、シリアでは土が粘土質で石が多い事実をわれわれは知っているのである。
ギリシア人からみれば、海岸線のみがエジプトで、それは、シリア(アラビア半島の北部)、エジプト、リビアと連なっている。
モエリス王の時代(下エジプトはナイルの賜物の肥沃な耕地)
それによればモイリス王の時代には、河の水嵩が最小限八ペキュス増えるとエジプトのメンピスより下の地域は氾濫したものだという。
〔註〕モイリス王というのは、普通第十二王朝の名君アメネムヘト三世を指すものとされる。
モイリス湖を造ったのでその名をとったらしい。
しかしアメネムヘト三世の年代はヘロドトスの考えているものよりも遥かに古い。
エジプト=デルタ地帯(海岸線はシリア、エジプト、リビア)
イオニア人たちの見解によれば、デルタ地帯のみがエジプトであるという。
すなわち海岸線は、いわゆる「ペルセウスの監視所」からペルシオンの「塩干魚工場」に至るまでがそうで、
ナイルが分かれてそれぞれペルシオンとカノボスに向って流れる分岐点に当たるケルカソロスの町までがエジプト領で、いわゆるエジプトのそれ以外の部分は、リビア領かアラビア領であるというのがその言い分である。
〔註〕ペルセウスが海の怪物を退治してアンドロメダを助けた場所と伝えられるところ。
ここでは海岸線の西端を劃す地点とされ、ペルシオンが東端に当たる。
つまりアンドロメダはエチオピアの王女というとき、それは海岸リビアの王女である。リビア=エチオピアという感覚は、奥地でリビアとエチオピアが同一になっていると思われていたからだ。
エジプト奥地は(アジアとリビア)
ギリシア人の通念に従っていえば、瀑布(カタラクト)とエレパンティネの町以北に拡がるエジプト全土は二つの部分に分れ、それが、
一方はリビア、他方はアジアという二つの呼称に分属しているということになろう。
エジプト奥地は、リビアとアジアがつながっており、アジアは、エティオピア=アラビアを指す。
三か所の河口
すなわちナイルは瀑布を起点にしてエジプトを真二つに切って海に注いでいるが、ケルカソロスの町までは一本となって流れ、この町を過ぎてから水路が三つに分れる。
一本は東に向って流れペルシオン河口と呼ばれ、
もう一本は西に向いカノボス河口と呼ばれている。
ナイルにはさらにもう一つ、真直ぐに流れる水路があるわけであるが、
これは上部から流れてきてデルタの頂点に達すると、デルタを真中から切って海に注ぐ。これがセベンニュテス河口と呼ばれるもので、・・・
セベンニュテス河口から分れて海に入る二つの河口があり、
一つはサイス河口、もう一つはメンデシオン河口という。
東のペルシオン河口
西のカノボス河口
中央のメンデシオン河口とサイス河口
と海岸線には、三か所、四つの河口がある。
エジプトの領域問題:ナイルの流域はすべてエジプト
エジプトのリビアに隣接した地方にあるマレアおよびアピス両市の住民は、彼ら自身エジプト人ではなくリビア人であると自覚しているのであるが、牡牛の肉が禁じられているのを快く思わぬところから、犠牲に関する戒律に反感を抱いてアンモンの神殿に使者を送り、自分たちとエジプト人との間には共通するところは全くない旨を述べた。
すなわち自分たちはデルタ以外に住み、言語も異なるのであるから、なにを食べても差し支えないようにしてほしいというのである。
これはユダヤ教やイスラム教などでは考えられないことだ。
牛肉食べたさに、宗教禁忌に抗議するエジプト人(リビア人)の開明性。
しかしアンモンの神は彼らの願いを容れず、ナイルの水が溢れ出て潤おす限りの土地がすなわちエジプトであり、エレパンティネの町より下方に住みこの河の水を飲むものはすべてエジプト人であるぞと告げた。
ナイルの増減の原因追及
ナイルが夏至を起点として百日間にわたって水嵩を増して氾濫し、この日数に達すると水位が下って引いてゆき、再び夏至の訪れるまで冬の全期間にわたって減水したままでいる理由をぜひ彼らから聞きたいとおもったのである。
最後に第三の説は中で一番もっともらしく見えるが、実は最も見当違いの説明なのである。
それによればナイルは雪解けの水が流れ出したものであるという。
しかしナイルはリビアに発してエチオピアの中央を貫流しエジプトに注いでいる河である。
炎暑の最も厳しい地域から、概してこれよりも涼しい地域に流れている河の水が、どうして雪解けの水であり得よう。
さて従来の諸説を攻撃したからには、この解明困難な問題についてこんどは評者自身の見解を述べねばなるまいが、ナイルが夏期に水位を増す原因と私に考えられるところはこうである。
もっとも太陽は毎年ナイルから引きつけた水分を、その都度全部手放してしまうのではなく、自分のまわりにも残しておくものと私は考えている。
(太陽ヘリオス?が水分をにぎにぎ?)
従ってこれらの河川は太陽が戻ってくるまでは、この地方に降雨があり奔流が山地を縦横に走るので、雨水を多量に加えて滔々と大河を成して流れるが、夏の間は雨水が絶える上に太陽によって水分を吸い上げられ痩せ細るのである。
このようにこれらの現象の原因は太陽であると私は考えているのである。
ナイルの洪水の原因は、エジプト人も知らない。
ヘロドトスの弾劾した「雪解け水」説が正しく、ヘロドトスの説は、珍妙な「太陽神ヘーリオスが水をにぎにぎしている」というもの!
ナイルの水源の探求
ネイトの神官の説(エレファンティネのホピの深淵説)
さてエジプト人、リビア人、ギリシア人を問わずこれまで私が面談した人々の中で、ナイルの水源を知っていると確言した者は一人もいなかった。
ただエジプトのサイスの町の、アテナ女神(ネイト)の宝物の書記が唯一の例外であったが、この男も正確に知っているとはいったものの、私には冗談をいっているように見受けられた。
彼の説によると、テバイ州の町シュエネとエレファンティネの間に、先のとがった山が二つあって、一つはクロビ、もう一つはモピという名であるという。
ナイル水源はこの両山の間から底知れぬ深淵となって涌き出しており、その水の半分は北方エジプト側へ、外の半分は南方エチオピア側へ流れていると。
ヘロドトスの探求
しかし私がそれとは別にできうる限りの広範囲にわたって調査し、エレパンティネの町までは自ら出向いて実地を見、それより以遠は伝聞によって知り得たところは次のようである。
メロエまでいってみる
別の船に乗り換えて十二日でメロエという小さい町へ着く。この町は、これまでとは別のエチオピア人の首都であるという。
これまでのエチオピア人とはアンドロメダの王国などのようなリビア人の別称であろう。こちらが真正エチオピア人。
メロエまで行ったものの何も突き止められず。
アンモン王エテアルコスの物語
キュレネ人が聞いたアンモン王エテアルコスの物語
私はしかし、あるキュレネ人たちから次のような話を聞いた。その話によれば、彼らはアンモンの神託所へ詣でアンモンの王エテアルコスと面談したことがあったが、・・・(ナイルの水源の話になると)
エルアルコスが以前自分を訪ねてきたナサモン人のことを物語ってくれたという。
アンモンとは、リビアとエジプトの国境にあるシワ・オアシスの古名。
ここにアンモンの神託所があり、このオアシスの王がエテアルコス。
キュレネ人とは、リビアのギリシア人(テラから植民したラケダイモン人)の王国の人々。
ナサモン人というのはリビ系で、シュルティスからその東方の小地域にわたって居住している民族である。
リビアの北方海岸の一帯は、エジプトから始まりリビアの末端であるソロイエス岬に至るまでの全域にわたりーただしギリシア人とフェニキア人の占拠する地域は別であるがーリビア人およびリビア系の多数の民族が住んでいるのである。
ナサモン人とは、シュルティスに住むリビア人の一部族である。
リビアの沿岸には、土着のリビア人と、後から植民したカルタゴ人、キュレネ人が居住している。リビア人にもプロト・カルタゴ人が混血している。
リビア系ナサモン人の物語
リビアの砂漠地帯を探検し、これまで最も奥まで見てきたものたちすら見なかったようなことを探れるかどうか試してみようということになった。
まず人の住む地域を通りすぎて野獣の棲息地帯に達し、これを越えて砂漠を西風に向って進んだ。
人並みより背の低い小人の一団が襲ってきて彼らを捕えて連れ去ったという。
この部落に住む者たちはいずれもナサモン人を連行した一行と同じ背丈で色が黒かったという。
この部落の傍に大河があり、西から東へ向って流れていたが、その河中に鰐の姿が見えたというのである。
例の部落の傍を流れていた河がナイルであることは、エテアルコスも推察したところであったが、事実それで辻褄が合うのである。
ナイルはリビアに発し、リビアを真二つに切って流れているのだからである。
プロト・カルタゴ人の血を混血したリビア人であるナサモン人は、後のベルベル人になっていくであろうが、フェニキア人の混血でもあり、長身で美しい。
彼らが、リビアの奥地を探検したところ、ニグロの部族に遭遇した。
そこに流れていたのもナイルであった。
つまり南のナイルの上流にぶちあたったわけだ。
イストロス河(ドナウ河)=ピュレネ水源説
私の既知の事実に基づいて未知のことを推測してみるに、
ナイルはイストロス河(ドナウ河)と同じ位の距離から源を発していると思われる。
イストロス河はケルト人の国にあるピュレネの町から発し、ヨーロッパを真中から二つに割って流れているからである。
そもそも「既知の事実」として作業仮説に指定した、「イストロス河はケルト人の国にあるピュレネの町から発し、ヨーロッパを真中から二つに割って流れている」という前提が間違っている。ドナウ河はドイツのシュヴァルツヴァルトの泉に発している。
イストロス河はヨーロッパ全土を貫流し黒海に注ぐが、その河口のイストリアはミレトス移民の住む町である。
リビア=コーカサス至近距離説(ヘロドトス時代のとんでも地理観)
ここでヘロドトスは、ナイル河が「西から東へ」「リビアを真二つに切って流れているのだからである。」と考えている。
つまり、ナイルは南から北へ流れているのではなく、西から東に流れており、源流は、リビアの西の涯、アトラス山脈にあると考えていた。
このアトラス山脈とピュレネはともに、ガディル(ガデス)と至近距離にある。
そしてここはヘーラクレースが黄金のりんごを取りに行った土地である。
そしてドナウ河はこのピュレネに発し、ヨーロッパを横断して黒海に注ぐと考えられていた。
それゆえ、アトラスがいてプロメーテウスが縛られているコーカサスの山も至近距離にあるという感覚になる。
それゆえに、「ヘスペリデスの黄金の林檎」のあるヘスペリデスの苑は、ガディルにあるのだが、それをアポロドーロスは、コーカサスにあると誤認したわけだ。
三、エジプトの神話
エジプトの習俗の特異性
エジプト人は・・・ほとんどあらゆる点で他民族とは正反対の風俗習慣をもつようになった。
神々の祭司は他国では長髪を貯えるものであるが、エジプトでは髪をそり落とす。
エジプトではそら豆を栽培することは全くない。自生したものがあっても、生のままでも料理してでも食用に供することは決してしない。祭司に至っては、豆類は不浄であると考えているので、これが目に触れることすら厭うのである。
ピュタゴラスの豆の禁忌は、エジプト起源であるに違いない。
ギリシア人は、神官は長髪で、豆スープを食う。フェニキア系の習俗を用いている。
エジプトの主神(牡牛アピス、牡羊アモン)
メンピスのアピス信仰
エジプト人は牡牛をエパポスにささげられた獣と考えており、その故に・・・・
〔註〕エパポス(アピス)が黒い斑点のある白牛であるのでこれと同じように黒毛のある牛は犠牲に屠るべきでないとされたものらしい。
牡牛と仔牛とはそれが生贄といて不適当と認められぬ限り犠牲に供するのであるが、牝牛はイシスの聖獣であるので、これを屠ることは許されない。
実際イシスの神像は、ギリシア人の描くイオの姿と同様に、牛の角をもった女身であり,エジプト人は誰でも牝牛をどの家畜とも比較にならぬほど大切に崇めている。
メンピスのアピスは、メンピスの主神プタハの化身とされる。
ギリシアでは、プタハはヘパイストスになった。
牝牛イシスは、イオに、アピスは、エパポスになった。
テバイのアモン信仰
ゼウス・テバイエウス(テバイのゼウス)の氏子たち、言いかえればテバイ地区の住民たちはみな、犠牲獣には羊を避け山羊を用いる。
ゼウス・テバイエウス=アモン、アモン・ラー・・・羊がトーテム。第12王朝の主神である。
第12王朝が、フェニキア、シリア、アナトリアを征服して、ファラオの姿を象って、バアルとした。ウガリトのバアルは第12王朝のファラオを象ったものであろう。
上エジプトの首都ワセトをテーバイと呼んだギリシア人は、テーバイ人である。
ギリシアの首都の名を冠したのである。
テーバイの主神もゼウスであろうが、女性上位のフェニキア人は、イシスのほうを重んじたのだろう。イノとメリケルテース、イシスとアピス、ハトホルとホルスという母子関係を主神とし、ヘーラーとヘーラクレースを主神にしてゆく。
一方クレタ島からエーリス地方に入ったプロト・カルタゴ人は、ゼウスとヘーラーを主神とした。ギリシアでは遊牧民でないので、羊はトーテムとされず、牛がトーテムとなった。それゆえゼウスは影が薄い。
カドモス一党は、ブドウ栽培を創始し、それゆえディオニューソスを重んじるようになったと思われる。
ところでメンデスの社の氏子たち、換言すればメンデス州の住民たちは、羊を犠牲にささげるが山羊は用いない。
メンデス州は、デルタの東北の地域。第29王朝の首都。
テバイの住民・・・羊を用いない理由
ヘラクレス(コンス)がどうしてもゼウス(アモン)の姿を見たがり、・・・
すなわちゼウスは一頭の牡羊の皮を剥ぎ、切り取った牡羊の首を前へ差し出し、羊の皮で蔽った自分の姿をヘラクレスに示したのだという。
エジプト人がゼウスの神像を、牡羊の頭をつけた姿に作るのはここに由来するのであり、この風習はエジプト人からアンモン人にも及んでいる。
羊頭のアモンの由来である。
アモンの子がコンスであり、ギリシアでは、ゼウスの子ヘーラクレースとなる。
アンモン人のアモン(ゼウス)信仰
アンモン人は元来エジプトおよびエチオピアからの移民であり、その言語も両国語の中間に当たる者を使用している。
彼らがアンモン人と名乗るのもこの故事にちなんだものであろうと私には思われる。
アンモン人は、もとはシワ・オアシスのアンモン王国であろう。
羊頭のアモンを信仰する。
しかし、パレスティナに入植したアンモン人は、(おそらくリビアからの入植か)
イスラエルの民の敵対的隣人で、モレクを崇拝。これは牛頭である。
ヘーラクレースの正体を求めて
ヘーラクレースの起源をエジプトとするヘロドトス
ヘラクレスに関して私は彼が十二神のひとりであるという話をきいたことがある。
ヘラクレスの名はエジプト人がギリシア人から受け継いだものではなく、むしろギリシア人がそれをエジプト人から受けいれたことーギリシア人とういうのはつまりアンピトリュオンの子にヘラクレスの名を付けたものたちを指すのであるがー、このことを裏付ける証拠はいろいろあると思うが、中でもヘラクレスの両親であるアンピトリュオンとアルクメネが、ともにその血統は遠くアイギュプトスに発していること、
ヘラクレスの起源の一つは「エジプトのヘラクレス」ダナオイ系のヘラクレスであるとするエジプトびいきのヘロドトスの仮説である。
しかしヘーラクレースは名前からいって、ヘーラーの寵児であり、テーバイ帝室がメルカルトからつくり出した神格であることにまちがいあるまい。
当時のエジプトにないポセイドーン信仰
またエジプト人はポセイドンとディオスクロイの名を知らぬといっており、これらの神がエジプトの神々の列に加えられていないことの二つが最も有力な証拠であろう。
この時代は、ポセイドーン(セト)は重んじられていない。
ポセイドーン(セト)は、ヒクソス王朝と、第19王朝によって崇拝された。
ディオスクロイは、ラケダイモン人の神なので、エジプト人は知るよしもない。
エジプトのパンテオン
ヘラクレスの属するとされる十二神が八神から生まれた時以来、アマシス王の時代まで実に一万七千年が経過しているのである。
八神とは、ヘルモポリスの八神であろう。
四つの男女の一対からなる。男神は蛙、女神は蛇である。
ヌンとナウネト、アメンとアマウネト、ククとカウケト、フフとハウヘトである。
上王朝の系譜である。
ヘーラクレースのフェニキアへの探求
テュロスのヘーラクレース(メルカルト)
私はこの件に関して正確な知識を与えてくれる人に会いたいと思い、海路フェニキアのテュロスまで渡ったことがある。
ここにヘラクレスの神殿があると聞いたからである。
私はそこにおびただしい奉納物に飾られた神殿を見たのであったが、数ある奉納物の中でも特記すべきは二本の角柱で、一つは精錬された黄金製、一つは闇中にも輝くほどの巨大なエメラルド製であった。
黄金とエメラルドの二本の柱、まさにヤキンとボアズの柱である。
私はこの神の祭司たちに会い、神殿の建立以来どれほどの時が経っているかを訊ねたのであったが、彼らのいうところもギリシアの所伝と一致せぬことが判った。祭司たちの話では、この神の社はテュロスの町の創建と同時に建立されたものであり、彼らがテュロスに住みついて以来今日まで二千三百年になる、というのだからである。
テュロスの創建は,ヘロドトスが前450年ごろ盛期を迎えた歴史家であるから、前2800年くらいの創建になる。ハリカルナッソスのギリシア人はカリア人と通婚し、ヘロドトスにもカリアの血が入っていた可能性大。
タソスのヘーラクレース
私はテュロスで「タソスのヘラクレス」の異名で知られる、別のヘラクレス社も見た。私はタソスへの行ったことがあるが、そこには確かにフェニキア人の建立に成るヘラクレスの神社があった。
このフェニキア人たちはエウロペを捜索するために船出してきた者たちであったが、その折にタソスに入植したのである。そしてこれは、ギリシアでアンピトリュオンの子ヘラクレスが生れるよりも実に五世代も以前のことなのである。
二種のヘーラクレース
以上調査したところによって、ヘラクレスが古い神であることは明らかである。
そこで私が考えるところでは、ギリシア人の中でも、二種のヘラクレス神殿を建立し、一方は不死の神「オリュンポスのヘラクレス」として祀り、他は半神として死者に対する礼を以て敬うことにしている者たちの行動が最も正しいものといえよう。
エジプト人の不殺生の習慣
ギリシアの伝承には、随分と浅慮軽率な内容のものが多いが、ヘラクレスに関する次の説話なども愚かしいものである。
ヘラクレスがエジプトへ行ったとき、エジプト人は彼をゼウスの犠牲にしようというので、・・・
このような物語を伝えるギリシア人は、エジプト人の性格にも習慣にも全く無智であるとしか私には思われない。
家畜ですら、豚と牡の成牛および仔牛ーそれも特定の標しのないものに限るー、それに鵞鳥以外は犠牲にすることを禁じられているエジプト人が、どうして人間を生贄にするというようなことがあり得よう。
さらには、たったひとりの、しかもギリシア人のいうがごとくんば人間の身であったヘラクレスが、幾万という多数の人間を殺すなどということがあり得ようか。
その他の神々
パン=メンデス?(実はミン)
メンデスの住民はパンを八神の中に数えており、この八神は十二神よりも古い神であるといっている。
ところで画家や彫刻師はパンの像をギリシア人と同様に山羊の顔をし牡山羊の肢をもつように描きもし彫りもする。
なおエジプト語では牡山羊とパンのことをメンデスというのである。
〔註〕ギリシアのパンに議せられるエジプトの神はミンであるが、メンデスの神はオシリスである。
〔註〕これは町の名であるとともに「牡羊」を意味する(牡山羊ではない)。
屹立した男根をもつ神ミンは、ギリシアに入ってパンとなった。
ディオニューソス信仰輸入
アミュテオンの子メランプス・・・・
それというのもメランプスこそディオニュソスの名をはじめ、その犠牲式や男根像の行列などをはじめてギリシア人に紹介した人物だからであるが、厳密にいえばメランプスはこれらすべてを一括して教示したわけではなく、彼より後の賢者がたちが彼の教説を敷衍発展させたのである。
メランプスはディオニュソスの行事を、テュロスの人カドモスや、彼に従ってフェニキアから今日ボイオティアと呼ばれる地方に来住した者たちから聞き知ったというのが、最も真実に近いのであろう。
ディオニューソスは、カドモスが導入。
ペラスゴイ由来の神
ディオニュソスのみならず、ほとんどすべての神の名はエジプトからギリシアへ入ったものである。
例外としては前にも述べたポセイドンとディオスクロイのほか、ヘラ、ヘスティア、テミス、カリテス、ネレイデスなどが挙げられるが、それ以外の神の名は昔からずっとエジプトにあるのである。
エジプト人が名を知らぬといっている神々は、ポセイドンを除いてはペラスゴイ人の命名したものであろう。
これらはボイオティアのテーバイ帝室が命名した神であろう。
ポセイドーンの由来
ギリシア人がポセイドンを識ったのはリビア人からである。
本来ポセイドンなる神をもっている民族はリビア人以外にはなく、リビア人は昔からかわらずこの神を尊崇しているからである。
ポセイドーンはリビアから。その原型はセト。
陽具ヘルメス
ギリシア人が勃起した男根を具えたヘルメス像を造るのはエジプト人から学んだのではなく、ギリシアではアテナイ人がはじめてこれをペラスゴイ人からとり入れ,アテナイから他のギリシアへ広まったものである。
アテナイ人は当時既にギリシア人の数に加えられていたが、そこへペラスゴイ人が移ってきてアテナイの国土に共に居住することになったもので、それ以来ペラスゴイ人もギリシア人と見做されるようになった。
アテナイ人をダナオイ人、ペラスゴイ人をカドモス一統と読み替えると、この謎が解ける。
つまり陽具ヘルメスは、カドモス一党が持ち込んだ神である。
カベイロイの密儀
カベイロイの密儀はサモトラケ人がペラスゴイ人から伝授をうけて行なっているものであるが、この密儀を許されたものならば、私のいわんとするところが判るはずである。
アテナイ人と共生するに至ったペラスゴイ人は、以前サモトラケに住んでいたもので、サモトラケ人は彼らから密儀を学んだものだからである。
カベイロイの密儀はペラスゴイ人(ここではフェニキア人)からサモトラケ人が学んだ。そしてヘロドトスもカベイロイの密儀に参入した!!
アテナイに入ったフェニキア人の一分枝は、サモトラケ経由で海を渡り、エウボイア北部海域からボイオティアへ侵入し、テーバイ帝室となり、エレクテウスの時代にアテナイを征服、アカイア人との戦争で、テセウスに奪われ、テセウスを追放してアテナイを奪回、そのころにカベイロイの密儀や陽具ヘルメスの信仰をアテナイ人に伝えたのであろう。
陽具ヘルメスはカベイロイ密儀!
そのようなわけでギリシアではアテナイ人がはじめて、男根の勃起したヘルメス像をペラスゴイ人から学んで作ったのである。これについてはペラスゴイの間に聖説話が伝えられているが、その内容はサモトラケの密儀において示される。
つまり陽具ヘルメス信仰はカベイロイの密儀の一環である!!!
フェニキア人がのちにヘルメス・トリスメギストスの学理を発達させるのである。
ペラスゴイの汎神論
私がドドネで聞いて知ったことであるが、昔のペラスゴイ人は「神々」に祈願する際に、どんなものでも生贄にしたということで、またどの神に対しても特別な称号も名もつけていなかった。
彼らがこれらを神とよんだのは、それが万象を秩序づけ、その権能に従って万物を分配し掌握していると考えたからに外ならない。
ペラスゴイ(旧ギリシア人)=フェニキア人は、神々を一括して捉えていた=汎神論。創造ではなく秩序づけたというところに注意!
ドドネの神託所
その後ペラスゴイたちは神の名についてドドネの神託を伺ったのである。
ドドネの神託所はギリシアの神託所の中でも最古のものとされ、しかも当時はこれが唯一のものであったからである。
さてペラスゴイ人がドドネにおいて、異国伝来の神の名を採用してもよろしいかどうかと神託を伺ったところ、差支えなしという託宣が下ったのである。
それ以来ペラスゴイたちはその神名を用いて犠牲式を行なってきたのであるが、後になってギリシア人が彼らからそれを受け継いだのである。
ドドネとアンモンの神託所縁起
エジプトのテーバイの巫女の説
ギリシアとリビアの神託所について、エジプト人は次のような話を伝えている。
これはゼウス・テバイエウスの祭司たちの語ってくれた話であるが、
巫女を務めていた二人の女がフェニキア人によってテバイから誘拐され、
一人はリビアへ、もう一人はギリシアへ売られたことが判った。
この女たちは右の両民族の間にはじめて神託所を設けたというのである。
ドドネの巫女の説
ドドネの巫女たちの話はこうである。
二羽の黒鳩がエジプトのテバイを飛び立ち、一羽はリビアへ、もう一羽は自分たちのところへ来たのだそうである。
鳩は樫の梢にとまると人間の言葉で、この地にゼウスの神託所を開かねばならぬそ、といった。
なお巫女たちの話では、リビアへ行った鳩は,アンモンの神託所を開くようにリビア人に命じたという。
右の話をしてくれたドドネの巫女の最年長者は,その名をプロメネイア、その次がティマレテ、最年少者はニカンドラといった。
ドドネに伝わる神託所縁起。ソース:ドドネの巫女。
巫女らは、誘拐されたのではなく、自分の意志で神託を拡散したのである。
フェニキア人が両地方に、神託文化を伝えて文明化したともいえる。
黒鳩の謎解き
また私の思うには、この女のことをドドネ人が鳩といったのは彼女たちが異国人であったために、彼らの耳にはその言葉がさながら鳥の囀りのように響いたためであろう。しばらくしてからその鳩が人間の言葉を話した、と彼らがいうのは、その女のいうことが彼らに判るようになったからで、女が異国語を話している間は、鳥のように囀っているとしか彼らには思われなかったのである。さもなくばどうして鳩が人間の言葉を話すというようなことがあり得よう。
その鳩が黒色であったというのは、つまり女がエジプト人であったことを意味しているのである。
アルテミス=ネフティス信仰
中でも最も盛大に行なわれるのは、アルテミスのためにブバスティスの町に集まって祝う祭で、これにつづいてはブシリスの町におけるイシスの祭である。
イシスはギリシアでいえばデメテルに当る。
三番目に重要な大祭はサイスにおけるアテナの祭、
四番目はヘリオポリスにおけるヘリオスの祭、
五番目はブトにおけるレトの祭、
六番目はパプレミスにおけるアレスの祭である。
ネフティスは、ネベトフウト「居館の女主人」の意味である。
イシスの姉妹で、セトの妻、ホルスの叔母にあたる。
セトの妻というところからポセイドーンの妃の立ち位置は重要である。
イノに通じるところもある。
ホロス冠を戴くテュケー女神にも影響を及ぼしていそうでもある。
リノスの歌(死と再生の神話)
エジプトには歌が一つしかないことも特筆に値する。
すなわち「リノスの歌」がそれで、これはフェニキアをはじめキュプロスその他で歌われているものであるが、名前は民族によってそれぞれ異なる。
〔註〕キュプロスではアドニス、シリアではタムス、アルゴスではリノス、等々である。普通リノスとは、春に生成繁茂し、夏の炎暑に傷められ秋に刈り取られる植物の象徴と解される。
エジプトの習俗ふたたび
長幼の序とお辞儀の習俗
エジプト人がギリシア人と一致する風習がもう一つあるーただしギリシア人といっても、それはスパルタ人に限られるのであるが。
それは若い者が年長者に出会うと未知をゆずって傍へ避け、また年長者を迎える時には席を立つということである。
しかしどのギリシア人とも違う点もあって、それはエジプト人が路上で出会うと互いに挨拶の言葉を交わす代りに、手を膝のあたりまでさげてお辞儀をすることである。
長幼の序は、エジプトからフェニキアに伝わり、ラケダイモンに伝わったのであろう。
お辞儀は、エジプトからフェニキア経由で日本に伝わったのか?
一夫一婦制
エジプト人・・・
ことにギリシア人と同様に一夫一婦制を堅持している。
特に顕著なのは、第18王朝である。アメンヘテプ三世とティイは、カドモスとハルモニアのように結婚式を挙行している。
アテナイと違ってフェニキア系のテーバイ、ラケダイモンは一夫一婦制である。
そもそもギリシアに一夫一婦制を持込んだのはテーバイ帝室である。
イエスも父方がフェニキア人なので一夫一婦制を奨励した。
四、エジプトの王朝の歴史(ミンからアマシスまで)
エジプトの風土が生んだ蚊帳と船
蚊帳
無数にいる蚊の対策として、エジプト人はつぎのような工夫をしている。
沼沢地帯より上方(南方)に住むエジプト人は、「塔」を利用し、ここへ上って眠る。蚊は風に妨げられて高くへは飛べないからである。
これに対して沼沢地の住民は、塔の代わりに別の対策を立てている。ここの住民は、誰でも投網をもっており、昼はこれで魚をとるが、夜間の使い道は、自分の寝床の周りにこの網を立て廻し、その中へもぐり込んで眠るのである。
ギリシアのような乾燥地では蚊帳は不要。
地産地消のエジプト船はアカシア材とパピルスの帆
エジプト人が貨物を運ぶ船は、アカシア材で造られる。
アカシアは「キュレネ・ロートス」に形状がよく似ており、この木から滴る「涙」がゴムなのである。
さて、このアカシアから長さ二ペキュスほどの板を切り出し、これを煉瓦のように積んで船体を造るのであるが、その工程は次のようである。
頑丈な長い釘を使って、先の二ペキュスの板を接合してゆく。こうして船体が出来上がると、その上に横梁をわたす。肋材は一切用いず、船板の継目は内側からパピロスを詰めて塞ぐ。
帆柱はアカシア材のものを用い、帆はパピロス製である。
フェニキアの船は、レバノン杉製であり、帆は麻布で、もっとも堅牢である。
エジプトは地産地消で、二級品しか造れなかった。
最初の王ミンのメンピス建設とプター神殿
祭司たちの話によれば、エジプト初代の王ミンの事績としては、先ず堤防を築いて現在のメンピス南方約百スタディオンの上流で、河を堰いて屈曲させ、元の河床の水を涸らし、河流を転じて山間の平野を流れるようにしたという。
さてこの初代の王ミンは、ナイルの河流を堰き止めてここに干拓地を造ると、先ずこの地に町を建てたが、これが今日メンピスと呼ばれているもので、
またこの町にヘパイストス(プター)神殿を建立したという。
女王ニトクリス
唯一人だけ女性がおり、・・・奇しくもかのバビロンの女王と同じくニトクリスといった。
女王は事をし終えると、報復を免れるために、自ら灰の詰まった部屋に身を投じたということであった。
モイリス王
モイリスである。
また湖を開鑿し、その湖中にピラミッドを建てた。
セソストリスの大遠征
祭司たちの語るところによれば、セソストリスは有史以来初めて艦隊を率いて「アラビア湾」を発し、「紅海」沿岸の住民を征服したということで、彼はさらに船を進めて浅瀬のために航行不能の海域まで達したという。
セソストリスは自分と祖国の名および自分の武力によってこの民族を征服した次第を記念した記念柱を、その国に建てるのが例であった。
戦闘もなく容易に町々を占領できた国には、・・・さらに女陰の形を彫り込ませたのである。
かくしてセソストリスは大陸を席捲し、アジアからヨーロッパに渡り、スキュタイ人およびトラキア人をも征服するに至ったのであるが、これはエジプトの軍隊が達した再遠距離の記録であると私には思われる。
パシス河畔のエジプト人
彼はそこから引き返したのであるが、パシス河畔に達してから後のことは私も確実なことは言えないが、いずれにしてもセソストリス王自身が軍隊の一部を割いてこの地に植民させるべき残したのか、あるいは兵士の内で王の放浪の如き遠征に嫌気がさした者たちが、パシス河畔に住みついたのか、そのいずれであったのであろう。
それというのもコルキス人は明らかにエジプト人であるからで、・・・
先ずコルキス人は色が黒く、髪が縮れていることであるが、・・・
世界中でコルキス人とエジプト人とエチオピア人だけが、昔から割礼を行なっている点である。フェニキア人およびパレスティナのシリア人はその風習をエジプト人から学んだことを自ら認めているし、・・・
フェニキア人でもギリシアと交流のある者は、性器の扱いはエジプト人に倣わず、子供たちに割礼を施さないのである。
(フェニキア系ギリシア人は割礼しない)
幾何学の発展
祭司たちの語るところでは、この王はエジプト人ひとりひとりに同面積の方形の土地を与えて、国土を全エジプト人に分配し、これによって毎年年貢を納める義務を課し、国の財源を確保したという。
河の出水によって所有地の一部を失う者があった場合は、・・・
土地の減少分を測量させ、爾後は始め査定された納税率で(残余の土地について)年貢を納めさせるようにしたのである。
私の思うには幾何学はこのような動機で発明され、後にギリシアへ招来されたものであろう。
フェニキア人ファラオのプロテウス
プロテウスはフェニキア人でヘパイストス信者
このペロスから王位を継承したのは、メンピス出身で、ギリシア語ではプロテウスという名の人物であったということである。
現在メンピスには、ヘパイストス神殿の南方に、彼を祭った見事な作りの実に立派な社がある。
この神域のまわりにはテュロス出身のフェニキア人が居住しており、この地区一帯が「テュロス人陣地」と呼ばれている。
メンピスは、古くはフウト・カ・プタハ(プタハの館)。プタハ=ヘパイストスに捧げられた都市。ヘパイストスは冶金の神でヘラの単性発生でありフェニキア人と縁が深い。
〔註〕プロテウスに関するギリシアの最古の文献はオデュッセイアで、ここではプロテウスはエジプト海辺に住む海神となっている。どういう経路か、細かいことは判らないが、いつしかプロテウスがエジプト王の名となったのである。それがエジプトのどの人物(または神)に当るのかも判らない。
プロテウスはヘレネと同時代人
さてこのプロテウスを祀った神域内に、いわゆる「異国のアプロディテ」の社がある。
私の推定するところでは、実はこれはテュダレオスの娘ヘレネを祀る社なのである。
その理由は先ず、ヘレネがプロテウスの許に逗留したという伝承があることで、次にはこの社に「異国のアプロディテ」という名が添えられている点である。
プロテウスとヘレネは同じ神域に祀られている。
つまり、同国人。ヘレネはラケダイモン人=フェニキア人。プロイトスもフェニキア人。
ヘロドトスの執筆スタンス
このようなエジプト人の話(下界下りのような荒唐無稽のおとぎ話)は、そのようなことが信じられる人はそのまま受け入れればよかろう。
本書を通じて私のとっている建前は、それぞれの人の語るところを私の聞いたかままに記すことにあるのである。
実地調査をして、現地人の話を自分の見解を入れずに報告する。別説も掲載し、そのうえで自分の解釈をひとつの仮説として提示する。
すこぶる公平で科学的である。
そのような伝承には事実が隠されていることがある。ヘロドトスはわからずとも後世の人が築くヒントの宝庫なのである。
さらに、トゥキュディデスのように、アテナイびいきというバイアスが入るわけでもないので、党派性が薄いという意味でも、科学的である。
暴君ケオプス
彼の後にエジプト王となったケオプスは、民を世にも悲惨な状態に陥れた、と祭司たちは語っていた。
この王は先ずすべての神殿を閉鎖し、国民が生贄を捧げることを禁じ、
つづいてはエジプト全国民の強制的に自分のために働かせたという。
ケオプス(クフ)が、セソリストス(アメンエムハト三世)より後世の王というのは、間違いである。
またニトクリスのような女王も架空の存在である。
彼の後にエジプト王となったケオプスは、民を世にも悲惨な状態に陥れた、と祭司たちは語っていた。
この王は先ずすべての神殿を閉鎖し、国民が生贄を捧げることを禁じ、
つづいてはエジプト全国民の強制的に自分のために働かせたという。
石材を曳くための道路を建設するのに、国民の苦役は実に十年にわたっていたという。なお右の十年間には道路のほかに、ピラミッドの立つ丘の中腹をえぐって地下室も造られた。これは王が自分の葬室として造らせたもので、ナイルから掘割を通して水をひき、さながら島のように孤立させてある。
ピラミッド自体の建造には二十年を要したという。
ケオプスの悪業は限りを知らず、果ては金に窮して己れの娘を娼家に出し、なにがしかの金子の調達を命ずることまで敢えてしたという。
ヘタイラのロドピス
ギリシア人の中には、このピラミッド(メンカフラーのピラミッド)が遊女ロドピスの作ったものであるというものがあるが、過った説である。
またロドピスの盛時はアマシス王の時代に当り、・・・
生まれはトラキア人で、ヘパイストポリスの子イアドモンというサモス人に仕えた奴隷女で、かの寓話作家アイソポスとは朋輩の奴隷であった。
アイソポスがイアドモンの奴隷であったことは確かで、それには次のような有力な証拠もある。
〔註〕ロドピスというのは、「薔薇色の顔の女」という意味で、遊女の場合ならば源氏名のようなものといってよかろう。
本巻一〇〇節に記されている女王ニトクリスが紅頬金髪の美女であったという伝承のあるところから、ロドピスの物語が生じたと推測する。
一二六節のケオプスの娘の物語もあるいは全く無縁ではないのかも知れない。
クフの娘が遊女をやってピラミッドの建設費を捻出した話は、ロドピスの活躍から派生して作られた物語であろう。
架空の女王ニトクリスは、フェニキア人ファラオの王朝と関連しているのかもしれない。
〔註〕アイソポスがデルポイに逗留していた時、誤解のため(別伝では怨恨のため)デルポイ人に殺された。その後デルポイに災厄がつづき、アイソポス殺害がその原因であるから遺族に補償せよとの神託が下った。しかし受取人が一向に現れず、三代目になってやっとこの孫のイアドモンが祖父とアイソポスとの関係から補償を受理したというのである。
ロドピスはクサンテスなるサモス人に伴われてエジプトへ来ると、媚を売って生業を立てていたが、ミュティレネ人のカラクソスなる者に大金をもって身請けされた。カラクソスはスカマンドロニュモスの子で、かの詩人サッポーの兄であった。
リビアのアンモン人はサモス人の植民地国という記述が第三巻にでてくる。サモス人(フェニキア人)は、エジプトの隣国リビアにも進出しており、ロドピスはそんなサモス人に連れられて、都会で出稼ぎに来た女性であろう。サッポーといいフェニキア文化圏の女性は独立的。
〔註〕これはある程度事実であったらしい。後に記されているように現にサッポーの詩の断片に、女に迷った兄を咎め女を憎む心を詠じたものがある(ただし女の名はロドピスではなくドリカとなっている、同一人とすれば後者が本名であろう)。
ナウクラティス
ナウクラティスには妖艶な遊女が多かったようで、今の話の主である女も、ギリシア人でロドピスの名を知らぬ者がないほど有名になったし、
カラクソスはロドピスを身請けしてから国許のミュティレネに帰ったが、サッポーはその詩の中で兄のことを大いに責めている。
ナウクラティスに、イオニアやエーゲ界島嶼のギリシア人も、多く出稼ぎや商売に来ていたことがわかる。
サバコス(シャバカ)の王朝
この王の時代にエチオピア王サバコス(シャバカ)の指揮の下に、エチオピア軍が大挙してエジプトに来攻した。
エジプト人が罪を犯した場合、王は死刑を用いることを好まず、罪の大小に応じて判決を下し、それぞれの在任の出身地である町の全面に土を盛る労役を課したという。こうして町々は以前より一段と高くなった。
はじめセソストリス王の時代に,運河を開鑿した者たちの手で土が盛られたのであったが、再びエチオピア王の支配下に工事が施されて、町々は非常に高くなったのである。
土を盛って高くなった町はエジプトに少なくないが、ブバスティスの町はその尤なるもので、この地域には実に見事なブバスティス神の神殿もある。
ブバスティス女神は、ギリシアでいえばアルテミスに当る。
セトス王の時代にセンネケリブ来攻
その次に王位に就いたのは、ヘパイストスの祭司でその名をセトスという者であったという。
後になってサナカリボス王(センナケリブ)がアラビアおよびアッシリアの大軍を率いてエジプトに来攻したが、
エジプト王朝、一万年!?
これまでの本書の記述は、一般のエジプト人および祭司たちの語ったところに従ったものであるが、それによって明らかになったことは、
初代の王から最後に王位に就いたヘパイストスの祭司に至るまで、三百四十一世代を数え、・・・
ところで三世代が百年であるから三百世代では一万年である。
さらに三百世代に加わる残りの四十一世代が千三百四十年となる。
かくして合計は一万一千三百四十年となるが、・・・
太陽が西から昇るオカルト発言
またこの期間中、太陽が四度その性情の位置より外れて昇ったという。
現在太陽が沈んでいる方角から昇ったのが二度、現在昇っている方角へ沈んだのが二度あったというのである。
〔註〕ヘロドトスは、太陽が東から昇る期間と西から昇る期間が四回交替したと考えているようであるが、これは彼が祭司の言葉を誤解したためと考えられている。
エジプト人は一年を三百六十五日とする計算には誤差があり、千四百六十年毎にその誤差が解消される(誤差の合計が一年になるので)ことをすでに知っており、右の期間にこの周期が四回巡って来たことをいったものと解するのが真実に近いであろう。
ヘロドトスの師ヘカタイオス
むかし史家ヘカタイオスがテバイで自分の系譜を述べ、十六代目は神につながる家系であるといった時、ゼウスの祭司たちから受けた扱いを、私もほとんどそのままに体験したのであるが、・・・・
たった16世代で神につながるはずはないとエジプト神官に笑われたわけだ。
〔註〕ヘカタイオスのことは本書にしばしば現われるが、ミレトス出身の歴史家、地誌作家でヘロドトスには先輩に当る。ヘロドトスが彼の著作を大いに利用したことは疑いなく、ここの記事もその証左の一つである。
神の子の否定・エジプト人の科学性
祭司たちは私を神殿内の宏壮な広間に案内し、巨大な木像を示しその数を数え上げたが、それは私が前に述べたとおりの数であった。
歴代の祭司長はその生前、ここに自分の像を立てる例なのである。
〔註〕前に挙げた数は三百四十一であるから、残りの四体はセトス以後の祭司長の像と考えねばならない。
(345体の木像は、アモン神殿崩壊時に、消失したのだろう。)
ヘカタイオスが自分の家系を述べて、一六代目の先祖を神であるといった時、祭司たちは木像の数に基づく自分たちの系譜をこれに対比させて、人間が神から生れたというヘカタイオスの説は認められないといった。
ヘカタイオス説の反論として自分たちの系譜をあげたというのはつまり、この巨像の示す一人一人はいずれもピローミス(立派な人間)であり、かつピローミスから生まれたものであるといい、
結局三百四十五体の巨像がいずれもピローミスから生れたピローミスである所以を証示し、その系譜が神にも半神にも遡るものだとはいわなかったのである。
エジプト人の神話時代
このように祭司たちは、像のあらわしている者たちはすべてみな普通の人間で、神とはほど遠いものであることを明言したのであったが、
この人々に先立つ時代には、エジプトを支配したのは神々で、この神々は人間とともに住み、常に神々の内のひとりが主権を掌握していたのであるという。
歴史時代は、神々の統治の時代と断絶している。これは宇宙人文明開花説のオカルトを想像させる。
最後の神オロス(ホロス)
神々の中で最後にエジプトの王となったのはオシリスの子オロス(またはホロス)で、これはギリシアではアポロンと呼ぶ神である。
この神がテュポンを倒し、エジプトに君臨した最後の神なのである。
なおオシリスはギリシア名でいえばディオニュソスである。
〔註〕セトのこと。オシリスを殺したのもこのセトである。
エジプト人の見解はセト=テュポン。ポセイドンはリビア人の神でエジプト人の神ではないから。
ギリシア人はセト=ポセイドン。ヒクソスが支配し、最初の主神はポセイドンが入ってきた。それがアカイア人に制圧されたとき、ポセイドン=テュポンはアポロンに殺される。
ギリシアとエジプトの神々の違い
ギリシアでは、ヘラクレスとディオニュソスとパンは尤も新しい神と考えられているが、
エジプトではパンは最初の神々といわれる八神の中に入り、
ヘラクレスは第二の神々、いわゆる十二神のひとりであり、
ディオニュソスは十二神から生れた第三の神々の系列に入る。
12王時代
ヘパイストスの祭司が王となったのを最後として、エジプト人も自由の身となったわけであったが、エジプト人は王を上に戴かなければ片時も過せぬ国民であったので、彼らは自分からエジプト全土を十二に区分し、十二人の王を樹てたのである。
彼らうちヘパイストス神殿で青銅の盃をもって潅祭を行なった者が、エジプト全土に君臨するであろうと告げたからである。
モイリス湖南方の「迷宮」
また十二王は共同で記念物を残すことをきめ、モイリス湖のやや南方、「鰐の町」といわれる町とほぼ同じ線上に「迷宮」を建てた。
「迷宮」を建てたのはモイリス王(アメンエムハト三世)だが、
この十二王伝説は、アトランティス伝説に通じるものがある。
私は自分の眼でこの迷宮を見たが、それは誠に言語に絶するものという他はない。
ギリシア人の手に成る城壁やさまざまな建造物をことごとく集めても、この迷宮に比べれば、それに要した労力といい費用といい、とても及ばぬことは明らかであるーエペソスやサモスの神殿が見事な建造物であることにはもとより異存はないが。もちろんピラミッドもその規模は筆舌に尽し難いもので、迷宮はそのピラミッドをも凌駕するのである。
ヘロドトスは、自分の眼で確認した事実を述べており、最近フワラのアメンエムハト三世のピラミッドの地下にある「迷宮」の発掘調査が成されたが、結果が封印された!!
迷宮には屋根のある中庭が十二あり、六つが北向き、六つが南向きで、正面入口が相対し、かつすべて接続しており、同じ外壁で囲まれている。
部屋は二層を成して地下室とその上に建てられた上部の部屋とがあり、部屋数は各層がそれぞれ千五百、両層合せて三千ある。
上層の部屋は私自身一巡して見てきたので、次に述べるのは自分の見たままの報告であるが、地下室のことは話にきいたところを記すのである。
これらの建物の屋根はすべて、塀と同じく石材を用いており、・・・・
迷宮の建物が尽きる隅には、四十オルギュイアのピラミッドが相接して立っており、・・・さらにこのピラミッド似達する地下道も作られているのである。
天井がレバノン杉でなく石で造られているのが脅威。しかし今は崩壊している。隣接したピラミッドも半崩壊のアメンエムハト三世のピラミッドである。現代の地下ショッピングセンターを思わす描写だが、建築技術は超古代のオシリス神殿には及ばないだろう。
人工湖「モイリス湖」
それが開鑿された人工湖であることは、湖水自体がよく示している。というのは、ほぼ湖の中央に二基のピラミッドが立っており、どちらも水面上の高さが五十オルギュイア、水面下も同じく五十オルギュイアあり、双方ともその上に玉座に坐った石の巨像が据えてある。
湖の水は、この地方が極度に水の乏しい土地であるところからも明らかなように、天然に涌き出したのではなく、運河によってナイルから引いたもので、一年の内六ヵ月間は湖に流れ込み、残りの六ヵ月間はナイルへ流れ出すのである。
プサンメティコスの政権奪取
祭司長が、いつも王たちが献酒に用いていた黄金の盃を取り出してきたところが、数を誤って十二人いるところへ十一個しかもってこなかった。
十二人の最後にいたプサンメディコスは自分の盃がないので、青銅の兜を脱いでさし出し、それで献酒をすませた。
このプサンメティコスは、・・・
例の「兜事件」のために十一人の王によって沼沢地帯へ追いやられる羽目に陥ったのである。
そこでエジプトでは一番確かな神託が授かると信じられているブトの町のレトの託宣所へ使者をやったところ、青銅の男子が海より出現する時、復讐は遂げられん、という託宣があった。
それから程もなく、掠奪目当てで海に乗り出したイオニア人およびカリア人の一隊が、エジプトに漂着するということが起ったのである。
かつて青銅の武装をした人間を見たことがなかったので、青銅の人間どもが海から来て平野を荒らしておりますと報告したのである。
神託が実現したことを悟ったプサンメティコスは、このイオニア人およびカリア人と誼しみを通じ、・・・この援軍を率いて王たちを打倒したのであった。
エジプト全土を制したプサンメディコスは、メンピスのヘパイストス神殿の南楼門を造営し、またアピスのためにはアピスが出現するたびにこれを養う場所として、先の楼門と相対したところへ中庭を造った。
アピスはギリシア語でいえばエパポスのことである。
プサンメティコスのギリシア人優遇
プサンメティコスは彼のエジプト統一に協力したイオニア人およびカリア人に土地を与えて住まわせたが、この居住地はナイルを中にはさんで相対しており、「陣屋」と名がつけられた。
またエジプト人の子弟を彼らにあずけてギリシア語を学ばせた。
今日エジプトで通訳を業としている者たちは、この時ギリシア語を学んだ者の子孫である。
イオニア人とカリア人とは、その後も永くこの地に住んだが、この土地は
ナイル河のいわゆる「ペルシオン河口」に当り、ブパスティスの町よりやや下手の海辺にある。
後になってアマシス王は、彼らをこの地から立退かせメンピスに居住せしめ、エジプト人を措いて自分の護衛隊に抜擢した。
われわれギリシア人がプサンメティコス王以降後代にわたってエジプトに起った事件すべてを詳細に知っているのは、エジプトに定住した彼らと交渉をもつに至ったからにほかならない。
実際エジプト人と言語を異にするものでエジプトに定住したのは彼らが最初で、彼らが立退く以前に居住していた地域には、船渠や住居遺趾が私の時代まで残っていた。
プサンメティコスは五十四年にわたってエジプトに君臨したが、五十四年の内二十九年間シリアの大都アゾトスの包囲攻撃を続け、遂にこれを占領した。
〔註〕フィリスティン(ペリシテ人)の町アシュドドのこと。アスカロンのすぐ北にある。
ネコスの時代
プサンメティコスの息子がネコスで、父の後を継いでエジプト国王となったが、彼は「紅海」に通ずる運河に手を染めた最初の人物で、後にペルシア王ダレイオスが開鑿したのが、この運河である。
「北の海」から「南の海」ーいわゆる「紅海」と同じーへ至る最小最短の距離を求めれば、エジプトとシリアを区切るカシオス山脈から「アラビア湾に」に抜ける線であるが、・・・運河ははなはだしく曲折しているので、その延長はこれよりも遥かに大きいのである。
ネコスはしかし、彼の工事が異国人のための露払いの仕事であるという神託に妨げられて、中途で開鑿を止めてしまった。
エジプト人は自分と言語を同じくせぬ者はすべて異国人と称するのである。
運河の開削を中止したネコスは、今度は心を軍事に向け、多数の三段橈船を建造させたが、その一部は「北海」向けとして作られ、他は「紅海」向けとして「アラビア湾」で建造された。それらの船渠は今日でも見られる。
ネコ二世は、「紅海」運河開鑿に失敗したので、「地中海」と「紅海」の両側に、船渠を築き、三段橈船を建造した。
ネコスは、・・・シリア軍とマグドロス(メギト)で戦ってこれを破り、その戦闘の後シリアの大都会カデュティス(ガザ)を占領した。
ここで「シリア」とはパレスティナ沿岸部のペリシテ人のペンタポリスを指す。シリア人=ペリシテ人=フェニキア人である。
つまり、ペリシテ人は、イスラエル人に亡ぼされたのではなく、エジプト人という大国に亡ぼされたのである。
そして、この時代、シリア・パレスティナには、ユダヤ人はいなかった。
アプリエスの兵士始末陰謀
アプリエス王がキュレネに大軍を送りながら大敗を喫した時、エジプト人は王の失敗を咎めて氾濫を起したのである。
アプリエスは兵士たちを確実な死地に追いやることになると知りながら、故意に出兵したもので、それは彼らを破滅せしめて、自分は残余のエジプト人を一層安全に統治しようという意図であったというのである。
アマシスの反乱
これを知ったアプリエスは、アマシスを反徒に差し向け、説得によって反乱を思い止まらせようとした。
エジプト人の反徒が彼を王に推戴するや、ただちにアマシスはアプリエス攻撃の態勢を整えたのである。
エジプトにおける技術者蔑視
ギリシア人が果たしてこのような慣習をもエジプト人から学んだものかは、私にも明確な判断が下し難い。というのは私の見る限りトラキア人、スキュタイ人、ペルシア人、リュディア人はじめほとんどすべての異国人(非ギリシア人)が職業的技術を習得する者たちとその子孫を他の市民よりも下賤のものと見なし、このような手工業に携わらぬ者、中でも特に軍事に専従する者を尊貴なものとしているからである。
しかしいずれにせよギリシア人はみなこのような慣習に染まったわけで、殊にスパルタ人は最もはなはだしい。
技術的職業を軽んずることが最も少ないのはコリントス人である。
エジプト人のみならず、ギリシアも含めすべての民族が、手工業者を卑賤としている。例外はフェニキア人と、その子孫の風習を残すコリントス人。通商民族であるから。
サイス王朝はネイト(アテナ)信者
エジプト人は彼(アプリエス)を絞殺した後、彼の父祖以来の墓所に葬った。この墓所はアテナ神殿の境内にあり、境内に入ると左手の、社殿のすぐ傍にある。サイス人はサイス州出身の王はすべてこの神域内に葬ってきたものであり、アマシスの墓はアプリエスとその祖先の墓よりも社殿には遠いけれども、やはりこの社の境内にあり、・・・
テスモポリア
同様にギリシアではテスモポリアと称しているデメテルの入神密儀についても、不敬にわたらぬ程度のことだけを述べて、それ以上は触れぬことにしたい。
この密儀をエジプトから外国に伝え、ペラスゴイの女たちに授けたのは、ダナオスの娘たちであった。
しかしペロポンネソス全土の住民がドーリス人に逐われた後は、この儀式も亡び、ペロポンネソスの住民の内、踏み止まって退去しなかったアルカディア人だけが、わずかにこの秘儀を保存したのであった。
ナウクラテス
アマシスはギリシア贔屓の人で、なかんずくエジプトに渡来したギリシア人にはナウクラティスの町に居住することを許し、ここに居住することを望まぬ渡航者には、彼らが神々の祭壇や神域を設けるための土地を与えた。
ヘレニオン
それらの中で最も大きく、最も有名で、かつ参詣者の最も多い神域は、ヘレニオン(ギリシア神社)と呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が建立したものである。
イオニア系の町ではキオス、テオス、ポカイア、クラゾメナイの諸市、
ドーリス系ではロドス、クニドス、ハリカルナッソスおよびパセリス、
アイオリス系ではミュティレネが唯一の町であった。
独自の神殿を建てた都市国家
ただアイギナ人は独立にゼウスの神殿を建立し、
またサモス人はヘラの、
ミレトス人はアポロン神殿をそれぞれ建立した。
カノポス河口へ迂回
昔はナウクラティスがエジプト唯一の開港市で、他には一つもなかった。
それで、ナイルの他の河口に着くようなことがあると、故意にきたのではないことを誓言せなばならず、誓言した後船もろともカノボス河口へ廻らねばならなかった。
リンドスのアテナ神殿縁起
アマシスがサモスへ奉納品を送ったのは、アイアケスの子ポリュクラテスと自分との間の客遇関係によるものであったが、
リンドスへ奉納したのはそのような客遇関係によるのではなく、
リンドスのアテナ神殿が、アイギュプトスの息子たちを逃れてこの地に立ち寄ったダナオスの娘たちによって建立されたという伝承があったからにほかならない。
ダナオスの娘たちが、リンドスのアテナ神殿建立。ロドス島経由でギリシアへ上陸したと思われる。

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