著述 本56 ヘロドトス『歴史 上』著述 第三巻

ギリシア
  1. 第三巻 サモス編
  2. 一、カンビュセス、エジプト遠征
    1. カンビュセスのアマシス攻め
    2. アラビア経路(フェニキアーシリア・パレスティナーアラビア)
    3. アラビア人
    4. エジプト降伏
  3. 二、エティオピア(リビア)遠征
    1. 三つの遠征計画
    2. カルタゴ遠征断念
    3. エチオピア人の正体
      1. エレファンティネから来た通訳
      2. リビアのエチオピア人の特徴
        1. 長身で美貌
        2. 美しいものを王に選ぶ
        3. 強弓を易々引くエチオピア王
        4. フェニキア人の香油を塗る習慣
        5. 長命の秘訣
      3. エチオピア(リビア)遠征の失敗、たどり着けず
    4. アンモン人の正体
      1. サモス人のオアシスの先
  4. 三、カンビュセスの悪行
    1. アピス殺害
    2. 実弟スメルディス殺し
    3. プター(ヘパイストス)神殿でのプター冒涜
  5. 四、サモスの僭主ポリュクラテス
    1. ポリュクラテスとは?
      1. アマシスとの同盟
      2. アマシスの大切なものを捨てるアドバイス(のおとぎ話)
        1. テオドロス作のエメラルドの印章付き指輪
        2. 指輪がもどってくる
        3. アマシスの絶交
    2. ポリュクラテスVSクレタ島の反乱軍
    3. コリントスVSケルキュラ
      1. コリントスの僭主ペリアンドロスがサモス人と対立したわけ
      2. ケルキュラとコリントスの抗争の原因
    4. サモスの反乱者の放浪
      1. スパルタの撤退
      2. サモスの反乱軍、シノプスを占領
      3. クレタ島のキュドニアに仮住まい
        1. ヒュドレイア島を買って賃貸経営
        2. 自分たちはクレタ島のキュドニアに仮住まい
        3. サモス反乱軍の最期
    5. サモス人の建築技術
      1. エウパリノスの地下水路
      2. 海中の防波堤(ヴェネツィアの海中防波堤の先駆)
      3. ヘーラー神殿(ヘライオン)
  6. 五、マゴス僧の反乱
    1. マゴス僧の反乱
  7. 六、ダレイオス体制
    1. アラビア人以外を臣従させる
    2. サトラペイア(20の行政区)
    3. 20の徴収区の全容
      1. 第一徴収区(ギリシア系)
      2. 第二徴収区(リュディア系)
      3. 第三徴収区(プリュギア系、トラキア系)
      4. 第四徴収区(キリキア系)
      5. 第五徴収区(フェニキア系)
      6. 第六徴収区(エジプト系、リビア系)
      7. 第七徴収区(ガンダラ系)
      8. 第八徴収区(キッシア系・スサ)
      9. 第九徴収区(バビロニア系)
      10. 第十徴収区(メディア系)
      11. 第11-13徴収区(バクトリア・アルメニア系)
      12. 第14徴収区(イラン系)
      13. 第15徴収区(サカイ人=スキュタイ系)
      14. 第16徴収区(ソグド系)
      15. 第17徴収区(エチオピア系)
      16. 第20徴収区(インド系)
    4. ダレイオスの年収と貯蔵方法
  8. 七、ポリュクラテスの最期
    1. サルディス総督オロイテスの不正
    2. ヘロドトスのポリュクラテス讃美
    3. ポリュクラテスのマグネシア行き
        1. 占い師や娘の制止を振り切って
        2. 娘に愛されたポリュクラテス
    4. ポリュクラテスの横死
      1. 医師デモケデスの同行
      2. ヘロドトスの賛辞
  9. 八、医師デモケデス
    1. クロトン出身の医師デモケデス、オロイテスの奴隷に
    2. デモケデス、ダレイオスの治療へ
    3. 名医デモケデスのサモス渡来の経緯
      1. クロトン人・キュレネ人の医術とアルゴス人の音楽
    4. デモケデス、クロトンへの帰還陰謀
      1. アトッサの甘言
      2. デモケデス、ギリシア視察へ
      3. シドン経由で、ギリシア視察
      4. タラス王の好意で、デモケデス故郷クロトン帰郷
  10. 九、ダレイオスのサモス占領
    1. ダレイオスのギリシア人征服への皮切りとなったサモス占領
    2. ポリュクラテスの兄弟シュロソンとダレイオスの邂逅
    3. シュロソンの要請によりサモス征服へ
    4. マイアンドリオス、退去とスパルタに援軍要請
    5. サモス征服、シュロソンの僭主政へ
  11. 十、バビロンの反乱と鎮圧
    1. バビロン人の反乱

第三巻 サモス編

一、カンビュセス、エジプト遠征
二、エティオピア(リビア)遠征の失敗
三、カンビュセスの悪行
四、サモスの僭主ポリュクラテス
五、マゴス僧の反乱
六、ダレイオス体制
七、ポリュクラテスの最期
八、医師デモケデス
九、ダレイオスのサモス占領
十、バビロンの反乱と鎮圧

一、カンビュセス、エジプト遠征

カンビュセスのアマシス攻め

さてキュロスの子カンビュセスが、イオニアおよびアイオリスのギリシア人部隊を含めてその支配下の民を率い征討に向った相手は、ほかならぬこのアマシスであった。

アマシスの傭兵の中に、ハリカルナッソス生れで名をパネスという、才覚もあり武勇もすぐれた男がいた。この男がアマシスに何か含むところがあって、カンビュセスに面接したいという望みから、船でエジプトを脱出したのである。

アラビア経路(フェニキアーシリア・パレスティナーアラビア)

カンビュセスが・・・苦慮していたが、・・・
そこへパネスが現われて、アマシスに関するさまざまな情報を与えるとともに、遠征の行路についても説明し、アラビア王に使者を送って、通過の安全を確保してくれるように頼むがよいと教えた。

実際エジプトへ入る進路としては、この方面を通る道しか知られていないのである。

フェニキアからカデュティス(ガザ)の町の境に至るまでの地域は、パレスティナ・シリア人と呼ばれている民族に属する土地である。

ペルシアからエジプトへの経路は、まず従属的なフェニキア人の統治するフェニキアがあり、続いて「シリア・パレスティナ人」の統治する「シリア・パレスティナ」があり、その涯に、ガデュティス(ガザ)という大都市がある。

カデュティスは私の見るところでは、サルディスにさして劣らぬ大きさの町であるが、ここからイエニュソス(今日のエル・アリシュであろう)に至る間の沿海の集散地はアラビア王の領土であり、

エル・アリシュはシナイ半島の沿岸の中央付近。後にナバテア人の領域だから、ナバテア人と同系のセム語を話す人種だろう。ナバテア人もアラビア人の一分枝である。
フェニキア人、ペリシテ人、アラビア人は、みな同系と考えていいだろう。
ユダヤ人は影も形もない。

イエニュソスからセルボニス湖まで再びシリア領となり、この湖に沿ってカシオス山脈(今日のエル・カス)が延び海に達している。

再びシリア人の領域に入る。
つまり、フェニキア人、シリア・パレスティナ人(ペリシテ人)、アラビア人、シリア人と続く。

セルボニス湖にテュポンが潜んでいたという伝説があるが、この湖からはすでにエジプト領に入る。

境界はペルシオン(ペルシウム)であり、ナイル・デルタの東端である。
ここにセルボニス湖があったが、今は沼となっている。

エフェソスの町と、カシオス山脈およびセルボニス湖との中間の地域は狭小なものではなく、三日の行程を要するほどの区間であるが、極度に乾燥した砂漠地域である。

アラビア人

アラビア人ほど盟約を重んずる民族は世界でも例がない。

彼らが実存すると信じている神はディオニュソスとウラニアの二神だけで、彼らは髪の刈り方もディオニュソスに倣っているのだと称している。
アラビア人はこめかみの毛も剃り、髪を丸く刈っているのである。
彼らの言葉では、ディオニュソスはオロタルト、ウラニアはアリラトといっている。

当時のアラビア人は、二神教で、おかっぱ頭であった。

エジプト降伏

ナイル河の世にいうペルシオン河口には、アマシスの一子プサンメニトスが、カンビュセスを待ち構えて陣営を張っていた。
というのはカンビュセスがエジプトに軍を進めた時、アマシスはすでにこの世にはなく、四十四年間の統治ののち世を去っていたのである。

しかしエジプト軍はそれから包囲攻撃を受け、やがて降伏した。
エジプトと境を接するリビア人は、エジプトと同じ運命を蒙ることを恐れ、戦わずして降伏し、自発的に申し出て貢納の義務を負い、さらにさまざまな物品を贈った。

キュレネ人とバルカ人もリビア人と同じ危惧にかられ、同様な行動に出た。

ペルシオン河口で迎撃したアマシスの息子は、すぐ降伏し、リビアは戦わずして恭順の意を打診して自発的に貢納した。
キュレネ人、バルカ人などのリビアのギリシア人も同様に恭順した。

二、エティオピア(リビア)遠征

三つの遠征計画

エジプト攻略後、カンビュセスは三つの遠征を計画した。
目指す相手はカルタゴ人、アンモン人およびリビアの南の海に面する地域に住むエチオピアの「長命族マクロビオイ」である。

〔註〕エチオピア人と称される民族の分布はきわめて広く、
巻七、六九節以下にもリビアのエチオピア人とアジアのエチオピア人が区別されている。
「長命族」といわれるエチオピア人はリビアの南方、従って赤道附近に住んでいたものを指していると考えられる。

ヘロドトスはじめ当時のギリシア人は、方向音痴から地理観がおかしかった。
つまり、南に進んでいながら、西に来たと錯覚したのは、ニグロと遭遇した時の話であるが、今度は、南に進んでいるつもりで、実は西のリビア人を誤認したのだろう。
つまり、「リビアのエチオピア人」=アトラス山脈附近のリビア人(後のベルベル人)、「アジアのエチオピア人」=エチオピア人とみるべきであろう。
アンドロメダもリビア人を想定していたと思われる。

カンビュセスはスパイを派遣する決意を固めるとすぐに、エチオピア語を解するイクテュオパゴイ人をエレパンティネの町から呼び寄せることにした。

〔註〕イクテュオパゴイとは「魚を食う者」の意。魚を常食とするこの人種は、紅海沿岸に住んでいた。

カルタゴ遠征断念

カンビュセスは海軍に命じてカルタゴに向って発進させようとしたところ、フェニキア人はその命に従うことを拒んだ。
自分たちは堅い誓約によって拘束されており、自分たちには子供に当る町を攻めるのは神意にも悖る行為であるというのであった。
このようにしてカルタゴはペルシアへ隷属することを免れたのであった。

フェニキア人は自発的にペルシアに臣従してきた民族であり、かつペルシアの全海軍はフェニキア人に依存していたこともあって、カンビュセスも彼らに強権を用いるのはよろしくないと考えたからである。
なおキュプロス人もペルシアに忠誠を誓ってエジプト遠征に加わっていたのであった。

フェニキア系のキュプロス人、リビア人、キュレネ人、バルカ人などは、被害を受ける前に自発的に臣従の傾向。
フェニキア人は、別の国家でも先祖がフェニキア人ならば、同国人のような感覚を持っており、世界中にエンポリオンを建設した通商民族だったればこそ、この世界友愛思想をつちかえたのだ。

カルタゴ人は、テュロスのフェニキア人も、テーバイのフェニキア人も、ラケダイモンのフェニキア人も、キュレネ人もバルカ人も、エトルリア人も同胞という感覚であったのだろう。

エチオピア人の正体

エレファンティネから来た通訳

イクテュオパゴイ人がエレパンティネから到着すると、カンビュセスはエチオピアで述べる口上を彼らに言い含め、紫の衣裳、黄金の頸飾りや腕輪、雪花石膏アラバストロンの香油壺、椰子酒一甕などの贈り物をもたせて、エチオピアへ遣わした。

ここで挙げられた最高の贅沢品は、すべてペルシアが 準傘下に置いているフェニキア人の製品である。
エレファンティネ人が、くだんの「リビアのエチオピア人」の言葉を話したというだけで、リビアのエチオピア人は、あきらかにアジアのエチオピア人よりはるか西方に居住していたと想定される。

リビアのエチオピア人の特徴

長身で美貌

カンビュセスが使節を送った当のエチオピア人というのは、
世界中で最も背も高くかつ美しい人種であるといわれている。

ヘロドトスが西の果てでアフリカ大陸とヨーロッパがつながっていると考えていたことを考慮すれば、これはケルト人が混血したアトラス付近のリビア人であったと推測される。
これから「エチオピア人」=美人説や金髪白皙の美女のエジプト女王やアンドロメダ説も影響された可能性大。またサモス人植民説の語るように、プロト・カルタゴ人=フェニキア人の子孫の可能性もある。

美しいものを王に選ぶ

その風習は多くの他の民族と異なっているが、ことに王制に関して次のような慣習がある。全国民の中で最も背が高く、かつその背丈に応じた膂力をもつと判定される者を、王位に即く資格があるとするのである。

膂力の膂は「りょ」と読み、部首は「にくづき」の意、肉体の力という意味か。松平先生、独特の漢字使いがある。
王が選挙でえらばれることからも、ケルト系の混血が想定される。

強弓を易々引くエチオピア王

「そこでこの弓をあの男に手渡し、次のようにいってやれ。
エチオピア王はペルシア王に忠告する、ペルシア人がこれほどの大弓を、このように易々と引けるようになったら、その時こそわれらに優る大軍を率いてこのエチオピア長命族を攻めるがよい。」
エチオピア王はこういうと弓をゆるめ、これを来訪者たちにわたした。

王は強い弓を易々引く筋力を持ち、長命族は、「からだの強さ」をもっていた。長身で体格がよく美しいというのはフェニキア人やカルタゴ人の特徴である。
おそらくリビア方面に植民したカルタゴ人には、ケルト民族の混血があったのではないかと想定される。

フェニキア人の香油を塗る習慣

三番目に王は香油について質問をしたが、使者がその製法やそれを体に塗りつけることなどを話すと、王は衣裳についていったのと同じ言葉を繰り返した。

まず、エチオピア王は、カンビュセス自身が愛用していると伝えた「紫衣」「黄金の装飾品」について文句をいった。

アラバストロン容器詰めの香油は、ハンニバルが兵士たちに提供していたものであるし、マグダラのマリアも香油を塗る習慣のあるフェニキア人だった可能性が大である。
つまり、「紫衣」「黄金(宝石)」「香油」はフェニキア人のぜいたく品の主要なものである。
それを、一般人も楽しんでいた。

長命の秘訣

今度はイクテュオパゴイ人が王に向って、エチオピア人の寿命や食事について質問すると、エチオピア人の多くはその寿命が百二十歳に達し、これを越えるものもあること、肉を煮て常食とし、飲料は乳であると王は答えた。

肉食・乳飲による高タンパクの食事と、グルテンフリー。

スパイたちが寿命の話に驚いていると、王は一同をある泉に案内したが、この泉で水浴すると、さながら油の泉につかったように、肌が艶やかになった。

ヘラの処女帰りの泉ナウプリアの泉を思わせる温泉の効用。

最後に彼らが見たのはエチオピア人の棺で、これはヒュラロスという透明な石材を用いて、次のようにして製造されるという。
それから中をえぐったヒュアロス製の柱の中へ遺体をおさめる(ヒュアロスは細工し易い石材でこの国では多量に採掘される)。
遺体は石柱の中に収まっていても透きとおって見え、何らの悪臭も放たず、その他不快な種となるようなことを示すことも決してない。

〔註〕ヒュアロスを水晶、ガラス、雪花石膏等々と解する説もあるが、結局のところ実体はよく判らない。しかし採掘されるとあるからには加工したものではなく、天然石の一種であるに相違ない。

エチオピア(リビア)遠征の失敗、たどり着けず

以上の視察を終えて、スパイたちは引き返していった。彼らから以上の報告をきいたカンビュセスは、大いに怒ってただちにエチオピアに向って兵を進めたのであるが、あらかじめ糧食の準備を命令することもせず、また自分が地の果てに兵を進めようとしていることを考えてもみなかった。
しかし五分の一も踏破せぬうちに、携帯の食料はことごとく尽き、・・・
全軍が同朋相食む惨状に陥ることを恐れ、エチオピア遠征を中止して退却したが、・・・

これを見ても、「エチオピア」がリビアの西果てであることは十分あり得る。なじみのメロエとかでないことは確かだ。

アンモン人の正体

サモス人のオアシスの先

一方アンモン人攻撃に向った分遺隊はテバイを発し、道案内人を伴って進み、オアシスの町に到着したことは確実に判っている。
オアシスの町はアイスクリオン氏の一族と称されるサモス人の占拠している町で、テバイから砂漠を越えて七日間を要する距離にあり、ギリシア語では
浄福の島マカロン・ネソイ」と呼ばれている土地である。

「浄福の島」はガデスとも推定される場所なので、サモス人の植民地と相まってフェニキア人植民都市であることは確かだろう。
やはり地理観がおかしい。アンモン人のシワ・オアシスは、エジプトとリビアの国境にあり、そう遠くない。
サモス人のオアシスがイベリア半島近くならば、地理観がめちゃくちゃである。

〔註〕普通名詞であるオアシスを地名と介したのであるが、このオアシスは今日エル・カルゲーと称されるオアシスのことらしい。

〔註〕サモス人がどうしてこのオアシスに根拠地をもっていたか、詳しいことは判らない。
アイスクリオンという氏族についても詳細は不明。サモスでは他に二氏族の名が伝わっている。

サモスでもフェニキア系の一族であろう。

さて遠征軍がこの土地に達したことは伝えられているが、それ以後どうなったかについては、アンモン人自身および彼らから情報を得た者たち以外は、これを知るがない。
当のアンモン人の伝えるところはこうである。
遠征軍はオアシスの町から砂漠地帯をアンモンに向い、アンモンとオアシスのほぼ中間のあたりに達した時、その食事中に突然猛烈な南風が吹きつけ、砂漠の砂を運んでペルシア軍を生き埋めにしてしまい、遠征軍はこのようにして姿を消したのだという。

アンモン人はヘロドトスも周知の民族だったようだが、イスラエルの旧敵のアンモン人と同じではないか。フェニキア人の一分枝と考えられる。
オアシスの先にアンモンがあると言うことは、サモス系フェニキア人の同族都市であっただろう。
バアル・アンモン?=バアル・ハモン、モレク=メレク=王、を主神と仰ぐフェニキア系と大きく括って理解すると意味が通じる。

三、カンビュセスの悪行

アピス殺害

カンビュセスがメンピスに即いた頃、エチオピアに聖牛アピスが出現した。
ギリシア人がエパポスと呼んでいるものである。
アピスが出現すると、エチオピア人は早速一張羅の衣裳をつけて祝宴を催した。

〔註〕エチオピア語ではハピ、エチオピア人はこの牛の中に神プターまたはオシリスの顕現を見たのである。

〔註〕ギリシア神話では、ゼウスにあされたイオはヘラの嫉妬によって牝牛の姿となり諸国を流浪した後、エチオピアに至りエパポスを生んだという。
ダナオス、アイギュプトスの兄弟はその子孫である。

カンビュセスは、果たして彼らのいうとおり人間の手に飼い慣らされるような神がエチオピアに出現したかどうかを、自分が確かめてやろうといって、そういうなり祭司たちにアピスを曳いてこいと命じた。

アピスと呼ばれるこの仔牛は、次のような特徴を備えている。
それは黒牛であるが、眉間に四角の白い斑点があり、背には鷲の形をした模様が浮き出て、尾は毛が二重に生え、舌の裏に甲虫のような形をしたものがついている。

祭司たちがアピスを曳いてくると、半ば狂乱しているカンビュセスは、短剣の鞘を払うとアピスの腹を狙ったが、誤って股を切った。
股を切られたアピスは神殿の中で気息奄々として横たわっていたのである。やがてアピスはその傷がもとで死んだが、祭司たちはカンビュセスの目を盗んでこれを葬ったのであった。

実弟スメルディス殺し

彼の犯した悪業の第一は、父母を同じくする実弟のスメルディスを亡きものにしたことで、
その理由は先にイクテュオパゴイ人がエチオピア王の許から持ち帰った弓を、ペルシア人ではこのスメルディスだけがおよそ二ダクテュロスの幅だけ曳くことができたから、他のペルシア人は誰一人その真似ができなかったのである。

プター(ヘパイストス)神殿でのプター冒涜

同様にまたヘパイストスの神殿に入り、その神像をさんざんに嘲笑したりもした。それはヘパイストスの像が、フェニキア人が乗り廻している三段橈船の船首に附けてある「パタイコイ」というフェニキアの神の姿によく似ていたからであるが、
「パタイコイ」を見たことのない人のために一言附け加えれば、それは小人の姿の像なのである。

〔註〕侏儒の姿に現わされたフェニキアの神で、船の守護神として、護符のごとく船首または船尾にその像をとりつけたのである。
ギリシア風にヘパイストスといわれるプター(プタハ)と語原的に結びつける説もある。

〔註〕プターの像が小人の姿であるというのは、・・・これはヘロドトスの誤謬で、プターの子クヌムと混同したとする人が多い。クヌムは福助のような姿をしたものとされていた。

プター=ヘパイストスは、フェニキア人のパンテオンの重要な神。ヘラが単性で作った冶金の神であるから。クヌムは陶工の神でプターの子であり、その起源は、ナイル増水の豊饒の神・羊頭で高い繁殖力も現わす。

四、サモスの僭主ポリュクラテス

ポリュクラテスとは?

カンビュセスがエチオピア遠征を試みている頃、スパルタはサモス攻略の兵を起し、アイアケスの子で、革命を起してサモスの政権を握ったポリュクラテスを攻撃した。

〔註〕ポリュビオスは富裕な地主階級の出身であった。彼がクーデターによってくつがえした政権がどのようなものであったかはよく判らない。
その年代も五二二年の死以外は詳らかでない。

アマシスとの同盟

サモス全島を制した後、エチオピア王アマシスと友好関係を結び、互いに贈物を交換した。

このポリュクラテスのアマシスとの友好関係が、ギリシアに自然哲学が発生する土台をつくったのだろう。

アマシスの大切なものを捨てるアドバイス(のおとぎ話)

ポリュクラテスの盛運はアマシスの注意を惹かずにはおかなかったに相違なく、それがアマシスの心を不安にした。
運と不運をかわるがわる味わいつつ一生を終るのが望ましいように思います。
貴殿にとって何よりも貴重で、それを失えば最も心痛むものは何かをよく思案なされて、思いつかれた品を決して再び人間の目にふれることのないようにお捨てなさい。

テオドロス作のエメラルドの印章付き指輪

この手紙を読んだポリュクラテスは、アマシスの助言をもっともと考え、財宝の中でそれを失ったなら一番残念に思うのは何であろうかと探しもとめた末、とうとうそれを発見した。
それは彼が日常指にはめていた印章附きの指輪であったが、黄金の台をつけたエメラルド製のもとで、サモスの名工、テレクレスの子テオドロスの作であった。

〔註〕巻一、五一節にも言及される名細工師であった。

サモスのテオドロスとは、有名な彫刻のマイスターであった。
フェニキア人は、すぐれた彫金工を多数もっていたのだろう。

指輪がもどってくる

ところがそれかた五日目に、はからずも次のようなことが起ったのである。一漁師が見事な大魚を捕え、これをポリュクラテスに献上するのがよかろうと考えた。・・・
一方召使たちが魚を開いてみると、その腹中に例の印章附きの指輪が入っていた。
ポリュクラテスはこのような出来事は神意によるものに相違ないと考えたので、自らのしたことから始めて自分の身に起った事柄を一切書面に認めてエチオピアへ持たせてやった。

アマシスの絶交

アマシスは、・・・ポリュクラテスが・・・仕合わせにその終わりを全うすることはあるまいと悟った。そこで彼はサモスに使者を送って、友好関係を破棄することを通告したが、・・・

ポリュクラテスVSクレタ島の反乱軍

スパルタ人が攻撃を加えたのは、ほかならぬこの何事にも幸運に恵まれていたポリュクラテスであった。
スパルタがこの挙に出たのは、右のことがあって後、クレタ島のキュドニアに植民したサモス人たちの要請によるものであった。

ポリュクラテスは、・・・カンビュセスの許に使者を送り、サモスの自分の所へも使者をよこして、兵員調達の依頼をしてほしいと要請したのである。これを聞いたカンビュセスは大いに乗気になって、・・・
ポリュクラテスは市民の内で、反乱を企てる嫌疑の最も濃厚な者たちを選び、四十隻の三段橈船に載せて派遣し、カンビュセスには彼らを再び帰国せぬように依頼しておいた。

ポリュクラテスの派遣したサモス軍は、・・・談合の結果それ以上進まぬことに決したという。
彼らがサモスに帰港してきたところを、ポリュクラテスは艦船を出して迎え撃った。・・・彼らも島内での陸上戦闘には敗れ、かくして海路スパルタに走ったのであった。

ポリュクラテスは、自分の配下のサモス市民の妻子を、船のドックに閉じ込め、万一市民たちが帰国部隊に寝返るような場合には、女子供をドックもろとも焼き殺す手筈を整えておいたのであった。

スパルタは傍観者的立場。
ポリュクラテスの出自は不明だが、フェニキア系というよりアイオリス系であろう。
敵対するサモス人たちもアイオリス系らしく、アルテミス信者である。
サモスの住民は、職人や学術関係者はフェニキア系。
実務関係者はアイオリス系か。

コリントスVSケルキュラ

コリントスの僭主ペリアンドロスがサモス人と対立したわけ

スパルタのサモス遠征の実現には、コリントス人も非常な熱意をもって協力したのであった。

事の起りはキュプセロスの子ペリアンドロスが、ケルキュラの上流の家庭の男児三百人を、宦官にするためにサルディスのアリュアッテスの許へ送ったことであった。
子供たちを携行したコリントス人の一行がサモスに着いた時、子供たちがサルディスへ送られる事情を聞き知ったサモス人たちは、アルテミスの神域に難を避けるように子供たちに教えた。・・・・
子供たちはサモス人によってケルキュラへ送り届けられた。

コリントスの名門バッキアダイを押えて、僭主になったラピュタイ族との混血キュプセロスの息子であったペリアンドロスは、ケルキュラの上流の子弟をペルシアに売り渡そうとした。
ケリュキュラの上流階級はフェニキア系だったので、サモス人は、彼らを救った。

ケルキュラとコリントスの抗争の原因

しかしケルキュラに植民地が創建されてこの方、両国は同族でありながら、絶えず抗争を続けてきたのである。

ペリアンドロスが妻のメリッサを死に至らしめた後、・・・
ある時この二児を彼らには母方の祖父に当る、当時エピダウロスの独裁者であったプロクレスが自分の許へ呼び寄せ、娘の生んだ子供であれば当然のことながら、厚くもてなした。
プロクレスは「母親を殺したのは誰か、お前たちは知っているのかね。」
兄の方は一向気にかけなかったが、リュコプロンという名の年下の子供はこれを聞いて傷心のあまり・・・父親に物を言わず、受け答えもせず、ペリアンドロスは癇癪を起し、彼を家から追い出してしまったのである。

ところがケルキュラ人は事の一部始終を知り、ペリアンドロスが自国に来るのを妨げるために、この青年を殺害したのである。
このようなことがあったればこそ、ペリアンドロスはケルキュラ人に報復せんとしたのであった。

ケルキュラ人は、ペリアンドロスのコリントスの力を恐れて、息子を殺害した。
怒ったペリアンドロスは、宦官事件を引き起こした。

サモスの反乱者の放浪

スパルタの撤退

スパルタ軍はサモスを攻囲すること四十日に及んだが、戦局が一向に進展せぬので、ペロポンネソスへ引き上げていった。

サモスの反乱軍、シノプスを占領

ポリュクラテスに戦いをしかけたサモス人たちは、スパルタ軍が彼らを見捨てて引き上げようとすると、彼らもまた兵をおさめ、海路シプノス島に向った。これは彼らの軍資金が欠乏していたためであるが、当時シプノス人はその繁栄の頂上にあったのである。

これは島内に金銀の鉱山を擁していたためで、彼らは数ある諸島中最大の富強を誇り、その富の強大であったことは鉱山の収入の十分の一を費してデルポイに宝蔵を献納したほどで、この宝蔵は最も豪華を誇る他の宝蔵に比しても遜色がない。
そして彼らは年々の収入を自分たちの間で分配したのである。

サモス人の一行はシプノスに近付くと、船団の内から一隻を出し、使節を町へ送らせた。ところで昔は船はすべて朱塗りであった。従ってデルポイの巫女が、木造の伏勢と紅の使者を警戒せよとシプノス人に指示したのは、この時のことをいったものにほかならなかったのである。

シプノス人が貸与を拒むと、サモス人はシプノスの田畑を荒した。これを知ったシプノス人はすぐに防衛にかけつけ、サモス人と交戦したが敗れ、多数のものが、サモス人によって、市中から締め出されてしまった。
そして結局シプノス人はサモス人に百タラントンを支払うことになったのである。

クレタ島のキュドニアに仮住まい

ヒュドレイア島を買って賃貸経営

サモス人は金を払ってヘルミオネ人から島を一つ手に入れた。
ペロポンネソス附近に浮かぶヒュドレアという島で、
彼らはこの島をトロイゼン人の管理に委ねておいた。

〔註〕ヘルミオネ:アルゴス半島の突端の町。
〔註〕ヒュドレア島:ヘルミオネ半島の突端に横たわる細長い島。
〔註〕トロイゼン:アルゴス半島の北岸にある古い町。

資金源としてアパート経営を考えたサモスの反乱軍は、
アルゴス地方のドーリア人国家ヘルミオネ、アルゴリス半島の南端の都市、からその沖合に平行して横たわる細長い島ヒュドレイア島を買い取り、トロイゼン人にまた貸しした。
トロイゼンは、アルゴリス半島の東南の沿岸から少し入ったところに位置し、テセウスの生誕地である。

自分たちはクレタ島のキュドニアに仮住まい

自分たちはキュドニアに住みついたが、もともとこれが目的で来航したわけではなく、実はザキュントス人を島から駆逐するのがその本意なのであった。

〔註〕キュドニア:クレタ西部のほとんど唯一の重要な町。
〔註〕ザキュントスはペロポンネソスの西側にある島。

ザキュントス島からザキュントス人を追い払ってそちらへ移りたかった。
サモス島のようなサイズ感の島がほしかった。

サモス反乱軍の最期

しかし六年目になって、アイギナ人がクレタ島民の協力の下にサモス人を海戦に破って隷属せしめ、サモスの艦船から猪の標識のついた船首を切りとり、アイギナにあるアテナの神殿にこれを奉納した。

サモス反乱軍はアルテミス信者であったようだ。
キュドニア滞在中にアルテミス神殿を建設している。
つまり、ポリュクラテスに反乱したのはアイオリス系であったということだ。

サモス人の建築技術

それはギリシア全土に比を見ない大事業を三つも完成したのがサモス人であったからである。

エウパリノスの地下水路

その第一は高さ百五十オルギュイアもある高い山に穿ったトンネルで、
このトンネルの全長にわたってさらに、深さ二十ペキュス幅三フィートの水路が開鑿されており、この水路を伝って水が巨大な水源から水管を通して町へ導かれている。

これはポリュクラテスの偉業の一つ。「エウパリノスの地下導水路」と呼ばれる建造物。

海中の防波堤(ヴェネツィアの海中防波堤の先駆)

その第二は港をめぐって海中に築かれた防波堤で、深さは実に二十オルギュイア、その全長はニスタディオンを越えるのである。

ヴェネツィアの海中工事の先駆をなす。

ヘーラー神殿(ヘライオン)

サモス人の完成した第三の大事業というのは、われわれの知る限りでは世界最大の神殿で、最初にこの建造に当ったのはピレスの子ロイコスという土着人の技師であった。

これらの三大建築を建造したのは、フェニキア系の建築家集団である。

五、マゴス僧の反乱

マゴス僧の反乱

キュロスの子カンビュセスがエジプトで手間どり、その上精神に異常を来している間に、マゴス僧の階級に属する二人の兄弟が彼に反旗を翻した。

〔註〕これから語られる反乱事件は「ガウマタの乱」として知られるもの。ベヒストゥン碑文にはカンビュセスに暗殺された王弟の名はバルディヤ、反乱を企てたマゴス僧の名はガウマタと記される。

例のマゴス僧は、・・・君臨すること七ヶ月に及んだが、・・・
かれはこの間人民の誰彼となく大いに仁慈を施したので、彼が歿するとペルシア人以外はアジアの住民ことごとくがその死を惜しんだほどであった。というのは、このマゴスは支配下の各民族に使者を送り、三年間兵役と納税を免除する旨の布告を触れさせたからであった。

マゴスらを討ち取りその首を刎ねた一同は、・・・それとともに行き会うマゴス僧は一人残らず殺していった。
かりにもし夜の訪れが、その殺戮を止めなかったならば、彼らは一人のマゴスさえ殺し残すことはなかったであろう。

マゴス僧は、バビロニア人(カルデア人)であるのだ。
被征服者の知識層マゴス僧は、ペルシア人にもメディア人にも内心不服従であった。

六、ダレイオス体制

アラビア人以外を臣従させる

かくてヒュスタスペスの子ダレイオスは王に任ぜられ、アジアの諸民族、先にはキュロス、後にはカンビュセスによる平定があって、アラビア人を除いてはことごとくダレイオスに臣従した。
アラビア人はかつてペルシアに隷従したことがなくカンビュセスのエジプト遠征の際にはその通過の便宜をはかり、ペルシアの友邦となっていたのである。

サトラペイア(20の行政区)

ダレイオスはペルシア本国において以上のことをした後、ペルシア人のいわゆるサトラペイアなる、二十の行政区を制定した。

行政区と年々の租税徴収に関する配分は以下に述べるとおりであるが、なお銀で納入するものは重量単位としてバビロニア・タラントンを用い、金で納めるものはエウボイア・タラントンをもちうべきことが規定されていた。

20の徴収区の全容

第一徴収区(ギリシア系)

イオニア人、アジアのマグネシア人、カリア人、リュキア人、ミュリアス人およびパンピュリア人の諸民族からは、・・・銀四百タラントンが納められた。
これがダレイオスの制定した第一徴収区ノモスである。

第二徴収区(リュディア系)

ミュシア人、リュディア人、ラソニオイ人、カバリオイ人、ヒュテンネエス人からは五百タラントンで、これが第二徴収区である。

第三徴収区(プリュギア系、トラキア系)

プリュギア人、アジア在住のトラキア人、パプラゴニア人およびシリア人からの租税額は三百六十タラントンで、これが第三徴収区である。

第四徴収区(キリキア系)

キリキア人からは、・・・これが第四徴収区である。

第五徴収区(フェニキア系)

この区にはフェニキア全土といわゆるパレスティナ・シリアおよびキュプロスの島が含まれる。これが第五納税区である。

第六徴収区(エジプト系、リビア系)

エジプト、これに接するリビア、さらにエジプト区に編入されていたキュレネ、バルカ(バルケ)からは、七百タラントンの収入があったが、・・・これが第六徴収区である。

第七徴収区(ガンダラ系)

サッタギュダイ人、ガンダラ人、・・・・・これが第七徴収区である。

ヒンズークシュ山系の住民。ペルシア帝国は、アレクサンドロスの遠征前にインドをほぼ制圧していた。

第八徴収区(キッシア系・スサ)

スサおよびその他のキッシア地区からは三百タラントンで、これが第八徴収区である。

第九徴収区(バビロニア系)

バビロンはじめその他のアッシリア地区からは、銀一千タラントンと五百人の去勢された男児が納められた。これが第九徴収区である。

第十徴収区(メディア系)

アグバタナ(エクバタナ)はじめその他のメディア地方、・・・
これが第十徴収区。

第11-13徴収区(バクトリア・アルメニア系)

カスピオイ人、・・・・これが第十一徴収区である。

バクトリア人・・・これが第十二徴収区である。

アルメニア人、・・・これが第十三徴収区である。

第14徴収区(イラン系)

サガルティオイ人、サランガイ人、・・・「紅海」上の諸島嶼の住民たち、・・・・第十四徴収区である。

イラン高原西部の住民、ペルシャ湾岸の諸島の住民。

第15徴収区(サカイ人=スキュタイ系)

サカイ人およびカスピオイ人は、・・・これが第十五徴収区である。

サカイ人はスキュタイ人の一分枝。おしゃかさんもこの部族。

第16徴収区(ソグド系)

パルティア人、ソグド人、・・・これが第十六徴収区である。

第17徴収区(エチオピア系)

エティオピア人は、・・・これが第十七徴収区である。

第20徴収区(インド系)

インド人はわれわれの知る限り世界中で飛び抜けて最大の民族で、他のすべての納税額の合計にも匹敵するほどの、砂金三百六十タラントンを納入する。

すでに、ペルシア帝国が、インドから貢納を取っていたので、アレクサンドロスがインド遠征したのは欲からであった。
インドの仏教もペルシア帝国の時代より前、おそらく新バビロニアの時代からすでに、フェニキア人によってギリシアにもたらされていた可能性が高い。仏教哲学との邂逅がタレスを生んだのかもしれない。

ダレイオスの年収と貯蔵方法

バビロニア・タラントンで納入された銀を、エウボイア・タラントンに換算すれば、九千五百四十タラントンとなり、金を銀の十三倍として換算すれば、砂金の額は四千六百八十エウボイア・タラントンとなる。
これらをすべて合計すれば、毎年ダレイオスの許に納められる税総額は、エウボイア・タラントンに換算して一万四千五百六十タラントンであった。

これらの租税を王は次のようにして貯蔵した。
納められた金銀を溶解してこれを土製の甕に流し込み、甕いっぱいになると甕をこわしてとり除くのである。
そして貨幣が入用になれば、その都度必要なだけの量を鋳造させたのであった。

ダレイオスは、商売人のようである。

七、ポリュクラテスの最期

サルディス総督オロイテスの不正

サルディスの総督に任ぜられていたオロイテスなるペルシア人があったが、この男が神も許さぬような野望を起したのである。
すなわちサモスのポリュクラテスを捕えて殺そうという気をおこしたのあったが、オロイテスはそれまでポリュクラテスから何の害を蒙ったこともなく、また暴言を吐かれたわけでもなく、実は会ったことすらなかったのであり、多くのものの伝えるところでは、その動機は次のようなものであった。

ヘロドトスのポリュクラテス讃美

われわれの知る限りではポリュクラテスが、海上制覇を企てた最初のギリシア人であったからである。
いわゆる人間の世代に入ってからでは、イオニアおよび諸島嶼を支配せんものと、満々たる野望を抱いていたポリュクラテスをもってその嚆矢とするのである。

ポリュクラテスのマグネシア行き

このマイアンドリオスというのは、その後間もなく、ポリュクラテスの男部屋にあった見事な装飾品一切を、ヘラの神殿に奉納した人物である。

オロイテスに使者に立てられたのが、このマイアンドリオス。
彼がもどって報告し、オロイテスの罠とも知らず、ポリュクラテスは出かけてゆく。

占い師や娘の制止を振り切って

ポリュクラテスは占師や身辺の者たちが切に諌止したにもかかわらず、自ら現地に赴く用意を整えていたのであったが、さらに彼の娘がこんな夢を見たのである。
娘の見た夢というのは、父親が空中に吊るされ、ゼウスによって体を洗われ、陽の神によって油を塗られるというのであった。

娘に愛されたポリュクラテス

この夢を見た娘は、あらゆる手段を尽してポリュクラテスがオロイテスの許へ旅立つのを思い止まらせようとしたが、ことにいよいよ父が五十橈船に乗り移ろうとする時、不吉な言葉を繰り返していった。父は娘に、もし自分が無事に帰国した暁には、いつまでも嫁にやらぬぞと威したが、娘は父の言葉どおりになってほしい、父を失うよりはいつまでも嫁にゆけぬ方が嬉しいと答えた。

ポリュクラテスの横死

医師デモケデスの同行

この間同行していった多くの友人の中には、クロトンの人でカリポンの子デモケデスも混じっていた。彼は医師で医療の技術にかけては当代彼に並ぶ者がなかった。

ヘロドトスの賛辞

マグネシアへ着いたポリュクラテスは横死を遂げることになるが、それは彼の人物にもその高邁な志にもふさわしからぬ無残な最期であった。
シュラクサイの独裁者たちを除いては、他のギリシアの独裁者中、その気宇の壮大なる点においてポリュクラテスに比肩しうるものは一人だにないのである。

イオニアのハリカルナッソス生まれのヘロドトスは、おそらくカリア人との混血で、イオニアやシケリアなど、ギリシア人の植民地を含めて大きな「ギリシア」の一員との認識があるようで、大きなギリシア人として、ポリュクラテスは、ギリシア人を偉容を示した人として讃美しているのだろう。

八、医師デモケデス

クロトン出身の医師デモケデス、オロイテスの奴隷に

ー死骸をさらに磔柱にかけさせた。
彼に随行したものの内サモス国籍のものには、放免に対する自分への恩義をいつまでも忘れるなといいきかした上これを釈放し、サモス人以外のものと奴隷とは捕虜と見做して止めおいた。

名医デモケデスは、サモス人ではなく、クロトン人だったので、留め置かれた。クロトンは、ピュタゴラスのようにサモス人が多く移住しており、ヘラ・ラキニア神殿を建設したように、ヘーラー信者のフェニキア系も多かったのだろう。
この名医デモケデスもフェニキア系であったことが濃厚である。

デモケデス、ダレイオスの治療へ

デモケデスがオロイテスの奴隷の中に混じって、どこであったかその場所は明らかでないが、目もかけられず放置されているのを見つけて、足枷を引きずり、襤褸をまとったままの姿で、王の面前に連れてきた。

オロイテスの奴隷として、おそらくオロイテスの医師になっていた彼が、ダレイオスがオロイテスを成敗した折、オロイテスの他の奴隷とともに牢へ投げ込まれていたのであろう。

名医デモケデスのサモス渡来の経緯

このデモケデスがクロトンから渡来してポリュクラテスの知遇を得るに至った次第は次のとおりである。
彼はクロトンで気難しい父と折り合わず気ままに暮らしていたが、とうとうこの父親に我慢がならず、父の許を離れてアイギナへ去った。
アイギナに住みついてから彼はすでに第一年目に、医療に必要な器具もなく無一文の身でありながら、他の医師を凌いだ。
二年目にはアイギナ人が国費から給与一タラントンを払って彼を雇い、
三年目にはアテナイ人が百ムナで、
四年目にはポリュクラテスが二タラントンで彼を迎えたのである。

クロトン人・キュレネ人の医術とアルゴス人の音楽

クロトン人が医師としての名声を馳せるに至ったについては、この人に負うところが最も多い。このことがあったのはあたかも、ギリシア中で医師としてはクロトン人が第一、キュレネ人が第二と称された頃に当るのである。
音楽にかけてはアルゴス人がギリシア第一と謳われたのも、同じ頃のことであった。

クロトン人とキュレネ人はともにフェニキア系である。
アルゴス人も、テーバイ帝室の都が長らく置かれ、フェニキア系の音楽教師が多かったのだろう。

デモケデス、クロトンへの帰還陰謀

アトッサの甘言

デモケデスはアトッサを治療して腫物を治したのであったが、そこでデモケデスからいい含められたアトッサは、臥所の中でダレイオスに次のように話を切り出した。
「ギリシアを征伐してくださいませ。私は話聞いてどうしてもスパルタの女を私の侍女にいたしたく存じます。」

デモケデス、ギリシア視察へ

夜が明けるとすぐに、ダレイオスはペルシアで名立たる十五人のものを呼び、デモケデスの案内でギリシアの沿岸地方一帯を廻ることと、デモケデスが彼らから逃亡せぬよう警戒し、必ずペルシアへ連れ帰ることとを命じた。

シドン経由で、ギリシア視察

一行はフェニキアのシドンの町まで下ってくるとすぐ、二隻の三段橈船と数々の見事な品物を満載した貨物船を仕立てた。
用意万端を整えてギリシアに向けて出帆したが、ギリシアへ着くとその沿岸地方を視察して報告書を纏め、ギリシアのあまたの名ある地域の偵察を終えると、イタリアのタラス(タレントゥム)へ行った。

当時、シドンがペルシアにとって、ギリシアの玄関口であった証拠。
またタラスは、ギリシア側の玄関口であった。

タラス王の好意で、デモケデス故郷クロトン帰郷

このときタラスの王アリストピリデスが、デモケデスに対する好意からペルシア人の船から舵を取り外させ、当のペルシア人たちは間者であるというので監禁した。
そしてペルシア人がこのような目に遭っている間に、デモケデスはクロトンに着くことができたのである。
彼がすでに帰り着いた頃を見計らい、アリストピリデスはペルシア人を釈放し、船から取り外した舵も返したやった。

九、ダレイオスのサモス占領

ダレイオスのギリシア人征服への皮切りとなったサモス占領

その後ダレイオスはサモスを占領したが、ギリシア、非ギリシアの別なく、これがダレイオスの占領した最初の町であった。
サモス攻略の原因は次のようなものであった。

ポリュクラテスの兄弟シュロソンとダレイオスの邂逅

キュロスの子カンビュセスがエジプトを攻めた頃のこと、ギリシア人も多数エジプトへいっていたが、・・・アイアケスの子ポリュクラテスには兄弟に当り、サモスを追われていたシュロソンはその見物組の一人であったのである。

シュロソンが燃えるような緋色の外套をまとってメンピスの広場にいたところ、当時カンビュセスの親衛隊にあってまだ大して名も成していなかったダレイオスがその姿を見てその外套がどうにも欲しくなり、彼に近付いて買い取ろうとした。
「無料で差し上げよう」
ダレイオスが王位に即くに及んで、シュロソンはペルシアの王となった人物が、かつて自分がエジプトで乞われるままに外套を与えた男にほかならぬことを知ったのである。

シュロソンの要請によりサモス征服へ

「王よ、どうか祖国サモスを私の手にとり戻して頂きたい。
サモスは兄ポリュクラテスがオロイテスの手にかかって世を去った今、われらが召使っておりました奴隷めがその手中に握っておりますが、どうかこのサモスを流血の惨事も起さず、市民を奴隷にするようなこともなく、私にお与え下さい。」

マイアンドリオス、退去とスパルタに援軍要請

さてペルシア軍がシュロソンの復帰を目指してサモスに到着すると、これに刃向う者は一人もなく、マイアンドリオス自身もその一党も協定を結べば島から退去する用意があった。

サモスを脱出したマイアンドリオスはスパルタに向い、・・・財宝を市中に運ばせ、・・・(クレオメネスに贈与しようとする。)
クレオメネスは、・・・監督官を訪ねて、サモスからきた例の外人が、自分や他のスパルタ人を買収し堕落させるようなことのないように、ペロポンネソスから退去させるのがスパルタにとっては得策であると説いた。
監督官も彼の意見を容れて、法令によってマイアンドリオスを追放処分にしたのであった。

サモス征服、シュロソンの僭主政へ

ペルシア軍はサモス島を「曳き綱式」に掃蕩した後、無人となった島をシュロソンに引渡した。
しかし後になってこの時の指揮官オタネスも、夢見と陰部に発した患いが契機となって、さもすの再植民に協力することになった。

十、バビロンの反乱と鎮圧

バビロン人の反乱

サモスの攻撃に水軍が進発した後、バビロン人が反乱を起した。
マゴスの支配時代から七人の蜂起に至る全期間、さらにはこれに続く動乱の時期を通じて,彼らは籠城に備えて怠りなかったが、・・・
(女性を殺して籠城に備える。)

ゾピュロスは、・・・われとわが身を傷つけて敗走者のごとく見せかけ、バビロン側にみを投ずるのが唯一の手段であると考えるに至ったのである。

こうしてバビロンは再度占領された。

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