第四巻 リビア編
一、スキュタイ人
二、フェニキアからリビア文化圏
三、ダレイオスのスキュティア遠征(トラキアで退却)
四、テラ島植民縁起
五、キュレネ植民縁起
六、リビアのギリシア人都市国家キュレネとバルケ
七、リビア地誌
八、バルケ攻囲戦
一、スキュタイ人
スキュタイ人とは?
バビロンの占領後、ダレイオスは自らスキュタイ人遠征に向った。
スキュタイ人は、・・・二十八年間にわたって上アジアを支配したのである。
スキュタイ人はキンメリア人を追ってアジアに侵入し、メディアの支配権を奪ったのであるが、スキュタイ人の来攻以前はこのキンメリア人がアジアを支配していた。
キンメリア人を追って、その領域を28年間占拠したスキュタイ人。
この土地は、「ヒュライア」と呼ばれ、ボリュステネス河(ドニエプル河)の河岸である。
この地域は、黒海の北岸であり、まさに今火中の「ウクライナ」の領域に当たる。
そこから時計回りで南下すると、カフカス山脈(コーカサス山脈)にぶちあたる。
そこを越えれば、「アジア」である。
スキュタイ人自身の始祖伝説
始祖はタルギタオス
当時無人の境であった彼らの国土に最初に生れたのは、タルギタオスという名の男であった。
このタルギタオスの両親は、ゼウスと、ボリュステネス河の娘とであったという。
タルギタオスからはリポクサイス、アルポクサイスおよび末子としてコラクサイスの三子が生れた。
始祖のタルギタオスは、ゼウスとボリュステネス河(ドニエプル河)の娘の間の子。
末子コラクサイスの相続(末子相続制)
この三人が支配していた時代に、天から黄金製の器物ー鋤に軛、それに戦斧と盃ーがスキュティアの地に落ちてきて、・・・そこで二人の兄も末弟に王権をことごとく譲ることに同意した、というのである。
遊牧民族の末子相続制。長男に殺されないための施策。
〔註〕この器物はイラン系社会における三階級を象徴するものであるという。すなわち盃は祭司階級、戦斧は武士階級、鋤と軛は農民階級を象徴するのである。
ギリシア人のスキュタイ人始祖伝説
スキュタイ人が自国とその先の地方について語るところは右のとおりであるが、一方黒海地方居住のギリシア人は次のように伝えている。
ヘーラクレースの子孫
ゲリュオネウスの牛を追いながらヘラクレスは、現在スキュタイ人の住む、当時は無人の地方へきたという。
ゲリュオネウスの住んでいたのは黒海の外で、「ヘラクレスの柱」を出て大洋に臨みガディラに相対する、ギリシア人のいわゆるエリュテイアの島(赤島)をその棲家としていたのである。
リビアと黒海沿岸が西果てでつながっていたという地理感覚はこの時代のギリシアの通念。リビアやイベリアで起きたこと=黒海沿岸で起きたこととなる。アマゾンはリビアとコーカサスに存在するが、目と鼻の先と思われるている。
エリュテイアとはヘスペリデスの一人で、「紅色の女」
ゲリュオネウスはエリュテイア島で、赤い牛(紅の牛)を飼っていた。
ホメロスのオケアノス還流説
このオケアノスは陽の昇る地点に源を発して全陸地をめぐって流れている、と話に語られているが、現実に証明されているわけではない。
ヘロドトスはこの通念を疑っている。リビアの記述をみれば半ば信じているようにも。
〔註〕オケアノスを陸地を巡る大河とする考えはホメロスに始まり、ギリシア人の通念であった。
ヘロドトスの批判的見解は巻二、二三節などにも見える。
オケアノスがギリシア、アジア、ヨーロッパを取り囲んで還流しているという間違った「オケアノス還流説」が、珍妙で井の中の蛙的な「リビア・イベリア=黒海沿岸至近距離説」につながったと想定される。
ヘーラクレース、エリュテイア島から黒海沿岸にどこでもドアーで移動
さてヘラクレスはそこから今日スキュティアと呼ばれている地方にきたところ、折から冬季で酷寒に見舞われ、ライオンの皮を引き被って眠ってしまった。
エリュテイアの島(ガディルの向いにある設定の島)からスキュティアまで直近の距離でに描かれている。これがギリシア人の通念。
スキュタイ人は、ヘーラクレースとスキュタイの蛇女の子孫
目を醒ましたヘラクレスは、・・・ヒュライア(ボリュステネス河=ドニエプル河左岸)という土地にきた。
ヘラクレスはこの地の洞窟内で、半身は娘の姿で人獣二性を具えた蝮を見付けた。
すると蛇女がいうには、馬は自分の許にあるが、彼が自分と交わってくれぬ限り返さぬといい、ヘラクレスはその約束でこの蛇女と契った。
ヘーラクレースの残した三種の神器(弓、帯、金盃
ヘラクレスは自分の弓の一張りを引いてみせ、また帯の締め方を示した後、弓と結び目の端に金の盃のついた帯とを与えて立ち去った。
全裸に帯を締めて、棍棒ではなく弓を持つヘラクレスをスキュタイ人の祖とした人々は、黒海沿岸のギリシア人と混血して文明化したスキュタイ人だったのだろう。
ヘーラクレースの末子スキュティスの子孫
(長子と次子は)生みの母に追われて国を去り、末子のスキュテスはこれを果たしてこの国に留まった。
スキュティアの代々の王はこのヘラクレスの子スキュテスの後裔であり、また盃の故事にちなんでスキュタイ人は今もなお帯に盃をつけているのだという。
「生え抜き」否定、民族移動説(ヘロドトスの説)
右のほか、さらにもう一つの説があり、私はこの説に最も信を置く。
これによれば、スキュタイ人ははじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、アラクセス河を渡りキンメリア地方に移ったという。
合理主義者ヘロドトスは、スキュタイ土着説を退け、民族移動説を取る。
キンメリア人とは?
撤退か残留かをめぐる階級闘争
キンメリア人は、・・・協議をこらしたが、・・・
民衆側の意見は、撤退するのが最善である、とするに対し、
攻めよせる敵と国土を賭してあくまで戦い抜こうというのが王族側の見解であったからである。
国家存亡の時、恵まれた民衆を搾取していた王族は防衛を主張、民衆は撤退を主張したというのは示唆に富む。
こうして互いの手にかかってことごとく最期を遂げた王族たちを、キンメリアの民衆はテュラス河畔(現ドニエストル河の河畔)に埋葬し、こうして国を撤退した。
そして来襲したスキュタイ人は無人の地域を占領したという。
スキュタイの地に残るキンメリア人の痕跡
いまもスキュタティア地方には、「キンメリアの砦」とか「キンメリア渡し」とかがあり、キンメリアの名で呼ばれる地方もあれば「キンメリア・ボスポロス」と呼ばれる海峡もある。
スキュタイの領域は、「ヒュライア」と呼ばれ、二つの大河が流れている。
西側のテユラス河(ドニエステル河)と東側のボリュステネス河(ドニエプル河)である。
「キンメリア・ボスポロス」とは「〔註〕アゾフ海と黒海をつなぐケルチ海峡のこと。」というように、現在のケルチ海峡である。
シノペへ移住
キンメリア人がスキュタイ人を逃れてアジアに入り、現ギリシア人の町シノペのある半島に住みついたことは間違いない。
シノペは、キンメリア人によって破壊されたあと、ミレトス人が入植し、木材移出かつ造船によって繁栄した港湾都市。のち、ポントス王国の首都。
スキュタイ人の分化
方向まちがってメディアに侵入
またキンメリア人を追ったスキュタイ人が、進路を誤ってメディアの国に侵入したことも明らかである。
すなわちキンメリア人は絶えず海岸に沿って逃げたのに対し、スキュタイ人はコーカサス山を右手にしつつ追い、途中で進路を内陸に向け、メディアの地に侵入することになったのであると。
三種のスキュタイ人
しかしボリュステネス河を渡って、海辺から北上すれば、まずヒュライア(森林地帯)があり、ここからさらに上れば、「農民スキュタイ人」が住む。
農民スキュタイ人の居住地から東に向い、パンティカペスを渡河すれば、そこははや「遊牧スキュタイ人」の世界で、彼らは種も蒔かねば耕す術も知らない。
ゲロス河以遠は、前にもふれた王領のスキュティアで、このスキュタイ人は最も勇敢で数も多く、他のスキュタイ人を自分の隷属民と見做している。
王領スキュタイ人の領域
彼らの領土は、南はタウロイ人の国(タウリケ=クリミア半島南半分)に達し、東はかの盲目の奴隷の子らが開鑿した掘割に至り、マイオティス湖(アゾフ海)畔の通商地クレムノイに及んでいる。
また一部はタナイス河(ドン河)にも接している。
極北の地の住民
サウロマタイ人
タナイス河を渡れば、もはやスキュティアの地ではなく、まず最初の地域を占めるのはサウロマタイ人で、マイオティス湖の奥隅から北へ十五日間の旅程にわたる地域に住む。その全土は野生樹、栽培樹の別なく立木は一本もない。
ヒュペルボレオイ(極北人)
ヒュペルボレオイ(極北人)という人種については、スキュタイ人もその他この方面に住む者もなにも語らない。
しかしヘシオドスは極北人について言及しており、・・・
ヘシオドスは、極北人を知っている。
ボイオティアを経由してデロスに入った可能性が大。
極北人とデロス人
極北人がデロス島に来た経路
ところで極北人について、他と比較にならぬほど多くを語っているのはデロス人である。
そのいうところによれば、麦藁に包んだ供物が極北人の国から運ばれてスキュティアに着き、スキュティアからは隣国の住民が次々に受け渡して西方遥かアドリア海に至り、供物はそこから南方に転送され、ギリシア人で最初にこれを受け取ったのはドドネ人であったという。
ここから南下してマリス湾に達し、海を渡ってエウボイア島に上陸し、町から町へ運ばれてカリュストスに着いた。
ここからの道順ではアンドロス島が省かれた。カリュストス人はこれをテノス島に運んだからで、最期にテノス人がデロス島へもたらしたのであるという。
極北から内陸を通ってアドリア海から、おそらく海路でドドネ、ドドネから内陸を通って、コリントス湾を航行してマリス湾に達する。
この間はイリュリアに植民していたテーバイ帝室の領域内を通過したことになる。
マリス湾からエウボイア島を北部から南端のカリュストスまでリレーで縦断しただろう。エウボイアはポセイドンやトリトン、ディオニュソスといったカドモス系の祭祀が、アポロンの祭祀に駆逐された痕跡が残る。
もちろん、テーバイ帝室は、両方を庇護したようだ。
ディオニューソスとアポロン両方の音楽を、導入している。
〔註〕アンドロス(島)はエウボイアとテノス(島)の中間にあり、当然道順に入るべきであった。この島はディオニュソス崇拝を主とし、アポロンと縁が薄かったからであろう。
使節派遣から転送へ(ヒュペロケとラオディケ)
はじめ極北人は二人の娘に供物を持たせて送ったのであるという。娘の名はヒュペロケとラオディケであったとデロス人は伝えている。
さて極北人たちは使いに出した者たちが帰国してこないので、これからも派遣した者たちがいつも帰ってこぬようなことがあってはたまらぬと考え、これから麦藁包みの供物を国境まで持ってゆき、隣国人にそれを次の民族に転送してくれと固くいい渡すことにした。
アルゲとオピス
このヒュペロケとラオディケよりもさらに古く、アルゲとオピスなる極北人の娘が、前の二人と同じ国々を経由してデロスへきたという。
アルゲとオピスとは、神々(アポロンとアルテミス)に同行して来島したといわれ、デロス人がかの女たちを崇拝する仕方も、先の二人の娘とは違うのである。
これは耳より情報だ。
この時、人間のアポロンとアルテミス(極北人でないにしろ小アジア人)のアポロン信者・アルテミス信者が、デルポイを制圧したのち、エウボイア島から飛び石島嶼を、ディオニューソス信者と確執しながら、デロスに入植し、アポロンとアルテミスの信仰を導入したのだろう。
〔註〕アポロン、アルテミスの二神は出生後ヒュペルボレオイの国へ行ったと伝えられた。
註は、アポロンとアルテミスは、出生後、ヒュペルボレオイの国に行き、アルゲとオピスを伴って「帰郷」したと解しているようである。
しかし、事実は、逆であろう。
デロス島で彼らが生れたというのは後付けであろう。北方から招来された彼らが実の故郷であるヒュペルボレオイの国に去ったということにしたであり、実は帰郷したのであろう。
つまり、アポロンとアルテミスの正体は、ヒュペルボレオイから小アジア経由で、デロス島に来て、信仰の一大拠点を築いた新興宗教集団の指導者たちであったのだろう。
リュキアのオレンによる竪琴の招来
すなわちデロスの女たちは、リュキアの人オレンがこの二人のために特に作詩した讃歌をうたってその名を唱えつつ、二人のために喜捨を集めるのであるが、・・・
オレンはリュキアから来た人で、デロスでうたわれている他の古い讃歌の作者でもあった。
竪琴は、オレンのようなアポロン信者によってもたらされたのかもしれない。
二、フェニキアからリビアの文化圏
円形世界仮説
ホメロスやヘカタイオスからの仮説
この人たちは陸地があたかもコンパスで描いたかのごとく円形を成し、その周りをめぐってオケアノスが流れているように地図を描き、アジアをヨーロッパと同じ大きさとしている。
〔註〕これらの批判は、ヘロドトス以前の地誌学者一般に向けられているとも解されるが、特に彼は直接の先輩であるヘカタイオスを目指しているものと見られる。
南の海(「紅海」=現インド洋)と北の海(「ポントス」=現黒海)
〈アジアには〉「紅海」(インド洋)と呼ばれている南方の海に至るまでの地域を、ペルシア人が占めている。
その北方にはメディア人、メディア人の先にはサスペレス人、サスペレス人の先にはコルキス人が住み、
パシス河(現リオン河)の注ぐ北の海(黒海)に至る。
海から海にわたって右の四民族が住んでいる。
南の海のインド洋は過小評価、北の海の黒海は過大評価。
なぜなら「ポントス」つまり海という一般名称で呼ばれるのだから。
アナトリア半島
さらにこの大陸から西方に向って、二つの突出部が海に延び出しているが、次にこれについて述べよう。
突出部の一つは、北側ではパシス河に始まり海に向って延び、黒海およびヘレスポントスに沿ってトロイア地方のシゲイオン岬に至る。
一方南方では同じ突出部が、フェニキアに沿うミュリアンドロス湾(シリアとフェニキアの国境にある)からトリオピン岬(クニドス半島の突端)にわたって海中に延び出している。
この突出部には三十の民族が住んでいる。
アラビア半島
もう一つはペルシアに始まり「紅海」に延び出しており、ペルシア本土とこれに続くアッシリア、さらにアッシリアに続くアラビアがこの突出部にある。
この突出部は、ダレイオスがナイルから運河を引いてきたアラビア湾に終る。
フェニキア、エジプト、リビアが一文化圏
ペルシアからフェニキアの間には広大な土地が続き、この突出部はフェニキアからこちらの海(地中海)沿いに、シリアパレスティナからエジプトに至り、ここで終る。
この突出部には三民族が住むのみである。
フェニキア、エジプト、リビアを広大な突出部とみている。
こちらも変だよ、ヘロドトスの地理観
さて私には、リビア、アジア、ヨーロッパを区切って分離した人々のやり方が不思議に思われてならない。
この三者の相違は決して小さくないからである。長さ(東西)からいえば、ヨーロッパは他の二者を合わせた長さにわたって延びており、幅〈南北)については比較にならぬほど(の大きさ)であると私には考えられるのである
〔註〕ヘロドトスは北にヨーロッパ、南にアジアとリビアが東西に平行して延びていると考える。
従って東西の長さでは、ヨーロッパは他の二者を合わせたものに匹敵し、南北では、ヨーロッパの北辺は限りがないので、これまたアジアやリビアとは比較にならぬのである。なお、アジア北部はすべてヨーロッパの中に入る。
エジプトをすっぽり囲むリビア
リビアがアジアに接する地点を除いては、四方海に囲まれていることは、リビアの地形から自ら明らかなことで、われわれの知る限りでは、このことを証明してみせたのは、エジプト王ネコスがその最初の人であった。
ギリシア人が、エジプト以外のアフリカ大陸をすべてリビアと考えていたことがわかる。
したがってエティオピアとリビアの混同はそんな地理観から来たのだろう。
フェニキア人のリビア周航
ネコスの指示で、時計回りに
リビアがアジアに接する地点を除いては、四方海に囲まれていることは、リビアの地形から自ら明らかなことで、われわれの知る限りでは、このことを証明してみせたのは、エジプト王ネコスがその最初の人であった。
彼はナイル河からアラビア湾に通ずる運河の開鑿を中止した後、フェニキア人を搭乗させた船団を派遣したのであったが、帰路には「ヘラクレスの柱」を抜けて北の海(地中海)に出、エジプトに帰着するように命じておいたのである。
ミニ植民を伴うフェニキア人の周航
さてフェニキア人たちは紅海から出発して南の海を航海していった。そして秋になれば、ちょうどその時航行していたリビアの地点に接岸して穀物の種子を蒔き、刈入れの時まで待機したのである。そして穀物を採り入れると船を出すというふうにして二年を経、三年目に「ヘラクレスの柱」を迂回してエジプトに帰着したのであった。
つまり、フェニキア人は、一年分の食糧を積んで出かけ、冬越えで収穫をして(ミニ植民)それを二度繰り返して周航したのである!いかに海を熟知していたかということだ。
フェニキア人の実体験からの科学性
そして彼らはー余人は知らず私には信じ難いことであるが、ーリビアを周航中、いつも太陽は右手にあった、と報告したのであった。
〔註〕フェニキア人の報告は真実で、赤道を越えれば、東から西に航行する限り、太陽は常に右手にくる。
実地に航行するから、科学を生む自然を真摯に観察することで得られた知識がフェニキア人の科学であった。
南の限界はフェニキア人(カルタゴ人)のみ知る
こうしてリビアの実情が始めて知られたのであるが、それにつづいてこのことを主張したのはカルタゴ人である。
それというのも、アカイメネス家に一族でテアスペスの子サタスペスは、その目的で派遣されたにもかかわらずリビアの周航を果さなかったからで、航海の規模の大きさと孤独の旅に恐れをなして、途中で引き返し,母が彼に課した大役を果さずに終ったのであった。
未知の世界ヨーロッパ
エウロペは、ヨーロッパを知らず
しかしヨーロッパについては、その東方および北方が果たして河海に囲まれているか否かを明白に知っている者は皆無なのである。
ともかくエウロペなる女がアジアの出身であることは明らかで、この女が今日ギリシア人がヨーロッパと称している土地へきたことはなく、せいぜいフェニキアからクレタ、クレタからリュキアまでしかいっていないことも明白である。
フェニキア人の王女がヨーロッパの名祖であることは意味深長である。
フェニキア人のみがヨーロッパの涯を知っていたからである。
イストロス河(ドナウ河)
イストロス(現ドナウ河)はわれわれの知る限りでは世界最大の河で、夏冬を問わず同じ水量を擁して流れている。スキュティアの河川の中では最も西部を流れる河で、これを最大の河川たらしめているのは、他の河川がこの河に注いでいるからである。
ハイモス山(バルカン山脈)の山頂からは、さらに三つの大河が北方に向って流れイストロスに注ぐ。
ウンブリア(北イタリア)以遠からは、カルピス河およびアルピス河が北に向って流れ、この両河もイストロスに合流する。
それというのもイストロスはヨーロッパ全土を貫流する河であるからで、ヨーロッパの住民の中ではキュネタイ人についで最西部に住むケルト人の国に発し、全ヨーロッパを貫流しスキュティアの脇腹に注いでいるのである。
ヘロドトスもイストロス河を知らない。ドナウ河はヨーロッパを貫流しておらず、ドイツに源流がある。
三、ダレイオスのスキュティア遠征
おそるべきスキュタイ人
またスキュタイ人の中には、剥いだ皮を羊飼いの着る皮衣のように縫い合せ、自分の身につける上衣まで作るものも少なくない。
ボスポロスで国見
ダレイオスはスサから進軍をつづけ、すでに架橋のできている、カルケドン領内のボスポロス沿岸に達すると、ここから船にのっていわゆる「青黒岩」に向った。・・・ダレイオスは岩の突端に坐って絶景の黒海を眺めわたした。
架橋の棟梁はサモス人マンドロクレス
ダレイオスは黒海の眺望を楽しんだ後、船で橋のかかっている地点に引き返した。この橋の建造に当った棟梁は、マンドロクレスというサモス人であった。
やはり建築は、サモス人(フェニキア系)
それについで、船橋の出来栄えに満足したダレイオスは、その工事の棟梁であるサモス人マンドロクレスに莫大な恩賞を与えた。
マンドロクレスは授かった恩賞の初物を供える趣旨で、ボスポロスの橋の全貌と特別席に坐ったダレイオス王の姿、それに王の軍が橋を渡る有様を描かせた絵を、次のような銘文とともにヘラの社殿に奉納した。
ダレイオスの水軍は、小アジアのギリシア人
ダレイオスは、・・・ヨーロッパに渡ったが、
イオニア人には黒海内のイストロス河まで航行し、イストロスに達したならばこの河に架橋しつつ自分の到着を待つように指令しておいた。
水軍を率いていたのはイオニア人、アイオリス人、ヘレスポントス人たちであったからであるが、かくて水軍は「青黒岩」を通り抜けてイストロス河目指して直行し、さらに海から二日間河を遡航してイストロスの河口が幾つも分岐している河の頸部に架橋を始めた。
トラキアの地理
ダレイオスは船橋を渡ってボスポロスを越えると、トラキア地方を進み、テアロス河の水源地に達し、ここで三日間野営した。
近隣の住民たちによれば、このテアロス河の水はどの河の水よりも治療の効があるといわれ、・・・冷水のものと温水のものとがある。
この水源までの道程は、ペリントス附近のヘライオンの町からでも、
黒海沿岸のアポロニアからでも同じで、いずれも二日間の行程である。
〔註〕ヘライオン:プロポンティス(マルサラ海)に沿うサモス人の植民地。
〔註〕アポロニア:黒海西岸にあり、ミレトスの植民地。
ボスポロス海峡とヘレスポントス海峡に挟まれた海が、「プロポンティス海」。
「トラキア」は、プロポンティス海の北と地中海の北に広がる地域。
トラキアを経由してスキュティアに入ろうと企てる。
ここには、すでにギリシア人の植民地として、フェニキア系のサモス人の建てたヘライオンと、アイオリス系のミレトス人の建てたアポロニアがある。
ゲタイ人撃破
イストロス河に達するに先立ち、ダレイオスが最初に攻略したのは霊魂の不滅を信じているゲタイ人であった。
ゲタイ人は無謀にも抵抗したがたちまちに屈服せしめられた。彼らはトラキア人の中では最も勇敢でかつ正義心の強い民族である。
ゲタイ人が霊魂の不滅を信ずる仕方はこうである。彼らは自分たちが死滅するとは考えず、死亡した者は神霊サルモクシスの許へゆくものと信じている。
私がヘレスポントスや黒海の沿岸に在住するギリシア人から聞いた話によれば、このサルモクシスというのは人間でサモスで奴隷であったといい、ムネサルコスの子ピュタゴラスに仕えた者であるという。
その後自由の身になってから大いに産を成し、長者になって国に帰った。ギリシアでも有力な知識人であるピュタゴラスにも親しんだので、・・・トラキアでは見られぬ洗煉された風俗を身につけていた。
ゲタイ人は、サモスで教育を受けた文明に浴したサルモクシスを始祖として崇拝している。
橋の警備にイオニア人を残す
「この橋を今のままに置き、建造に当った者どもを橋の警備に残してゆかれるのがよろしゅうございます。
イオニアの独裁者たちと会見していうには、・・・
「その期間にわしが戻ってこず、結び目の数だけの日が経過したならば、そなたらは船で帰国してくれてよい。」
橋での評定
アテナイ人ミルティアデスVSミレトス人ヒスティアイオス
この申し出に対してイオニア人たちは評定を開いた。
ヘレスポントスのケルソネソスの独裁者でその町の部隊の指揮に当っていたアテナイ人ミルティアデスは、スキュタイ人の申し出に従い、イオニアを解放すべしとする意見であった。
しかしミレトス人ヒスティアイオスの説はこれには反対で、自分たちがそれぞれ自国の独裁権を握っておられるのはダレイオスのお陰である、ダレイオスの勢力が失墜すれば、自分もミレトスを支配することができなくなるであろうし、他の者たちも一人としてその地位を保つことはできまい。どの町も独裁制より民主制を望むに相違ないからだというのが彼の意見であった。
ヒスティアイオスがこの意見を述べると、それまではミルティアデスの説に賛成であった全員がたちますヒスティアイオスの意見に傾いてしまった。
ヘレスポントスの僭主たちとイオニアの僭主たち
この票決に加わり、ペルシア王から重用されていた者たちは、ヘレスポントス在住のギリシア人独裁者では、アビュドスのダプニス、ランプサコスのヒッポクロス、・・・キュジコスのアリスタゴラス、ビュザンティオンのアリストンらであった。
ヘレスポントス人の僭主たち
アビュドスのダプニス、
ランプサコスのヒッポクロス、
キュジコスのアリスタゴラス、
ビュザンティオンのアリストン
イオニアからのものには、キオスのストラッティス、サモスのアイアケス、ポカイアのラオダマス、それにミルティアデス説に反対の意見を述べたミレトスのヒスティアイオスらがいた。
アイオリス人でその場におり、名のある者としてはキュメのアリスタゴラスただひとりであった。
イオニアの僭主たち
キオスのストラッティス、
サモスのアイアケス、
ポカイアのラオダマス、
ミレトスのヒスティアイオス
アイオリスの僭主
キュメのアリスタゴラスただ一人。
ヒスティアイオスの機転で、ダレイオス命拾い
ヒスティアイオスはただ一度聞いただけでその命に服し、遠征軍を渡河させるために全艦隊を廻し、橋もかけ直した。
ペルシア軍はこうして虎口を脱したのであったが、・・・
四、テラ島植民縁起
テラ人とは?
ミニュアイ人、ラケダイモンへ
レムノス島を追われたアルゴー船の乗組員の子孫・ミニュアイ人
アルゴー船に乗り組んだ勇士立ちの子孫は、ブラウロンからアテナイの女たちを誘拐した例のペラスゴイ人のためにレムノス島を追われ、海路スパルタに向った。そしてタユゲトス山中に屯して火を焚いていた。
〔註〕ここに語られる物語は、アルゴー船の冒険に参加した英雄を初代とすれば、その六代目の時代に当る。
アルゴー号の乗組員は、小アジア遠征を行ったテーバイ帝室とイオールコス王室の貴族たちなので、テーバイ人とイオールコス人の末裔。
〔註〕ここに語られる物語は、アルゴー船の冒険に参加した英雄を初代とすれば、その六代目の時代に当る。
自分たちはミニュアイ人で、アルゴー船に乗り組んだ英雄たちの子孫であり、この英雄達はレムノス島に上陸して自分たちの祖先となったのである、と語った。
ミニュアイ人と名乗る以上、テッサリアの原住民の子孫であろう。
〔註〕ミニュアイ人とはテッサリアからボイオティアにわたって広く分布していた種族の名。南下してきたギリシア民族の最古層を成すと考えられている。
アルゴー船の物語はイアソンその人をはじめとして、その中核的要素はミニュアイ系のものである。
〔註〕アルゴー船の隊員はコルキスへの途次レムノスに上陸し、この地の女を妻として約一年間過ごした。その子孫だというのである。
レムノス島の女性とテッサリア人の混血の子孫ということ。
レムノス島はヘパイストスに捧げられ、カベイロイ信仰のメッカである。フェニキア人の植民島嶼であることは間違いない。女性はフェニキア系であっただろう。
いずれにせよフェニキア系とテッサリア系の混血である。
スパルタ人が、このミニュアイ人を受け入れる
スパルタ人は彼らの望むままの条件でミニュアイ人を受けいれることにきめた。
スパルタ人にこの決断を促した最大の理由は、テュンダレオスの子らがアルゴー船に乗り込んでいたことであった。
〔註〕テュンダレオスとはスパルタの古王、その子らとはカストルとポリュデウケス(ラテン名、ポルクス)の双生児を指す。
テュダレオスはヘレネーとクリュタイムネストラの父でもある。
このディオスクロイは、ラケダイモン王家であり、テーバイ帝室の血を母方から引くゆえに、アルゴー号遠征にも参加したのであろう。
すぐにラケダイモン人に同化
スパルタ人はミニュアイ人を受けいれて土地も分配してやり、部族に分属させた。
ミニュアイ人たちはすぐに婚姻を結び、自分たちがレムノスから連れてきた女たちは、他の者たちに嫁がせた。
〔註〕有名なスパルタの三部族を指すのだろう。従ってスパルタ人は彼らに完全な市民権を許したことになる。
なぜ、かくも簡単に同化させたか。カベイロイの崇拝のレムノス島人は、ヘラクレイダイであるスパルタの王族と同族のカドモス系(フェニキア系)だったからであろう。
ミニュアイ人増長して反乱
それから何程の時もたたぬ間に、ミニュアイ人はみるみる増長し、王権に参与することまで要求し、ほかにも不法の行為が多かった。
そこでスパルタ人たちは彼らを殺すことに決定し、捕縛して処刑のために監禁した。
王権参与を要求するのは、ヘラクレイダイど同族の認識があったからだろう。
ラケダイモン女強し、妻が夫を逃がしタユゲトス山中に立て籠もる
スパルタでは死刑囚は夜間に処刑し、昼間には処刑を行なわぬのである。
さてミニュアイ人を処刑しようとしているとき、その妻たちがーいずれも生粋のスパルタ人で、名門の娘であったー獄舎に入ってそれぞれの夫に面会させて欲しいと頼んできた。
ミニュアイ人たちは女の衣裳を纏って女のごとく見せかけ獄舎の外に出、このようにして逃れた彼らは再びタユゲトス山中に立籠もった。
テラ島植民
カドモス一門のテラス
同じ頃、ポリュネイケスの子ティサメノスの子アウテシオンの子なるテラスなるものが、植民地を拓くためにスパルタを発とうとしていた。
このテラスはカドモス家の一門で、アリストデモスの二子エウリュステネスとプロクレスには母方の叔父に当っていた。
〔註〕テラスはカドモス家、すなわちテバイ王家の出であるが、父アウテシオンがスパルタに移り、その娘アウゲイアがヘラクレス家のアリストデモスに嫁したのである。
二子が幼少の間は、このテラスが後見人としてスパルタの王権を握っていた。しかし甥たちが成長し王位を継ぐに及んで、ひとたび王権の味を知ったテラスは他人の支配下に甘んずることは耐えがたいとして、自分はスパルタに留まるつもりはなく、海外の同族の許へゆきたいといいだした。
カリステ島
現在テラと呼ばれている島は、以前はカリステと呼ばれていたがこれは同じ島で、当時はフェニキア人がポイキレスの子メンブリアロスの子孫が居住していた。
すなわちアゲノルの子カドモスはエウロペの所在を探し求めながら、現在のテラに上陸したが、上陸後この地が気に入ったのか、・・・この島にフェニキア人を残していった。
その中には自分の同族のメンブリアロスもいたのである。
この者たちが当時カリステと呼ばれていたこの島に、テラスがスパルタから来島するまで八代にわたって居住していた。
〔註〕現在名はシーラ(綴りは同じ:テラ)またはサントリーニ。
キュクラデス群島中では最南端の島で、古来火山活動の激しいことで知られる。
カドモス時代のフェニキア支配下で、交易拠点として繁栄し、アクロティリを建設した。当時の名はカリステ(カリスタ)。噴火後もクレタ島などに一時避難していた住民が戻っていたのだろう。
カドモス直系筋のテラスが入植して、またフェニキア系の島に。
同じカリステという名の島は、西地中海にもある。
コルシカ島がそれである。これもフェニキア人の植民地。
カリステ島に植民して共存共栄
さてテラスは各部族から選抜した移民団を従えて、テラに住む同族の許へ出発しようとしていた。彼の意図はテラの住民と共に住むことであり、彼らを駆逐する気は毛頭なく、親しく同族として扱うつもりであった。
フェニキア人は先住民を駆逐せず共存共益で入植することが多い。通商国家であるからだろう。
テラスがミニュアイ人を救って植民に同行
一方獄舎から逃亡したミニュアイ人がタユゲトス山中に立籠もり、スパルタ人が彼らを討とうとしているとき、テラスは彼らを殺さぬように頼み、自分が彼らを国外に連れ出すことを引受けた。
テラスの権力がしのばれる。なぜテラスはミニュアイ人を連れて同族フェニキア人の島カリステに入植しようとしたか?
ミニュアイ人がもとはレムノス人(フェニキア人)とテッサリア人の混血で、さらにヘラクレイダイど混血したためフェニキア血液4分の3の人々で、「同族」感覚があったからであろう。
高貴なミニュアイ人の少数がカリステに同行
スパルタ人が彼の意見を容れたので、彼は三隻の三十橈船を連ねてメンブリアロスの後裔の許へ船出した。ただしミニュアイ人全部を連れたのではなく、連れていったのは少数のものだけであった。
残りはエリス地方に植民
というのは大部分のミニュアイ人はパロレアタイ人、カウコネス人の住む地方に向い、彼らをこの国から追い払った後、六つの隊に分れ、この地方にレプレオン、マキストス、プリクサイ、ピュルゴス、エピオン、ヌディオンの諸市を建てた。
しかしこれらの町の大部分は、私の時代になってエリス人のために破壊されてしまった。
〔註〕パロレアタイとカウコネスとは名称は異なるが同一民族を指したものらしい。その居住地はトリピュリアであった。
トリピュリアはペロポンネソス西海岸にあり、北はエリス、東はアルカディア、南はメッセニアの各地方にはさまれた狭い地域である。
カリステをテラに改名
そして先の島は創設者テラスの名にちなみ、テラを命名された。
アイゲイダイの始祖
テラスの息子が父とともに出航することを拒んだので、テラスは子をスパルタに残すのは、狼の群の中に羊を一頭残しておくようなものだといった。この言葉かこの青年にオイオリュコス(羊狼)という綽名がつけられたが、どういうものかこの名の方が通りがよくなってしまった。
オイオリュコスからアイゲウスが生れ、スパルタの有力な氏族であるアイゲウス氏(アイゲイダイ)は、このアイゲウスの名に由来するのである。
テーバイ王家のテラスの子孫が、ラケダイモンの名門アイゲイダイである。
ライオスとオイディプースのエリニュスの社建立
この氏族に属する男の家では子供が育たず、そこである託宣に基づいてライオスとオイディプスの怨霊のために社を建立した。その後は子供が早死にしなくなったが、
テラでも同様なことが、これらの者たちの子孫の間で起った。
五、キュレネ植民縁起
テラに下ったデルポイの託宣
かのテラスの後裔でテラ島の王であった、アイサニオスの子グリンノスは、国から牛百頭の生贄を持参してデルポイへ詣でたことがあった。
他の市民も彼に随行しており、その中にはミニュアイ人のエウペモスの子孫で、ポリュムネストスの子バットスも混じっていた。
テラの王グリンノスが国民の将来について神託を伺うと、デルポイの巫女はリビアに町を創設せよと託宣を下した。
リビア植民実験
クレタ島でガイドのコロビオスを調達、プラテア島に置き去り
クレタ島に使いを送り、クレタ人またはクレタ在留の外人で、かつてリビアに行ったものがないかと探索させた。
イタノスの町(クレタ島最東端、北よりの町)までも足をのばしたが、ここで彼らはコロビオスという名の紫貝採りの漁夫にめぐりあった。
紫貝採りというからフェニキア系だろう。
コロビオスはテラ人たちを例のプラテア島へ案内したが、テラ人は数ヶ月分の食糧を置いてコロビオスをこの島に残し、自分たちは島のことを国許へ報告するために、急いで帰っていった。
フェニキア人のタルテッソス交易の実態
サモス人がコロビオスを救出
しかしテラ人は約束の期限がきても戻ってこず、コロビオスの生活の資は全く尽きてしまった。
やがてコライオスという男が船主であったサモスの船が、エジプトに航行中漂流してこのプラテア島に着いた。
サモス人たちはコロビオスから一部始終をきくと、一年分の食糧を残してやった。
やはり、フェニキア系の相互扶助の友愛はすごい。
サモス人、人助けの功徳か大儲け
当のサモス人はこの島を発ち東風に流されながらもエジプトを目指して航行を続けた。しかし風は弱まらず、彼らは「ヘラクレスの柱」を越え、神の導きによってタルテッソスに着いた。ここは当時はまだ通商地として未開拓であったので、彼らが帰国したときは、積荷によって挙げた収益が、われわれが確実な資料に基づいて知る限りにおいて、かつていかなるギリシア人も挙げたことのない莫大な額に上った。
この莫大な利益を得るにはタルテッソスで鉱物交易をするしかないが、すでにフェニキア人が開拓済みである。これは実はサモス人とはフェニキア人の一分派であったのだろう。もちろん同族のテラ人のことも見守っていたに違いない。
アイギナ人ソストラトスもタルテッソスで大儲け
もっとも彼らといえども、アイギナ人のラオダマスの子ソストラトスには及ぶべくもなかった。ソストラトスと肩を並べることのできる者は一人もいないからである。
このアイギナのソストラトスは、桜井『ギリシア史』に言及がある。
「前七世紀前半には同島出身の商人ソストラトスがジブラルタル海峡(ヘラクレスの柱)の西まで到達するほど広範囲の交易を行なって巨万の富を築いたらしい。」P69とある。
つまり、タルテッソス交易のおこぼれにあずかるこのソストラトスもフェニキア系であろう。
テラ人、キュレネ人、サモス人の絆はフェニキア系だったから
コライオスのこの行為が契機となって、キュレネ人およびテラ人とサモス人との堅い友好関係が結ばれることになったのである。
おそらくすべてフェニキア系=カドモスの子孫らしいので、友好関係はもとからあったのではないか。するとキュレネもフェニキア系ギリシア人であり、カルタゴとは遠い同族ということになる。
籤引きで本格的にリビア植民へ
バットスを指導者にして植民
さてテラ人はコロビオスを島に残してテラへ帰ると、自分たちがリビア沿岸の島に植民地を拓いたことを報告した。
テラ人は兄弟二人のうち籤に当った方の一人がゆくこととして、七つある地区の全部から移民を送ることに決め、さらにバットスを移民団の指揮者ならびに王とすることを決議した。
こうしてテラ人は二隻の五十橈船をプラテア島に送ったのである。
プラテア島に植民
この一行はリビアに向ったものの、ほかにどうしてよいか判らぬままに、再びテラへ引き返した。
しかし本国のテラ人は上陸しようとする彼らに石を投げつけ、上陸することを許さず、リビアへ引き返せといった。
そこで一行も止むなく船を返し、前述のようにプラテアというリビア沿岸の島に植民したのである。
リビア本土上陸
彼らはこの島に二年間住んだが、格別好い運にも恵まれたなかったので、一人だけそこに残して残りの者は全部デルポイに向って発ち託宣所を訪れると、リビアに植民したが一向に事態は好転せぬことを述べて神託を求めた。
「行ったこともない汝が、行ったことのあるわしよりも羊飼うリビアをよく知っておるというならば、汝の知恵にはわしも舌を巻くぞ」
この託宣を聞いてバットスの一行は元の島へ引き返した。
彼らがリビアの本土に達するまでは、神が彼らを植民の義務から解放してくれぬことが判ったからである。
そこで島に帰ると残して行った男を収容し、島に相対してリビア本土にある、アジリスという土地に植民した。
この土地の両側は樹木の茂った世にも美しい山の斜面で閉ざされ、一方には川が流れている。
六、リビアのギリシア王国・キュレネとバルケ
キュレネ人増殖
彼らはこの地に六年間住んだ。
七面目になってリビア人がもっと好い場所へ案内するといって頼みこみ、ここから立ち退くことを説き伏せてしまった。
そこでリビア人は彼らをその地から立ち退かせ西に向って案内していった。
途中で一番良い場所を通るときは、ギリシア人の眼に入らぬようにするために、あらかじめ時刻を計算しておいて夜間にそこを通過させた。
リビア人が案内した場所はイラサ(現エルセン:ボンバ湾を望む)というところである。
リビア人はギリシア人をアポロンの泉と称される泉に案内していうには、「ギリシアの方々よ、そなたらが住むのはここがよかろう。ここでは天に穴があいているからな。」
四十年間王位にあった創設者バットス、および十六年間統治したその子アルケシラオスの在世時を通じ、キュレネの人口は、島嶼植民に出発した時の数のままであった。
しかし「幸福王」と綽名される三代目のバットスの治世に、デルポイの巫女が託宣を下して、あらゆるギリシア人とともにリビアに住むべく、かの地へ向うように促したのである。
それも元はといえば、キュレネ人が土地を分かつといってギリシア人を招いたからである。
エジプト撃退
ギリシア人が大挙してキュレネに集まった結果、多くの土地を削り取られた近隣のリビア人とアディクランというその王とは、キュレネ人のために土地を奪われ非道な目に遭わされたというので、エジプトに使者を送り、自分たちの身柄をエジプト王アプリエスにあずけたのである。アプリエスはエジプト兵の大軍を集めキュレネに送った。
しかしキュレネ人はイラサ地区に出撃し、テステの泉附近でエジプト軍と交戦しこれを破った。
エジプト人はこれまでギリシア人と戦った経験がなく、彼らを軽視していたために殲滅的な打撃を蒙り、エジプトに帰還したものは僅かしかなかった。
弟筋、バルケ(バルカ)建国
このバットスの息子がアルケシラオスである。
彼はその治世のはじめの頃に弟たちと不和を生じ、結局弟たちは彼の許を去ってリビアの別の地区に移り、ここに自分たちだけで町を建設した。
これが当時も今もバルケ(ラテン名、バルカ)と呼ばれている町である。
〔註〕キュレネの西方にあり、現在エル・メルジェーと呼ばれる地にその廃墟がある。
バルカ家がキュレネ人の子孫説を唱える学者の根拠か?
キュレネ(兄筋)、バルケと連合したリビア人に大敗
そして町を建てるとともに、リビア人をキュレネから離反させた。
そこでアルケシラオスは弟たちを受けいれたリビア人を討伐に向った。
彼を恐れたリビア人は東部リビアに逃走した。アルケシラオスは逃げるのを追い、リビアのレウコンに達したとき、リビア人は彼を攻撃する好機と判断した。リビア人は交戦してキュレネ軍を破ったが、実に圧倒的な勝利で、キュレネ軍七千の重装兵がここで戦死を遂げた。
アルケシラオスの弟レアルコスVSアルケシラオスの妻エリュクソ
この敗戦の後アルケシラオスは病に罹り服薬したところを、弟のレアルコスに絞殺された。しかしこのレアルコスはアルケシラオスの妻によって謀殺された。妻の名はエリュクソといった。
アルケシラオスにつづいて王位を継いだのは、その子バットスであったが、彼はびっこで正常に歩くことができなかった。
マンティネイアの国政改革者を招聘
巫女はアルカディアのマンティネア(マンティネイア)から国政改革者を連れてくるがよいと答えた。
そこでキュレネ人が依頼すると、マンティネア人はデモナクスという町で最も名望の高い人物をキュレネへ送った。
〔註〕マンティネアは古来最もよく治まった町として有名であった(ポリュビオス巻六、四三節参照)
この男はキュレネへくると実情を詳しく聞いた上、まずキュレネ人を三部族に分け、その配置は次のようにした。テラ人と周住民とで第一区を、ペロポンネソス人とクレタ人とで第二区を、島嶼の住民全部で第三区を構成したのである。
デモナクスはまた、バットス王のためには王室御料地と祭司職とだけを残し、従来王の保持していた他の一切のものを人民の共有とした。
移住者は、テラ人が最古の層で、次いでテラの母市ラケダイモンのあるペロポンネソスと、古来からフェニキアの支配下であったクレタ島、第三に、島嶼から募ったらしい。
(王制から民主政への転換がどう成されたが知るヒントである。)
王妃ペレティメ母子、マンティネイア新体制に復古要求し叛乱
バットスの治世中はこのままの体制がつづいたが、その子アルケシラオスの代になって、特権をめぐり激しい騒乱が起った。
足の悪いバットスとペレティメの子であったアルケシラオスが、マンティネア人デモナクスの制定した制度下に甘んずることはできぬと宣言し、先祖の掌握していたさまざまな特権の回復を要求したのである。
ペレティメ、アルケシラオス母子、亡命して捲土重来を期す
ついでアルケシラオスは反乱を起したが敗れてサモスへ逃れ、一方彼の母はキュプロス島のサラミス(キュプロス島の東部海岸)へ走った。
当時サラミスを支配していたのはエウエルトンで、これはデルポイの「コリントス人の宝蔵」内に納められている、例の見事な香炉を奉納した人物である。
一方アルケシラオスはこの頃サモスにあって、土地の分配を好餌に手当たり次第に人集めをしていた。やがて大軍を集めると、アルケシラオスは自分の帰国について神託を伺うためにデルポイへ向った。
サラミス王を篭絡する母、サモス人を集める息子。
デルポイの神託の警告
「バットス四代、アルケシラオス四代、合わせて八代の間は、ロクシアス(アポロン)汝らにキュレネの王たることを許す。さりながらそれ以上は王たらんと試みるなと戒めておく。」
「汝帰国の暁には静かに身を持し騒乱を起すでないぞ。壺の満ちたる窯を見たならば、壺は焼かずにそのままに放っておけ。もし窯を焼いたるときは、水に囲まれたる所には入るなよ。さもなくば汝は命を落とすぞ、汝とともに見事なる牡牛もな。」
神託を犯し、キュレネ入城を控えて、妻の実家バルケに滞在
アルケシラオスはサモスで集めた軍勢を率いてキュレネへ帰ったが、町の全権を掌握すると託宣のことなど忘れてしまい自分の亡命の報復を敵対した者たちに加えようとした。
また他のキュレネ人はアグロマコスという男の私有であった大きい塔に逃げ込んだが、アルケシラオスはその周りに薪を積ませ、火をつけて焼いてしまった。ところがそれをしてしまった後で、・・・託宣がこのことであったと悟り、
また「水に囲まれた所」とはキュレネのことであろうと考え、自分から進んでキュレネの町へは入らぬようにした。
アルケシラオス、バルケで暗殺される
彼の妻は彼には親戚筋に当る女で、アラゼイルというバルケの王の娘であった。彼はこのアラゼイルの許へ身を寄せたが、バルケ人とキュレネからの亡命してきた者たちが広場を歩いている彼の姿を見てこれを殺し、さらに彼の義父のアラゼイルをも殺してしまった。
バルケの王は、三代目の弟以来の王朝か?いずれにしてもバットス王朝の王族であろう。
息子の代理でキュレネに君臨していた母ペレティメ逃亡
一方母のペレティメは、アルケシラオスが自滅的な行為を犯した後バルケに暮らしていた間は、キュレネにおいて息子の特権を掌握し、万般の政務をとり評議会にも臨席していた。
しかし息子がバルケで殺されたのを知ると、エジプトへ逃亡した。
ペルシアのエジプト総督を篭絡
さてこの時、このアリュアンデスはペレティメを憐れみ、エジプトの海陸全軍を彼女に与えた。
アリュアンデスは軍勢を派遣するに先立ち、バルケに伝令使を送り、アルケシラオス殺害の犯人は誰かと訊ねさせた。
するとバルケ人たちは、自分たちはアルケシラオスから数々の危害を加えたれてきたのであるから、その責は自分たち全部がとると答えた。
七、リビア地誌
リビア人の分布
プロテア島までのリビア人はエジプト化
リビアの住民の分布は次のようになっている。
エジプトを起点にして述べれば、最初に住むリビア人はアデュルマキダイ人で、その風習は大方エジプト風であるが、服装は他のリビア人と変らない。
これにつづくのがギリガマイ人で、西方のアプロディシアス島(デルナの西方にある島)にわたって住む。
そこに至るまでのあいだにおいて、キュレネ人が植民したプラテア島(現ボンバ島)が沿岸に浮かび、陸地にはメネラオス港と、キュレネ人が住んでいたアジリスがある。
キュレネ人の上陸初の都市アジリスには、メネラオス港がある。
キュレネ人がテラ島から入植したラケダイモン人だからだ。
キュレネの内陸部に住むアビュスタイ人
ギリガマイ人の西方にはアスビュスタイ人が続く。キュレネの先に住む種族で彼らの国は海には達していない。海辺の地帯にはキュレネ人が住むからである。
四頭立戦車を御す技倆にかけては、リビア中この種族に及ぶものはない。彼らはキュレネ人のたいていの風習を模倣している。
キュレネ化されているリビア人。
バルケの西に住むアウスキサイ人
アスビュスタイの西方に続くのはアウスキサイ人である。
彼らはバルケ以西に住み、エウエスペリデス(ベレニケから現ベンガジ)附近の海に達する。
キュレネ市とバルケ市があり、キュレネの領域が海岸部にある。
その西にキュレネ領内と重なるようにあるリビア人の領域。
アウスキサイの領土の中頃にバカレスという少数の種族が住み、その地域はバルケ領内の町タウケイラ(トクラ)附近で海に達している。
リビア人のアウスキサイの領域の中に、小さなリビア人の少数民族バカレスが居住する。
キュレネの領域の西隣
キュレネの領域の西隣の海岸地帯にナサモネス人
アウスキサイの西方にはナサモネス人が続く。
この種族は多数の妻を持つ風習があり、マッサゲタイ人と同様男は誰も妻を共有にしてこれと交わる。
キュレネの領域の西隣の内陸地帯にガラマンテス人
これよりさらに南の奥地の、野獣の多く棲息する地域にはガラマンテス人が住む。
ロートパゴイ
ギンダネスの国から海に突き出た岬には、ロートパゴイ人が住む。この種族はロートスの実のみを食糧として生きている。
〔註〕ロートパゴイ(ロートス食い人種)というのは、ホメロスにも知られた名(オデュッセイア巻九)であるが、これは正規な名称ではなく異名に相違ない。あるいは前出のギンダネス族と同一種族かも知れない。
ナサモネス人とガラマンテス人の隣には、
リビア系のマカイ人とギンダネス人と続く。
そしてその岬部と島嶼に、ロートパゴイが生息する。
トリトニス湖畔の両族
トリトン河とトリトニス湖
海沿いにロートパゴイ人に続くのはマクリュエス人で、彼らもロートスを食用にしているが、右に挙げた種族ほどではない。
この種族の領土はトリトンという大河の河岸に及んでいる。
この河はトリトニスという巨大な湖水に注ぐ。
湖中にプラという島があり、スパルタ人が神託に基づいてこの島に植民したという伝説がある。
昔、この地にトリトニス湖という湖とトリトン河があったが、シュルティスに水没したか。
マクリュエス人とアウセエス人
マクリュエスに境を接するのはアウセエス人である。
この種族とマクリュエス族とはトリトニス湖の周りに住み、その間をトリトン河が流れて両者の境を成す。
マクリュエス人は後頭部の髪を伸すが、アウセエス人は前頭部の髪を伸している。
マクリュエス人は、セト(ポセイドーン)信者であっただろう。
一方、アウセエス人はアテナ信者であろう。
ポセイドーンVSアテナはここでも戦われていたということか。
アテナ信者のアウセエス人
この種族の娘はアテナの年祭に、二組に分れて石と棒で戦う。当人たちのいうところによれば、これはギリシアでアテナの名で呼んでるこの土地生まれの女神のために祝う、祖先伝来の儀式であるという。
手傷を負って死ぬ娘は、似非処女だといわれる。
娘たちを戦わせるに先立って、次のような儀式が行なわれる。その年々に最も美貌を謳われる娘にコリントス式の兜とギリシア風の武装一式をつけさせ、車に載せて湖のまわりを曳き廻すのである。
コリントス式の兜というのは、キュレネ人から学んだのであろう。
この種族こそ、リビアからロドス島経由で、アテナイに入植したアテナ教徒と同族であろう。
おそらく、隣国のポセイドーン教徒とともに入植し、ギリシア本土のアテナイを舞台に権力闘争を続行したのであろう。
娘が乱暴な戦いをすることも、ここがアマゾン発祥地であり、
ギリシア人の地理通念が、リビアとコルキスを同一視していることからも、おそらくアマゾン伝説は、リビア娘とスキタイ人が結びついたのだろう。
アテナの正体
アテナはポセイドンとトリトニス湖の娘であったが、なにか父に含むところがあってゼウスの許へ身を寄せ、ゼウスが自分の娘とした、と彼らはいう。
アテナの起源は、エジプトのネイトであろう。リビアのアテナもその起源の一つ。
アテナは、エジプトのネイトとトリトニス湖畔の女神が結びついて、それにアマゾン伝説が結びついたものであろう。
〔註〕アテナに「トリトン生まれの(Tritogeneia)」の異名のあるところから。ただこのトリトンは本来ギリシアのボイオティアにある同盟の河に由来する名であろう。
リビアの方が起源で、ボイオティアに入植したヒクソス=ダナオイ人がトリトン河をリビアの河にちなんで命名したのだろう。
アンモン人のシワ・オアシス
テバイを起点とし十日の行程を経て最初の住む種族はアンモン人で、ここの社はテバイのゼウスの社の分れである。
〔註〕シワという有名なオアシス。実際はテバイからは十日の行程どころではなく、少なくとも二倍の日数を要する。
海岸線をエジプトから西進しつつ説明したリビア人の領域は、ここでいったん途切れる。
この隣はカルタゴ共和国の領域であるからである。
初めのエジプトにもどって、上エジプトの首都テバイから隣接が、このアンモン人のシワ・オアシスである。
テバイのゼウス、すなわちアモン神の分社である。
アンモンにはもう一つ泉の水があり、ここの水は明方にはなまぬるいが、市場の出盛る頃になると冷えてくる。そして昼になれば実に冷たく、住民はこの時刻に菜園に潅水する。陽が傾く頃になると冷たさが減じ、日没とともになまぬるくなる。夜半に近づくに従って温度を増し、この頃になると泡立ち沸騰する。夜半を過ぎると夜明けまで、その温度は再び冷えてゆく。この泉は「太陽の泉」と呼ばれている。
アタランテス族
ガラマンテス族からさらに十日間進むと、また塩と丘と水とがあり、その周辺にはアタランテスという種族が住む。
アンモン人の領域の隣は、キュレネの内陸部のリビア系の領域があり、その隣がガラマンテス人の領域である。
そしてその隣がアタランテス族である。
アトラス山麓のアトランテス人
ついでまた十日間の行程を経て別の塩の丘と水とがあり、その周りに人が住む。この塩の丘に接してアトラスという山がある。
この山は幅が狭く周囲が丸く、その頂上が見極められぬほど高いという。
夏冬の別なくその山頂は雲の晴れ間がないからで、土地の住民はこの山は天の柱であるといっている。
ここの住民の名はこの山の名をとったもので、事実アトランテス人と呼ばれている。
この種族は生あるものは一切喰わず、また夢も見ないという。
〔註〕ギリシア神話のアトラスとの結びつきは、ベルベル語で山のことをアドラルというので、音の相似からきたのであろう、という説がある。
〔註〕現在でもサハラ砂漠の住民は多く菜食であると。
アトランティス人が菜食だったからか。
アトランティスは、この附近の海域にあったと思われる。
この「アトランテス人」こそ、エジプトのサイスの神官が、ネイト信者を投影した「アテナイ」と戦って、海中に没したポセイドーン信者の大帝国「アトランティス人」の末裔であろう。
アトランティス人は、プロト・カルタゴ人であろう。
このプロト・カルタゴ人は、ギリシア本土に、ダナオイ人より先に上陸して、「生え抜き」と通婚し、レレゲス人、ペラスギ人を構成したと思われる。
テュロスからカルタゴ共和国が植民すると、カルタゴ文化にいち早く同化し、後に、ヌミディア王国を形成し、ベルベル人につながっていく人種、もとはフェニキア系、であろう。
リビア人の宗教と禁忌
遊牧リビア人(エジプトからトリトニス湖)
このようにエジプトからトリトニス湖にかけては遊牧のリビア人が住み、彼らは肉食で乳を飲用にしているが、エジプト人の場合と同じ理由で牝牛の肉は食わず、豚も飼わない。
エジプト側のリビア人は、イシス神を憚って牝牛は禁忌。
キュレネ人とバルケ人
キュレネの女たちもエジプトのイシス女神を憚って、牝牛の肉を口にしてはならぬとしており、それのみかこの神のために断食もし祭まで祝う。またバルケの女たちは、牝牛のほかに豚も口にしない。
キュレネ人とバルケ人も、イシス女神を憚って牝牛は禁忌。バルケ人は豚も禁忌。
農耕リビア人
トリトニス以西に住むリビア人はもはや遊牧民ではなく、彼らと風習も異なり、子供に対しても遊牧リビア人が習慣的に子供に施しているようなことはしない。
世界一健康なリビア人
リビアの遊牧民は次のようなことをする。
自分たちの子供が四歳になると、羊毛の脂垢を用いて頭頂の血管を焼くのである。中にはこめかみの血管を焼くものもあるが、これはその後子供たちの一生涯にわたって、粘液が頭から下ってきて体に害を及ぼすのを防ぐためである。
自分たちがどの民族よりも健康であるのは、この処置のお陰だと彼らはいう。事実いかにもリビア人は、われわれの知る限り世界中で最もけんこうな民族である。
自分たちがどの民族よりも健康であるのは、この処置のお陰だと彼らはいう。事実いかにもリビア人は、われわれの知る限り世界中で最もけんこうな民族である。
農耕リビア人のマクシュエス族
トリトン河の西方、アウセエス族の次からはもはや農耕民で住居を構える習慣があるリビア人が住み始める。
マクシュエスという種族で、頭の右側に髪を伸して、左側は剃り、体には朱を塗っている。彼らは自分たちがトロイアの落人の後裔であると称している。
エジプトから遠ざかると文明化されることが、アトランティスの存在を裏付ける。
小アジアからのヨーロッパ系移民ということか。
この髪型は、エジプト第19王朝の子どもの髪型である。
第19王朝を輩出したリビア人は、ヒクソスの末裔にして、ここに居住して農耕生活をしていたこのマクシュエス族であった可能性が高い。
トロイアの末裔とは、小アジアからの植民も合流したということであろう。
タルテッソスのケルト人
カルタゴ人の話には次のようなこともある。
「ヘラクレスの柱」以遠の地に、あるリビア人の住む国があり、カルタゴ人はこの国に着いて積荷をおろすと、これを波打際に並べて船に帰り、狼煙をあげる。土地の住民は狼煙を見ると海岸へきて、商品の代金として黄金を置き、それから商品の並べてある場所から遠くへさがる。
するとカルタゴ人は下船してそれを調べ、黄金の額が商品の価値に釣り合うと見れば、黄金を取って立ち去る。
双方とも不正なことは行なわず・・・
これは実は、ケルティベリア人、すなわちタルテッソスとの交易であろう。交易を始めたばかりのフェニキア人の昔話であろう。
八、バルケ攻囲戦
バルケ攻囲戦
さてペレティメを援助するペルシア軍は、アリュアンデスの命によってエジプトを発ち、バルケに到達すると、アルケシラオス殺害の責任者を引き渡すべき旨を通告し、町を包囲した。
しかしバルケ人は市民全部がその殺害に関与していたので、交渉に応じなかった。
そこでペルシア軍はバルケの町を九ヶ月にわたって包囲攻撃したが、その間城壁内に通ずる地下道を掘るとともに、激しい突撃を繰り返した。
バルケ人はその地点に対坑道を掘っては、坑道を開鑿中のペルシア兵をころしたのである。
バルケ降伏とペレティメの残虐制裁
ペルシア軍からバルケ人の首謀者たちを引き渡されたペレティメは、彼らを城壁のまわりで磔刑に処し、彼らの妻の乳房を切り取り、これをも城壁に貼り附けさせた。
王政にもどったバルケとキュレネ
ただバットス家一族のものと、殺害に加担しなかった者たちのみはそれから除外し、バルケの町はこの者たちの手に委ねられたのである。
ペレティメの天罰的最期
ペレティメもその生涯を仕合わせに閉じることはできなかった。
バルケ人に報復を果たしてリビアからエジプトへ帰るとまもなく、悲惨な最期を遂げたのである。
さながら体中に蛆が充満するという憂目にあったからで、まことに人間があまりにも過酷な復讐を試みるときには、神々の憎しみを買うことが、これによっても判るのである。

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