著述 本58 ヘロドトス『歴史 中』著述 第五巻

ギリシア
  1. 第五巻 イオニアの反乱編
  2. 一、トラキア平定へ
    1. ペルシア軍司令官メガバゾスによるトラキア平定
    2. トラキア人の習俗
    3. ミレトスの僭主ヒスティアイオス、トラキアの土地をねらう
      1. 二人の功労者の恩賞
      2. ヒスティアイオス、トラキアに都市建設希望
    4. パイオニア族の強制移住
      1. パイオニア人兄弟の野心がキッカケ
      2. ストリュモン河畔のパイオニア人強制移住
      3. パンガイオン山とプラシアス湖畔周辺は征服できず
    5. マケドニアの抵抗
    6. 辣腕メガバゾスのヒスティアイオスへの警戒
      1. ヒスティアイオス、ストリュモン河畔に都市建設計画
      2. サルディス帰還のメガバゾスの進言
      3. ダレイオス、ヒスティアイオスをスサに同行
  3. 二、ヒスティアイオスとアリスタゴラス
    1. イオニア地域軍司令オタネス(メガバソズの後任)
      1. オタネスの苛酷な過去
      2. オタネスの破竹の征服
    2. ミレトスとナクソス
      1. ミレトスの内紛
        1. パロス人のミレトス内紛調停と国制改革
      2. ナクソスの内紛とミレトスの僭主代理アリスタゴラス
        1. ダレイオスの兄弟アルタプレネスを頼る作戦
      3. ダレイオスの従兄弟メガバテスが総司令に
        1. メガバテスの仕置きとアリスタゴラスの激怒
        2. メガバテスの裏切りでナクソス征服失敗
    3. アリスタゴラスの反乱
      1. ヒスティアイオスも離反を指令
      2. ミレトスの反乱会議
        1. 史伝作家ヘカタイオスの反対論
        2. ブランキダイの財宝横領の懸案
      3. アリスタゴラス、万民同権革命
  4. 三、スパルタの情勢ークレオメネスとドリエウス
    1. アリスタゴラス、スパルタへ
    2. クレオメネスとドリエウス
    3. ドリエウスのイタリア・シケリア遠征と死
      1. ドリエウスのリビア遠征失敗ーカルタゴ軍に撃退される
      2. ヘラクレア建設を企図して、シケリアへ
      3. シュバリスVSクロトン戦にドリエウスは参戦したか?
      4. ドリエウスの戦死ーカルタゴ人による撃退
    4. クレオメネス一世の治世も短命
  5. 四、アリスタゴラス、スパルタの援助を要請して成らず
    1. アリスタゴラスが持ち込んだ「全世界地図銅板」
    2. アリスタゴラスの対ペルシア戦争へのプレゼン
      1. 汎ヘレネス思想で説得
      2. ペルシア戦争のリスクと得られる利益による説得
      3. 地理的情報提供
    3. クレオメネスの拒絶とゴルゴ
      1. クレオメネスの所要日数の質問力
      2. ゴルゴの助言を喜ぶクレオメネス
  6. 五、スサに至る「王道」の叙述
    1. 王の道
    2. リュディアからプリュギア(ハリュス河まで)
    3. カッパドキア、キリキア、アルメニアとエウプラテス河
    4. ティグレス河・ザバトス河・ギュンデス河
    5. キッシアの王都スサ
    6. エペソスからスサの走行距離と日程
      1. サルディスからスサまで90日の日程
      2. エペソスからサルディスの日程をプラス
  7. 六、イオニア、アテナイと同盟を結ぶ
    1. ペイシストラトス一族の放逐
      1. ヒッパルコス暗殺事件
      2. ゲピュライオイ族
      3. ギリシア語アルファベット誕生秘話
        1. 最初はフェニキア文字
      4. テバイのアポロン・イスメノス神殿の鼎の謎
        1. 鼎1:奉納者はアムピトリュオーン(ヘーラクレースの父)!
        2. 鼎2:奉納者はヘーラクレースの敵ヒッポコオンの子スカイオス!
        3. 鼎3:オイディプースの孫ラオダマス王の奉納!
      5. デメテル・アカイアの秘儀をアテナイに導入したのもゲピュライオイ族
      6. アルクメオン家のデルポイの神託買収
      7. ペイシストラトス一族と親密だったスパルタ
      8. スパルタのペイシストラトス一族のアテナイ攻め
        1. テッサリアに救援要請
        2. スパルタの第一次ペイシストラトス戦争失敗
        3. スパルタのペイシストラトス第二次遠征
        4. ペラルギコン砦に包囲
        5. ペイシストラトス一党退去
      9. シゲイオンで安泰の生活を享受するペイシストラトス一族
      10. ペイシストラトス一族の血脈
    2. クレイステネスとイサゴラス
      1. アルクメオン家
      2. クレイステネスの10部族改編
      3. 祖父のシキュオンの僭主クレイステネス
        1. 敵国アルゴスの英雄アドラストスの排除
        2. アドラストスがシキュオンで崇拝されていたわけ
        3. シキュオン僭主クレイステネスのドーリス人排除
        4. クレイステネスのイオニア人排除
        5. クレイステネス、平民を利用
      4. クレイステネスを召還してスパルタと臨戦態勢
    3. クレオメネスのこと
      1. クレオメネス、アテナイに侵入
      2. デマラトスのスタンドプレー
    4. アテナイとアイギナ
      1. アテナイ、カルキスとボイオティアに侵入
      2. テーバイの報復計画
      3. 「最も近い隣国に援助をもとめよ」アイギナに救援要請へ
      4. アイギナの救援
        1. アイアコスの神霊を送る
      5. アイギナ戦へ
      6. イオニア風とドーリス風のキトン
      7. アイギナとスパルタ、卑劣なアテナイに激怒
    5. スパルタにおけるヒッピアス
      1. スパルタ、ヒッピアスを招請
      2. コリントスの反対
        1. コリントスの僭主政
          1. ヘラクレイダイの王族バッキアダイ
          2. ラピタイ族と混血のキュプセロス、僭主へ
          3. 二代目僭主ペリアンドロス
        2. ヒッピアスの託宣への知識の深さ
  8. 七、シゲイオンの戦い
    1. シゲイオンのヒッピアス一族
    2. ペルシアと戦争必至
    3. ミレトスのアリスタゴラスのアテナイ訪問
  9. 八、ギリシア同盟軍の東征ーサルディスの破壊
    1. パイオニア人帰国作戦
    2. アテナイとエレトリア海軍派遣
    3. アリスタゴラス、ミレトス海軍派遣
    4. アナトリア上陸作戦
      1. イオニア軍、エペソスから上陸
      2. サルディス破壊
    5. トモロス山に退却し船で海上へ逃亡
    6. 卑怯アテナイ、イオニアを見捨てる
    7. アリスタゴラス、ヘレスポントスとカリアに展開
  10. 九、キュプロスの離反とその鎮圧
    1. アマトゥスを除くキュプロス制圧
      1. アマトゥスとは?
    2. サラミス王ゴルゴスの弟オネシロスの兄追放
    3. サラミス王オネシロスのアマトゥス攻囲
    4. ヒスティアイオスを行かせるダレイオス
    5. イオニア人、サラミスを援護
    6. フェニキア海軍VSイオニア海軍(サモス軍の勝利)
    7. キュプロスの陸上戦(サラミスとソロイの大敗)
      1. サラミスとソロイの両僭主斃れる
      2. アマトゥス人の戦利品となったオネシロスの首
    8. イオニア海軍撤退
  11. 十、イオニア人の敗北、アリスタゴラスの死
    1. ダレイオス娘婿ダウリセス、ヘレスポントスを掃蕩
    2. アリスタゴラス、亡命先を打診
    3. アリスタゴラス、トラキアに亡命

第五巻 イオニアの反乱編

一、トラキア平定へ
二、ヒスティアイオスとアリスタゴラス
三、スパルタの情勢ークレオメネスとドリエウス
四、アリスタゴラス、スパルタの援助を要請して成らず
五、スサに至る「王道」の叙述
六、イオニア、アテナイと同盟を結ぶ
   ペイシストラトス一族の放逐
   クレイステネスとイサゴラス
   クレオメネスのこと
   アテナイとアイギナ
   スパルタにおけるヒッピアス
七、シゲイオンの戦い
八、ギリシア同盟軍の東征ーサルディスの破壊
九、キュプロスの離反とその鎮圧
十、イオニア人の敗北、アリスタゴラスの死

一、トラキア平定へ

ペルシア軍司令官メガバゾスによるトラキア平定

ダレイオスがヨーロッパに残していった、メガバゾス麾下のペルシア軍は、ヘレスポントス附近の町のうち、ダレイオスに従おうとしないペリントスを、最初に制圧した。
この町は以前も、パイオニア族によって苦汁をなめさせられた経験があった。

ペリントス攻略の後、メガバゾスはトラキアを通って軍を進め、この地方の町および民族をことごとく大王に帰属させた。

トラキア人の習俗

トラキア人は、全世界でインド人についで最大の民族である。
地方地方によって、それぞれの部族がみんな違った名前をもっているが、それらの部族もみんな、習俗の点では万般にわたってよく似ている。
ただ、ゲタイ族、トラウソイ族、それにクレストナイオイ族の北方にすむ部族だけは、例外である。

これらの部族のうち、不死を信じているゲタイ族の風習については、前に述べた。(ピュタゴラス学徒の神霊サルモクシス崇拝のため不死を信じ勇敢)

トラウソイ族の風俗は、・・・
子供が生まれると、・・・嘆き悲しむのである。ところが死亡の場合には、数々の労苦を免れて、至福の境地に入ったのだというので、嬉々として笑い戯れながら土に埋めるのである。

クレストナイオイ族の北方に住む部族の習慣は、・・・
どの妻が死んだ男にいちばん愛されていたかということで、妻同士の間に激しい競り合いが起り、その選に当たる栄誉を得た女は、・・・夫と共に埋葬される。

戦争と掠奪で生計を立てるのが、最高の生き方なのである。
彼らが尊敬する神としては、アレス、ディオニュソス、アルテミスがあるだけである。
しかしその王たちは、一般の部族民とは違って、神々の中でもヘルメスを最も尊崇し、誓いを立てる時もこの神にだけかけて誓う。そして自らヘルメスの後裔であると称している。

ミレトスの僭主ヒスティアイオス、トラキアの土地をねらう

二人の功労者の恩賞

ダレイオスは、ヘレスポントスを渡ってサルディスに帰着するとすぐに、以前ミレトスの人ヒスティアイオスが自分に尽くしてくれたことや、ミュティレネの人コエスに善い建言をしてもらったことなどを思い出した。

ヒスティアイオス、トラキアに都市建設希望

ヒスティアイオスは、すでにミレトスの独裁者であったから、・・・
ミュルキノスに、新しい町を創りたいから、その土地を欲しいと申し出た。
コエスの方は、まだ独裁者ではなく一介の私人に過ぎなかったので、ミュティレネの独裁権を得たいと申し出た。

パイオニア族の強制移住

一方ダレイオスは、たまたま次に述べるような事件に遭い、その結果メガゾバスに指令をして、パイオニア族をヨーロッパからアジアへ強制的に移住させる、という気を起こすことになった。

パイオニア人兄弟の野心がキッカケ

ここにパイオニア人でピグレス、マステュエスという二人の兄弟があったが、この二人はダレイオスがアジアに帰ったのち、パイオニア族の独裁権を得たいという望みをもって、サルディスへやってきた。

二人はそれに答えて、自分たちは王に一身を任せるつもりできたこと、パイオニアはストリュモン河畔に国を設けていること、
そのストリュモン河はヘレスポントスから遠からぬところにあること、パイオニア族とは、元をただせばトロイアのテウクロイ一族の移住民であることなどを述べた。

〔註〕トロイア王家の祖テウクロスの名に基づくもので、トロイア人のこと。
ただしパイオニア人の語ったこの伝承は、トロイア戦争以前に属する事柄で、トロイア人とミュシア人がヨーロッパに遠征した際、ストリュモン河畔に一植民地を設けたのがパイオニア族の起源だというのである。(巻七、二〇節参照)

ストリュモン河とは、ブルガリアにある現ストルマ河。
アンフィポリス近郊でエーゲ海にそそぐ。
このトラキアの地の金鉱と造船用の木材をめぐって争奪の中心となった。ペロポネソス戦争の激戦アンフィポリスの戦いの舞台。

ストリュモン河畔のパイオニア人強制移住

こうしてパイオニア人のうち、・・・・およびプラシアス湖に至るまでの地域に住むものが、定住地を追われて、アジアへ移されたのであった。

パンガイオン山とプラシアス湖畔周辺は征服できず

しかし、パンガイオン山とプラシアス湖周辺に住むものたちには、メガバゾスも全く手を着けることができなかった。

この部族の湖上生活は次のようなものである。
背の高い杙に固定された床が、湖中に立っており、陸地へは一本の橋による狭い通路があるだけである。
その生活の様式は、・・・床を切って下方の湖面に通ずる落とし戸が附いている。幼児は転がり落ちてはきけないというので、足に縄を結びつけている。
魚類の資源は大変なもので、例の落とし戸を開け、大きな空の籠を綱で湖におろし、待つほどもなく曳き上げると、籠は魚で充満しているといった按配である。

プラシアス湖からマケドニアまでの距離はきわめて短い。
湖に近接して鉱山があるが、後に日産一タラントンの銀を産出して、アレクサンドロスの財源となったのはこの鉱山である。

マケドニアの抵抗

さて、このペルシア使節の一行は、アミュンタスの許に着くや、アミュンタス王に面会し、ペルシア王に土と水とを献ずるように要求した。

こういってアレクサンドロスは、ペルシア人の一人一人に、女と偽ってマケドニアの青年を侍らせた。ペルシアが手を触れようとしたとき、青年たちは彼らを刺殺したのであった。

辣腕メガバゾスのヒスティアイオスへの警戒

ヒスティアイオス、ストリュモン河畔に都市建設計画

ところでミレトスの人ヒスティアイオスは、船橋の守備に建てた功により、その恩賞としてダレイオスに乞うて手に入れた、ストリュモン河畔のミュルキノスという土地に、早くも城壁を築いて新しい町の建設にかかっていたが、そのヒスティアイオスの行動を聞き知ったメガバゾスは、パイオニア族を率いてサルディスにつくと早速ダレイオスにこういった。

サルディス帰還のメガバゾスの進言

「王よ、とても一筋縄ではゆかぬ有能なギリシア人に、トラキアで町を建設することをお許しになるとは、なんということをなさいました。
トラキアは船材や橈の材となる樹木を豊富に産し、また銀山もございます。」

メガバゾスは、ヒスティアイオス同様、ストリュモン河畔の重要性を熟知していた。
それは、フェニキア人が重要視していた船建造の木材と鉱物の宝庫であり、森林と鉱山を擁していた。
メガバゾス、ヒスティアイオス両名ともフェニキア系の混血の感じる商人魂をもっている。

「しかしいったん彼奴を手中にお収めになった以上は、彼奴が再びギリシアへ帰らぬようになさいませ」(メガバゾス)
「ミレトスと、そなたがトラキアに新たに作った町のことは忘れ、その代りに私と共にスサへゆき、私の陪食をし、相談役ともなってくれぬか。」

ダレイオス、ヒスティアイオスをスサに同行

ダレイオスはこういうと、自分の腹違いの弟アルタプレネスをサルディスの総督に任じた上、ヒスティアイオスを連れてスサへ出発した。

二、ヒスティアイオスとアリスタゴラス

イオニア地域軍司令オタネス(メガバソズの後任)

オタネスの苛酷な過去

ダレイオスはこのときまた、沿岸地域の指揮権をオタネスなるものに委ねたが、このオタネスの父はシサムネスといい、カンビュセス王の治下で王室裁判所の判事を務めていた。しかし、金品を受けて不正の裁決をした咎で死刑に処され、・・・皮膚をことごとく剥ぎ取らせた。・・・
後任として息子を判事に任命し、

オタネスの破竹の征服

こういう曰くつきの椅子に坐って裁判をしたオタネスが、この時メガバゾスの後継者として軍隊の指揮をとることになったのであるが、
彼はビュザンティオンとカルケドンを占領し、さらにトロアス地方のアンタンドロス、ついでランポニオンを攻略し、さらにはレスボスから艦隊を奪取して、レムノス、インブロスの二島を占領した。
この両島には当時もなお、ペラスゴイ族が住んでいた。

オタネスは、ヘレスポントス人の二大都市ビュザンティオンとカルケドンを占領し、
レスボスを基地に、レムノス、インブロスの二島嶼を占領した。
アイオリス地方を制覇して、イオニア地方の心臓部ミレトスとナクソスに迫る。

ミレトスとナクソス

しかし災禍は再びイオニア人に、今度はナクソスとミレトスとから起ころうとしていた。
当時ナクソスの富強は、他の島々にぬきんでており、また同じ頃ミレトスも、ミレトス史上最盛の時期に達しており、イオニアの華と謳われた。

ミレトスの内紛

パロス人のミレトス内紛調停と国制改革

しかしこのミレトスもそれ以前は、内争のために二世代にわたって疲弊の極に達したことがあり、その後パロス人がようやくこれを立て直したのであった。
つまりミレトス人が、全ギリシアの中から、特にパロス人を内紛の調停者にえらんだのである。

パロスの有力者たちが・・・・ミレトス全土を見て廻り、荒廃した国土に時たまよく耕された畑が目につくと、そのたびにその畑の所有者の名を控えていった。
町へ帰ると早速民会を召集して、手入れのよかった畑の所有者たちに、国政を任せることにした。
こういう人間ならば、公共のことも自分のことと同様に、よく面倒を見るに違いないから、というのがパロス人たちの挙げた理由であった。

ナクソスの内紛とミレトスの僭主代理アリスタゴラス

ナクソスの資産階級の幾人かが、民衆派によって国を追われ、ミレトスに亡命してきた。
当時ミレトスは、アリスタゴラスが臨時に支配していた。
アリスタゴラスは、ヒスティアイオスの娘婿でもあった男である。

ダレイオスの兄弟アルタプレネスを頼る作戦

「アルタプレネス(ダレイオスの兄弟)と私は懇意な仲であり、・・」
これをきいたナクソスの亡命者たちは、アルタプレネスへの謝礼と軍隊の必要経費は、いずれ自分たちが弁済するから、アリスタゴラスから相手方へ約束しておいてくれるように依頼した。

「ナクソスはもとより、ナクソスに従属しているパロスやアンドロスなど、いわゆるキュクラデスの他の島々をも、大王の版図に加えることがおできになることも、お忘れなきよう。
さらにこれらの島を基地になされば、エウボイアを攻撃なさることも容易となりましょう。エウボイアは富裕な大島で、大きさはキュプロスに劣らず、しかも占領することはきわめて容易い島なのです。」

ダレイオスの従兄弟メガバテスが総司令に

ダレイオスの同意を得るや、二百の三段橈船と、ペルシア軍および同盟国軍で編成した強大な軍勢を準備したのである。
その総指揮官には、アカイメネス家の出であり、ダレイオスにも自身にも従兄弟に当るメガバテスを任命した。

メガバテスは、アリスタゴラスをはじめイオニア軍およびナクソスの亡命者たちを自軍に迎えると、あたかもヘレスポントスに向かうかのごとく見せかけてミレトスを出帆し、キオス島に着くや、・・・ナクソスに向かう手筈を整えていた。

メガバテスの仕置きとアリスタゴラスの激怒

たまたまミュンドスからの船に、一人も警備兵がいなかった。
メガバテスは激怒し、自分の親衛隊の兵士たちに命じて、その船の艦長であるスキュラクスという男を探し出して縛り上げ、頭は船外、胴体は船内、というふうにして、船の橈孔に押し込んだ。
スキュラクスが縛られた後、アリスタゴラスの許へ、彼には親しいミュンドス人の艦長を、メガバテスが縛って手荒な仕置きをしている、と告げたものがあった。
アリスタゴラスが出向いて行って、メガバテスに釈放方を頼んだが、相手が聞き入れぬので、自分で行って艦長の縛めを解いてしまった。

〔註〕ミュンドスは小アジア南方のドーリス系の町。ヘロドトスの生地ハリカルナッソスに近い。

メガバテスの裏切りでナクソス征服失敗

アリスタゴラスはこういったが、相手はこの言葉に腹を立て、日の暮れるのを待って小船で人をナクソスへ送り、ナクソス人に迫っている事態をことごとく告げさせたのである。

かくて包囲戦は四ヵ月にわたって続いた。やがてペルシア軍が用意してきた軍資金は底をつき、これに加えてアリスタゴラス個人の出費も多額に上り、・・・遂に遠征軍はナクソスの亡命者のために城壁を築いてやった上で、惨憺たる状態で大陸へ引き上げていった。

アリスタゴラスの反乱

かくてアリスタゴラスは、アルタプレネスとの約束を果たすことができなかったが、それとともに出征の費用を督促されて窮地に陥り、また遠征の失敗やメガバテスとの不和が不安の種となり、かくてはミレトスの支配権をも失うのではないかと考えはじめた。
そしてこれらのことどもを、あれこれ思い煩っている内に、とうとう謀反を企らむようになったのである。

ヒスティアイオスも離反を指令

ヒスティアイオスは、アリスタゴラスに離反を指令したいと考えたのであるが、・・・
ヒスティアイオスがこんな行動に出たのも、スサに抑留されているのがどうにもやりきれなくなったからである。

ミレトスの反乱会議

史伝作家ヘカタイオスの反対論

アリスタゴラスは、・・・自分の意見を明らかにすると、・・・
そのことごとくが離反に賛成した中に、ひとり史伝作家ロゴポイオスのヘカタイオスのみは、ダレイオスの支配下にある民族を一々数え上げ、王の軍事力を評価して、ペルシア王に対して戦いを起こすことの不可であることを主張した。

〔註〕ヘカタイオス(五五〇ー四七六)はギリシアの史家の先駆者で、ヘロドトスも彼に多くを負っている。

ブランキダイの財宝横領の懸案

今度は第二案として海上を制する方策を建てるように進言した。
即ちブランキダイの神殿から、リュディア王クロイソスが奉納した財宝を横領することであり、そうすれば制海権を掌握する望みが多分にあると思う。・・・

〔註〕ブランキダイとは「ブランコス一族」の意。
デルポイの人ブランコスを祖と称する神官の家系で、ミレトス附近にあるディデュマのアポロン神殿を守り、その神託を司った。
ブランキダイはその土地の名としても用いられた。

アリスタゴラス、万民同権革命

アリスタゴラスはまず、ミレトス人が進んで自分の謀反に加担してくるように本心はとも角名目上は、ミレトスで独裁制を廃して万民同権の民主制を敷くこととしたが、つづいてイオニアの他の地区にも同様の政策を実施しようとし、幾人かの独裁者を追放したり、また彼と共にナクソス遠征に参加した船団から捕らえてきた独裁者たちを、町々に恩を売るため、それぞれの出身地である町へ引き渡したりなどしたのであった。

ミュティレネ人は、コエスが引き渡されるとすぐに、町はずれへ曳き出し、石打ちの刑に処してしまったが、キュメでは元の独裁者を放免した。他の町々も大方は、キュメの例にならった。

ほとんどイオニア都市は、僭主政を是認。
イオニア人は、僭主の下で、ペルシアの傘下、平和に暮らすほうを選んだ。
民衆も貴族も双方の利益が一致していた。

三、スパルタの情勢ークレオメネスとドリエウス

アリスタゴラス、スパルタへ

ミレトスの人アリスタゴラスは独裁制廃止を果たしたのち、それらの町でそれぞれ将軍を任命させ、つづいて自ら使節として軍船にのってスパルタに向った。

クレオメネスとドリエウス

スパルタでは、アナクサンドリデスの子クレオメネスが王であったが、彼が王位に即いたのはその家柄によってもので、資質が優れていたからではなかった。

アナクサンドリデスは、自分の姉妹の娘を妻としており、その妻が大変気に入っていたが、子供が生まれなかった。
そこで監督官エポロイは王の出頭を求めて、こういった。「ただし別に世継ぎを産まるべき奥方をお入れ願いたい。」
右の提案にアナクサンドリデスも同意し、それからは二人の妻をもって、二重の世帯を営むことになったが、このようなことはスパルタの習俗には全く反することであった。

その後間もなく、後添いの妃が前述のクレオメネスを生んだ。
第一の妃は、こうしてドリエウスを産んだ後、つづいてすぐにレオニダスを孕り、その後またすぐにクレオンブロトスを孕った。

ドリエウスのイタリア・シケリア遠征と死

さてクレオメネスは、頭脳が正常でなく狂気の気もあったという。
一方ドリエウスは、同じ年頃の者の間で頭角をぬきんでており、その才幹によって王位を継ぐのは自分であると、堅く信じていた。

ドリエウスのリビア遠征失敗ーカルタゴ軍に撃退される

植民地開拓の指導者として出国することになった。
デルポイの神託に訊ねもせず、・・・憤激に駆られるまま、船をリビアに向けて進めたのである。
しかし三年目になって、リビアの住民であるマカイ族とカルタゴ人にその地を追われ、ペロポネソスへ引き上げたのであった。

ヘラクレア建設を企図して、シケリアへ

この時、エレオンの人でアンティカレスという者が、「ライオスの託宣」を盾にして、シケリアにヘラクレアという町を建てるようにすすめた。エリュクスの地はすべてヘラクレス自らが占領した土地であるから、ヘラクレスの後裔に帰属すべきものだ、というのが彼の言い分であった。

彼は先にリビアへ引率したと同じ開拓団の一行を連れて、イタリアの海岸沿いにシケリアに向った。

シュバリスVSクロトン戦にドリエウスは参戦したか?

シュバリス人の話では、この頃テリュスを王に戴いたシュバリスが、クロトンの町を攻めようとしていたが、それに恐慌を来したクロトン側は、ドリエウスに救援を乞い、その援助を得ることに成功し、ドリエウスはクロトン人と共にシュバリスを攻撃し占領したのだ、という。

これに対してクロトン側が、自説の証拠としてあげているのは、・・・ドリエウスにもその子孫にも、与えられた所領というものは一つもなかった。しかしもしドリエウスが実際対シュバリス戦に参戦していたのならば、カリアスより何倍もの領地が彼に与えられていたはずだ、というのである。

ドリエウスは、イタリア戦線に参加しなかったというのが、事実だろう。

ドリエウスの戦死ーカルタゴ人による撃退

彼らは開拓団の総勢がシケリアに到着したのち、フェニキア人(カルタゴ人)とエゲスタ人との戦いに敗れ戦死を遂げた。

クレオメネス一世の治世も短命

ドリエウスはこのようにして最期を遂げたが、もし彼がクレオメネスの統治に甘んじて、スパルタに留まったならば、やがてスパルタの王となるはずであった。クレオメネスの治世は永くは続かず、彼は世継ぎの子もなく、ゴルゴという名の娘ひとりを残して死んだからである。

スパルタ王家は、クレオメネス一世の娘ゴルゴとドリエウスの弟レオニダスの子孫によって継承されていく。

四、アリスタゴラス、スパルタの援助を要請して成らず

アリスタゴラスが持ち込んだ「全世界地図銅板」

さて話は元へかえって、ミレトスの独裁者アリスタゴラスは、クレオメネス治下のスパルタについた。
そして王と会談に入ったが、スパルタ人の語るところによれば、アリスタゴラスはこのとき、全世界の地形と共に、海洋と河川のすべてが彫り込んである銅板を携えていたという。

〔註〕地図の発明は哲学者アナクシマンドロスに帰せられる。
その後ミレトスの史家ヘカタイオスも地図を作ったという。
ヘカタイオスはアリスタゴラスの一味の一人であるから、この地図が彼の直接または間接の協力に成ったものと考えられぬことはない。

アナクシマンドロスはミレトス在住のタレスと同時代人で、タレスの影響を受けたイオニア派哲学者。古代自然哲学の根っこにタレスあり。

アナクシマンドロスとヘカタイオスは、「円形世界地図」の創作者であり、ヘロドトスがこれに疑義を呈している。
それは、アジア、ヨーロッパ、リビアを同面積で三分割し、まわりをオケアノスが取り囲むものである。納富哲学史のP133の地図がある。

アリスタゴラスの対ペルシア戦争へのプレゼン

汎ヘレネス思想で説得

「イオニアの同胞が自由を奪われ、隷従の状態にあることは、単にわれわれイオニア人自身にとって、この上ない汚辱であり苦痛でありばかりでなく、他のギリシア人、ことにその勢威ギリシアに並ぶものない、あなた方スパルタ人にとっても、同様であると信じます。」

汎ヘレネス思想があったことは確か。しかし、戦争の経緯をみれば実にぬるいものであったことがわかる。ことにイオニア人は功利主義で動く。
またスパルタは、自国の存続を第一にし、他のギリシア本土の都市も同様であった。

ペルシア戦争のリスクと得られる利益による説得

「ペルシア人の戦いの仕方について申せば、武器としては弓と短槍を用い、ズボンを穿き帽子をかぶって、戦いに臨みます。こんな有様でありますから、彼らを討ちまかすことはたやすいことです。」

ペルシア軍の戦闘力の情報提供で説得。ミレトス人らしいところ。

「これに加えて、大陸に住む彼らには、他の国々をことごとく合わせても及ばないほどの、豊かな資源があります。金をはじめ、銀、銅、綺羅の織物、さらには荷曳用の獣に奴隷、これらを欲しいとお望みにさえなれば、みなあなた方のものとなるのです。」

イオニア人らしい功利主義で説得。

地理的情報提供

「ここのイオニア人の隣りには、このリュディア人が住んでおります。リュディア人の住む土地は豊沃で、銀の産出額は他に類がありません。」と、アリスタゴラスが、銅板に彫り込んで持参した世界総図でそれを示しながらこういったが、・・・

「リュディア人の東隣には、プリュギア人がおります。
プリュギア人の隣りには、われわれが普通シリア人と呼んでいる、カッパドキア人が住んでおりますが、
これと境を接してキリキア人がおり、
ここにキュプロス島が浮かんでおりますが、この海にまで及んでおります。この国から毎年大王に五百タラントンの年貢を納めております。
このキリキア人の隣りには、アルメニア人がおりますが、
その隣りがこのキッシアの国で、この国こそこのアスペス河に沿って、大王の住んでおります名に負うスサの町があるところであります。
財宝の蔵もまたここにあるわけです。

スサは、エラムの首都、ペルシアの王都。両川流域のバビロニアの東にある。

クレオメネスの拒絶とゴルゴ

クレオメネスの所要日数の質問力

さて返答をする約束の日になって、二人が所定の場所で落ち合うと、クレオメネスはアリスタゴラスに、イオニアの海岸を発って大王の許までゆくのに、何日かかるか、と訊いた。
アリスタゴラスが、ここで躓いたのである。
スパルタをアジアに出征させようと思えば、真実をいうべきでなかったのに、海岸から都までの道程は三ヵ月を要すると、ありのままいってしまったのである。

「ミレトスの客人よ、陽の沈む前にスパルタからお引きとり願いたい。
そなたはスパルタ人を、海から三ヵ月もかかるところへ引っぱってゆこうというおつもりのようだが、そのようなお話は、スパルタ人にとってはとても受け入れられることではない。」

ゴルゴの助言を喜ぶクレオメネス

ちょうどそのとき、クレオメネスのひとり子で、年の頃は八、九歳、名前をゴルゴという娘が、父の傍にいた。
クレオメネスが承知せぬと見ると、アリスタゴラスは
金額を次第に吊り上げてゆき、とうとう五十タラントン出そうというところまでいった。
そのとき子供が大声でいうには、
「お父様、もう席をお立ちなさいませ。そうでないと、お父様はこの外国人に買収されておしまいになりますよ。」
クレオメネスは子供の忠言を嬉しく思って、別室に退き、アリスタゴラスも今はこれまでとスパルタを去った。

このクレオメネスの行動をみるに、彼も狂気とか愚鈍ではなく、聡明な人物だったようだ。

五、スサに至る「王道」の叙述

王の道

そこでこの道程について、ここに説明を加えると、次のとおりである。
街道上いたるところに、王室公認の宿場と大層立派な宿泊所があり、街道の通じている全距離にわたって、人家があり安全でもある。

リュディアからプリュギア(ハリュス河まで)

リュディアとプリュギアの区間は、九十四半パラサンゲスの距離であるが、この間に宿場が二十ある。

〔註〕パラサンゲスはペルシアの里程単位で約五キロメートル半。
ギリシアの単位でいえば、三十スタディオンに当たる。

プリュギアの向こうにはハリュス河の流れがあり、ここには関所が置かれている。

ハリュス河とは、現クズルウルマク川(クズル=赤い、ウルマク=川)であり、ヒッタイトは、マラシャンタと呼んだ。

カッパドキア、キリキア、アルメニアとエウプラテス河

ハリュス河を渡るとカッパドキアに入るが、ここを進んできりキア国境に至るまでの距離は、百四パラサンゲス、宿場は二十八を数える。

ここを通ってキリキアを過ぎる道程が、十五半パラサンゲスで、三つの宿場がある。

キリキアとアルメニアの国境に、エウプラテス(ユーフラテス)という河があり、これは船で渡る。

アルメニアから進んでマティエネの地に入ってゆくが、・・・
舟航可能な四つの河が、この地方を貫流しているが、先へ進むにはどうしてもはしけで渡河せねばならない。

ティグレス河・ザバトス河・ギュンデス河

最初の河はティグレス(ティグリス)、つづいて第二第三の河はいずれもザバトス河(ザブ河)と呼ばれているが、二つは同じ河でもなく、また同じ源から発しているのでもない。
四番目はギュンデスという河で、これはその昔キュロスが、その流れを三百六十の運河に分割した河である。

キッシアの王都スサ

ここからキッシアの地方へ入り、十一宿場、四十二半パラサンゲス進と、これまた舟便のあるコアスペス河に着く。
スサの都はこのコアスペス河畔に築かれているのである。

エペソスからスサの走行距離と日程

サルディスからスサまで90日の日程

以上、宿場の総数は百十一、つまりサルディスからスサの都に上がってゆくに、これだけの数の宿泊所があったわけである。

このいわゆる「王道」の、パラサンゲス単位による測量が正しいものとし、また一パラサンゲスは三十スタディオンに当るからその割合で計算すると、サルディスからいわゆる「メムノン宮」までの距離は四百五十パラサンゲス、すなわち一万三千五百スタディオンになる。
毎日五十スタディオンずつ進むとすれば、ちょうど九十日かかることになる。

〔註〕メムノンは伝説上のエチオピア王。トロイア方の援軍としてトロイア戦に参加し、アキレウスに討たれて死んだ。その彼がスサに王宮を築いたという伝承による。

スサはエラム以来の古都。エラムとエチオピアの関係からメムノンの王宮説へつながるか?

エペソスからサルディスの日程をプラス

だからミレトスのアリスタゴラスが、スパルタのクレオメネスに、ペルシア王に達する道のりを三ヵ月といったのは、正しかったわけである。
しかしさらに正確を期そうとするならば、エペソスからサルディスまでの距離を加算すべきことを指摘せねばなるまい。
それで結局、ギリシア海(エーゲ海)から、いわゆる「メムノンの都」スサまでの全行程は一万四千四百スタディオンになる。
つまりエペソスからサルディスまでの距離は五百四十スタディオンで、三ヵ月の行程が三日だけ長びくことになる。

六、イオニア、アテナイと同盟を結ぶ

さてアリスタゴラスはスパルタを追われてアテナイへいったが、当時のアテナイはすでに独裁者の支配から解放されていた。
その間の事情は次のとおりである。

ペイシストラトス一族の放逐

ヒッパルコス暗殺事件

ペイシストラトスの子で、独裁者ヒッピアスの兄弟であったヒッパルコスは、まごうかたなく己の危機を告げる夢を見たのち、遠くゲピュライオイ族の血筋を引く二人の人物、アリストゲイトンとハルモディオスの手によって殺されたのであったが、アテナイ人たちはそれから後も四年間にわたって、以前に劣らずーあるいはそれ以上にもー独裁者の圧制を忍ばねばならなかった。

ゲピュライオイ族

ヒッパルコスを討った二人の人物を出したゲピュライオイ族というのは、本来エレトリアに発した部族であると自称しているが、私が調査して明らかにしたところでは、今日ボイオティアと称されている地方に、カドモスとともに移住してきたフェニキア人であり、この地方のタナグラ地区を割当てられて定住していたものであった。

〔註〕タナグラの別名をゲピュラといったところから、この説が出たものと見える。ゲピュラとは「橋」の意であるが、ローマの要職pontifexがpons「橋」と関連をもつところから、右の氏族名も相似た縁起をもつかもしれぬという。

ゲピュライオイ族とは、カドモス一党のフェニキア人の末裔で、ボイオティア人に負われてアテナイに移住した人々だという。

ところがまずカドモス一党が、アルゴス人によってこの地から追われたのち、つづいてゲピュライオイ族もボイオティア人に追われて、アテナイへ難を避けることになった。
アテナイでは彼らをある条件のもとで市民として受け入れたが、そのためにゲピュライオイ人たちは市民権の上で若干の制約を受けることになった。

いつだったのか?
ここで、アルゴス人とは、アルゴスに亡命していたポリュネイケースの子テルサンドロスのことであろう。
ポリュネイケースは、テーバイ帝室のおそらく長男筋。
「テーバイ攻め」で敗北した弟筋のエテオクレスの子ラオダマス王とともに、イリュリア他各地に亡命したカドモス一党の亡命先の一つが、もっとも近いアッティカであったのだろう。
長男筋が乗り込んできた時、大半はテーバイに残留した。同じカドモス家だったからだ。
ゲピュライオイ族が亡命したのは、クサントスにつながるボイオティア人が(おそらくアカイア側の戦力として)侵入し、テーバイを占領した時であろう。
当時、アテナイは逆にテーバイ帝室の一族が占領していた。テーセウスをおっぽり出して。

ギリシア語アルファベット誕生秘話

最初はフェニキア文字

カドモスとともに渡来したフェニキア人たちはーゲピュライオイ人とその一部であったがー、この地方に定住して、ギリシア人にいろいろな知識をもたらした。
中でも文字の伝来は最も重要なもので、私の考えるところでは、これまでギリシア人は文字を知らなかったのである。

フェニキア人の移住民たちは、はじめは他のすべてのフェニキア人の使うのと同じ文字を使用していたが、時代の進むとともにその言語を(ギリシア語に)変え、同時に文字の形も変えたのである。

当時このフェニキア人と境を接して住んでいたのは、大部分がイオニア人であったが、この文字をフェニキア人から習い覚え、「フェニキア文字」と呼んでこれを使用したのである。
フェニキア人がギリシア人へ伝来したものであるから、この呼称は正しいといわねばなるまい。

テバイのアポロン・イスメノス神殿の鼎の謎

私自身、ボイオティアのテバイにある「イスメノスのアポロン」の神殿で、三台の鼎に「カドモス文字」が刻み込んであるのを見たことがある。
その文字は大体において、イオニア文字とよく似ていた。

〔註〕テバイを流れるイスメノス河畔にその神殿があった。このアポロンの信仰はきわめて古い。

鼎1:奉納者はアムピトリュオーン(ヘーラクレースの父)!

その鼎の一台にはこんな銘がある。

 アンピトリュオン、われをテレボアイ人より奪いて、ここに奉納す。

これは、カドモスの子ポリュドロスの子ラブダコスの子なる、ライオスの時代であろう。

〔註〕アンピトリュオンはティリンス王アルカイオスの息子でヘラクレスの名目上の父親である。

〔註〕ギリシア西部のアカルナニア地方に住むタポス人、またの名をテレボアイ人がミュケナイに侵入し、アンピトリュオンには叔父に当るエレクトリュオンの子らを殺した。

〔註〕エレクトリュオンはタポス人に報復したが、その後誤ってアンピトリュオンに殺される。

つまり、タポス人(アカルナニア人)が侵入して来て、アルゴス地方の王が撃退する。
歴史的には、アカルナニア人は、アカイア人の同盟者としてアルゴスに侵入し、
実際はテーバイ帝室は敗走して、アルゴスを明け渡し、テーバイに退却したのであろう。

アンピトリュオンの奉納した鼎が実在するということは、アムピトリュオーンの実像は、アルゴスでテーバイ帝室の一族として統治していたが、アカイア人を避けて、テーバイに里帰りした時期かもしれない。
時代的には、オイディプース=ヘーラクレースと考えて、養父的ポジなので、クレオーン=アムピトリュオーンとみていいかもしれない。

鼎の奉納は、ギリシア本土の「トロイア戦争」でいったん敗北した後、「レコンキスタ」でテーバイ人がギリシア本土の覇権を復帰した時に、テーバイ帝室の一族の一人アムピトリュオーンによって奉納されたのであろう。
すると、アムピトリュオーンという名前は実在で、何代目かのヘーラクレースに投影されているのだろう。

鼎2:奉納者はヘーラクレースの敵ヒッポコオンの子スカイオス!

もう一つの鼎には、ヘクサメトロス調で、
 スカイオス、拳闘に勝ちてこのわれを、
 世にめでたき供え物とて、
 遠き矢を放ち給うアポロンに捧げまつりぬ。
と刻んである。

ヘクサメトロスは、デルポイ初代の巫女の発明とされるため、
テバイ王家は、小アジア系との交流で、竪琴や音楽を伝来させていた仮説が成り立つ。

ここにスカイオスとあるのは、ヒッポコオンの子のスカイオスであろう。もし実際奉納したのがこのスカイオスであって、ヒッポコオンと同名の別人でないとすれば、それはライオスの子オイディプスの時代ということになる。

ヘーラクレースとテーバイ王家は親密というか、ヘーラクレースこそテーバイ王である。
しかるに、ヘーラクレースが掃蕩してラケダイモンの王をすげ替えた時、敵として斃されたヒッポコオンとスカイオスの父子が、テーバイのアポロンの社に、競技会での勝利を祝って奉納しているという事実をどう説明するべきか。
おそらく、神話を捏造した人々は、アムピトリュオーンやヒポッコオンやスカイオスという名前だけを借用して、神話を捏造したのだろう。
スカイオスもテーバイ王家の下の拳闘家の一人くらいだったのだろう。

鼎3:オイディプースの孫ラオダマス王の奉納!

三つ目の鼎には、これもヘクサメトロス調で、
 ラオダマス、王位に在りて、この鼎をば、
 世にめでたき供え物とて、
 弓の名手、君アポロンに、みずから捧げまつりぬ。
とある。

この鼎はカドモス一族のオイディプスの孫ラオダマスが実在して王位にあり、小アジア系のアポロン信仰を輸入していた。竪琴やヘクサメトロスなどの音楽も成立していたということである。
そしてこの時のテーバイ王家のギリシア文字はフェニキア色の色濃い文字であったという証左である。

ラオダマスはエテオクレスの子であるが、彼が王位にあったとき、カドモス一族はアルゴス人に追われて、エンケレイス族の許に難を避けた。

次男筋が先祖カドモスが統治したという伝承のイリュリアの地に亡命したが、アルゴス人というのは、テーバイ七将のエピゴノイ(後に生まれたもの)であり、カドモス一族の長男筋ポリュネイケースの子テルサンドロスが王位についた。

〔註〕エンケイレス一族というのは、南部イリュリアを支配した王族、カドモスをその祖としていた。

〔註〕なおカドモス一家がアルゴス人に追われたというのは、伝説上「エピゴノイのテバイ攻め」として知られる事件で、ペロポネソス連合軍による第二次テバイ攻撃を指す。

このときゲピュライオイ族は残留したのであるが、後になってボイオティア人に追われ、アテナイへ移住したのである。

この時は、まだ同族のカドモス王家の次男筋だったので残留したわけだ。
この時のボイオティア人というのは、イオールコスのテッサリア人ではなく、アカイア人と同盟していたアカイア人の一分枝、のちにテーバイ王室を簒奪し、「トロイア戦争」にアカイア人の手下として参戦し、レコンキスタで、メラントスに殺されるクサントスを輩出したアカイア人であろう。

ミニュアス人は、後にラケダイモンが受入れているように、イオールコスのテッサリア系と思われる。
パウサニアスによれば、コリントスの王シシュポスの子ハルモスの娘とポセイドンの孫が、ミニュアスとなっている。これが伝説のオルコメノスの王で、その子がオルコメノスである。
ミニュアスの孫娘がアルキメデーで、イアソンの母という説があり、それがテラに入植したバットスの先祖が、自分らをミニュアス人と名乗った根拠である。
ミニュアス人とは確執はあるものの、大筋でテーバイ帝室と共闘関係にある。

アムピトリュオーン王、ラオダマス王などテーバイ王が、実際にフェニキア文字の鼎を奉納していることは、テーバイ帝室の実在とギリシア全土の統治の事実を証明しているようである。

フェニキア文字から西ギリシア文字とアッティカ文字が分化した。
アッティカに亡命したカドモス王家の人々にの末裔ゲピュライオイ族によって、
フェニキア文字は、アッティカ文字に改良されたといえよう。

デメテル・アカイアの秘儀をアテナイに導入したのもゲピュライオイ族

ゲピュライオイ人はアテナイで、自分たちの聖所をいくつも建立したが、これらの聖所には他のアテナイ人は関与することを許されず、他の聖所とは全く別の扱いをされていた。
中でも「デメテル・アカイア」の神殿とその秘儀は、その代表的なものである。

〔註〕この名の由来は、娘ペルセポネを冥王に奪われた悲しみにくれるデメテルを祀るものと、古来解されてきた。

後にエレウシースの秘儀をアテナイに招来したのはペイシストラトス。
ペイシストラトス一族も、ピュロス系であったが、ゲピュライオイ族と婚姻などで混血していた可能性が高い。
ペイシストラトス一族のフェニキア性がそれを物語っている。

アルクメオン家のデルポイの神託買収

独裁者ヒッピアスが、ヒッパルコスの暗殺に憤激して、アテナイに暴政を布いていた時のこと、アテナイの氏族でありながら、ペイシストラトス一族のために国を追われ亡命していたアルクメオン家の一族は、他の亡命アテナイ人たちと協力して、帰国を強行せんとして失敗した。

そこでアルクメオン家の一統は、ペイシストラトス家を討つためにはいかなる手段も選ばぬことに腹をきめ、デルポイの隣保同盟アンピクテュオネスと契約を結び、同地の神殿の造営を請負ったのであるーこれが現在ある神殿なのであるが、当時はまだ建っていなかった。
中でも特筆すべきは、当初の契約では神殿を凝灰岩で建てることになっていたのを、前面だけはパロス大理石を用いて造営したことである。

アテナイ人たちのいうところによれば、アルクメオン家の一統は、そのデルポイ滞在中に巫女を買収し、スパルタ人が私用であれ公務であれ神託を伺いにきた場合には必ず、アテナイを解放せよと慫慂されたという。

ペイシストラトス一族と親密だったスパルタ

スパルタ人たちは、いつもきまって同じ神託を受けるので、遂にアステルの子アンキモリオスという名望の高い人物を軍隊とともに派遣し、ペイシストラトス一族を追放させようとした。
ペイシストラトス家とスパルタとはきわめて親密な間柄であったが、スパルタ人たちは、神意に関わることは人間関係に優先すべきであると考えたのである。

つまり、テッサリア系でおそらくフェニキア系の血も混入していたペイシストラトス家と、フェニキア系のラケダイモン王家は親密だったのだ。

スパルタのペイシストラトス一族のアテナイ攻め

テッサリアに救援要請

一行は海路派遣され、アンキモリオスはパレロン港に入り軍隊を揚陸したが、既にそのことについて情報を得ていたペイシストラトス一族は、テッサリアに救援を要請した。両者の間には同盟関係が結ばれていたからである。テッサリア側では右要請に対し、衆議一致して彼らの王であるゴンノスの人キネアスの指揮下に、一騎当千を派遣したのである。

当時の港は、パレロン。
ペイシストラトス一族が、テッサリアやスパルタと蜜月のよい国際関係を築いていたことがわかる。

スパルタの第一次ペイシストラトス戦争失敗

同盟軍の救援を得たペイシストラトス一族は、次のような作戦をたてた。すなわち、パレロン附近の平原の樹木を伐りはらい、この地域一帯を騎兵の行動が容易なようにしておいて、敵陣に騎兵隊を放ったのである。騎兵隊はこの襲撃によって、敵アンキモリオスをはじめスパルタ人多数を殺し、生き残ったものも陸地から撃退し船上に釘づけにしてしまった。
スパルタの最初の遠征は、右のようにして終わりを告げたが、・・・

ペイシストラトス一統はすぐれた国家経営を行っていたことがわかる。この戦略も、スパルタの重装歩兵に対して、騎兵で打ち負かすもので、戦場を整える準備をしっかりしてのオペレーションは、のちのハンニバル戦争を思わせる。

スパルタのペイシストラトス第二次遠征

その後、スパルタはさらに強力な遠征軍をアテナイに送った。
アナクサンドリデスの子クレオメネス王を総指揮官に任命し、今度は海路をとらず、陸伝いに派兵したのである。

ペラルギコン砦に包囲

クレオメネスはアテナイの市内に着くと、自由を望むアテナイ市民と協力して、追いつめられてペラルギコン砦に立籠った独裁者の一党を包囲した。

〔註〕ペラルギコンまたはペルスギコンともいう。
おそらくはアクロポリス西北斜面の一部の名称で、ここに独裁者たちの住宅があったのであろう。

ペイシストラトス一党退去

しかし、もともとスパルタ側は城攻めをする意図はもたず、一方ペイシストラトス一族は食糧も水も十分に準備していたので、普通ならば、スパルタ軍は到底ペイシストラトス一族を打倒することはできず、せいぜい数日間包囲した後引き上げることとなったであろう。

ペイシストラトス一族の子女が、・・・捕らえられたのである。
この事件の発生によって、・・・
彼らはアテナイ市民の提起した、五日以内にアッティカを退去するという条件を呑んで、屈服するほかはなかった。

一子女の命を尊重するペイシストラトス一党。のちのアテナイ全体主義とは違う善政を伺わせる。ここがフェニキア的。ファミリー的生活を重んじる。

シゲイオンで安泰の生活を享受するペイシストラトス一族

ペイシストラトス一族は、その後スカマンドロス河に臨むシゲイオンに移り住んだが、そのアテナイ支配は三十六ヵ年に及んだわけである。

アテナイを強大にしたのはこの36年のペイシストラトス一党の支配である。ペルシアで穏やかな生活を送ることになる。

ペイシストラトス一族の血脈

この一族は、その先祖にさかのぼればピュロス人でネレウスの後裔である。
なおコドロスやメラントスなどの一門も同族の出であり、これらの人物は、もと移住者でありながら、アテナイの王となったのである。

つまり、ピュロスのアイオリス系であり、
おそらくテーセウスを追放したテーバイ王メネステウス(フェニキア系エレクテウスの孫で、ディオスクロイによって擁立された)の治下で帰化したのだろう。
そのあと、アカイア系が奪還してテーセウスの子どもたちに政権が移るが、テーバイ帝室がレコンキスタ完了した時に、テーバイ帝室と共闘していたテッサリア王家がアテナイを占領したと思われる。
それがメラントス王で、アカイア側のクサントスを討って、テーバイを帝室の残党の貴族たちに返還したと思われる。

つまり、ギリシア本土の「トロイア戦争」後からアテナイを支配していた王家は、アイオリス系のピュロス系であり、ペイシストラトス一族は、その由緒ある王家の一族であったわけだ。
コドロス王の時代には、小アジアに植民を行なっている。
ペイシストラトス一族がスムーズに小アジアに亡命できたはずである。

するとペイシストラトスとは、旧王族の末裔であったわけだ!

ヒッポクラテスが、ネストルの子ペイシストラトスの名にちなんで、自分の子供に同じペイシストラトスの名を附けたのも、右の来歴を記念するためだったのである。

ペイシストラトスは、ネストルの子にちなんで命名された。

クレイステネスとイサゴラス

アルクメオン家

さてアテナイで支配的勢力を握っていたのは二人の人物で、
一人はアルクメオン家の一族であるクレイステネス、この男こそデルポイの巫女を買収したと噂された人物に外ならない。
もう一人はテイサンドロスの子イサゴラスで名家の出であるが、その先祖に関しては私もよく知らない。ただ彼の同族が「アリアのゼウス」を祀っていることは事実である。

クレイステネスの10部族改編

さてこの二人が政権をめぐって争ったが、この争いに敗れたクレイステネスは、平民を味方に引き入れようと試みた。
その後彼は、それまで四部族であったアテナイ国民を十部族に改編し、イオンの四子、ゲレオン、アイギコレウス、アルガデスおよびホプレスの名にちなんで命名されていたこれまでの部族名を廃し、別の英雄を選んで、その名によって新部族の名称を制定した。
これらの英雄は、アイアスを除いてはすべてアテナイ固有の英雄で、アイアスは他国人であるが、隣国でありかつ同盟国の英雄であるというので、これに加えたのである。

アイオリス系ピュロス系の王族の力を削ぐため、イオンの四子の部族名を、アテナイ古来の英雄の名に改編した。

祖父のシキュオンの僭主クレイステネス

私の思うには、クレイステネスのそうしたやり方は、彼の母方の祖父に当り、シキュオンの独裁者であったクレイステネスの政策を真似たものであろう。

このクレイステネスは、アルゴスと戦ったとき、まずシキュオンにおける叙事詩語りの競演を停止してしまった。
ホメロスの詩では、アルゴス人とアルゴスの町が、全編いたるところで賛美されているから、というのである。

敵国アルゴスの英雄アドラストスの排除

また、シキュオンのアゴラには、タラオスの子アドラストスの英雄廟があり、これは今日も現存しているが、クレイステネスはアドラストスがアルゴスの英雄であるという理由で、自国から抹殺したいと思った。
そこで彼はデルポイへゆき、アドラストス(の信仰)を、廃棄してよいかどうか、神託を伺った。
ところがデルポイの巫女は託宣を下し、
「アドラストスこそはシキュオンの王、汝は虐殺者ではないか」と告げた。

〔註〕クレイステネスが反対派に対してとった苛烈な措置を指すものと思われる。

クレイステネスは国へ帰り、アドラストス(の霊)を自発的に退散させる方策はないものかと思案した。
彼は、ボイオティアのテバイへ使いをやり、英雄メラニッポス(の霊)を、・・・勧請し、・・・
メラニッポスがアドラストスにとって不倶戴天の敵であったからだ、ということである。

アドラストスがシキュオンで崇拝されていたわけ

シキュオン人がアドラストスを崇敬する念は、昔からきわめて深かった。この国は元来ポリュボスの領土で、アドラストスはポリュボスの娘の子であった。
ポリュボスには嗣子がなかったので、彼は死に臨んで王位をアドラストスに譲ったのである。

アドラストスは第一次テーバイ攻めを行ったアルゴスの王。「獅子と狼に娘を嫁がせよ」の人。獅子皮のテバイ王子と猪皮のカリュドン王子を婿にした。

シキュオン僭主クレイステネスのドーリス人排除

彼はまた、ドーリス族の部族名を改称した。シキュオンとアルゴスで、同じ呼称を用いるのを避けるためである。
しかしこの際クレイステネスのやり方は、極度にシキュオン人を侮辱したものであった。
彼は自分が属する部族だけは例外として、その他の部族には豚(ヒュス)とか騾馬(オノス)とか仔豚(コイロス)などの言葉から、ただその語尾だけを変えて作った呼称をつけたのである。
自分の部族には、自分かが支配者であるということにちなんで名を附け、この部族はアルケラオイ(支配族)と呼ばれたが、その他の部族は
それぞれヒュアタイ(豚族)、オネアタイ(騾馬族)、コイレアタイ(仔豚族)という名をつけられたのである。

クレイステネスのイオニア人排除

このシキュオン人の娘の子で、その名も祖父ゆずりのアテナイのクレイステネスも、どうやらイオニア人に対する軽侮の念から、
アテナイとイオニアで同じ部族が存在するのを避けるために、
同名の祖父の政策を真似たもののようである。

クレイステネス、平民を利用

というのは、クレイステネスは以前は歯牙にもかけなかった平民を、この時になって完全に自派に引き入れることに成功するや、部族の名称を変え、さらにその数を増したのである。

ヘロドトスの下衆クレイステネスに対する怒りがすがすがしい。

クレイステネスを召還してスパルタと臨戦態勢

アテナイではその後クレイステネスと、クレオメネスによって放逐された七百家族を召還したのちペルシアと同盟を結ぼうとして、サルディスへ使節を送った。
アテナイ側では、スパルタおよびクレオメネスと完全な敵対関係に入ったことを悟っていたからである。

クレオメネスのこと

クレオメネス、アテナイに侵入

クレオメネスは大軍を率いてエレウシスに侵入したが、ボイオティア人も彼との協定に従い、アッティカの国境の二つ地区、オイノエとヒュシアイとを占領した。
他方カルキス人もアッティカの各地を攻撃し、これを劫掠した。

しかし両軍がいざ戦いを交える時になって、まずコリントス軍が自分たちの行動は正しくないと反省し、回れ右をして引き揚げていってしまった。

デマラトスのスタンドプレー

これにつづいてアリストンの子デマラトスが、やはり引き上げた。
そしてこの分裂騒ぎがあってから、スパルタは軍隊が遠征する際王が二人ながら出征することはならぬ、という法律が制定された。

王の一人が従軍を免ぜられるとともに、ディオスクロイの二神(カストルとポリュデウケス)も、一柱は国内に止まることになった。

アテナイとアイギナ

アテナイ、カルキスとボイオティアに侵入

ここにおいてアテナイは報復を志し、まずカルキスに進攻しようとすた。ところがボイオティア人がカルキスを支援すべく、エウリポス海峡へ進出してきた。アテナイ軍はこの援軍を見ると、カルキスより先にボイオティア軍を攻撃することを決した。

アテナイ軍はボイオティア軍を襲撃して大勝を博し、その多数を殺し、七百人を捕虜にした。
同じ日にアテナイ軍は海峡を渡ってエウボイアに侵入、カルキスをも攻撃しこれを破り、「馬持ちヒッポボタイ」たちの領地を四千の開拓民に配分し、この地に定住させたのち引き上げた。
「馬持ち」とは、カルキスの富裕な階級の呼称である。

アテナイとテーバイは不倶戴天の敵である。
エウボイア島とボイオティアは、テーバイの身内であり、テーバイはアテナイへの報復を期する。

テーバイの報復計画

その後テバイ人はアテナイに報復せんとして、デルポイに使いをやり神託を伺わせた。
ところが巫女の答えは、テバイ人が独力ではアテナイに報復することはできぬから、事柄を衆議にかけたのち、最も近い者の援助を求めよ、とあった。

「最も近い隣国に援助をもとめよ」アイギナに救援要請へ

「われわれに最も近い隣国といえば、タナグラにコロネイア、それにテスピアイではないか。しかしこれらの諸国はいずれも、戦いあれば常にわれらの側にに立ちともに戦い抜いてくれる国ばかりじゃ。」

「テベとアイギナとは、アソポスの娘であるそうな。二人は姉妹である故に、アイギナに援軍を頼めと、神様はわれらにお告げ下さったものと思うぞ。」

アイギナの救援

アイアコスの神霊を送る

アイギナ人はテバイ人の援助要請に対して、英雄アイアコス一族の(の神霊)をテバイの救援に送ることを承諾したのである。

テバイ人はアイアコス一族の神霊の援助をたのみにアテナイ報復を試みたが、アテナイ軍によってさんざんに痛めつけられ、そこで再びアイギナに使者を送って、アイアコス一族の神霊は返し、その代りに軍勢の派遣を求めた。

アイギナ戦へ

当時アイギナは殷賑をきわめて意気大いに揚がっており、さらに昔からアテナイに対して抱いていた敵意も蘇ってきて、この時のテバイの要請に応えて、アテナイに対し正式の宣戦布告なしに戦いを始めたのである。

アテナイが対ボイオティア戦に専心している間に、アイギナは船隊をもってアッティカに侵入し、パレロン港をはじめ沿岸の諸地区を劫略し、この作戦によってアテナイに多大の損害を与えた。

アイギナに出征した男たちの妻が、この男ひとりだけ助かったことに憤激し、その男の周りをとりかこみ、ひとりひとりが着物ヒマティオンの留針で男を刺しながら、自分の夫はどこにいるのだと詰ったという。

イオニア風とドーリス風のキトン

その男はこうして殺されたというが、アテナイ人たちには、敗戦の悲運よりも、この女たちの所業の方が恐ろしいものに思えたという。
女たちの衣装を以後イオニア風に改めた。それまでアテナイの女は、コリントス風によく似たドーリス式の衣裳を用いていた。
つまり留針を用いることのないようにというので、麻の肌衣キトーンに改めたのであった。

〔註〕古代ギリシアの女性の服装は、大別してイオニア式とドーリス式の二種があったが、ドーリス式のものは袖なしでほとんど縫い合わせがないため、肩のあたりで留針を用いる必要があった。
それに反してイオニア風のものは、袖がありかつ縫い合わせてあったので、留針が不要であったのである。

しかし実をいえば、この衣裳は本来イオニアのものではなく、カリアのものなのである。というのは、古代においてギリシアの女の着た衣裳はどれも同じ型のもので、今日ドーリス風といっているものだからである。

つまりバルカン半島は、ドーリス風の衣裳を古来から着ていた。
アテナイだけが、留針事件を機に、小アジアのカリアの衣裳を導入したというわけだ。

ところでアルゴスとアイギナでは、アテナイのこうした措置に対抗して、次のような法を定めたという。
すなわち、両国ともに女は当時規定の寸法の一倍半の留針を用うべきこと、また先に述べた二女神の神殿には、何よりも留針を奉納すべきこと、またアッティカ製のものは陶器ですら一切神殿に携帯してはならぬこと、今後両国では飲用の器物は自国製のもののみを用うべきこと、などを制定したのである。

アイギナとスパルタ、卑劣なアテナイに激怒

アテナイのアイギナに対する敵意の起源は右のとおりである。
さてテバイから救援の依頼をうけたアイギナは、いまさらながら、神像事件を想起し欣然としてボイオティア軍救援に向った。

スパルタは、アルクメオニダイ一族がデルポイの巫女を買収した陰謀や、その結果巫女がスパルタとペイシストラトス一族をあざむいたことなどを知り、・・・
スパルタ人は自分たちときわめて親しい関係にあった人間をその祖国から放逐し、しかもその行動によってアテナイから何ら感謝されることがなかったからである。

スパルタはカドモス系、ペイシストラトス一族はテッサリア系、
カドモス系のテバイは、テッサリア系と親しい、おそらく深く混血、
つまり、アテナイだけがフェニキア人といちばん縁遠い独自の発展、つまりダナオイ系。

スパルタにおけるヒッピアス

スパルタ、ヒッピアスを招請

右のように悟ったスパルタ人は、ヘレスポントスのシゲイオンに使いを送り、ペイシストラトスの子ヒッピアスを召喚した。
ヒッピアスが招請に応じてスパルタへくると、スパルタ人は他の同盟諸国の使節をも招いて、次のようにいった。

「われわれは偽の託宣に躍らされて、われらに「とっては最大の友であり、アテナイをわれらの支配下に留めておくことを約束してくれた人物をその祖国から放逐してしまい、かくしてアテナイの国を忘恩の民衆の手に委ねてしまったからだ。」

ペイシストラトス一族が支配していたころは、ギリシアはカドモス一党が再び制覇し、共存共栄の状態にあった。

「ここにおられるヒッピアス、また諸国の代表たる諸氏をお招きしたのはそのためであり、われわれは共同の作戦をたて、連合軍をもってヒッピアスをアテナイに復帰せしめ、われわれの手で彼より奪ったものを彼の手に返したいと思う。」

コリントスの反対

スパルタ人は右のように述べたが、同盟諸国の代表の大部分は、スパルタの提案に不賛成であった。
しかしほかの代表がみな沈黙を守っていたなかに、ひとりコリントスのソクレスが発言してこういった。

「スパルタの方々よ、もしそなたらが万民同権イソクラティアの原則を破棄して、ギリシアの国々に独裁制を敷こうとされるならばじゃ。
自らは独裁政治の経験をもたず、それのみかスパルタにさような事態の起らぬよう、世にも厳重な警戒を敷いておられる貴国が、不当にも同盟国にそれを施そうとしておられる。」

コリントスの僭主政
ヘラクレイダイの王族バッキアダイ

わがコリントスの国制は次のようであった。それは寡頭政体オリガルキアで、バッキアダイ(バッキス一族)と称する一族が統治し、婚姻は同族の間で結ばれておった。

さてこの一門の一人でアンピオンなるものに、脚の不具な娘が生まれ、娘の名はラブダといった。
バッキアダイの一門には誰一人この娘を娶ろうとするものがなかったので、エケクラテスの子エエティオンがこの娘を妻とした。

バッキアダイ=バッキダイは、プロト・カルタゴ人系のシシュポスの一族のコリントスを征服したドーリス人のヘラクレイダイの一派アレテスの子孫バッキスに由来する一族。

ラピタイ族と混血のキュプセロス、僭主へ

エエティオン・・・
この男はペトラデーモスの出身であったが、その先祖に遡ればラピタイ族で、カイネウスの後裔であったのじゃ。

ラピタイは、テッサリアでケンタルロス一族に次いで野蛮な一族という想定である。
シシュポスもバッキアダイもフェニキア系の文化人のため、軽蔑されていただろう。

神託の意味を悟ったもののバッキアダイの一族は、やがて生まるエエティオンの子を亡きものにしようと考えて、しばらくは静観しておった。
ラブダが赤子を抱いてきて手渡したとき、不可思議な偶然というか、受け取った男に向ってその赤子がニッコリと笑いかけた。
そこでラブダは、一行の気が変わり再び赤子を捕えて殺すことを恐れたので、赤子を櫃の中へ隠した。

エエティオンのその子供は、その後すくすくと育ち、キュプセレーによって難を逃れたというので、キュプセロスと名附けられた。

エエティオンが子キュプセロス、名も高きコリントスの王たるぞ。
果報は彼とその子らのもの、ただし孫の代までは及ばぬぞ。

独裁者となってからのキュプセロスがどんな人間であったかと申すと、多数のコリントス人を追放したり、財産を没収したりしたが、彼のために生命を奪われたものの数は、さらに遥かに大きかったのだ。

二代目僭主ペリアンドロス

キュプセロスは三十年にわたって統治し、無事に一生を終ったが、その後を子のペリアンドロスが継いだ。
ミレトスの独裁者トラシュブロスと使節を通じて交際するようになってからは、キュプセロスを遥かに凌ぐ残忍な人間になったのじゃ。

トラシュブロスはペリアンドロスの許から来た使者を町の外に連れ出して、作物の出来ている畑に入っていった。
ほかの穂よりも目立って長く伸びた穂を見るごとに、ちぎって捨てていったので、とうとうこのして作物の一番よく伸びて出来のよい部分をすっかり傷めてしまった。

しかしペリアンドロスはトラシュブロスのしたことの意味を悟り、町の有力者を殺せとトラシュブロスが忠告したのだと理解したので、これからは市民に対して残虐の限りを尽くしはじめた。

また自分の(亡)妻メリッサのために、コリントスの女全部の衣裳をたった一日で剥ぎとってしまったのだ。

よろしいか、スパルタの方々よ、独裁者の政治というのは、こういうものじゃ。われらコリントスのものは、はじめ貴国がヒッピアスを呼ばれたと聞くや、大層驚いたものであった。
コリントスの使節ソクレスは右のようにいった。

ヒッピアスの託宣への知識の深さ

これに対してヒッピアスは、ソクレスの唱えたと同じ神々の名を唱えて、彼に応酬し、コリントスがアテナイによって苦汁をなめさせられる宿命の日が到来したとき、コリントスこそどの国よりもペイシストラトス一族の失脚を惜しむに違いない、といった。
ヒッピアスという男は事託宣に関する限り、誰よりも正確な知識をもっていたので、このように応酬したのであったが、・・・

エレウシスの密儀を導入したペイシストラトス一族は、メディチ家のように神秘学に精通していたようだ。

七、シゲイオンの戦い

シゲイオンのヒッピアス一族

スパルタを追われたヒッピアスに、マケドニア王のアミュンタスがアンテムスという町を、またテッサリア人はイオルコスの町を提供しようと申し出た。
しかしヒッピアスはその申し出のどちらをも断わってシゲイオンに帰っていった。

ペルシア(アジア)VSギリシア(ヨーロッパ)という単純な構図でないことがわかる。ペルシアからリビアまで一つの巨大な文化圏の様相を呈していた。ギリシアのポリスがかわるがわるペルシアと組んだり離れたりしながら抗争が続く。
アテナイの平民は、ダナオイ系、アカイア系が多かったのだろう。
アテナイこそ、他のギリシア諸都市からつまはじきになっている。

そもそもこのシゲイオンという町は、ペイシストラトスが武力をもってミュティレネから奪取したもので、占領後は彼がアルゴス出身の女に生ませた、ヘゲシストラトスという庶子を独裁者にして治めさせたものである。

シゲイオンは、小アジアのトロイアの至近にある都市。
つまりアジアの西端であり、イオニア世界の一部である。
ペルシアに守られ、ギリシア世界との紐帯を保つ上、古都トロイアの至近にあって絶好の地の利がある。

ペルシアと戦争必至

アルタプレネスは、アテナイが安全を願うならば、ヒッピアスを復帰させよと要求したのである。アテナイはしかし使者のもたらしたペルシアのこの要求を拒否したが、この拒否はアテナイが、公然とペルシアに敵対する決意を示したことにほかならなかった。

ミレトスのアリスタゴラスのアテナイ訪問

アテナイの対ペルシア感情が右のように動きすでに敵対関係に入ったあたかもこの時期に、クレオメネスによってスパルタから追い帰されたミレトスのアリスタゴラスがアテナイにきた。

とうとうアテナイ人を説得することに成功した。
アリスタゴラスがスパルタのクレオメネスひとりをだますことができなかったのに、三万のアテナイ人を相手にしてそれに成功したことを思えば、一人を欺くよりも多数の人間をだます方が容易であるとみえる。

八、ギリシア同盟軍の東征ーサルディスの破壊

パイオニア人帰国作戦

アリスタゴラスはその計略に従って、一人の男をプリュギアのパイオニア族の許へ派遣した。
このパイオニア人たちは、もとストリュモン河畔に住んでいたのを、メガバゾスが捕虜にして移住させたもので、プリュギアの一地域に自分たちだけの部落を造って住んでいたのである。

パイオニア人はこれを聞くと大いに喜び、・・・逃亡をはじめた。
パイオニア人は海岸に達すると、そこからキオス島に渡った。
キオス人がキオスからレスボス島に移し、レスボス人はまたこれをドリスコスに送ってやった。そしてそこから彼らは陸路パイオニアへ帰ったのである。

アテナイとエレトリア海軍派遣

一方アリスタゴラスの許へは、アテナイ軍が二十隻の艦隊と、エレトリアの派遣した三段橈船五隻を伴って到着した。

〔註〕エレトリアはカルキスとともにエウボイア島の主要な町。

昔エレトリアがカルキスと戦った時、ミレトスがエレトリアの側に立って援助したのでーなおこのときエレトリアとミレトスを敵として戦ったカルキスを助けたのはサモスであったーエレトリアとしてはその時ミレトスから受けた恩義に報いるという意味があったのである。

カルキス=銅という名を持つエウボイア島の冶金の町は、
カルキディケ半島に植民し、サモスとコリントスというフェニキア人の商業都市とともにシケリアへも植民した。

アリスタゴラス、ミレトス海軍派遣

アリスタゴラス自身はしかし遠征には加わらずミレトスに残り、ミレトス軍の指揮官としては自分の代りに、自分の兄弟のカロピノスと、ほかにもうひとり市民の中からヘルモパントスを任命した。

アナトリア上陸作戦

イオニア軍、エペソスから上陸

イオニア軍は右のような陣容でエペソスに着くと、エペソス地区のコレッソスに艦船を残して大挙上陸し、エペソス人を道案内として、カユストロス河に沿って進撃した。

サルディス破壊

さらにそこからトモロス山を越えてサルディスに着くや、何の抵抗もうけずにサルディスを占領し、アクロポリス以外の全市を制圧した。
アクロポリスはアルタプレネス自身が、少なからぬ手兵を率いて防備していたのである。

町の燃えている中に、リュディア人および町にいたペルシア人はことごとく、・・・アゴラとパクトロス河畔へ集まってきた。
パクトロス河はトモロス山に発し、砂金を運びながらアゴラの中央を貫流する河で、やがてヘルモス河に合流し、遂には海に注ぐ。

トモロス山に退却し船で海上へ逃亡

このパクトロス河岸とアゴラに集まったリュディア人とペルシア人とは、否応なく抵抗せざるを得ない羽目に追い込まれたのである。
イオニア軍は、敵が反撃の態勢をとり、また別に有力な部隊が進撃してくるのを見ると、恐れをなしてトモロスと呼ばれる山の方に退却し、さらに夜陰に乗じて船に引き上げた。

卑怯アテナイ、イオニアを見捨てる

その後アテナイはイオニアをすっかり見放して、アリスタゴラスがしきりに使者を送って援助を乞うたけれども、もはや救援することを肯んじなかった。

アリスタゴラス、ヘレスポントスとカリアに展開

アリスタゴラスは、・・・
ヘレスポントスに艦隊を派遣し、ビュザンティオンをはじめ、この地方の町をすべて支配下におさめ、ついでヘレスポントスを出て、カリアの大部分を同盟国にするのに成功した。

九、キュプロスの離反とその鎮圧

アマトゥスを除くキュプロス制圧

またキュプロスも、アマトゥスの町を除いてはことごとく進んでミレトスに加担してきた。というのはキュプロス人も、次のような経過でメディアから離反したためである。

アマトゥスとは?

キティオン:(現ラルナカ)島の中央の東沿岸の都市。テュロスの植民市。ピュグマリオンの植民。ゼノンの故郷。(現ギリシア領)
アマトゥス:(現ラルナカ西南)キティオンと並ぶフェニキア人植民都市。
パポス:アプロディテの生誕地。南岸。
サラミス:(現ファマグスタ近郊・現トルコ領)北東の湾にある。サラミスの植民地。
ソロイ:同じく北岸にある。ギリシアの植民地。

サラミスがフェニキア人の手に落ちてから、エウアゴラスが、キリキアのソロイで亡命生活を送っている。
つまり、北岸のトルコ領のサラミスとソロイがギリシア系。
キティオン、アマトゥス、パポスはすべて、フェニキア系。

サラミス王ゴルゴスの弟オネシロスの兄追放

サラミスの王ゴルゴスの弟に当るオネシロスなるものがいた。
この男は以前からしきりに、ペルシア王から離反するようにゴルゴスに説いていたが、・・・決行を迫ったのである。
そこでオネシロスはその徒党とともに、ゴルゴスがサラミスの町の外へ出た時を見計らい、都門を閉鎖して彼を閉め出してしまった。
こうしてゴルゴスは国を追われてメディアに亡命し、オネシロスはサラミスの支配者となり、全キュプロス人を自分とともにペルシアから離反させようと説得につとめた。

サラミス王オネシロスのアマトゥス攻囲

他のものはことごとく説得することができたが、アマトゥスのみは彼に従おうとせぬので、この町を包囲して攻撃をはじめたのである。

ヒスティアイオスを行かせるダレイオス

ダレイオスはそれから、彼が多年にわたって抑留しておいたミレトス人ヒスティアイオスを呼び出して、こういった。
ダレイオスは彼の言葉を信じ、約束のことを仕遂げたならば、再びスサの自分の許へ戻ってこいといい付けて、彼をゆかせたのである。

イオニア人、サラミスを援護

サラミスの独裁者オネシロスが、アマトゥスを包囲しているところへ、ペルシア人アルテュビオスがペルシアの大軍を率いて海路来攻し、やがてキュプロスに上陸するであろう、という報告がとどいた。
これを聞いたオネシロスは、イオニアの各市に使者を送り、彼らの援助を求めたが、イオニア人は長い熟慮も費やさず、大艦隊をもって来援した。

フェニキア海軍VSイオニア海軍(サモス軍の勝利)

そこへさらにまた、フェニキア人が船を連ねて、「キュプロスの鍵」の名で呼ばれている岬を回航しつつあったのである。

これは北のアポストロス・アンドレアス岬であろうか。おそらくキティオンとサラミスを隔てるグレコ岬であろう。

「イオニア人の方々よ、われわれキュプロス人としては、貴軍がペルシア軍とフェニキア軍とのいずれを相手に選ばれるかは、そなたらにおまかせする。・・・」
「われわれは全イオニアの決議により海上防備のために派遣されたもので艦隊をキュプロス人に渡して、自分たちは陸上でペルシア軍と戦うなどというつもりできたのではない。」

海上においては、この日のイオニア軍の働きは目覚ましく、フェニキア軍を撃破したが、中でもサモス派遣軍は第一等の成功を樹立した。

キュプロスの陸上戦(サラミスとソロイの大敗)

サラミスとソロイの両僭主斃れる

やがてペルシア軍がサラミス平野に到着すると、キュプロスの諸王は、サラミスとソロイの最精鋭をすぐってペルシア軍主力に当らせ、残りのキュプロス軍をその他の敵軍に向わせた。
ペルシアの指揮官アルテュビオスには、オネシロスが自ら進んで立ち向かったのである。

これらの裏切りのためペルシア軍はキュプロス軍を制して優位に立つに至った。キュプロスの陣営は敗走し、多くの戦死者を出したが、キュプロス離反の張本人であったケルシスの子オネシロスその人も、またソロイの王アリストキュプロスもその中の一人であった。

アリストキュプロスの父はピロキュプロスといい、このピロキュプロスこそは、アテナイのソロンがキュプロスにいたとき、その詩の中でどの独裁者よりも讃美した人物である。

アマトゥス人の戦利品となったオネシロスの首

アマトゥス人たちは、オネシロスが自分たちを包囲攻撃した恨みを報いるために、オネシロスの首を切りとって、アマトゥスにもって帰り、これを都門に吊るした。
吊るされた首がやがて空洞になると、蜜蜂の群れがその中に巣くって、蜂の巣だらけになってしまった。

イオニア海軍撤退

イオニア軍はキュプロスの海戦の後、オネシロスの計画が破れ、サラミスを除くキュプロスの町がことごとく包囲をうけ、そのサラミスでも先王ゴルゴスに政権が還されたと聞くと、すぐにイオニアへ帰航してしまった。

十、イオニア人の敗北、アリスタゴラスの死

ダレイオス娘婿ダウリセス、ヘレスポントスを掃蕩

ダウリセスはヘレスポントス界隈の町々に向い、ダルダノスをはじめ、アビュドス、ペルコテ、ランプサコス、パイソスなどの町を次々に攻略した。

アリスタゴラス、亡命先を打診

ミレトスのアリスタゴラスは、・・・
万一自分たちがミレトスを追われた場合、落ちゆく先が決まっている方がよい、それでその際自分が一味のものを引率してサルディニアに植民地を開いて移るか、あるいはヒスティアイオスがダレイオスから引出物として授かり城壁を築いた場所である、エドノイ族の国のミュルキノスへゆくか、そのいずれがよかろうかと訊ねた。

このときヘゲサンドロスの子で、史伝作家ロゴポイオスであったヘカタイオスの示した意見は、右の二つの土地のいずれにも移住することに反対で、アリスタゴラスがミレトスを追われた場合には、レロス島に築城して、ここでしばらく逼塞し、やがてここを基地としてミレトスに復帰をはかる、というものであった。

アリスタゴラス、トラキアに亡命

アリスタゴラスの考えはミュルキノス移住へ傾き、ミレトスの統治は市民の中で名望のあったピュタゴラスに委ね、同行を望んだものはみな引具して海路トラキアに向い、目指す場所を手中に収めた。

しかしここを基地として出撃中、アリスタゴラスは麾下の部隊とともに、トラキア人に討たれて死んだ。



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