- 第六巻 ギリシア本土攻撃
- 一、イオニアの反乱後始末
- ヒスティアイオスの活動
- 島嶼とヘレスポントス
- 二、マルドニオスによるギリシア本土侵入
- 三、ダティスとアルタプレネスによるギリシア本土侵入
- タソスの屈服
- ギリシアの情勢、クレオメネスとデマラトス
- ペルシア遠征軍、諸島を経てマラトンに達す
- マラトンの戦い
- アルクマイオン家
- ミルティアデスのこと
第六巻 ギリシア本土攻撃
一、イオニアの反乱(後始末)
ヒスティアイオスの活動ーその逃亡から死
エーゲ海諸島およびヘレスポントス沿岸諸市の攻略
二、マルドニオスによるギリシア本土攻撃
三、ダティスおよびアルタプレネスによるギリシア本土侵入
タソスの屈服
ギリシアの情勢ー特にスパルタ。クレオメネスとデマラトス
ペルシア遠征軍、諸島を経てマラトンに達す
マラトンの戦い
ミルティアデスのこと
一、イオニアの反乱後始末
ヒスティアイオスの活動
ヒスティアイオスの逃亡
イオニア反乱の首謀者アリスタゴラスは、右のようにして最期を遂げたのであったが、一方ミレトスの独裁者ヒスティアイオスは、ダレイオスの許可を得て暇を取りサルディスへやってきた。
ヒスティアイオスはアルタプレネスが事の真相に通じているものと恐れをなし、その日が暮れると匁々に海岸へ向って逃亡した。
ここからレスボス島のミュティレネに渡り、レスボス人を説いて、自分に船を提供させることに成功した。彼らは八隻の三段橈船を艤装してヒスティアイオスとともにビュザンティオンに航行し、ここに根拠を定めて、黒海から出てくる船を片端から捕獲したのである。
フェニキア海軍VSイオニア海軍の演習
フェニキア海軍
ペルシア軍の諸将が合流して共同戦線を張り、ミレトスに向って出撃していたのである。
海軍のうち最も戦意盛んであったのはフェニキア人であったが、彼らとともに最近征服されたキュプロスからの派遣軍やキリキア人、さらにはエジプト人も攻撃に加わった。
全イオニア会議、ミレトスの前に浮かぶラデ島集結
ペルシア軍がミレトスをはじめとするイオニア各地に進撃してくることを知ったイオニア人たちは、それぞれ代表団を全イオニア会議へ派遣した。
代表団は目的地へ着き協議した結果、ペルシア軍に対抗するための陸軍は編成せず、ミレトスは自力で城壁を防衛すること、艦隊は一船もあまさず装備をほどこし、装備の終り次第ミレトス防衛の海戦を試みるため早急にラデに集結すべきことを決議した。
ラデとはミレトスの町の前面に浮かぶ小島である。
やがて船の装備を終えてイオニア軍は集結したが、アイオリス人のうちレスボス島の住民も彼らに加わった。
イオニア海軍の陣形
その陣形は次のようであった。
東翼はミレトス人自ら八十隻の船を繰り出してこれを占め、
これにプリエネ人の十二隻、ミュウス人の三隻がつづき、ミュウス軍の次にはテオス軍十七隻、テオス軍には、
キオスの百隻がつづいて布陣した。
さらにエリュトライとポカイア軍が、それぞれ八隻および三隻の船をもって陣を構え、
ポカイア軍にはレスボス軍の七十隻がつづき、
最期にサモス人が六十隻の艦船を擁して西翼を占めた。
これら艦隊の総数は三百五十三隻であった。
主力は、東翼のミレトス人80隻と、西翼のサモス人60隻である。
半フェニキア系とフェニキア系である。
次がキオス軍の100隻とレスボス軍の70隻である。
つまりアイオリス系もがんばっていた。
アテナイ人の入植国家ポカイア人が、たった3隻しか供出していないのに注意!
フェニキア海軍の陣形
右のようなイオニア人の陣容に対して、ペルシア艦隊の船数は六百隻であった。ペルシア艦隊もすでにミレトス水域に達し、陸上の全兵力も到着したとき、ペルシア軍の諸将はイオニア軍艦船の数を知って、これを制圧することができぬのではないかと危惧を懐くに至った。
600隻に対して、イオニアは353隻、ほぼ半数なのに、危惧を懐いたということは、サモス艦隊やキオス艦隊の戦闘力の高さを示しているだろう。
フェニキア人は、戦うための船ではなく商船建造に長けていた。
フェニキア人の離間策
彼らはあれこれと思いめぐらした挙句、イオニアの独裁者たちを召集することにした。これはミレトスのアリスタゴラスによって政権を追われペルシアに亡命したものたちで、たまたまこの時ミレトスの攻撃に参加したのであったが、このものたちのうち居合わせたものを召集して次のようにいった。
「諸君はおのおのの自国民を連合軍から離脱させるよう計ってもらいたい。
その際確約事項として、われらは決して彼らの反乱の罪を問うて処罰を加えることはせぬし、聖所や個人の住宅を焼くこともない。
しかし、もし彼らがこれに従わずあくまで戦争に訴えようとするならば、・・・敗戦の暁には彼らは奴隷となり、男児は去勢され、女児はバクトリアへ移される、またその国土は没収して他民族に与えられる、ということじゃ。」
しかしこれらの通報を受けたイオニア各市では、相変わらず情勢判断の誤りに気付かず、裏切りに踏み切ろうとしなかった。
ヘロドトスは、裏切りを正しい情勢判断としている。
ポカイア司令官の発言(ポカイア海軍の海戦テクニック)
やがてラデに集結したイオニア軍の集会が開かれ、席上こもごも立って弁じた中で、ポカイア軍の司令官ディオニュシオスが次のような注目すべき発言をした。
ディオニュシオスのこの言葉をきいて、イオニア人は彼に万事を一任することにした。彼は演習の都度、船を一列縦隊にして進め、艦船相互に船間突破の訓練を行わせて漕ぎ手の習熟をはかるとともに、艦上戦闘員はいつも実践装備で待機させるというやり方で、演習の後も船は海上に停泊させておき、イオニア軍を終日酷使したのである。
ポカイア海軍は、伝統的な衝角をぶつけ合うのではなく、起動力を生かして、「船間突破」し、回り込んで、敵船の横腹を衝角で突き破る戦法を生みだした。
これで、海賊として西地中海に進出したのだ。
「一体どの神様にさからった祟りで、われわれはこんな苦労をせねばならぬのであろう。たった三隻しか船を出しておらぬあのポカイアのいかさま師めに、われわれの身柄をあずけてしまったとは、・・・」
こういと、それからはピッタリと誰一人命令に従おうとするものがなくなり、陸上部隊なみに島内に天幕を設営して日陰で起居し、乗船を拒み演習にも参加しようとしなかった。
サモス指揮官の賢慮
さてサモス派遣部隊の指揮官たちは、こうしたイオニア人の態たらくを見て、シュロソンの子アイアケスが以前ペルシア方の要求に従って申し送ってきた提案、すなわちイオニア軍との同盟を破棄せよという要求をこのとき受け入れることに決したのである。
さすが、フェニキア系サモス人はかしこい。ヘレネス至上主義者のエゴイストのポカイア人の指揮にゆだねられたイオニア軍を離脱して、和平と共存の道を選ぶ。
〔註〕シュロソンはサモスの有名な独裁者ポリュクラテスの兄弟で、兄の後を嗣いだが、その子アイアケスがまたその後継者となった。
イオニアとフェニキアの海戦
サモスとレスボスの賢慮による離脱
さてフェニキアの艦隊が攻撃に向ってくると、イオニア軍もこれに対抗すべく一列の縦隊となって船を進めた。
サモス派遣部隊はこの時かねてアイアケスと打ち合わせておいたとおり、帆を揚げて戦線を離脱しサモスへ帰航していったという。
ただし、十一隻の三段橈船だけは、その艦長が司令官の命に服せず踏みとどまって海戦を交えた。
レスボス人も自分の隣りの部隊が逃走するのを見ると、このサモス軍にならい、同様にイオニア艦隊の大部分が同じ行動に出たのであった。
律儀なキオスは玉砕
踏みとどまって海戦を交えた部隊の内、キオス軍は卑怯な振舞いをいさぎよしとせず目覚ましい働きを示しただけに、痛手を蒙ることも最もはなはだしかった。
卑怯なポカイア人、フェニキア商船を略奪してシケリアへ離脱
一方ポカイア人ディオニュシオスは、イオニア軍の壊滅を知るや、敵船三隻を捕獲し、ポカイアもやがて他のイオニア諸国とともに奴隷化されることを十分承知していたので、もはやポカイアへは戻らず、そのままフェニキアに航行し、ここでフェニキアの商船数隻を撃沈して多額の金品を入手するとシケリアへ向った。
他のイオニア人には戦いを強いておきながら、自らは逃げて、非戦闘のフェニキア商船を略奪して、海賊となってシケリアへなぐりこみ。
アテナイ人のエゴイズムと強欲が鮮明にあらわれたポカイア人の行動である。
ここに「やくざ国家」ポカイアのポカイア海賊集団が誕生した。
フェニキア人・カルタゴ人の不倶戴天の敵である。
そしてここを根拠地として海賊となったのであるが、その襲撃はもっぱらカルタゴ人、エトルリア人に向けられ、決してギリシア人を襲うことはなかった。
そもそもシケリアは、カルタゴ人・エトルリア人がシカノイ人・シケロス人など土着民と仲良く共存共栄で生活していた。そこへ不法に殴り込みをかけてきた。
ミレトスの陥落(前494年)前499年(ほぼ前500年)から叛乱
ペルシア軍は右の海戦でイオニア軍を破るや、海陸両面からミレトスと包囲し、城壁を掘り崩し、またあらゆる攻城用の兵器を駆使して攻め立て、アリスタゴラスの反乱以来六年目にとうとう完全にミレトスを攻略した。
〔註〕ミレトスの陥落は四九四年の秋のことである。
その六年前の四九九年が離反の最初の年になる。
捕虜になったミレトス人は、その後スサへ護送されたが、ダレイオス王は彼らにそれ以上危害は加えず、いわゆる紅海に面するアンペという町に住まわせた。この町の傍らをティグリス河が流れて海に注いでいる。
ミレトスの国土は、町と平野をペルシア人が確保し、山地はペダサに住むカリア人に所有地として与えた。
ペルシアの優しい移住処罰。
サモス人のザンクレ移住
一方サモスでは、富裕な階級のものたちは、サモス軍の指揮官たちがペルシア軍に対してとった行動にあきたらず、海戦直後に評議した結果、独裁者アイアケスが国に乗り込んでくるに先立ち、海外へ移住し、決して留まってペルシア人とアイアケスに隷従するまいと決意したのである。
僭主一族に従わず、ザンクレ移住したサモス人貴族はフェニキア系であろう。
ザンクレ人自身の勧誘
というのはちょうど同じ頃、シケリアのザンクレ人がイオニアに使者を派遣してきて、自分たちがイオニア人の町の建設を計画しているカレ・アクテへくるようにイオニア人に勧誘してきたからである。
このカレ・アクテと呼ばれる土地は、シケリア人(シケリア原住民)の住む地域で、ティレニア海に面するシケリアの海辺にある。
〔註〕今日のメッシナである。メッシナ海峡を隔ててレギオン(今日のレッジョ)と対する。前八世紀後半イオニア系のエウボイア島カルキス人によって植民された。
〔註〕カレ・アクテとは「美しい海岸」の意。後に約まってカラクテと呼ばれる。シケリア北岸の町。
ザンクレは、カルキス人の植民地であったので、フェニキア系カルキス人は、同胞のサモス人を呼び寄せた。
さてイオニア人のうちこの勧誘に応じて植民に参加したのはサモス人だけで、ほかにミレトスの避難民が同行した。
やはり、まともに西地中海に進出できるのはフェニキア系のみ。
カルキス人もフェニキア系。やくざなポカイア人はまともではない。
ザンクレ王スキュテス、カレ・アクテを包囲中、サモス人到着
シケリアを目指すサモス人の一行がロクロイ・エピゼピュリオイに着いた頃、ザンクレはその王スキュテスの下に、シケリア人のある町を占領の目的で包囲していた。
〔註〕これはギリシア本土のロクリス・オゾリスからの植民で、イタリア半島の南端に近い東南岸にあった。
サモス人は、カレ・アクテ攻略に参加すべく、イタリア半島のロクロイ・エピゼピュリオイに到着した。
レギオンの僭主アナクシレオスの唆し
ところがレギオンの独裁者アナクシレオスというものがこうした事情を知り、当時ザンクレと不和の間柄であったので、サモス人と連絡をつけ、彼らが目指すカレ・アクテへゆく計画を放棄して、あたかも男子が不在のザンクレを占領すべきことを説いたのである。
サモス人はアナクシレオスに説き落されてザンクレを占領したが、ザンクレ人は自国が占領されたことを知るとその救援に向い、彼らと同盟の関係にあったゲラの独裁者ヒッポクラテスに応援を求めた。
〔註〕シケリア南岸の町。悲劇作家アイスキュロスの終焉の地として有名である。
サモス人は、レギオン僭主アナクシレオス(この人はドーリス系のメッセニア人)に唆されて、豊穣なザンクレの留守を狙って占領した。
ゲラ僭主ヒッポクラテスの庇護嘆願者スキュテスへの裏切り
ところがヒッポクラテスは軍を率いてザンクレ人に来援すると、ザンクレの独裁者スキュテスを町を喪失した責任者として捕縛し、その弟ピュトゲネスとともにイニュクスという町へ放逐してしまった。
ゲラ僭主ヒッポクラテス、サモス人と利権山分け
それからサモス人と話合いをした結果誓約を取り交わして、残余のザンクレ人を裏切って、彼らをサモス人に引き渡したのである。
この裏切りの代償としては、市中にあるすべての動産および奴隷の半分と田畑のもの全部をヒッポクラテスが入手することが、サモス人によって確約されていたのであった。
ヒッポクラテスはザンクレ市民の大部分を捕えて奴隷として自分が確保し、主だった市民三百人を処刑すべくサモス人に引き渡した。
ただしサモス人はその処刑を行わなかった。
ゲラ僭主は、レギオン僭主と同様ドーリス系、こちらはロドス出身。
サモス人は、同胞のザンクレ人(カルキス系=フェニキア系)を処刑せず、仲良く共住した。
ザンクレ僭主スキュテスの安楽な老後
ザンクレの独裁者スキュテスはイニュクスを脱出してヒメラへゆき、そこからアジアへ渡り、東上してダレイオス王の許に身を寄せた。そしてダレイオスによって、ギリシアから王の許へきたもののうち誰よりも誠実な人間であると認められたという。というのは、王の許可を得ていったんシケリアへ帰ったっものの、再び王の許へ帰参したからで、彼はペルシアにあって何不自由なく暮らし高齢に達してその生涯を終えたのである。
スキュテスは、カルキス人だったのか。カルキス人はサモス人同様フェニキア人の友であり、やはりペルシアなど長いものには巻かれて、片意地張らず実利を求め争いを好まぬ陣営の人だったことはたしかだ。スキュタイの祖の名であるように、スキュタイ系だったのか。
サモス人のザンクレ
ペルシアの難を免れたサモス人が、世にも美しいザンクレの町を労せずして手中におさめた経緯は右のとおりであった。
サモス独裁者アイアケス復権
ミレトスをめぐって起った海戦の後、フェニキア人はペルシア側の命令により、シュロソンの子アイアケスを、味方を利用して大功のあった殊勲者であったというので、サモスへ帰し復権せしめた。
かつてのサモス僭主ポリュクラテスの甥アイアケスがサモス僭主に返り咲いた。
ヒスティアイオスの最期
故国ミレトスの陥落の報に、キオス占領
ビュザンティオンの海域で黒海から出航してくるイオニアの船舶を捕獲していたミレトス人ヒスティアイオスのもとへ、ミレトス陥落の報がもたらされた。
ヒスティアイオスはヘレスポントスの事を、・・・アビュドス人に一任して、
自分はレスボス人を率いてキオスに向った。
ところがキオスの守備隊がヒスティアイオスを迎え入れることを拒んだので、キオス地区にある「凹み」と通称されている場所で交戦し、その多数を殺した。
キオスを平定したのち、ヒスティアイオスはイオニア人およびアイオリス人多数を率いてタソス島を攻めた。ところがタソスを攻囲中のヒスティアイオスの許へ、フェニキア軍がミレトスを出航し、イオニアの他の諸市の攻撃に発進したとの情報がもたらされた。
ヒスティアイオス、レスボスで生け捕り
右の報に接したヒスティアイオスはタソスを未攻略のまま放置し、自ら全軍を率いてレスボスへ急行した。
しかし軍隊が食糧難に苦しんでいたので、アタルネウス地区の穀物とそればかりかさらに進んでミュシア地方のカイコス河流域の穀物をも刈り入れる目的で、レスボスから対岸に渡った。
ところがこの地区には、当時たまたまペルシア軍の大将ハルパゴスが有力な軍勢を指揮して駐屯しており、ヒスティアイオスが上陸したところを襲って彼を生捕りにし、その麾下の軍の大半を撃滅してしまったのである。
ペルシア語で命拾い
敗走するギリシア軍の間でヒスティアイオスは、よもや大王がこのたびの失態で自分の生命まで奪うことはあるまいと思うと生への未練が断ち切れず、その挙句は逃走中をペルシアの一兵士に追いつかれ、あわや槍に貫かれようとしたとき、ペルシア語で自分がミレトスのヒスティアイオスであることを明かしたのであった。
サルディス総督アルタプレネスとハルパゴス、ヒスティアイオス処刑
サルディスの総督アルタプレネスとヒスティアイオスを捕らえたハルパゴスとが心を合わせ、ヒスティアイオスが護送されてサルディスへ着くや、その場で胴体は磔刑にし、首は塩漬けにしてスサなるダレイオス王の許へ送ったのである。大王はこの事情をきくと、ヒスティアイオスを生かしたまま自分の面前に連れてこなかったことに対し、右のような処置をとった者たちを難じ、ヒスティアイオスの首を洗って鄭重に扱い、自分およびペルシア国民に対して大功のあった者にふさわしい礼を尽して埋葬するように命じた。
ハルパゴスの抜け目なさ。ダレイオスの嘆き。
島嶼とヘレスポントス
イオニア島嶼、曳綱式の掃蕩
ペルシアの艦隊はミレトス附近で冬を過ごしたが、あくる年になって出港すると、キオス、レスボス、テネドスなど、大陸に近接した諸島を易々と占領した。
ペルシア軍はこれらの島を占領するごとに、その住民を「曳き綱式」に掃蕩したものであった。曳き綱式の掃蕩というのは次のようにして行うのである。
兵士が一人ずつ手をつないで、北の海岸から南岸までを貫き、こうして住民を狩り出しながら全島を掃蕩するのである。
イオニア島嶼民は、宦官に
この時ペルシアの諸将は、ペルシア軍に反抗の陣を構えたイオニア人に向って彼らが放った威嚇をその言葉どおり実行したのであった。というのは、
彼らはイオニア諸市を制圧するや、特に美貌の少年を選んで去勢し男子の性を奪い、また器量のすぐれた娘を親許からひき離して大王の宮廷へ送った。
ミレトス人は、恩人ヒスティアイオスに免じて移住で許したのだろう。
島嶼のアイオリス人は、宦官にされた。
ケルソネソス
さてヘレスポントスのヨーロッパ側にある地方を次にあげれば、ますケルソネソスであるが、ここには多数の都市がある。
現在のガリポリ(語源はカリポリス)半島のこと。ヘレスポントスのヨーロッパ側の細長い半島。主要都市はカルディア。トラキア・ケルソネソスともいう。
つづいてペリントス、トラキア要塞、セリュンブリア、ビュザンティオンがある。
カルディア市以外のケルソネソスがフェニキアの軍門に下る
さてビュザンティオン人およびその対岸に住むカルケドン人は、海上を攻めよせるフェニキア軍を迎え撃とうともせず、母国を捨て、黒海の内へ逃れ、ここでメサンブリアの町に住みついてしまった。
フェニキア軍は前に列挙した諸地域を焼き払うと、プロコンネソスとアルタケに向い、これらをも烏有に帰せしめると再びケルソネソスに向った。
ケルソネソスの諸都市は、カルディア市を除いてことごとくフェニキア軍の手中に帰した。
大ミルティアデスとケルソネソス
これらの町はこれまで、ステサゴラスの子キモンを父とするミルティデスの独裁下にあった。
この支配権はこれより先、キュプセロスの子ミルティアデスが次のような事情で獲得したものであった。
ケルソネソスがミルティアデスを戴く経緯
このケルソネソスには以前トラキアの部族であるドロンコイ人なるものが居住していた。ところがこのドロンコイ人は、アプシントス人との戦いに難渋し、戦局について神託を乞うために部族内の重だった者をデルポイに派遣した。
するとデルポイの巫女は答えて、彼らがこの聖域から帰国の途次、彼らを客として遇してくれる最初の人物を国家再建の指導者として自国へ連れてゆくがよい、といった。
ドロンコイ人たちは「聖なる道」をポキス、ボイオティアを過ぎて進んでいったが、彼らを客に招いてくれる者が一人もいなかったので、道を転じてアテナイへ向った。
アイアキダイのミルティアデス、ペイシストラトス治下で重鎮
当時アテナイで全権を掌握していたのはペイシストラトスであったが、キュプセロスの子ミルティアデスもまた大いに勢力をふるっていた。
この男は四頭立ての戦車を仕立てる財力のある資産家の出で、祖先は遠くアイアコスとアイギナに遡り、アテナイの国籍に入ったのは比較的新しい家柄である。アイアスの子ピライオスが、この家ではアテナイ国籍に移った初代の人物であった。
サラミス島の領主テラモンの子アイアスの息子のピライオスが、サラミス島の支配権をアテナイに渡して、アテナイの市民権を得、ブラウロンに移住したといわれている。(プルタルコス・ヘロドトス・パウサニアスなど。)
したがって、ピュロスからブラウロンへ移住したペイシストラトス一族とは懇意の仲になったのだろう。
ミルティアデス、ケルソネソスに移住
ドロンコイ人たちは彼の好意を容れてそのもてなしをうけたが、この時、例の託宣について一部始終を彼に打ち明け、どうか神意に従ってくれと彼に頼み込んだ。この話をきいたミルティアデスは、もともとペイシストラトスの支配にあきたらす、国を離れたい希望であったので、一も二もなく承諾した。
そして彼を招致した、かのドロンコイの首領たちは、彼を独裁者に樹てたのであった。
ミルティアデス、ケルソネソスに城塞
ミルティアデスは手始めとして、ケルソネソスの地峡に、カルディアの町からパクテュエにかけて城壁を築いた。
これはアプシントス人がケルソネソスに侵入して掠奪するのを妨げるためである。
ミルティアデス、ランプサコスと戦争
さてミルティアデスはケルソネソスの頸部に城壁を築き、かくしてアプシントス人の侵入を阻んだ後、残余の部族の内ではランプサコス人と最初に戦いを交えた。
ランプサコスは、ヘレスポントスの対岸のアジア側の都市。トロイアからやや内陸に入ったところ。主にミレトスからの植民。
つまり、ランプサコスは、フェニキア系だっただろう。
ミルティアデス、ランプサコスの捕虜に
ところがランプサコス軍は伏兵をしかけて、ミルティアデスを生捕りにしてしまったのである。しかしミルティアデスはリュディア王クロイソスと懇意であったので、クロイソスはこのことをきくと、ランプサコスへ使者をやって、ミルティアデスを赦免するように通告した。そしてもしこの要求を容れなければ、彼らを松の木のごとく絶やしてやると威嚇した。
ミルティアデス、リュディア王クロイソスに救われる
ランプサコス人は「松の木の如く絶やす」といったクロイソスの威嚇の言葉の意味が判らず、・・・
あらゆる樹木のうち松のみが、一度伐り倒されると決して芽を吹くことがなく完全に枯死してしまう、ということであった。
そこでランプサコス人はクロイソスに恐怖を覚えて、ミルティアデスを釈放したのであった。
ミルティアデスから甥(異父兄弟キモンの子)ステサゴラスに後継
ミルティアデスはこうしてクロイソスの好意によって難を免れたがやがて世を去った。彼には世継ぎの実子がなかったので、政権と財産は異父兄弟のキモンの子ステサゴラスにゆずったのであった。
つまりこのステサゴラスの実弟であったミルティアデス(小ミルティアデス)は、ケルソネソスの建設者ミルティアデス(大ミルティアデス)の同母の兄弟の子。つまり母方の甥ということになる。
ステサゴラスもランプサコスの間者によって暗殺
ランプサコスとの戦争中、ステサゴラスもまた後嗣のないまま世を去ることになった。市会堂にいたとき頭を斧で打たれたわけで、下手人は脱走兵であると自称したが、実は敵の廻し者で、その上かなり昴奮性の強い男であった。
小ミルティアデス、ケルソネソスの僭主に
ステサゴラスが世を去ると、ペイシストラトス家の一族は、逝去したステサゴラスの兄弟に当る、キモンの子ミルティアデスにケルソネソスの事態を収拾させるべく、三段橈船でかの地に派遣した。
ペイシストラトス一族とミルティアデスの関係
ペイシストラトス家の一族は、ミルティアデスの父キモンの横死については何喰わぬ顔をして、ミルティアデスがアテナイにいる時から彼を厚遇していたのであった。
ペイシストラトス一族とミルティアデス一族は同じ地盤の共闘関係にあり、アリストゲイトンなどのフェニキア系も同じ地盤の勢力であったのだろう。
いわば、彼らの争いは兄弟げんかのようなものだ。
ミルティアデス、ケルソネソスを制圧し僭主に
ミルティアデスはケルソネソスへ着くと、兄弟ステサゴラス喪に服する態度で自宅に引き籠っていた。ケルソネソスの住民はこのことを伝えきき、各部族から重だったものが集まり、一団となって悔みを述べにきたところを、ミルティアデスによって逮捕されてしまった。こうしてミルティアデスは五百の傭兵を配下に養いケルソネソスを手中に収め、トラキアの王オロロスの娘ヘゲシピュレを妻とした。
トラキア人の王女と結婚し、キモンをつくった。
ミルティアデス、逃げ腰でケルソネソスからアテナイに逃げ帰る
スキュタイ人に逃げ腰のミルティアデス
遊牧民のスキュタイ人は、・・・ケルソネソスまで押し寄せてきた。
ミルティアデスはしかし、攻め寄せるスキュタイ人の前に踏み止まって戦うこともせずケルソネソスを脱出してしまい、スキュタイ人が退去した後ようやくドロンコイ人によって連れ戻されたのである。
フェニキア人にも逃げ腰、アテナイに逃げ帰る
さてこの時、フェニキア海軍がテネドスにあると聞き知ったミルティアデスは、ある限りの資産を五隻の三段橈船に満載して、アテナイ目指して出帆した。
カルディアの港を発ってメラス湾を通って進んだが、ケルソネソスの沿岸を過ぎる頃、フェニキア軍が船団に襲いかかった。
ミルティアデス自身は、船団の内四隻とともにインブロス島に難を避けたが、五隻目の船はフェニキア軍の追跡に遭って捕らえられた。
一方ミルティアデスはインブロスからアテナイに着いた。
アルタプレネスのイオニアの平和
すなわちサルディスの総督アルタプレネスはイオニア各市から使節を招致し、彼らは今後相互間の紛争を裁定によって解決し、決して互いに掠奪行為に訴えることはしないという協定を各都市の間で結ぶことを強要したのである。
右の協定を否応なく結ばせるとアルタプレネスは次に各都市の領土を、わが三十スタディオンに当るパラサンゲスというペルシア単位によって測量し、それによって各市に貢税を課した。
わずかな税の徴収で、平和を維持してくれるペルシアは、帝国主義者のハゲタカ国家アテナイなどよりはるかによい支配者であった。
イオニア人が「長いものに巻かれる」はずである。
二、マルドニオスによるギリシア本土侵入
ダレイオスの娘婿マルドニオスが、ギリシア攻め総司令に
さて春になって(前492年の春)他の諸将は大王によって司令官の職を解かれたが、ひとりゴブリュアスの子マルドニオスは海陸の大軍を率いて沿海地方に下った。彼はまだ年も若く、ダレイオスの娘アルトゾストラを妻に娶ったばかりであった。
目指すところはエレトリアとアテナイであった。
タソスとマケドニアを平定
反撃の態勢すら示さなかったタソスを海軍によって征服するとともに、陸上部隊によってマケドニア陣を討ち、すでにペルシアの隷属下にある民族にこれを加えたのである。
三、ダティスとアルタプレネスによるギリシア本土侵入
タソスの屈服
その翌る年ダレイオスは先ず、タソスが謀反を企てているという隣国からの訴えがあったので、タソスに使者を送り、城壁を取り壊しその艦船をアブデラへ廻すように命じた。
豊穣のタソス!
事実タソス人は、かつてミレトス人とヒスティアイオスの包囲攻撃を蒙った経験に鑑みて、莫大な収入のあるのを幸い国富を利して軍船の建造と従来より強固な城壁の築営に当っていたのであった。
この収入源は本土にあるタソスの領土および鉱山の二つであった。
スカプテ・ヒュレの金鉱からは平均八十タラントンの年産があり、タソス島内の金鉱の算出額はこれよりは少なかったが、それでも相当の額に上ったので、・・・
〔註〕タソス島対岸にある著名な金山。
タソス植民伝説
私自身もこれらの鉱山を見たことがあるが、その中でも特に異彩を放っているのはタソスなる者を指導者としてはじめてこの島に植民したフェニキア人の発見した鉱山であるーなおこの島の現在の名はこのタソスというフェニキア人の名に因って命名されたもので、このフェニキア人の鉱山は、タソス島のアイニュラおよびコイニュラと呼ばれている二つの場所の中間にあって、遥かにサモトラケ島を望む大山であるが、金鉱探しのためにすっかり堀り崩されてしまっている。
タソスは、フェニキア人の金鉱であった。
タソス、すぐに臣従
タソス人はペルシア王の命に基づき城壁をとり壊すとともに、全船をアブデラへ回航したのであった。
長いものにはまかれろ。ペルシアはむちゃしないので、ペルシアに守ってもらう。賢明なフェニキア人。
ギリシアの情勢、クレオメネスとデマラトス
本土でいの一番にアイギナがペルシア側に
アイギナ、ダレイオスに土と水献上
本土においてもペルシア王の要求どおり土と水を献じた町は少なくなかったが、島嶼に至っては使者の訪れたことごとくの島がその要求を容れたのである。
ところがダレイオスに土と水を献じた多数の島の中には、アイギナも加わっていた。アイギナがこの挙に出ると間髪を容れずアテナイはアイギナ攻撃の火蓋を切った。
アテナイ、アイギナに攻撃
アテナイとしてはアイギナがペルシア王に屈服した真の狙いはアテナイであり、アイギナはペルシア王と組んでアテナイを攻める意図であると考えたからで、好い口実を得たことを喜び、スパルタと連絡をとりアイギナ人の行動はギリシアを裏切ったものであるとしてその罪をスパルタに訴えたのである。
最初に、ペルシアと組んで、スパルタを攻めようとしたのはアテナイである。
ペルシアにヒッピアスの復帰を認めるように勧告されてはじめて、ギリシア人の擁護者のような顔をして、ペルシアと決裂したのだ。
このように「ペルシア戦争」とはペルシアの侵略からギリシアを防衛する戦争ではなかった。
ペルシアを利用して、各都市の都市間戦争を有利にするためのギリシア本土の内乱に、ペルシアが干渉しただけのものであった。
お人よしのスパルタ、アテナイの要請に応えてアイギナに赴く
当時スパルタの王はアナクサンドリデスの子クレオメネスであったが、右のアテナイの訴えをきくとアイギナの首謀者を捕らえようと考えてアイギナへ赴いた。
スパルタ王家の血統について
アリストデモス、スパルタ帰還後死亡説(スパルタ人の説)
スパルタ人のいうところはどの詩人の伝えるところとも違って、彼らを現在のスパルタ領にはじめて引率してきたのは、ヒュロスを曾祖父に、・・・アリストデモス自身であって、アリストデモスの子らではないという。
他の詩人は、アリストデモスはナウパクトスで死んだとする。
ヘロドトスは、スパルタで妻アルゲイアが出産してすぐに死んだとする。
パウサニアス『ギリシア案内記』9巻5・15によると、すでにドーリス人がスパルタを占拠したところに、カドモス直系最後のテーバイ王アウテシオンが、テラスとアルゲイアを連れて移住したとなっている。
だとすれば、ヘラクレイダイはカドモス系だったからというのが合理的な仮説である。スパルタ王家のヘラクレイダイが、カドモス系を尊重する度合いをみれば明らかである。ヘラクレスは、ペルセウス(エジプトーダナオイ系)ではなく、実際はカドモス系だったのではないか。ペルセウスの子孫もプロト・カルタゴ人(原カルタゴ人)のアンドロメダとの混血であるが。ただし、ペルセウスこそ、ペルシア帝国から捏造された架空の人物であることは明白である。
ヘーラーとヘーラクレースは、テーバイ帝室の主神であった!という理論は基礎になる。
テーバイ王家のアルゲイアが二王家の祖を生む
その後間もなくアリストデモスの妻が子を生んだというのであるが、この妻の名はアルゲイアといい、テイサメノスの子アウテシオンの娘で、三代前はテルサンドロス、四代前はポリュネイケスに遡ると伝えられる。
ラケダイモン王家は、つまりカドモス系テーバイ王オイディプスの子孫である。
ヘラクレイダイもおそらくフェニキア系(カドモス系)、スパルタの国母もカドモス系フェニキア人である。
二王家の祖の双生児誕生
この女は双生児を産んだが、アリストデモスは子供の誕生を見た後病死したという。・・・二人がどの点でも全く瓜二つであるので、どちらを選んでよいか途方に暮れたのである。
ペルセウスは私生児、父の民族は不明
先に私が「ペルセウスの代に至るまで」といい、それより以前の時代には遡らぬことにした理由は、例えばヘラクレスの場合にはアンピトリュオンという人間の父の名が添えられているのに、ペルセウスにはそのようなことがないからである。
アムピトリュオーンは、テーバイのアポロン神殿の鼎の奉納者から捏造された人物であろう。
ペルセウスの父は、ゼウスということになっている。
すなわちテーバイ帝室を暗示するのである。
ヘーラクレースとは、ゼウス(テーバイ帝室)の子孫であり、現在の驚異の帝室ペルシア帝国から捏造されたのであろう。
アテナイはテーバイと不倶戴天の敵であったので、ギリシア最大の英雄ヘーラクレースが、テーバイの英雄であってはまずかったのである。
スパルタ王家エジプト起源説(ヘロドトス説)
アクリシオスの娘であるダナエ以前の祖先の系譜をたどってゆけば、ドーリス族の指導者であったものたちがエジプト人の直系であることは明らかであろう。
上記のように、ヘーラクレースは、完全テーバイ系であり、完全カドモス系である。
エジプト人とは縁も所縁もない。
スパルタ王の権限
ゼウスの祭司長と軍軍総司令官
スパルタ王に与えられている特権は次のようなものである。
まず二つの聖職で、これはゼウス・ラケダイモンとゼウス・ウラニオスを祭るもの。
また出陣のときは王は軍の先頭に立ち、戦場を引き上げるときは最後まで残らねばならない。
アテナイの主神がアテナで、スパルタの主神がゼウスであることは、スパルタこそが、ギリシア古来の王族の末裔(すなわちテーバイ帝室の末裔)であることは確かだ。
古典時代は、ゼウスからアポロンへ主神の世代交代が行われていた時分だったため、アミュクライオスもヘーリオスであったものがアポローンとして呼ばれることになっていた。
しかし、本来テーバイは、ヘーラーを主神とし、エーリスでもヘーラーを主神とし、古い時代は、女神ヘーラーが主神でゼウス=ヘーラクレースは、若い男神の立場であったことは明白だ。
また、プロト・カルタゴ人の王家の時代は、アレースとアプロディーテー、アスクレピオス(エシュムン)が主神であっただろう。
外交権
さらに王は市民の間から自由に外人接待官を任用することができる。
また各自二人ずつの「ピュティオイ」を選任する権限をもつ。
「ピュティオイ」というのは、デルポイへ神託を伺いにゆく役名で、この役職にあるものには王とともに国費で食事をする特権がある。
裁判権
王が単独で裁定する事柄は次のものに限られる。
相続権のある娘に関し、実父がその娘の配偶者を定めておかなかった場合、誰がその娘を娶るかの判定、公共の道路に関することがそれである。
また市民が養子を入れようとするときには、王の立会の下でなければならない。
これは、フェニキア系(カドモス系)の王家が、フェニキア系の血筋の濃度を保つためのものであろう。
王は長老会の会議に出席する。
長老会の定員は二十八名である。王が欠席の場合には、長老の内で王に最も近い親戚に当るものが王の権利を代行し、自分自身の一票のほかに二票の投票権を行使した。
二王を除く28名と二王で構成される長老会こそ、スパルタの最高権力者であるが、
おそらくここでは、二王出席時には、それぞれが一票ずつ権利を持ち、二王が戦争で外出時は、二王の代理で、カドモス系の血の濃い血族の王族が二票を代行したと考えるべきであろう。
フェニキアではスーフェースという名の王は、裁判官という意味である。
王権の主要な機能が裁判であったことがわかる。
クレオメネスとデマラトスの争い
クレオメネスの正義、デマラトスの下衆
この時デマラトスは、アイギナにあってギリシア全体の福祉のために尽瘁していたクレオメネスを誹謗してやまなかったが、それもアイギナ人のためを慮ったというよりは、嫉妬羨望の念にかられたからであった。
クレオメネスはアイギナから帰還すると、デマラトスを王位から追うことに腹をきめ、彼に対する攻撃の手懸りとして、次のような事情を利用したのである。
ここを読めばヘロドトスは、ちゃんとクレオメネスに正義があり、デマラトスは下衆野郎だとわかっている。しかし結果的に、クレオメネスは偽の託宣のためか非業の死を遂げ、デマラトスはのうのうとペルシアで余生を過ごす。
クレオメネスの発狂と自殺
クレオメネスのこのような策謀を知ったスパルタでは、彼を恐れて以前と同じ官職に就かせるという条件で帰国させた。
しかし帰国するとすぐに彼は狂気にとりつかれた。以前から狂騒の気のあった男ではあったが、道で出会うスパルタ人の誰彼の区別なく、その顔を杖でなぐるのである。彼がこのような振舞いをして発狂したことが判ったので、近親の者たちは彼に木製の足枷をかけて監禁した。監禁されたクレオメネスは、ある時看視人が唯一人で他に人気のないのを見て、短剣を呉れといった。
クレオメネスは刃物を受け取ると、脛から始めてわれとわが身を切り裂いていったのである。このようにして最期を遂げた。
デルポイの神託捏造は、アテナイのクレイステネスもやっていながらのうのうと生涯を全うした。
クレオメネスのアルゴスの国祖アルゴスの杜放火
さてクレオメネスは、およそ五十人ほどのアルゴス兵を一人ずつ誘い出して殺してしまった。
そこでクレオメネスは、ヘイローテスの一人一人に命じて森の周りに薪を積みあげさせ、用意が整うと森に火をつけたのである。
たしかにアルゴスの国祖の半神の森を放火したが、ヘラには敬意を払っている。
その後クレオメネスは大部分の軍勢をスパルタへ還らせ、
自分は精鋭一千を率いてヘラの神殿へ生贄を捧げるべき赴いた。
クレオメネスの乱心は涜神でなくアル中(スパルタ人の説)
当のスパルタではクレオメネスの乱心は宗教的なこととは全く関わりないことで、クレオメネスはスキュタイ人との交際から大酒癖を覚え、それが因で狂ったのであるといっている。
ペルシア遠征軍、諸島を経てマラトンに達す
エレトリア、アテナイに見捨てられペルシアに降服
エレトリア人はペルシア軍が自国に向って艦隊を進めていることを知ると、アテナイに救援を求めた。アテナイは直接に援助することは拒んだが、その代わりカルキスのヒッポボタイの領地に入植した四千を、援軍としてエレトリアに送ることを承諾した。
しかしエレトリア側には出撃はもとより迎撃する意図もなく、町を放棄する説が大勢を制してからは、何とか城壁を守ることのみに専念していた。
七日目に入って町の有力者であったアルキマコスの子エウポルボスとキュネアスの子ピラグロスの二人がペルシア方に寝返った。
ペルシア軍は町に侵入し、・・・ダレイオスの命じたとおり市民を奴隷にした。
ヒッピアス、かつてのホームグランドのマラトン地方に誘導
さてアッティカ地方ではマラトンが騎兵の行動に最も好都合であり、かつエレトリアにも至近の位置にあるというので、ペイシストラトスの子ヒッピアスはペルシア軍をこの場所に誘導したのであった。
マラトンの戦い
ミルティアデスの一族
これを知ったアテナイ人たちは、彼ら自身も救援のためマラトンに出動した。
その指揮に当ったのは十人の大将で、ミルティアデスはその十番目であった。
ミルティアデス一族の家族史
キモンはその後のオリュンピア競技でも同じ馬を駆って優勝したが、この時は勝ち名乗りをペイシストラトスにゆずり、彼に優勝の栄誉をゆずることとにより、彼と和解が成立し母国に復帰したのであった。
その後ペイシストラトスの子らの手にかかって死んだ。・・・彼を暗殺したのである。
ペイシストラトス一派の差し金とは限らない。
キモンの息子たちの内、長子のステサゴラスは当時ケルソネソスに在った母方の叔父ミルティアデスの許で養育されていたが、弟はアテナイの父の許にいた。
この弟の名は、ケルソネソスの開拓者ミルティアデスの名をとってミルティアデスといった。
ミルティアデス交戦主張
さてアテナイの司令官たちの間では見解が二つに分かれ、一方はペルシア軍と戦うには自軍の兵力が少ないという理由で交戦することの不可を説き、ミルティアデスを含む他の一派は交戦すべきことを主張した。
この時十人の司令官のほかに投票権をもつもう一人は、抽籤によってアテナイの軍司令官に選ばれた者で、・・・当時の軍司令官はアピドナの人カリマコスであったが、ここにおいてミルティアデスはカリマコスの許へゆき次のようにいった。「ハルモディオス、アリストゲイトンの両名すら残しえなかったような金字塔を・・・」
ミルティアデスは右のように述べて、カリマコスを味方に引き入れ、かくて軍事長官の賛成意見が加わったため、交戦の決定がなされた。
このとき、ミルティアデスがアピドナ地区のカリマコスのところへ行って説得したことは重要。
「アピドナ地区」とは?
〔註〕この二人は前六世紀の末アテナイの独裁者ヒッパルコスを討ってアテナイの自由の戦士とたたえられた。その出身地がカリマコスと同じアピドナであったこともここには含意されているのであろう。
つまり、「アピドナ地区」とは、ハルモディオス、アリストゲイトンを輩出した「ゲピュライオイ族」(フェニキア系)の地区であったのだ!
のちにアピドナ地区のティモデモスという無名の人のアイデアをテミストクレスが盗むが、この時はアピドナ地区の人が主導であった。
アテナイの快挙には、ペイシストラトス一族の文明革命と、このフェニキア人帰化人の知恵が大いに関わっている。
つまりマラトンもサラミスも勝利の核心にアピドナ地区のフェニキア人がかかわっている。
クレイステネス一族やアテナイの民衆、大部分がダナオイ人、アカイア人の末裔であろう、はフェニキア人の知恵を盗んだのである。
マラトンの陣形
いよいよミルティアデスに指揮当番が巡ってきた時、アテナイ軍は次のように戦闘隊形を整えた。
右翼は軍事長官が指揮をとったが、これは当時アテナイでは軍事長官が右翼を占めるのがしきたりになっていたからである。
その次には各部族が順番に従い、相接して続いた。
そして最後にプラタイア人が左翼を占めて布陣した。
〔註〕右翼は最も危険度が高く、それ故に最も名誉ある位置とされ、古くは王の指揮するところであった。
マラトンの戦いの経緯
マラトンの戦いは長時間にわたって続いた。戦線の中心部においては、この方面にペルシア兵とサカイ陣を配置したペルシア軍が勝ちを制した。
両翼においてはアテナイ軍とプラタイア軍が勝利をおさめた。
しかし勝利を得たアテナイ、プラタイア両軍は、両翼を合わせて中央を突破した敵軍を攻撃し、かくて勝利はアテナイ軍の制するところとなった。
軍司令官カリマコス戦死
敗走するペルシア兵を…追撃し、また敵船団を捕獲しようと試みた。
この時の激戦で、軍事長官のカリマコスが目覚ましい働きをした後戦死し、・・・
なんとフェニキア系の軍司令官カリマコスは、戦功を立てて戦死し、勝利の利益をミルティアデス一人が独占することになる。
アテナイの圧勝
このマラトンの合戦において戦死者の数は、ペルシア方が六千四百、アテナイ方は百九十二であった。
アルクマイオン家
アテナイの下衆の代表アルクメオン家とは?
アルクメオン家はアテナイにおいて既に古くから名門であったがアルクメオン、つづいてメガクレスの代から殊にその家名が挙がったのである。
アルクメオン家の祖アルクメオンの品のなさ
メガクレスの子アルクメオンは、デルポイの神託を仰ぐためにクロイソスによって派遣されてサルディスから到来したリュディア人一行の世話役となり、熱心にその面倒を見てやった。
クロイソスは神託を伺うために再々往来しているリュディア人たちから、アルクメオンが自分によく尽してくれることを聞き、彼をサルディスへ招き、彼が来ると、一度に体につけて持ち出せるだけの黄金を彼に与えようといった。・・・アルクメオンは、・・・すなわちダブダブの着物を着て深く懐をとり、できるだけ大きな長靴を穿いて、案内されるまま宝蔵に入ったのである。
人の財を奪うことしか念頭にないアテナイ人の下劣さと品性のいやしさを、このアルクメオンの「ダブダブの服で宝蔵に入った」エピソードは伝えている。
シキュオンの僭主クレイステネスの婿えらび
アルクメオンの子メガクレス
アルクメオンにつづいてその次の代に、シキュオンの独裁者クレイステネスが家名を揚げ、この一家の名声はギリシアにおいて以前よりいちじるしく高まった。
このクレイステネスにはアガリステという娘があった。
アテナイからきたのはクロイソスの許を訪れた例のアルクメオンの息子メガクレスともう一人テイサンドロスの子ヒッポクレイデスであった。
ヒッポクレイデスは富と美貌でアテナイでは際立った青年であった。
成り上がりの下品な馬の骨のシキュオン僭主クレイステネスは、ギリシア各地から名門の子弟を招き、娘婿選びのコンペを開催した。
ピライオス家(ピライダイ)=アイアキダイのヒッポクレイデス
そして求婚者の中では、どうやらアテナイからきた者たちが一番彼の気に入ったらしかった。
その中でもテイサンドロスの子ヒッポクレイデスの方が一層彼の目がねにかなったらしく、それにはこの青年の能力もさることながら、その祖先がコリントスのキュプセロス家と縁続きであるということがあずかって力があった。
〔註〕ヒッポクレイデスはピライオス家の一族であったが、家祖ピライオスの母方の系統がキュプセロス家と縁がつながっていた。
〔註〕クレイステネスがヒッポクレイデスとキュプセロス家とのつながりを重要視した理由は明らかではないが、クレイステネスの家柄は一種の成り上がりであったから名門との縁結びを求めたのであろうと、ルグランは推測している。
ピライオス家とは、大アイアスの子ピライオスに遡る先祖をもつサラミス島のアイアキダイが、アテナイに帰化した家系であり、アテナイ帰化後ピライダイとも呼ばれる。
アイアキダイ=ピライダイ。
それに母方からコリントス僭主一族の血も混入した由緒ある名門で、
ミルティアデス、キモン父子を輩出した。
ヒッポクレイデスの脚踊りと名門の鷹揚さ
酒宴は進み、ヒッポクレイデスは他の競争者たちを桁違いに圧してしたが、笛吹きを呼んで踊りの曲を吹けと命じ、笛吹きが命に従うと踊り出した。
こんどはテーブルを一台取り寄せ、テーブルがくるとその上にのってまずラコニア踊り、つづいて別のアッティカ踊りを演じ、三番目にはテーブルの上に逆立ちをして、脚でしぐさをしてみせた。
クレイステネスは、・・・彼が脚踊りをするのを見るに及んでもはや自分を制し切れず、
「テイサンドロスの倅よ、お前のその踊りで縁談は取り消しじゃ。」
といえば、ヒッポクレイデスはそれを受けて、
「ヒッポクレイデス(ほどの者)は気にせぬぞ。」といった。
下衆のシキュオン僭主クレイステネスと下衆のアルクメオン家の結合
わが娘アガリステは、アルクメオンの子メガクレスに、アテナイの法に従い婚約させることにする。
クレイステネス誕生
二人の結婚によって生まれたのが、アテナイに部族制と民主政治を確立したクレイステネスであるが、その名はシキュオンの母方の祖父の名をとったのである。
アルクメオン家は、前七世紀のキュロンの反乱の際、涜神罪を犯したようにある程度の旧家であるが、クレイステネスの母は成り上がりのコリントス僭主クレイステネスの娘である。
メガクレスもクロイソスの宝強欲事件でわかるような下品極まりない男で、母方も下品であったので、こいつがペイシストラトス一族をデルポイのピュティアを買収して追放したのはわかる。下衆野郎である。
下品な顔つきをしている。
ペリクレスの出自
メガクレスにはこのクレイステネスのほかにヒッポクラテスというもう一人の息子があったが、このヒッポクラテスから別のメガクレスと別のアガリステとが生まれた。
このアガリステは、・・・アリプロンの子クサンティッポスに嫁ぎ、妊娠中ライオンを生んだ夢を見た。
そして数日後クサンティッポスの子として生んだのがペリクレスであったのである。
このクサンティッポスも馬の骨であるが、その名のように、金髪のテッサリア系もしくはテーバイ系、スパルタ系かもしれない。
ペリクレスがペイシストラトス似の美貌となったのは父方の血であろう。
ソクラテスの妻クサンティッペもこの一族かもしれない。
ミルティアデスのこと
船70隻と軍資金の供出
ペルシア軍のマラトンにおける惨敗の後、アテナイにおいてはすでにそれ以前から高かったミルティアデスの名声はいよいよ揚がった。
かくて彼は船七十隻と軍勢および軍資金の支出をアテナイの民会に要求したが、その際いかなる方面に兵をすすめるのかは明かさず、とにかく莫大な金を容易に入手できるはずの土地に出征するのであるから、自分のいうとおりにすれば必ずアテナイ市民を金持ちにしてやるとだけしかいわなかった。
パロスに私怨がらみで出征
ミルティアデスは軍勢を手中にするとパロス島に向って出帆した。
実をいえばミルティアデスはテイシアスの子リュサゴラスのことにからみ、パロスに対して怨恨を抱いていたのであった。
リュサゴラスはパロスの出身で、ミルティアデスのことをペルシア人ヒュダルネスに讒訴したのである。
パロス島がフェニキア人同様、ペルシアびいきのイオニア系の最右翼であったことは確か。
パロス島とは?
エーゲ海の中央に浮かぶ島で、白大理石の産地。
最初の植民は、クレタ島に入植したフェニキア人であろう。
デーメーテールが主神。その聖域がある。
フェニキア人が植民したイリュリアにも植民して、イリュリアのパロスを建設。
イリュリアのパロス出身の英傑が、ピリッポス五世のバディであるパロスのデメトリオスである。
アルカディアのパロスが植民したのが始まりで、イオニア人が入植したという。
その後タソス島にも入植していることからも、フェニキア系と親密な人々だったと思われる。
また前385までに、イリュリアのパロス島(現フヴァル島)にも入植した。
イリュリアといえばカドモス。後のピリッポス五世の親友パロスのデメトリオスの英傑ぶりからはアイオリス系が想定される。
デメトリオスの名前からもデーメーテールの信者であり、デーメーテールの秘儀はフェニキア人がギリシア本土に移植したことからも、
フェニキア系×アイオリス系の子孫と想定される。
ペルシア戦争で、常にペルシア側に加担したことからも、フェニキア系の疑いが濃い。商売上手で、ミルティアデス、テミストクレスから攻められ、アテナイの同盟から常に脱退しているのは、アテナイぎらいの島の代表格。
パロス攻めの失敗(パロス人の話)
パロスの城壁
しかしパロス側はミルティアデスに金を払うなどということは初めから全く念頭に置かず、事あるごとに攻撃を受け易かった城壁の箇所を、夜間を利用して従前の倍の高さに増築した。
建築術にたけているところもフェニキア系。
これまでの記述は、すべてのギリシア人が伝えていることであるが、これ以後の経過はパロス人自身の伝えるところによる。
パロスのスパイ、デーメーテールの巫女のわな
ミルティアデスが方途に迷っていると、パロス生まれで捕虜になっている一人の女が、面談にきたという。女の名はティモといい、地母神に奉仕する副司祭であった。
どうしてもパロスを占領したいと思うなら、自分の指示するとおりにするがよいとすすめた。
そこで女の指示に従ってミルティアデスは町の前面に横たわる小丘へ出かけ、そこに祀られてある「掟授けのデメテル」の社の境内へ入ったが、この時境内の門を開けることができぬまま、垣を乗り越えて侵入した。
都市の城壁の外に境内があるのは、古代都市の普通。
パロス人がデメテル・テスモポロスを崇拝しているところは興味深い。
パロスのデメトリオスの名前は、デメテル信者という意味だから。
涜神によって大けが
ところが社殿の入り口までくると突然身慄いに襲われ、急いで元きた道を戻ったが、石垣を跳び降りる際に太腿を挫いた。別の説では膝に打傷をしたともいう。
ミルティアデス裁判とアイアキダイVSアルクメオン家
クサンティッポスの死刑求刑
一方パロスから帰還したミルティアデスは、アテナイで論議の的となり、
中でもアリプロンの子クサンティッポスは、ミルティアデスをアテナイ国民を欺瞞した罪で告訴し民会に召喚して死罪に処すように要求した。
このクサンティッポスは、アルクメオン家の一派であり、ペリクレスの父である。
アルクメオン家は、ダナオイ人やアカイア人の子孫の民衆をバックに、権力を握った貴族の家であり、古典期の帝国主義アテナイの代表である。
ペリクレスの父クサンティッポスは妻によってアルクメオン家と姻戚関係。
アイアキダイは、大アイアスに遡るアカイア系の名門で、貴族党の代表。
アテナイの全盛期は、ペリクレスのアルクメオン家がアテナイを牛耳る。
クレイステネスの改革からアルキビアデスの支配までがアルクメオン家の全盛期。
ローマ時代になると、アイアキダイのヘロデスが権力を握り、アイアキダイ優勢となる。
ミルティアデスの最期と借金
ミルティアデス自身出頭はしたものの、腿が腐りはじめていて弁明に立つことができず、彼の弁明は行われなかった。
寝台に横たわっている彼の代りに友人たちが、マラトン戦における彼の功績を縷々として述べ、またレムノス島占領にもふれ、・・・弁明に努めた。
国民は彼の死罪を免ずることには賛意を示したが、その罪に対して五十タラントンの罰金刑を課した。・・・罰金はその子キモンがこれを支払った。
レムノス島征服記
キモンの子ミルティアデスがレムノスを占領したいきさつはこうである。
レムノス人の歴史
話はペラスゴイ人がアテナイ人によってアッティカの地から追放された時に遡る。
レムノス人の起源は、アッティカから追放されたペラスゴイ人という説である。
アテナイ人による不当な放逐(ペラスゴイ人説)
まずヘゲサンドロスの子ヘカタイオスはその著書の中で、放逐は不当のものであったといっている。
ミレトスのヘカタイオスで、アリスタゴラスの諮問であり、イオニアの反乱をやめさせようととした歴史家。
彼自身、ペラスゴイの子孫、フェニキア系の子孫であっただろう。
それによればアテナイ人は、アクロポリスをめぐらした城壁構築の労に報いるため、自発的にヒュメットス山麓の土地をペラスゴイ族の定住地として与えたのであったが、もとはとるに足らぬ貧弱な土地であったのが、立派に開墾されたのをみたアテナイ人は、その土地が嫉ましくなりわがものとしたい欲望にかられた結果、・・・ペラスゴイ人を放逐したというのである。
時期はトロイア戦争後、ボイオティアのカドモス系フェニキア人がアッティカに移住して、その建築技術でアテナイのアクロポリスを築いたのであろう。
アテナイの平民は、伝統的にダナオイ系とアカイア系の地盤が強く、
テーバイ帝室系とテッサリア系は、ペラスゴイ(イオニア人)として小アジアに植民に出た。
残留組は、帰化人として、技術や文化を提供しながら、第二市民的な扱いを受け続けたのであろう。
王族は帰化人のテッサリア系であり、僭主ペイシストラトスまでは、帰化人の王族と、アカイア人・ダナオイ人の貴族の確執が続いたのであろう。
ペラスゴイ増長説(アテナイ人の説)
しかしアテナイ人自身の言い分によれば放逐は当然であったという。
アテナイ人の娘や子供たちがエンネアクルノスへ水汲みに通っていた。
増長してアテナイ人を甘く見ていたペラスゴイ人たちは、・・・乱暴を働いたので、・・・
しかし自分たちはーとアテナイ人はいうのであるがー
彼らよりも高級な民族であったから、・・・国外退去を命じたのである。
アテナイ人説は、ペラスゴイ人強姦説である。
いかにもペラスゴイが野蛮人のようであるが、実はペラスゴイの方が文明人。のちのアテナイ人の傲慢きわまれり!!
アイオリス人の領域に植民
右のような次第でペラスゴイ人はアテナイの地を去り、諸方に住みついたのである。レムノスもその内の一つであったというのである。
〔註〕レムノスのほかに、サモトラケ、インブロス、アンタンドロスなどがそうである。
レムノスはヘパイストスに捧げられた島で、カベイロイ信仰の中心地のひとつ。サモトラケもカベイロイ信仰の島。
つまりここでのペラスゴイ人とは、カドモス系テーバイ人の移住者であるわけだ。
アテナイ人からみれば、テーバイ帝室とアイオリス王家の系統は、一括して「ペラスゴイ」であるのだ。
アテナイ人の女たちの子孫の不遜!
さてペラスゴイ人たちは、
アテナイの女たちがブラウロンで女神アルテミスの祭礼を営むのを待伏せ、その場から多数のアテナイ女を奪うと船を返し、女たちをレムノスへ連れて行って妾として手許に置いた。
この女たちが生まれた子供が増すにつれ、子どもたちにアッティカ語とアッティカの風習を教えた。それで子供たちはペラスゴイの女たちの生んだ子供とは交わろうとせず、仲間の誰かがペラスゴイの子供に擲られるようなことがあれば、総出で助けにゆき、互いにかばいあった。
それのみかこの子供たちは、自分らが子供の世界を支配するのが当然と考えており、大いに羽振りをきかせていたのである。
いかにもアテナイ人の考えそうな話である。
閉鎖的で独善的で、差別的で、選民思想のアテナイ人の。
ペラスゴイ人、正妻の子どもたちを守り、妾のアテナイ人母子を殺害
このことを知ったペラスゴイ人たちは集まって協議したが、相談している間に彼らは恐怖を覚えだした。
この子供らがすでに正妻の生んだ子供らに対して互いに助け合う腹をきめており、猶予なく正妻の子供らを支配しようとしているとすれば、彼らが成人した暁には一体何をしでかすか判らぬと考えたのである。
そこでペラスゴイ人たちはアッティカの女たちの生んだ子供を殺すことに決めた。彼らはこの決定どおりに実行し、あまつさえ子供たちの母親たちまで殺してしまった。
このアテナイ人の話は、レムノス人にアテナイ人の血の混じった子孫がいないことを語っている。
アテナイに補償を命じるデルポイ神託
この所業と、これより以前にトアス王を含めて自分らの夫を殺したレムノスの女たちの所業とから、広くギリシアではすべての無残な行為を「レムノス的」と呼ぶ慣わしになっている。
デルポイの巫女は、アテナイ人が適正と認めるとおりに償いをせよと彼らに命じた。
するとアテナイ人は市会堂の中に、及ぶ限りの贅を尽したソーファをしつらえ、その傍らに珍味佳肴を盛ったテーブルを置いた上で、お前たちの国をこのとおりにしてアテナイに引き渡せといった。
人の築いた財や文明を、脅しと戦争で横取りするアテナイ人らしい恥知らずな言い分である。
ペラスゴイ(レムノス人)の回答
ペラスゴイ人はそれに答えて、北風を受けた船が貴国からわが国まで一日で達することができた暁には、国を引き渡そう、といった。
アッティカはレムノスの遥か南方に当るので、そのようなことは起り得ないことを承知していたからである。
ミルティアデスの時代に実現
しかしそれから幾星霜を経て、ヘレスポントスのケルソネソスがアテナイの制するところとなった時、キモンの子ミルティアデスは季節風の時期にケルソネソスのエライウスからレムノスまで船で渡り切り、ペラスゴイ人たちが実現するとは夢にも思わなかった例の神託を思い起させ、彼らに島を空け渡せと布告したのである。
右のようにしてミルティアデスの指揮下に、アテナイ人はレムノスを占領したのである。
〔註〕ペラスゴイ人がレムノスに移った事件をおよそ一〇〇〇年頃とすれば、五百年余が経過したことになる。
レムノス島の都市
ヘパイスティアの町の住民はこれに服したが、ミュリナの住民はケルソネソスがアッティカ領であるとは認めず、申し出を拒んだので包囲攻撃をうけ、結局彼らも屈服するに至った。
右のようにしてミルティアデスの指揮の下に、アテナイ人はレムノスを占領したのである。
〔註〕レムノスの主要な町としてはこの二つがあるだけで、ヘパイスティアは北岸、ミュリナは西岸にある。
ヘパイスティアは、フェニキア人の神カベイロイの父神ヘパイストスから来ているので、カドモス系フェニキア人の建設だろう。
ミュリナはスミュルナと同じで、スミュルナがテッサリアやボイオティアから前2,000年レスボス島に渡ったアイオリス人の都市だとすると、
ペラスゴイ人は、高度な文明のカドモイ人から新来者のアイオリス人までを含む広範囲のギリシア本土先住民をさすといえよう。

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