著述 本60 ヘロドトス『歴史 下』著述 第七巻

ギリシア
  1. 第七巻 クセルクセスのギリシア遠征 前編(テルモピュライまで)
  2. 一、ダレイオス、遠征準備中に死す
  3. 二、クセルクセスの遠征準備
    1. 重臣会議ーアルタバノスの諫止と夢見
      1. テッサリア人の要請によって出征
    2. アトスにおける運河開鑿等のこと
      1. フェニキア人の運河開鑿の手際
      2. ストリュモン河架橋
  4. 三、遠征軍の出発ー発進よりサルディスを経てヘレスポントスに至る
    1. ヘレスポントスの架橋のむちゃ
      1. フェニキア人の亜麻綱とエジプト人のパピルス綱
      2. 殿クセルクセス、海に鞭打ち!?
      3. 船橋にする
    2. 殿クセルクセスのわがまま
      1. プリアモスの城を見物するのだの巻
      2. 船の漕ぎ競べが見たいの巻
  5. 四、ヘレスポントス渡洋からドリスコスに至るー海陸軍の部隊別記述
    1. ケルソネソスの行軍
    2. ドリスコス到着(へブロス河畔の都市)
    3. 海陸両軍の部隊別記述
      1. ペルシア軍の陸軍
        1. ペルシア人の衣裳と装備
        2. メディア人の衣裳と装備
        3. キッシア族
        4. アッシリア人
        5. サカイ人(ギリシアではスキュタイ)
        6. 逆反りの弓をもつアラビア人
        7. 東方のエチオピア人とリビアのエチオピア人
        8. リュディア人
        9. ミュシア人
        10. トラキア人
      2. ペルシア軍の海軍
        1. フェニキア海軍の装備
        2. フェニキア人はペルシア湾から来たシュメル人!
        3. エジプト人の装備
        4. キュプロス人の装備(ミトラ(ヘッドバンド)はディデーマの原点?)
        5. キリキア人(フェニキア系)
        6. パンピュリア人
        7. リュキア人
        8. ドーリス人
        9. カリア人
        10. イオニア人
        11. 島々
        12. アイオリス人
      3. シドンの船が最高
      4. フェニキア人の艦隊司令官は王たち
      5. ハリカルナッソスの僭主アルテミシア
        1. アルテミスア麾下はドーリス系
  6. 五、クセルクセスとデマラトスの会話ートラキア、マケドニアを経てテルメに至る
    1. ギリシア本土への途上
      1. 九路(後のアンピポリス)で人柱
  7. 六、クセルクセス、ペネイオス河口を視察
      1. ペネイオス河の河口が見たい!!
    1. テッサリア地方
  8. 七、ギリシア側の抗戦準備
    1. ペルシア臣民
    2. アテナイが救世主
      1. テミストクレスの備え
    3. クセルクセスの戦わずして勝つ戦略
    4. アルゴスの戦線離脱
      1. スパルタとの統帥権問題にかこつける
      2. ペルセウスのペルシアの祖説利用してアルゴス戦線離脱を勧誘
    5. ゲロンに支援を打診
      1. ゲラ植民秘史
        1. ロドス島の文化圏のテロス島人が建設
        2. ゲロンの先祖は「地下女神」のヒエロパンテスの家系(フェニキア系)
        3. ゲラ僭主ヒッポクラテスの騎兵長官
        4. シュラクサイを除く諸都市を支配下に
      2. ゲロン覇者への道
        1. ゲロンの僭主の地位簒奪
        2. ゲラ内戦「ガーモロイ」VS「キュリュリオイ」
        3. ゲロン、シュラクサイ制圧
        4. 貴族だけのメガシティ「シュラクサイ」建設
      3. ゲロンの拒否
      4. メッセネ僭主カドモスをつかってゲロンの二股作戦
        1. カドモスを遣わして、ペルシアが勝利したら「土と水を献じる」構え
        2. ゲロンの藩王的メッセネ僭主カドモスとは?
          1. 元ザンクレ僭主スキュテスの子でコス島僭主
          2. カドモス、コス島を島民に譲り、ゲロンの与えたメッセネに里帰り
      5. カルタゴとゲロンの戦争
        1. カルタゴ陣営の血族
        2. アミルカスの最期
      6. ケルキュラ人の傍観を決め込む
      7. クレタ人も傍観
  9. 八、クセルクセス軍、テッサリアを進撃
    1. ペルシア軍テッサリアを進軍
    2. テッサリアの地理
    3. マケドニア王アレクサンドロス、降伏を勧告
    4. 同盟軍に見捨てられテッサリア人降伏
    5. テルモピュライとアルテミシオンで防衛作戦
      1. アルテミシオン(北エウボイア島)とは?
      2. テルモピュライとは?
    6. 旧テッサリア人と新テッサリア人
    7. 風の助力
    8. パガサイ市
    9. デメテル・アンピクテュオニスの社
  10. 九、テルモピュライの戦い
    1. テルモピュライの布陣と勢力
    2. 伝説のスパルタ軍
      1. レオニダス王
      2. 三百人隊
      3. ギリシア側についたテバイ人400人
    3. 地峡に後退かテルモピュライ死守か
    4. スパルタ魂
    5. スパルタの後退戦術
    6. 間者が間道を教える
    7. テスピアイ人とテバイ人がスパルタとともに残留
    8. テバイ人とテスピアイ人の正反対
    9. レオニダス戦死
    10. テルモピュライ墓碑
    11. テバイ人、ペルシア軍に投降して命拾い
    12. クセルクセス、レオニダスの遺体を凌辱

第七巻 クセルクセスのギリシア遠征 前編(テルモピュライまで)

一、ダレイオス、遠征準備中に死す
二、クセルクセスの遠征準備
   重臣会議ーアルタバノスの諫止と夢見
   アトスにおける運河開鑿等のこと
三、遠征軍の出発ー発進よりサルディスを経てヘレスポントスに至る
四、ヘレスポントス渡洋からドリスコスに至るー海陸軍の部隊別記述
五、クセルクセスとデマラトスの会話ートラキア、マケドニアを経てテルメに至る
六、クセルクセス、ペネイオス河口を視察
七、ギリシア側の抗戦準備
八、クセルクセス軍、テッサリアを進撃
九、テルモピュライの戦い

一、ダレイオス、遠征準備中に死す

たとえこのような進言がなくとも、クセルクセスは王位に就いたであろう。
それというのも全権はアトッサが握っていたからである。

クセルクセスをペルシアの王に指名した後、ダレイオスは・・・世を去ってしまった。

苦労人ダレイオスを継いだのは、メディア王女の血を引く貴公子クセルクセスである。ダレイオスがキュロスだとすると、クセルクセスはカンビュセスである。

二、クセルクセスの遠征準備

重臣会議ーアルタバノスの諫止と夢見

テッサリア人の要請によって出征

その一つはアレウアス家(ラリサ本拠の土侯)ーこれはテッサリアの王家であったーから使者の一行が到着し、非常な熱意を披歴して大王のギリシア進攻を促したことである。

ギリシア人は一枚岩であるどころか、ギリシア人同士の戦いに、ペルシアが利用された観がある。

アトスにおける運河開鑿等のこと

アトス半島に開けていた町は右のとおりであるが、さてペルシア軍はこの地域を民族別に分担させ、次のようにして運河を開鑿したのである。

フェニキア人の運河開鑿の手際

さてフェニキア人を除く他の民族部隊はみな、掘った運河の側壁が崩れ落ちてくるため、二倍の労苦を余儀なくされた。彼らは上の掘り口の幅を底の幅と同じ長さにして掘ったために、こういう事態になるのが当然だったのである。
ところがフェニキア人は何をやっても頭の良さを発揮したものであったが、この工事もその例に洩れなかった。
自分たちの受け持つ場所の割当てがきまると、フェニキア人は運河の上の掘り口の幅を運河自体の予定された幅の二倍にとって掘りはじめ、開鑿が進むとともに次第にその幅を縮めていった。こうして底まで掘り終えると、出来上がりはちょうどほかの部隊の掘ったものと同じ幅になったのである。

ストリュモン河架橋

そして運河の開鑿を命ぜられたと同じ部隊に、さらにストリュモン河架橋の作業が命ぜられたのである。

クセルクセスはこれらの作業を上述のように進める一方、架橋用にパピルス製および白麻製の綱具をフェニキア人とエジプト人に命じて準備させ、・・・

三、遠征軍の出発ー発進よりサルディスを経てヘレスポントスに至る

ヘレスポントスの架橋のむちゃ

フェニキア人の亜麻綱とエジプト人のパピルス綱

その一方ではアジアとヨーロッパを結んでヘレスポントスの架橋作業が行われた。
架橋の命を受けていたものたちは、アビュドスを起点としてこの岬に向って橋を二本かけたが、一本は白麻の綱を用いてフェニキア人が、もう一本はエジプト人がパピルスの綱を用いて架けたのであった。

殿クセルクセス、海に鞭打ち!?

クセルクセスは、ヘレスポントスに対して大いに怒り、海に三百の鞭打ちの刑を加え、また足枷一対を海中に投ぜしめた。
・・・ヘレスポントス架橋の責任者の首を刎ねさせたのである。

船橋にする

一方新たに任命された技術者が架橋にとりかかった。
五十橈船と三段橈船を並べ、黒海側の橋には三百六十隻、もう一方には三百十四隻を用い、・・・船を並べてから特別に大きな錨を下した。

殿クセルクセスのわがまま

プリアモスの城を見物するのだの巻

軍がスカマンドロス河畔に到着したとき・・・
クセルクセスは、かつてのプリアモス王の城を是非見物したいと思い、城山に上った。

船の漕ぎ競べが見たいの巻

軍勢がアビュドスに着くと、クセルクセスは全軍の閲兵をしようという気を起した。
この光景を眺めている内に、王は突然船の漕ぎ競べをさせてみたくなった。
漕ぎ競べが行なわれて、フェニキアのシドン人の船が優勝したが、王はこの競技と全軍の威容を眺めて満悦であった。

シドンの船が優勝。

四、ヘレスポントス渡洋からドリスコスに至るー海陸軍の部隊別記述

ケルソネソスの行軍

一方本土を行く部隊は、曙と日の出の方を指しケルソネソスを縦断し、
右手にはアタマスの娘ヘレの墓を、左手にカルディアの町を眺めつつ、アゴラという町の中を過ぎて進んだのである。

アナトリア半島の先のトロイアを見学し、ヘレスポントスの船橋を渡って、
ケルソネソスに入る。ヘレスポントスの名祖となったオルコメノス王アタマスの娘ヘレの墓や、ミルティアデスの町カルディアを眺めつつ、折り返して、東へ戻りつつ進み、トラキアへ入る。

ドリスコス到着(へブロス河畔の都市)

西に進みアイオリス系の町アイノスとステントリス湖を過ぎて後、ドリスコスに着いた。
ドリスコスというのはトラキアの海浜にある大平野で、へブロスという大河がここを貫流している。

この地にドリスコス城と呼ばれているペルシア王の城郭が築かれており、ダレイオスはスキュティア遠征以来ここにペルシアの守備隊を配置しておいたのである。

ここにはサモトラケ人の建てた町サレおよびゾネがあり、末端は著名なセレイオン岬(オルペウスの終焉の地)になっている。

この対岸が、サモトラケ島である。
このあたりの島嶼は、アイオリス人とトラキア人がフェニキア人に指導されて居住していたのであろう。

サモトラケ島の対岸のトラキア本土には、サモトラケ人の植民都市サレとゾネがある。
末端はセレイオン岬(オルペウスの終焉の地)。

海陸両軍の部隊別記述

ペルシア軍の陸軍

ペルシア人の衣裳と装備

まずペルシア人の部隊であるが、その身ごしらえといえば、
頭にはフェルト製の柔軟な帽子、いわゆるティアラを被り、
身には色とりどりの袖附きの肌衣と魚鱗を思わせる鉄製の鎧を纏い、
脚にはズボンを穿いていた。
アスピスは普通の盾とは違い柳の枝で編んだ軽いゲラを携え、盾の下に箙を懸けていた。短槍をもち、弓は大型で矢の柄は蘆であった。その上右の腿に沿って短剣を帯に吊るしていた。
そしてこの部隊を指揮するのは、クセルクセスの妃アメストリスの父オタネスであった。

ペルシア人の軍装が興味深い。起動性を重視した軽防備である。
指揮官はすべてペルシア人それもアカイメネス家というのが、カルタゴの傭兵制とは違う。

メディア人の衣裳と装備

メディア人の部隊もペルシアと同じ装備で遠征に加わった。
もともとこの装備の様式はメディアのものであって、ペルシアのものではない。
メディア人を指揮するのは、アカイメネス家の一族なるティグラネスであった。

ペルシア人とメディア人の関係、またカルデア人との関係が興味深い。

キッシア族

キッシア族の部隊の出陣の装備は、ほとんどペルシア人と同様であったが、ただ彼らはフェルト帽の代りに頭巾ミトラを頭に巻いていた。
キッシア人部隊の指揮にはオタネスの子アナペスが当たっていた。

〔註〕ペルシア人とは親近な関係のあった民族。スサはキッシア地方の町である。

アッシリア人

アッシリア人の部隊の扮装は、頭には青銅の兜を戴き、盾に槍、それにエジプト人の用いるものによく似た短剣を携え、さらに鉄鋲を打った棍棒を持ち、麻の鎧を着けていた。
この民族をギリシアではシリア人と呼んでいたが、ギリシア以外ではアッシリア人と呼ばれていた。

ギリシア人からみれば、シリア人もアッシリア人も同じ。セミラミスはシリアの女王=アッシリア女王。その出自はシリア(後のペリシテ人のペンタポリスであるアシュケロンである。)
アッシリア人は、青銅の兜でギリシアと同じ重装装備であった。

サカイ人(ギリシアではスキュタイ)

スキュティア系のサカイ人は、キュルバシアという先が尖り上にピンと立った硬い帽子を頭に被り、ズボンを穿き、独特の弓と短剣、さらにサガリスという戦斧を携えていた。
この民族はスキュタイ人なのであるが、「アミュルギオンのサカイ人」と呼ばれていた。
ペルシア人はスキュタイ人をすべてサカイ人と呼ぶからである。
バクトリア人とサカイ人の部隊を指揮したのは、ダレイオスを父に、キュロスの娘アトッサを母とするヒュスタスペスであった。

逆反りの弓をもつアラビア人

アラビア人部隊はゼイラという寛い上着を着て腰帯で留め、右手に逆反りの長い豪弓を携えていた。

東方のエチオピア人とリビアのエチオピア人

遠征に参加したエチオピア人には二種あって、東方のエチオピア人はインド人部隊に配置されており、言語と頭髪の二点以外は他方のエチオピア人と外貌は何等異なるところがなかった。
東エチオピア人の方は頭髪が真直ぐであるが、リビアのエチオピア人は世界の民族中最も縮れた髪をもっているからである。

リビアのエチオピア人は黒人である。
しかしアンドロメダは、黒人ではない。居住地がエチオピアではなく、リビアであるから。プロト・カルタゴ人である。

リュディア人

リュディア人の武装はギリシア人に最も近かった。リュディア人は古くはマイオニア人と呼ばれていたが、後に名を変え、アテュスの子リュドスの名をとってリュディア人と名乗ったのである。

ギリシア人がリュディア人と名づけた。リュディアの主要王朝は、「生え抜き」のリュドスの王朝から「禅譲」されたヘーラクレースの子孫である。(フェニキア系)。

ミュシア人

ミュシア人は頭にその国特有の兜を被り、小型の盾をもち、穂先を焼き鍛えた投槍を用いていた。
このミュシア人はリュディアの移住民で、・・・

トラキア人

トラキア人は頭には狐の皮の帽子を被り、身には肌着の上にゼイラという色とりどりの上着を羽織り、足と脛には小鹿の皮の靴を穿き、さらに投槍に軽盾、さらに小型の短剣をもっていた。
この民族はアジアに渡ってからビテュニア人と呼ばれるようになったが、以前はストリュモン河畔に住んでいたので、ストリュモニオイと呼ばれていたのだと、自ら称している。

ペルシア軍の海軍

三段橈船の数は千二百七隻に上ったが、これらの船を提供したのは次の諸民族である。

フェニキア海軍の装備

フェニキア人はパレスティナ在住のシリア人とともに三百隻を出し、
兵の装備は頭にはギリシアの兜によく似た作りの兜を被り、麻の鎧を着、縁なしの盾と槍を携えていた。

フェニキア人は、カリア地方に植民したのを皮切りに、クレタ文明を築き、ギリシア文明を発足させた張本人なので、ギリシア人と同じ装備である。

フェニキア人はペルシア湾から来たシュメル人!

このフェニキア人は、彼らが自ら伝えるところによれば、古くは「紅海」(ペルシア湾)辺に住んでいたが、その地からシリアに移り、シリアの海岸地帯に住むようになったという。

ヘロドトスのいう「紅海」は、現在の紅海ではなく、「ペルシア湾」のことである。
つまりフェニキア人の先祖は、「シュメル人」であったと、ヘロドトスが当のフェニキア人に取材して知った事実!をここで紹介している!
この一文は、「シュメル人」の言葉がないゆえに見落とされがちであるが、また「紅海」がペルシア湾をさしていたことが、見落とされがちでもあるので。
しかし、これは、シュメル人がセム系の古バビロニアに征服されたとき、その上流階級は、一部はバビロニアの知識層として残り、楔形文字や占星術を継承した。のちにカルデア人と呼ばれ、ペルシア帝国でも知識層として残ったと思われる。
バビロンを建設したネブカドネザル自身が、その末裔であったか、そのブレインはその末裔であっただろう。
一方、船で新天地を求めた上流階級もおり、それがフェニキア地方に移住して「フェニキア人」となった。
シュメル人=フェニキア人は、メソポタミア、エジプト、ギリシア、ローマ世界の「頭脳星人」であったのだ!

フェニキア人は、全文明の「頭脳星人」!
フェニキア人の先祖はシュメル人だった!!!

ヘロドトスのいう「紅海」は、現在の紅海ではなく、「ペルシア湾」のことである。
つまりフェニキア人の先祖は、「シュメル人」であったと、ヘロドトスが当のフェニキア人に取材して知った事実!をここで紹介している!
この一文は、「シュメル人」の言葉がないゆえに見落とされがちであるが、また「紅海」がペルシア湾をさしていたことが、見落とされがちでもあるので。
しかし、これは、シュメル人がセム系の古バビロニアに征服されたとき、その上流階級は、一部はバビロニアの知識層として残り、楔形文字や占星術を継承した。のちにカルデア人と呼ばれ、ペルシア帝国でも知識層として残ったと思われる。
バビロンを建設したネブカドネザル自身が、その末裔であったか、そのブレインはその末裔であっただろう。
一方、船で新天地を求めた上流階級もおり、それがフェニキア地方に移住して「フェニキア人」となった。
シュメル人=フェニキア人は、メソポタミア、エジプト、ギリシア、ローマ世界の「頭脳星人」であったのだ!

エジプト人の装備

エジプトは二百隻の船を出したが、兵士は頭に革で編んだ兜を被り、大きな縁のついた中凹みの盾をもち、海戦用の槍と大きな手斧を携えていた。

キュプロス人の装備(ミトラ(ヘッドバンド)はディデーマの原点?)

次にキュプロス人は百五十隻を出し、その扮装はといえば、王たちが頭にミトラという布を巻き、一般の者たちが肌着を着ている以外、服装はギリシア人と同様であった。

キュプロス人(フェニキア系)は、王族が、ミトラというヘッドバンドを巻いていた。
ギリシア語のミトラ(μίτρα)は、ヘッドバンド=ターバンを意味する。
この語は、後に「司教冠」のミトラ冠の語になった。
実質的には、後のアラブ人のターバンや、アレクサンドロスがペルシア人の装身具から採用した「ディアデーマ」(アレクサンドロス本、P172)をペルシア人は、フェニキア人から採用した可能性が高い。
これを後のヘレニズム王家やバルカ家は採用した。

キリキア人(フェニキア系)

キリキア人は百隻の船を出したが、その被り物は(キュプロス人とは違い)ふたたび兜で、その国特有の作りのものを用い、大盾の代りに牛の生皮を使った小盾を持ち、羊毛製の肌着をつけていた。
今のキリキア人の名称は、フェニキア人アゲノルの子キリクスにち因んだものである。

フェニキア海岸から北上し小アジア南岸沿いに航行し、エーゲ海に進出したと思われるフェニキア人の植民航路に並ぶ地方が、
小アジア南岸の、キリキア、パンピューリア、リュキア、カリアである。
そこから北上して、カリア、イオニア、アイオリスと航行し、トラキアに達する。この経路にサモス島がある。
西へ、トラキアからカルキディケーと航行、この経路にサモトラケ島、タソス島がある。
パガサイ湾からボイオティアとエウボイア島へ上陸して、ギリシアを制覇したのであろう。

パンピュリア人

パンピュリア人は三十隻の船を出し、ギリシア風の武装をしていた。
このパンピュリア人というのは、トロイア戦争の後ギリシア軍が離散した時、アンピロコスおよびカルカスと行動を共にした一党の後裔である。

リュキア人

リュキア人は五十隻の船を出し、・・・頭には羽毛で縁取ったフェルト帽を被っていた。
リュキア人はクレタ島の出で、もとはテルミライ人と呼ばれていたが、アテナイ人のパンディオンの子リュコスの名に因んで現在の呼称を得たのである。

実はクレタ島から里帰り植民したフェニキア系。

ドーリス人

アジア在住のドーリス人は三十隻を出し武器はギリシア風のものをもっていた。彼らはペロポネソスの出身であった。

ハリカルナッソスなどドーリスのヘクサポリスのものたち。

カリア人

カリア人は七十隻を出し装備はギリシア人と変わらなかったが、そのほかに鎌形の剣と短刀をもっていた。
カリア人の以前の呼称については、本書のはじめに既にのべた。

リュドス、ミュソス、カルの三兄弟から、ミュシア人、リュディア人と同族といいたい。兜に羽根を発明。実は、クレタ島からの植民であろう。

イオニア人

イオニア人は百隻を出し、装備はギリシア人と同様であった。
イオニア人がペロポネソスのアカイアと呼ばれる地方に住み、ダナオスとクストスがペロポネソスに来着するまでは、ペラスゴイ・アイギアレス人と呼ばれていたもので、イオニアの呼称はクストスの子イオンの名に拠ったものである、とギリシア人は伝えている。

ヘレーンのテッサリア系よりもダナオス系よりも古いペラスゴイというわけ。レレゲス人の次に古い先住民ということ。
「生え抜き」+プロト・カルタゴ人+アイオリス人+テーバイ帝室の民族というのが民族組成。

島々

島々からは七十隻の船を出したが、その兵士たちの武装はギリシア人と同様であった。彼らも本来はペラスゴイ族で、アテナイから渡ってきた十二市のイオニア人と同様に、後になってイオニア人と呼ばれるようになったのである。

アイオリス人

アイオリス人は六十隻の船を出し、装備はギリシア人と同様であった。
ギリシア人の伝承によれば、彼らも古くはペラスゴイと呼ばれていたという。

シドンの船が最高

さてこれらの船には(それぞれの国の乗員のほかに)ペルシア人、メディア人およびサカイ人の兵士が乗り込んでいた。諸民族中最も船脚の早い船を提供したのはフェニキア人であったが、フェニキア人の中でもシドン人の船が最も優秀であった。

フェニキア人の艦隊司令官は王たち

艦隊に従ったもののうち、右の司令官(ペルシア人)についで特に高名な人物としては、
シドン人なるアニュソスの子テトラムネストス、
テュロス人ではシロモスの子マッテン、
アラドス人なるアグバロスの子メルバロス、
キリキア人なるオロメドンの子シュエンネシス、
リュキア人ではシカスの子キュベルニスコス、
キュプロス人としてはケルシスの子ゴルゴスとティマゴラスの子ティモナクス、
カリア人ではテュムネスの子ヒスティアイオス、・・・

シドン王のテトラムネストス王、
テュロス王のマッテン王、
キュプロス人のゴルゴス王、例の反逆者の兄である、
そして、アラドスはフェニキア人国家であり、
キリキア、リュキア、カリアもフェニキア人国家である。

ハリカルナッソスの僭主アルテミシア

そのほかの将領たちの名は、必要がないと思うのでここに挙げないが、ただ女の身でありながらギリシア遠征に参加し私の讃嘆おく能わざるアルテミシアには触れなければならない。
この女性は夫の死後自ら独裁権を握り、すでに青年期に達した息子もあり、・・・もって生れた豪気勇武の気象から遠征に加わったのであった。

その女性の名はアルテミシア、父はリュグダミスといい、父方の血筋からいえばハリカルナッソス人、母方からはクレタ人であった。

ドーリス人とクレタ人の混血で、父リュグダミスは、カリア地方ハリカルナッソスを中心とした、ペルシアに擁立された僭主。
つまりアルテミイアは、ラケダイモン系から遠くフェニキア人のクレタ系からフェニキア人の血を引いていたと思われる。

アルテミシアの支配はハリカルナッソスからコス、ニシュロス、カリュムノスの諸島に及び、供出した船は五隻であった。

〔註〕コスはハリカルナッソスに相対する島。ニシュロス、カリュムノスの二島はいずれもコス島に近い小島。

アルテミスア麾下はドーリス系

アルテミシアの支配下にあるものとして先に挙げた町々の住民は、ことごとくドーリス系のものであると断言してもよい。
ハリカルナッソスの住民はトロイゼンの、その他の町の住民はエピダウロスの出なのである。

〔註〕トロイゼンもエピダウロスもともにペロポネソス東北部アルゴリス地方のドーリス系の町。

五、クセルクセスとデマラトスの会話ートラキア、マケドニアを経てテルメに至る

ギリシア本土への途上

九路(後のアンピポリス)で人柱

遠征軍はエドノイ人の領土にある「九路エンネア・ホドイ」というところで数本の橋梁によって渡河した。
ペルシア軍はこの土地が「九路」と呼ばれていることを知ると、土着民の男児女児おのおの九人をこの地で生きながらに土中に埋めた。

この「九路」は後のアンピポリスである。

六、クセルクセス、ペネイオス河口を視察

ペネイオス河の河口が見たい!!

クセルクセスはテルメから遥かにテッサリアの巨峰、オリュンポス山とオッサ山を望み、この両山の間に狭い峡谷があってそこをペネイオス河が流れていると知らされ、ここにテッサリアへ通ずる道があると聞くと、海路によってペネイオスの河口を見たいという望みを起した。

テッサリア地方

さてむかしテッサリア地方は、今あるように四方を高山で囲まれた湖水であったという言い伝えがある。
すなわちその東部はペリオン、オッサの二山系が互いにその山裾をからませて障壁を成し、北方はオリュンポス、西方はピンドス、南はオトリュスとそれぞれの山系が周辺を鎖ざしている。
これらの山に囲まれた盆地が即ちテッサリアである。

従って多数の河川がテッサリアに流れ込んでいるが、中でも最もよく名を知られたのはペネイオス、アピダノス、オノコノス、エニペウスおよびパミソスの五河で、これらの河はテッサリアを囲む山々から流れ出し、・・・どの河も一つの河床に合流して、唯一の、しかも狭い峡谷を通って海に注ぐ。
合流するや否や、その時からペネイオスの名が優位をしめて他を圧し、爾余の河の名は消えてしまうのである。

ペネイオス、アピダノス、オノコノス、エニペウス、パミソスの五河が合流して、ペネイオス河として海に注ぐ。

七、ギリシア側の抗戦準備

ペルシア臣民

土と水をペルシア王に献じた民族を次に列挙すれば、テッサリア人、・・・ロクリス人、マグネシア人、マリス人、テバイ人、および
テスピアイ、プラタイア両市を除くボイオティア人がそれであった。

テッサリア人、ロクリス人、マグネシア人、マリス人、テバイ人、および
テスピアイ、プラタイア両市を除くボイオティア人、これらのギリシア人は、マケドニア人同様、イオニア人と島嶼の住民同様、ペルシア軍門に下り、ペルシア軍に糾合された。

アテナイが救世主

さてここで私としては、必ずや大多数の人々の不興を買うであろう見解をどうしても述べねばならない。
かくてアテナイがギリシアの救世主であったといっても、それは真実の的をはずれたものとはいえぬであろう。

ヘロドトスはハリカルナッソスのドーリア人なので。
そしてアテナイで執筆しているので、アテナイびいきに書くところが多かった。

テミストクレスの備え

彼(テミストクレス)はそこで、「木の砦」の意味はそのように解すべきであるから、アテナイ人は海戦の準備をするようにと、勧告したのである。

それはラウレイオンの鉱山からの収益である多額の金がアテナイの国庫を潤したので、市民一人当たり十ドラクマずつ配当しようとした時のことである。
この時テミストクレスはアテナイ人を説いてこの分配を中止させ、この金で戦争に備えて二百隻の船を建造させることに成功した。
テミストクレスの意味した戦争というのは、対アイギナ戦のことだったのである。もっともこれらの艦船は予定した目的には使用されなかったけれども、・・・絶好の機会に役立ったのである。

クセルクセスの戦わずして勝つ戦略

まずアジアへ向けて三人のスパイを放った。
一方クセルクセスは、・・・スパイが存命ならば自分の許へ連れてくるように言い含めておいた。
そられを心ゆくまで見学させた上、どこなりと彼らの望むところへ無事に立ち去らせてやれと命じた。
「自由」を放棄してくるであろう。そうなれば、ギリシアに攻め入る労をとるにも及ばなくなると思うと、以上のようにクセルクセスはいったのである。

クセルクセスはこれによく似た考え方を、また別の折に示している。
「あれは殿の敵方へ穀物を運んで参るものでございます。」
「それなればわれらとて、彼らと同じ処へゆくわけではないか。
われらのために穀物を運んでくれる彼らに、一体何の罪があるというのじゃ」

アルゴスの戦線離脱

スパルタとの統帥権問題にかこつける

アルゴス側は、・・・全同盟軍の半ばを統帥する権限を握るという条件で要求に応ずる用意がある、と答えた。

すなわちスパルタには二人の王があるが、アルゴスには一人の王があるのみである。スパルタの二王のいずれからも統帥権を剥奪するわけにはゆかぬが、アルゴス王がスパルタの二王と並んで発言権をもつことは一向差し支えない、と。

事実上のスパルタの統帥権ということになる。

ペルセウスのペルシアの祖説利用してアルゴス戦線離脱を勧誘

「アルゴスの方々よ、クセルクセス王は貴国に対し次のように申されている。われわれはわが国祖ペルセスが、ダナエの御子ペルセウスを父とし、ケぺウスの御娘アンドロメダを母として出生せられたと信じている。かくてわれわれは貴国民の後裔であるといってもよかろう。
貴国としてはむしろ行動を起すことなく自国内で静観せられるのが正しい態度であろう。」

これを聞いたアルゴス人は、王の発言を重視し、さしあたってはギリシア方に対して何ら援助の申し出もせず、・・・
スパルタ側が統帥権を分譲せぬことは重々承知の上でこれを要求したわけで、それは戦争に参加せぬ口実を得たいがためであった、というのである。

ゲロンに支援を打診

さてシケリアへは同盟諸国からの別の使節団がゲロンと交渉するために到着していた。

ゲラ植民秘史

ロドス島の文化圏のテロス島人が建設

このゲロンの先祖は、初めてゲラに植民した一員であったが、トリオピオン岬沖に浮かぶテロス島の出身であった。

〔註〕テロス島はロドス島とクニドスの中間に位置する小島。
トリオピオンはこの島と相対するカリアの岬の名である。

この男はロドス島のリンドス人がアンティペモスの指揮下にゲラの町を創建した時(前690年頃)、遅れじとばかりにこの植民に加わったのであった。

ロドス島のリンドスの創建は、おそらくアテナイに植民する経路で、ヒクソスのネイト教徒によるものだろうが、ロドス島自体の植民地化は、クレタ島である。
カリアの沖に位置するテロス島も、住民のほとんどは、フェニキア系のドーリス人であっただろう。

ゲロンの先祖は「地下女神」のヒエロパンテスの家系(フェニキア系)

彼の子孫はやがて「地下女神」の祭司ヒエロパンテスとなり、それ以後連綿としてその職を継いできたのであったが、この地位はその祖先の一人であるテリネスが確保したもので、それにはこんな経緯があった。

ゲロンの先祖は、テロス島から移住したデーメーテールのヒエロパンテスの家系であった。
つまりフェニキア系の家系というのが濃厚である。

ゲラ僭主ヒッポクラテスの騎兵長官

(ゲラの独裁者)クレアンドロスの死後、クレアンドロスの弟ヒッポクラテスが王位を継いだ。

ヒッポクラテスが独裁者の地位にあった間、祭司テリネスの後裔に当るゲロンは、ヒッポクラテスの親衛兵を務めていたが、・・・その後まもなくゲロンは功績によって全騎兵部隊の長官に任ぜられた。

ヒッポクラテスがカリポリス、ナクソス、ザンクレ、レオンティノイ、さらにはシュラクサイや非ギリシア系の多数の都市を包囲攻撃した折、ゲロンはこれらの戦闘において実に目覚ましい働きを示したからである。

シュラクサイを除く諸都市を支配下に

右に挙げた都市全部の内、シュラクサイを除いてはヒッポクラテスによる奴隷化を免れたものは一つとしてなかった。
シュラクサイもエロロス河畔の戦いに敗北を喫したのであったが、コリントスとケルキュラに救われたのである。
この両国は、シュラクサイがカマリナをヒッポクラテスに譲渡するという条件で和平の調停をまとめ、シュラクサイを救ったのであった。

ゲロン覇者への道

ゲロンの僭主の地位簒奪

ヒッポクラテスが兄のクレアンドロスと同じく七年間君臨した後、シケロイ人討伐の折ヒュブラ市附近で戦死するに及んで、ゲラの市民はもはや独裁下に臣従することを望まなかったが、

ゲロンは表向きはヒッポクラテスの遺児エウクレイデスとクレアンドロスを援助するがごとく振舞いながら、事実はゲラ市民を武力で制圧すると、ヒッポクラテスの遺児から政権を奪って支配者となったのである。

ゲラ内戦「ガーモロイ」VS「キュリュリオイ」

ゲロンがこの思いがけない儲けものをした後、
シュラクサイの「ガーモロイ」と称される階級の者たちが、民衆および通称「キュリュリオイ」という奴隷階層とによって国を追われるという事件があったが、

〔註〕アッティカ標準語形では「ゲオーモロイ」即ち地主階級の謂である。
作者はこの地で行われているドーリス語形を故意に用いたのであろう。ガーモロイは最初の植民者たちの後裔でそれまでは町の支配層であったわけである。

ゲロン、シュラクサイ制圧

ゲロンは彼らをカスメネの町からシュラクサイに復帰させ、シュラクサイの町まで手中に収めてしまった。
シュラクサイの民衆はゲロンが町に迫ると、町を空けわたして降伏したからである。

ゲロンはシュラクサイを手中にすると、もはやゲラの統治などは二の次に考えるようになって、これを自分の弟ヒエロンに委ね、自分はシュラクサイの町の強化に専念し、今や彼にとってはシュラクサイがすべてとなったのである。

貴族だけのメガシティ「シュラクサイ」建設

すなわちゲロンは、カマリナの町を破壊してしまって、カマリナの全市民をシュラクサイに移して市民とし、ゲラ市民の過半数についてもカマリナ人と同様の処置をとったのである。
またシケリアのメガラについては、包囲をうけて降伏した後、彼に戦争を起した首謀者で当然その罪で処刑されるものと覚悟していた貴族層の者たちを、シュラクサイに送って市民とし、一方この戦争には責任がなく、従って咎を蒙ろうとは夢にも思わずにいた平民たちを、これもシュラクサイに送り奴隷としてシケリア外に売り払ってしまった。
また在シケリアのエウボイア人についても、貴族と平民を区別し、右と同様の処置をとった。
ゲロンが両市の住民に対してこのような処置に出たのは、彼が平民を好ましからぬ住民層と考えていたからである。

〔註〕ゲロンが平民に対して苛酷な処置をとった理由は、これらの町では支配層以外の市民は多く原住民かその他の外国人で、従ってギリシア人に反感をもっており反乱の危険があると考えていたためであろう。

原住民のシケロイ人が外国人のエリュモイ人やエウボイア人(カルキス人)と共存共栄しようとしたフェニキア人(カルタゴ人)とは正反対である。

ゲロンの拒否

ギリシアの使節が右のように述べると、ゲロンは大層な権幕で答えていうには、
「以前わしがカルタゴと事を構えた折のことであったが、ともに異国の軍勢に当って欲しいとわしが要請したときも、またエゲスタ人の手にかかって果てたアナクサンドリデスの子ドリエウスの仇を討ちたいとわしが強く念願した折も、さらには現にそなたらがそれによって多大な利得と便益を得ている通商地をわれと相携えて敵の手から解放せんことをわしが申し出たときも、わしのために来援してくれなかったし、・・・」

「わしは三段橈船二百隻、重装兵二万、騎兵二千、・・・を提供して、援助する用意がある。
ただ・・・条件がある。すなわちペルシア王に対する戦いにおいて、わしがギリシア軍の指揮をとり、統帥権を掌握することだ。」

メッセネ僭主カドモスをつかってゲロンの二股作戦

カドモスを遣わして、ペルシアが勝利したら「土と水を献じる」構え

すなわちペルシア王がヘレスポントスを渡ったとの報に接するや、コス島出身のスキュテスの子カドモスなるものに多額の金をもたせ、さらに友好的な口上を申し含めて三隻の五十橈船とともにデルポイに派遣した。
戦争の帰趨をとくと見極め、ペルシア王の勝った場合は例の金を王に献じ、ゲロンの支配下にある地域について土と水を献上して服従を誓うよう、しかしギリシア軍勝利の暁は、それらはそのまま持ち帰るように指令しておいたのである。

〔註〕巻六、二三節に述べられるスキュテスと同一人であろうと推察される。

コス島はドーリス系の植民地で、スキュテスはペルシア王の肝いりでザンクレの僭主だったが、レギオン僭主アナクシラスとサモス人が来襲したとき、ゲラの僭主ヒッポクラテスが、このカルタゴ陣営と組んで、スキュテスを追放した。スキュテスは、ペルシアに戻って余生を送った。だから、その息子カドモスはペルシアとパイプのあるドーリス系である。しかしカドモスの名が気になるが。
つまり、スキュテスは、カドモス系のドーリス人だったのであろう。
ゲロンもデーメーテールのヒエロパンテスの家系なので、カドモス系ドーリス人であろう。

ゲロンの藩王的メッセネ僭主カドモスとは?
元ザンクレ僭主スキュテスの子でコス島僭主

このカドモスという人物はこれより先、コス島においてすでに安定していた独裁者の地位を父から受け継いでいたのであるが、

つまりレギオン僭主アルケシラオスとサモス人に追放されて、シケリアから戻ったスキュテスは、ペルシアの庇護下にコス島の独裁者に返り咲いたのだろう。

カドモス、コス島を島民に譲り、ゲロンの与えたメッセネに里帰り

これを脅かすような事情は何一つなかったのに、自分の正義感から自発的に政権をコス人の裁量に委ねてシケリアへ去ったのである。
そしてこの地で、後に名称をメッセネと変えたザンクレの町をサモス人の手から奪取して、ここに住みついたのである。

つまり、スキュテスの子カドモスが生まれ育った故郷ザンクレには、
ヒッポクラテスが協力したサモス人が、占拠してザンクレを最初に誘致してくれたレギオン僭主アルケシラオスの故郷に因んでメッセネと改名して住んでいた。
それをゲロンが追い出して、スキュテスの子カドモスをメッセネの独裁者に招致したのであろう。
ヘロドトスのスキュテス父子への賛辞は、ドーリス系にとくに贔屓を漏らしている。アルテミシアの件でもわかる。
ヘロドトスは、地元のカリア人(フェニキア系)とハリカルナッソス人(フェニキア系ドーリス人)の混血だったと思われる。

カルタゴとゲロンの戦争

カルタゴ陣営の血族

その事態とは、これと同じ頃、ヒメラの独裁者であったクリニッポス子テリロスが、アクラガスに専制を敷いていたアイネシデモスの子テロンによってヒメラを追われた後、フェニキア人、リビア人、イベリア人、リギュエス人(リグリア人)、エリシュコイ人、サルディニア人、キュルノス(コルシカ人)人らの連合軍三十万を、カルタゴ王なるアンノンの子アミルカスの指揮の下に差し向けたことである。

テリロスは自分との友好関係を盾にアミルカスを説き落したのであったが、ことにクレティネスの子アナクシラオスの熱意に負うところが最も多かった。
アナクシラオスはレギオンの独裁者であったが、わが子をアミルカスに人質として送り、彼を動かして自分の舅の援助にシケリアへ出馬させたのである。というのも、アナクシラオスは、キュディッペというテリロスの娘を妻にしていたからである。

父方からいえばカルタゴ人であるが、母方からはシュラクサイ人であったアミルカスが、カルタゴの王位に就いたのはそのすぐれた資質によるものであったが、

直近の対決は、ヒメラの僭主テリロスVSアクラガスの僭主テロンである。
助っ人は、テリロスの娘婿レギオンの僭主アナクシラオスである。
彼の出自はメッセニア人であり、第一次メッセニア戦争終結後にシケリアに植民した人の子孫である。つまりは、ヘラクレイダイの子孫であり、フェニキア系貴族の末裔ということになる。
そして、最大の後ろ盾がカルタゴの王(スーフェース)アミルカス(ハミルカル)である。
この人は、驚いたことに、父方はカルタゴ人、母方はシュラクサイ人である!
つまりフェニキア系とギリシア系のハーフである。

一方のアクラガスの僭主テロンは、ピンダロスがオリュンピアの戦車競技の戦勝歌を作っているが、テラ島の王テラスの子孫という血脈である!
こちらもテーバイ人(カドモスの末裔たるテーバイ王家)の王族の子孫である。
つまり、こちらもフェニキア系であり、かつギリシア系である。
さらにそれをバックアップするゲロンも、先祖はフェニキア系の可能性が濃厚である。

このシュラクサイVSカルタゴのシケリアを舞台とした大戦争は、実は、同族間の内輪げんかの類である。

アミルカスの最期

合戦が行われ彼の軍勢に敗勢が萌した時から、彼の消息は杳として知られなくなったと私は聞いている。

ここにカルタゴ人自身の伝える真実らしい話がある。
シケリアにおけるギリシア軍との戦闘で、異国軍は払暁から夕方遅くまで戦ったがー事実この合戦はそれほど長時間にわたったと伝えられるー、この間アミルカスは陣に留まって犠牲をささげ、巨大な薪の上で犠牲獣を丸のまま焼きながら吉兆の現われるのを待っていたが、自軍の敗走を目にするや、あたかも犠牲に神酒を灌いでいた彼は、わが身を火中に投じた。彼はかくて自らわが身を焼いて姿を消した、というのである。

ケルキュラ人の傍観を決め込む

ケルキュラ人はこのような態のよい返事をしたのであったが、いよいよ救援に向う羽目になると、心は言葉とうらはらに、ともかく六十隻の船に乗員を乗り込ませ、ようやく出港してペロポネソス沿岸に達したが、スパルタ領に属するピュロスとタイナロン岬沖に船を碇泊させ、(ゲロン同様)彼らも勝敗の帰趨を観望することにしたのである。

一方ギリシア方に対しても、彼らは遁辞を用意しており、・・・
季節風エテーシアイに妨げられてマレア岬を越えることができなかった。

クレタ人も傍観

それはミノスがダイダロスの行方を求めて、今日シケリアと呼ばれているシカニアにゆき、ここで横死を遂げたと伝えられるからである。
後になってある神のお告げに促されて、ポリクネとプライソス両市の住民を除く全島民が大挙してシカニアに赴き、カミコスの町を五年にわたって包囲攻撃したという。この町は私の時代にはアクラガス人が居住していた町である。

ミノス王がシケリアで死んだ伝承は、クレタ人のシケリア植民を投影している。
ミノス王とともに渡ったフェニキア人が、カミコスを攻略して、アクラガスを建設したのであろう。
だから、アクラガスの建設は、ミノスと植民したフェニキア人であろう。

さてプライソス人の伝承によれば、無住となったクレタ島へはさまざまな民族特にギリシア人が移住してきた。
そしてミノス王の死後二代を経てトロイア戦争が起きたが、

トロイアから帰国後の彼らに授けられたのは飢饉と疫病とであって、人間のみか家畜までその厄を蒙り、遂には再度クレタは無住の地と化し、三代目のクレタ人が僅かに生き残った住民と共に、この地に住むことになったという。

クレタに残留したフェニキア人はわずかで、後にさまざまな民族が移住してきたということである。
つまりクレタ島の華々しい文明を築いたフェニキア人は、クレタ島を捨て、シケリア島に軸足を移したのである。
シケリア島は、テュロスから直接植民した都市カルタゴと、カドモス系のギリシア植民の行きの途上で植民したクレタ島やロドス島経由で植民したアクラガスやゲラ、ラケダイモン経由で植民したシュラクサイなど、フェニキア系ギリシア人やギリシア系フェニキア人の支配下となった。

フェニキア人は、時間とともにギリシア本土でもテーバイからアルゴス経由でラケダイモンへと西へ軸足を移している。
その最西端のフロンティアこそタルテッソスのガディラと、バルカ「王国」である。

八、クセルクセス軍、テッサリアを進撃

ペルシア軍テッサリアを進軍

アカイア地方のアロスに着くと上陸し、船はこの地に残してテッサリアへ進撃しテンペに至った。

ここはテッサリアの一部だが、「アカイア・プティティス」と呼ばれる。
ホメロスの捏造伝説で、アカイア人のペーレウス・アキレウス父子の本拠とされたからであろう。しかし、アカイア人とはまったく関係のない土地である。
一時、アカイア野盗軍のペーレウスどもが、イオールコス王家の領域で、本拠地であるテッサリア(プティアを含む)を侵略し、王と王妃を虐殺し市民を虐殺するなど残虐行為を行なったが、すぐに上流階級のイオールコス王家と民衆の共闘による反撃を喰らい、追放された。

テッサリアの地理

ここはペネイオス河沿いにオリュンポス、オッサ両山の間を抜けて、下マケドニアからテッサリアに至る通路に当っている。

ペルシア軍は、マケドニアを一蹴し、マケドニア王家は臣従して遠征軍に加わった。
マケドニア領域を悠々と通過すると、テッサリアの領域に入る。
ここからが、いよいよ本格的なギリシア本土である。

テッサリアは、5つの河を糾合したペネイオス河沿いに、ギリシアの門であるテルモピュライへ向う道が、オリュンポス山とオッサ山の間を通っている。

マケドニア王アレクサンドロス、降伏を勧告

しかしギリシア軍がこの地に留まったのは数日に過ぎなかった。というのはマケドニア人なるアミュンタスの子アレクサンドロスの許から使者が到着し、ペルシア方の陸上部隊および艦隊の数を挙げて、ギリシア軍に引き上げを勧告し、この通路に踏み止まって侵入軍によって蹂躙されるような事態は避けるべきことをすすめたからである。

同盟軍に見捨てられテッサリア人降伏

かくて同盟軍に見捨てられたテッサリア人は、もはや逡巡することなく積極的にペルシア側に加担することになり、この事変中ペルシア王にとっては最も有用な要員として活躍したのであった。

テルモピュライとアルテミシオンで防衛作戦

そしてテルモピュライの進入路を防衛すべしとの説が大勢を制したのである。
さてギリシア人はこの通路を防衛して、異国軍のギリシア侵入を妨げるとともに、水軍をヒスティアイア領内のアルテミシオンに派遣することに決した。

アルテミシオン(北エウボイア島)とは?

まずアルテミシオンであるが、広漠たるトラキア海が狭まってスキアトス島と本土のマグネシア地方を分つ狭い水路となり、この海峡にすぐ連なるのがエウボイアのアルテミシオン海岸で、ここにはアルテミスの神殿がある。

テルモピュライとは?

テルモピュライの西方には登攀するに難しい険峻な高山があり、遥かにオイテ山に連なっている。

また街道の東側には海が接近し沼沢地を成す。
この通路には温泉が湧き出ており、土地の者はこれを「鍋の湯キュトロイ」と呼んでいる。

旧テッサリア人と新テッサリア人

以前この通路を扼して城壁が築かれたことがあり、古くはこれに関門もあった。(テルモピュライの謂れ)。
この城壁を築いたのはポキス人で、テッサリア人が現在彼らの確保しているアイオリスの土地に居住地を求めて、テスポロティス地方から移動してきた時、これに脅威を感じたからであった。

〔註〕テッサリアにもと居住していたアイオリス系の住民は、テスポロティスから侵入してきたテッサリア人に追われて、ボイオティアやその他の地域に移ったのである。

もとは、アイオリス王家を形成した「アイオリス人」が居住していた。
後にテッサリアの名で呼ばれる地域を占有していたので、この王家「アイオリス王家」のこのテッサリアの地に残留した本家を特に、便宜的に「テッサリア王家」とよぶ。正確には首都をとって「イオールコス王家」である。

「トロイア戦争」後になると、さらに北方の民族が南下してきて、テッサリアを占有する。
これが新テッサリア人。
旧テッサリア人は、最盛期には、ピュロス王家やアイトリア王家を形成し、テーバイ帝室と共存共栄して、ギリシア本土をヘラスとギリシア人で支配していたが、
アカイア人に押され、新テッサリア人に押されて、ペラスゴイとよばれ、小アジアやアイオリス人の島嶼、レスボス島などに移住した。
もちろん、テーバイ帝室と混血して、ペロポネソス半島にその血は存続した。

風の助力

デルポイ人は・・・神の託宣を求めたところ、四方の風に祈願せよとの神託があった。

ペルシアの水軍は、・・・マグネシア地方に達すると、・・・
「ヘレスポントス風」と称している猛烈な東風が、ペルシア艦隊を襲ったのである。

この遭難においてペルシア軍は、最小限に見積もっても四百隻を下らぬ艦船と無数の兵員、それに莫大な財宝を喪失したと伝えられる。

その結果セピアス岬附近に土地を所有しえいたクレティネスの子アメイノクレスというマグネシア人は、この海難によって大層な恩恵を蒙ることになった。
この男は後になって浜に打ち上げられた多数の金銀製の盃を拾得し、ペルシア軍の宝物櫃を見付けたり、その他無数の財宝を手に入れたのである。

これを聞いたギリシア軍は、「護国の神ソーテールポセイドン」に祈願を籠め神酒を灌いだ後急遽アルテミシオンへ引き返していった。

パガサイ市

ペルシア軍は、マグネシアの岬を廻りパガサイ市に通ずる湾内に真直ぐに突入していった。

デメテル・アンピクテュオニスの社

ポイニクス河とテルモピュライとの中間にアンテレという小村があり、アソポス河はこの村を流れ過ぎて海に注ぐ。
この村のあたりは土地も広く、ここに「デメテル・アンピクテュオニス」の社が鎮座しており、また「隣保同盟アンピクテュオネス」の代議員の会議場も、アンピクテュオンその人の社もここにある。

〔註〕デルポイのアポロン社のほかにアンテレのデメテル社もまたこの同盟の共通の聖地で、同盟を結成するギリシアの十二の有力な部族の代議員が年二回(春にはアンテレ、秋にはデルポイで)会議を催した。

九、テルモピュライの戦い

テルモピュライの布陣と勢力

さてこの土地でペルシア王を迎え撃つギリシア軍の陣容は、スパルタの重装兵三百、テゲアとマンティネイアより半数ずつ、併せて一千、アルカディアのオルコメノスよりの百二十その他のアルカディア各地より一千。右のアルカディアの軍勢には、コリントスより四百、プレイウスより二百、ミュケナイより八十の兵が加わった。
以上がペロポネソスからの軍勢で、
ボイオティアからはテスピアイ人七百、テバイ人四百が馳せ参じた。
右のほか、来援の要請に応じて、ロクリス・オプンティア地区はその全兵力を繰り出し、またポキス人一千も援軍として加わった。

ペロポネソスのギリシア人は、スパルタ人、コリントス人、アルカディア人が参戦。
アルゴス人とアカイア人は傍観を決め込んだ。
ボイオティアからはテスピアイ人、ロクリス・オプンティア人、ポキス人が参戦した。
さらにテバイ人も四百は、ギリシア連合軍側で戦った。

〔註〕このロクリスは、コリントス湾に臨むロクリス・オゾリスとは別で、エウボイア湾に沿う地区で、テルモピュライには最も近い。
全兵力を挙げて参戦したのもけだし当然であった。

伝説のスパルタ軍

レオニダス王

さてギリシア軍は、国毎にそれぞれの指揮官を戴いていたが、その中でも最も信望高くかつ全軍の指揮に当っていたのはスパルタのレオニダスで、その系譜は遠くヘラクレスに発し、ヒュロス、クレオダイオス、アリストマコス、アルストデモス、エウリュステネス、アギス、エケストラトス、・・・と続いて父アナクサンドリデスに至る。

三百人隊

さてこの時レオニダスは、後継ぎの子供のある者たちだけの中から自らよりすぐった伝統の「三百人隊」を率いてテルモピュライへ赴いた。

ギリシア側についたテバイ人400人

レオニダスはまた、先に私がギリシア軍の兵力を数えた折に挙げた数のテバイ軍をひき連れてきたのであったが、テバイ軍の指揮に当っていたのはエウリュマコスの子レオンティアデスである。
レオニダスがギリシア諸国の内特にテバイの部隊を携行することにもっぱら熱意をしめしたのには理由があって、彼がテバイ人の親ペルシア的態度をことに強く非難していたからにほかならなかった。

地峡に後退かテルモピュライ死守か

ペルシア王の軍勢がいよいよ峠に迫るや、・・・
スパルタを除く他のペロポネソス軍は、ペロポネソスに引き返し、地峡を防衛すべきことを主張した。
しかしポキス人とロクリス人とがこの見解に憤激するに及んでレオニダスは、この地に踏み留まるとともにギリシア諸市に使者を送り、現在の兵力をもってしてはペルシア軍を防ぐには足らぬ実情を告げ救援を求めることに断を下したのであった。

スパルタ魂

斥候は、・・・スパルタの部隊で、兵士たちが体育の練習をしたり、頭髪に櫛を当てていたりする有様が斥候の目に映った。

「彼らが生死を賭して事を行なわんとする場合には、頭髪の手入れをするのが、彼らの慣習になっているからであります。
と申すのもいま殿が立ち向かわれる相手こそ、ギリシアに数ある国々の中でも最もすぐれた国であり、最も勇敢な軍勢であるからです。」

スパルタの後退戦術

中でも特筆すべき戦法は、敵に背を向けると一見敗走するかのごとく集団となって後退するのである。
スパルタ軍は敵の追い付く頃を見計らい、向き直って敵に立ち向かうのである。
この後退戦術によってスパルタ軍は無数のペルシア兵を倒したのであった。

間者が間道を教える

ペルシア王が現状の打開に苦慮しており時、マリス地方の出身で・・・エピアルテスなるものが、・・・
山中をテルモピュライに通ずる間道の所在を王に教え、かくしてこの関門を死守するギリシア軍の破滅を招来することになったのである。

テスピアイ人とテバイ人がスパルタとともに残留

帰還の命を受けた同盟国の諸部隊は、レオニダスの意向に従い退却していったが、テスピアイ人とテバイ人の部隊のみはスパルタ軍と共に留まった。

テバイ人とテスピアイ人の正反対

右の内テバイ軍は、レオニダスが彼らを人質並に扱って抑留したため、やむなく心にもなく留まったものであるが、テスピアイ人は欣然と自ら進んで残留したもので、彼らはレオニダスとその部隊を見捨てて引き上げることを拒み、踏み留まってレオニダスとその運命を共にしたのである。

レオニダス戦死

レオニダスはこの激戦のさ中に、疑いなく見事な働きを示して倒れ、他の名だたるスパルタ人も彼とその運命を共にした。
私はこれら勇名を馳せた人々の名を聞き及んでいるが、全軍三百人の名前も私は聞き知っている。

テルモピュライ墓碑

かつてこの地に三百万の軍勢と戦いたる
 ペロポネソスの四千の兵
この碑銘は全軍のために草されたものであるが、スパルタ軍のみのためには
 旅人よ、スパルタびとに伝えてよ、ここに彼らが
 おきてのままに、果てしわれらの眠りてあると。

物語ヘロドトスで私が読んだ、
ラケダイモンへ行ったら伝えてくれ・・・の墓碑。

テバイ人、ペルシア軍に投降して命拾い

レオンティアデスに率いられたテバイ軍は、・・・
戦況がペルシア方に有利となるのを見てとるや、レオニダス麾下のギリシア軍が例の丘に向って急行したのを機に彼らから離脱し、両手を前へ差し伸べ口々に、自分たちはもともとペルシア方で、ペルシア王に土と水を献ずるにも他にさきがけてした国の一つであったが、ままならぬ事情に強いられてテルモピュライに出陣したもので、・・・といいながらペルシア軍に近付いていった。
テッサリア人たちも彼らの言い分の裏付けをしてくれたので、テバイ人部隊はこの申立てによって命拾いをしたのであった。

クセルクセス、レオニダスの遺体を凌辱

クセルクセスは、・・・レオニダスの遺体に行き当たり、彼がスパルタの王で指揮に当っていたことを聞くと、家臣に命じて彼の首を刎ねて木に結えて曝し首にした。



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