第1稿 シュメール・アッカド・エラム語の解読
第四章 シュメール・アッカドの文化遺産の開花
①ローリンソン
楔形文字文字学の開拓者のうち、高くそびえている「巨人」は、英国人ヘンリー・クレズウィック・ローリンソンである。
②ベヒスタン碑文
ローリンソンの偉業は、・・・ベヒスタン碑文を新たに発見し、写し、解読したことにある。
③バビロニア語版/資料共有
古代ペルシア語版本文のためだけでなく、もっとも重要な版であるバビロニア語版の解読のためにも、それを用いたのである。さらに、彼は全資料を自分だけのものにしないで、他の人びとがその解読作業にたずさわれるようにもした。
④バビロニアとアッシリアの莫大な碑文研究上の宝物
このバビロニア語版文書こそ、バビロニアとアッシリアの莫大な碑文研究上の宝物を明らかにしたのである。
⑤エラム語
アケメネス朝の三言語併用文書中の第二番目はエラム語であるが、残念なことに、エラム語は、既知のいかなる言語にも関係がない。
⑥古代ペルシア語版の翻訳
しかし、エラム語版文書の意味内容は、その文書が三言語併用文献の古代ペルシア語版の翻訳であるためわかっている。
⑦エラム語=音節文字式
エラム語版は、一一一の記号を使用していることから、その文字体系が音節文字式であることが確認された。
⑧エラム語音節文字記号の音価が確立
一八五三年にロンドンのエドウィン・ノリスによってなされたベヒスタン文書のエラム語版の出版を待たねばならなかった。これによって解読された名前の数は四〇から九〇に増加した。このようにして、エラム語音節文字記号のほとんどすべての音価が確立したのである。
⑨西方イランのみに限定
エラム語は、西方イラン以外では、決して重要なものにはならなかったのである。
⑩エラム語版の研究を放棄
ローリンソンは、この事実をあらかじめ悟って、エラム語版の研究を放棄し、バビロニア語版文書に集中した。
⑪シュメール語
シュメール語は、豊かなシュメール語資料ー二言語併用の諸文献および教科書を含むーの存在にもかかわらず、アッカド語学に遅れている。
⑫既知の言語と近親関係がない
そのわけは、アッカド語がセム語であるのに対し、シュメール語は他のいかなる既知の言語とも近い関係にないからである。
⑬フランソワ・テューロー=ダンジャン
フランス人学者、フランソワ・テューロー=ダンジャンは、一九〇七年に、シュメール語の、王による単一言語諸文書の翻訳をひじょうに正確に行おうと尽力したので、その結果、将来のすべての研究に対する基礎を築くことになった。
⑭フルリ人
紀元前二〇〇〇年紀期全体を通じて、アッカド語圏で重要な民族はフルリ人であった。
⑮フルリ語
ミタンニ国王トゥシュラッタは、アメノフィス三世に対して、バビロニア語の手紙のほかに、フルリ語によるとても長い手紙を書いた。
⑯すべての言語に無関係
フルリ語の解読がゆっくりで不完全であるのは、その言語が、セム語、印欧語、シュメール語および事実上の他のすべての言語に無関係であるという、風変りな婚姻関係のためである。
第2稿 象形文字のヒッタイト語=ルウィ語のカラテペ碑文
第五章 楔形文字および象形文字のヒッタイト語
①ヒッタイト語=最古の印欧語
ヒッタイト語は、記録された最古の印欧語であり、サンスクリット語、ギリシア語、ラテン語、英語等のヨーロッパの既知のほとんどの言語と婚姻関係がある。
②ボアズキョイ発掘
ヴィンクラーは、一九〇六年から一九〇八年にかけて、ボガズケイでの主要な発掘作業を指揮した。そいて、王の公文書保管所を発掘し、一万点以上の粘土板文書をみつけた。
③ヒッタイト語・ルウィ語・パラー語
いくつかの粘土板文書は、標準的ヒッタイト語の他に「ルヴィ語」と「パラー語」と呼ばれる同語族の方言で記された引用文を含んでいた。
④ハッティ語
さらに「ハッティ語」として知られる、婚姻関係のない言語の存在が明らかにされた。
⑤キリキアのカラテペ碑文
カラテペでは、アジタワッドという王が紀元前八世紀の終わりごろ支配していた。彼は自分の宮殿を建て、それを浮彫り細工や碑文等によって装飾した。それらの碑文は、自分のなしとげた事柄を語っているのである。
(ここでアジタワッドと訳されている王は、一般的に「アザティワダ」王である。
アダナの地(キリキア)の領主で、「モプソス家」の「アザティワダ」である。ギリシア神話でモプソスに投影されていることは十分想定される。
テーバイ帝室の母マントーがフェニキア語話者で、コロポンの王とされる父親のラキオス王がルウィ語話者であった人の投影であろう。
要は、ここは、ギリシアから移住したフェニキア語話者とジモティーのルウィ語話者の都市国家であったということだろう。)
⑥最長のフェニキア語碑文
次にあげる、フェニキア語版の翻訳によって、カラテペ・テクストの語彙、文体、長さ等がどのようなものであるかがかわろうー。
※カラテペ・テクスト全文
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①バアルの僕
「私はアジタワッド、バァルの神に祝福されたもの、バァルの僕、ダヌナ人たちの王であるアワルクが王の位にひきあげた者。
②ダヌナ人の王アワルク
ダヌナ人たちの王であるアワルクが王の位にひきあげた者。
③ダヌナ人の父母
バァルは、私をダヌナ人たちにとって父また母とした。
④アダナ征服
私は、ダヌナ人たちをふるい起こし、「アダナの平地」の国を、太陽の昇ことろから沈むところにまで、拡大した。
⑤豊穣の重視
私の時代に、ダヌナ人たちは、あらゆるよいもの、豊かさ、およびよきことを得た。
⑥アワリクの子孫につかえた
私は、私の支配の家を、徳をもって建て、私の主人の子孫のため善を行なった。
⑦ダヌナ人に推戴されアワリク家の王座を継承
そして、私は彼の父の王座につき、あらゆる王と和睦した。そして、あらゆる王は、私の義と知恵と心の善良さとのゆえに、私を父とまでも、見做した。
⑧モプソス家国境警備
そして私は、国境のあらゆる前哨地点、すなわち、モプシュ家に何の役にも立たなかった悪漢どもが隊を組んで存在していた地に、強力な城壁を造った。
⑨先住の海賊民を平定
私、アジタワッドは、彼らを足の下にふみつけ、それらの地に、ダヌナ人たちが心安らかに住むべく居留地を設立した。
⑩西方の海賊民を平定
そして、私より前の王たちがだれも征服したことのなかった、西方の強力な国々を従属させた。
⑪リュキア、カリアの征服
しかし、私、アジタワッドは、彼らを、東方の、私の国境のさいはてに連れていき、そこに定住させることによって、彼らを従属させたのである。そして、私は、そのところに、ダヌナ人たちを定住させた。
(西方のアヒヤワ(アカイア)人の末裔で、さんざん、海賊行為を働いて二つの沈没船を沈没させたであろうものたちを、東の国境の外に強制移住させ、アナトリア西部には、ダヌナ人(クレタ島を平和的に征服したテーバイ帝室の子孫、後にギリシア神話でアテーナイ捏造班はダナオイ人の名で名称簒奪した)テーバイ人×テッサリア人が、リュキア、カリア地方に植民した。ここに同族のヘーラクレイダイが植民し、リュキア、カリアはラケダイモーン系の植民地となっていく。)
⑫女性が安心して外出できる治安に
ー以前、恐れられた地であり、男が道路を歩くのを恐れたようなところ、しかし、私の時代には、バァルと神々の恵みにより、女が手に錘をもって散歩することができたところでーじつに、私の全時代に、ダヌナ人たちと全「アダナの平地」とに対して、豊かさとよきこととよき生活と心の安らぎとが存在した。
(キリキアは、性悪のウラの証人が、ウガリト人を苦しめた土地であり、海賊となって、キュプロスとフェニキアの交易船を襲撃した土地であり、おそらく陸地でも追剥が横行した土地であったのだろう。
男女平等のテーバイ帝室は、女性が安心して外出できる平和で豊かな治安のいい統治をめざした。)
⑬アジタワッディイ
私はこの町を建て、その名を、アジタワッディイと呼んだ。
(アジタワッディイはカラテペ遺跡の当時の名前である。)
⑭「雄じかのレシェフ」
なぜなら、バァルと「雄じかのレシェフ」とが私をつかわしてそれを建てさせ、バァルと「雄じかのレシェフ」の恵みにより、「アダナの平地」と「モプシュ家」にとっての砦になるよう、豊かさとよきこととよき生活と心のやすらぎによって、建てたからである。
(「雄じかのレシェフ」とは、アナトリアで、メソポタミアのネルガル=疫病神と習合された「雄じか」をトーテムとする神であろう。インド・ヨーロッパ語族の神レシェフは、セム語系コーカソイドのネルガルと習合されたようだ。バァルはヘーラクレースの豊穣神の面を、レシェフ=ネルガルはヘーラクレースの疫癘神の面を代表しているようだ。牡鹿のトーテムは、スキュタイなどモンゴロイドと習合しながら東遷して列島に至る遊牧民に受け継がれていったようである。)
⑮建材の再利用が横行
アジタワッドが創ったこの門をとり去り、それを変な門のために再利用して、その上に彼の名前をつけたりするものがいるならば、
(南のジンジルリ(サムアルの首都)の宮殿も、ヒッタイト帝国の石を再利用していた。当時の新ヒッタイトの諸都市国家が、このような再利用をやっていたファクトである。)
⑯バアルとエル
その時こそ、願わくば、「天のバァル」と「地の創造者エール」そして、「永遠の太陽」と「神々の全一族」とが、その君主、その王、その名高い人を、抹消されんことを!」
(おそらく強大なアッシリアを想定していたのであろうか。いずれ、アッシリアの強大な国に征服され、建材を再利用される予感があったのであろう。)
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⑦フェニキア人/前2千年紀から地中海支配
フェニキア人の存在は、紀元前二〇〇〇年期および一〇〇〇年期を通じて、地中海で重要な要因であった。
(ジモティーのルウィ語とフェニキア語の二言語碑文を創ったアダナの領主アジタワッドと訳されている王は、一般的に「アザティワダ」と呼ばれる。
フェニキア系とヒッタイト系の混血であろう。)
⑧ピュルギのフェニキア語/エトルリア語碑文
一九六四年の夏、フェニキア語とエトルリア語で書かれた黄金の碑文が、ローマの北西五〇キロメートルほどの、イタリアの海岸にあるピュルギで発見された。ピュルギでのこと発見は、エトルリア語の解読を推進するために貴重な宝である。
⑨フェニキア人イタリアに存在/前5世紀までも
イタリアに、紀元前五世紀の初め、フェニキア人とエトルリア人が共存していたということ自体がひじょうに興味深い。
フェニキア人が早くからイタリアの土壌に存在していたということは、いまや本当らしい。彼らはそこで、エトルリア人に直接の影響を(そして、順次にエトルリア人がローマ文化においおい貢献した)与えただけでなく、ローマ人自身にも、この点については、直接影響を与えたのである。
(サビーニ人としてテーバイ帝室系スパルタ人が入植している。)
第3稿 ウガリトーその解読と影響
第六章 ウガリトーその解読と影響
①1年で解読!
しかし、ウガリト語の場合は、このパターンに添っていない。まったく未知の文字で書かれたその文献は、一九ニ九年にはじめて発見され、翌一九三〇年には、解読が達成されていたのである。
②ウガリトの墓は「ミュケーネ式」!
これは考古学者が「ミュケーネ式」と叙述する墓の一部であった。その地域はセム人の地域であり、ウガリトは北フェニキアに位置していたので、このミュケーネ式構造は、紀元前一四〇〇年~一二〇〇年ごろ、後期青銅器時代の後半にフェニキア人とエーゲ海の民との結びつきがあったことを示す諸発見がなされるという徴候を示すものであった。
(これは、「ミュケーナイ人」と考古学者が呼ぶ、「前1200年のカタストロフ」以前にギリシア本土を制覇していた人々が、セム系起源のテーバイ帝室系であり、エーゲ海を制覇し、フェニキア地方と前2000年紀より継続的に交易連携していたことの証拠である。)
③1929年からフランス隊の発掘
一九ニ九年、当時シリアを支配していたフランス人たちによって、ウガリトの発掘がはじめられた。
④ウガリト文字粘土板発見
発掘者たちはすぐに、一部がアッカド語文字で、他の一部が新しい未知の文字で書かれている楔形文字粘土板諸文書を発見した。
⑤シャルル・ヴィロロー
それらの粘土板は、出版のために、著名なアッシリア学者シャルル・ヴィロローにひき渡された。
⑥発見同年に雑誌『シリア』に発表!
彼は、この新しいウガリト文字で書かれた粘土板の最初の四八枚を、一九ニ九年、すなわち、発見と同じ年に、雑誌『シリア』に発表したのである。
⑦ヴィロローの性格と能力の賜物
ウガリト学の進展は、主として、ヴィロローの性格と能力とに依っている。彼は、その一次資料の出版を敏速に準備した。
⑧製図工精巧なコピー
ヴイロローは、その学識に加えて、製図工の腕前に必要な鋭い眼と精巧な手とを賦与されていたので、彼のコピーは精確さと明確さの模範であった。
⑨解読のための基礎を敷く
一九ニ九年の論文によって、ヴィロローは、一次資料をすべての人の手にわたして、解読のために使用できるようにしただけでなく、いくつかの正しい観察をすることにより、解読のための基礎を敷いた。
⑩アルファベット/分離記号/アブシャドを発見
彼は、その文字が左から右へ書かれていること、その記号数が少ない(三〇以下)ことはアルファベット以外を意味しないこと、小さな縦のくさびは語と語を分離するのに役立っていること、語が短いことは母音がまったく、または、ほとんど示されていないこと等を認めたのである。
⑪ハンス・バウアー
ドイツのセム語学者、ハンス・バウアーは、即座にウガリト語の解読に専念し、速やかに決定的な結果を得た。彼は、第一次世界大戦中は暗号分析者であった。
⑫laはtoを意味
それは北西セム語の接頭辞b「~に」(in)にぴったりと合った。こうして、今や、バウアーは、一般的なカナンの神 bcl (Baal)「バァル」の名前を探求することができた。
⑬「ウガリト学の父」
ヴィロローは、ちょうど、ローリンソンが「アッシリア学の父」であることにだれも異論を唱えないように、まさに「ウガリト学の父」であった。
⑭全記号に対応する正しい音価
一九三一年号の雑誌『シリア』に発表されたウガリト語の解読に関する論文の土台となっている。この『シリア』の論文で、ヴィロローは、アルファベットの、ほとんどすべての記号に対応する正しい音価に、ほぼ達していた。
⑮ゴードン自身の着手
私がはじめてウガリト語とかかわりを持ったのは、一九三五年のことで、解読が「既成の事実」となった後のことであった。
⑯「天」(smm)、「肥沃」(smn)「地」(ars)
ウガリト語は、解読の当初から、ヘブル語とフェニキア語に近い関係があることが認められていた。
「天」(smm)、「肥沃」(smn)、および「地」(ars)を表すヘブル語とウガリト語とは、その子音の輪郭が同じである。
⑰ヘブル語聖書にウガリト文学の影響
ヘブル語聖書のうちには、ウガリト語の表現と並行的であるものが何百と見出されているが、そのことによって、旧約聖書学の研究に大革命が起きている。⑱カナン人から借用
ヘブル人たちが、自らの言語や文学形式を発明したのではないことは一目瞭然であった。彼らは、それらをより古いカナンの原住民から受け継いだのである。
第4稿 エーゲ海音節文字/第一節 クレタ文字「線文字A」「線文字B 」
第七章 エーゲ海音節文字
第一節 クレタ文字「線文字A」「線文字B 」
①「ミノア文書」
ヨーロッパの土壌で書かれたいちばん古い碑文文書は、クレータ島からのもので、一般には「ミノア文書」と呼ばれている。
②絵文字「クレータ象形文字」
この文字は、絵文字としてはじまったので、時には「クレータ象形文字」と呼ばれたりする。
③ファイストス円盤
いちばん絵文字的な碑文は、かなり特異なファイストス円盤であって、・・・
④ミノア語とミュケーナイ語に使用
ミノアの書記体系(文字)は、少なくとも二つの、まったく異なった言語に用いられた。すなわち、ミノア語とミュケーナイ語である。
⑤「線文字A」・「線文字B」
ミノア文書の文字は、「線文字A」、ミュケーナイ文書の方は、「線文字B」と呼ばれた。
⑥ミュケーナイ人はエヴァンズの確立した用語
こられは、クノーソスで、二種類の文書史料を発見した最初の人、アーサー・エヴァンズによって確立された用語である。
(ミュケーナイ文明、ミュケーナイ人、ミュケーナイ土器などの呼称で、「前一二〇〇年のカタストロフ」以前のギリシア本土の統治者を「ミュケーナイ」で代表させるのは、エヴァンズの確立した用語である。「テーバイ」の方がより妥当と思われる。たしかに、テーバイ帝室は、テーバイーアルゴス=ミュケーナイーアーミュクラス・ピュロスを支配し、全盛期は、首都がアルゴス(ミュケーナイ)地方に置いていたと想定され、その主神はヘーラーであったが。)
⑦エーゲ海全域へ
しかし、その書記体系は、クレータ島から、東地中海の他の地域に広まった。
⑧ピュロスとミュケーナイ
ミュケーナイ文書は、ギリシア半島、とくに、ピュロスとミュケーナイで発見された。
⑨エンコミとキュプロスでも発見
この書記体系から派生した形は、後期青銅器時代以降のエンコミとキュプロスで、ポルヒュリオス・ディカイオスによって発見されている。
⑩音節文字式
その書記体系は、音節文字式であり、各記号は、子音プラス母音を表わしている。
⑪純粋に音声的
あとで論じる、線文字Aと線文字Bで書かれた経済および行政文書の場合は別として、この体系は、純粋に音声的なもので、表意文字や限定符号等は使用していない。
⑫語分割記号
唯一の非音声的な記号は、語分割記号であって、それは、いかなる解読の場合にも、たいへん有効である。
⑬線文字Bの長い使用
この文字体系は、東地中海文化にひじょうに深く根を下ろしていたので、クレータ島や、とくにキュプロス島では、ヘレニズム時代にいたるまで生き残り、アルファベット文字とともに使用されたのである。
第5稿 エーゲ海音節文字/「イダリオンとキティオンの王ミルキヤトン」二言語碑文
第二節 「イダリオンとキティオンの王ミルキヤトン」二言語碑文
※「イダリオンとキティオンの王ミルキヤトン」のフェニキア語・キュプロス語二言語碑文
①キュプロス音節文字
一八六九年に、フェニキア語とキュプロス語による二言語併用碑文が発見されるまでは、意気盛んな開拓者たキュプロス音節文字を解読するための土台は存在しなかった。
②イダリオンとキティオンの王ミルキヤトン
フェニキア語文献の方は、完全ではないがそのほとんど全部は、同じ君主、イダリオンとキティオンの王ミルキヤトンによって書かれた他の諸碑文にもとづいて、再生することができる。
[フェニキア語碑文]
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①キティオンとイダリオンの王、ミルキヤトンの治世
「キティオンとイダリオンの王、ミルキヤトンの治世の第四の年の?日に。
②アブディミルクの子バアルロム
これはアブディミルクの子、われらの主バアルロムが、彼の神、レシェフ=ムクルのために与え、設立した彫像である。
③レシェフ=ムクル神
彼の神、レシェフ=ムクルのために与え、設立した彫像である。
④王ミルキヤトン
王ミルキヤトンがキティオンとイダリオンを治めていた世の第四年の、五日間の最後の日に、
⑤君主バアルロム
アブディミルクの子、君主バアルロムは、
⑥アミュクライのアポロのために
この彫像を、アミュクライのアポロのために、設立した。
(つまり、フェニキア語の「ムクル」は、キュプロス島に影響を及ぼしたテーバイ帝室のラケダイモーンの「アミュクライ」を指す地名である。
フェニキア語の新ヒッタイトの神レシェフは、ギリシア人のこの時代のアポロと習合している。レシェフ=ネルガル=ヘーラクレース=アポロンである。)
[解読]
①ジョージ・スミスが解読
この二言語併用文献を根拠にして、一八七二年にキュプロス文字を解読したのは、アッシリア学者のジョージ・スミスであった。
②Mlkytn(ミルキヤトン)Kty(キティオン)、dyl(イダリオン)
スミスは、フェニキア語で、Mlkytn(ミルキヤトン)Kty(キティオン)、dyl(イダリオン)と表記されている三つの名前に対応する、キュプロス語の綴を捜し求めた。
③[フェニキア語版/キュプロス語版]
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(王 バシレイオス)bsntrb3 /pa-si-le-wo-se
(ミルキヤトン)mlkytn /mi-li-ki-ya-to-no-se
(キティオンとイダリオンの王)
kty w ‘dyl sml / ke-ti-o-ne ka-e-ta-li-o-ne
(レシェフ=ムクル)lrsp mkl
(アミュクライのアポロ)a-po-lo-ni to a-mu-ko-lo-i
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(考察)
フェニキア語は、「音素文字」であり、キュプロス語は、「音節文字」であることがわかる。
キュプロス語は、ギリシア語を表記しているが、まるで日本語のように、子音+母音で1音節を表わし、発音されるため、2倍の時間がかかる。まるで「日本語」。日本人が英語を上達できない理由の一つがコレであろう。
一方、フェニキア語は、「音素文字」で、子音1つで発音される。
①音素文字/音節文字
②フェニキア語/ギリシア語
③印欧語系/セム系
という違いが歴然。
クレタ島とキュプロス島の原住民は、音節文字言語であったことがわかる。
フェニキア語のbは、キュプロス語ではpである。
メソポタミア語で、ハンムラビが、後年ウガリト語の時代ハンムラピとなっているように、時代で濁音が清音化している。
④既知のファクトと比較
スミスは次のように自問した。「王という語の主格形と属格形で、最後から二番目の音節がたがいに異なるのは、既知の言語のうちどの言語においてであろうか。」
⑤仮説を立てる
彼は、それがギリシア語であると決定を下した。
ギリシア語では、「王」の主格はbasileusであるが、属格はbasileosである。
⑥キュプロス文字=ギリシア語を確認
彼の分析に弱点があったにもかかわらず、スミスは、その言語の正しい言語確認ーギリシア語ーを成しとげた。
⑦18音価を確立
スミスが確立した一八の音価は、きわめてありそうな成果であって、それによって種々のキュプロス碑文のなかのギリシア語名がかなり正確に読解されていった。
⑧ギリシア語の知識が脆弱で限界
彼のギリシア語の知識が限られていたため、彼は、自分の解読を厳正なものにしていくことができなかった。
⑨古典ギリシア語の訓練を受けた人びと
彼の仕事は、古典ギリシア語の訓練を受けた人びとによって続行された。
⑩キュプロス・ギリシア語碑文の専門家
現在では、キュプロス・ギリシア語碑文の専門家として、T・B・ミットフォードやオリヴィエ・マッソン等が活躍している。
⑪マッソンによる『キュプロス音節文字碑文』
本文の標準版は、マッソンによる『キュプロス音節文字碑文』である。
⑫一つのファクトから出発
また、ただ一つの語(「王」)を根拠にして、その言語をギリシア語であると言語的に確認したのであった。開拓者というものは、どこかからスタートしなければならない。
※アミュクライのアポローンの正体が判明
ラケダイモーン人の古都アミュクライは、「前1200年のカタストロフ」以前のテーバイ帝室時代の古都であった。そこで祀られていたプリミティブな石像、伝説の王ヒュアキントスが祀っていた石像の神は、アポローンではありえない。
古典時代にアポローンと呼ばれる神の原型は、前1000年頃の北シリアでは、レシェフと呼ばれていた。フェニキアに「里帰り植民」していたテーバイ帝室系が、ギリシア本土に、「実家」である母市への「避難」から戻ってきた前800年頃、自分達のヘーラクレースをレシェフと習合した形で持ち込んだのだ。
従って、アミュクライのアポローンは、もともとはテーバイ帝室の三主神ポセイドーン・ヘーラー・ヘーラクレースのつまりエル・アシェラ・バアルのバアル=ヘーラクレースであったと想定される。当時、ヘーラーが主神で、テーバイ帝室の帝王たちは、ヘーラクレースという役職についていたと想定される。
このヘーラクレースに入った神格の一つが、シュメル人のネルガル、北シリアのエッラであったと想定される。
レシェプは、ヒクソスとしてエジプトに侵入したセム語系コーカソイドが持込んだエジプトご当地版のネルガル=エッラであったと思われる。
ネルガルは、疫病の神であるのみならず冥界の帝王であるが、ウガリトでは、レシェプは、凶暴なアナトの夫とされ、その名は「火をつけるもの」であり、熱病=疫病をばらまくため「矢の王」の異名をもつ。これは明らかに、アポローンの中核の属性「遠矢を射るもの」に合致する。もともとのアポローンは凶暴な疫癘神であった。レシェプであったと想定される。ギリシア本土に入ってから、ヘリオスから太陽神の、エシュムン=アスクレーピオスから治癒神のヘルメースから音楽神や知恵の神の属性を盗み取ったのである。
レシェプの姿は、セム系の神そのもので、エジプトでも髭を生やした男性の姿で表され、神殿はつくられず、あくまで外国人の神であり、エジプト在住のセム語系コーカソイドが崇拝していたようだ。アメンヘテプ2世が熱心に崇拝したのは、この王が戦争好きだったからであるだろうが、それだけではなく、セム語系コーカソイドのフェニキア系と交流が深かったことを表していると思われる。
レシェプは「前1200年のカタストロフ」で北シリアに里帰りした時、アナトリアから避難してきたヒッタイト人が、先進国ミタンニのフリ人のパンテオンから導入した「嵐の神」テシュブと習合して、テシュブ自体が、北シリアの大人気の「嵐の神」アダドのフリ人バージョンであったが、新ヒッタイト諸都市時代にサムアルで薄浮き彫りに描かれた姿は、後にフルジア帽になったぼんぼりつきの三角帽をかぶり、右手に棍棒か斧、左手に稲妻をもち髭をはやし、テシュブらしく角のある蛇=竜神「イルルヤンカシュ」を退治する。
あきらかにテーバイ帝室は蛇神を祀る水神信仰者で、カドモス夫妻はつがいの蛇に変身する。テシュブの妻は大人気のヘパト女神とされる。
ヘパト女神は、ハラブの嵐の神アダドの配偶神とされ、ミタンニに入って、フリ人の嵐の神テシュブの配偶神となった。これをカルケミシュのプドゥヘパがハットゥシリ三世と結婚し、ヒッタイトのアリンナの太陽女神と習合させた。
ギリシア本土の里帰り植民で、蛇神の敵で太陽神信仰者の方へ振れたテシュブ=レシェフは、テスピアイなどに入植した人びとによって信仰されていたが、一部は、もとのヘーラクレースへ、一部は、疫癘神の属性からアポローンへと変形していったと思われる。
第6稿 エーゲ海音節文字/第三節 エテオ・キュプロス碑文
第三節 エテオ・キュプロス碑文(非ギリシア語音節文字テクスト)
①キュプロス島の諸碑文
ヘレニズム時代に至るまで、キュプロス島の諸碑文は、フェニキア語とギリシア語の二言語で記されている。
②キュプロス音節文字→ギリシア文字へ
ギリシア語のテクストは、時にはギリシア文字で、時にはキュプロス音節文字で表記されている。フェニキア語碑文には、もちろんフェニキア語アルファベットが用いられている。
③非ギリシア語碑文
また、音節文字で書かれた、非ギリシア語碑文も存在する。
④エテオ・キュプロス碑文
したがって、ギリシア語のキュプロス音節文字碑文と同時代の、エテオ・キュプロス碑文(キュプロス出土の非ギリシア語音節文字テクストがそう呼ばれている)が、フェニキア語であると、ニ、三の学者が考えてきたのも不思議ではない。
※キュプロス島の原住民のギリシア語話者の正体
つまり、キュプロス島の原住民は、三段階でフェニキア語話者によって移住されたと想定
①非ギリシア語の先住民を制覇したフェニキア語話者(カドモス)の一次植民)
②「前一二〇〇年のカタストロフ」で、クレタ島から移住した「ミュケーナイ人」=テーバイ帝室系。フェニキア語話者であり、ギリシア先住民に線文字Bを与え、クレタ人(線文字A)を征服し、キュプロス島を橋頭堡に、ペリシテ人となって里帰り植民した。
③ヒラムの派兵からプマイヤトンの都市建設と完全制覇。
したがって、②の植民は、アカイア人ではない。フェニキア語話者でないからだ。
第四節 「アマトゥス二言語併用碑文」(前四世紀)
①アマトゥス二言語併用碑文
紀元前四世紀の、エテオ・キュプロス語とギリシア語アッティカ方言とで記された、アマトゥス二言語併用碑文は次のとおりである。
②エテオ・キュプロス語版テクスト
***************
(この町は)a-na ma-to-ri / he polis
(このアリストン、このアリストナクスの子)
a-ri-si-to-no-se a-ra-to-wa-na-ka-so-ko-o-se /
Aristona Aristonaktos
***************
③エテオ・キュプロス語がギリシア語と同じ音価が証明
この二言語併用文献によって、エテオ・キュプロス本文の文字記号が、キュプロス・ギリシア語本文での音価と同じものをもっていることが証明される。
④エテオ・キュプロス語はギリシア語の証明例
なぜならば、a-ri-si-to-no-se は、ギリシア語本文の人名Aristonを表わしているからである。
⑤エテオ・キュプロス語はギリシア語の証明例
同じことが、アリストンの父親の名前、Aristonaxの場合にもあてはまる。もっとも、エテオ・キュプロス本文は、方言的な変形Artowana(a-ra-to-wa-na-ka-so-ka-so)を使用しているけれども。
⑥セム語の語法の指示代名詞
セム語の語法に従って、エテオ・キュプロス本文の人名は、指示代名詞を伴っている。
⑦接尾辞(-ose/-kose)=これ
これらの代名詞は、接尾辞(-ose または -kose 「これ」)であるが、
⑧接頭辞(sa-na)=この
同時に、接頭辞の代名詞も用いたと思われる。
sa-na a-ri-si-to-no-se a-ra-to-wa-na-ka-so-ko-o-se
this Arisuton this Artowanax
第五節 キュプロス文化に深く音節文字が浸透
①音節文字が深くキュプロス文化に浸透
西方セム人たちとギリシア人たちの両者が、アルファベットの導入、普及がなされた後だいぶたったヘレニズム時代に至るまで、古い音節文字を使用していたというこの事実は、その音節文字が、キュプロス文化のなかに深く根を下ろしていたことを物語っている。
②エンコミ発見のキュプロス・ミノア文書との関連
エンコミでポルヒュリオス・ディカイオスが発見した後期青銅器時代(紀元前一二〇〇年前の少し前)のキュプロス・ミノア文書と、エテオ・キュプロス文書との間に何らかの関連があるかもしれないと学者たちは思いいたった。
③エンコミ粘土板文書と500年の隔たり
エンコミ粘土板文書とエテオ・キュプロス文書とは、五〇〇年以上もの年代上のへだたりがあるので、いずれにしても形態面のかなりの変化が考えられる。
④エーゲ海=音節文字の本場
エーゲ海は、中期青銅器時代以来、音節文字の本場であった。
第7稿 エーゲ海音節文字/第六節 ミノア文明発掘のエヴァンズの妨害
第六節 ミノア文明発掘のエヴァンズの妨害
①アーサー・エヴァンズ
ミノア文明を発掘した人物は、アーサー・エヴァンズであった。
②線文字Aと線文字Bの命名
そして、そこで、彼が線文字Aと線文字Bと呼ぶことにした、二つの主要な部分に分類される諸文書を発見したのである。
③キュプロス音節文字のギリシア語と思われる2文字発見
エヴァンズは、ある線文字B文書のなかに、キュプロス音節文字によればpo-loと読めそうな二文字を見出した。
④仮説と矛盾したため排除
しかし、彼は、そのことが彼の仮説、すなわち、線文字Bはミノア語であって非ギリシア語である、という考えに合致しなかったために、それを偶然の一致であるとして退けたのである。
⑤ピュロスで多数の線文字B文書発見
線文字A文書とは異なる線文字B文書は、まもなく、まったくのギリシア語であると判明した。一九三九年、カール・ブレーゲンが、ピュロスで多くの線文字B文書を発見したが、その時、クノーソス出土の線文字B文書には、クノーソスの町がギリシア本土の人たちに征服されたことが反映しているとわかった。
⑥ミュケーナイ等でも発見
(後になって、ミュケーナイ等で、さらに多くの線文字B文書が発掘されたことによって、このことが確認された。)
⑦エヴァンズ自己の仮説に固執
しかし、エヴァンズは、自分のお気に入りの仮説に反対する、いかなる証拠が示唆することをも直視しようとしなかった。
⑧公刊をひかえる
エヴァンズは、だれも自分より先にその解読が確実に行えないようにするために、クノーソス粘土板文書の公刊をほとんどひかえた。
⑨エヴァンズの死/1941年
したがって、一九四一年の彼の死が、前進のために必要な前奏曲となった。
第7稿 エーゲ海音節文字/第七節 ヴェントリスによる「線文字B」解読
第七節 ヴェントリスによる「線文字B」解読
①「グリッド・システム」
相似する屈折形の組を一列に整列させる方法によって、諸記号をチャートにすることができるが、それによると、同じ子音で始まるものが、同じ縦の列にあり、他方、同じ母音で終わるものが、同じ横の列に現れる。このようなチャートは、時には「グリッド」と呼ばれ、これを確立する方法は「グリッド・システム」と呼ばれている。
②ヴェントリス
天賦の才のある、若き英国人建築家、マイクル・ヴェントリスは、・・・けっきょくのところギリシア語であるかもしれないという可能性を、まじめに考えたのであった。
第8稿 エーゲ海音節文字/第八節 ゴードン自伝
第八節 ゴードン自伝
第一項 ゴードンの生い立ち
①線文字Aの解読の物語
したがって、次に私が、私自らの線文字Aの解読の物語について記述することには、何らかのメリットがあるかもしれないであろう。
②私の父ベンジャミン・L・ゴードン
私の物語は、私の家庭より始まる。私の父ベンジャミン・L・ゴードンは、リスアニアのタルムードの専門学校で初期の教育をうけた。
③ヘブル語本文とアラム語ラビ文書のテキスト
カリキュラムは、ヘブル語本文とアラム語ラビ文書のテキストに限られていた。
④アメリカ合衆国移住
私の父は、一八八〇年代の終わりに、ほぼ二〇才であった時にアメリカに来た。そして、英語と、当時合衆国の専門学校に入るために必要であった他の科目すべてを学んでから、医学教育をうけ、一八九六年に、フィラデルフィアにあるジェファーソン医科大学を卒業し、医者となった。
⑤私自身の外国語の学び
私自身の外国語の学びは、五才の時に、聖書のヘブル語で始まった。
⑥諸外国語マスター
高校の時、私は数学を専攻した。それと同時に、ヘブル語とアラム語を課外にひき続いて学び、ラテン語とドイツ語とを勉強した。ペンシルヴァニア大学では、これらの言語を継続して学びながら、さらにギリシア語、スウェーデン語およびアラビア語の勉強をした。
⑦最初の20Pを確実に勉強
だれでも、もし、どんな本でも最初の二〇ページに出てくる、すべての単語を辞書で調べ、暗記し、文法についてのあらゆる項目を理解することに労力をおしまないならば、その本の残りの部分は、ほとんど辞書の必要もなく読了することができる。
第二項 マーゴリスの語学マスター法
①マーゴリス
私は、若干一八才の時に、マーゴリスの下で学び始めた。彼の口ぎたない言葉に憤慨するより、その学識をもっとまねたいと思った。
②罵られた後に彼にたずねた。
彼のヘブル語の引用を言い当てることができなかったために、数回クラスで罵られた後に、私はある日のクラスのあと、どうしたらヘブル語本文に深く精通することができるだろうかと彼にたずねた。
③具体的原文を多数読む/ファクトに当る
彼は、私に、毎日、時間のゆるす限りできるだけ多くのヘブル語聖書を読み、創世記一章一節からはじめて旧約聖書の終わりまで通読するように告げた。
④辞書とかコンコールダンス等排除
彼は、辞書とかコンコールダンス等の参考書に依存したようなたぐいの学問をしなかった。
⑤知識の核を頭の中に持つ
そのような本が占めるべき場所(彼の図書室には、それらがあった)があるが、熟達者というものは、自分の専門分野の基礎的な知識を頭の中に持っていなければならなのである。
⑥核だけ暗記
「食糧品店で、一片のパンを買うとき、店員に、『銀行に金があるんだが』とは言わないだろう。・・・どんな学者も、コンコールダンスや索引で調べることができるからといって、基礎的な資料を暗記して知っている必要がないと考えてはならない。」
⑦子音の骨組から母音がひらめく
ヘブル語では(そして、古代フェニキア語諸碑文ではなおさらであるが)、子音の骨組だけが書き記されることがある。
⑧母音を文脈から決定
したがって、読者は、いわば ‘dg’ が ‘dog’ なのか ‘dig’ なのか、コンテクスト(文脈)から決定しなければならない。
⑨子音の組み合わせで識別する能力
熟練したセム語学者であれば、子音の組み合わせを見るだけで、よく知られたヘブル語の本文の引用箇所を識別できるであろう。
第三項 ミノア語解読挑戦へ
①言語と文字を区別
エジプト語、楔形文字、エチオピア語、およびより親しみやすい諸文字を学んだおかげで、母音つきと母音なしの両方でテクストを読むこと、アルファベット文字とは異なる音節文字が何であるかを知ること、そして、なかんずく言語と文字を区別することを教えられた。
②別の文字システムで原文を表記
また、すなわちヘブル文字で書かれたアラビア語、そして、コプト語、すなわちギリシア文字で書かれたエジプト語にもふれた。
③ミノア語への挑戦
ミノア語に取り組もうという考えが、いつごろ私のうちに生起したのか、正確にはわからないが、それはおそらく私が大学院生であった時の考古学の読書かゼミナールの時間に起ったのであろう。
④考古学のフィールド・ワーカー
私は、エルサレムとバグダードの米国オリエント研究所から、考古学のフィールド・ワーカーとしての任命を受諾していた。
⑤ミノア語の諸碑文解読の夢
「この島で発掘されたミノア語の諸碑文は、明日の解読者たちにとって大きなチャレンジである。必要な知識を備えただれかが、熱意ある正直な仕事によって、ミノア語解読に成功するだろう。」
⑥常識人のことば
私は、その時、デーヴィスという中年のビジネスマンに侮辱され、沈黙せされた。
⑦25年のブランク
ただ、二五年後に私がその問題に積極的にかかわることになったことには、その背後に四半世紀間の沈思黙考の時があった事実を明らかにしたいからである。
⑧考古学に従事
私は、人生のちょうどよい時期に考古学に従事した。
⑨フィールド・ワークを体験
私は「汗とほこりの」考古学の現実をよく知るようになった。そして、オリジナルの粘土板や石板上に記された諸々の碑文を、時間をかけて読んだ。
⑩地理と気候を体験
自分が研究していた地域の気候と地理もリアルなものになった。私が担当した仕事は、イラク、パレスチナ、トランス・ヨルダン、およびエジプトにおいてであった。
⑪イランの遺跡見学
次の二年間は、イランで過ごした。そこで、ベヒスタン、ペルセポリス、パサルガデ、ナクシュエ・ルスタム等を含む西イランを見学する機会が与えられたのである。
⑫古代ギリシア人とヘブル人が正反対の民族という定説
学究生活にもどるやいなや、私は、もはや学問上の定説のあるものに平穏に対処することができないことに気づいた。それらの学説の一つは、古代ギリシア人とヘブル人が正反対の民族であると想定しているのであった。
第四項 ウガリト語研究からミノア語をセム語と措定するまで
①『ウガリト語文法』
一九四〇年に、私の著した『ウガリト語文法』が出版され、一九四七年には、その拡大、改訂された版が『ウガリト語便覧』という題で現れた。
②ヴェントリスとチャドウィックによる『ミュケーナイ・ギリシア語文書』の本
私が線文字Aの解読に積極的に参加しはじめたのは、一九五六年一二月で、ヴェントリスとチャドウィックによる『ミュケーナイ・ギリシア語文書』の本を入手した時であった。
③ピュロス人は、ミノア人文化を継承
この本の著者たちが指摘しているところによると、ピュロス出土の、壺と三脚壺についての準二言語併用目録は、ミュケーナイ期ギリシア人がその先住ミノア人から受け継いだ伝統に従って書かれていることである。
④ファイストスの壺の目録表
ファイストス近郊のハギア・トリアダ出土のある線文字A文書もまた、壺の目録表であって、壺の絵文字を伴う音節文字式の記述がなされているが、ヴェントリスとチャドウィクは、それに次のような注をつけている。「・・・この言語が異なることは明瞭である。」
⑤線文字Aと線文字Bは「文字は同じで言語が異なる」
この叙述は、線文字Aと線文字Bとが本質的に同じ文字であるが、他方、これらの容器名が既知のミュケーナイ容器名とは完全に異なっていることから、線文字Aと線文字Bとの言語がまったく相違していることを正しくも示唆している。
⑥セム語の容器/ファクト
その五つのミノア語容器名のうち三つがセム語のようである点である。
すなわち、su-pu および su-pa-la (この文字ではrとlが区別されていない点に注目すればこのようにも字訳することが可能である)はウガリト語にみられる、セム語の容器名、sp, krp-nおよびsplに類似しているのである。
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クレタ島のファイストスのハギア・トリアダ出土の線文字Aはウガリト語と同系の言語である証明。
ミノア語:ウガリト語
su-pu = sp
su-pa-la = spl
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⑦線文字Aの言語=セム系言語
この事実は、線文字Aの ku-ro が全体、総計を意味したという叙述と結びつく。私は即座にセム語 kull, “all” のことを思いおこした。
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ミノア語:ku-ro=セム語:kull 全体・総計
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⑧四つのセム語の単語
これら四つのセム語の単語は、ミノア語の性質を説明する可能性を提起している証拠資料であった。
⑨ミノア語がセム語であるかもしれない可能性を提起
そして、これらの四語に関する短い論文を書いて、ミノア語がセム語であるかもしれない可能性を、厳密に調べてみる価値があると結んだ。
第五項 東セム語から西セム語へカムバック
①クローフォード
私はO・G・S・クローフォードの編集する『古代学』という雑誌に掲載するためそれを送った。
②ハギア・トリアダ出土の一五〇枚の粘土板文書
線文字A文書の最大のコレクションは、ハギア・トリアダ出土の一五〇枚の粘土板文書である。
(線文字Aの解読の最大の障壁は、ファクトが圧倒的に少ないことである。
線文字Aの最大のファクトが、「ハギア・トリアダ出土の一五〇枚の粘土板文書」である。)
③東地中海沿岸からきたセム語方言
「線文字Aの言語は、東地中海沿岸からきたセム語方言である」という私の結論は、堅実なものであった。それは、今日にいたるまで訂正の必要がないままである。
④逆もどり
私のとった次のステップは、逆もどりであった。
⑤東セム語族へと転換が後戻り
この言語的確認を、西セム語族から東セム語族へと転換したことは、私の研究の前進を妨げたけれど、まったく停止させることにはならなかった。
⑥機械的な資料
一九六一年の終わりごろ、私は、W・C・プライスによる線文字A文書の新版を入手した。プライスは文献学者ではなく、そのような事柄への興味は、主として機械的であった。彼は整然とした仕事をするのをとりわけ好んだので、この本もそのようにした。
⑦西セム語=ミノア語のファクト
いまや ki-re-ya-tu は、「西」セム語の単語、qiryatu 「町、市」に対応する、完全なミノア語綴りである。
⑧ミノア語≠東セム語
東セム語では、まったく異なる語 alu が用いられているが、他方、ヘブル語、ウガリト語、アラム語、アラビア語のすべては、qiryatu の諸形態をとっている。
⑨敵陣営鞍替えのデイヴィスが『エテオ・クレータ碑文』に目を向ける
私の陣営を放棄してしまっていたディヴィスは、『ファイストス円盤とプシクロおよびプライソス出土のエテオ・クレータ碑文』というモノグラフを、ちょうど出版したばかりであった。
⑩ファイストス円盤からエテオ・クレータ文書への連続性
彼は、絵文字式のファイストス円盤から、ミノア語文書を経て、紀元前六〇〇年から三〇〇年に渡る、親しみのあるギリシア文字で記された(プライソスとプシクロ出土の)エテオ・クレータ文書にまで至る、ミノア語の連続性ということを正しくも示唆したのである。
⑪エテオ・クレータ文書
私は、ミノア語を東セム語と考えてアプローチしていた限り、エテオ・クレータ文書について何も推断することができなかった。
⑫西セム語仮説とエテオ・クレータ碑文
ミノア語を西セム語であると言語的に確認する立場に再びもどる道を見出してからは、私は、エテオ・クレータ碑文を新しい光のうちにおいて見た。
⑬プシクロのエテオ・クレータ碑文
石の上に刻まれた一つの重要なエテオ・クレータ碑文が、プシクロで発見された。
⑭ギリシア語アンシャル字体 EΠIΘI
その文書は、紀元前三〇〇年ごろのギリシア語アンシャル字体で書かれており、EΠIΘI (epithi)という語で始まっている。
⑮ミノア語音節文字がヘレニズム期まで生存!
この二文字併用式の碑文のおかげで、ミノア語音節文字が、キュプロス島のようにクレータ島でも、少なくとも一つの有名な古代ミノア文明の神殿の遺跡で、ヘレニズム時代に至るまで記憶されていたことがわかる。
⑯献呈定型文
最初の部分の定型句は、「・・・」で、それはフェニキア語の「・・・」に相当し、「この印刻された石を、私は献呈した」という意味である。
⑰ミノア人がフェニキア人であった証拠
こうしたことのすべては、ミノア人がフェニキア人であるという古代ギリシアの諸伝承と調和している。
(つまり、ミノア人は、エジプト人でもなく、ヘブライ人ではなく、ヒッタイト人でもなく、フェニキア人であることは明白である。)
⑱大多数のヘブライ人は子牛崇拝
イスラエルが、くり返し金の子牛の崇拝に陥っていったことは、ヘブル人が、ミノア期クレータにおけるように、雄牛と子牛の崇拝に特徴づけられた文化的ミリューから出てきたことを示している。
(一神教原理主義のヘブライ人が、ミノア人から生じたのではなく、ミノア人はフェニキア人から生じ、シリア・パレスティナに里帰り植民した時は、牡牛崇拝を持ったペリシテ人やアラム人と同化した。そこから、ヘブライ人は生じたが、大多数の平民は王家と同じくバアルとアシェラを崇拝していた。一握りのユダヤ教原理主義者のラビどもだけが排他的一神教であったのだ。ヘブライ人の多数は、カナン人(フェニキア人)であったという証拠である。)
第9稿 第八章 要約と展望
第八章 要約と展望
①ネロ帝は、ミノア人=フェニキア人を知っていた!
ネロの治世に、クノーソスで文学文書が発見されたという記述が存在する。ところで、ネロは、それらの文書がフェニキア語のものであると知り、セム語学者たちを召し寄せて翻訳させたのである。
②イタリアにフェニキア人とエトルリア人共存
このピュルギ文書のもたらしたもっとも興味深い結果は、ポエニー戦争のはるか以前から、イタリアにフェニキア人がいたという事実である。
本の内容
著者:C.H.ゴードン
訳者:津村俊夫
書名:「古代文字の謎ーオリエント諸語の解読ー」
原著:Forgotten Script
出版:株式会社 社会思想社
出版年月日:1968年
訳本:1979年
目次
はしがき
第一章 略号と暗号
第二章 エジプト語の解読
第三章 グローテフェントによる古代ペルシア語の解読
第四章 シュメール・アッカドの文化遺産の開花
第五章 楔形文字および象形文字のヒッタイト語
第六章 ウガリトーその解読と影響
第七章 エーゲ海音節文字
第八章 要約と展望
引用文
| 章 | 要約 | 本文 | 頁 |
|---|---|---|---|
| 4 | ローリンソン | 楔形文字文字学の開拓者のうち、高くそびえている「巨人」は、英国人ヘンリー・クレズウィック・ローリンソンである。 | 84 |
| 4 | ベヒスタン碑文 | ローリンソンの偉業は、・・・ベヒスタン碑文を新たに発見し、写し、解読したことにある。 | 85 |
| 4 | バビロニア語版/資料共有 | 古代ペルシア語版本文のためだけでなく、もっとも重要な版であるバビロニア語版の解読のためにも、それを用いたのである。さらに、彼は全資料を自分だけのものにしないで、他の人びとがその解読作業にたずさわれるようにもした。 | 85-88 |
| 4 | バビロニアとアッシリアの莫大な碑文研究上の宝物 | このバビロニア語版文書こそ、バビロニアとアッシリアの莫大な碑文研究上の宝物を明らかにしたのである。 | 91 |
| 4 | エラム語 | アケメネス朝の三言語併用文書中の第二番目はエラム語であるが、残念なことに、エラム語は、既知のいかなる言語にも関係がない。 | 93 |
| 4 | 古代ペルシア語版の翻訳 | しかし、エラム語版文書の意味内容は、その文書が三言語併用文献の古代ペルシア語版の翻訳であるためわかっている。 | 93 |
| 4 | エラム語=音節文字式 | エラム語版は、一一一の記号を使用していることから、その文字体系が音節文字式であることが確認された。 | 94 |
| 4 | エラム語音節文字記号の音価が確立 | 一八五三年にロンドンのエドウィン・ノリスによってなされたベヒスタン文書のエラム語版の出版を待たねばならなかった。これによって解読された名前の数は四〇から九〇に増加した。このようにして、エラム語音節文字記号のほとんどすべての音価が確立したのである。 | 94 |
| 4 | 西方イランのみに限定 | エラム語は、西方イラン以外では、決して重要なものにはならなかったのである。 | 94 |
| 4 | エラム語版の研究を放棄 | ローリンソンは、この事実をあらかじめ悟って、エラム語版の研究を放棄し、バビロニア語版文書に集中した。 | 95 |
| 4 | シュメール語 | シュメール語は、豊かなシュメール語資料ー二言語併用の諸文献および教科書を含むーの存在にもかかわらず、アッカド語学に遅れている。 | 121 |
| 4 | 既知の言語と近親関係がない | そのわけは、アッカド語がセム語であるのに対し、シュメール語は他のいかなる既知の言語とも近い関係にないからである。 | 121 |
| 4 | フランソワ・テューロー=ダンジャン | フランス人学者、フランソワ・テューロー=ダンジャンは、一九〇七年に、シュメール語の、王による単一言語諸文書の翻訳をひじょうに正確に行おうと尽力したので、その結果、将来のすべての研究に対する基礎を築くことになった。 | 121 |
| 4 | フルリ人 | 紀元前二〇〇〇年紀期全体を通じて、アッカド語圏で重要な民族はフルリ人であった。 | 122 |
| 4 | フルリ語 | ミタンニ国王トゥシュラッタは、アメノフィス三世に対して、バビロニア語の手紙のほかに、フルリ語によるとても長い手紙を書いた。 | 122 |
| 4 | すべての言語に無関係 | フルリ語の解読がゆっくりで不完全であるのは、その言語が、セム語、印欧語、シュメール語および事実上の他のすべての言語に無関係であるという、風変りな婚姻関係のためである。 | 123 |
| 5 | 章目次 | 第5章 楔形文字および象形文字のヒッタイト語 | 127 |
| 5 | ヒッタイト語=最古の印欧語 | ヒッタイト語は、記録された最古の印欧語であり、サンスクリット語、ギリシア語、ラテン語、英語等のヨーロッパの既知のほとんどの言語と婚姻関係がある。 | 128 |
| 5 | ボアズキョイ発掘 | ヴィンクラーは、一九〇六年から一九〇八年にかけて、ボガズケイでの主要な発掘作業を指揮した。そいて、王の公文書保管所を発掘し、一万点以上の粘土板文書をみつけた。 | 132-133 |
| 5 | ヒッタイト語 ルウィ語 パラー語 | いくつかの粘土板文書は、標準的ヒッタイト語の他に「ルヴィ語」と「パラー語」と呼ばれる同語族の方言で記された引用文を含んでいた。 | 133 |
| 5 | ハッティ語 | さらに「ハッティ語」として知られる、婚姻関係のない言語の存在が明らかにされた。 | 133 |
| 5 | キリキアのカラテペ碑文 | 第二次世界大戦後に、キリキアのカラテペから出土したフェニキア語と象形文字ヒッタイト語の偉大な二言語併用文書が、ボッセルトの目にとまった。 | 144 |
| 5 | アザティワダ王/前8世紀 | カラテペでは、アジタワッドという王が紀元前八世紀の終わりごろ支配していた。彼は自分の宮殿を建て、それを浮彫り細工や碑文等によって装飾した。それらの碑文は、自分のなしとげた事柄を語っているのである。 (ここでアジタワッドと訳されている王は、一般的に「アザティワダ」王である。 アダナの地(キリキア)の領主で、「モプソス家」の「アザティワダ」である。ギリシア神話でモプソスに投影されていることは十分想定される。 テーバイ帝室の母マントーがフェニキア語話者で、コロポンの王とされる父親のラキオス王がルウィ語話者であった人の投影であろう。 要は、ここは、ギリシアから移住したフェニキア語話者とジモティーのルウィ語話者の都市国家であったということだろう。) | 144 |
| 5 | 最長のフェニキア語碑文 | 次にあげる、フェニキア語版の翻訳によって、カラテペ・テクストの語彙、文体、長さ等がどのようなものであるかがかわろうー。 | 145 |
| 5 | バアルの僕 | 「私はアジタワッド、バァルの神に祝福されたもの、バァルの僕、ダヌナ人たちの王であるアワルクが王の位にひきあげた者。 | 145 |
| 5 | ダヌナ人の王アワルク | ダヌナ人たちの王であるアワルクが王の位にひきあげた者。 | 145 |
| 5 | ダヌナ人の父母 | バァルは、私をダヌナ人たちにとって父また母とした。 | 145 |
| 5 | アダナ征服 | 私は、ダヌナ人たちをふるい起こし、「アダナの平地」の国を、太陽の昇ことろから沈むところにまで、拡大した。 | 145 |
| 5 | 豊穣の重視 | 私の時代に、ダヌナ人たちは、あらゆるよいもの、豊かさ、およびよきことを得た。 | 145 |
| 5 | アワリクの子孫につかえた | 私は、私の支配の家を、徳をもって建て、私の主人の子孫のため善を行なった。 | 145 |
| 5 | ダヌナ人に推戴されアワリク家の王座を継承 | そして、私は彼の父の王座につき、あらゆる王と和睦した。そして、あらゆる王は、私の義と知恵と心の善良さとのゆえに、私を父とまでも、見做した。 | 145-146 |
| 5 | モプソス家国境警備 | そして私は、国境のあらゆる前哨地点、すなわち、モプシュ家に何の役にも立たなかった悪漢どもが隊を組んで存在していた地に、強力な城壁を造った。 | 146 |
| 5 | 先住の海賊民を平定 | 私、アジタワッドは、彼らを足の下にふみつけ、それらの地に、ダヌナ人たちが心安らかに住むべく居留地を設立した。 | 146 |
| 5 | 西方の海賊民を平定 | そして、私より前の王たちがだれも征服したことのなかった、西方の強力な国々を従属させた。 | 146 |
| 5 | リュキア、カリアの征服 | しかし、私、アジタワッドは、彼らを、東方の、私の国境のさいはてに連れていき、そこに定住させることによって、彼らを従属させたのである。そして、私は、そのところに、ダヌナ人たちを定住させた。 (西方のアヒヤワ(アカイア)人の末裔で、さんざん、海賊行為を働いて二つの沈没船を沈没させたであろうものたちを、東の国境の外に強制移住させ、アナトリア西部には、ダヌナ人(クレタ島を平和的に征服したテーバイ帝室の子孫、後にギリシア神話でアテーナイ捏造班はダナオイ人の名で名称簒奪した)テーバイ人×テッサリア人が、リュキア、カリア地方に植民した。ここに同族のヘーラクレイダイが植民し、リュキア、カリアはラケダイモーン系の植民地となっていく。) | 146 |
| 5 | 女性が安心して外出できる治安に | ー以前、恐れられた地であり、男が道路を歩くのを恐れたようなところ、しかし、私の時代には、バァルと神々の恵みにより、女が手に錘をもって散歩することができたところでーじつに、私の全時代に、ダヌナ人たちと全「アダナの平地」とに対して、豊かさとよきこととよき生活と心の安らぎとが存在した。 (キリキアは、性悪のウラの証人が、ウガリト人を苦しめた土地であり、海賊となって、キュプロスとフェニキアの交易船を襲撃した土地であり、おそらく陸地でも追剥が横行した土地であったのだろう。 男女平等のテーバイ帝室は、女性が安心して外出できる平和で豊かな治安のいい統治をめざした。) | 146 |
| 5 | アジタワッディイ | 私はこの町を建て、その名を、アジタワッディイと呼んだ。 (アジタワッディイはカラテペ遺跡の当時の名前である。) | 146 |
| 5 | 「雄じかのレシェフ」 | なぜなら、バァルと「雄じかのレシェフ」とが私をつかわしてそれを建てさせ、バァルと「雄じかのレシェフ」の恵みにより、「アダナの平地」と「モプシュ家」にとっての砦になるよう、豊かさとよきこととよき生活と心のやすらぎによって、建てたからである。 (「雄じかのレシェフ」とは、アナトリアで、メソポタミアのネルガル=疫病神と習合された「雄じか」をトーテムとする神であろう。インド・ヨーロッパ語族の神レシェフは、セム語系コーカソイドのネルガルと習合されたようだ。バァルはヘーラクレースの豊穣神の面を、レシェフ=ネルガルはヘーラクレースの疫癘神の面を代表しているようだ。牡鹿のトーテムは、スキュタイなどモンゴロイドと習合しながら東遷して列島に至る遊牧民に受け継がれていったようである。) | 146 |
| 5 | 建材の再利用が横行 | アジタワッドが創ったこの門をとり去り、それを変な門のために再利用して、その上に彼の名前をつけたりするものがいるならば、 (南のジンジルリ(サムアルの首都)の宮殿も、ヒッタイト帝国の石を再利用していた。当時の新ヒッタイトの諸都市国家が、このような再利用をやっていたファクトである。) | 147 |
| 5 | バアルとエル | その時こそ、願わくば、「天のバァル」と「地の創造者エール」そして、「永遠の太陽」と「神々の全一族」とが、その君主、その王、その名高い人を、抹消されんことを!」 (おそらく強大なアッシリアを想定していたのであろうか。いずれ、アッシリアの強大な国に征服され、建材を再利用される予感があったのであろう。) | 147 |
| 5 | フェニキア人/前2千年紀から地中海支配 | フェニキア人の存在は、紀元前二〇〇〇年期および一〇〇〇年期を通じて、地中海で重要な要因であった。 (ジモティーのルウィ語とフェニキア語の二言語碑文を創ったアダナの領主アジタワッドと訳されている王は、一般的に「アザティワダ」と呼ばれる。 フェニキア系とヒッタイト系の混血であろう。) | 148 |
| 5 | ピュルギのフェニキア語/エトルリア語碑文 | 一九六四年の夏、フェニキア語とエトルリア語で書かれた黄金の碑文が、ローマの北西五〇キロメートルほどの、イタリアの海岸にあるピュルギで発見された。ピュルギでのこと発見は、エトルリア語の解読を推進するために貴重な宝である。 | 148 |
| 5 | フェニキア人イタリアに存在/前5世紀までも | イタリアに、紀元前五世紀の初め、フェニキア人とエトルリア人が共存していたということ自体がひじょうに興味深い。 フェニキア人が早くからイタリアの土壌に存在していたということは、いまや本当らしい。彼らはそこで、エトルリア人に直接の影響を(そして、順次にエトルリア人がローマ文化においおい貢献した)与えただけでなく、ローマ人自身にも、この点については、直接影響を与えたのである。 | 148 |
| 6 | 章目次 | 第六章 ウガリトーその解読と影響 | 149 |
| 6 | 1年で解読! | しかし、ウガリト語の場合は、このパターンに添っていない。 まったく未知の文字で書かれたその文献は、一九ニ九年にはじめて発見され、翌一九三〇年には、解読が達成されていたのである。 | 150 |
| 6 | ウガリトの墓は「ミュケーネ式」! | これは考古学者が「ミュケーネ式」と叙述する墓の一部であった。その地域はセム人の地域であり、ウガリトは北フェニキアに位置していたので、このミュケーネ式構造は、紀元前一四〇〇年~一二〇〇年ごろ、後期青銅器時代の後半にフェニキア人とエーゲ海の民との結びつきがあったことを示す諸発見がなされるという徴候を示すものであった。 (これは、「ミュケーナイ人」と考古学者が呼ぶ、「前1200年のカタストロフ」以前にギリシア本土を制覇していた人々が、セム系起源のテーバイ帝室系であり、エーゲ海を制覇し、フェニキア地方と前2000年紀より継続的に交易連携していたことの証拠である。) | 151 |
| 6 | 1929年からフランス隊の発掘 | 一九ニ九年、当時シリアを支配していたフランス人たちによって、ウガリトの発掘がはじめられた。 | 151 |
| 6 | ウガリト文字粘土板発見 | 発掘者たちはすぐに、一部がアッカド語文字で、他の一部が新しい未知の文字で書かれている楔形文字粘土板諸文書を発見した。 | 151 |
| 6 | シャルル・ヴィロロー | それらの粘土板は、出版のために、著名なアッシリア学者シャルル・ヴィロローにひき渡された。 | 151 |
| 6 | 発見同年に雑誌『シリア』に発表! | 彼は、この新しいウガリト文字で書かれた粘土板の最初の四八枚を、一九ニ九年、すなわち、発見と同じ年に、雑誌『シリア』に発表したのである。 | 151 |
| 6 | ヴィロローの性格と能力の賜物 | ウガリト学の進展は、主として、ヴィロローの性格と能力とに依っている。彼は、その一次資料の出版を敏速に準備した。 | 151 |
| 6 | 製図工精巧なコピー | ヴイロローは、その学識に加えて、製図工の腕前に必要な鋭い眼と精巧な手とを賦与されていたので、彼のコピーは精確さと明確さの模範であった。 | 151 |
| 6 | 解読のための基礎を敷く | 一九ニ九年の論文によって、ヴィロローは、一次資料をすべての人の手にわたして、解読のために使用できるようにしただけでなく、いくつかの正しい観察をすることにより、解読のための基礎を敷いた。 | 152 |
| 6 | アルファベット/分離記号/アブシャドを発見 | 彼は、その文字が左から右へ書かれていること、その記号数が少ない(三〇以下)ことはアルファベット以外を意味しないこと、小さな縦のくさびは語と語を分離するのに役立っていること、語が短いことは母音がまったく、または、ほとんど示されていないこと等を認めたのである。 | 152 |
| 6 | ハンス・バウアー | ドイツのセム語学者、ハンス・バウアーは、即座にウガリト語の解読に専念し、速やかに決定的な結果を得た。彼は、第一次世界大戦中は暗号分析者であった。 | 152 |
| 6 | laはtoを意味 | to(~へ)という意味の単一子音の語は、l でなければならなかった。なぜなら、la は、すべての北西セム語で to を意味するからである。 | 153 |
| 6 | バアルを解読 | それは北西セム語の接頭辞b「~に」(in)にぴったりと合った。こうして、今や、バウアーは、一般的なカナンの神 bcl (Baal)「バァル」の名前を探求することができた。 | 153 |
| 6 | 「ウガリト学の父」 | ヴィロローは、ちょうど、ローリンソンが「アッシリア学の父」であることにだれも異論を唱えないように、まさに「ウガリト学の父」であった。 | 156 |
| 6 | 全記号に対応する正しい音価 | 一九三一年号の雑誌『シリア』に発表されたウガリト語の解読に関する論文の土台となっている。この『シリア』の論文で、ヴィロローは、アルファベットの、ほとんどすべての記号に対応する正しい音価に、ほぼ達していた。 | 156 |
| 6 | ゴードン自身の着手 | 私がはじめてウガリト語とかかわりを持ったのは、一九三五年のことで、解読が「既成の事実」となった後のことであった。 | 157 |
| 6 | 「天」(smm)、「肥沃」(smn)「地」(ars) | ウガリト語は、解読の当初から、ヘブル語とフェニキア語に近い関係があることが認められていた。 「天」(smm)、「肥沃」(smn)、および「地」(ars)を表すヘブル語とウガリト語とは、その子音の輪郭が同じである。 | 158-159 |
| 6 | ヘブル語聖書にウガリト文学の影響 | ヘブル語聖書のうちには、ウガリト語の表現と並行的であるものが何百と見出されているが、そのことによって、旧約聖書学の研究に大革命が起きている。 | 159 |
| 6 | カナン人から借用 | ヘブル人たちが、自らの言語や文学形式を発明したのではないことは一目瞭然であった。彼らは、それらをより古いカナンの原住民から受け継いだのである。 | 159 |
| 7 | 章目次 | 第七章 エーゲ海音節文字 | 163 |
| 7 | 「ミノア文書」 | ヨーロッパの土壌で書かれたいちばん古い碑文文書は、クレータ島からのもので、一般には「ミノア文書」と呼ばれている。 | 164 |
| 7 | 絵文字「クレータ象形文字」 | この文字は、絵文字としてはじまったので、時には「クレータ象形文字」と呼ばれたりする。 | 164 |
| 7 | ファイストス円盤 | いちばん絵文字的な碑文は、かなり特異なファイストス円盤であって、・・・ | 164 |
| 7 | ミノア語とミュケーナイ語に使用 | ミノアの書記体系(文字)は、少なくとも二つの、まったく異なった言語に用いられた。すなわち、ミノア語とミュケーナイ語である。 | 164 |
| 7 | 「線文字A」 「線文字B」 | ミノア文書の文字は、「線文字A」、ミュケーナイ文書の方は、「線文字B」と呼ばれた。 | 164 |
| 7 | ミュケーナイ人はエヴァンズの確立した用語 | こられは、クノーソスで、二種類の文書史料を発見した最初の人、アーサー・エヴァンズによって確立された用語である。 (ミュケーナイ文明、ミュケーナイ人、ミュケーナイ土器などの呼称で、「前一二〇〇年のカタストロフ」以前のギリシア本土の統治者を「ミュケーナイ」で代表させるのは、エヴァンズの確立した用語である。「テーバイ」の方がより妥当と思われる。たしかに、テーバイ帝室は、テーバイーアルゴス=ミュケーナイーアーミュクラス・ピュロスを支配し、全盛期は、首都がアルゴス(ミュケーナイ)地方に置いていたと想定され、その主神はヘーラーであったが。) | 164 |
| 7 | エーゲ海全域へ | しかし、その書記体系は、クレータ島から、東地中海の他の地域に広まった。 | 164 |
| 7 | ピュロスとミュケーナイ | ミュケーナイ文書は、ギリシア半島、とくに、ピュロスとミュケーナイで発見された。 | 164 |
| 7 | エンコミとキュプロスでも発見 | この書記体系から派生した形は、後期青銅器時代以降のエンコミとキュプロスで、ポルヒュリオス・ディカイオスによって発見されている。 | 164 |
| 7 | 音節文字式 | その書記体系は、音節文字式であり、各記号は、子音プラス母音を表わしている。 | 164 |
| 7 | 純粋に音声的 | あとで論じる、線文字Aと線文字Bで書かれた経済および行政文書の場合は別として、この体系は、純粋に音声的なもので、表意文字や限定符号等は使用していない。 | 164-166 |
| 7 | 語分割記号 | 唯一の非音声的な記号は、語分割記号であって、それは、いかなる解読の場合にも、たいへん有効である。 | 166 |
| 7 | 線文字Bの長い使用 | この文字体系は、東地中海文化にひじょうに深く根を下ろしていたので、クレータ島や、とくにキュプロス島では、ヘレニズム時代にいたるまで生き残り、アルファベット文字とともに使用されたのである。 | 166 |
| 7 | キュプロス音節文字 | 一八六九年に、フェニキア語とキュプロス語による二言語併用碑文が発見されるまでは、意気盛んな開拓者たキュプロス音節文字を解読するための土台は存在しなかった。 | 166 |
| 7 | イダリオンとキティオンの王ミルキヤトン | フェニキア語文献の方は、完全ではないがそのほとんど全部は、同じ君主、イダリオンとキティオンの王ミルキヤトンによって書かれた他の諸碑文にもとづいて、再生することができる。 | 166 |
| 7 | キティオンとイダリオンの王、ミルキヤトンの治世 | 「キティオンとイダリオンの王、ミルキヤトンの治世の第四の年の?日に。 | 167 |
| 7 | アブディミルクの子バアルロム | これはアブディミルクの子、われらの主バアルロムが、彼の神、レシェフ=ムクルのために与え、設立した彫像である。 | 167 |
| 7 | レシェフ=ムクル | 彼の神、レシェフ=ムクルのために与え、設立した彫像である。 | 167 |
| 7 | ミルキヤトン | 王ミルキヤトンがキティオンとイダリオンを治めていた世の第四年の、五日間の最後の日に、 | 168 |
| 7 | バアルロム | アブディミルクの子、君主バアルロムは、 | 168 |
| 7 | アミュクライのアポロ | この彫像を、アミュクライのアポロのために、設立した。 (つまり、フェニキア語の「ムクル」は、キュプロス島に影響を及ぼしたテーバイ帝室のラケダイモーンの「アミュクライ」を指す地名である。 フェニキア語の新ヒッタイトの神レシェフは、ギリシア人のこの時代のアポロと習合している。 レシェフ=ネルガル=ヘーラクレース=アポロンである。) | 168 |
| 7 | ジョージ・スミスが解読 | この二言語併用文献を根拠にして、一八七二年にキュプロス文字を解読したのは、アッシリア学者のジョージ・スミスであった。 | 168 |
| 7 | Mlkytn(ミルキヤトン)Kty(キティオン)、dyl(イダリオン) | スミスは、フェニキア語で、Mlkytn(ミルキヤトン)Kty(キティオン)、dyl(イダリオン)と表記されている三つの名前に対応する、キュプロス語の綴を捜し求めた。 | 168 |
| 7 | フェニキア語版キュプロス語版 | (王 バシレイオス)bsntrb3 /pa-si-le-wo-se (ミルキヤトン)mlkytn /mi-li-ki-ya-to-no-se (キティオンとイダリオンの王) kty w ‘dyl sml / ke-ti-o-ne ka-e-ta-li-o-ne (レシェフ=ムクル)lrsp mkl (アミュクライのアポロ)a-po-lo-ni to a-mu-ko-lo-i ******************** フェニキア語は、「音素文字」であり、 キュプロス語は、「音節文字」であることがわかる。 キュプロス語は、ギリシア語を表記しているが、まるで日本語のように、子音+母音で1音節を表わし、発音されるため、2倍の時間がかかる。まるで「日本語」。日本人が英語を上達できない理由の一つがコレであろう。 一方、フェニキア語は、「音素文字」で、子音1つで発音される。 ①音素文字/音節文字 ②フェニキア語/ギリシア語 ③印欧語系/セム系 という違いが歴然。 クレタ島とキュプロス島の原住民は、音節文字言語であったことがわかる。 フェニキア語のbは、キュプロス語ではpである。 メソポタミア語で、ハンムラビが、後年ウガリト語の時代ハンムラピとなっているように、時代で濁音が清音化している。 | 166-167 |
| 7 | 既知のファクトと比較 | スミスは次のように自問した。「王という語の主格形と属格形で、最後から二番目の音節がたがいに異なるのは、既知の言語のうちどの言語においてであろうか。」 | 169 |
| 7 | 仮説を立てる | 彼は、それがギリシア語であると決定を下した。 | 169 |
| 7 | 立てる | ギリシア語では、「王」の主格はbasileusであるが、属格はbasileosである。 | 169 |
| 7 | キュプロス文字=ギリシア語を確認 | 彼の分析に弱点があったにもかかわらず、スミスは、その言語の正しい言語確認ーギリシア語ーを成しとげた。 | 169 |
| 7 | 18音価を確立 | スミスが確立した一八の音価は、きわめてありそうな成果であって、それによって種々のキュプロス碑文のなかのギリシア語名がかなり正確に読解されていった。 | 170 |
| 7 | ギリシア語の知識が脆弱で限界 | 彼のギリシア語の知識が限られていたため、彼は、自分の解読を厳正なものにしていくことができなかった。 | 170 |
| 7 | 古典ギリシア語の訓練を受けた人びと | 彼の仕事は、古典ギリシア語の訓練を受けた人びとによって続行された。 | 170 |
| 7 | キュプロス・ギリシア語碑文の専門家 | 現在では、キュプロス・ギリシア語碑文の専門家として、T・B・ミットフォードやオリヴィエ・マッソン等が活躍している。 | 170 |
| 7 | マッソンによる『キュプロス音節文字碑文』 | 本文の標準版は、マッソンによる『キュプロス音節文字碑文』である。 | 170 |
| 7 | 一つのファクトから出発 | また、ただ一つの語(「王」)を根拠にして、その言語をギリシア語であると言語的に確認したのであった。 開拓者というものは、どこかからスタートしなければならない。 | 170 |
| 7 | フェニキア語とギリシア語の二言語 | ヘレニズム時代に至るまで、キュプロス島の諸碑文は、フェニキア語とギリシア語の二言語で記されている。 | 171 |
| 7 | キュプロス音節文字→ギリシア文字へ | ギリシア語のテクストは、時にはギリシア文字で、時にはキュプロス音節文字で表記されている。フェニキア語碑文には、もちろんフェニキア語アルファベットが用いられている。 | 171 |
| 7 | 非ギリシア語碑文 | また、音節文字で書かれた、非ギリシア語碑文も存在する。 | 171 |
| 7 | エテオ・キュプロス碑文 | したがって、ギリシア語のキュプロス音節文字碑文と同時代の、エテオ・キュプロス碑文(キュプロス出土の非ギリシア語音節文字テクストがそう呼ばれている)が、フェニキア語であると、ニ、三の学者が考えてきたのも不思議ではない。 ***************** つまり、キュプロス島の原住民は、三段階でフェニキア語話者によって移住されたと想定 ①非ギリシア語の先住民を制覇したフェニキア語話者(カドモス)の一次植民) ②「前一二〇〇年のカタストロフ」で、クレタ島から移住した「ミュケーナイ人」=テーバイ帝室系。フェニキア語話者であり、ギリシア先住民に線文字Bを与え、クレタ人(線文字A)を征服し、キュプロス島を橋頭堡に、ペリシテ人となって里帰り植民した。 ③ヒラムの派兵からプマイヤトンの都市建設と完全制覇。 したがって、②の植民は、アカイア人ではない。フェニキア語話者でないからだ。 「前一二〇〇年のカタストロフ」以前のギリシア人を「ミュケーナイ人」と呼ぶなら、ミュケーナイ人はアカイア人でなくアルゴス人(もっと正確にはテーバイ人=テーバイ帝室)と呼ぶべきである。 古典期のギリシア人がキュプロス島に来たのは、まさに古典期以降であろう。 キュプロス島に、ギリシア語を伝えたのは、前1830年のカールム・カネシュの焼き討ちによって、印欧語族のヒッタイト人の先祖アラッタらを避けて、テュロスから来たフェニキア人のカドモス隊に率いられてギリシア本土に移住し、前2000年頃陸路南下した原ギリシア人=第一次テッサリア人を文明化したテーバイ帝室が、クレタ島を平和的制圧したのち、上陸した時であろう。 | 171 |
| 7 | アマトゥス二言語併用碑文 | 紀元前四世紀の、エテオ・キュプロス語とギリシア語アッティカ方言とで記された、アマトゥス二言語併用碑文は次のとおりである。 | 172 |
| 7 | エテオ・キュプロス語版テクスト | (この町は)a-na ma-to-ri / he polis (このアリストン、このアリストナクスの子) a-ri-si-to-no-se a-ra-to-wa-na-ka-so-ko-o-se / Aristona Aristonaktos | 172 |
| 7 | エテオ・キュプロス語がギリシア語と同じ音価が証明 | この二言語併用文献によって、エテオ・キュプロス本文の文字記号が、キュプロス・ギリシア語本文での音価と同じものをもっていることが証明される。 | 173 |
| 7 | エテオ・キュプロス語はギリシア語の証明例 | なぜならば、a-ri-si-to-no-se は、ギリシア語本文の人名Aristonを表わしているからである。 | 173 |
| 7 | エテオ・キュプロス語はギリシア語の証明例 | 同じことが、アリストンの父親の名前、Aristonaxの場合にもあてはまる。もっとも、エテオ・キュプロス本文は、方言的な変形Artowana(a-ra-to-wa-na-ka-so-ka-so)を使用しているけれども。 | 173 |
| 7 | セム語の語法の指示代名詞 | セム語の語法に従って、エテオ・キュプロス本文の人名は、指示代名詞を伴っている。 | 173 |
| 7 | 接尾辞(-ose/-kose)=これ | これらの代名詞は、接尾辞(-ose または -kose 「これ」)であるが、 | 173 |
| 7 | 接頭辞(sa-na)=この | 同時に、接頭辞の代名詞も用いたと思われる。 sa-na a-ri-si-to-no-se a-ra-to-wa-na-ka-so-ko-o-se this Arisuton this Artowanax | 173 |
| 7 | 音節文字が深くキュプロス文化に浸透 | 西方セム人たちとギリシア人たちの両者が、アルファベットの導入、普及がなされた後だいぶたったヘレニズム時代に至るまで、古い音節文字を使用していたというこの事実は、その音節文字が、キュプロス文化のなかに深く根を下ろしていたことを物語っている。 | 174 |
| 7 | エンコミ発見のキュプロス・ミノア文書との関連 | エンコミでポルヒュリオス・ディカイオスが発見した後期青銅器時代(紀元前一二〇〇年前の少し前)のキュプロス・ミノア文書と、エテオ・キュプロス文書との間に何らかの関連があるかもしれないと学者たちは思いいたった。 | 174 |
| 7 | エンコミ粘土板文書と500年の隔たり | エンコミ粘土板文書とエテオ・キュプロス文書とは、五〇〇年以上もの年代上のへだたりがあるので、いずれにしても形態面のかなりの変化が考えられる。 | 174 |
| 7 | エーゲ海=音節文字の本場 | エーゲ海は、中期青銅器時代以来、音節文字の本場であった。 | 175 |
| 7 | アーサー・エヴァンズ | ミノア文明を発掘した人物は、アーサー・エヴァンズであった。 | 175 |
| 7 | 線文字Aと線文字Bの命名 | そして、そこで、彼が線文字Aと線文字Bと呼ぶことにした、二つの主要な部分に分類される諸文書を発見したのである。 | 176 |
| 7 | キュプロス音節文字のギリシア語と思われる2文字発見 | エヴァンズは、ある線文字B文書のなかに、キュプロス音節文字によればpo-loと読めそうな二文字を見出した。 | 176 |
| 7 | 仮説と矛盾したため排除 | しかし、彼は、そのことが彼の仮説、すなわち、線文字Bはミノア語であって非ギリシア語である、という考えに合致しなかったために、それを偶然の一致であるとして退けたのである。 | 176 |
| 7 | ピュロスで多数の線文字B文書発見 | 線文字A文書とは異なる線文字B文書は、まもなく、まったくのギリシア語であると判明した。一九三九年、カール・ブレーゲンが、ピュロスで多くの線文字B文書を発見したが、その時、クノーソス出土の線文字B文書には、クノーソスの町がギリシア本土の人たちに征服されたことが反映しているとわかった。 | 178 |
| 7 | ミュケーナイ等でも発見 | (後になって、ミュケーナイ等で、さらに多くの線文字B文書が発掘されたことによって、このことが確認された。) | 178 |
| 7 | エヴァンズ自己の仮説に固執 | しかし、エヴァンズは、自分のお気に入りの仮説に反対する、いかなる証拠が示唆することをも直視しようとしなかった。 | 178 |
| 7 | 公刊をひかえる | エヴァンズは、だれも自分より先にその解読が確実に行えないようにするために、クノーソス粘土板文書の公刊をほとんどひかえた。 | 178 |
| 7 | エヴァンズの死/1941年 | したがって、一九四一年の彼の死が、前進のために必要な前奏曲となった。 | 178 |
| 7 | 「グリッド・システム」 | 相似する屈折形の組を一列に整列させる方法によって、諸記号をチャートにすることができるが、それによると、同じ子音で始まるものが、同じ縦の列にあり、他方、同じ母音で終わるものが、同じ横の列に現れる。このようなチャートは、時には「グリッド」と呼ばれ、これを確立する方法は「グリッド・システム」と呼ばれている。 | 180 |
| 7 | ヴェントリス | 天賦の才のある、若き英国人建築家、マイクル・ヴェントリスは、・・・けっきょくのところギリシア語であるかもしれないという可能性を、まじめに考えたのであった。 | 181 |
| 7 | 線文字Aの解読の物語 | したがって、次に私が、私自らの線文字Aの解読の物語について記述することには、何らかのメリットがあるかもしれないであろう。 | 190 |
| 7 | 私の父ベンジャミン・L・ゴードン | 私の物語は、私の家庭より始まる。私の父ベンジャミン・L・ゴードンは、リスアニアのタルムードの専門学校で初期の教育をうけた。 | 191 |
| 7 | ヘブル語本文とアラム語ラビ文書のテキスト | カリキュラムは、ヘブル語本文とアラム語ラビ文書のテキストに限られていた。 | 191 |
| 7 | アメリカ合衆国移住 | 私の父は、一八八〇年代の終わりに、ほぼ二〇才であった時にアメリカに来た。そして、英語と、当時合衆国の専門学校に入るために必要であった他の科目すべてを学んでから、医学教育をうけ、一八九六年に、フィラデルフィアにあるジェファーソン医科大学を卒業し、医者となった。 | 191 |
| 7 | 私自身の外国語の学び | 私自身の外国語の学びは、五才の時に、聖書のヘブル語で始まった。 | 192 |
| 7 | 諸外国語マスター | 高校の時、私は数学を専攻した。それと同時に、ヘブル語とアラム語を課外にひき続いて学び、ラテン語とドイツ語とを勉強した。ペンシルヴァニア大学では、これらの言語を継続して学びながら、さらにギリシア語、スウェーデン語およびアラビア語の勉強をした。 | 192 |
| 7 | 最初の20Pを確実に勉強 | だれでも、もし、どんな本でも最初の二〇ページに出てくる、すべての単語を辞書で調べ、暗記し、文法についてのあらゆる項目を理解することに労力をおしまないならば、その本の残りの部分は、ほとんど辞書の必要もなく読了することができる。 | 192-193 |
| 7 | マーゴリス | 私は、若干一八才の時に、マーゴリスの下で学び始めた。彼の口ぎたない言葉に憤慨するより、その学識をもっとまねたいと思った。 | 197 |
| 7 | 罵られた後に 彼にたずねた。 | 彼のヘブル語の引用を言い当てることができなかったために、数回クラスで罵られた後に、私はある日のクラスのあと、どうしたらヘブル語本文に深く精通することができるだろうかと彼にたずねた。 | 197-198 |
| 7 | 具体的原文を多数読む/ファクトに当る | 彼は、私に、毎日、時間のゆるす限りできるだけ多くのヘブル語聖書を読み、創世記一章一節からはじめて旧約聖書の終わりまで通読するように告げた。 | 198 |
| 7 | 辞書とかコンコールダンス等排除 | 彼は、辞書とかコンコールダンス等の参考書に依存したようなたぐいの学問をしなかった。 | 198 |
| 7 | 知識の核を頭の中に持つ | そのような本が占めるべき場所(彼の図書室には、それらがあった)があるが、熟達者というものは、自分の専門分野の基礎的な知識を頭の中に持っていなければならなのである。 | 198 |
| 7 | 核だけ暗記 | 「食糧品店で、一片のパンを買うとき、店員に、『銀行に金があるんだが』とは言わないだろう。・・・どんな学者も、コンコールダンスや索引で調べることができるからといって、基礎的な資料を暗記して知っている必要がないと考えてはならない。」 | 198 |
| 7 | 子音の骨組から母音がひらめく | ヘブル語では(そして、古代フェニキア語諸碑文ではなおさらであるが)、子音の骨組だけが書き記されることがある。 | 200 |
| 7 | 母音を文脈から決定 | したがって、読者は、いわば ‘dg’ が ‘dog’ なのか ‘dig’ なのか、コンテクスト(文脈)から決定しなければならない。 | 200 |
| 7 | 子音の組み合わせで識別する能力 | 熟練したセム語学者であれば、子音の組み合わせを見るだけで、よく知られたヘブル語の本文の引用箇所を識別できるであろう。 | 200 |
| 7 | 言語と文字を区別 | エジプト語、楔形文字、エチオピア語、およびより親しみやすい諸文字を学んだおかげで、母音つきと母音なしの両方でテクストを読むこと、アルファベット文字とは異なる音節文字が何であるかを知ること、そして、なかんずく言語と文字を区別することを教えられた。 | 201 |
| 7 | 別の文字システムで原文を表記 | また、すなわちヘブル文字で書かれたアラビア語、そして、コプト語、すなわちギリシア文字で書かれたエジプト語にもふれた。 | 201 |
| 7 | ミノア語への挑戦 | ミノア語に取り組もうという考えが、いつごろ私のうちに生起したのか、正確にはわからないが、それはおそらく私が大学院生であった時の考古学の読書かゼミナールの時間に起ったのであろう。 | 202 |
| 7 | 考古学のフィールド・ワーカー | 私は、エルサレムとバグダードの米国オリエント研究所から、考古学のフィールド・ワーカーとしての任命を受諾していた。 | 202-203 |
| 7 | ミノア語の諸碑文解読の夢 | 「この島で発掘されたミノア語の諸碑文は、明日の解読者たちにとって大きなチャレンジである。必要な知識を備えただれかが、熱意ある正直な仕事によって、ミノア語解読に成功するだろう。」 | 203 |
| 7 | 常識人のことば | 私は、その時、デーヴィスという中年のビジネスマンに侮辱され、沈黙せされた。 | 203 |
| 7 | 25年のブランク | ただ、二五年後に私がその問題に積極的にかかわることになったことには、その背後に四半世紀間の沈思黙考の時があった事実を明らかにしたいからである。 | 203 |
| 7 | 考古学に従事 | 私は、人生のちょうどよい時期に考古学に従事した。 | 203 |
| 7 | フィールド・ワークを体験 | 私は「汗とほこりの」考古学の現実をよく知るようになった。そして、オリジナルの粘土板や石板上に記された諸々の碑文を、時間をかけて読んだ。 | 203 |
| 7 | 地理と気候を体験 | 自分が研究していた地域の気候と地理もリアルなものになった。私が担当した仕事は、イラク、パレスチナ、トランス・ヨルダン、およびエジプトにおいてであった。 | 203-204 |
| 7 | イランの遺跡見学 | 次の二年間は、イランで過ごした。そこで、ベヒスタン、ペルセポリス、パサルガデ、ナクシュエ・ルスタム等を含む西イランを見学する機会が与えられたのである。 | 204 |
| 7 | 古代ギリシア人とヘブル人が正反対の民族という定説 | 学究生活にもどるやいなや、私は、もはや学問上の定説のあるものに平穏に対処することができないことに気づいた。それらの学説の一つは、古代ギリシア人とヘブル人が正反対の民族であると想定しているのであった。 | 204 |
| 7 | 『ウガリト語文法』 | 一九四〇年に、私の著した『ウガリト語文法』が出版され、一九四七年には、その拡大、改訂された版が『ウガリト語便覧』という題で現れた。 | 205 |
| 7 | ヴェントリスとチャドウィックによる『ミュケーナイ・ギリシア語文書』の本 | 私が線文字Aの解読に積極的に参加しはじめたのは、一九五六年一二月で、ヴェントリスとチャドウィックによる『ミュケーナイ・ギリシア語文書』の本を入手した時であった。 | 206 |
| 7 | ピュロス人は、ミノア人文化を継承 | この本の著者たちが指摘しているところによると、ピュロス出土の、壺と三脚壺についての準二言語併用目録は、ミュケーナイ期ギリシア人がその先住ミノア人から受け継いだ伝統に従って書かれていることである。 | 206-207 |
| 7 | ファイストスの壺の目録表 | ファイストス近郊のハギア・トリアダ出土のある線文字A文書もまた、壺の目録表であって、壺の絵文字を伴う音節文字式の記述がなされているが、ヴェントリスとチャドウィクは、それに次のような注をつけている。「・・・この言語が異なることは明瞭である。」 | 207 |
| 7 | 線文字Aと線文字Bは「文字は同じで言語が異なる」 | この叙述は、線文字Aと線文字Bとが本質的に同じ文字であるが、他方、これらの容器名が既知のミュケーナイ容器名とは完全に異なっていることから、線文字Aと線文字Bとの言語がまったく相違していることを正しくも示唆している。 | 207 |
| 7 | セム語の容器名 | その五つのミノア語容器名のうち三つがセム語のようである点である。 | 207 |
| 7 | 線文字Aの言語= ウガリト語 | すなわち、su-pu および su-pa-la (この文字ではrとlが区別されていない点に注目すればこのようにも字訳することが可能である)はウガリト語にみられる、セム語の容器名、sp, krp-nおよびsplに類似しているのである。 *************** クレタ島のファイストスのハギア・トリアダ出土の線文字Aはウガリト語と同系の言語である証明。 ミノア語:ウガリト語 su-pu = sp su-pa-la = spl | 207 |
| 7 | 線文字Aの言語= セム系言語 | この事実は、線文字Aの ku-ro が全体、総計を意味したという叙述と結びつく。私は即座にセム語 kull, “all” のことを思いおこした。 ************ ミノア語:ku-ro=セム語:kull 全体・総計 | 207 |
| 7 | 四つのセム語の単語 | これら四つのセム語の単語は、ミノア語の性質を説明する可能性を提起している証拠資料であった。 | 207 |
| 7 | ミノア語がセム語であるかもしれない可能性を提起 | そして、これらの四語に関する短い論文を書いて、ミノア語がセム語であるかもしれない可能性を、厳密に調べてみる価値があると結んだ。 | 207 |
| 7 | クローフォード | 私はO・G・S・クローフォードの編集する『古代学』という雑誌に掲載するためそれを送った。 | 207-208 |
| 7 | ハギア・トリアダ出土の一五〇枚の粘土板文書 | 線文字A文書の最大のコレクションは、ハギア・トリアダ出土の一五〇枚の粘土板文書である。 | 209 |
| 7 | 東地中海沿岸からきたセム語方言 | 「線文字Aの言語は、東地中海沿岸からきたセム語方言である」という私の結論は、堅実なものであった。それは、今日にいたるまで訂正の必要がないままである。 | 210 |
| 7 | 逆もどり | 私のとった次のステップは、逆もどりであった。 | 210 |
| 7 | 東セム語族へと転換が後戻り | この言語的確認を、西セム語族から東セム語族へと転換したことは、私の研究の前進を妨げたけれど、まったく停止させることにはならなかった。 | 211 |
| 7 | 機械的な資料 | 一九六一年の終わりごろ、私は、W・C・プライスによる線文字A文書の新版を入手した。プライスは文献学者ではなく、そのような事柄への興味は、主として機械的であった。彼は整然とした仕事をするのをとりわけ好んだので、この本もそのようにした。 | 212 |
| 7 | 西セム語=ミノア語のファクト | いまや ki-re-ya-tu は、「西」セム語の単語、qiryatu 「町、市」に対応する、完全なミノア語綴りである。 | 213 |
| 7 | ミノア語≠東セム語 | 東セム語では、まったく異なる語 alu が用いられているが、他方、ヘブル語、ウガリト語、アラム語、アラビア語のすべては、qiryatu の諸形態をとっている。 | 213-214 |
| 7 | 敵陣営鞍替えのデイヴィスが『エテオ・クレータ碑文』に目を向ける | 私の陣営を放棄してしまっていたディヴィスは、『ファイストス円盤とプシクロおよびプライソス出土のエテオ・クレータ碑文』というモノグラフを、ちょうど出版したばかりであった。 | 215 |
| 7 | ファイストス円盤からエテオ・クレータ文書への連続性 | 彼は、絵文字式のファイストス円盤から、ミノア語文書を経て、紀元前六〇〇年から三〇〇年に渡る、親しみのあるギリシア文字で記された(プライソスとプシクロ出土の)エテオ・クレータ文書にまで至る、ミノア語の連続性ということを正しくも示唆したのである。 | 215 |
| 7 | エテオ・クレータ文書 | 私は、ミノア語を東セム語と考えてアプローチしていた限り、エテオ・クレータ文書について何も推断することができなかった。 | 215 |
| 7 | 西セム語仮説とエテオ・クレータ碑文 | ミノア語を西セム語であると言語的に確認する立場に再びもどる道を見出してからは、私は、エテオ・クレータ碑文を新しい光のうちにおいて見た。 | 215 |
| 7 | プシクロのエテオ・クレータ碑文 | 石の上に刻まれた一つの重要なエテオ・クレータ碑文が、プシクロで発見された。 | 217 |
| 7 | ギリシア語アンシャル字体 EΠIΘI | その文書は、紀元前三〇〇年ごろのギリシア語アンシャル字体で書かれており、EΠIΘI (epithi)という語で始まっている。 | 217 |
| 7 | ミノア語音節文字がヘレニズム期まで生存! | この二文字併用式の碑文のおかげで、ミノア語音節文字が、キュプロス島のようにクレータ島でも、少なくとも一つの有名な古代ミノア文明の神殿の遺跡で、ヘレニズム時代に至るまで記憶されていたことがわかる。 | 217 |
| 7 | 献呈定型文 | 最初の部分の定型句は、「・・・」で、それはフェニキア語の「・・・」に相当し、「この印刻された石を、私は献呈した」という意味である。 | 217-218 |
| 7 | ミノア人がフェニキア人 | こうしたことのすべては、ミノア人がフェニキア人であるという古代ギリシアの諸伝承と調和している。 (つまり、ミノア人は、エジプト人でもなく、ヘブライ人ではなく、ヒッタイト人でもなく、フェニキア人であることは明白である。) | 218 |
| 7 | 大多数のヘブライ人は子牛崇拝 | イスラエルが、くり返し金の子牛の崇拝に陥っていったことは、ヘブル人が、ミノア期クレータにおけるように、雄牛と子牛の崇拝に特徴づけられた文化的ミリューから出てきたことを示している。 (一神教原理主義のヘブライ人が、ミノア人から生じたのではなく、ミノア人はフェニキア人から生じ、シリア・パレスティナに里帰り植民した時は、牡牛崇拝を持ったペリシテ人やアラム人と同化した。そこから、ヘブライ人は生じたが、大多数の平民は王家と同じくバアルとアシェラを崇拝していた。一握りのユダヤ教原理主義者のラビどもだけが排他的一神教であったのだ。ヘブライ人の多数は、カナン人(フェニキア人)であったという証拠である。) | 221 |
| 8 | 章目次 | 第八章 要約と展望 | 223 |
| 8 | ネロ帝は、ミノア人=フェニキア人を知っていた | ネロの治世に、クノーソスで文学文書が発見されたという記述が存在する。ところで、ネロは、それらの文書がフェニキア語のものであると知り、セム語学者たちを召し寄せて翻訳させたのである。 | 227 |
| 8 | イタリアにフェニキア人とエトルリア人共存 | このピュルギ文書のもたらしたもっとも興味深い結果は、ポエニー戦争のはるか以前から、イタリアにフェニキア人がいたという事実である。 | 228 |

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