第九巻
マルドニオスによるギリシア本土作戦
一、マルドニオス、アッティカ侵入後ボイオティアに引き返す
二、プラタイアの戦い
ペルシア艦隊の全滅ーイオニアの解放およびその後の事件
一、ミュカレの戦い
二、クセルクセスの邪恋
三、ギリシア軍によるセストス攻略
四、キュロスの訓戒
マルドニオスによるギリシア本土作戦
一、マルドニオス、アッティカ侵入後ボイオティアに引き返す
テバイ人、マルドニオスに分断策を献策
遠征軍がボイオティア地方に入ったとき、テバイ人はマルドニオスをその地に引き留めようとし、陣営を構えるにはここよりも好適な場所はないと進言し、これより先には進まずこの地を拠点とし、戦わずしてギリシア全土を平定する策を建てるようにすすめた。
スパルタ人の怠慢
ヒュアキントス祭と防壁完成で防衛戦争に怠慢
それというのもその頃スパルタは祭礼中で、ヒュアキントス祭が執行されていたのであった。
それとともに、地峡地帯に構築中であった防御壁が、すでに胸壁をとりつける段階に達していたのである。
スパルタ軍司令官後見役パウサニアス
その夜のうちにスパルタ兵五千とさらにそのおのおのに国家奴隷七人を配置し、クレオンブロトスの子パウサニアスにその指揮を委ねて進発させた。
本来ならば出征軍の指揮権はレオニダスの子プレイスタルコスにあったのであるが、彼は当時まだ幼少で、その従兄に当るパウサニアスが彼の後見役であった。
マルドニオスのテーバイ入り
しかしやがてまたマルドニオスの許へ、ギリシア軍が地峡に集結した旨の情報が届いた。そこでマルドニオスはデケレイアを通って後退したが、これはボイオティア連合の首脳がアソポス人を呼び寄せたからで、アソポス人はマルドニオスの道案内をしてまずスペンダレイス、ついでそこからタナグラへ誘導した。
タナグラで夜を明かした後、翌日スコロスに向って道をとり、テバイ地区に入ったのである。
〔註〕ボイオータルコイ。十一人(後に七人)より成るボイオティア連合の総司令部のごときもの。
ボイオータルコイは、アトランティスの10王のモデルかもしれない。
エリュトライからプラタイアの陣
マルドニオスがここに構えた陣地は、アソポス河に沿ってエリュトライに始まり、ヒュシアイを経てプラタイア領に及んだ。
テバイで宴会
ペルシア軍がこの工事に専念しているときのことであるが、プリュノンのアッタギノスというテバイ人が、豪華な準備をととのえてマルドニオスを宴会に招いたが、ほかにペルシア方の要人五十人も招かれて相伴にあずかった。
宴会はテバイの町で催されたのである。
アッタギノスは、「〔註〕ティマゲニダスとともにテバイでは親ペルシア派の領袖であった。」とある。
アッタギノスとティマゲニダスの二人が、ペルシア側のテバイの領袖。
運命を知るペルシア人
「異国の方よ、神意によって起るべき運命にあるものは決して少なくはない。しかしわれわれはみな『必然』の力に金縛りにされ、成行きに従っているにすぎぬのだ。この世でなにが悲しいといって、自分がいろいろのことを知りながら、無力のためにそれをどうにもできぬことほど悲しいことはない」
二、プラタイアの戦い
ギリシア軍の兵力と布陣
部隊の配置でテゲア人と争う
このとき部隊の配置に関して、テゲア人とアテナイ人との間に激しい議論の応酬があった。
「ヘラクレス家一族(ヘラクレイダイ)がエウリュステウスの死後ペロポネソス復帰を試みた遠い昔からこの方、
ペロポネソス人が相携えて出陣する折には必ず、わが軍がこの部署につくべきことは、全同盟諸国によって認められてきているのである。
・・・ヒュロスを討ち取ったのである。
アテナイ人が一翼を受け持つ
マラトンにおける偉業だけで、われわれはこの特権のみならず、他にまだいくつもの特権にあずかる資格がある。
右翼はスパルタ兵
右翼はスパルタ軍一万が占めたが、そのうち五千が生粋のスパルタ兵で、これには一人に七人の割合で総数三万五千の国家奴隷の軽装兵が護衛として配属されていた。
隣はテゲア兵
スパルタ軍は自軍の隣りに配置する部隊としてテゲア軍を選んだが、これは彼らに敬意を表するためであると同時に、テゲア兵の武勇を買ったからである。その兵力は重装兵千五百であった。
左翼はアリステイデス指揮のアテナイ軍
左翼を担当する八千のアテナイ軍で、その指揮に当ったのはリュシマコスの子アリステイデスであった。
ギリシア軍の兵力十一万
プラタイアに集結したギリシア軍の総数は、重装兵と戦闘能力のある軽装兵とを合わせて十一万に千八百欠ける兵力であった。
しかし従軍していたテスピアイ人を加えると、その数はちょうど十一万に満ちた。
ギリシア軍が右のごとく布陣してアソポス河畔に野営したのに対し、マルドニオス麾下のペルシア軍は、・・・アソポス河畔に達する。
ペルシア軍の兵力と布陣
スパルタ軍にはペルシア人部隊
マルドニオスはスパルタ軍の前面には、ペルシア人部隊を据えた。
ペルシア人部隊はその兵力がスパルタ軍を遥かに凌駕していたので、戦列を幾重にも深くし、しかもなおテゲア軍の前面にも及んだ。
アテナイ軍の前にボイオティア他ギリシア人部隊
さらにマルドニオスは、アテナイ、プラタイア、メガラの諸軍の前面に、ボイオティア、ロクリス、マリス、テッサリアの諸軍およびポキス人一千を配した。
ペルシア軍の兵力は総勢三十万であった。
ヘロドトスのテバイ人卑怯者偏見
テバイ人は誘導するだけ、戦ったのはペルシア人やメディア人
右のことがあったのち、両軍とも戦端を開こうとせず、さらに二日が過ぎた。
しかしマケドニア麾下の騎兵部隊は絶えずギリシア軍に迫ってはこれを悩ました。
それというのも、熱心なペルシア贔屓のテバイ人はことのほか戦争の推進に熱意を示し、絶えずペルシア軍の先頭に立って誘導したからであるが、ただしそれは戦闘に入るまでで、それから後を引き受けて武功を樹てたのはペルシア人やメディア人であった。
テバイ人の籠城作戦とマルドニオスの蛮勇突撃作戦
アルタバゾスの述べた意見とは、一刻も早く全軍を戦線から引き上げ、・・・糧秣が多量に搬入ずみのテバイ城内に入り、ここでゆっくり落ち着きながら次のように事を運ぶべきである、というものであった。
すなわち、ペルシア軍は貨幣に鋳造したものや然らざるものを合せて多量の黄金を所有しており、さらに多量の銀および(銀製の)酒杯類もある。
これらの品を惜しみなくギリシア人、ことに各都市の重だったものたちに送れば、彼らはただちに自由を引き渡すであろう。
アルタゾバスの見解はテバイ人の考えと一致するもので、いずれも先見の明をもつものの説であったが、マルドニオスの意見はそれよりも激しく一徹で、一切の妥協を許さないものであった。
総司令官パウサニアス
パウサニアスに伝えた。彼はこの話を聞くと、ペルシア軍に恐怖を感じていうには、
「合戦が明日の払暁に開かれるというのであれば、ぜひそなたらアテナイ軍がペルシア人部隊に当り、わが軍はボイオティア軍と、貴軍の前面にあるギリシア人部隊に当ることにしてもらわねばならぬ。その理由はほかでもない、貴軍はすでにマラトンの戦いを経験して、ペルシア人とその戦闘法を心得ておられるが、わが軍はこのものたちに当った経験もなく、彼らについての知識もないからである。」
マルドニオスは、・・・ただちに彼もペルシア人部隊をスパルタ軍の前面に移動させて、配置換えを試みた。
パウサニアスはこのような動きを知ると、敵の目を欺くことのできぬのを悟り、ふたたびスパルタ軍を右翼に廻した。
するとマルドニオスもまた同様に部隊を左翼に戻したのである。
パウサニアス、プラタイアのヘラ神殿に祈願
移動は夜中の第二夜警時にすることにきまった。
さらに、キタイロンから流れ下るアソポスの娘オエオエが、二つの流れに分岐して囲むこの地域に到着したならば、この夜の内に部隊の半分をキタイロンに派遣し、食糧の調達に出かけた従卒隊を収容することも決定した。
パウサニアスは、遥かに目をプラタイアのヘラの神殿に向け、われらの望みを挫き給うなと、女神の名をよんで祈願した。
プラタイアの大勝利
スパルタ軍の堅固な武装の勝ち
ペルシア兵は勇気も力も劣らなかったが、堅固な武装を欠いた上に戦法を知らず、戦いの巧みさでは到底相手の敵ではなかった。
しかしマルドニオスが戦死し、また彼のまわりに配置されていた最強部隊も討死するに及んで、残存部隊も遂に反転し、スパルタ軍の前に屈して退却した。
彼らが打撃を蒙った最大の原因は、武装を欠いたその服装であった。重武装の敵を相手に軽武装の兵が戦ったわけだからである。
こうしてスパルタ人に下された託宣どおり、レオニダスの死の償いはマルドニオスによって払われたわけで、アナクサンドリデスの子クレオンブロトスの一子パウサニアスは、有史以来未曾有の大勝利をおさめたのであった。
テバイの木造要塞の籠城戦
テバイの木造要塞へ逃げ込む
さてプラタイアにおいてペルシア軍はスパルタ軍に打ち破られて敗走すると、算をみだしてその陣地および先にテバイ地区に建造しておいた木造の要塞へ逃げ込んだ。
賢いアルタバゾス、ヘレスポントスへ一直線
こうなるとアルタバゾスは、もはやこれまでの隊形で軍を進めることをやめ、急遽反転して逃亡をはかったが、彼は木造の要塞にもテバイの城内にも向わず、ポキスを目指して逃れた。
一刻も早くヘレスポントスに達したいと考えたからである。
テバイ人が奮戦300の勇士が戦死
ペルシア王側に与したギリシア人部隊の大方のものが、故意に見苦しい戦いぶりを示した中に、ボイオティア軍はアテナイ軍を相手に長時間にわたって戦った。
テバイ人のうち親ペルシア派のものたちは、並々ならぬ戦意を燃やして戦い、故意に卑怯な振舞いをするようなことはなかったので、テバイ軍中でも重だった勇士が三百人までこの時アテナイ軍の手にかかって戦死を遂げたほどであった。
テバイ人ぎらいのヘロドトスがいうのだから見事な戦いぶりであったのだろう。テバイ人がアテナイ人に対して奮戦したのは、長らく不倶戴天の敵だったからだろう。
テバイ騎兵隊の活躍
テバイの騎兵隊は隊伍も整えず急ぐこの部隊を望見して、馬首をこの部隊に向けたが、この騎兵隊の指揮に当っていたのはティマンドロスの子アソポドロスであった。彼はギリシア軍中に突入してその兵六百を地上に薙ぎ倒し、残りの部隊を追ってキタイロン山中に封じ込めてしまった。
ペルシア軍テバイ砦に籠城
さてペルシア人部隊と雑軍とは木造の砦に逃げ込むと、スパルタ軍の来襲に先立って櫓に登り、全力をあげて砦の守りを固めた。
スパルタ軍がMVP
ギリシア側では、テゲア軍とアテナイ軍がいずれもよく戦ったが、抜群の武勇を示したのはスパルタ軍であった。
テバイの親ペルシア派の領袖の引き渡し
テバイに兵を進めてペルシア方に与したものたち、中でもその元凶であったティマゲニダスとアッタギノスの引き渡しを要求することが決した。
テバイ人領袖の処刑
このような条件で協定が成立したのち、アッタギノスは町から逃亡した。彼の子供たちがパウサニアスの許へ引き立てられたが、彼は子供たちにはペルシア側に与した罪はないといって、放免した。
その他の者たちは、・・・当のテバイ人たちをコリントスに連行して処刑してしまった。
ペルシア艦隊の全滅ーイオニアの解放およびその後の事件
一、ミュカレの戦い
スパルタ王レオテュキダスの勝利
右のようにしてアルタバゾスはアジアに帰還したが、一方プラタイアにおける敗戦と同じ日に、ペルシア軍はイオニアのミュカレにおいても痛撃を蒙ったのである。
スパルタ人レオテュキデスに率いられたギリシア水軍が、デロスに来航してここに停泊しているとき、サモスから・・・サモス人が派遣したものであった。
さて生贄がギリシア軍に吉兆を現わすと、ギリシア水軍はデロスを発ってサモスへ向った。やがてサモス島内のカラモイという場所に着くと、ここにあるヘラの神殿の前面に碇泊し、海戦の準備にかかった。
レオテュキダスは・・・
それについでわれらの合言葉『ヘラ』をわすれずにおいてもらいたい。」
スパルタ王レオテュキダスは、裏切者のデマラトスをアギス朝のクレオメネス一世と協力して追放し、エウリュポン朝の王となった。
もう一方のアギス朝は、クレオメネス一世がなくなり、後を継いだ異母弟レオニダス一世もテルモピュライで戦死を遂げると、息子のプレイスタルコスはまだ幼く、叔父でクレオメネス一世やレオニダス一世の末弟に当るクレオンブロトスが摂政を務めた。彼の死後は、その息子パウサニアスが摂政を務めて、プラタイアの勝利を導いた。
したがってペルシア戦争終局のスパルタの二王は、アギス朝のプレイスタルコスと、エウリュポン朝のレオテュキダスである。
パウサニアスは、アテナイとの内通やペルシアとの内通を糾弾され、アテナ・カルキオイコスの神殿に逃げ込んで餓死したとなっている。アテナイ側の捏造の可能性あり。
パウサニアスの死後は、その息子プレイストアナクスが後継したために、スパルタがパウサニアスを餓死に追いやったという伝承はあやしい。
プレイストアナクスも、和平主義者で、ペロポネソス戦争勃発時の王であったが、アッティカに侵入するもペリクレスに買収されて引き揚げて、糾弾され亡命し、デルポイの神託で返り咲くと、ニキアスと協力してニキアスの平和で、和平した。
この親子は、親アテナイ的に描かれている。
彼の子がパウサニアス二世である。祖父がペルシア戦争の幕引きをしたように、彼はペロポネソス戦争の最期の王である。彼も親アテナイ派で、タカ派の将軍リュサンドロスと対立し、アテナイから三十人僭主を引揚げ、遅延によりリュサンドロスと死なせてスパルタに糾弾され、テゲアに亡命して死んだ。
できそこないのパウサニアスと孫のパウサニアスと違って、孫パウサニアスの息子アゲシポリス一世は、第一次マンティネイアの戦いに勝利して、スパルタに武功を輝かせた。
レオテュキデスもテッサリア遠征に不熱心で、早々に引き上げたため、糾弾されテゲアに亡命し、家は取り壊された。
早世した息子に代わって、彼の孫アルキダモス二世がエウリュポン朝の王位を継いだが、彼はペロポネソス勃発時の王で、また和平主義者で糾弾される傾向にあった。
しかし息子のアギス二世は、スパルタを勝利に導き、表敬されて埋葬された。
アテナイと癒着したパウサニアス二世を糾弾したのも彼である。
エウリュポン朝なのに、アギス二世という名は象徴的である。
ペルシア戦争、ペロポネソス戦争時は、厭戦的な王がスパルタを支配していたが、(レオニダスは例外)、そののちは、戦闘的な王に王族が変わっていった。
二、クセルクセスの邪恋
三、ギリシア軍によるセストス攻略
ケルソネソスの征服
レオテュキデス麾下のペロポネソス部隊は、ギリシアへ引き上げることを決定したが、クサンティッポスの率いるアテナイ部隊は残留してケルソネソスを攻撃することとなった。
そこで一方は引き揚げ、アテナイ軍はアビュドスからケルソネソスに渡り、セストスを包囲した。
レオテュキデスも早々に引き上げ、パウサニアスはペルシアかぶれとなってイオニア人に疎まれ、みすみすアテナイにイオニアを委ねるていたらくとなった。
四、キュロスの訓戒
ヘロドトスの生涯
ヘロドトスの生涯の情報ースダ辞典
ヘロドトスの生涯ーその生涯についてしられることは極めて少ない。
紀元十世紀頃に編纂されたと推定されるスダの辞典におけるヘロドトスおよび彼と関連する事項についての記述を基にして古代作家の断片的な言及を勘案しつつ、さらに彼の著作「歴史」自体の記述から推量しうるところを加味して、その大凡の輪郭を描きうるに止まるのである。
出自と生年
トロイゼンの植民都市ハリカルナッソス出身
スダがヘロドトスの項目下に記すところによれば、ヘロドトスは小アジアの南部の町ハリカルナッソスの名家の出で、・・・
ハリカルナッソスはカリアと呼ばれる地方にあるギリシア人の植民都市で、前十世紀頃ギリシア本土、ペロポネソス半島にあるアルゴリス地方の古い町トロイゼンからの移民が建設したものである。
トロイゼンはドーリス系の町であったから、ハリカルナッソスも当然ドーリス系であったはずであるが、早くから北方のイオニア文化の強い影響下にイオニア化されていたらしく、前五世紀のものと見られるイオニア語による碑文も発見されているので、ヘロドトスの時代には既にイオニア方言が公用語として用いられていたと考えてよい。
カリア人の父とドーリス系ギリシア人の母の混血
父の名のリュクセス、従兄弟または叔父のパニュアッシスという名は、明らかにギリシア系ではなく、カリア語の系統に属するものである。
それに対して母の名はドリュオにせよロイオにせよギリシア名であることは疑いなく、兄弟の名のテオドロス、またヘロドトス自身の名もともに立派なギリシア名である。
生年前490ー480年頃
生年は詳らかでない。四九〇ー四八〇年の間とするのが定説に近く、それは恰も彼の歴史の主題となったペルシア戦役のさなかということになる。
いずれにせよ、彼は悲劇作家エウリピデス(四八四?ー四〇六年)とほぼ同年輩であったと考えてよかろう。
亡命と移住の生涯
ハリカルナッソス僭主への反乱で亡命
ペルシア戦役当時のハリカルナッソスが、女傑として知られたアルテミシア一世の統治下にあったことは、「歴史」の記述からも知られるところで、・・・
その後彼の孫(あるいは息子?)に当るリュグダミスの代に至って、独裁者打倒を目指す反乱が起ったが、この企図は挫折し、パニュアッシスはこの争乱の間に命を落し、ヘロドトスもサモス島へ亡命を余儀なくされた。
第二の故郷サモス島
彼のサモス滞在は相当の期間にわたったものと考えられ、巻三をはじめとしてサモスに関する詳細な記述は、その滞在中の見聞に基づくものとされる。
サモスの独裁者ポリュクラテスへの尊敬がそれを裏付けている。
ハリカルナッソス革命で故郷に帰国
しかし再度企てられた反乱によってリュグダミスは打倒され、ハリカルナッソスには独裁制に代って民主制が敷かれた。
この革命が起った年代も明らかでないが、四五四年にこの町がデロス同盟に加わっている記録から推して、四五〇年代のはじめと見るのが妥当であろうか。
世界旅行時代(前454-444年?)
彼の長途の旅がこの帰国後からはじまり、恐らくは四四四年のトゥリオイ移住に至るまでの期間、幾度かにわたって続けられたものであろうことは想像に難くないが、その年代や期間など詳細なことはもはや知るべくもない。
アテナイに長期滞在
ただ彼のアテナイ滞在がかなり長期にわたったことについては、ほとんど疑う余地がない。
そしてこの滞在中にペリクレス、ソポクレスらの名士たちと交友関係を結び、彼自身アテナイ人から深く敬愛されていたことは、いくつかの伝承からも十分察せられる。
アテナイの帝国主義者ペリクレスとの交流が、ヘロドトスをアテナイびいきにしている。
エジプトびいきにテーバイぎらいの偏見も、アテナイ滞在時代に毒された可能性が大。
アテナイは彼の著述のための資料蒐集にも重大な意味を担っていたに相違ないが、
彼がアテナイで蒐集した資料は、アテナイ人の色眼鏡がかかっていたであろう。
ペリクレス発意のトゥリオイ植民に参加
四四四年にヘロドトスは、アテナイが中心となって計画した南イタリアのトゥリオイ植民に参加する。
これはペリクレスの発意にかかるもので。前六世紀末に淫楽の果てに滅亡したと伝えられる古都シュバリスの跡に建設された新しい植民都市であった。
トゥリオイ死歿
死歿の年代も場所も明らかでない。トゥリオイで生涯を終え、その墓も同地にあったという伝承があるが定かではない。
歿年が少なくとも四三〇年以後であることは、「歴史」の中にペロポネソス戦争にふれた箇所がいくつかある事実からほぼ間違いない(例えば巻九、七三節)。
ヘロドトスの著作の特徴
10年余りの取材旅行(現地取材)
その旅行と著作ーヘロドトスの試みた驚嘆すべき長途の旅行が、サモスからの帰国からトゥリオイ移住までの十年余りの間に恐らくは幾度かにわたって行われたものであろうことは先に述べた。
東はバビロン乃至スサ、西はリビアのキュレネ、バルケ、南はナイル上流のシュエネ(今日のアスワン)、北は黒海北岸のギリシア植民市オルビアを中心にクリミア半島、ウクライナ南部辺りまで足をのばしていることがほぼ確実と見られる。
実際に現地を歩いて、現地人に取材したことはヘロドトスの最大の強みである。
イオニアの科学の背景
「歴史」が九巻に別けられ、それぞれの巻にミューズの名がつけられているのは、この書物の本来の姿ではなく、アレクサンドリア時代の校訂者の作為によるものと一般に認められている。
本書は全体として一見極めて散漫な叙述であるような印象を与えるにも拘わらず、・・・むしろ驚くべく精密なプランに基づいて記述されていることが判る。
ヘロドトスが、本来はドーリス系であるがイオニア文化の強い影響下にあった植民都市ハリカルナッソスに生をうけ、その地に育ったことは、彼の人格や思想の形成の上に主要な意味をもつものであった。
科学的叙述
ことに人類史上はじめて科学的な観察・思考方法を生みだしたイオニア植民地において、その傾向の著しかったことはいうまでもない。
①ギリシア的中華思想の欠如
本土のギリシア人が頑なに持ち続けたギリシア的中華思想ともいうべき偏見や高慢さは、ヘロドトスにおいてはほとんど窺われない。
平生異民族に接し、彼自身混血であったとも考えられるヘロドトスが、民族的排他心をもたなかったのは当然とも考えられるが、・・・
②複数の説を併記
ことに一つの事柄に関していくつもの説が流布している場合、そのいずれをとるかについて著者の苦心は並々ならぬものがあったであろう。
③見解を入れず伝える
「本書を通じて私のとっている建前は、それぞれの人の語るところを私の聞いたままに記すことにあるのである」(巻二、123節)
地誌的叙述の充実
「歴史」の特徴の一つは、・・・詳細な地誌的叙述が重要な位置を占めていることである。
ヘロドトスが本来地理学者として発足し、後に歴史家に変貌したとする説が有力な学者によって提唱されているのも故なしとしない。
ヘロドトスの地理学や民俗学に対する関心は、直接の先輩ともいうべきミレトスの人ヘカタイオスに負うところが多いとされている。
神託・預言と奇談(トゥキュディデスの批判)非科学的との批判と名誉回復
神託や預言の重視
また「歴史」の全篇を通じて、神託や預言が極めて重大な役割を果たしていることも、作者の人生観を理解する上で有力な資料となる。
しかしギリシア本土においては、彼と同時代の知識人の多くにとって、このような運命観や信仰はすでに時代遅れと見なされていた。
トゥキュディデスの批判
トゥキュディデスが・・・散文作家たちは真実よりも聴衆(読者)への効果を目指すものと評したり、・・・暗にヘロドトス批判を含意したものと一般に解されている。
奇談
しかも奇談奇話に充ち満ちたヘロドトスの「歴史」が史書として疑惑をもたれたことは十分理解できる。
18世紀に名誉回復
ヘロドトスが歴史家としての面目を回復するのは、漸く十八世紀以降のことに属する。考古学、碑文学、パピロス学、古銭学等、古代史にとって今日欠くべからざる補助学科の確立が彼の名誉回復に大きな貢献をしたことはいうまでもない。
プルタルコス「ヘロドトスの悪意について」
これとは別種の観点からのヘロドトス批判も古代からあった。
それは要するにヘロドトスの記述の中に悪意や偏見を見出し、歴史家としての公正な立場を逸脱したものと非難する趣旨のものである。
それらを代表し総括するものとして、プルタルコスの作とされる「ヘロドトスの悪意について」という一文がある。
ボイオティア人プルタルコスの反撥
ボイオティア人(特にテバイ人)とコリントス人に対するヘロドトスの悪意ある中傷ということである。
プルタルコスはボイオティアの出身であるから、この反撥は彼の愛郷心から出たものともいえる。
「異狄びいき」と「アテナイびいき」
またヘロドトスを「異狄びいき」と非難し、彼の過度の「アテナイびいき」を攻撃するなど、本著者のヘロドトスに対する敵意は並々ならぬものである。
異狄びいきは、むしろ偏見のなさであるが、アテナイびいきは確かであり、
プルタルコスが怒るのももっともだ。
ポリュビオスのクレオメネス三世への批判も、プルタルコスの「クレオメネス伝」はその讃美で対抗している。
アテナイ人がアカイア人・ダナオイ人の末裔であり、
プルタルコスがボイオティア人であったからであろう。

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