著述 本63 ヘロドトス『歴史』下 ヘーロドトスの生涯と作風

ギリシア

ヘロドトスの生涯

ヘロドトスの生涯の情報ースダ辞典 

ヘロドトスの生涯ーその生涯についてしられることは極めて少ない。
紀元十世紀頃に編纂されたと推定されるスダの辞典におけるヘロドトスおよび彼と関連する事項についての記述を基にして古代作家の断片的な言及を勘案しつつ、さらに彼の著作「歴史」自体の記述から推量しうるところを加味して、その大凡の輪郭を描きうるに止まるのである。p425

ヘーロドトスの自伝は、残されていない。
最大のソースは、10世紀頃成立した「スダ辞典」である。

出自と生年

トロイゼンの植民都市ハリカルナッソス出身

スダがヘロドトスの項目下に記すところによれば、ヘロドトスは小アジアの南部の町ハリカルナッソスの名家の出で、・・・p425

ハリカルナッソスはカリアと呼ばれる地方にあるギリシア人の植民都市で、前十世紀頃ギリシア本土、ペロポネソス半島にあるアルゴリス地方の古い町トロイゼンからの移民が建設したものである。p426

トロイゼンはドーリス系の町であったから、ハリカルナッソスも当然ドーリス系であったはずであるが、早くから北方のイオニア文化の強い影響下にイオニア化されていたらしく、前五世紀のものと見られるイオニア語による碑文も発見されているので、ヘロドトスの時代には既にイオニア方言が公用語として用いられていたと考えてよい。p426

前10世紀ごろアルゴリス地方のトロイゼーンからの植民都市ハリカルナッソスの出身。
前10世紀トロイゼーンは、ヘーラクレイダイによって統治されたドーリス人の都市となっていた。
そのため、ハリカルナッソスを建設したのは、ドーリス人である。

カリア人の父とドーリス系ギリシア人の母の混血

父の名のリュクセス、従兄弟または叔父のパニュアッシスという名は、明らかにギリシア系ではなく、カリア語の系統に属するものである。
それに対して母の名はドリュオにせよロイオにせよギリシア名であることは疑いなく、兄弟の名のテオドロス、またヘロドトス自身の名もともに立派なギリシア名である。p426

父方の名前から、父方は、カリア人と想定される。
カリア人×ドーリス人の血統。

生年前490ー480年頃

生年は詳らかでない。四九〇ー四八〇年の間とするのが定説に近く、それは恰も彼の歴史の主題となったペルシア戦役のさなかということになる。p427

いずれにせよ、彼は悲劇作家エウリピデス(四八四?ー四〇六年)とほぼ同年輩であったと考えてよかろう。p427

生年は、推定だが、前490年-480年の間ということになる。
つまりペルシア戦争中から終結時あたりに生誕したと想定される。

亡命と移住の生涯

ハリカルナッソス僭主への反乱で亡命

ペルシア戦役当時のハリカルナッソスが、女傑として知られたアルテミシア一世の統治下にあったことは、「歴史」の記述からも知られるところで、・・・
その後彼の孫(あるいは息子?)に当るリュグダミスの代に至って、独裁者打倒を目指す反乱が起ったが、この企図は挫折し、パニュアッシスはこの争乱の間に命を落し、ヘロドトスもサモス島へ亡命を余儀なくされた。p427

父パニュアッシスアルテミシアの息子か孫のハリカルナッソスの僭主リュグダミスに反乱して、争乱中に落命し、ヘーロドトスサモス島に亡命した。
アルテミシアの一族によって亡命を強いられたのに、アルテミシアびいきとは?
サモスに亡命。サモスでの良い体験が、ポリュクラテスびいきへつながっているのだろう。

第二の故郷サモス島

彼のサモス滞在は相当の期間にわたったものと考えられ、巻三をはじめとしてサモスに関する詳細な記述は、その滞在中の見聞に基づくものとされる。p427-428

サモスの独裁者ポリュクラテスへの尊敬がそれを裏付けている。

ハリカルナッソス革命で故郷に帰国

しかし再度企てられた反乱によってリュグダミスは打倒され、ハリカルナッソスには独裁制に代って民主制が敷かれた。
この革命が起った年代も明らかでないが、四五四年にこの町がデロス同盟に加わっている記録から推して、四五〇年代のはじめと見るのが妥当であろうか。p428

前490年生まれと仮定すると、40歳くらいまでサモスに滞在したということになる。

世界旅行時代(前454-444年?)

彼の長途の旅がこの帰国後からはじまり、恐らくは四四四年のトゥリオイ移住に至るまでの期間、幾度かにわたって続けられたものであろうことは想像に難くないが、その年代や期間など詳細なことはもはや知るべくもない。p428

世界旅行は、前454-44410年間と仮定できる。(50代)。

アテナイに長期滞在(世界旅行の10年のうち)

ただ彼のアテナイ滞在がかなり長期にわたったことについては、ほとんど疑う余地がない。
そしてこの滞在中にペリクレス、ソポクレスらの名士たちと交友関係を結び、彼自身アテナイ人から深く敬愛されていたことは、いくつかの伝承からも十分察せられる。p428

アテーナイの帝国主義者ペリクレスとの交流が、ヘーロドトスをアテーナイびいきにしている。
エジプトびいきにテーバイぎらいの偏見も、アテーナイ滞在時代毒された可能性が大

アテナイは彼の著述のための資料蒐集にも重大な意味を担っていたに相違ないが、p428

彼がアテーナイで蒐集した資料は、アテーナイ人の色眼鏡がかかっていたであろう。つまり、アテーナイ捏造班の影響である。

ペリクレス発意のトゥリオイ植民に参加

四四四年にヘロドトスは、アテナイが中心となって計画した南イタリアのトゥリオイ植民に参加する。
これはペリクレスの発意にかかるもので。前六世紀末に淫楽の果てに滅亡したと伝えられる古都シュバリスの跡に建設された新しい植民都市であった。p429

前444年ペリクレスの発意によるトゥリオイ植民に参加する。
前6世紀末淫楽の果てに滅亡した古都シュバリスの跡地に建設された新都市

クロトンとの戦争で滅んだシュバリスの跡地の新都市トゥリオイである。
イタリア半島の靴底へ、ゴーである。

トゥリオイ死歿

死歿の年代も場所も明らかでない。トゥリオイで生涯を終え、その墓も同地にあったという伝承があるが定かではない。p429

歿年が少なくとも四三〇年以後であることは、「歴史」の中にペロポネソス戦争にふれた箇所がいくつかある事実からほぼ間違いない(例えば巻九、七三節)。p429

ペロポンネーソス戦争への言及があるので、前430年までは生きていた。

ヘロドトスの著作の特徴

10年余りの取材旅行(現地取材)

その旅行と著作ーヘロドトスの試みた驚嘆すべき長途の旅行が、サモスからの帰国からトゥリオイ移住までの十年余りの間に恐らくは幾度かにわたって行われたものであろうことは先に述べた。p430

東はバビロン乃至スサ、西はリビアのキュレネ、バルケ、南はナイル上流のシュエネ(今日のアスワン)、北は黒海北岸のギリシア植民市オルビアを中心にクリミア半島、ウクライナ南部辺りまで足をのばしていることがほぼ確実と見られる。p431

実際に現地を歩いて、現地人に取材したことはヘロドトスの最大の強みである。
ジモティーに直接聴取したのは、パウサニアスも同じ。

イオニアの科学の背景

「歴史」が九巻に別けられ、それぞれの巻にミューズの名がつけられているのは、この書物の本来の姿ではなく、アレクサンドリア時代の校訂者の作為によるものと一般に認められている。p432

本書は全体として一見極めて散漫な叙述であるような印象を与えるにも拘わらず、・・・むしろ驚くべく精密なプランに基づいて記述されていることが判る。p435

ヘロドトスが、本来はドーリス系であるがイオニア文化の強い影響下にあった植民都市ハリカルナッソスに生をうけ、その地に育ったことは、彼の人格や思想の形成の上に主要な意味をもつものであった。p436

科学的叙述

ことに人類史上はじめて科学的な観察・思考方法を生みだしたイオニア植民地において、その傾向の著しかったことはいうまでもない。p436

①ギリシア的中華思想の欠如

本土のギリシア人が頑なに持ち続けたギリシア的中華思想ともいうべき偏見や高慢さは、ヘロドトスにおいてはほとんど窺われない。
平生異民族に接し、彼自身混血であったとも考えられるヘロドトスが、民族的排他心をもたなかったのは当然とも考えられるが、・・・p436

ヘーロドトスの科学性の第一は、ギリシア的中華思想の欠如である。

②複数の説を併記

ことに一つの事柄に関していくつもの説が流布している場合、そのいずれをとるかについて著者の苦心は並々ならぬものがあったであろう。p437

ヘーロドトスの科学性の第二は、複数の説を併記である。

③見解を入れず伝える

「本書を通じて私のとっている建前は、それぞれの人の語るところを私の聞いたままに記すことにあるのである」(巻二、123節)p437

ヘーロドトスの科学性の第三は、「見解を入れず、聞いたままを記す」である。

地誌的叙述の充実

「歴史」の特徴の一つは、・・・詳細な地誌的叙述が重要な位置を占めていることである。
ヘロドトスが本来地理学者として発足し、後に歴史家に変貌したとする説が有力な学者によって提唱されているのも故なしとしない。p437-438

ヘロドトスの地理学や民俗学に対する関心は、直接の先輩ともいうべきミレトスの人ヘカタイオスに負うところが多いとされている。p438

神託・預言と奇談(トゥキュディデスの批判)非科学的との批判と名誉回復

神託や預言の重視

また「歴史」の全篇を通じて、神託や預言が極めて重大な役割を果たしていることも、作者の人生観を理解する上で有力な資料となる。p439

しかしギリシア本土においては、彼と同時代の知識人の多くにとって、このような運命観や信仰はすでに時代遅れと見なされていた。p439

トゥキュディデスの批判

トゥキュディデスが・・・散文作家ロゴグラポイたちは真実よりも聴衆(読者)への効果を目指すものと評したり、・・・暗にヘロドトス批判を含意したものと一般に解されている。p440

トゥキュディデスは、ヘーロドトスを、散文作家(ロゴグラポイ)と呼んだ。

奇談

しかも奇談奇話に充ち満ちたヘロドトスの「歴史」が史書として疑惑をもたれたことは十分理解できる。p441

18世紀に名誉回復

ヘロドトスが歴史家としての面目を回復するのは、漸く十八世紀以降のことに属する。考古学、碑文学、パピロス学、古銭学等、古代史にとって今日欠くべからざる補助学科の確立が彼の名誉回復に大きな貢献をしたことはいうまでもない。p442

18世紀に名誉回復。

プルタルコス「ヘロドトスの悪意について」

これとは別種の観点からのヘロドトス批判も古代からあった。
それは要するにヘロドトスの記述の中に悪意や偏見を見出し、歴史家としての公正な立場を逸脱したものと非難する趣旨のものである。p443

それらを代表し総括するものとして、プルタルコスの作とされる「ヘロドトスの悪意について」という一文がある。p443

ボイオティア人プルタルコスの反撥

ボイオティア人(特にテバイ人)とコリントス人に対するヘロドトスの悪意ある中傷ということである。
プルタルコスはボイオティアの出身であるから、この反撥は彼の愛郷心から出たものともいえる。p443

「異狄びいき」と「アテーナイびいき」

またヘロドトスを「異狄びいきピロバルバロス」と非難し、彼の過度の「アテーナイびいき」を攻撃するなど、本著者のヘロドトスに対する敵意は並々ならぬものである。p443-444

異狄びいき(ピロバルバロス)は、エジプトびいきと置き換えることができる。
アテーナイびいき=テーバイ嫌い、そしてエジプトびいき=フェニキア嫌いはたしかであり、
プルタルコスが怒るのももっともだ。
ポリュビオスのクレオメネス三世への批判も、プルタルコスの「クレオメネス伝」はその讃美で対抗している。

アテーナイ人がアカイア人・ダナオイ人の末裔であり、
プルタルコスがボイオーティア人であったからであろう。
そのプルタルコスですら、アテーナイの捏造史料を使わざるを得なかったということは注意を要する。

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