ギリシアの開闢の歴史
アテナイ市民トゥキュディデス
アテナイ人とペロポネソス人との戦いが始まると同時に、その記録を採り始めたのはアテナイ市民トゥキュディデスである。p11
アテーナイ人のトゥキュディデスの偏見から見た「同時代史」。
カドモス帝室の歴史を認知せず
このために都市国家としての規模も、また他の蓄財の面でも彼らは強大にならず、とくに地味の肥えた土地は居住者の変動がいつも激しかった。
それらの地域は今日のテッサリア地方、ボイオティア地方、それにアルカディアを除くペロポネソスの大部分、およびその他の土壌のよい地域であるが、地味の豊かなために、特定の人々の力が増大すると、内乱が起り、全体の発展がさまたげられ、さらに外部からも策謀が企まれることが間々あった。p12
この地味の肥えたテッサリア、ボイオーティア、未開のアルカディアを除くペロポンネーソスは、まさにカドモス帝室が支配した地域であり、この地域のみに文明といえる統治体制が確立していた。さらに交易も母国フェニキアをはじめ、エジプト、エーゲ海全域に広がっていたのである。
トゥキュディデスは、前1200年以前の歴史にまったくアクセスできなかったであろう。
ペリクレスのつくりだしたアテーナイ中心主義の偏見に立った作業仮説である。
アッティカがギリシア文明を築いたという偏見
しかしアッティカ地方はその大部分が瘦地であったために内乱がなく、同じ種族の者たちが昔から変わることなく住んでいた。
そのよい証拠は、アッティカが外来移住者によって他の面で無類の発展を示したことである。
それはヘラスの他の地方から戦争や内乱のために落ち延びてきた人々の中でもっとも勢力のある者たちが、アテナイの安定した状態に惹かれて、そこに定住したからであった。p12
アッティカには、「同じ種族の者たちが昔から変わることなく住んでいた」というあとに、「アッティカが外来移住者によって他の面で無類の発展を示した」という。
つまりアッティカ原住民は未開の人種であり、大発展はもっぱら優秀な外来の人種によってもたらされたことを白状している。
しかし神話によれば、アッティカには長い王朝が存在せず、たえず王権が交代していたことは明らかである。
アテーナイが発展したのはペイシストラトスの僭主政治以降である。
ギリシアの根幹は、ボイオーティア中心にアルゴリス、ラケダイモーンと支配圏を拡げたカドモス王家のテーバイによって築かれた。
イオニア人=アッティカ出身という偏見
そして彼らがアテナイ市民に加えられたので、アテナイ市の人口がつとに膨張して、後々アッティカには十分な物資がなかったところからイオニア地方にまで植民を送り出したのである。p12-13
イオニア人として植民地建設に雄飛したのは、アイオリス系ピュロス王家の末裔である。
アテーナイの土着のダナオイ人やアカイア人ではない。
ヘレネスとギリシア人の語源
ヘレネスの語源は、ヘレーン
つまりトロイア戦争以前には、ヘラスを総動員するほどの活動は見られず、その上、ヘラス全体を総称する名前がなかったばかりでなく、デウカリオンの息子ヘレンより以前の時代には、ヘレンの名前自体まったく存在していなかったように思われるからである。p13
後付けの架空の人物ヘレンを実在のように無批判に受け入れているところは、ヘロドトスより科学的とはいいがたい。
ヘレネスの故郷、イーオルコスを首都とするアイオロス王家の歴史は、アテーナイ人トゥキュディデスにとって、「外国」の歴史であり、神話を退けるトゥキュディデスが知り得ないのは当然。
ギリシア人の語源は、ボイオーティアのグライア地方
〔註〕ヘラスとはギリシア人がギリシアを呼ぶ名前。
ギリシアはイタリア人がボイオティアのグライアという一地名からヘラス全体を指して呼んだ名である。
前一〇〇〇年頃にギリシア人はイタリアのキュメに植民都市を建設したが、その人々の中にボイオティアのグライアから来た一群があって、最初にグライア人に逢ったイタリア人はその名で他のヘラス人も呼ぶようになった。(第一巻3の註)(P439)
キュメ(ラテン語のクーマエ)がギリシア人の最初の植民都市である。
エウボイア島のカルキス人が建設したといわれるが、実際のメインは、
ボイオーティアのグライア人であったことをこの事実は示している。
ボイオーティアのカドモス系のフェニキア人が最初に西地中海に植民したギリシア人であったのだ。
したがって、ヘレネスというのは、アイオリス人のことであり、
ギリシア人というのは、ボイオーティアのグライア人のことである。
アテーナイ人は、ダナオイ人であり、アカイア人は、アカイア人である。
ペラスゴイとは?
そのかわりに、ペラスゴイの名がその大部分を占めてはいたが、各地域ごとに各部族がそれぞれの名称を持っていたようである。p13
トゥキュディデスが「ペラスゴイ」と措定しているものが、アイオリス系のヘレーンの子孫のギリシア進出以前のすべての人種を包括していることがわかる。
つまりレレゲス人、アルカディアの原住民など、ダナオス移住以前の「生え抜き」の人種から、ダナオス系(ダナオイ人)、カドモス系(テーバイ人)などすべてを含む。さらにアイオリス人も含むこともある。
イオニア人、アカイア人も含むこともある。
つまり、ヘーラクレイダイの帰還以前に、ギリシア本土に存在したすべての民族を指すという定義が、「ペラスゴイ」の最大値である。
〔註〕ペラスゴイがどのような民族であったか判然としないが、古代ギリシア人にとっては、ギリシア人がギリシアに入る前にギリシアにいた先住民を総称して、ペラスゴイと呼んだようである。
アテナイのアクロポリスの北側にペラスゴイの建物の遺跡がある。(第一巻10の註:P440)
プティオティスとは?
プティオティスというのは、ヘレンの子孫の拠点
ヘレンとその息子たちがプティオティス地方で勢力を揮った上、他の都市へも息子たちを連れて援助に赴いたので、それらの都市は各自、彼らとの関係からヘレン族と呼ばれるようになるのであるが、この名が全体の総称するようになったのは後のように思われる。p13
プティオティス地方で勢力を築いたのは、イーオルコス中心のアイオロス王家であり、最大の英雄は、イアーソンである。
後にプティオティスに侵入した野党のアカイア人の臣民ペーレウス・アキレウス父子ではない。
(トゥキュディデスはミルティアデス一族で、アイアキダイだから同族のアキレウスがヘレネスの英雄の代表といいたのだろう。偏見である。
ギリシアの英雄はテーバイ人の英雄ヘーラクレースである。)
アテーナイ捏造班の手が入ったホメロスを論拠にする偏見
この点はホメロスが一番よい論拠である。
というのは、トロイア戦争よりもはるかに後に生れた彼でさえも、全体を一度もこの名で総称しておらず、この名称は、元来プティオティスからアキレウスと出身地をともにして来た者たちを指す場合のみに限られている。
この他の者たちには彼の詩の中ではダナオイ人とかアルゴス人、あるいはアカイア人とかの名称が使用されている。p13
プティオティスは、アキレウスの父ペーレウスの故郷ではない。ペーレウスは、アカイア人が、サラミスへ殴り込み、はじき出されて、サラミス島からプティオティスへ殴り込みをかけた野盗で、高貴な王家の出身ではない。
プティオティス近郊は、イーオルコスを首都とするテッサリア王家が、テーバイの帝室と密な関係を築いて長らく支配しており、新興のペロプスの子孫=アカイア人が侵入する以前から長らく根付いていた。
ホメロスの「イリアス」は、アテーナイ捏造班がたっぷり手をいれた作品である。
アテーナイの古典期の支配者が、ダナオイ人&アカイア人の子孫である。(アルゴス人というのは、アカイア人王家の首都であったミュケナイが、アルゴリス地方にあったから)
ミノア文明から都市国家までの歴史
ミノア文明の起源!ミーノースの世界征服
ミノスのキュクラデス諸島制覇と植民都市建設
伝説で知り得る一番最初の海軍の支配者はミノスである。
彼は今日のヘラスの海の大部分を掌握してキュクラデス諸島を征服し、しかも多くの植民都市の最初の建設者となった。p14
ミーノース王はミノア人と呼ばれる。ミーノースがフェニキア人の投影であるので、
フェニキア人が、最初にキュクラデス諸島の都市建設をしたといえよう。
カリア人とミノスの関係
そしてカリア人を駆逐し、自分の子供たちにその統治権を分与した。
また当然のことながら、力の及ぶかぎり領海から海賊を締め出し収益の増大を図った。p14
「カリア人を駆逐」ではなく、フェニキア人ミノスは、カリア人を文明化して共存共栄に支配下であろう。交易を重視したのはフェニキア人だからだ。
金の蝉の髪留めのアテーナイ人長老の正体!
最初に武器を持ち歩く習慣をやめたのはアテナイ人で、彼らは生活様式を便利で贅沢なものにした。
アテナイの裕福な長老たちが贅沢から着た麻の肌着を捨て、髪の毛の結び目に止めた金の蝉を取ったのはあまり昔のことではない。
このため、この金の蝉形髪留めの流行は同血族であった関係からイオニアの長老たちをも捉えて長く離さなかったものである。p15
イオニア人は、フェニキア人×アイオリス人の血統のペラスゴイであろうから、贅沢な長衣や長髪や髪留の習慣は、フェニキア系のものであろう。
このときの「アテーナイ人」は、ピュロスからきたアイオリス系の王族の子孫のことである。
彼らは、共闘のテーバイ帝室系のフェニキア人から、高度な文化を学んだのであろう。
この蝉がフランスのプロヴァンスの蝉の起源か?
簡素な服装はラケダイモン人が最初
簡素な現代風の服装を最初に再び着るようになったのはラケダイモン人であったが、彼らは収入の豊かな者も日常生活は他の面で一般の者と同じ様にした。p15
ラケダイモーン人が、簡素な服を導入したのは、国が不毛だったからであろう。
メッセニアが豊穣で、ラケダイモーンは、メッセニアを併合するまで、簡素な文化を導入した。
実は、ラケダイモーン王家が成立した時期、まだアミュクライを奪還しておらず、スパルタを陣として暫定の軍営キャンプ状態であったからだろう。王は、清貧の範を示したためであろう。
体に油を塗る習慣と腰帯
裸体で公に技を競ったのも彼らが最初で、競技の時に油を体に豊富に塗ったが、昔はオリュンピアの競技でさえも選手は腰帯を着けて競技をしたもので、これが止んだのもあまり遠い昔のことではない。p15
体育と音楽の教育、香油をつかうというのは、フェニキア系の習慣である。
音楽、二本笛と竪琴は、テーバイ帝室がギリシアに導入したものである。
ハンニバル軍も、兵士に香油を塗らせていたし、カエサル軍もしかり。
シュメル人のエジプトのブレーンであったイムホテプの時代から、アロマテラピーは、フェニキア人の専売特許である。
沿岸の都市
もっとも後期に建設された都市は、すでに航海術も発達していたので、物資に余裕があり、沿岸には防壁を築き、交易と対隣防衛の観点から地峡にそれぞれ位置していた。p15-16
沿岸と地峡の都市は、防壁を築いた。
フェニキア諸都市と、フェニキア人が建設したギリシアの都市である。
内陸都市
初期の都市は、島でも大陸でも、長期にわたった盗賊行為のために、海岸線からひっこんだ所に位置を占めていて、今日でもそのままそこにある。これはつまり、海洋民族でなくとも海岸近くに居住する者は、互いに略奪しあったからである。p16
ミュケナイやアテナイが内陸都市の代表。
沿岸都市を海賊とくさす。
高度な文明民族が、フロンティアの島国(ギリシアは、陸の孤島のようなものである)を占拠するとき、あとから来る者から、利権の土地をかくしておくために、内陸に首都を築いたのかもしれない。
日本の奈良と、ギリシアのテーバイは並行関係にあると思われる。
日本の奈良はテーバイ、京都はアルゴス、東京はアテーナイである。
海賊はカリア人とフェニキア人(実は「友愛」の起源をつくったフェニキア人)
多くの盗賊は島の住民であるカリア人とフェニキア人であった。
この証拠は、今次大戦にアテナイ人がデロス島を清めた際に、島で死んだ人間の墓地を片づけたが、その半数以上がカリア人であったことである。p16
海賊=海外植民者という認識で、カリア人とフェニキア人が、エーゲ海を支配していたと白状しているようなものだ。
実は、フェニキア人は、たいてい地元民と共存共栄した。通商国家だったからだ。フグのようなかわいい丸い商船で移住した彼らは、平和的な民族であり、世界中に親族の都市を建設した。
これこそが世界人類が「兄弟姉妹」であるという「友愛」という概念の起源である!
ミルティアデスの子孫であるトゥキュディデスは、フェニキア人を糾弾するが、本当の海賊・野盗は、トゥキュディデスの先祖のアカイア人であった。
アテーナイ人とポーキス人の植民都市ポカイア人こそ、戦艦で植民し、海賊としてなぐりこみをかけて嫌われた民族であった。
ミノスの海上帝国と防壁都市の出現
ミノスが海軍を設置すると海上の交渉が増大した(つまりこれは、彼が島々に多くの植民都市を建設してこれらの島から不法者を追放したからである)。そして沿岸の者たちはすでに富を蓄積し、生活の安定を求めていたので、一部の都市は豊かになるにしたがって防壁を都市の周りに廻らすようになった。p16
ミーノースが、沿岸都市国家建設と、海の警察隊をつくりだした。
明らかに、ミーノースの世界制覇とテーバイ帝室のヘーラクレースの世界制覇は、相互投影の関係にある。
アカイア人の侵入
アカイア王家の征服の捏造
ヘラクレス一門によってエウリュステウスがアッティカで殺されたため、
帰国しなかったのでミュケナイ人はヘラクレス一門を恐れ、さらにアトレウスが有能にも見えたし、またアトレウスもミュケナイの大衆をすでに手なづけていたので、アトレウスがエウリュステウスの王位を継承した。
こうしてペルセウスの子孫よりもペロプスの子孫の方が強力になったということである。p17
実際は、ペルセウスも捏造。ペルセウスはダナオイ人を投影し、アカイア人と連合したこと。
ギリシアの主人は、ヘーラクレース=エウリュステウスのテーバイ帝室。
野盗集団アカイア人は、テーバイ帝室の首都アルゴスの乙種帝室のエウリュステウス王に、アトレウスを「接ぎ木」したのである。
「トロイア戦争」後の混乱時代
トロイア戦役後の植民時代
トロイア戦役の後も、ヘラスは移動と入植を続けたので落ち着いて発展する余裕がなかった。
そのわけはヘラス人たちがイリウムから帰るのが遅れたために多くの新しい事態を引き起こし、ほとんどの都市に内乱があって、そこから追われた人々は、都市を方々に創設したためである。p20
ヘラス人たちがトロイアからギリシア本土に帰国するのが遅れたというホメロスの捏造は、いただけない。
まずヘラス人ではなく、アカイア人である。
トロイアから帰るのではなく「ギリシア本土のトロイア戦争」であり、ギリシア本土が荒廃したのは、アカイア人(トゥキュディデスの先祖)が、テーバイ帝室とアイオロス王家の統治するギリシアに、侵略者として殴り込みをかけたからである。
おそらく、アカイア人は、まともに、一時的ですらギリシア全土を統治することはなかった。
アカイア人が、テーバイ帝室とヘーラクレイダイによって撃退されると、「前1200年のカタストロフ」のあと、いち早く立ち直ったフェニキア地方の都市国家、すなわちテーバイ帝室の母国テュロスやシドンが指導して、フェニキア式の都市国家をギリシア本土に建設した。
アルカディア時代は、王政から寡頭政への転換期であっただろう。
ボイオティア人の伝統を白状
たとえばボイオティア人の祖先もイリウム陥落後、六十年の後にアルネからテッサリア人に追われて、従来はカドメイス地方と呼ばれていた現在のボイオティアに移住して来たのである。
(もっともこの地方にもそれ以前から彼らの一部がいて、その者たちはイリウムに出兵をしている)。
それから更に八十年をへてドリス人がヘラクレス一門と共にペロポネソスを占拠した。p20
ボイオーティア人の先祖は、もともとボイオーティアに君臨しており、一時的に占領したアカイア人のクサントス一党を撃退して、故国を復帰した。だから、エパミノンダスは、カドモスの子孫と名乗っているのである。
前1000年以降の植民活動
トロイア戦役以後の植民都市建設という茶番
かくて非常に長い間かかってヘラスが静かになって落ち着き変動がなくなると、ようやく植民を送り出すようになった。
アテナイはイオニアやその他の多くの島々に植民し、ペロポネソス人はイタリアおよびシケリア島の大部分、それに他のヘラス諸地域にも植民した。
そしてこれらの植民都市は、トロイア戦争後に建設されたものであった。p20-21
西地中海も、エーゲ海も、フェニキア系×アイオリス系がほとんど植民している。
ダナオイ人やアカイア人は、ポカイアくらいだ。
僭主制の時代
ヘラスの力が発展して収入の増加が図られるようになると、僭主がほとんどの都市にも勃興した。p21
実は、テーバイやアルゴスやアテーナイでも、まず以前のテーバイ帝室系とアイオリス系の王室が復旧した。(「ギリシア本土のトロイア戦争」からのレコンキスタ)
続いて、王族は貴族階級を形成し、寡頭制に移行した。
王室が、都市の長官を務めるようになった。
実は、これが以前の強権を復旧したのが「僭主」である。
また「馬の骨」が僭主になる都市もでてきた。
コリントスの僭主キュプセロスは、もと王族のヘーラクレイダイの血の名門バッキアダイの血が半分入っていたが、シキュオンの僭主クレイステネスは、完全な「馬の骨」であったようだ。
また、旧王族の一門から僭主になった一族もあった。
それがアテーナイの僭主ペイシストラトス一門である。アテーナイのピュロスから来たコドロス王家の支流であろう。

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