著述 本65 トゥキュディデス『歴史』上 第1巻 ケルキュラ・ポテイダイア戦線の緒戦 

ギリシア
  1. ペロポネソス戦争の発端:コリントスVSケルキュラ
  2. 海運国コリントス
    1. 最初の三重櫓船建造はコリントス人
      1. 最古の海戦もコリントスVSケルキュラ
      2. 地峡という立地
      3. ポリュクラテスのサモス海軍
  3. 無甲板船とアテナイ帝国主義
  4. 著述方針と三十年平和条約のアテナイによる破棄
  5. コリントスVSケルキュラのはじまり
  6. エピダムノスの内乱
    1. ケルキュラの植民都市エピダムノス
    2. ケルキュラ、エピダムノスの大衆派の嘆願を無視
    3. コリントスがエピダウロスの嘆願を聞き入れる
      1. 財軍充実のケルキュラがコリントスに反抗的
      2. コリントス、エピダウロスに植民部隊を送る
      3. 寡頭派支持のケルキュラが派兵
      4. コリントス連合軍を結成
      5. ケルキュラは、ラケダイモンとシキュオンに援軍要請
  7. コリントス・ケルキュラ戦争のはじまり
    1. 緒戦のケルキュラ圧勝
  8. アテナイの介入
    1. ともにアテナイに援軍要請
      1. アテナイ議会で
    2. アテナイーケルキュラ同盟
  9. ポテイダイア戦線の勃発
    1. 舞台はカルキディケ半島へ!
      1. アテナイ、朝貢国ポテイダイアに防壁と人質要求
      2. トラキアの反乱防止のため
    2. マケドニアの参戦
      1. マケドニアのペルディッカス王、アテナイと対決姿勢
    3. ポテイダイア反乱開始!
    4. オリュントス市を強大な集住都市に改編
      1. カルキディケ半島の地誌
    5. コリントス派兵
      1. コリントス・マケドニア連合軍総司令アリステウス
    6. 緒戦でペロポネソス勢敗北、ポテイダイアに籠城
  10. とうとうラケダイモーンが参戦!
    1. ラケダイモンが議会を招集
    2. ラケダイモンの王と監督官の対立
      1. ラケダイモン王アルキダモス
      2. アルキダモス王厭戦論
      3. 督視官ステネライダス
    3. 督視官ステネライダス、不戦条約破棄の動議提出!
  11. ペルシア戦争後から三十年不戦条約までの昔語り
  12. ペルシア戦争後の処理
  13. レオテュキデス、ミュカレの海戦で引き揚げ、セストス包囲戦まで残らず
    1. 前479年:ミュカレからラケダイモン王レオテュキデス直接帰国
    2. セストス包囲戦でペルシア戦争終結:アテナイ、イオニア帝国化に着手
  14. アテーナイ、新港ペイライエウス構築
    1. ペイライエウス新港の構築
    2. パウサニアスのキュプロス島占領
    3. パウサニアスの乱暴という捏造
    4. パウサニアスのペルシアかぶれ
  15. アテナイ帝国主義支配のしくみ構築
    1. アテナイが、税と挑船の制度を制定
    2. ポロス(貢金)徴収開始、デロス島に財務局を設置
  16. トラキアと島嶼は武力制圧!正体を現す野盗国家アテーナイ
    1. 利権の宝庫ストリュモン河畔を征服
    2. スキュロス島に植民
    3. ディオニューソス信仰の島ナクソスを隷属化
  17. アテナイ帝国主義のしくみの構造、ふたたび
    1. アテナイの厳格な貢金と徴船の取り立てに同盟離脱
    2. アテナイ帝国主義のしくみ(自分の貢納金が枷をつくる)
  18. タソス島と「九路」(エンネア・ホドイ)の征服
    1. ペルシア(フェニキア水軍)をやぶる
    2. タソス島と「九路」(後のアンピポリス)を征服
      1. タソスの富に目をつけるアテナイ
      2. 「九路」に上陸植民は、トラキア人によって壊滅
      3. タソス人3年の包囲で陥落、現アンピポリスの鉱坑のある大陸地域を手離す!!!
  19. メッセニア人をめぐるスパルタとアテナイ
    1. メッセニア人反乱の派兵で、スパルタと表面的に決裂
    2. メッセニア人をナウパクトスに入植させる
    3. ナウパクトスは対コリントス対策
  20. コリントス戦線でペリクレス登場!
    1. メガラと対コリントスで呉越同舟
    2. クサンティッポスの子ペリクレス、シキュオン撃破
  21. キモンのキティオン遠征は失敗、フェニキア人に撃退される!!!
  22. 第二次神聖戦争(前449-448年)
  23. ボイオティア方面の反乱
    1. ボイオーティア人の反乱鎮圧・カイロネイア占領
    2. 誇り高きテーバイ人が故地を奪還!
    3. エウボイア、怒った!メガラはやはりアテナイが好かん!
    4. ラケダイモン王プレイトアナックスあっさり引き揚げ
    5. アテナイ、エウボイア島征服
  24. 三十年不戦条約
  25. サモス戦争
    1. プリエネをめぐる戦争
    2. ミレトスに肩入れして、サモスを撃破、人質を取る
    3. サモス人の反乱、サモス島奪還!
    4. アテーナイ軍のペリクレス、サモス海軍に勝利
    5. サモス島包囲陣
    6. ペリクレス、フェニキア船団に対処
    7. アテナイ軍の将軍たち
    8. アンピポリスの創建者ハグノン
    9. サモス人降伏、ビュザンティオン人降伏
  26. ケルキュラ紛争とポテイダイア紛争へBTF
    1. サモス陥落から数年でペロポネソス戦争勃発
    2. 50年のアテナイ帝国主義化
    3. デルポイの神託「全力を傾ける者が勝利を得る」
  27. アルクマイオーン家の不浄
    1. キュロン一派に対する涜神(前7世紀)
    2. 母方が不浄者のペリクレス(前6世紀のクレイステネス一族)
  28. 銅屋女神の神殿の捏造
    1. 銅屋女神の不浄を除く請求
    2. パウサニアスの罷免召還
      1. パウサニアスのペルシアかぶれ
      2. パウサニアスのとまどい
    3. 銅屋女神自体の捏造
    4. パウサニアス、衰弱死
    5. パウサニアスの墓移動と二体の青銅像
  29. テミストクレスの最期
    1. テミストクレス、ペルシアと共謀の疑惑で追跡
    2. 敵のペルシアへ逃亡
    3. テミストクレス、自殺か病死か
  30. ペリクレスの開戦演説
    1. ペリクレスの演説
      1. ペロポネソス=農民、船がない
      2. 海事の拾得に時間がかかる
      3. 島国都市化
      4. 畑屋敷を捨てる勧告
      5. 開戦直前

ペロポネソス戦争の発端:コリントスVSケルキュラ

海運国コリントス

最初の三重櫓船建造はコリントス人

コリントス人が一番早く現代様式にもっとも近い船の構造を採用し、三重櫓船もヘラスで初めてコリントス人が建造したといわれている。p21

〔註〕長さ約三六メートル、幅約六メートルの軍船で、大体二百人位が乗れた。
普通の航行の時は帆を上げたが、交戦の時には、主帆は降ろして小さな帆を上げ、櫂で漕いだ。

サモス人のために船を四隻建造したのもコリントスの造船家アメイノクレスであったらしい。
彼がサモス島に渡ったのは今次大戦の終りから数えてほぼ三百余年前のことである。p21

テーバイ人、コリントス人、サモス人、ラケダイモーン人、は、ギリシア系フェニキア人(フェニキア系ギリシア人)である

最古の海戦もコリントスVSケルキュラ

今日に知られている最古の海戦もコリントスがケルキュラ人に対して行った戦いで、これは前記の算定で数えておよそ二百六十年あまり前のことである。p21

地峡という立地

これはつまり、コリントス人の都市が地峡に位置していて、当時から常に交易が盛んだったからで、往時のヘラスはペロポネソスの内部と外部の往来を、海上よりも陸路によってコリントス市を介して交易していたため、彼らは富んで強力になった。p21

ポリュクラテスのサモス海軍

そしてさらに時代を下ってペルシア王第一代のキュロスとその子カンビュセスの世になると、イオニア人の海軍が発達して、
サモス島の僭主ポリュクラテスは、カンビュセスの時代に海軍力で勢力を揮うにいたった。彼は他の島々をも支配下に置き、デロスのアポロンに彼が奉献したレネイア島も、彼が獲得した島であった。p22

無甲板船とアテナイ帝国主義

アイギナ人、およびアテナイ人、またそのほかの一部の都市にもわずかながら海軍はあったが、その多くは五十櫓船から成っていた。p22

テミストクレスがようやく船を建造することを説得した。
そして事実、この船を使用して実際にアテナイ人は戦った。しかしこれらの船とて全体に甲板は張られていなかった。p22-23

ラケダイモン人が同盟都市に年貢を賦課しないで支配し、諸都市が単にラケダイモン自体に都合のよい政体を維持するように寡頭派を支持したのに対して、アテナイ人はキオス島とレスボス島を除く諸都市から順次船舶を徴発するようになり、年貢はすべての同盟諸都市から取り立てた。p25

アテーナイは、テミストクレスの時代であったても、いまだに無甲板船であった。
ラケダイモーン人は、フェニキア系の伝統から年貢を取り立てず、通商で友好関係を築いたのに対し、悪辣なアテーナイ人は、年貢を徴発した。アテーナイ帝国主義のはじまりである。

著述方針と三十年平和条約のアテナイによる破棄

演説に関しては、各演説者が戦争直前かあるいは戦争中に発言したものであるが、私自身が実際に聞いた演説も、また後になって人伝てに報告された演説も、発言された言葉をありのままに記録することは不可能であった。p27

この戦争はエウボイア島陥落後に締結された三十年平和条約を破ったアテナイ人とペロポネソス人とによって始められたのであるゆえ、何からこのような大戦争がヘラスに起ったかを、今後誰も求める必要のないように、何ゆえに彼らがその条約を破棄したかという両者の弾劾と紛糾を始めに書いた。p28

コリントスVSケルキュラのはじまり

エピダムノスの内乱

ケルキュラの植民都市エピダムノス

エピダムノスはイオニア湾に入って右岸の都市国家である。
その近隣はイリュリア系の異語族タウランティオイ人によって占められている。p28-29

このエピダムノスに入植したのはケルキュラ人である。
しかし、都市の創建者には習慣上ケルキュラの母市であるコリントスから招かれたヘラクレスの末裔エラトクレイデスの子パリオスがなった。
そしてコリントス人と他のドリス系の者が共同して移住した。p29

ペロポンネーソス戦争の発端は、コリントスVSケルキュラの紛争であるが、その紛争の発端は、
ケルキュラの植民都市エピダムノスの内乱である。

エピダムノスという都市は、コリントスから植民したケルキュラ人によって建設された。
名祖には、ケルキュラ人ではなく、母市のコリントス人ヘーラクレースの末裔パリオスがなった。
ドーリス系ギリシア人(コリントス人やケルキュラ人)が入植した。

立地は、イリュリアエペイロスの境界あたり、ケルキュラ島よりかなり北である。
イタリア半島のタラスのかかとの対岸にある。
だから、フェニキア系ギリシア人のコリントス人やラケダイモーン人は、エピダムノス経由で、タラスや南イタリアに植民できたのであろう。
ここからは、イタリアは至近距離である。
ローマ時代は、デッラキウムと言われた。現在はドゥラスである。
まわりは、イリュリア人なので、後には、イリュリアのテウタに併合されたりした。

ケルキュラ、エピダムノスの大衆派の嘆願を無視

そしてついに今次大戦前には、大衆派が少数派を追放したが、追放された者たちは異語族と一緒にエピダムノスに舞い戻って海陸両方から荒した。
エピダムノス市内にいた者たちは圧迫されると、ケルキュラが母都市であることから、ケルキュラに人を送って、自分たちを見殺しにせず、追放された者と自分たちの間を調停して、異語族との戦いから解放してくれるように要請した。
彼らはヘラの社に縋ってこのための哀訴者となったが、ケルキュラ人はこの要請を容れず彼らを無為のまま送り返した。p29

大衆派は、無産者階級で、少数派は、フェニキア系ギリシア人の貴族階級であったのだろう。
イリュリアは、古来カドモス系ギリシア人が植民していたため、少数派は、イリュリアのジモティーとも共闘できたのであろう。

大衆派によって追放された少数派が、イリュリア人と組んで捲土重来して土地を荒した。
大衆派母市ケルキュラを頼って、ケルキュラのヘーラーの社に哀訴者となるが、無視される。

コリントスがエピダウロスの嘆願を聞き入れる

そこでエピダムノス人は、神託に従ってコリントスに来てエピダムノスをコリントスの植民都市として委託し、彼らの都市の創建者がコリントス人である点を指摘し、かつ神託を示して自分たちを見殺しにせず庇護してくれるようにと訴えた。コリントス人は、エピダムノスがケルキュラと同じようにコリントスの植民都市であると認めた。p29

コリントス人は、エピダムノスケルキュラの植民都市ではなく、コリントスの直接植民都市と認定して、大衆派を支持した。

財軍充実のケルキュラがコリントスに反抗的

その上、ケルキュラが植民都市としての務めをコリントスに果たしてきていないことによって感情を害していたので、この援助を正しいとして約束した。
すなわちケルキュラは、慣例の寄付を共同基金に出資しないばかりでなく、他のコリントス系の植民都市がコリントスに祭礼の際に与える名誉も許さずに、コリントスを軽んじた上、財力では当時のヘラスの最強都市にも比肩するほどであり、かつ軍備においても一流都市に位し、とくにきわめてすぐれた海軍力を誇っていたからである。p30

ケルキュラ富裕におごって、コリントスを無視。

コリントス、エピダウロスに植民部隊を送る

このように、あらゆる不平を持っていたコリントス人は渡りに船とエピダムノスの要請を入れ、希望者はエピダムノスに移住するように指示し、
アンプラキアおよびレウカス、それにコリントス自身の守備隊にも同行を命じたのであった。
彼らがコリントスの植民都市アポロニアを通って陸路エピダムノスにむかったのは、海路ではケルキュラからの妨害のあることを恐れたためであった。p30

エピダウロスの大衆派を支持するために、コリントスから植民団が送り込まれる。

寡頭派支持のケルキュラが派兵

ケルキュラは、・・・高圧的に追放された者の受け入れ方と、コリントスが派遣した守備隊および移住民の送還を命じた。
ケルキュラは四十隻の船と本土送還を名目に追放されていた者たちを伴い、さらにはイリュリア人兵士をもこれに加えてエピダムノスを攻撃した。
ケルキュラ人は、(地峡に立つ)エピダムノス市に包囲陣を布いた。p31

富裕な寡頭派支持のケルキュラは、エピダムノスを包囲した。

コリントス連合軍を結成

ケルキュラに航海を妨害されるのをおそれてコリントスはメガラに船団の同行を求めると、メガラは八隻、ケパレニア島のパレは四隻、エピダムノスもこの要請に応えて五隻、ヘルミオネは一隻、トロイゼン二隻、レウカス十隻、アンプラキアは八隻の船をこれぞれ提供し、テバイとプレイウスには軍資金が要求され、エリスには空船と軍資金の提供が要求された。
コリントス自体は三十隻の船と三千の重装兵を整えた。p31-32

コリントスの軍勢は、ペロポンネーソス人のほとんどを擁している。

ケルキュラは、ラケダイモンとシキュオンに援軍要請

この準備を察知したケルキュラは、ラケダイモンとシキュオンに使節の派遣を依頼し、その者たちを同行してコリントスに行き、エピダムノスはコリントスにとって無関係であるから、コリントスはその守備隊と移住民をエピダムノスから撤退させるように要求した。p32

ケルキュラ側には、フェニキア系ギリシア人の勢力の強いラケダイモーンと、コリントスの隣国シキュオン援軍を求めた。

コリントス・ケルキュラ戦争のはじまり

緒戦のケルキュラ圧勝

しかしコリントスは、・・・ケルキュラに先発して宣戦を布告した。
ケルキュラは、・・・・コリントス船団を迎撃して海戦を展開し、一方的に勝利を収めてコリントス船十五隻を沈めた。p33

この戦いの後ケルキュラ人はケルキュラのレウキンメ岬に戦勝塚を立て、捕えた者の中からコリントス人を捕虜として残した以外はすべてを殺戮した。p33-34

エピダムノスの内乱は、大衆派VS寡頭派の内乱。
大衆派=コリントスが支持少数派=ケルキュラが支持(+イリュリア人)
という構図。

アテナイの介入

この海戦の後、コリントスはケルキュラに対する戦いに憤慨し、丸一年とその翌年をかけて強力な船団を建造して準備を進めた。
さらにペロポネソスやその他のヘラス諸地域からも漕手を高い報酬をもってた詰めたので、p34

ともにアテナイに援軍要請

この様子を知ったケルキュラは敵の戦備に恐れを抱き、アテナイに使節を送りその同盟国となって、打開策を見出そうと決定した。
(つまりケルキュラはヘラスの誰とも盟約はなく、アテナイともラケダイモンとも同盟を結んでいなかった)。
これを知ったコリントスは、彼らも使節をアテナイに派遣して、企図された戦いの妨げになるアテナイ海軍とケルキュラ海軍の合体を防ごうとした。p34

アテナイ議会で

議会が開かれると、両者は論争を展開したが、まずケルキュラ人は次のような要旨を述べた。p34

「つまりケルキュラはイタリアとシケリアに向う沿岸航路の要地を占め、ペロポネソスの海軍がイタリアとシケリアに向うかの地からヘラスに船を送ることをも防ぎ、その他、種々な最適の条件を兼ね備えているのである。」p38

つまり、ケルキュラは、ペロポンネーソスとシケリアの連絡を妨害できる要地であることを述べることで、全ペロポンネーソスを敵にまわした。
まさに、この立地の妙がケルキュラが富裕になった原因であった。

アテナイーケルキュラ同盟

相互防衛協定を結び、・・・
アテナイはケルキュラを受け入れ、コリントス人が去った後、ケルキュラに援軍として十隻の船を派遣した。p46

アテナイがコリントスの条約国でありながらケルキュラと手を結んでコリントスに海戦を挑んだことがこの大戦の第一の争点となった。p53

ここでアテナイ(大衆派)ケルキュラ(寡頭派)が同盟を結んだ。
コリントスは全ペロポネソス諸都市を味方につけて、アテナイに挑戦することになる。
これは、実に奇妙なねじれ条約である。
本来、大衆派のアテーナイは、フェニキア系の寡頭派とは友好しない。

ポテイダイア戦線の勃発

舞台はカルキディケ半島へ!

アテナイ、朝貢国ポテイダイアに防壁と人質要求

アテナイとは同盟を結んでいてその進貢国でありながら、しかもコリントスの植民都市であったポテイダイアにパレネに面した防壁の除去と人質を要求し、さらにコリントスの行政官を追放して、今度は毎年コリントスから派遣されて来る行政官を拒絶するようにと命じた。p53

ケルキュラ紛争の次の前哨戦は、ポテイダイア戦線である。
舞台はトラキア方面の三つ手のカルキディケ半島である。
ポテイダイアは、一番西のパレネ半島の地峡にある都市
三つ手は、西からパレネ半島、シトニア半島、アクテ半島である。
ペロポンネーソスのコリントスの植民都市でありながら、ペルシア戦争後のアテナイ帝国主義によって、アテナイ同盟国・朝貢国となっていた都市の一つ。
血族的にはドーリス系であり、ラケダイモーン陣営であるエーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼が、ペルシア戦争の後、ラケダイモーンが外交的に鎖国的であったため、アテーナイの帝国主義政策に対処できなかった。
そのうちに、アテーナイは、エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼を「奴隷」的朝貢国としていた。

トラキアの反乱防止のため

これはペルディッカスとコリントス人にそそのかされてポテイダイアが反乱を起こし、トラキアの他の同盟国をも道連れにすることを恐れたからであった。p54

コリントスとはすでに紛争が明らかになった上、以前は同盟国として友好を結んでいたマケドニアの王アレクサンドロスの子、ペルディッカスとも、今は敵となっていたからである。p54

アテーナイが和平条約を侵犯して、同盟国のコリントスと紛争状態に入ったため、
トラキアに近いマケドニアの王ペルディッカスとも敵対関係となった。
ペルディッカスは、ペルシア戦争時のアレクサンドロス一世の子。

マケドニアの参戦

マケドニアのペルディッカス王、アテナイと対決姿勢

ペルディッカスは、トラキアのカルキディケやボッティケにも手紙を送って同盟離脱の行動を共にするように唆し、もしも隣国であるこれらの国と手を結べば、戦いを共同して容易に進められようと考えていた。p55

マケドニア王ペルディッカスは、トラキアのカルキディケボッティケに共闘を呼び掛ける。

ポテイダイア反乱開始!

ポテイダイア側は、アテナイ人がポテイダイアに来る場合にはラケダイモン人はアッティカに侵入するという約束をラケダイモン政府から取りつけ、
これを機会にカルキディケ人およびボッティケ人との同盟を誓ってアテナイ同盟から離脱した。p55

ドーリス都市ポテイダイアアテーナイ同盟から離脱

オリュントス市を強大な集住都市に改編

そこでペルディッカスは、カルキディケ人に、海岸線にある彼らの都市から離れてオリュントス市に移住し、そこを一つの強大な都市にするように、また、自分の土地を捨てた移住者にはペルディッカス自身の領地ボルベ湖辺のミュグドニアの一部を与えて、対アテナイ戦の続くかぎり、そこに住むようにと説いた。そこで彼らは都市を破壊して移住し、戦争に備えた。p55-56

ペルディッカスは、オリュントス市に住民を避難させて、戦争体勢に入る。
オリュントスは、三つ手の真ん中シトニア半島先端トロネ市によって命名されたトロネ湾の湾奥にある都市。

カルキディケ半島の地誌

三つ手のカルキディケ半島の東には、ストリュモン河が流れ、河口にアンピポリスがある。
アクテ半島:付け根のアカントスと先端のアトス山に挟まれた半島。
シトニア半島:付け根のオリュントスと先端のトロネに挟まれた半島。
パレネ半島:付け根のポテイダイアと先端のスキオネに挟まれた半島。

コリントス派兵

コリントス・マケドニア連合軍総司令アリステウス

この間にコリントスは、・・・総勢重装兵千六百と軽装兵四百との派遣した。この将軍にはアデイマントスの子アリステウスがなった。p56

ポテイダイア人とアリステウス麾下のペロポネソス人はアテナイ軍を予期して地峡でオリュントスに面した地に陣を築き、市の外に市場を設けた。
同盟軍はアリステウスを全陸上勢力の将軍とし、ペルディッカスを騎兵隊の指揮官とした。p57

コリントス&マケドニア方、歩兵隊指揮官コリントス人アリステウス、騎兵隊指揮官マケドニア王ペルディッカス

緒戦でペロポネソス勢敗北、ポテイダイアに籠城

アリステウスは、・・・オリュントスとポテイダイアのいずれに戻るにしても危険が伴うことに気づいた。結局思案の末、自分の麾下を固くまとめて、最短距離を馳足でポテイダイアへ強行することに決意した。
熾烈な射撃を受けながらも少数の犠牲者を出しただけで大部分を救ったのであった。p58

敗戦、ポテイダイアに強行突破で帰還。

とうとうラケダイモーンが参戦!

ラケダイモンが議会を招集

ポテイダイアが包囲されると、コリントスは静観してはいなかった。
ただちに同盟都市をラケダイモンに呼集して、アテナイの条約違反とペロポネソスに対する不正とを声を大にして非難した。
ラケダイモン人は同盟都市とアテナイの不正に不平を持つ都市ならばどの都市でも招集して、ラケダイモン人の議会を開き、慣例に従って発言するよう命じた。p60

ラケダイモンの王と監督官の対立

ラケダイモン王アルキダモス

そして意見の大勢は、すでにアテナイが不正を犯しているとして、急遽、戦争を開始すべきであるとした。
そこで叡智と賢慮をもって知られるラケダイモン王、アルキダモスが登壇して以下の要旨を述べた。p72

〔註〕祖父レオンテュキダスが前四七六年に追放された後を襲ってラケダイモンの王になったがそれがいつ頃か判然としない。
そして前四二七年頃まで在任したらしい。(レオテュキデスの誤記である)

アルキダモス二世とは?

⓪エウリュポンティダイ(エウリュポン朝)の王。

①祖父レオテュキデス
厭戦的行為によって、ラケダイモーン監督官らに追放され、よりによってアテーナイシンパのテゲア市アテナ・アレアの神域を擁する)に逃げ込み、家はラケダイモーン人によって取り壊された。
ペルシア戦争終結時の王で、前479年、ミュカレの戦いでペルシア軍を破って戦争を終結させたにも関わらず、エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼をアテーナイ帝国主義のほしいままに任せた。

②敵アテーナイ人の評価は高い
当然、愛国的でないので、ラケダイモーン人の評価は低く、アテーナイ人の評価は高い。

アルキダモス王厭戦論

「ポテイダイアについても、諸都市の陳述する不正についてもそれぞれアテナイに使節を送って合法的解決にとくに努力しなければならない。
法の裁決を待たずして悪人扱いをして攻撃すべきではない。」p76

ペロポンネーソス戦争は、内戦なので、内政担当のエウリュポンティダイの王が担当する。
ペロポンネーソス勃発時の王は、エウリュポン朝のアルキダモス
祖父は、ミュカレの戦いで、アテーナイにイオニア地方を丸投げして帰還した厭戦行為によって、家をぶっ壊され、テゲアのアテナ・アレアの聖域に逃げ込んだアテーナイ・シンパレオテュキデス王
アルキダモス王も、厭戦的。

督視官ステネライダス

アルキダモスが以上の要旨を述べると、最後に当時の督視官の一人であったステネライダスが以下のように言った。p76

〔註〕督視官は毎年五名スパルタ市民より選ばれ、ラケダイモンの司法、行政および道徳を取締り、二人の王の目付役、補佐官として活動する。
遠征の際には、一人の王に二人の督視官が目付けとして従った。

〔註〕演説者の名前が記されていて、その父親の名が記されていないのはこのステネライダスと他二名だけである。

ステネライダスの父の名が記されていないのは、トゥキュディデスが知らなかっただけの可能性もあり、意図的に記さなかった可能性もある。
主戦派で、ペロポンネーソス戦争を主導するのは、王ではなく、このステネライダスや、将軍であるブラシダスリュサンドロスである。

督視官ステネライダス、不戦条約破棄の動議提出!

「ラケダイモン諸君、諸君はスパルタの名誉にかけても戦いに投票すべきである。」このようにいうと、ステネライダス自身が督視官であるところから、ラケダイモンの議会に動議を提出した。p77

そこで同盟諸都市代表を入れて、アテナイが不正をなしたという決議を彼らがしたことを告げた。
条約が破られたとするこの議会の決定は、エウボイア戦争の後に成立した三十年不戦条約以来、十四年目のことである。p78

ステネライダスの発議により、アテーナイに宣戦布告。
三十年不戦条約以来、十四年目。

ペルシア戦争後から三十年不戦条約までの昔語り

ペルシア戦争後の処理

レオテュキデス、ミュカレの海戦で引き揚げ、セストス包囲戦まで残らず

前479年:ミュカレからラケダイモン王レオテュキデス直接帰国

ペルシアが海陸ともにヘラス軍に敗れてエウロペーから引き揚げる時ミュカレでその逃走中の船団も撃滅されると、ミュカレのヘラス軍を率いていたラケダイモンの王レオテュキデスはペロポネソス同盟諸軍をまとめて帰国した。p78

前479年、ペルシア戦争の終局、ギリシア本土から、パウサニアス(アギス朝の摂政)がプラタイアの戦いでペルシア軍を撃退したと同じ頃、
レオテュキデス(エウリュポン朝の王)は、イオニアのミュカレの海戦を展開し、ペルシア軍を駆逐するも、留めをささず、アテーナイに任せて帰国した。

セストス包囲戦でペルシア戦争終結:アテナイ、イオニア帝国化に着手

しかしアテナイ軍とペルシア王の支配から早速離反したイオニアおよびヘレスポントス地方の同盟軍は、ペルシアが確保していたセストスに留まってそれを包囲した。越冬の後、この地を陥し、異語族もそこを去ってから、彼らは初めてヘレスポントスを離れて各自の都市に帰国した。
アテナイの大衆は異語族が自分たちの地を去るとただちに婦女子を連れ戻し、退蔵してあった諸財を持込み都市と防壁再建の準備を整えた。p78

プラタイアの戦いと、ミュカレの海戦は、ラケダイモーンが中心になって行ったにも関わらず、
最期のセストスの包囲を行なわず、レオテュキデスは帰国した。
アテーナイが単独で、セストスの包囲でペルシア軍残党を処刑し、戦勝の果実を独占した。
このことが、エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼とラケダイモーン本国に多大な不利益をもたらした。
まさに、レオテュキデスは、獅子身中の虫、裏切り王である。

アテーナイが送り込んだ新植民大衆派を形成し、昔ながらのペラスゴイの名門の貴族層寡頭派を形成し、諸都市の内乱を増長させることになったのであろう。アテナイ帝国主義に反乱を起こし、ラケダイモーンを頼っていくのは、ペラスゴイ層であろう。
これはハンニバルのタレントゥム征服をめぐる寡頭派=タレントゥム人(ラケダイモーン人)大衆派=征服後ローマが送り込んだ新植民と同じ構図である。

アテーナイ、新港ペイライエウス構築

ペイライエウス新港の構築

その上、テミストクレスはペイライエウスの残部を構築することも説得した。
そのわけはこの土地が有望で、三つの自然港を持ち、しかもいまや彼らは海の民となっていたので、この地が力を得るに大きな役割りを果すと考えたからであった。p82

パウサニアスのキュプロス島占領

さて、一方クレオンブトスの子パウサニアスは、ヘラス軍総司令官としてラケダイモンからペロポネソスの船二十隻とともに派遣された。
それにアテナイの船三十隻と他の同盟諸都市の多数の船が随行し、
まずキュプロス島に向いその島の大部分を降し、後にペルシアが占領していたビュザンティオンをパウサニアスの指揮の下に包囲陥落せしめた。p83

ペルシアが保護していたフェニキア人の島キュプロス島を、この時、つまりペルシア戦争後に、ヘラスが横取りした。
それまで脈々とフェニキア人が文明を築いてきたキュプロスをヘラスが横取りした瞬間であった。
それゆえ、ペルシアはイオニア植民都市やフェニキア人のクレタやキュプロスにとって寛容な支配者であったわけだ。

パウサニアスの乱暴という捏造

しかし、この時、すでにパウサニアスの乱暴な振舞いは他のヘラス人やーとくに最近ペルシア王から解放されたイオニア人の顰蹙をかっていた。
そこで彼らはアテナイを頼りにし、血族関係からもアテナイが彼らの指揮をとることを要請し、パウサニアスの乱暴の前に彼らを放置しないように要求した。p83-84

イオニア人のほとんどはフェニキア人パラスゴイが築いた植民都市で、アテーナイからも後年入植した者はいただろうが、アテーナイと血族関係というのはいただけない。
アテーナイからの植民リーダーは、アイオリス系のピュロス王家の末裔であるからだ。

また後のアテーナイ帝国主義を見れば、パウサニアスに罪を擦り付けている可能性は棄てられない。実際は、パウサニアスはさほどイオニア支配に熱心だったのではなかろう。
これはアテーナイ人のペラスゴイ(イオニア人)への乱暴を、ラケダイモーン王になすりつけて捏造したものであろう。

パウサニアスのペルシアかぶれ

ラケダイモンに来たパウサニアスは彼の私的不正行為について審査されたが、主な嫌疑は晴らされ放免された。
最大の告発事項は彼のペルシア化で、これはもっとも明らかなように思われていた。p84

パウサニアスは、ラケダイモンの保守的な督視官らとの権力対立があったのだろう。
イオニア諸都市がパウサニアスを批判して、アテーナイに頼ったのは、アテーナイがイオニアやヘレスポントスの諸都市にすばやく植民を送り込んだからである。おそらくのこの新来者が大衆派を形成し、昔ながらのペラスゴイの名門の貴族層が寡頭派を形成し、諸都市の内乱を増長させることになったのであろう。

厭戦的なパウサニアスをアテナイが篭絡して、イオニアの利権から追い出したというのが真相だろう。
ラケダイモーンとのイオニア支配における水面下の抗争のアテーナイの勝利である。

アテナイ帝国主義支配のしくみ構築

アテナイが、税と挑船の制度を制定

アテナイは、同盟諸都市のパウサニアスに対する憎悪から統治権をこのようにして引き受けると、対異語族活動に諸都市が治めなければならない税や徴船の制度を制定した。
これはペルシア王の領地を討って彼らが受けた災害の報復をするという表向きの理由の下に行われた。p84-85

イオニア諸都市がパウサニアスをきらって、アテーナイの統治を望んだというときその中核部分は、アテーナイが送り込んだアテーナイ人の新植民の大衆階級であっただろう。
もとからのペラスゴイは、貴族も大衆もアテーナイの帝国主義を憎んでいたに違いない。後にこれはアテナイ帝国主義への反乱として噴出する。

ポロス(貢金)徴収開始、デロス島に財務局を設置

そしてヘラス公庫財務職がアテナイのために初めて設立された。
この官職は貢金の収納を司り、収納される貨幣をポロス(貢金)と呼んだ。
最初の貢金総額は四百六十タラントンに上った。
この同盟の財務局はデロス島に置かれ、同島の神殿で同盟会議が開かれることになった。p85

デーロス島は、汎ヘラス主義のための拠点として、国際友好主義のペイシストラトスが開発した中心地である。
アテーナイ市内でなく、エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼の中心デーロス島を拠点としたところ、アテーナーでなくアポローンをヘラスの主神にしようとしたところ、ペイシストラトスの国際人たる所以である。
最初は、そのデーロス島が、ポロス(朝貢金)の保管場所にされた。

アテーナイ帝国主義のシステムづくりとして、
税と挑船の制度を設ける。
ポロス(貢金)をデーロス島に設置する。

トラキアと島嶼は武力制圧!正体を現す野盗国家アテーナイ

利権の宝庫ストリュモン河畔を征服

まずアテナイ人は最初にペルシアが保持していたストリュモン河畔のエイオンをミルティアデスの子キモンの指揮の下に攻略して、住民を奴隷に売った。p85-86

利権の宝庫ストリュモン河畔を征服
トラキアで、船建造の木材と鉱物資源の宝庫であるストリュモン河畔の土地火事場泥棒的に征服
しかも、住民を「奴隷」に売ったのだ。
住民とはフェニキア系あっただろう。
フェニキア人の築いてきた富を暴力で横取りしたわけだ。
ここから、一気に文明後進国であったアテーナイが海運国の筆頭へと躍り出る。
もっともペイシストラトスの僭主政時代がアテーナイを大国に押し上げたが、ペイシストラトスは世界民友愛主義であったので、エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼の住民に悪辣なことはしなかった。

スキュロス島に植民

そののちエーゲ海のドロペス人の住む島、スキュロスの住民も奴隷に売ってアテナイ人自身がそこに移住した。p86

おそらくテーセウスの終焉の地として捏造されたスキュロス島は、これまで文明人ペラスゴイではなく、原住民のドリュオペス人細々暮らすほぼ無住の地であっただろう。
そこにほとんど初めてアテーナイ人が植民したわけだ。
それはテーセウスの終焉の地とされていたからで、テーセウスの架空の腐骨を集めて、国家発揚を推進するのであろう。
ほとんど発想がアベノマスクである。
中心になったのは、アカイア人ミルティアデスの子キモンである。
テーセウスはアカイア人であったからだ。

英雄に名前を「貸した」実在の人物

①キュメの建国者テーセウス
歴史上のテーセウスは、イオニア地方のキュメの創建に関わった英雄であった。
出自は、アイオリス系で、ピュロスからアテーナイに来た前1000年以降のアテーナイ王族の末裔で、アテーナイ市からイオニアに植民した一団の子孫であった。
このキュメの建国者テーセウスから、アテーナイ捏造班は、名前だけ借りて来て「英雄テーセウス」を、テーバイ帝室のヘーラクレースをまねて捏造したのである。

名前は、「キュメの建国者」テーセウスから取って来たが、実体は、アカイア人の将軍の一人で、
トロイゼーンを征服したアカイア人王家の一人であり、アテーナイを征服し、ダナオイ系の王朝を簒奪した人物である。

②テーバイの王(もしくは長官)アムピトリュオーン
歴史上のアムピトリュオーンは、テーバイのアポローン・イスメノスにフェニキア文字の鼎を奉納したテーバイ帝室の末裔の王もしくは長官。前1000年以降で、王政から寡頭政への過渡期の実在のテーバイの指導者。

この人の名前を、アルゴスに捏造したペルセウスの王朝に「接ぎ木」した。
そしてテーバイ帝室の代々の王の称号であったヘーラクレースを、ダナオイ人の英雄として「横取り」した。

ディオニューソス信仰の島ナクソスを隷属化

この後、アテナイは離反したナクソスに対しても戦いを起し、包囲作戦で降伏させた。
これは後々、事あるごとに最初の取決めに反して他の同盟諸都市を隷属化した最初の例となった。p86

ながらくカドモス系(フェニキア系)が植民し、文明化してきたナクソス島を奴隷化した。
そして、トゥキュディデスでさえ、「事あるごとに最初の取決めに反して他の同盟諸都市を隷属化した最初の例」と言って、アテーナイの不正を認めるほどの極悪国家となった。

アテナイ帝国主義のしくみの構造、ふたたび

アテナイの厳格な貢金と徴船の取り立てに同盟離脱

同盟を離脱したという理由として最大のものは、貢金と徴船の不払いであったが、ある場合には派兵拒否もあった。
なぜならばアテナイは厳格にこの徴税を実施、強制したので、その圧力に慣れず、また、それを好まぬ都市はアテナイを嫌ったからである。p86

アテナイ帝国主義のしくみ(自分の貢納金が枷をつくる)

つまり多くの諸都市人たちは、国を離れるのを嫌って出兵するのを好まず、協定負担分を船で納める代りに現金で支払い、アテナイはその支払金を資金として船舶数を増大させたゆえ、諸都市が反乱を起す時には、諸都市は不十分な準備と経験で戦いに直面するようになった。p86

平和主義的商業的「エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼」の住民は、戦争を好まず、自分たちが貢納した金で、アテーナイが自分たちを討つ船舶や武器を増産させる悪循環に陥った。
アテーナイは、ペルシアより、パウサニアスより、はるかに凶悪な帝国主義者となり、イオニア人(実はペラスゴイ、アテーナイ人でない)を制圧して、アテーナイ人を植民した。

「エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼の住民」の措定

「イオニア人」「ペラスゴイ」の名前で、一括してトゥキュディデスが呼ぶ人々を、上記のように厳密に措定する。
なぜなら、「イオニア人」で代表される人々は、イオニア人を含むヘレスポントス人、アイオリス人、カリア人、小アジアのドーリス人、ペラスゴイ(ペラスギ人)=前1200年の断絶以前の植民者などすべてを一括した人々を指しているからである。

タソス島と「九路」(エンネア・ホドイ)の征服

ペルシア(フェニキア水軍)をやぶる

この後、パンピュリア地方のエウリュメドン河口でアテナイおよびその同盟諸都市とペルシアとの間で海陸両戦が戦われた。
ミルティアデスの子キモンの指揮の下でアテナイの勝利は一日で決した。
フェニキアの三重櫓船団をアテナイ勢は捕えて全滅させたが、その敵船の数は二百に上った。86

弱い?強い?フェニキア人軍隊は?

ペルシア人は、ペラスゴイにとってアテナイよりはるかに寛容な支配者であった。
それは、実働部隊が、「エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼の住民」と同族のフェニキア人であったからだ。
イオニア人を守ろうとするペルシア帝国傘下のフェニキア水軍は、アテナイ帝国主義を阻止すべく、奮戦するが、いかんせん平和民族だけに弱っちい。
フェニキア人は、船の建造と操舵に長けていたが、平和主義的な通商民族のため弱っちかった。
フェニキア人は、平和主義者なので、水軍・陸軍ともに技術や装備はすごいが、いかんせん命知らずでない。住民の命を尊重する。だから弱っちい。
しかし、騎馬隊にファランクスを組んでの歩兵隊は、実に歌を使って統制を取って、最強であった。ラケダイモーンの歩兵隊が、フェニキア系陸軍の最終形態であるからだ。
しかし、アテーナイに痛めつけられ続け、堪忍袋の緒が切れた時のフェニキア人はなかなかやるのである。その例が、ペロポンネーソス戦争の影の決戦「デリオンの戦い」であり、エパミノンダスであり、その最終形態が、ハンニバル軍である。

タソス島と「九路」(後のアンピポリス)を征服

タソスの富に目をつけるアテナイ

その後、しばらくしてタソスに反乱が起きた。
これは対岸のトラキアの市場と彼の所有する鉱坑に関する紛争が原因であった。
アテナイは船でタソスに向い、海戦に勝って上陸した。p87

タソス島対岸の鉱山もフェニキア人の開発によるものである。

「九路」に上陸植民は、トラキア人によって壊滅

ちょうど同じ頃、アテナイは、アテナイ人および同盟諸都市の一万名の者を、移住民として、当時「九路」と呼ばれた今日のアンピポリスに送り、
エドノイ人が占めていたこの地を占領したが、トラキアの内陸に進むとエドノイのドラベスコスでトラキア軍の全勢力に遇って壊滅させられた。
これは、トラキア人が「九路」の植民地化に敵意を持っていたからである。p87

「九路」(エンネア・ホドイ)は、タソス島の対岸の土地であり、木材と鉱物の宝庫である。
後にアンピポリスと呼ばれる都市である。
トラキア人と共存共栄していたフェニキア系のタソス島からの植民と違って、アテーナイ人の武力征服は、ジモティーのトラキア人の反発を喰らい、
正義の味方トラキア人は、巨悪アテーナイの「世界征服」を阻止したのであった。
つづく・・・と相成った。

タソス人3年の包囲で陥落、現アンピポリスの鉱坑のある大陸地域を手離す!!!

タソス人は戦に敗れて包囲されると、ラケダイモン人に要請して、アッティカに侵入して彼らを側面から援護するように要求した。
そこでラケダイモン人はアテナイには秘密でその約束をしたが、地震で実行を妨げられた。この地震の際にヘイローテスの大部分は昔奴隷化されたメッセニア人の子孫であるところから、メッセニア人と総称されていた。
ラケダイモン人がイトメの彼らに対して戦いを起してしまったので、
タソス人は三年間包囲された後にアッティカに降り、防壁の取崩し、需要金の即時提供と以後の貢金の順次支払い及び大陸地域と鉱坑を手離すことに同意した。p87

つまりトラキア人は、強欲で非人道的なアテーナイ人は壊滅させたが、
タソス人(フェニキア人)とは共存共栄でやっており、
タソス人は、対岸本土の「九路」、現アンピポリスを領有し、鉱山が多大な利益を得ていたのだ。
アテーナイ人は直接植民したかったが、トラキア人に阻まれてできなかった。
それゆえ、フェニキア人(タソス人)を通じて、間接的に、トラキア地方の富を吸い上げる作戦に切り替えた。

後に正義の味方「世界の警察」となっていき、ペロポネソス戦争を受けて立つラケダイモーンも、この時は、メッセニア人の反乱によって身動きが取れなかった。
ひそかにメッセニア人反乱軍を、ラケダイモーン人足止めのためアテナイ人が物質支援していた可能性が大である。

メッセニア人をめぐるスパルタとアテナイ

メッセニア人反乱の派兵で、スパルタと表面的に決裂

イトメの反乱軍との戦いが長引き、ラケダイモン人は他の同盟諸都市とアテナイにも援助を求めたので、キモンを将軍としたアテナイの大軍が派遣された。p87

イトメの者たちに説かれて寝返りでも打ちかねないとラケダイモン人は考え、同盟軍中でアテナイ軍だけを送還した。p88

そして早速ペルシア戦後にペルシアに対抗して締結された同盟を離脱し、ラケダイモン人の敵、アルゴスと手を結んで同盟を作り、また、同じ条件でテッサリア人とも同盟を結んだ。p88

おそらく、ラケダイモーンの危惧は当っていただろう。
アテーナイは、メッセニア反乱軍を、密かに武器横流ししたりして支持していたのだろう。

メッセニア人をナウパクトスに入植させる

イトメにいた者たちは十年間の戦いに耐えきれず、身柄の安全の保障の下にペロポネソスを離れ、再びその地に足を踏み入れない条件で妥協した。
ペロポネソスを離れた彼らと女子供を、ラケダイモン人への反感からアテナイ人が引き受けてナウパクトスに入植させた。p88

なればこそ、メッセニア人をナウパクトスに移住させたのだろう。

ナウパクトスは対コリントス対策

ナウパクトスは、それを領していたオゾリスのロクリス人から最近アテナイが獲得した地である。p88-89

メッセニア人をナウパクトスに植民したのは人道主義からではない。
ドーリス系のコリントスやロクリス・オゾリスへの当て馬として植民したのだ。

もともと、ラケダイモーンは、寡頭派の支配するケルキュラを支援して、コリントスと対決姿勢をしめしていたが、アテーナイ人がケルキュラを支援したため(イタリア方面植民の利権をねらっての「ねじれ現象」)、アテーナイ人と共闘する形となっていた。

しかし、メッセニア問題で、ラケダイモーンとアテーナイの対決姿勢が明確化した。

コリントス戦線でペリクレス登場!

メガラと対コリントスで呉越同舟

メガラがラケダイモン同盟を離れてアテナイ同盟に加入したのはコリントスとの国境紛争があったからで、アテナイはメガラとぺガイを獲得するとメガラ人のためにその都市からニサイアに到るまでの長壁を築きアテナイの守備隊をおいた。
このことがコリントス人のアテナイに対する感情を大いに悪化させるまず始めとなった。p89

伝統的に、隣国メガラとアテーナイは不倶戴天の敵であった。
基本隣国は、国境問題で不倶戴天となりやすい。
アテーナイは、メガラともアイギナ島とも不倶戴天である。

クサンティッポスの子ペリクレス、シキュオン撃破

この後、間もなく千人のアテナイ軍はペガイにあった船に乗船して、クサンティッポスの子ペリクレスの指揮の下シキュオンに巡航し、上陸を敢行してシキュオン人と交戦、勝利を得た。p94

〔註〕トゥキュディデスの理想的英雄、ペリクレスの初登場である。
彼は前五〇〇年頃生れているから、この時を全四五ニ、三年とすれば四十七、八歳の男盛りである。

アテーナイ人で、アテーナイ側に立っているトゥキュディデスにとって、悪の領袖ペリクレスは、理想の英雄である。

キモンのキティオン遠征は失敗、フェニキア人に撃退される!!!

三年の後、ペロポネソス人とアテナイ人の間に五年不戦条約が結ばれた。ヘラス内の戦いの圧迫から解放されたアテナイはキモンの指揮下に、同盟軍を伴って合計二百隻をキュプロス島に出兵した。
他はキティオンを包囲した。
しかしキモンは死亡し、糧秣に不足したので、キティオンを離れ、
キュプロスのサラミスに向い、フェニキア人、キュプロス人、キリキア人らと海陸で交戦し、海上、陸上ともに勝利を得た上に、ちょうどその頃エジプトに向った船も戻って来たので、それと合流ののち帰国した。p94

キュプロス島のキティオンこそ、テュロス王ピュグマリオンが植民したキュプロス随一の都市である。
結局アテーナイ人は、キティオンを落せなかった。
サラミスを落しただけ、サラミスはサラミス人の植民のケチな都市だ。

第二次神聖戦争(前449-448年)

ラケダイモン人はこの後、「聖戦」と呼ばれる戦闘に出兵をし、デルフォイの神域を占領、それをデルフォイ人に引き渡した。
しかしその後、ラケダイモン人が去ると、早速アテナイ人が出兵して来て神域を再び占領し、それをポキス人に引き渡した。p94

ポーキス人が、デルポイの財宝を掠奪し、それを成敗するために、ラケダイモーン人、ボイオーティア人が出動した。
涜神のポーキス人とアテーナイ人VS敬虔なラケダイモーン人とボイオーティア人という構図だ。
ちなみに、第一次神聖戦争は、シキュオンとアテーナイが、キラ市のポーキス人からデルポイを守った。
この第二次神聖戦争で、アテーナイは正体を現す。
もともと、デルポイは、テーバイ帝室系とアイオリス系の拠点である。
聖域デルポイを占領して、野盗国家ポーキス人に引渡したのは、アテーナイのペリクレスである。
こやつは、涜神者でもあったのだ。

ボイオティア方面の反乱

ボイオーティア人の反乱鎮圧・カイロネイア占領

この後、しばらくして、アテナイ人は、逃亡したボイオティア人がオルコメノスやカイロネイア等、その他のボイオティア地方の諸地域を占めたので、アテナイ重装兵千名と同盟諸都市の各自の兵をもってこれらの敵地に出兵した。この出兵の指揮はトルマイオスの子トルミデスであった。彼らはカイロネイアを奪い、住民を奴隷に売り、守備隊を置いてその地を離れた。p95

アテーナイは、テーバイの本拠ボイオーティアにまで侵入、カイロネイアを占領。

誇り高きテーバイ人が故地を奪還!

コロネイアに来たアテナイ軍に対して、オルコメノスを追われたボイオティア人と、彼らと行を共にしたロクリス人、およびエウボイア人と、さらにそれと思いを同じくする者たちが立向かって彼らを破り、アテナイ兵を殺したり生捕りにしたりした。
アテナイ人はボイオティア全土を離れ、捕虜を送還する条件で条約を結んだ。そこでボイオティア人の逃亡者は、帰還してその他の全地域にわたって主権を再び取り戻した。p95

ペルシア戦争で、ペルシア方についたテーバイ人は、さんざんであった。
しかし、ここに来て、故地を奪還。

ペルシア戦争の期間の真実!!!

ペルシア戦争は、前499年イオニアの反乱から479年プラタイアの戦いミュカレの海戦20年間の戦争である。

つまり、ペルシア戦争終結を、前449年「カリアスの和平」をもってとするというっ解釈は、アテーナイ帝国主義の欺瞞である。

「カリアスの和平」は、ペルシア帝国とデロス同盟の間の和平条約である。
キッカケは、アテーナイ帝国が、ペルシア帝国の領域であるキュプロス島の征服に失敗し、フェニキア水軍に撃退されたことである。

つまりヘラスVSペルシアの「ペルシア戦争」は、ラケダイモーンの撤収である前479年のミュカレの戦いで終結したとするほうが合理的である。

前479年から前449年三十年間は、アテーナイ帝国主義が、「エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼」を征服する「アテーナイ帝国」の征服戦争である!

「カリアスの和平」は、アテーナイ帝国主義を押し返した「エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼」の住民の反撃による和平であるのだ!

エウボイア、怒った!メガラはやはりアテナイが好かん!

この後、間もなく、エウボイアがアテナイに対して、反乱を起した。これに対してアテナイの軍勢を率いて渡っていたペリクレスに報らせがあった。それはメガラも謀反し、ペロポネソス人のアッティカ侵入の恐れもあり、かつまた、ニサイアに逃げたものを除きアテナイ守備隊員はメガラ人によって全滅させられたというものであった。
メガラ人はコリントス、シキュオン、エピダウロス等の支持を得て、反乱を起していた。p94

悪辣テミストクレスが、ペルシア戦争時、エウボイア人をだまして、家畜を敵に渡すよりは、好きなだけ屠殺させ、自分たちで食ってしまって破産させた。ヘーロドトス、下、P186-187)。ヒッポ持ちさんたちを追放して、アテーナイ人の下民どもに土地をわたしたものだから、エウボイア人は、怒り心頭、叛乱を起した。

コリントス人との内輪もめでメガラは不倶戴天の敵であったアテーナイと同盟を結んで、長壁も築かせ、アテナイの守備兵を受け入れたのだが、きっとアテーナイ人が高圧的だったのだろう。
内輪もめはすぐ仲直りして、長年の敵アテーナイに向うのは自然のなりゆきだ。

ラケダイモン王プレイトアナックスあっさり引き揚げ

ペロポネソス軍はその後、アッティカのエレウシスとトゥリアまで侵入し、ラケダイモンの王パウサニアスの子プレイストアナックスの指揮で土地を荒らしたが、それ以上は侵攻せず帰国した。p95-96

アギス朝の摂政パウサニアスの子プレイストアナックスは、「アテナ・カルキオイコス」の神殿に逃げ込み餓死したとアテーナイ人が主張する王になれなかったパウサニアスの子である。
父同様、親アテーナイ派だったらしく(おそらく母方がアテーナイだったのかもしれない)、アテーナイを征服できる状況をわざと逃して、帰国した。

アテナイ、エウボイア島征服

そこでアテナイ軍は、ペリクレスの指揮の下に、再びエウボイアに渡って全土を鎮圧し、条約を成立させた。しかしヘスティアイアだけには、住民を追放してアテナイ人がそれを占拠した。p96

プレイストアナックスの罪は大きい。アテーナイは息を吹き返し、テーバイ帝室系のエウボイア島を占領し、またまた占拠したのだから。

三十年不戦条約

エウボイアから帰還して間もなく、アテナイ人はラケダイモン人とその同盟諸都市に三十年不戦条約を誓い、アテナイがペロポネソスで占領していたニサイア、ペガイ、トロイゼン、アカイア等の諸都市をペロポネソス側に返還した。p96

完全敗色モードになっていた状況から回復し、アテーナイは、ラケダイモーンとその同盟都市との間「三十年不戦条約」を締結する。

サモス戦争

プリエネをめぐる戦争

この不戦条約の第六年目にプリエネに関してサモスとミレトスの間に戦争が起った。p96

プリエネは、サモス島の対岸にある都市である。
アテーナイは、フェニキア人の領域であるミレトスに、ペルシア戦争後植民を送り込み、ミレトスはアテーナイの傀儡になっていた。

ミレトスに肩入れして、サモスを撃破、人質を取る

ミレトスは戦いに破れるとアテナイに来てサモスを大いに弾劾した。
ミレトスは、サモスの市民で革命をもくらんでいる者も同行していたので、アテナイはサモスに四十隻の船団で渡って公民政権を樹立した。
また男子成人と子供の人質をそれぞれ五十名ずつ取りそれをレムノスに幽閉し、そこに警備隊を残して帰国した。p96

サモス人の公民派(大衆派)は、アテーナイ人の植民寡頭派は、もとのフェニキア系
フェニキア系のサモス人貴族の100名を人質として、レムノスに幽閉した。

サモス人の反乱、サモス島奪還!

サモス人の一部は島に留まらず、大陸に逃亡し、サモス市に居た有力者と協約を結んだ。また、当時サルディスを治めていたヒュスタスペスの子ピッストネスを同盟者として、援兵七百名を集めると夜闇を利用して、サモス島に、まず公民派に反乱を起させてその島の大部分を獲得した。次にレムノスから秘かに人質を盗むと、アテナイに対して反乱を起し、サモスに残っていたアテナイ警備兵とその指揮官たちをピッストネスに渡し、ただちにミレトス出兵の準備を整えた。
この動きに呼応してビュザンティオンも反乱を起した。p96

サモス人は、ペルシア帝国の力も借りて、「エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼」の住民とも共闘し、アテーナイ帝国主義に反旗を翻した。

アテーナイ軍のペリクレス、サモス海軍に勝利

アテナイ人はこれを知ると、六十隻の船でサモス島に向ったが、・・・
あと四十四隻の船団は、九人の僚将をもったペリクレスに率いられていた。
そしてサモス島のトラギア沖で、輸送船二十隻を含む七十隻の敵に遭遇しこれと海戦、アテナイ側の勝利に終わった。p97

後に、アテーナイ人にもコロナ地獄を味わわせる極悪人ペリクレスが、9人の同僚の提督として、サモス海軍に勝利する。

サモス島包囲陣

その後、アテナイから四十隻、キオスおよびレスボスから二十五隻の援軍が加わり、サモスに上陸した。陸を制圧し、ミレトスを海から遮断すると同時に三方を防壁で囲んで包囲陣を布いた。p97

ペリクレス、フェニキア船団に対処

ペリクレスはフェニキア船団の接近の報告を受けると、包囲軍から六十隻の船を抜いて、急遽カウノスとカリアに向った。
これはステサゴラス他がフェニキアにサモスから五隻の船で到着していたからであった。p97

アテナイ軍の将軍たち

後続の軍として、アテナイから、トゥキュディデス、ハグノン、ポルミオンらととも四十隻、さらにトレポレモスとアンティクレスとともに二十隻、キオスとレスボスからの三十隻も到着した。p97

アンピポリスの創建者ハグノン

〔註〕このトゥキュディデスは歴史家でもなければ、・・・
〔註〕ハグノンは、アテナイ帝国崩壊時の大立者、テラメネスの父であって、前四三七年にはアンピポリスの創設者となり、前四三〇年にも将軍をつとめている。
〔註〕ポルミオンはアテナイの名提督。

アテーナイ帝国主義の将軍ハグノンが、アムピポリス(Ἀμφίπολις)を建設する。
アムピポリスは、古来からフェニキア人の領域であったストリュモン河の河口付近の都市「エンネア・ホドイ」である。
この都市の原住民は、フェニキア系で、アテーナイ帝国主義の征服を苦々しく思っていた。
のちにラケダイモーンのブラシダスに解放されて、ハグノン像を投げ倒して、ブラシダスを創建者とする。

サモス人降伏、ビュザンティオン人降伏

サモス人は短期間は海戦で抵抗を試みたが、抗しきれず、八ヵ月間の包囲戦に破れた。そして降伏を承認、防壁を崩し、人質を提供し、船舶を引き渡して、さらにこの戦闘に要した費用を分割払いする条件を認めた。
そしてビュザンティオンも従前どおりに自ら属国の地位を認めた。p97-98

商売で大儲けし、人々を幸せにし、自分も富んでいたサモス人やビュザンティオン人から、武力でその富を奪う海賊国家アテーナイ。

文明を進化させようとするフェニキア人、進化の果実を武力で横取りすることで、文明を荒廃させようとするアテーナイ人という構図である。

ケルキュラ紛争とポテイダイア紛争へBTF

サモス陥落から数年でペロポネソス戦争勃発

このわすか数年後に、前述した今次大戦のきっかけとなったケルキュラ紛争とポテイダイア紛争が起きたのであった。p98

ペロポンネーソス戦争のキッカケとなるケルキュラ紛争が、前435年である。
その直前、ミレトスの愛人アスパシアの唆しによるのか、ミレトスを支援して、サモスと戦い、降伏させたペリクレスが、強硬に戦争を推し進める。

50年のアテナイ帝国主義化

ヘラス同士の間や異語族に対して起った上記の事件は、すべてクセルクセスが引き揚げてから今次大戦の始めに到る約五十年間に起っている。
この間に、アテナイは帝国統治権をさらに強固なものにし、力を強化した。p98

デルポイの神託「全力を傾ける者が勝利を得る」

ともかく、ラケダイモン人自身はアテナイが条約を破り、不正を犯したと決議してしまっていた。
しかし彼らはさらにデルフォイに神託を求めて、戦者に勝算ありやを訊ねた。
神は全力を傾ける者が勝利を得るとし、神自身も求めの有無にかかわらず、協力すると答えたと伝えられている。p98

事実上のペルシア戦争の終結であるミュカレの海戦(前479年)より50年間で、アテーナイ帝国主義は、「エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼」を奴隷地獄に落とした。
さすがに、前431年、ラケダイモーンの監督官 (Ἔφορος)であるステネライダスの鶴の一声で、アテーナイ帝国主義打倒の聖戦が切って落とされた。

ペルシア戦争とペロポンネーソス戦争の真実!

ペルシア戦争は、ヘラスが団結して、バルバロイのペルシア帝国をしりぞけた50年戦争ではなく、ヘラスの諸都市が、それぞれペルシアと同盟したり、解除したりしつつ行った20年の内戦である。
ペロポンネーソス戦争は、アテーナイ帝国主義が50年かけて、エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼の諸都市を搾取し、戦争の巷に投げ込んだことからのラケダイモーンによる解放戦争である。

アルクマイオーン家の不浄

まずラケダイモン人は使節を送って、神の不浄を清めるように要求した。
その不浄の顛末は次のような次第である。p104

キュロン一派に対する涜神(前7世紀)

昔、良い家柄の出で、オリュンピア競技勝者でもあり、また相当の影響力のあったアテナイ人にキュロンなる男がいた。
〔註〕前640年度のオリュンピア勝者とされている。

アクロポリスを占拠した。・・・僭制君主になろうとしたのである。
キュロン側は攻囲されると飢渇に苦しみ、キュロンとその兄弟は囲いを脱出して逃亡してしまった。
後に残された者たちは餓死する者が出るほどに状態が切迫したので、アクロポリスの祭壇にすがって哀訴者となった。
アテナイ人は、外に連れ出して殺してしまった。
この事件のために、これらのアテナイ人とその一族は不浄者、涜神者と呼ばれるようになった。p104-105

母方が不浄者のペリクレス(前6世紀のクレイステネス一族)

その本意は、クサンティッポスの子ペリクレスがこの一族に母方を通して血縁関係になることをラケダイモン人が知っていたので、その失脚がアテナイの対ラケダイモン政策に軟化を招くであろうとする考えにあった。p106

この要求の動機はペリクレスが当時のアテナイ政界の指導者としてもっとも有力であり、一貫して反ラケダイモン政策に終始し、妥協を認めずアテナイ人に開戦を提唱していたからである。p107

アルクマイオーン家の正体

アルクマイオーン家は、大衆派すなわちダナオイ系&アカイア系の領袖であったのだろう。
キュロンは、旧王家ピュロス出身のアイオリス系の王族の出であったと推定される。

アルクマイオーンは、ピュロス王家に「接ぎ木」されているが、実は「テーバイド」に詠われている、こちらもピュロス王家の係累とされるが、予言者アムピアラーオスの息子で、テーバイ帝室の二種の神器「ハルモニアーの頸飾りと長衣」を横領した悪辣なアルクマイオーンこそ、この家系の先祖が投影されていると思われる。
完全に、ダナオイ系&アカイア系の側に位置する人物と推定されるからである。
そして、この悪辣な家系に母方を通じて遡る。
このアルクマイオーン家が、キュロン一族の涜神的虐殺に関わったのは、前7世紀であるから、
そののち前六世紀には、シキュオンの僭主クレイステネスの娘と一族のメガクレスが結婚してできた息子が、かれまた悪辣下品な「クレイステネスの改革」のクレイステネスである。
ゲピュライオイ(フェニキア系)のハルモディオスとアリストゲイトンの事件を利用して、デルポイの神託を買収して、ヒッピアスを追放し、アテーナイを私物化した人物である。
このアルクマイオーン家の「民主主義」とは、「アテーナイ帝国主義」であり、民主主義ではない。
なぜならペイシストラトスの僭主政治のほうが、「民主主義」であり国際的にも「友愛主義」であったからだ。
ペリクレスが、主戦派の領袖であったはずである。

このアルクマイオーン家こそが、アテーナイ捏造班を作り、神話を改作し、歴史を捏造した張本人の一族であったであろう。
ペリクレスこそ、その最たるものである。

銅屋女神の神殿の捏造

銅屋女神の不浄を除く請求

アテナイ人は銅屋女神の不浄も除くようにラケダイモン人に迫った。p107

パウサニアスの罷免召還

その端緒はスパルタ人がヘレスポントス方面の司令官であったラケダイモン人パウサニアスを初めて罷免召還した時に発する。
裁判の結果、彼は無罪と認められたが、公的にはもはや帰任を許されなかった。p107

パウサニアスのペルシアかぶれ

そこでペルシア風に装ってはビュザンティオンを出て旅行したり、ペルシア人やエジプト人の槍持ちを従えてトラキアを行軍したり、食卓までもペルシア風に調えたりp109109

パウサニアスは、イオニア人の僭主たちを見て、その豪華で富裕な生活様式に魅了され、先祖伝来の質素な生活様式と比べてしまったのだろう。
スパルタ人の性格に偏見があるようで、皆が典型的スパルタ人ではなかっただろう。

スパルタ人の質素倹約の気風は、フェニキア人本来のものではなく、テーラースが甥御たちのために豊穣のメッセニアを籤で当ててやれず、やせ地のラコニアを引き当てたことから、培われた後天的なものであった。

パウサニアスのとまどい

また、彼は人を寄せつけず、誰彼の見境いもなく激しい怒りを投げつけたので辟易しない者はなかった。
これがアテナイ側に与する都市の数をふやした大きな原因となった。p109

これは大ウソだろう。
実際、パウサニアスは、ペルシア風のぜいたくをしたかもしれないが、「エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼の住民」がアテーナイ人を頼ったのではなく、アテーナイ人が、ペルシア軍制圧を利用して、火事場泥棒的に、彼らを「奴隷」的朝貢国に変えたのである。

銅屋女神自体の捏造

パウサニアスは逮捕寸前路上で行き逢った一人の督視官の表情から来るべきことを察し、またパウサニアスに好意を寄せていた他の督視官が首をふってひそかに合図をしたので、近くにあった銅屋女神神域に駆け込んだと伝えられる。
露天に曝されないようにその神殿の小さな部屋に入り込むと、彼は身を潜ませた。p112

銅屋女神の神域がどのような規模だったかは、これから察するに小規模のものであったように推察できる。
地誌作家のパウサニアスの見たのは、「銅屋女神」の神域跡であり、建物はなかった。
アテーナイは、ローマ帝国に取り入り、ギリシア世界がローマによって滅ぼされたアカイア連邦の崩壊の最終局面でのコリントスの破壊のような憂き目にあわなかった。
その後、すでにヘーラクレイダイの王族をクレオメネスの追放で失っていたラケダイモーンを占領し、その町を破壊し再生させる局面で、いかようにもできたであろう。
その時に、銅屋女神の神域なるものを造り、捏造神話や捏造歴史の証拠としたのかもしれない。
実際、ラケダイモーン人がアテーナーの神域を、町の中心に作るほど大切にしたはずはない。
ディオスクーロイの神殿やアレース、ヘーラー、ヘーラクレースの神殿を作るであろう。
アテーナーは、不倶戴天の女神であり、ラケダイモーン人が熱愛するのはアレース神とディオスクロイであるからだ。
ペイシストラトス時代にアテーナイと蜜月であったが、ペイシストラトス一族は、アイオリス系であり、アテーナイの主神をオリュンポス12神の主神ゼウスもしくは、アポローンに変えようとしていた。

パウサニアス、衰弱死

このあと少し遅れて来た追手は、その部屋の屋根をはがしてその中にパウサニアスのいることを確かめると入口の戸をはずし、周りを囲んだ。
そして見張りを置いて、彼が飢えに負けるのを待った。
ところがパウサニアスはその部屋から出ないままで死にそうになったので、これに気がついた者たちはまだ息のあるうちに神殿から彼を運びだした。パウサニアスは表に出されると間もなく死亡した。p113

パウサニアスの墓移動と二体の青銅像

しかし後日デルフォイの神からラケダイモン人にパウサニアスが死亡した地点にその墓地を移動するように神託があり、ラケダイモン人の不浄に対し銅屋女神に一つの命の償いに二つの像を奉納するようにとも命じてきた。
そこで彼らはパウサニアスに代えて二体の青銅像を鋳造して奉じた。p113

デルフォイの神から、パウサニアスの墓の移動と二体の青銅像の鋳造命令

パウサニアス『ギリシア案内記』2ラコニア・メッセニア」のP75に、
「カルキオイコスの祭壇の近くには、プラタイアの戦いで指揮したパウサニアスの二体の顕彰像がある。」とある。
つまりこのデルフォイが命じた二体の青銅像は、パウサニアス自身のものであったのだ。人間を半神として顕彰する習慣がスパルタにはある。
パウサニアスが目撃した後1世紀以降、銅でできた建物などは、もちろん存在せず、廃墟に「カルキオイコスの祭壇」なるものと、パウサニアスの顕彰像に二体があったようである。
しかし、「銅屋女神」の神殿なるものの描写はない。
パウサニアスなら、建物があれば描写するはずである。
おそらく、二体の顕彰像は、ラケダイモーン人が、パウサニアスのプラタイアの戦いの功績と、レオテュキデスのミュカレの海戦の功績を表敬したものであったのではなかろうか。
この二人は、アテーナイ・シンパであった。
レオニダスの顕彰像は、もっと巨大で、華々しく表敬されていたが、この二人の顕彰像は、むしろ中心部から移動させられたのかもしれない。

パウサニアスが攻められたのはぜいたくではなく、ペルシア人になびいて、戦争に不熱心となり、戦果をアテーナイ人に独占されたことであったと思われる。

テミストクレスの最期

テミストクレス、ペルシアと共謀の疑惑で追跡

パウサニアスがペルシアになびいた時、ラケダイモン人はアテナイに使者を送って、テミストクレスを共犯者として非難した。
アテナイ人はこれに同意してテミストクレス追跡に協力を申し出たラケダイモン人とともに、どこでテミストクレスを発見しても彼を連行するようにと捕吏を派遣した。p113-114

一方、テミストクレスは、これを予知してペリクレスから自分には義理のあったケルキュラにまず逃亡した。
しかしケルキュラはラケダイモンとアテナイを相手にして彼らからテミストクレスを庇うことになるのを恐れて、対岸の大陸に彼を渡した。p114

ペルシア戦争の功労者テミストクレスは、ラケダイモーンのパウサニアス同様、ペルシア人に懐柔されていた。また、アテーナイ人の嫉妬を想定し、テミストクレス自身、逃亡を用意していた。
そのため、主戦派のペリクレスから逮捕命令が出たのだろう。

テミストクレスは、まずペロポンネーソス戦争の発端となったケルキュラに逃亡するが、ケルキュラ人は、対岸に渡した。
そこは、エペイロス(モロッソス)であり、モロッソイの王アドメトスに頼った。

敵のペルシアへ逃亡

自分の敵であったモロッソイの王アドメトスに頼った。しかしアドメトスはちょうどこの時、留守をしていたので、その妻による哀願者となった。
そしてこの女の助言に従ってテミストクレスはアドメトスの子を抱いて炉に坐った。
アドメトスはテミストクレスを渡さず、・・・・新しく即位したクセルクセスの子アルタクセルクセス王に手紙を送った。p114

「陛下との友好故にヘラスを追われし予の陛下が侍側にあらば、陛下にその寄与するところ大いなるべし」p116

そこでテミストクレスはこの保留した期間にできるだけペルシア語とこの国の習慣を学んだ。p116

テミストクレスは、モロッソス経由でペルシアに逃亡した。

テミストクレス、自殺か病死か

彼は病死している。
しかしある人々は彼がアルタクセルクセス王に約束したことが果たせないことを悟って毒を呑んで自らの生命を絶ったとも伝えている。117

トゥキュディデスは、テミストクレスの最期が、自殺であったのか病死であったのか不明としている。こののち、テミストクレスはアルタクセルクセスの力になる働きを一つも遂行していないため、役立たずとなった、またギリシアの勢いにペルシアは勝てないと悟ったので、自殺したのであろう。
もしくは、アテーナイがペルシアと同盟を結んだとき、送還されることを怖れて自殺したのかもしれない。

ペリクレスの開戦演説

ペリクレスの演説

クサンティッポスの子ペリクレスが立って次の要旨を述べた。p118

ペロポネソス=農民、船がない

「すなわちペロポネソス人は農民であるから個人も国家も資材ももっていない。
畑仕事を犠牲にはできず、さらに費やす私財もない上に船がないのだから、船に人を乗り組ませることも、陸兵を頻繁に派遣することも不可能なのだ。」p120

海事の拾得に時間がかかる

「しかも彼らが海事を拾得するのは容易ならざることだ。
つまりペルシア戦役直後から海事に研鑽を積んできた諸君でさえも完璧の域に達しているとは言いがたいのに、いわんや海洋民族でもない農業国民に一体、注目に価いする何ができようか。」p121

島国都市化

我々が島国都市であったら、過去において我々よりも落としにくい都市があったろうか。
我々は今日にあっても島国都市にできるだけ近い政策を採用し、土地や家屋を顧みず、海防と都市防衛に留意すべきだ。p123

畑屋敷を捨てる勧告

家屋や畑の損失を歎かず、人命こそ惜しむべきである。すなわち畑屋敷は人を生まず、人がそれを作るからだ。
私に諸君を説き伏せられる自信があったとしたら、畑屋敷のために敵に屈するようなことのないことをペロポネソス側に示すためにも、そこを捨て焼き払ってしまえとさえ私は命じたに違いない。p123

ラケダイモーン人が水軍をもたずとも、コリントスが水軍をもっている。
またこのペリクレスの政策は、アテーナイ市民にはよかったが、市内に家を持たぬ周りの農民にとっては犠牲を強いるものだった。
農民は、農地を棄て、アテーナイ市内に疎開し、人口稠密のために悪化した疫病で、ほとんど死に絶えることになる。

開戦直前

以上がエピダムノスとケルキュラ紛争の直後から戦争が始まるまでの間に、両者の間で交換された非難と弾劾であった。
それにもかかわらず、両国間の往来は平時のとおりであった。p125

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