ペロポンネーソス戦争の開始
ペロポンネーソス戦争の前座(ケルキュラ/ポテイダイア紛争)
さて、今やアテナイとペロポネソス間の戦争は両者の同盟諸軍を加えてすでにこの時から始まった。p126
今までは、前435年のケルキュラ紛争、前432年から430年のポテイダイアの戦いをペロポンネーソス戦争の前座ととらえている。
第一巻では、前435年から430年の前座を描いた。
第二巻から本編である。
しかし、実際は、前435年のケルキュラ紛争をもって、もしくはアテーナイがコリントスとの和平条約を破棄して、ポテイダイアを攻めた時点を勃発ととらえるべきかもしれない。
いわば、これは「der Fall Barbarosa」であろう。
アテーナイが、ポテイダイアを包囲して、コリントスに戦争をしかけたことが、バルバロッサ作戦であり、テーバイがプラタイアに侵入したのは、それに対する反撃である。
トゥキュディデスがアテーナイの立場で書いている。
ペロポンネーソス戦争勃発年:前431年
すなわちこの年は、エウボイア陥落時に締結された三十年条約が十四年間つづいて、その十五年目にあたっている。
アルゴスではクリュシスにとって四十八年目の巫女職の年で、
スパルタではアイネシアスが督視官であり、
アテナイではピュトドロスの執政職の任期がまだふた月ほど残っていた。p126
前446年の「三十年不戦条約」は、半分の15年で破られた。
年代確定の困難
〔註〕ギリシア各都市において異なった日付けで一年が始まる太陰暦を手懸りに確実な年月の表記を定めることはトゥキュディデスにとって大きな問題であった。
アテナイでは毎年の年号を首席執政官の名で表わしていたが、太陰暦によっているために、夏に戦い、冬に休む、いわゆる自然暦に従ったギリシア人の戦闘を伝えるには不便であった上、アテナイの執政官の名で年代を示したのでは、アテナイ以外の国との年代の関連が失われてしまう恐れがあった。
開戦第一年の四都市固定と夏冬一対年
〔註〕それ故開戦第一年目をエウボイア、アルゴス、スパルタ、アテナイの年号の四点で相関的に固定してから、それ以後を夏と冬とにわけて記述し、夏、冬、の一対を一年として順に番号を振って行く方法を取ったのである。
〔註〕三十年条約は前四四六年に結ばれた。本文第一巻一一五章第一節参照。
〔註〕ヘラニコスが、”ヘラの巫女達”と呼ばれる本を書いているので、トゥキュディデスはそれを参考にしたのであろう。
〔註〕テバイ人がプラタイアに入ったのは、春になると同時であったと書いてある。つまりそれは三月初旬ということになるが、執政官の任期の終るのは七月上旬なので、ここは四ヵ月ほど残っていたとすべきである。
テーバイVSプラタイア戦
テーバイのプラタイア侵入が、「バルバロッサ作戦」?
ポテイダイア戦から六ヵ月後に、春になると同時に
(ボイオティア連盟長官職のピュレイダスの子ピュタンゲロスとオネトリダスの子ディエンポロスに率いられた)三百余名の武装したテバイ人たちは、ボイオティアにあるアテナイの同盟都市プラタイアに、人々の寝静まった頃を見計って侵入した。p126
ボイオティア連盟十一都市
〔註〕ボイオティア連盟は十一の地域からなっており五世紀にはそれぞれの地域から一人ずつ代表を出した。
ピュタンゲロスとディエンポロスはその中の二人である。
ボイオティア連盟11都市から成るが、その筆頭はテーバイ市である。
昔のテーバイ帝室の後継都市であるテーバイが筆頭になるのは自然のなりゆきである。
この「ボイオーティア連盟」こそ、プラトンが悪と退廃の帝国として描いたアトランティス帝国のモデルであり、その都市の長官が、ポセイドーンに仕える10人の神官王ではなかろうか。
二人のテーバイ人の連盟長官は、ピュタンゲロスとディエンポロスである。
テーバイ・シンパのプラタイア人が開城
城門を開いたのはプラタイア人ナウクレイデスとその一味であった。彼らは自己の勢力保全と政敵を排してプラタイア市をテバイ側に引渡す計画だった。
そしてこの手筈はテバイ市で指導的な地位にあったレオンティアダスの子エウリュマコスを通して調えられていた。p126-127
プラタイアは、ペルシア戦争以前は、テーバイ・シンパであり、ヘーラー信仰のメッカであった。
当然、住民はフェニキア系が多かっただろう。
しかし、ペルシア戦争で、アテーナイ・ラケダイモーン方に味方し、テーバイと決裂してより、アテーナイから大衆層に移住者を糾合して、アテーナイ・シンパとなった。
しかし、上流階級にはテーバイ・シンパも多かったはずだ。
友好的に征服しようとするテーバイ人
彼らが市場に武器を持込むと手引きの者たちは、早速行動に移って政敵の居宅を襲うように促した。
しかし彼らはこれに従わず、かえって布告を出して友好的にプラタイア市の協調を得ようと考えた。
(そこで布告使は、全ボイオティアの慣習にしたがって同盟をのぞむ者たちは自分たちの味方になれと触れた。)p127
プラタイア人のテーバイ・シンパは、国内の政敵はアテーナイのまわしもので信用ならんと考えていたのに対し、テーバイ人は、伝統的に友愛主義で、昔プラタイアがボイオーティア連盟の一部であったゆめに、身内として寛容に説得しようとした。
テーバイ人害を加えず
恐れから交渉に応じて、要求を容れ、平静を保っていた。これはことにテバイ人が誰にも一切害を加えなかったからでもあった。
そうこうしているうちに、プラタイア人は、テバイ人が少人数であることを知り、抵抗すれば容易に勝てそうなことに気づいた。p127
プラタイア人のだまし討ち
テーバイ人市中から逃走
騙されたと知ったテバイ人は、隊列を整え攻撃してくる敵を撃退し、二度三度と攻撃を防いだが、・・・ついに背中を見せて市中から逃げ出した。p128
シンパのプラタイア女性
しかし離れた門の所にいた者たちは、一人の女が与えた斧で閂を壊しひそかに逃げたが、・・・逃げられた者は少数であった。p128-129
テーバイ人は男女平等に近く、女性にも権利を与えていたので、テーバイ・シンパの女性は多かっただろう。
プラタイアーテーバイ間70st.アソポス河越え
一方、他のテバイ人たちは、潜入隊が万一成功しないような場合には、夜が明ける前に全力を挙げてそれと合流するはずであったが、その途上で、伝令によって事態が伝えられたので、その救援に急いだ。
プラタイアはテバイから約七〇スタディオンほど離れているが、
夜来の雨が彼の行軍の速度を妨げた。つまりアソポス河の水量が増して徒渉が難しかったのである。p129
プラタイアのすぐ北をアソーポース川が流れている。
人質交換のため市外のプラタイア人を生捕り
プラタイアの市の外側にいたプラタイア人に攻撃をかけた。この人々は、今まで平穏だったので、このような被害を予期しておらず、畑に出ており、小屋等もそのままだった。
そこでテバイ人は、彼らを捕獲しておいて、まだ市内で生捕りにされた者がいるとすればそれと引き換えにしようと考えたのだった。p129
テーバイ人の人命尊重の習慣がうかがわれる。
それとともに、プラタイアはもともとテーバイ人が居住しており、アテーナイが侵攻して植民した分子が、テーバイに反抗的となったのだろう。
だから、テーバイ人はプラタイア人の命も財産も尊重するが、アテーナイ人やアテーナイから植民した子孫は、平気でテーバイ人を虐殺した。
もともとテーバイ帝室が築いた都市であることは、ここにテーバイ帝室の主女神ヘーラーの聖婚神話があることでもわかる。
きたないプラタイア人、テーバイ人を虐殺
きたないプラタイア人、領外後退で人質返還を示唆
プラタイア人は、テバイに使者を送って、・・・市外の物件や人物には被害を加えないようにと通告した。そしてもしこれに従わなければ、生捕りにしてあるテバイ人たちは殺す、と申入れた。そして彼らがプラタイア領外に後退すれば捕虜は返還するとも伝えた。p130
テーバイの重鎮エウリュマコス含む捕虜殺戮
テバイ人は害を加えずにプラタイアの領外に退却すると、プラタイア人は市外の物件を早急に取り入れ、直ちに捕虜を殺戮してしまった。
捕虜は百八十名であって、その中には、プラタイア側の密告者たちが働きかけたエウリュマコスも含まれていた。p130
プラタイア人、親玉のアテナイ人に報告
この措置の後、プラタイア人はアテナイに使者を送り、・・・プラタイアの事件は発生するとすぐにこれがアテナイに知らされた。
するとアテナイは時を移さずアッティカにいたボイオティア人を全部捕え、プラタイアには使者を送って、テバイ人の捕虜の取り扱いについては、アテナイ人が検討するまでは新たな行動はとらぬように指令した。
使者は、到着してから捕虜が殺されてしまったことを知った。p130
プラタイア人は、不殺生のテーバイ人を殺害した。
これは、贖われるであろう。
ペロポネソス連合軍、アッティカ侵入
ペロポネソス軍、オイノエの防壁に着陣
一方、進軍して来たペロポネソス軍はオイノエからアッティカに侵入する予定でまずそこに到着した。
彼らは着陣完了とともに破城槌、その他の手段で防壁を破りこれを攻略する準備を始めた。つまりオイノエはアッティカとボイオティアとの境にあって防壁がめぐらされていたので、アテナイ人は敵の侵入のある時にはいつもこれを一拠点として利用していたのである。p142
オイノエは、プラタイアの南東にあって、地峡から侵入すれば、東の境界にあたる都市である。
アルキダモスの不熱心弾劾
ペロポネソス勢はこれに攻撃を加える準備に時間がかかり、オイノエで特に時を浪費した。
そしてこの責を人々はアルキダモスに強く迫った。
このわけは彼が開戦会議で弱腰と目され、戦いに余り熱意のない、アテナイにとってこそ便利な人物と解されていたからである。p143
オイノエ回避してアッティカ侵入
しかしオイノエは彼らの総攻撃にも陥落の色を見せず、しかもアテナイからは一人の使節とて現れなかった。
そこでペロポネソス勢は遂にオイノエを発つとアッティカに侵入した。p143
エレウシスとトゥリアを荒して、アカルナイ地区へ侵入
率いるはラケダイモンの王ゼウクシダモスの子アルキダモス、そして時は夏の稔りの熟す頃、プラタイア事件よりほぼ八十日目のことである。
アッティカに落ち着くとペロポネソス勢は早速エレウシスとトゥリアの原を荒し、レイトイと呼ばれる地点でアテナイ騎兵隊を敗走させた。
この後再び前進した彼らはアイガレイオン山脈を右に見ながら、クロピア地区を通ってアカルナイ地区まで進んだ。p143
プレイストアナックスの侵入の前例
一方、アテナイ人は、エレウシスとトゥリアの原まで来たペロポネソス勢がそれ以上はアテナイ市に接近しないのではないかという一抹の希望を抱いていた。
このわけは、今次大戦より十四年程前に、ラケダイモン王パウサニアスの子プレイストアナックスがアッティカに入った時も、エレウシスとトゥリアの原まで来てそれ以上はアテナイに近づかないで引き揚げた事実をアテナイ人が覚えていたからである。p144-145
アギス朝のパウサニアスの子プレイストアナックスもアッティカに侵入しながらアテーナイを攻めなかった。
エウリュポン朝のアルキダモス二世も同様に、親アテーナイで、弱腰なので、大丈夫と見ていた。
ペルシア戦争時のアギス朝
戦争勃発時の王はクレオメネス一世である。
次いで、クレオメネスの異母弟レオニダス一世である。(テルモピュライの戦い)
次いで、幼君プレイスタルコスである。(レオニダス一世とゴルゴの子)
その摂政に三男クレオンブロトスが就任した。
死後摂政にクレオンブロトスの子パウサニアスが就任した。
次いで、パウサニアスの子プレイストアナックスが王位に就いた。
こうしてみると、アテーナイ・シンパで、弱腰で、ラケダイモーン人から弾劾された王は、
三男クレオンブロトスの子のパウサニアスとその子プレイストアナックスである。
つまりクレオンブロトスの妻が、アテーナイ人かアテーナイ・シンパであった可能性がある。
ペルシア戦争時のエウリュポン朝
アギス朝の三人兄弟の父アナクサンドリデスの同僚が、アリストン。
アリストンの子がデマラトス(裏切り者ペルシアで死ぬ)。
デマラトスを追放して、アギス朝のクレオメネスによって擁立されたのが、レオテュキデス。
レオテュキデスは、ミュカレの海戦を勝利しながら、引き揚げた。
エウリュポン朝の直系と傍系の関係は、こうであろう。
直系
テオポンポス王(第一次メッセニア戦争)(前720-675年)
ゼウクシデモス(テオポンポスの孫。功績なし)(前645-625年)
アナクシダモス(ゼウクシデモスの子。第二次メッセニア戦争)同僚はアナクサンドロス。(前645-625年)ゼウクシデモスと同じ?
アルキダモス一世(アナクシダモスの子。一般に平和。テゲア戦争)(前600-575年)
アガシクレス(ゼウクシデモスの子)(前575-550年)
アリストン(アガシクレスの子)(前550-515年)
デマラトス(アリストンの子。出生を疑われる。)(前515-491年)
傍系
テオポンポス王
アナクサンドリデス(ゼウクシデモスの弟)
これより六代目がレオテュキデスである。
アルキダモス二世(ペロポンネーソス戦争勃発時の王。レオテュキデスの孫。)(前476-427年)
ペリクレスの待機命令とペロポンネーソス軍撤退
アテナイ人出撃を主張
アテナイの若者たちは自分たちの土地が現実に荒らされるのを目のあたりにするのは初めての経験であったし、年寄りたちにしてもペルシア戦争以来のことなので、当然これに恐れを感じ、とくに若い者たちは他の者たちとともに、敵を拱手傍観しておらず出撃すべきであると主張した。p145
ペリクレスの待機命令
ペリクレスは、人々が現状に憤激のあまり、良識を失っているのを観察して、出撃を不可とすることが正しいと信じた。p145-146
ペロポネソス勢は糧秣の続くかぎりアッティカに留まっていた。
しかしその後侵入経路とは異なったボイオティア経由で引き揚げた。p147
ブラシダス登場!
ブラシダス初登場、アテナイ船隊からラコニア上陸阻止
さてこの間にもペロポネソス周航中の百隻のアテナイ船隊と五十隻のケルキュラ援軍船隊は、その同盟諸勢とともに沿岸諸地を荒していた。
彼らはラコニアのメトネの城壁が堅固でなく人もいないのに目をつけて、そこに上陸して城壁に挑んだ。
ところがちょうどこの地方をスパルタ人でテリスの子ブラシダスが警備隊を率いて巡視していた。彼は敵の侵入に気がつくと重装兵百名を率いてメトネの救援にきた。
ブラシダスはこの挙で少数の手勢を失ったのみでメトネを救ったのである。この武勇によってブラシダスはスパルタにおける今次大戦で初めての功労者に表彰された。p147-148
王が腰抜けであるので、将軍が勝利の立役者。
前半はブラシダス将軍、後半はリュサンドロス将軍である。
テリスの子ブラシダス(Βρασίδας)とある。母はアルギレオニスである。ともに出自は不明である。
テリスの名からは、テラ、テーラースを連想させる。
彼の性格からフェニキア系の可能性が高い。
アテナイのナチス化、侵入し占領し
アイギナ占領
この同じ年の夏、アテナイ人は、アイギナ人を今次大戦の大きな原因であると糾弾して、婦女子に至るまでアイギナ島から追放した。
そこでその後間もなく、アイギナ島にアテナイは移民を送った。p149
不倶戴天のアイギナを占領し、市民を追放して、アテーナイ人を植民する。
マケドニアを服従させる
このようにしてトラキアの王テレスの子シタルケスとマケドニアの王、アレクサンドロスの子ペルディッカスはアテナイの同盟者となった。p150
トラキア王シタルケスとマケドニア王ペルディッカスを臣従させる。
メガラ攻撃、ニサイア占領
この夏の終わり頃、アテナイ人はクサンティッポスの子ペリクレスを将軍として、在留外人も含めた全兵力で、メガラを攻撃した。
・・・ニサイアをアテナイが占領するまでそれは続いた。p151
宿敵の隣人メガラを占領。
ペロポンネーソス勢が、手をこまねいている間に、電撃的にペリクレスは、不倶戴天の隣国アイギナ島とメガラを征服。
ポテイダイアの途上のマケドニアとトラキアを臣従させる。
ケルキュラ戦線のうごき
ペロポネソス軍、ザキュントス島に遠征
同じ夏、ラケダイモン人とその同盟軍は軍船百隻をもってエリス沖のザキュントス島に向った。
ザキュントス人はペロポネソスのアカイア地方出身の植民であったがアテナイと盟約を結んでいた。
彼らはザキュントスに上陸すると広汎に土地を荒したが、ザキュントス人が屈しなかったので、故国に帰港した。p178
アカイア人の植民であるザキュントス島は、アテーナイと同盟を結んでいた。
ペロポンネーソス軍に防衛し、アテーナイ陣営にステイ。
アカイア人&ダナオイ人は、昔からの付き合い。
ザキュントス島・ザキュントス人とは?
ケルキュラ島、ケパレニア島に次いでイオニア諸島の第三の島。
名祖のザキュントスは、ダルダノスの子というから複雑だ。
ダルダノスは、トロアスのイダ山にあるダルダノス市の名祖。
つまり、トロイア王家の祖である。
トロイア王家は、フェニキア系である。
しかし、ザキュントス人は、トロイア王家と、先祖でつながっているが、同族ではない。
小アジアにいたころのヒッタイト時代に沿岸部にあったアルザワ都市連盟のうち、
ヒッタイトの藩王国として留まったのが、後のトロイア王家に投影され、
ヒッタイトに反旗を翻して、小アジアからギリシアに来たのが、ペロプス系(アカイア人)の系統に投影されたと推定される。
このアカイア人の集団は、「ギリシア本土のトロイア戦争」の最終局面で、テーバイ帝室&アイオリス王家に追放され、ザキュントス島に逃れた一団であったと推定される。
オデュセウスの祖父でケパレニア王のケパロス(ケパレニアの名祖)によって征服されオデュセウス王家の支配下に。
これはフェニキア系に奪還されたことの投影だろう。
ペネロペの求婚者のザキュントス出身の20名の若者がオデュセウスに殺されてから、残りのアカイア系ザキュントス人反乱して独立。ここでアカイア人の島に戻った。
オデュッセウスは、追放され、アイトーリアーで生涯を閉じた。
もとのアカイア系の支配する島に復帰したのだろう。
その後イベリア半島にサグントゥムを建設した。
「紀元前 7 世紀に、ザキントスの植民地としてザカンタという名前で設立され」とギリシア語ウィキにあるように、
ハンニバル戦争時代、ラテン語でサグントゥムと呼ばれるようになる都市を建設したという。
つまりサグントゥムはアカイア人の都市なわけだ。
ハンニバルに対して、ヒステリーの一億玉砕を決め込んだと言うのも、あながち捏造ではないかもしれない。男尊女卑で、市民の命など紙切れにしか思わない野盗アカイア系によって支配されていたのであったならば。
アテナイ人の涜神!
ペルシア王室に派遣されたラケダイモン人使節
この夏も終わる頃、コリントス人アリステウス、ラケダイモン使節団を構成するアネリストス、ニコラオス、プラトダモス、さらにテゲア人ティマゴラスと個人の資格で参加したアルゴス人ポリスの一行はアジアにおもむきペルシア王室を訊ねようとした。p179
ラケダイモン、コリントス使節の殺害
トラキアを通過してヘレスポントスの渡しでまさに乗船しようとしていたラケダイモン使節団を捕捉した。
アテナイ人の一行はこれを受取るとアテナイへ護送した。
彼らがアテナイに到着すると、アテナイ人は前からアリステウスをポテイダイアやトラキア離反の首謀者であると目していたので、アテナイに彼が今後これ以上の悪事を働かぬように彼らを逃がさず、裁判もしないままに、発言の求めにも応ぜず、即日全員を処刑して、死体を谷に捨てた。p179-180
この涜神の悪事も、ギリシア語テキストに載っている。
ポテイダイアの戦いのコリントスの総司令であったアリステウスを含むペロポンネーソス方の要人が、裁判なしに処刑された。
ポテイダイア戦線は、アテナイの勝利で決着
ポテイダイア市民、降伏してカルキディケに分散
同じ冬、ポテイダイアは、もはや包囲戦に耐えられなくなっていた。
降伏の申し入れをした。アテナイ側はこれを受諾した。
そしてこの条約に基づいてポテイダイア市を出た者たちはカルキディケ地方やその他それぞれの伝手を頼りに落ちていった。p182
都市が陥落しても、また戻って来るパターン。
この年ポテイダイア市はアテナイによって陥落、市民はいったん、カルキディケに散る。しかしペロポネソス人が復帰させることになる。
第二年目終了
そしてトゥキュディデスが記録する今次大戦の第二年目も終わった。p183
第二年目は、
アテーナイの疫病発生に始まり、悪の元凶ペリクレスの死に逃げ、とアテーナイに涜神の天罰が降り始める。
しかし戦況は、依然アテーナイ有利で、
アカイア人の植民都市ザキュントス島を、ラケダイモーンは落とせずに終わった。
アテーナイ人は、ペルシア王への使節団のコリントスのアリステウスとラケダイモーンの使節団3人を含む使節団を、捕捉して、裁判なしに全員処刑の「涜神」を犯す。
ポテイダイア戦線は、ケルキュラ戦線に続いて、アテーナイ人の勝利に決着する。
ラケダイモーンのプラタイア攻囲
ラケダイモン、プラタイアに布陣
翌夏はペロポネソス人とその同盟諸軍はアッティカには侵入せず、プラタイアに向った。p183
ラケダイモンとプラタイアの交渉決裂
ところがプラタイア人は、・・・以下のようにアルキダモスに告げた。
「パウサニアスの裁定にもとづき我々はその自主と居住権を主張する」p183
「それならば、諸君は我々ラケダイモン人に諸君の不動産の管理を委ねるべきだ。
戦争終結後、・・・預かった財産をすべて返還しよう。」p184-185
プラタイアの使節団はアッティカに来てアテナイと協議した結果、
プラタイア人はアテナイを裏切らないことに決め、・・・
市壁の上からラケダイモン人の申し入れを受諾することはできないと伝えた。p185
プラタイア攻囲てこずる、引き揚げる
このように神助を念じると、アルキダモスは軍勢を配置につけた。
キタイロン山からは木材を伐出し、石壁の代りにそれらを交差して枠を作ると盛り土の両面に張り、土が外へ拡がらないようにした。
ペロポネソス勢は火攻めをためすことにした。
強い雷雨が丁度起きたので、それが火を消し、危険を解消したのだとも今日では言われている。p186
やがて大角星の上る頃、すべての作業を終ると、ペロポネソス勢は包囲壁の半分を守る警備隊を残し(他の半分はボイオティア人が守った)後は各自の都市へ引揚げ、解散した。p189
プラタイア、引き続き籠城
プラタイア人は、婦女子ならびに高齢者、それに非戦闘員の大部分を前もってアテナイに避難させてあったので、市内に留まって包囲された者は、プラタイア人四百名、アテナイ人八十名、それにパン焼きの女百十名であった。p189
またしても、アルキダモスは、ボイオーティア人を満足させられず、ラケダイモーン人としてていたらくに終わった。
プラタイアと通じているのか。信用ならない。
ラケダイモン軍、ペイライエウス襲撃
ペイライエウスは無防備
その指揮官クネモスやブラシダスおよびその他の将軍たちは、メガラ人の示唆で、冬がくるとアテナイの港、ペイライエウスを攻撃しようと考えた。
つまりペイライエウスにはアテナイの強力な海軍があったので、アテナイ人はそこに警備隊もおかず、まったく無防備の状態にあった。p196
ペイライエウス襲撃は不発に終わる
そして彼らは夜半にニサイアに着くと、そこから出航した。
しかし予定のペイライエウスには危険を恐れて向わずに、サラミス島のメガラに面した岬に向った。p205
敵襲の烽火がアテナイに向って上げられると、アテナイ市民の驚きは大戦中でこれに勝るものがない程であった。
ペロポネソス勢は、敵に援軍が来たのを知ると、サラミス島の大部分を荒し、人や物資を略奪すると、ブドロンの砦から三隻の船を奪ってニサイアへと引揚げた。p205
ブラシダスら、ペイライエウス奇襲作戦するも不発に。
カルキディケ戦線の進展
トラキア王シタルケス
同じ頃、つまりこの年の冬の初めに、トラキアのオドリュサイ人の王、テレスの子シタルケスは二つの約束を成就するためにマケドニア王、アレクサンドロスの子ペルディッカスとトラキアの隣国になるカルキディケに出兵した。p206
トラキアのオドリュサイ人の王、テレスの子シタルケスとマケドニア王、アレクサンドロスの子ペルディッカスが、カルキディケに遠征。
第三年目が終る
トゥキュディデスが記録した戦争の第三年も終わった。p214
第三年目は、
ラケダイモーン王のアルキダモスのプラタイア包囲の不発と、
メガラ人の協力によるペイライエウス襲撃の不発に終わった。

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