- 第3巻の概要
- 第1章 ミュティレネ叛乱物語
- ミュティレネの反乱勃発
- ミュティレネへラケダイモンが救援
- 第四年目終り
- ミュティレネの陥落
- ミュティレネ処分めぐって二転三転の衆愚政治
- 第2章 プラタイアに決着、テーバイ勝利
- プラタイア紛争に決着
- ケルキュラ内乱のはじまり
- レスボス戦線からケルキュラ戦線へ
- 第3章 ケルキュラ内乱のはじまり
- ラケダイモーンの援軍到着
- アテーナイ人の救援で、大衆側の勝利へ
- 寡頭派ケルキュラ人の大虐殺
- ケルキュラ内乱は無差別殺戮へ
- 寡頭派残党、ケルキュラ島に拠点を作る…レジスタンスへ
- 第4章 アテナイのシケリア派兵のはじまり
- レオンティノイVSシュラクサイ戦争(シケリア半島緒戦)
- アテナイの帝国主義的目的での参戦
- 第五年終り
- シケリア戦線・・・メッセネの制圧
- 第5章 ボイオーティア戦線のニキアスの勝利
- 第6章 ヘラクレイア市建設
- 第7章 ケルキュラ戦線、アカルナニア沖の3島をめぐって
- 第8章 メッセニア人とデモステネスのアイトーリアー戦線へ
- デモステネスのアイトリア戦線
- ケルキュラ戦線ーアイトリア戦線膠着
- 第9章 ケルキュラ戦線ーアンプラキア戦線のデモステネスの大勝利
- 第六年の終り
第3巻の概要
①ミュティレネの叛乱物語
②プラタイア決着
③ケルキュラの大惨事
④シケリア派兵のはじまり
⑤デモステネスのイオニア三島戦線
⑥デモステネスのアイトリアー戦線の勝利
第1章 ミュティレネ叛乱物語
ミュティレネの反乱勃発
メテュムナを除くレスボス島全島がアテーナイとの同盟破棄
ペロポネソス軍の侵入のこの後間もなくメテュムナ市を除くレスボス島全市がアテナイとの同盟を破棄した。
なぜ、メテュムナを除くレスボス島がアテーナイから離脱したのか?
レスボス島は、ディオニューソス信仰の島であり、オルペウスが殺された島である。
テーバイ帝室系フェニキア人の住民であり、コの字型の島影から、火山噴火の慣れ果てとわかる。
ミユテレネはレスボス最大の都市であり、フェニキア系の都市であろう。
メテュムナは、アイオリス系アテーナイ人の植民だったのだろう。
アテナイ側は、メテュムナ人
彼らの敵であったテネドス人やメテュムナ人、それにミュティレネ人の中で革命派であり、かつアテナイの外地代表だった者たちがアテナイに次のような知らせを送ったからである。
ミュティレネ傘下に統一
すなわち人々は実力を行使してレスボス全体をミュティレネ傘下に統一し、ラケダイモン人、および同種族のボイオティア人と共に同盟脱退へのあらゆる準備を整えているゆえ、誰かがただちにそれを止めない限り、アテナイはレスボスを失うであろうと報せたのである。
レスボス島は、もともとは、フェニキア人が文明化した島である。
首都はミュティレネで、ミュティレネを中心に寡頭派は、ラケダイモーン陣営である。
あとからアテナイが送り込んだ新市民(アテナイ人)とメテュムナ市は、大衆派であり、アテナイ側である。
レスボス島の形は「コの字」
レスボス島は、ちょうどテラ島のように小アジア半島に背を向けたコの字形の島である。
コの字の奥にピュラという都市がある。ピュラは火ゆえ、火山でくぼんだのがコの字を形成したのであろう。
ミュティレネは、東にあり、メテユムナは北にある。
ミュティレネへラケダイモンが救援
この冬が終わる頃、ラケダイモンからラケダイモン人サライトスが三重櫓船を使ってミュティレネに送られて来た。p232
第四年目終り
このようにしてトゥキュディデスが記した戦争の第四年目は終った。p232
第四年目は、
①ミュティレネの叛乱の開始
②プラタイア人の一部アテーナイへ脱出
ミュティレネの陥落
ミュティレネに応援船団とアッティカ侵入
夏が始まると、ペロポネソス人はミュティレネにアルキダスを海将とした四十ニ隻の船を送り、彼ら自身は同盟諸軍とともにアッティカに侵入した。
それはアテナイ人が両面で圧迫されて、ミュティレネに多数の助勢船を送れなくするためであった。
プレイストアナックスの子で王であるパウサニアスが幼少のため、その叔父に当るクレオメネスがこのアッティカ侵入を統率していた。p233
ラケダイモーンは、ミュティレネ救済のため、アルキダスを提督として水軍を派遣する。
同時に、追放したプレイストアナックスの子パウサニアスを幼君として立て、叔父のクレオメネスを摂政とした状況であったので、摂政クレオメネスが、陸軍を率いてアッティカに侵入した。
ミュティレネ陥落後にラケダイモン援軍到着
さて四十隻のペロポネソス船団は、急航すべきであるのにもかかわらず、ペロポネソス周辺の航行に時間を費し、その後の航行も悠々と済ませた。
そこからイカロス島とミュコノス島に接して初めてミュティレネが陥落したことを知った。
しかしはっきりした情報を得るために、エリュトライのエンバトンに入港した。ここに彼らが入港した日はちょうど、ミュティレネ陥落後、約七日目であった。p234
アルキダスのていたらく。ミュティレネ陥落後に到着。
ラケダイモン人サライトスとミュティレネ人送還
さてパケスはミュティレネに着くとピュラとエレソスを陥し、市内に隠れていたラケダイモン人サライトスを捕えてアテナイに送った。
またこの他テネドス島に軟禁しておいたミュティレネ人や、今回の叛乱に関係したと思われる者たちも一緒にアテナイに送った。p238
ラケダイモン人サライトスの処刑
ミュティレネ人とサライトスがアテナイに到着すると、サライトスは(まだプラタイアが包囲されているので)ここからペロポネソス軍を引き揚げさせると言ったが、アテナイ人は時を移さずこれを殺した。p238
ミュティレネ反乱の首謀者ラケダイモーン人サライトスの処刑。
ミュティレネ処分めぐって二転三転の衆愚政治
全ミュティレネ人男子の処刑を決議
そして他の者の処分を彼らは検討したが、怒ったアテナイ人はアテナイに滞在するミュティレネ人ばかりでなく、ミュティレネ本国にいる男の壮年をすべて殺し、未成年者、女子を奴隷にすると決議した。p238
今のヘイトのような集団ヒステリー状態のアテーナイ人。
敵のミュティレネ人のみならず、アテーナイ・シンパのミュティレネ人も処刑しようとする。
そこで彼らは三重櫓船をパケスに送って、決議事項を訓令して早急にミュティレネ人の処分を完了するように命じた。p239
さてその翌日になると、アテナイ人は責任者だけではなくて町中の全員を処罰する結論は苛酷すぎるとすぐに後悔し再考し始めた。p239
アテナイに来ていたミュティレネの使節団とアテナイ人で彼らに同情していた者たちは、これを察知すると、決議の再審議案を責任者に提出するように働きかけた。p239
大衆派のタカ派の領袖クレオン
クレアイネトスの子クレオンは前日の議会で死刑の決議案を通した男で、他のことに関しても市民の中ではもっとも乱暴で、しかも当時の大衆派の中ではもっとも説得力のある男であったが、今度も再び登場すると以下の要旨を述べた。p239
「今まで何回となく私は公民主義で他人を支配することの不可能さをつくづく痛感して来たが、とくに今日の諸君のミュティレネに関する後悔はその好例である。」p239
公民派のクレオンだが、民主主義が衆愚政治に陥りやすい、つまり政策の安定性がないことの危機感を感じ取っていたのであろう。
民主主義から独裁政治へ向うのはそのためだ。
国際的僭主政治と国内的民主政治という矛盾
「それは諸君が僭主的都市として他国を支配していて、他国は謀叛を企みながらも不承不承アテナイに支配されていることを悟らないからだ。
しかももっとも襲るべきことは、諸君の決議事項に安定性がなく、権威なき美法より不動の悪法が一都市国家にとって重要であると考えないことだ。」
むら気な暴君に従うほど恐ろしいものはない。
もし安定的に苛酷な暴君なら、必勝を確信した時以外叛乱を起さないだろうから。アテーナイはむら気な暴君状態であることへの危機に警鐘。
クレオンは、アテーナイのダブルスタンダードの危うさ、対外的には「アテーナイ帝国主義」の専制主義で、対内的には「公民主義」(しかし女性と農民に権利なし)の矛盾と危うさを熟知していた。
親ミュティレネ派の演説
前日の議会でミュティレネ人死刑反対の急先鋒であったエウクラテスの子ディオドトスが登場して次のように述べた。p245
功利主義的観点からの論駁
「ミュティレネを我々が占領すると、壊滅した都市を引き渡されることになり、その後の貢納金も廃墟の都市からは取り立てられないであろう。
そしてこの貢納金こそ敵に対抗する我々の力の源なのだ。」p250
ミュティレネ市は、フェニキア系で富裕であったので、自治を許されていたのだ。アテナイの寛容ゆえでなく欲ゆえであった。
ものを生産・流通して富を増やす技術が、アテーナイ人にはなかった。
だから、賢いフェニキア人を制圧して、富を作らせ、分捕った。
ミュティレネの大衆派を殺すことは不正かつ不利益
「ミュティレネを我々に積極的に引き渡したミュティレネの大衆派の人々を諸君が殺すということになると、まず諸君は同志を殺したことで不正を犯したことになり、ついではこの謀叛を一番望んだ有力者の思う壺に諸君がはまることになる。」p251
これ以降、他の植民都市は、大衆派も寡頭派も一丸となってアテナイに反抗するようになるだろうから。
死刑撤回が勝利
アテナイ人の間で議論が戦わされたが、結局挙手による決定は僅少の差でディオドトス派が勝った。p252
恩赦の船を急がせるミュティレネ派の富裕
富裕なミュティレネ人、漕ぎ手に大判振舞い
最初の船はだいたい一昼夜前に出ていたが、アテナイにいたミュティレネの使節団は、船に酒、ひき割り大麦を供給して、この船がもし先行の船に追いついたら多額の報奨を出すと約束した。p252
危機一髪の命拾い
最初の船が到着してパケスが決議文を読んで議決事項をまさに実行に移そうとしている時に、後の船が入港して死刑の執行を制止した。p252
叛乱指導者は処刑
パケスによって謀叛の教唆者としてアテナイに送られた他の者たちはクレオンの言に従ったアテナイ人によって殺された。(それは約二千を少し越える数であった。)
第2章 プラタイアに決着、テーバイ勝利
プラタイア紛争に決着
この夏の同じ頃、もはや食糧もなく、プラタイア人も包囲に耐えられなくなった。そこで以下の次第でペロポネソス軍に降った。p254
三巻52節からはじまる、プラタイア紛争、(これをトゥキュディデスは、ペロポンネーソス戦争のバルバロッサと主張しているが)の決着の重要な部分である。
真のペロポンネーソス戦争の発端は、「エピダウロスの内乱」である。)
プラタイア紛争は、前435年のエピダウロスの内乱、前432-430年ポテイダイア侵攻(これをスパルタはバルバロッサとする)のあと、
ボイオーティア連盟長官(ボイオーティア各地方から1人ずつ選出)の二人ピュタンゲロスとディエンポロスに率いられた三百余名のテーバイ人が、ペルシア戦争の敗北で、アテーナイに取られた父祖伝来の領土プラタイアを、ボイオーティア連盟に復旧すべく、プラタイアに平和的に侵入した事件が、発端である。(ヘーロドトス・上 p126)(ヘーロドトス第二巻二節)。
ボイオーティア連盟長官たちの筆頭は、テーバイ人であったから、この二人の一人はテーバイの連盟長官であったのだろう。
このとき、プラタイア側でも復帰したい住民が手引きした。
「城門を開いたのはプラタイア人ナウクレイデスとその一味である」(p126)
この手筈は、テーバイ人側では、テーバイ市の指導的立場にあったエウリュマコスによって整えられていた。
プラタイア側は、住民のナウクレイデスの一味(トゥキュディデスの悪意が感じられる表現)、テーバイ側は、重鎮のエウリュマコスによって準備された。
テーバイ人は、害を加えずボイオーティアに復帰するよう勧告したが、ボイオーティアが少数であると知ったプラタイア人は、ボイオーティア連盟軍を捕虜にした。(180名でその中に、エウリュマコスも含まれていた)。
テーバイ人は、人質交換のためにプラタイア市外の住民を捕虜とした。しかし、プラタイア人が、「市外の物件や人物には被害を加えないようにと通行し、さもなくば、捕虜のテーバイ人を殺す」とだましてきたので、テーバイ人は、プラタイア市外の住民に害を加えず、領外に退却した。
するとプラタイア人は、市外の物件を早急に取り入れ、180名の捕虜を全員殺戮した。(p130要約)。
このプラタイアのだまし討ちとエウリュマコスを含む捕虜殺戮は、後の裁判での重要な争点となる。
ここにも、テーバイ帝室の後裔であるテーバイ人が、メッセニア戦争のラケダイモーン人同様、敵の領土の住民も、自己の住民になりうるので、みなその命と財産を大切にする友愛思想に則っていたことがわかる。
プラタイアへ自主降伏を勧告
和平をにらんで、プラタイアに自主返還を示唆
しかラケダイモンの司令官は自軍の弱点を知っていたので、これを力ずくで取るようなことはしなかった。p254
(これは本国からの訓令で、いずれアテナイと和平条約でも成立して、戦争で獲得した地方を互いに返還し合っても、プラタイア人は自主的にペロポネソス側についたという理由で返還しなくても済むようにとの配慮からであった。)
ラケダイモーンは、賢明にも、プラタイアに自主降伏を勧告する。
和平条約が成った時、返還しなくて済むためである。
それはもうプラタイア人が、「無条件降伏」するしかない状態であることを知っていたからだ。
ところで、このラケダイモーンの司令官は、裏切り者のアテーナイ・シンパの王アルキダモスではなく、彼は早々に引き上げた。監督官たちの派遣した司令官であろう。
無条件降伏
プラタイア人は、(すでに困憊の極に達していたので)プラタイアを明け渡した。P254
ボイオーティアのシンパを救済
しかし彼らが到着すると論告は行われず、一人ひとり呼び出されて、戦時中に何かラケダイモン軍とその同盟諸軍に為になることをしたかということだけが問われた。
つまりプラタイアの中のボイオーティア・シンパのみ許されたということ。
アテーナイのヒステリー決議よりよっぽど賢い。
テーバイ軍に斧を渡した女性などは、ボイオーティア・シンパだったので、そういう人々が救われたということだろう。
この選別の影に、ボイオーティア連盟の強い意志があったことだろう。
できるだけ、とくに同胞は巻き込まれて命を落すことのないような配慮は、フェニキア人のものである。
テーバイ人VSプラタイア人の論戦
ペルシア戦役でラケダイモンに加勢を主張
「当時はボイオティアの中で我々のみが諸君と協力してヘラスの解放のためにペルシア軍と戦ったのだ。
つまり我々は陸の民でありながらアルテミシオン沖の海戦に参加し、また我々の領土内で起きた戦闘には我々は諸君とパウサニアスとに従った。」
プラタイア人の言い分は、
ペルシア戦争で、テーバイ他ボイオーティア人すべてペルシア帝国に臣従したのに、プラタイア人だけが、ラケダイモーン側について、パウサニアスとともに戦ったと主張した。
テーバイ人の反論
テバイ人も演説する希望のあることを明らかにした。そこでラケダイモン人がこれを許すと、以下の要旨をテバイ人は述べた。
この裁判は、始終、テーバイ人を配慮して行われている。
つまり、立ち会ったラケダイモーンの司令官は、ラケダイモーンで監督官側の親テーバイ派であったのだ。
プラタイアは、ヘラスの味方でなくアテナイの味方
「プラタイア人がペルシアに味方しなかったのは、アテナイ人がペルシア側ではなかったからで、これと同じ考えで後にアテナイがヘラスに対した時には、ボイオティアでプラタイアだけがアテナイに味方をしたのだ。」
テーバイ人は、「プラタイア人は、ヘラスの味方ではなく、アテーナイ一都市の味方」という古典期プラタイア人の正体を熟知していた。
前1200年以前のプラタイア人は、テーバイ帝室系であった。
しかし、前1000年以降、アテーナイとテーバイの境界であったこの都市に、アテーナイ人が多く流入し、アテーナイ・シンパが都市を牛耳るに至ったという経緯があったと確実に推定できる。
だから、デルポイを守る「神聖戦争」でも、アテーナイ側の涜神側についたポーキス人同様、
だから全ヘラスの解放を謳ってラケダイモーンが聖戦を始めた時に、アテーナイ帝国主義の味方となった。
コロネイアの戦いでアテナイからボイオティアを解放
「アテナイは他のヘラス諸都市に侵略の手を延ばし諸君の土地をも自分たちの支配下に置こうとした。
そして他の多くの土地も革命手段によってすでにアテナイのものとなってしまっていた時に、この我々はコロネイアの戦いで、アテナイ勢を破りボイオティアを解放した。」p263
テーバイ帝室が支配下ギリシアは、古来からフェニキア人の指導統治下にあった。
上流階級の「寡頭派」は、フェニキア系である。
そこへ、アテーナイが暴力で侵入し、アテーナイ人を植民した。その新市民は「大衆派」を形成した。
古代の階級闘争は、現代のそれとはまったく別物であることに注意を要する。
「階級闘争」ではなく「民族闘争」であるのだ。
たとえば、ローマの「階級闘争」は、ギリシアとは逆で、
「寡頭派」がラテン人、「大衆派」がかつての支配者エトルリア人(フェニキア系)であった。
だから、エトルリア人の商人王タルクイニウス一派は、「大衆派」のホープであったのだ。
コロネイアの戦い(前447年)
コロネイアの戦とは?(前447年)
第一次ペロポネーソス戦争において、前447年にデロス同盟とボイオーティア同盟の間におきた戦い。
前457年に、オイノフュタの戦いで、アテーナイは、テーバイ以外のボイオーティアを征服した。
前448年の第二次神聖戦争の後、亡命ボイオーティア人が、カイロネイアやオルコメノスを解放した。
アテーナイは、トルミデス率いる軍を送り、カイロネイアを再征服し住民を奴隷に売った。
そののちコロネイアに進み、スパルトン率いるボイオーティア、ロクリス、エウボイアの連合軍の待伏せに遭い壊滅した。
テーバイは、ボイオーティアをアテーナイから解放した。
つまり第一次ペロポンネーソス戦争中の戦いであり、
前457年の「オイノフュタの戦い」におけるアテーナイ人のテーバイを除くボイオーティア連盟のすべての都市の征服にはじまった「アテーナイ帝国主義」の本土制圧戦を、
前447年、「コロネイアの戦い」で、ボイオーティア連盟の盟主テーバイが、オルコメノスなど解放したボイオーティアの都市や同盟のロクリス人、エウボイア人と組んで、アテーナイ帝国主義から解放した戦いである。
このペロポンネーソス戦争は、正確には、「第二次ペロポンネーソス戦争」である。
第一次ペロポンネーソス戦争とは、前460年から前445年の、アテーナイ率いるデーロス同盟とテーバイ率いるボイオーティア同盟の戦いである。
これは、第二次ペロポンネーソスの前哨戦と考えられているが、
アテーナイ帝国主義からの解放戦争であり、このときからがペロポンネーソス戦争という考え方もある。
すると、ペロポンネーソス戦争は、アテーナイVSラケダイモーンというより、アテーナイVSテーバイといったほうがよくなる。
ボイオーティア同盟にありながらアテーナイの侵略に与した
「諸君はアテナイ側を選ぶと、アテナイと共に共同戦線を張って、アテナイの侵略から守らなければならなかったかつての同盟条約を遵守しなかった。
ゆえにアテナイの悪行に協力した諸君以外に、いったい誰が全ヘラスの憎しみを受けるに値するであろうか。」p265
平和に自発的復帰を提唱したテーバイ人をだまして殺した
「なぜなら我々は何の不正も犯さず、全ボイオティア政権の下に参加したい人々は我々のところに拠るようにと公表したからだ。
しかし諸君は我々のごとく、暴力を行使せず、説得による我々の退去を交渉しなかった。それどころか協約に反して我々に攻撃をかけて、抵抗する者を殺した。
しかし、諸君は殺さないという約束をしておきながら、後になって武器を捨てて捕らわれた者を、掟に反して殺してしまった。」p266-267
ペルシア戦争後に、アテーナイ人によって送り込まれた新市民が、平和的にボイオーティア同盟復帰をめざしてプラタイアに侵入したテーバイ人180名をだまし討ちにして殺戮した前431年の第二次ペロポンネーソス戦争勃発時の事件の重罪を弾劾する。
ラケダイモンの決定、プラタイア人への制裁
200名のプラタイア人と25名のアテナイ人処刑
そこで一人ずつプラタイア人を呼び出すと、戦争中ラケダイモンとその同盟都市に貢献したことがあるかを訊ね、否定の答がある度に、その者を引き出して殺した。しかもこれには一人の例外もなかった。二百名近くのプラタイア人およびこれと共に包囲された二十五名のアテナイ人が殺された。
当然、旧プラタイア人で、ボイオーティア・シンパの人々は救われた。
門を開けて、テーバイ人を逃がした女性も、そのことを申告して救われたので、あのエピソードをヘーロドトスが聴取しているというわけだ。
一年味方の亡命プラタイア人の住居に
テバイ人は内乱で追放されていたメガラ人とテバイに協力したプラタイア人をプラタイア市に入居させて、それを一年の間彼らに委託した。
プラタイアの土地は、1年間、旧住人に委託して居住してもらい、その1年で、ボイオーティアの領域に転居してもらうよう取り計らった。
ここは、邪悪なアテーナイ人との境界のフロンティア、いわばノーマンズランドであるため、より安全な領域に引越ししてもらうためであろう。
「前1200年のカタストロフ」以前のテーバイ帝室が統治した時代には、ラブダコス=ヘーラクレースが、パンディーオーンのアテーナイを撃破し、アテーナイを占領、エレクテウス王を藩王として即位させたであろうし、(そのためラブダコス王家と呼ばれるように父祖認定されている。)
「ギリシア本土のトロイア戦争」の前哨戦では、オイディプース=ヘーラクレースが、出征して、ここでテーバイを守って戦死したようであるし、危険な地域である。
テーバイ人の主女神がヘラ女神である証拠
しかし後には市をその基礎から徹底的に崩してしまった。
そしてその上に二〇〇プース平方のヘラ女神の祭殿を建てて、その周りの上下に居室を作った。
そして天井と戸にはプラタイア人が使っていたものを利用し、他の物品についても壁の中にあった銅や鉄の器具を用いて寝台などを作り、ヘラ女神に捧げた。
またそれに加えて一〇〇プース平方の石殿も作って同じ女神に捧げた。
彼らは土地をも徴収し、それを一〇年契約の借地として、テバイ人が住み込んだ。p269-270
プラタイアの聖婚の神話の古いヘーラー女神は、テーバイ帝室のものであった証拠である。
ラケダイモーン人が、テーバイ人のために取った措置:ヘーラー女神神殿建設
プラタイアに関してはラケダイモン人はだいたいこのような処置をとった。
これはテバイ人のためにとられた処置であって、ラケダイモン人は当時いよいよ本格的になってきた今次大戦にテバイ人がいつか役立つかもしれないと考えたのである。
かくてプラタイア紛争は、アテナイとの同盟成立後九十三年目に、ようやくこのような形で終止符がうたれた。p270
つまり、古来のプラタイアの聖婚のヘーラー女神は、テーバイ帝室の主女神であり、ヘーラクレースは、代々のテーバイ帝室の帝王の副名であることの傍証となる。
ヘーラーの生誕地は、サモスでも、アルゴスでもなく、ボイオーティアのテーバイ帝室の本拠であった昔のプラタイアであったという傍証である。
ヘーラーの正体は、カドモスが導入したハトホル=ウスレトであるという説を措定している。
これが、プラタイアで聖婚のヘーラーとして再誕し、アルゴスに遷都した時、アルゴスの(ミュケナイの)主神となった。アルゴス時代にエウリュステウス王の娘が、ヘーラクレースの世界遠征に同行し、サモスに逆輸入させたと想定される。
ケルキュラ内乱のはじまり
レスボス戦線からケルキュラ戦線へ
レスボス救援遅延軍、ブラシダスと邂逅
さて、ペロポネソスからレスボスの救援に赴いた四十隻の船は、・・・
その途上キュレネでレウカス人とアンブラキア人の三十櫓船十三隻と、最近アルキダスに相談役として来ていたテリスの子ブラシダスに邂逅した。
そこでラケダイモン人は、レスボスは失敗してしまったので、船団を強化してケルキュラに航行し、内乱を起そうと考えた。p270
レスボス戦線のていたらくの凡将らは、名将ブラシダスと邂逅し、ケルキュラ戦線へ向う。
テリスの子ブラシダスというが、出自についてトゥキュディデスは知らない。
しかし若年で将軍になっていること、前431年にアテナイ人に包囲されたメッセニア人の救出によって、エポロス(Ἔφορος)の一人に選出されていることからも、ラケダイモーンの王族系貴族であろと推察される。
その後の行動が、テリスというフェニキア系に多い父の名や、ハンニバルと似た雄弁さ、聡明さを備えていることからフェニキア系が推測される。
第3章 ケルキュラ内乱のはじまり
ケルキュラの内乱が始まったのは、エピダムノスの海戦でコリントスに捕えられた捕虜が帰国した時であった。
事実は捕虜たちがケルキュラをコリントス側につけることを承知したからである。p271
ケルキュラは寡頭派がコリントス側(ペロポンネーソス側)、大衆派がアテーナイ側である。
最初エピダウロスの内乱の干渉の時点は、コリントスとの確執のため、ねじれ現象で、ケルキュラ人寡頭派は、アテーナイと同盟した。
これは、異常現象であった。
コリントス捕虜中に、もとのヘーラクレイダイ同族意識にもどって、ペロポンネーソス側に復旧したのである。
これは、メガラ人もそうだが、アテーナイとは本来不倶戴天である。
コリントス側のケルキュラ人VSアテナイ人、アテナイ人の船への退避
(アテナイの外地代表人を自任し大衆派の指導者でもあった)ぺイティアスを、コリントスから帰って来た捕虜たちが捕らえて、ペイティアスがケルキュラをアテナイに売ったと言って彼を法廷に立たせた。p271
被告人たち(五人の最も金持ち)はこの判決に困っていたやさきに、ペイティアスがまだ協議会にいて、大衆に彼らがアテナイと防衛条約と攻撃条約と両方を結ぶように説得しようとする意志のあることを知ると、短剣を手に一団となって協議会場に入り、ペイティアスと六十人に及ぶ協議員や市民を殺した。そこで、ペイティアスと志を同じにしていた中で少数の者は、まだ碇泊していたアテナイの三重櫓船に避難した。p271-272
つまり大衆派の重鎮、売国奴ペイティアスは、アテーナイに買収され、アテーナイにケルキュラを売ろうしており、それを寡頭派が阻止したのである。
「大衆に彼らがアテナイと防衛条約と攻撃条約と両方を結ぶように説得」とは、アテーナイ側についてペロポンネーソス戦争を戦うことであり、ヘーラクレイダイとしては許すまじきことである。
とういことは「ケルキュラとアテーナイの同盟」は、ケルキュラの大衆派とアテーナイの同盟であったのだろう。寡頭派はいやいやの同盟だった可能性が高い。つまりねじれ現象は、大衆派の扇動によるものであっただろう。
大衆派(アクロポリス)と寡頭派(市場)の対峙
そして夜になると大衆派は、アクロポリスと市内の高地に逃げ、一カ所に居を決めるとヒュライコスの港を占領した。
しかし相手方は市場を占拠した。ここには多くの者が住んでおり、港は大陸に面して市場の側にあった。
大衆派は、アクロポリスに逃げ、寡頭派は、市場を占拠した。
ナウパクトスからアテナイの援軍で形勢逆転
朝になると、ディエイトレペスの子でアテナイの将軍ニコストラトスは、十二隻の船と五百のメッセニア重装兵を率いてナウパクトスから援軍にやってきた。p273
アテーナイ人は、ラケダイモーン方面の攻撃基地としてナウパクトスにメッセニア人を植民した。
アテーナイの将軍ニコストラトスは、メッセニア重装兵を500人連れて救援にかけつけた。
ケルキュラの寡頭派(上流階級)はヘーラクレイダイ(フェニキア系)
ディオスクロイにすがる寡頭派
代りに同数の彼らの船にケルキュラ人を乗せて送ると説いた。そこでニコストラトスがそれに同意すると、大衆派は反対派の者たちを船に乗せるために集めたので、彼らはアテナイに送られることを恐れてディオスクロイの神殿にすがった。p273-274
ケルキュラはコリントスの植民都市だが、ラケダイモーンの半神ディオスクーロイを祀っているのは、ヘーラクレイダイに率いられて侵入したドーリス人の末裔だからだ。
そしてヘーラクレイダイとは、フェニキア系カドモスの末裔のテーバイ帝室系であるからだろう。
ヘーラーの神殿に哀訴者となる寡頭派
他の者たちはこの成行きを知ると、ヘラの神殿に哀訴者としてすがったが、その数は四百に近かった。
そこで大衆派は、彼らが何か暴動を起すのを恐れ、彼らを説いて起たせるとヘラの神殿の向い側の島に運び、そこへ彼らの日用品を送り届けた。p274
他の寡頭派400名は、ヘーラーの神殿に哀訴者として縋った。ヘーラーがテーバイ帝室及びヘーラクレイダイの女神の傍証である。
神殿は、今の公民館みたいなところであった。日常品を送りつけることもできる規模であった。
ラケダイモーンの援軍到着
ブラシダスの船団、シュボタ港に投錨
この内乱が起きたために、少数派の人々が島に移されて四、五日経つと、イオニアの警備に当っていたペロポネソス船団五十三隻がキュレネから到着した。前と同様アルキダスが指揮をとり、ブラシダスがその相談役として航海して来た。
シュボタ港に投錨したが、朝には大陸側からケルキュラに向って出港した。p274
ブラシダス側の勝利
ケルキュラ人は敵が勝った以上ケルキュラ市に押し寄せて来るか、または島の少数派の者たちを奪われないか、あるいは何か新しい暴動でも起きはしないかと恐れて、、島の者たちを再び本土のヘラの神殿に移して市を守った。p275
ラケダイモーンの水軍も、ブラシダスが率いればなかなか強い。
ケルキュラの寡頭派の人々を救う唯一、最後のチャンスであったのだ。
抗戦派のブラシダスと和平派の提督アルキダス
ところが反対派は海戦に勝つと、ケルキュラに向って航海戦を敢えて試みようとはせず、奪った十三隻の船をもって大陸側の出発点に戻った。
伝えられるところでは、ブラシダスがアルキダスと意見を異にして出航を主張したが、ブラシダスは同等の発言権をアルキダスに対して持っていなかったので、結局レウキンメ岬に上陸して土地を荒したと言うことである。
提督アルキダスが、レスボス救援におくれたのはわざとだったのかもしれない。
こやつは、弱腰である以上に、アテーナイびいきだったのかもしれない。
ブラシダスは、アテーナイと徹底抗戦派。
このヘボ提督アルキダスは、前427年、ミュティレネ人を救援するのにわざと遅れたか、へぼなので遅れたか、失敗すると、同年のケルキュラ救援にも、ブラシダスが成功していたのに、途中で引き揚げ失敗し、みすみすケルキュラのヘーラー神殿に庇護を求めた寡頭派を見殺しにした。
にもかかわらず、翌年の前426年のトラキースのヘラクレイア市の建設者に選ばれている。
アルキダモス王同様、アテーナイ・シンパの裏切り者としか思われない。
アテーナイ人の救援で、大衆側の勝利へ
レウカスから烽火/アテナイ船団接近
ペロポネソス船団に夜になると烽火でレウカスから六十隻のアテナイ船団の接近の報がもたらされた。p276
ペロポネソス船団、レウカス地峡から船を陸上運搬してにげる
そこでその夜ペロポネソス船団はただちに陸地沿いに帰国した。海を廻航してアテナイ船団に発見されることのないようにとレウカス地峡では船を陸上運搬して帰国した。p276
寡頭派ケルキュラ人の大虐殺
ヘーラー神殿の哀訴者の少数派の処刑と自殺
しかしケルキュラ人はアテナイ船団の接近と敵の退却を知って、・・・
また乗船を強制した者たちを船から降して殺した。
さらにヘラの神殿に来て哀訴者になっていた約五十名を法廷に立たせると約束して引き出しておいて、一人残らず死罪に付した。
この説得に応じなかった多くの哀訴者はこの結果を知って、神殿で互いに刺しちがえて死んだり、あるいは木に頸を吊り、各自が思い思いに生命を絶った。p276-277
この涜神をヘーラー女神はお忘れにならないだろう。
ケルキュラ内乱は無差別殺戮へ
エウリュメドンが六十隻の船と共に滞在していた七日の間、ケルキュラ人は自分たちの間で敵と思われる者を殺害した。
この表向きの理由は公民統治主義をくつがえそうとしたということであるが、ある者は私怨から、他の者は借金の負債のために殺されたりした。
すなわち父は子を刺し、哀願者は神殿から引きずり出されてその場で殺され、また他の者たちはディオニュソスの神殿に閉じ込められたまま死んだ。p277
フランス革命末期の恐怖政治状態が現出した。
内乱が全ヘラスへ
このように、この内乱は残虐を極めたものとなったが、これが初めて起きただけにその印象は深かった。後になると、いわば全ヘラスに動乱が起きて、紛争があらゆるところに起り、大衆派の人々はアテナイを引き入れようとし、少数派の人々はラケダイモンを引き入れようとした。p277
涜神の罪によって、道徳心が死に絶えた。これは、アテーナイ人にとっても、シケリア遠征の地獄につながるであろう。
罪人は、アルクマイオーン家の者たちであったが、支払わされたのは、アテーナイ人の一般市民であった。元凶のペリクレスは死ににげし、元凶のアルキビアデスは、姑息にもスパルタに寝返った。いずれにせよ、テミストクレス同様、極悪人でありながら、敵に寝返り、自分ひとり助かろうとした挙句、醜い老醜をさらして、不本意の自殺で終わったようだ。
寡頭派残党、ケルキュラ島に拠点を作る…レジスタンスへ
ところで後になって、ケルキュラ人(で逃亡して助かった者たち)約五百人が大陸側の城壁を乗取り、自領を占領して、そこから出撃しては島の者を悩まし、広域にわたって土地を荒した。
全部で六百名ほどが島に渡った。それから、イストネの丘に上ると防壁を作り、市内の者を殺してその土地を乗っ取った。p281
寡頭派の生き残りは、イストネの丘(ケルキュラ島内の大陸側の丘)を占拠して、レジスタンスに入る。
第4章 アテナイのシケリア派兵のはじまり
この同じ夏の終り、アテナイ人は二十隻の船でシケリア島に派兵したが、将軍にはメラノボスの子ラケスとエウピレトスの子カロイアデスがなった。これはシュラクサイ人とレオンティノイ人の間に戦争が起きたからである。p281
大惨事となるシケリア遠征は、シケリア島の二都市の内戦への介入として小さく始まった。
その二都市とは、シケリア最大のメガロシティであるシュラクサイと、弱小のレオンティノイである。
アテーナイの最初の将軍は、ラケスとカロイアデスである。カロイアデスは、すぐに死ぬが、
ラケスは、註に、「アリストパネスやプラトンの作品の中にも登場する人物で、前四六九年に生れ前四一八年にマンティネイアで戦死をしている」とあるように、
前421年のニキアスの和約のあとに勃発した前218年のマンティネイアの戦い、ペロポンネーソス戦争中の戦いで落命している。
先取り「マンティネイアの戦い」inペロポンネーソス戦争(前218年)
なおこのマンティネイアの戦いは、一番有名なエパミノンダスが死んだ同名の戦い(前362年)とは違う。
アギスが、初めて積極的に転じて、クレオンブロトス系の厭戦疑惑を払拭した戦いであった。
しかし、ターゲットがテゲア争奪戦だったので、テゲアは伝統的にアテーナイ人が多く、その連中を守るためだったのかもしれない。
この戦いで敗北したのはアルゴスとアテーナイであり、被害はアルゴス700人、アテーナイ200人と圧倒的にアルゴスの被害であった。
レオンティノイVSシュラクサイ戦争(シケリア半島緒戦)
シケリア緒戦の両陣営
シュラクサイ陣営
シュラクサイ側の同盟都市はカマリナを除くとすべてドリス系諸都市であった。これらの都市は今次大戦の初めにラケダイモン人の同盟都市として加わったものであるが、これまでの戦いに参加したことはなかった。p281-282
シュラクサイ側の都市は、ドーリス系の植民都市で、東辺に位置するシュラクサイを除いて、
東からカマリナ、ゲラ、アクラガス、セリヌスと、すべて南辺に位置する。
カマリナは、ドーリス人の植民市で唯一、レオンティノイ側についた。
レオンティノイ陣営
レオンティノイ側にはカルキス系諸都市とカマリナが味方した。p282
レオンティノイ側の都市は、すべて東辺に位置し、メッセネ、ナクソス、カタネ、レオンティノイと元カルキス系の都市である。
メッセネは、ザンクレとして発足したとき、カルキス系の都市であったが、サモス人が共住し、メッセニア人が共住してメッセネと改名するに及んで、ドーリス系になった。
しかし、アテーナイ人がメッセニア人と同盟したので、メッセネがアテーナイ側に簡単に降伏したのは、内通があったからかもしれない。
興味深いのは、ドーリス系もカルキス系もテーバイ帝室系であったことである。
肥沃な東辺を占拠したザンクレ、ナクソス、レオンティノイ、すべてカルキス系の建国である。
シュラクサイは、テーバイ帝室系のラケダイモーンからロードス島の植民によって植民された。
しかし、ゲロンの家系が、デーメーテール神官であったことからもテーバイ帝室系の子孫であろう。
さらに南辺のゲラは、ラケダイモーン系の植民市であり、アクラガスも、ラケダイモーン系の植民都市である。
さらにセリヌスは、メガラの植民都市メガラ・ヒュブラエアが建設した植民都市であった。
メガラは、プロト・フェニキア人とテーバイ帝室系の王家が起源である。
つまり、シケリア島の都市は、テーバイ帝室のフェニキア系ギリシア人と、西辺は、エトルリア系のフェニキア人と、カルタゴ系のフェニキア人の植民であり、すべて、フェニキア系と考えうることである!
イタリアの両陣営
イタリア半島側ではロクリス人がシュラクサイの味方をし、レギオン人は血族関係からレオンティノイ側についた。p282
シケリア戦争緒戦の陣容は、
シュラクサイ側
ドーリス人(シケリア半島)、
ロクリス人(イタリア半島)、
ペロポンネーソス人(ギリシア本土)
レオンティノイ側
カルキス人=イオニア人(シケリア半島)とカマリア市(シケリア半島)
レギオン人(イタリア半島)
アテーナイ人(ギリシア本土)
アテナイの帝国主義的目的での参戦
レオンティノイ市のゴルギアスの説得でアテーナイ援軍を派兵
かつまた彼らがイオニア系民族であるということからも、アテナイに人を送って船を彼らに送るように説いた。
これと同時にシケリアを彼らが支配することができるかどうかその状態の小手調べの意味もあった。
そこで彼らはイタリアのレギオンに着くと、同盟軍と共に戦争を開始した。そこでこの夏は終った。p282
レオンティノイ(Λεοντῖνοι)は、前729年、ナクソス市(カルキス人の植民)からの植民によって建設されたカルキス人の都市である。
レオンティノイ市民であったソピスト、ゴルギアスの説得によって、前427年、アテーナイはシケリア遠征を始めた。
ゴルギアスは、カルキス系であったのだ。
アテナイのアイオロス諸島攻撃
さてシケリア島についたアテナイ人とレギオン人は、この同じ冬に、アイオロスという諸島に三十隻の船で攻撃をかけた。p282
アテーナイは、ドーリス系のアイオロス諸島を攻撃する。
アイオロス諸島はフェニキア系ドーリス人の植民地
クニドスからの植民のリパラ人
クニドスからの移住民であるリパラ人がこの地域の居住民であるが、彼らはこの諸島の中であまり大きくないリパラと呼ばれる島にいる。p283
クニドスは小アジアのドーリス人のヘクサポリスの一つ。
ディオニューソスとアプロディーテーの信仰から土台はフェニキア系と思われる。つまり、フェニキア人が植民していた土地に、同族のラケダイモーン系ドーリス人を招いた。
ヒエラ島はヘパイストスの鍛冶場
リパラ人はそこから他の島であるディデュメ、ストロンギュレ、ヒエラに行って土地を耕していた。
ここの住民はヒエラ島でヘパイストスが鍛冶をするために夜は火が見られ昼間は煙が見られると信じている。p283
アイオロス諸島(エオリア諸島)の住民の出自
ドーリス人のヘクサポリスのクニドス人の植民である。
クニドス人は、その信仰(ディオニューソスとアプロディーテー)からフェニキア人が開発し、
フェニキア系の同族の王家を戴くラケダイモーン人が植民共住して、建設した都市である。
クニドス人は、まずリパラ島に植民した。
これがリパラ人である。
リパラ人は、近隣の島々、ディデュメ島、ストロンギュレ島、ヒエラ島に植民した。
しかし、ここも昔からヘーラクレースの世界制覇に投影されたフェニキア人によって文明化されていたであろう。
ヘーパイストス信仰と、ここに鉱山があったこと、冶金業が発展していたことなどが傍証である。
第五年終り
これらの諸島は、シュラクサイと盟約を結んでいた。
アテナイ人はそこで土地を荒したが、敵が反撃してこないのでレギオンに帰った。
そこでこの冬が終り、トゥキュディデスが記録した戦争の第五年目も終った。p283
第五年は、
大きな戦争が四つあった。
①ミュティレネの陥落
アテーナイ帝国主義への勇敢なミュティレネ人の反乱が、残虐に鎮圧された。
ラケダイモーン人の厭戦派の体たらくが原因である。
②プラタイア戦争の決着
テーバイ人を盟主とするボイオーティア連盟が、テーバイ人の孤軍奮闘に引っ張られ、はじめてペロポンネーソス陣営に白星を獲得する。
プラタイア人を制裁、テーバイ人の主女神がヘーラーである証拠も判明。
③ケルキュラ内戦の勃発
ケルキュラの植民都市エピダムノスの内戦から始まったケルキュラ紛争は、とうとう母市ケルキュラの内戦に発展する。
ケルキュラの寡頭派と大衆派は、それぞれがラケダイモーンとアテーナイが支援に回って内戦するが、ラケダイモーン人が厭戦的で体たらくのため、アテーナイ側の勝利となり、ケルキュラの寡頭派は、残虐に粛清される。
この時期のエウリュポン朝の王たちが、アテーナイ人との縁戚関係があったのかアテーナイとの戦争に消極的であって、テーバイ市を中心とするボイオーティア連盟や、ペロポンネーソス人の各都市のフェニキア系寡頭派を十分に庇護しなかったことから、エパミノンダスのテーバイ市が、ラケダイモーンに対決姿勢を持っていく原因を知ることができよう。
④シケリア緒戦(レオンティノイVSアテーナイ)の始まり
アテーナイは、帝国主義的魂胆から、シケリア戦争の勝算をはかるべく、お試し緒戦を行なう。
このシケリア介入が、アテーナイの命取りとなる。
シケリア戦線・・・メッセネの制圧
アテナイ人、シケリア島のメッセネ制圧
この同じ夏、アテナイ・・・
ラケスが船団の長となって同盟軍とともにメッセネのミュライに出撃した。
メッセネに自分たちと共に出兵することを条件に降伏を強制した。p284
ラケス率いるアテーナイ人が、東辺の大都市メッセネを制圧する。
これは、メッセネの主たる住民の一つであるメッセニア人が、母市のメッセニア人と連合して、アテーナイに投降した可能性が疑われる。
第5章 ボイオーティア戦線のニキアスの勝利
ニキアス、メロス島攻略失敗
この指揮官はニケラトスの子ニキアスがなった。
メロスは島国であるにもかかわらず、アテナイと盟約を結ぶことに同意をしないので、それを強制しようとアテナイ人は考えたのである。
メロス人はその土地を荒されても屈服しなかった。p284
反骨のメロス人登場。
ニキアス軍を跳ね返す。
グライアのオロポスからボイオーティア上陸
そこでアテナイ人はメロスを引き揚げてグライアのオロポスに渡り、夜半、重装兵はただちに上陸すると、陸路ボイオティアのタナグラに向った。p285
アテナイ人は、ギリシアの語源となったボイオーティアのグライア地方のオロポスからボイオーティアに上陸侵入した。
グライア地方は、ギリシア人の語源となったボイオーティアの地方である。
タナグラ勢+テーバイ勢に戦勝したニキアス
そしてその日はタナグラに宿営して土地を荒し、夜もそこに滞った。
翌日はタナグラ勢と救援にテバイから来た軍勢に勝って、武器を奪い、戦勝塚を立てた。
そしてニキアスは六十隻の船と共に沿岸を航海し、ロクリスの海岸地方を荒した後、帰国した。p285
けっこう後の弱腰、和戦派のニキアスもなかなかやった。
しかし、これは留守の奇襲に等しい。
ボイオーティア地方は、ギリシア人発祥の土地といえる。
カドメイアにテーバイ市の前身を建設したカドモス一統は、この古都を拠点に、ボイオーティア地方に領域展開した。
その港は、ホメロスのギリシア軍の港アウリスは、ボイオーティアとエウボイアの地峡に位置するカルキス市に近い港であった。
アウリスは、タナグラとテーバイの境界に位置した。
つまりカルキス人は、テーバイ人であったと推定される。
なぜなら、エウボイア島にあるカルキスは、ボイオーティア地方にあるともいえるからであり、
テーバイ帝室の帝王、歴代のヘーラクレースの世界進出の拠点となった港こそアウリスであったであろうから。
西地中海で、ギリシア人がグライア人として認知されていたこともその傍証である。
ボイオーティア地方(テーバイ帝室の領域)
ボイオーティア地方は、ギリシア人発祥の土地といえる。
カドメイアにテーバイ市の前身を建設したカドモス一統は、この古都を拠点に、ボイオーティア地方に領域展開した。
その港は、ホメロスのギリシア軍の港アウリスは、ボイオーティアとエウボイアの地峡に位置するカルキス市に近い港であった。
アウリス港は、タナグラとテーバイの境界に位置した。
つまりカルキス人=テーバイ人であったと推定される。
なぜなら、エウボイア島にあるカルキスは、ボイオーティア地方にあるともいえるからであり、
テーバイ帝室の帝王、歴代のヘーラクレースの世界進出の拠点となった港こそアウリスであったであろうから。
西地中海で、ギリシア人がグライア人として認知されていたこともその傍証である。
第6章 ヘラクレイア市建設
この頃ラケダイモン人は次の理由でトラキスのヘラクレイアに植民都市を設立した。p285
ヘラクレイアの要衝性/エウボイア、トラキアへの拠点
これはトラキス人とドリス人の仕返しをするためもあったが対アテナイ戦にこの植民都市を設立することは良策と考えたからであった。
つまりその地に海軍を養成すればエウボイアに渡るのに近道になり、トラキアへの中継点として使えるからであった。p285
ヘラクレイアの立地:テルモピュライから40st.海から20st.
ラケダイモンからはレオン、アルキダス、ダマゴンの三人の指導者が出た。
彼らは現在ヘラクレイアと呼ばれているところに新しく都市を建てて壁を巡らした。
そこはテルモピュライから約四〇スタディオンほどで、海からは二〇スタディオンほど入った地点であった。
彼らは岸壁を構築してテルモピュライに面した狭い通路をふさいでその守りにした。
ヘラクレア市も複数あるが、これは、テルモピュライの近くのヘラクレアである。
エウボイア島に渡るのには、カルキスの地峡が一番便利であるが、ペロポンネーソスから来ると、最短距離は、ヘラクレア経由となる。これは、後のブラシダスのカルキディケ遠征の足係となるトラキス地方に拠点をもつためであった。
ここで、ケルキュラの救援を途中で引き揚げたヘボ提督もしくは、裏切り者の提督のアルキダスが、三人の建国者の一人に名を連ねる。ラケダイモーンで掣肘を受けたくなかったからか。
第7章 ケルキュラ戦線、アカルナニア沖の3島をめぐって
アカルナニア人、アテーナイ側に従軍
ペロポネソス周辺にいた三十隻のアテナイ船団はレウカスのエロメノスで敵の警備隊を待伏せてこれを撃滅した。
そこでアカルナニアではオイニアダイを除くすべての部族がアテナイ側に参加し従軍した。p287
アカルナニア人は、オイニアダイを除いて、アカイア人の亡命した部族であったようだ。
「ギリシア本土のトロイア戦争」の後、敗北したアカイア人は、主に、アカイア地方に逃げ込んで逼塞した。
しかし地図をよく見てみると、コリントス湾を挟んで、南がアカイア地方、北がアイトーリアー地方である。
コリントス湾の入口の北岸にある都市が、アケローオス河の河口に位置するオイニアダイ市である。
アイトーリアー王家のオイネウスを名祖とするオイニアダイ市は、このとき唯一アテーナイに与しなかったファクトから、アイトーリアー王家の末裔を仰ぐ子孫であると推定される。
この西の小さな領域がアカルナニア地方である。
そのすぐ北に、大きくえぐれたアンプラキア湾がある。
ここはアンプラキア人の領域であり、テーバイ帝室系が制圧した領域である。
これも、デモステネスのアテーナイが、後にアンプラキア人だけを処刑したファクトから、テーバイ帝室系と推定できる。
アイトーリアー地方、アンプラキア地方、エペイロス地方、イリュリア地方と北上するすべての領域が、テーバイ帝室系によって奪還されていたと、想定される。
エペイロス地方の対岸にある島がケルキュラ島である。
さらにエペイロスとイリュリアの境界にある都市が、イタリアの玄関タラス市への橋頭堡であるエピダムノスである。
完全にテーバイ帝室に包囲されたアカルナニア地方に、アカイア人の一分枝が逃げ込み、その前に浮かぶイオニア三島、南からザキュントス島、ケパレニア島、レウカス島に、渡ってそこを占領し、(フェニキア人のオデュッセウスが支配していた)居住した。
つまり、アカイア人は、ギリシア本土の北西のアカイア地方と対岸のアカルナニア地方、
そしてその両領域の対岸に浮かぶイオニア三島に逃げ込んでいたと考えうる。
つまり、ギリシアの北西部アカイア地方、アカルナニア地方、イオニア三島に囲まれた領域が、アカイア人の領域であるのだ。
ここから、クロトンやサグントゥムに植民した。
アカルナニア人と対岸の3島
アカルナニア人、デモステネスにレウカス島への防壁構築依頼
ザキュントス人、ケパレニア人とケルキュラからの五隻の船で強化されたアテナイ勢はレウカスに向った。しかしレウカス人は抵抗をしなかった。
そこでアカルナニア人はアテナイの将軍デモステネスに、レウカスに壁を構築して切り離すようにすすめた。p287
レウカス島は、アカルナニアの対岸に浮かぶ島。
南から、ザキュントス島、ケパレニア島、レウカス島の順に三つ島が並ぶ。
つまり、南から、メッセニアのピュロスの対岸にスパクテリア島、
アカルナニアの対岸に、南からザキュントス島、ケパレニア島、レウカス島のイオニア三島、
エペイロスの対岸にケリュキュラ島が位置する。
アカイア人は、ギリシア本土から掃き出され、本土ではアカイア地方に逼塞し、アテーナイの大衆部に落ちぶれた。
本土から掃き出された分子は、まずアカルナニアと対岸の三つ島に逃れたのであろう。
ケパレニア島は、フェニキア人オデュッセウスの本拠であったが、ザキュントス島に入植したアカイア人の貴族が征服したのであろう。(ペネロペイアの求婚者たちに投影されている)
オデュッセウスは、友軍のアイトリア地方に逃れて余生を送ったようだ。
アカイア人の領域のなぞ解明!!
アカルナニア人は、オイニアダイを除いて、アカイア人の亡命した部族であったようだ。
「ギリシア本土のトロイア戦争」の後、敗北したアカイア人は、主に、アカイア地方に逃げ込んで逼塞した。
しかし地図をよく見てみると、コリントス湾を挟んで、南がアカイア地方、北がアイトーリアー地方である。
コリントス湾の入口の北岸にある都市が、アケローオス河の河口に位置するオイニアダイ市である。
アイトーリアー王家のオイネウスを名祖とするオイニアダイ市は、このとき唯一アテーナイに与しなかったファクトから、アイトーリアー王家の末裔を仰ぐ子孫であると推定される。
この西の小さな領域がアカルナニア地方である。
そのすぐ北に、大きくえぐれたアンプラキア湾がある。
ここはアンプラキア人の領域であり、テーバイ帝室系が制圧した領域である。
これも、デモステネスのアテーナイが、後にアンプラキア人だけを処刑したファクトから、テーバイ帝室系と推定できる。
アイトーリアー地方、アンプラキア地方、エペイロス地方、イリュリア地方と北上するすべての領域が、テーバイ帝室系によって奪還されていたと、想定される。
エペイロス地方の対岸にある島がケルキュラ島である。
さらにエペイロスとイリュリアの境界にある都市が、イタリアの玄関タラス市への橋頭堡であるエピダムノスである。
完全にテーバイ帝室に包囲されたアカルナニア地方に、アカイア人の一分枝が逃げ込み、その前に浮かぶイオニア三島、南からザキュントス島、ケパレニア島、レウカス島に、渡ってそこを占領し、(フェニキア人のオデュッセウスが支配していた)居住した。
つまり、アカイア人は、ギリシア本土の北西のアカイア地方と対岸のアカルナニア地方、
そしてその両領域の対岸に浮かぶイオニア三島に逃げ込んでいたと考えうる。
つまり、ギリシアの北西部アカイア地方、アカルナニア地方、イオニア三島に囲まれた領域が、アカイア人の領域であるのだ。
ここから、クロトンやサグントゥムに植民した。
第8章 メッセニア人とデモステネスのアイトーリアー戦線へ
メッセニア人:アカルナニア人を捨てて、アイトーリアー征服を献策
さらに彼らが説いたのはおりからデモステネスには、メッセニアからのこのような大軍がある以上、ナウパクトスの敵としてアイトリアを攻撃することは良策であるとし、しかも、もしアイトリアを落せばその地方の大陸も容易にアテナイ側につかせることができると説明した。
そして彼らの言い分ではアイトリアは大きくかつ戦闘的ではなるが、村落ごとに防壁を持たずに住んでおり、互いに距離が離れていてしかも彼らの兵力は軽装兵なので、まとまって救援に出て来る前に落としてしまうことは困難ではないように思えるという点であった。p287-288
メッセニア人は、もとヘーラクレイダイのフェニキア系ドーリス人である。
アカルナニア人は、アカイア人である。
デモステネスとしては、アテーナイの利益を代表するなら、アカルナニア人を尊重すべきであっただろう。
しかし、ヘーラクレイダイのメッセニア人を尊重するデモステネスの出自は、フェニキア系だったのかもしれない。
レウカスの防壁却下でアカルナニア人離脱
アカルナニアの意に反して彼はその地点から全軍を率いてレウカスを離れソリオンに航行した。
そこで彼の意志をアカルナニア人に知らせると、レウカスに防壁を構築しないという点で彼らはデモステネスの案を受け入れなかった。p288
イオニア三島のうちアカルナニアの正面に位置する最北のレウカス島は、アンプラキア湾に近く、防壁を必要としていた。
デモステネスが、レウカスに残って防壁を造ってくれないとなると、レウカス人はへそを曲げて、デモステネスのアイトーリアー戦線についていかなかった。
デモステネスのアイトリア戦線
デモステネス、アイトリア攻略へ
そこで残りの軍勢、すなわちケパレニア人、メッセニア人、ザキュントス人、それに、デモステネスはアテナイの船に乗っているアテナイの海兵三百を率いてアイトリアに向った。p288-289
デモステネスは、レウカス人はおいといて、残りの軍勢、すなわちケパレニア人、ザキュントス人を伴って、メッセニア人と合流し、アイトーリアー戦線に展開する。
メッセニア人、アイトリア攻撃を唆す・・・アテナイ軍惨敗
しかるにメッセニア人は、この時になってもまだ最初に唆した計画をデモステネスにそのまま勧めて、アイトリアは容易に陥落すると教え、敵がまとまって出撃する前にすみやかに村落を攻撃して、一カ所に滞まらないように、また次々と村落を取っていくように指示した。p289-290
ついにアテナイ側は退却して逃げはじめ、登り口のない川底に落ちたり、未知の地形のために殺されたりした。この主な原因は道案内のメッセニア人クロモンが死んでしまったからである。p290
メッセニア人の下準備のミスで、デモステネス軍は惨敗する。
デモステネス、大敗の制裁を恐れてナウパクトス周辺に居残る
アテナイの重装兵もほぼ百二十名が戦死した。この数は今次大戦において、アテナイ人が国外で死んだ者では最も数が多かった。しかも彼らは粒選りの精鋭だったのだ。
デモステネスの僚将プロクレスも戦死した。
しかしこの失敗でアテナイ市民を恐れたデモステネスはナウパクトスの周辺に居残った。p291
アテーナイ側で、唯一の名将デモステネスの緒戦は、手痛い敗戦であった。
しかし、挽回すべく、居残って、逆転の一打を打つところ、失敗から学ぶ名将のゆえんである。
ケルキュラ戦線ーアイトリア戦線膠着
アイトリア戦線にラケダイモーン、エウリュロコス将軍を援軍に派遣
アイトリア人、援軍要請
同じ夏、アイトリア人は、・・・ラケダイモンとコリントスに送って、アテナイ人の侵略に対してナウパクトスに向け援軍を彼らへ派遣するように要請した。p291
アイトーリアー人は、捲土重来に備えて、ラケダイモーンに救援を要請した。
スパルタの指揮官エウリュロコスの援軍
そこでラケダイモン人は秋口になって三千の同盟軍の重装兵を送った。
この中の五百名は当時新しく建設されたトラキスのヘラクレイアから来たものであった。
しかしスパルタの将軍エウリュロコスが指揮官になり、・・・・p291-292
ラケダイモーンの将軍エウリュロコスが指揮官となり、トラキースの新都市ヘラクレイアから召集された兵士が集まった。
ロクリス人を味方にする
軍勢をデルフォイに集めると、エウリュロコスはオゾリスのロクリスに使者を送った。これはナウパクトスに行くのにここが通り道だからであると同時に、彼らがアテナイから離反することを望んでいたからでもあった。p292
同じドーリス系のオゾリスのロクリス人にも救援要請した。
デモステネス、ナウパクトスの防備へ
デモステネス、いち早くアカルナニア人をナウパクトスの防備に投入
ラケダイモン勢は、・・・ロクリスを通りナウパクトスに向った。
アテナイ人デモステネスはこの進出を予知し、ナウパクトスをあやぶみアカルナニアに行って説いた。
しかし彼のレウカス引き揚げがたたっていて、ナウパクトスに援兵を送らせるのに苦心した。
アカルナニア人はデモステネスと一緒に一千の重装兵を船に乗せて送った。これらはナウパクトスに着くとその防備に従事した。この理由はナウパクトスの城壁が長くて、守る者が少なくては防備しきれない恐れがあったからである。p293
レウカス人とアカルナニア人は、アカイア人の人口密度が高かったのだろう。
デモステネスの徴兵に、なかなか容易に乗らなかった。
エウリュロコス、ナウパクトス占領を断念、カリュドンに行く
エウリュロコスと彼の手勢は、ナウパクトスに救援軍が入ってしまったためそれを占領できないことを知った。
しかし彼らはペロポネソスには行かず、今日ではカリュドンと呼ばれているアイオリス及びプレウロン、それにアイトリアのプロスキオンに行った。p293
ラケダイモーンの将軍エウリュロコスは、ナウパクトスを占領できず、カリュドーンに来た。
そこへ、アンプラキア人も集結した。
デモステネスのアテーナイ軍+メッセニア人は、第一ラウンドは、ラケダイモーン勢に負けたが、ナウパクトスは死守した。
第9章 ケルキュラ戦線ーアンプラキア戦線のデモステネスの大勝利
アイトリア戦線からアカルナニア戦線へ帰還
アンプラキア人+ラケダイモーン軍、オルパイ占領
同じ冬、アンプラキア人はエウリュロコスに約束したとおりに軍勢を派遣し、三千の重装兵をアンピロキアのアルゴスに送って、その地に侵入しオルパイを占領した。
オルパイは海に突出した岬の上にある堅固な砦であり、アカルナニア人が築いて、以前はその議場に使用されていた所である。p296-297
アンプラキア人とは、アカルナニアの北のアンプラキア湾周辺の住民。
イリュリア遠征のカドモス隊の積み残しの植民の文明人が上流階級であったであろう。
アンプラキア人は、アカルナニア人の議場のあったオルパイの岬を占領した。
アカルナニア人、デモステネスに指揮を依頼
アカルナニア人の一部はアルゴスの救援に赴き、・・・
彼らはアイトリアのアテナイ人の将軍デモステネスに、自分たちの指揮をとってくれるように伝え、・・・p297
このアカルナニア人の領域のアルゴスは、アカイア人がアルゴスを占領した時に植民建設したのであろう。レウカスの壁でもめて絶交したのちナウパクトスへの派兵に協力したデモステネスに、アカルナニア人が救援要請する。
やはり頼れるのはデモステネス将軍だったわけだ。
デモステネス軍、アンプラキア湾に到着
間もなくアテナイ軍は二十隻の船をもって、アルゴスの救援のためにアンプラキア湾に到着した。その指揮官デモステネスの手にはメッセニアの重装兵二百名と六十名のアテナイ人の弓兵があった。p298
デモステネスは、壁は築かなかったが、メッセニア人の弓兵を率いて、アンプラキア湾に、救援に駆けつけた。
デモステネスとメッセニア人の勝利
エウリュロコスの部隊と彼らの最精鋭が滅ぼされているのを見て、兵士たちは非常な恐慌に陥った。
この勝利の主因はデモステネスと彼ととともに守ったメッセニア人によるものであった。p299
デモステネス率いるメッセニア人は屈強で、エウリュロコスのラケダイモーン人を圧倒した。
デモステネス、アンプラキア人のみ処刑、ペロポネソス側の離間作戦
ペロポネソス軍と秘密裡に協定して撤退させる
デモステネスとアカルナニア人の幕僚はマンティネイア人やメネダイオス人および他のペロポネソス軍のめぼしい指揮官と秘密裡に協定を結んで、彼らが早急に帰国できるようにした。
これはアンプラキア人と多くの傭兵を孤立させて、とくにペロポネソス人がこの地方のヘラス人によって自己の利益のみを考える裏切者としての非難を受けるように仕組んだ。p300
ラケダイモーン人を裏協定で逃がし、離間作戦を取った。
野草採りを装って撤退
この頃、協定のできていたマンティネイア人は野草採りと薪とりを言いわけにして、少人数に別れて市門を秘かに出ると、初めは言いわけどおりに草や木を集めていたが、オルパイから遠ざかると急いで帰途についた。p300-301
アンプラキア人のみ処刑
結局、ペロポネソス人とマンティネイア人は逃亡し、アンプラキア人だけが皆、処刑された。p301
アンプラキアは、3島のレウカス島の先のアンプラキア湾の北岸にある都市。
コリントスの僭主キュプセロスの建設で、コリントス人の植民。
カドモスのイリュリア遠征のフェニキア人に、あとからヘーラクレイダイのコリントス人が共住したのが、アンプラキアの領域。
デモステネスの大金星が敗戦を補填
現在アテナイの社に捧げられている三百組の重装兵装具はデモステネス個人に与えられたもので、彼がそれらを持って帰ってきたのである。
彼にとってアイトリアの敗北以後の帰国も、このような功績で危険なものではなくなり、二十隻のアテナイ船団はナウパクトスに帰った。p304
デモステネスは、アイトーリアー戦線の雪辱を果たし、アイトーリアーとイオニア三島をアテーナイ側に確保した。
第六年の終り
この年の春、以前と同様にアイトネ山から火の河が流れ出して、山の付近に住むカタネ人の土地を荒廃させた。
このアイトネ山はシケリア島で一番高い山である。
この噴火は五十年来のことであったと言われ、・・・
以上がこの冬におきたことであって、トゥキュディデスが記録した戦争の第六年目も終った。p305-306
第六年は、
①ニキアスによるボイオーティアのグライア地方略奪。
②ラケダイモーン、ヘラクレアを建設
③アカルナニア戦線の攻防
④デモステネスとメッセニア人のアイトリア攻撃の大敗北
⑤デモステネス、アカルナニア戦線に帰還。アンプラキア人(コリントス人の植民)を制圧。
大金星を挙げる。
デモステネスとニキアスが活躍した年といえよう。

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