- 第4巻の概要
- 第1章 シケリア戦線ーメッセネのアテナイ離反
- シケリア戦線ーメッセネ(シュラクサイ陣営)VSアテナイ軍
- 中間発表:メッセネとカマリアがドーリス陣営に復帰
- 第2章 デモステネス、ピュロス戦線を展開
- デモステネス、ピュロス占領
- 第3章 スパクテリア島の攻防戦
- ピュロス戦線の決着
- 第4章 コリントス戦線
- コリントス領の諸都市掃蕩
- 第5章 ケルキュラ戦線ー大衆派による寡頭派虐殺
- キュテラ島、ニキアスに投降
- 第6章 シケリア島内の全代表会議・・・ヘルモクラテス登場!
- 第7章 ブラシダスのメガラ救援
- ブラシダスのメガラ救援総括
- デリオンの戦い:ボイオティア戦線ーテーバイ人の知られざる強さ!
- デリオンの戦いの準備、複数都市同時「革命」の陰謀
- 到着時間差で、同時多発テロ計画くずれる
- ヒッポクラテス、デリオンに籠城
- ボイオーティア連盟
- 第8章 デリオンの戦い開戦
- デリオンの戦いの圧倒的勝利
- 第9章 ブラシダスのトラキア(カルキディケ)遠征
- カルキディケまでの行程:トラキスーテッサリア経由
第4巻の概要
①シケリア戦線-メッセネのアテーナイ離反
②デモステネス、ピュロス戦線を展開/スパクテリア攻防戦
③ヘルモクラテス登場
④デリオンの戦い開戦
⑤ブラシダス登場、カルキディケ戦線へ
第1章 シケリア戦線ーメッセネのアテナイ離反
シケリアのメッセネ人がアテナイ離反
夏になり穀類の穂が出はじめると、シュラクサイの船とロクリスの船各十隻が、シケリアのメッセネ人の招きでその地に上陸した。そこでメッセネ人はアテナイから離反した。p307
メッセネ人は、カルキス人とドーリス人というフェニキア系のため、アテーナイを端から信用していなかったのだろう。
本土のメッセニア人がアテーナイ側のため、アテーナイに容易に降伏したものの、やはりアテーナイの独善的なやりかたに離反を画策する。
メッセネ人自身が、ロクリスとシュラクサイの船を招き入れたのである。
メッセネでのサモス人やカルキス人の力が強まったのかもしれない。
メッセネーロクリス同盟
一方ロクリスはレギオンと対立しているので、メッセネと手を組んで両側からレギオンに攻撃をしかけようと考えた。p307
レギオンもフェニキア系であるが、アテーナイに対するアレルギーの強さが、両陣営を分けたのかもしれない。
新司令官エウリュメドンとソポクレス
一方アテナイ人は前回と同様に四十隻の船をシケリア島に送り、エウリュメドンとソポクレスが空席になっていた将軍の役を務めた。
アテナイ人はこの船団に、航海の途中でケルキュラに寄って、市内にいるケルキュラ人の面倒を見るように命じた。p308
ケルキュラは、シケリアへの重要な橋頭堡である。
ここには、ケルキュラ少数派の残党が、ゲリラ戦法でいまだ抵抗していた。
モブ将軍エウリュメドンとソポクレスは、その弱者殲滅のために差し向けられた。
シケリア戦線ーメッセネ(シュラクサイ陣営)VSアテナイ軍
シュラクサイ側、メッセネを基地に
ちょうどこの頃、シケリア島では、シュラクサイとその同盟諸軍は、用意のできた他の船隊をメッセネの警備艦隊に編入して、そこから先頭に出撃した。p325
離反したメッセネを警備するためにシュラクサイが活動開始。
レギオンとメッセネ間の海峡はシケリアと大陸の一番近くなって地点で、ここはカリュブディスと呼ばれて、オデュッセウスが通った所とされている。・・・海峡の狭さとともにその流れは当然恐れられていた。p325
シュラクサイ船隊はこのような海戦を海岸沿いに船を曳航しながら行ない、優勢のままメッセネ港に帰投した。p326
メッセネ海峡は、有名な難所で、ジモティーのシュラクサイのほうが、アテーナイより航行は有利である。
シケリアの攻防戦:メッセネがナクソス襲撃、そのメッセネ軍をアテナイが襲撃
さて一方でアテナイ軍は、カマリナ市がアルキアスとその一派によってシュラクサイに降服すると伝えられたので、その地に急航した。
メッセネはこの機会に海陸の総力を投入して、カルキス系の隣国ナクソスに向い、・・・ナクソス市を襲撃した。
ところがちょうどこの時、シケリア先住民が山岳地帯から多く救援に下り来てメッセネに敵対した。
レオンティノイとその同盟軍は、アテナイ軍とともにただちに弱体化したメッセネに向った。
この後、シケリア島のヘラス植民都市はアテナイの介入をまたずに、互いに陸上で攻防戦を繰り返した。p326-327
ドーリス人の都市で唯一アテーナイ側についていたカマリナ市が市民の内応によってシュラクサイ側へ投降。つまりドーリス陣営に復帰。
メッセネが、ナクソス市襲撃。
シケリア人がナクソスを救出。
レオンティノイとアテナイ軍が、メッセネ攻撃。メッセネ軍、市壁に逃げ込む。
現在、カマリナが、シュラクサイ側に投降し、
アテーナイ側は、レオンティノイとナクソスとシケロイ人(シケリア先住民)である。
レオンティノイは、シケロイ人の建設したシュラクサイの内陸にある都市である。
後にカルキス人のナクソスが、都市として創建した。
中間発表:メッセネとカマリアがドーリス陣営に復帰
ヘルモクラテス登場前夜、の成績表である。
アテーナイに征服されたメッセネが、自身で、ロクリスとシュラクサイを招いて、アテーナイを離反。
唯一ドーリス都市でありながら、アテーナイに与していたカマリナが、ドーリス陣営に復帰。
第2章 デモステネス、ピュロス戦線を展開
デモステネス、ピュロス占領
デモステネスのピュロス要塞化作戦!
ピュロス占領かケリュキュラ急行か
さてこうして船がラコニアの沿岸を航行している間に、ペロポネソスの船は、すでにケルキュラにいることが報告された。
そこでエウリュメドンとソポクレスはケルキュラへと急行を主張したが、デモステネスは最初にピュロスに入り、それを占拠して必要なことをしてから航海を続けようと主張した。しかしこの案はいれられなかった。
たまたま嵐が起って船をピュロス湾の中に運んでしまった。p308
ケルキュラ急行を主張する新シケリア方面司令官たちと、ピュロス占領を主張するデモステネスの論戦のなか、風が船をピュロス島に運ぶ。
新司令官たちは、アテーナイ首脳部のいいなりで、またケルキュラが重要であることは事実、
しかし、ケリュキュラは、弱小のケルキュラ少数派の慣れ果てであるゲリラを掃蕩するタスクで、安全でカンタン、失敗しようのないものである。さらに、いうなら弱い者いじめである。
しかし、デモステネスは、天才軍事家で、独自のセンスでピュロス占領を好手と見た。
さらにいうなら、上司の顔色をうかがってアテーナイのアルクマイオーン家の利権のためにたたかうのではなく、アテーナイ市民全体の利益のために、最良の選択をできる「嫌われる勇気」の持ち主である。
天命もデモステネスに味方した。
ブラシダスは、アテーナイと裏切り者の王に買収されたへぼ提督と争った時、やはり立場が下で、負けて、ケルキュラを救えなかった。
しかし、デモステネスは、頑張ったし、自然も味方した。
ブラシダスとデモステネスは、よく似ている。ともにテーバイ帝室系と想定される。
ピュロス=コリュパシオンとは?
ピュロスはスパルタから約四〇スタディオン離れていて、当時のメッセニア領に属し、ラケダイモン人はそれをコリュパシオンと呼んでいる。p309
ピュロスは、テーバイ帝室時代からの古都であり、もしかしたら、テーバイ帝室系の末裔であろうデモステネスにとっても、その重要性が理解できたのかもしれない。
ピュロス占領の論争:デモステネスVSモブ将軍たち
エウリュメドンとソポクレスが言うには、もしデモステネスがアテナイの公費を使ってピュロスを占領しようとするならば、ペロポネソスには他にもたくさんの孤立した岬があるという点であった。p309
モブ将軍たちエウリュメドンとソポクレスにとっては、ピュロスは多くの岬の一つであったが、デモステネスは、数えきれない岬に都市を建国してきたフェニキア人の血で、ピュロスの重要性をかぎ取ったのかもしれない。
上代の古都ピュロスは要塞化可能のラケダイモン方言の土地
しかしデモステネスにとってはこの地は他と大いに違って見えた。
港はあるし、その上古代からラケダイモン人と同じ方言を身につけたメッセニア人が近くに住んでいるので、彼らがそこから出撃してはラケダイモン人を悩ますこともできるであろうし、またこの地は確固たる砦になると考えたのである。p309
ピュロスは、言わずと知れた古都であり、メッセニア人はラケダイモーン人と同じドーリス方言である。
古来からの地の利を生かして「要塞化が容易」な点、「メッセニア人の拠点」にできる点で、得難い土地であった。
デモステネス、岬都市ピュロスの地峡に防壁
アテナイ人はこの地点で大陸に面した部分と壁の必要な部分に防壁を六日で巡らしてしまうと、これを守るために五隻の船をデモステネスに残して、残りの主力船隊をもってシケリアとケルキュラを目指して出航した。p310
ピュロスの創建の推定
ピュロスは、ネーレウス率いるアイオリス人たちが占領する前に、フェニキア人の植民都市だった可能性が強い。
メッセネが内陸にあるのに対して、ピュロスは典型的なフェニキア人のエンポリオンの形をしている。クレタ島と同様のバスタブが発見されている。
フェニキアを出て、小アジア半島沿いにすすみカリア地方からクレタ島に植民したフェニキア人は、クレタを橋頭保としてペロポネソスの西沿岸からギリシア本土に植民したのではないか。
アプロディーテーがキュテラ島からキュプロスに向ったという誕生神話は実は、キュプロスのアシュタルテが、ペロポネソスへキュテラ島から上陸したことを投影しているだろう。そのあとザキュントス、ケパレニア、レウカスからケルキュラへとイオニア海の島を飛び地で辿りながら航海し、シケリアへ植民したのであろう。オデュセウスは、その時の子孫の末裔であろう。
つまり、フェニキア人は、クレタ島を橋頭堡として、ピュロス、三つ島、ケルキュラと植民し、対岸のエペイロス、イリュリアと植民しながら、南イタリアからシケリア方面に植民を拡げたのであろう。
これが、ミーノースの世界征服に投影されている。
ミーノースは、エーゲ海を制覇し、西地中海は、シケリア島までエンポリオンを建設したのであろう。
ピュロスとミュケナイは全然違う民族の拠点である。
ピュロスはフェニキア人のエンポリオンから発展したことはまちがいないだろう。
ペロポネソス軍、ピュロスに布陣!
アッティカのラケダイモン軍を本国へ召還
一方、アッティカにいたペロポネソス軍はピュロスの占拠されたことを知ると急いで帰国した。
このわけはラケダイモンの王アギスにもその配下のラケダイモン人にも、このピュロス事件は彼らに重大な影響があると考えられたからである。p310
アッティカのペロポネソス軍を撤退させただけでもデモステネスはすでに大金星。
デモステネスは、ラケダイモーン人がいかにピュロスを重要視していたかを知っていたのではないか。
だとすれば、聡明なデモステネスは、フェニキア系だったのかもしれない。
ペロポネソス軍、ピュロスに布陣完了
ペロポネソス軍がアッティカから帰って来ると、スパルタ人部隊と近隣都市の軍隊はただちにピュロスの救援に赴いた・・・・
そこでペロポネソス一円に布令を出して、早急にピュロスへ救援に集まるように命令し、ケルキュラにある六十隻の船にもこの命令を伝えた。
この船はレウカスの海峡と越えると、ザキュントスのアッティカの船の目を逃れ、ピュロスに着いた。p312
デモステネスは、ピュロスを人質にとることで、ケルキュラを包囲していたラケダイモーンの水軍も引き上げさせた。
モブ将軍たちは、助けられたのである。
デモステネス、アテナイ船団に参戦要請
一方デモステネスは、まだペロポネソス軍が航海している間に、二隻の船をエウリュメドンとザキュントスにいるアテナイの船に送って、ピュロスが危機に直面しているからと参戦を要請した。p312
今度は、ピュロスにラケダイモーン軍が集中する。デモステネスは、いち早く救援を要請した。
このデモステネスのピュロス占領が、アテーナイ最大の大勝利、スパクテリアの戦いにつながるのである。
第3章 スパクテリア島の攻防戦
スパクテリア島
ラケダイモン軍も、・・・もしそれまでにピュロスを陥せなかったら、港の入口を閉鎖してアテナイ船隊がその中に停泊できないようにする計画もたてていた。
つまりスパクテリアと呼ばれる島が湾口の非常に近くに横たわっていた、港を安全にし二るの入口を狭くしていたからである。p312-313
ピュロスは本土にある典型的な「岬型」のフェニキア系エンポリオンである。
そして、その対岸の至近距離に、細長い「スパクテリア島」が横たわっている。
まさに本土と島を含むテュロスと同系のエンポリオンである。
ラケダイモン軍、スパクテリア島の占拠(エピタダス麾下の420名)
また島から敵が戦いを挑むといけないと考えて、重装兵を島に送り、陸地側の海岸沿いに他の部隊を置いた。
このように島も陸地もアテナイ人にとっては敵地となった。
ラケダイモン人は以上のように考えて、全部族からくじで人を選んで、この島に重装兵を上陸させた。他の者たちがこの前にも島に交代で渡っていたが、今回の兵士たちはその最後でそこに居残った。
その数は四百二十名とそれに従った農奴たちからなっていた。
その指揮官はモロブロスの子エピタダスであった。p313
スパクテリア島に立て籠もるラケダイモーン人。司令官は、エピタダス。
援軍到着前に戦況を制したデモステネス!!
この日もまた翌日も、ラケダイモン人は攻撃を何度か繰り返したが、ついにあきらめた。
この頃、ザキュントスからアテナイの船四十隻が到着した。p317
ザキュントスの四十隻が到着する前に、デモステネスは攻防戦を制していた。
いち早く援軍要請をするが、自分で、できる限りのことはする。
カスタマーセンターとしても模範的なデモステネスである。
デモステネス、二回目の大金星である。
スパルタ、「ピュロス危機」で休戦協定打診
「ピュロス危機」スパルタ、アテナイに休戦協定の打信!!!
ピュロスの顛末がスパルタに報告されると、その問題の重大さのために視察団を戦場に送り、その結果を待ってただちに対策をたてることに決議された。
彼らはアテナイ軍の将軍のところに人を送って、もしアテナイ人が同意するならば、ピュロスに関して休戦協定を一応結び、その後アテナイに和平協定設立に関して使節を派遣し、その使節団の早期帰国を計るという案を出した。p319
「ピュロス危機」はスパルタの喉元に匕首を突き付けた形となった。
これがアテーナイが勝利する重大な分水嶺であり、チャンスであった。
エピタダス麾下の420名のスパルタ人は、スパルタにとって非常に重要な存在だったのだ。
それを作りだしたのはデモステネス。
クレオンが和平交渉をつぶす
ところがクレオンは俄然強硬な声を上げて、・・・もしも正しいことを考えているならば公開せよと迫った。
ところがラケダイモン人にとって、公開交渉は裂けねばならない上に、どんな妥当の申し入れもアテナイ人は受理しそうにもないので、そのままアテナイを去った。p324
その後の展開を考えると、ピュロスをあきらめなかったクレオンは、デモステネスと同じく、ピュロスの重要性を知っていたのかもしれない。
ただ単にタカ派だった可能性の方が高いが。
このとき、ラケダイモーンに譲歩して、ペロポンネーソス戦争を集約していたならば、シケリア戦線の悲劇はなかったかもしれないが。
ピュロス攻防戦争再開(スパクテリア島解放戦争)
こうしてピュロスでは双方の力ずくの戦闘が続けられ、アテナイ側は昼間は二隻の船を島の周囲でそれぞれ逆の方向に廻航させ、ペロポネソス側は陸地に設陣してアミュクライ側の砦に攻撃をかけ、なんとか島の者たちを救出する機会はないものかとねらっていた。p325
ピュロス戦線の決着
スパクテリア島包囲続行
ピュロスでは、まだアテナイ軍が島にいるラケダイモン人を包囲しており、大陸側のラケダイモン人もそのまま滞陣していた。p327
和平拒絶を悔やみはじめるアテナイ人
アテナイ軍はとくに食糧と水の不足で警備に苦労した。
ピュロスには小さな井戸が一つあるだけなので、大部分の者たちは海辺の砂利を掘ったりして、適当な水を求めて渇をいやしていた。p327
そして何よりも一番アテナイ人が恐れたことは、ラケダイモン人がもう何も言って来ないので、何か力になるものを見出したのではないかということであった。
そして彼らの申し入れを拒絶しなければよっかったと悔み始めた。p329
敵との交渉の絆が断たれることは、アテーナイ人に疑心暗鬼を呼ぶ。
アテナイでは、クレオンとニキアスの和戦論争
クレオン、ニキアスを批判
クレオンは、自分の政敵であって将軍であるニケラトスの子ニキアスを指してもし指揮官が男なら、普通の用意さえあれば島のラケダイモン人を捕えることはやさしいし、クレオンがもし指揮官であったのだったらそうするであろうと憎まれ口をきいた。p329
厭戦派のニキアスに、クレオンは業を煮やしていたのであろう。
ニキアス、クレオンに対ピュロス戦の指揮権を「ゆずる」
ニキアスは、・・・思いどおりの手勢を率いて彼らを攻撃してみよとクレオンに迫った。
ニキアスが本気だと知って、将軍はニキアスであって自分ではないと主張した。
それでもニキアスは承知しないで、対ピュロス戦の指揮権をクレオンに与え、アテナイ市民がその証人となるようにした。
クレオンは前言を取り消すこともできず、ついに出航を決意した。p330
ニキアスは、賢明にも、クレオンにこの重責を「ゆずった」。
おそらく、シケリア遠征も、元凶のアルキビアデスにゆずりたかったであろうが、アルキビアデスは、シケリア遠征をぬきさしならないものにしておきながら、自分だけ逃げた。
クレオンの空威張り
しかも彼は、・・・市民から誰も船には乗せずに、・・・そしてこれだけの兵力とピュロスにある軍勢とで、二十日以内で島のラケダイモン人を生捕りにするか、皆殺しにしてみせると言明した。
しかしアテナイ人はこれをクレオンの空威張りとして嘲笑したが、・・・p330
デマゴーグのクレオンの空威張りと、嘲笑するアテーナイ人。
おそらくトゥキュディデスのまわりの連中だろう。
デモステネスを僚将に選ぶ
さてクレオンは国会ですべての手続きをすませ、アテナイ市民が彼の出航を認めると、デモステネスをピュロスにおける僚将の一人として選び、急遽出航した。
デモステネスを彼が選んだのは、デモステネスが島に攻撃をかけようとしていることを知っていたからである。p330-331
クレオンはトゥキュディデスの悪意で、こっけいに描かれているが、なかなか賢いし、情報通でもあった。
彼は他の同僚将軍に阻まれてデモステネスの意見が通っていなかった障害を除いたのである。
これは上司として優秀である!
失敗から学ぶデモステネス
そこで、森林地帯で起ったアイトリアでの大敗は彼に多くのことを思い起させた。p331
失敗は、挑戦する以上避けられない。しかし、名将とモブ将の違いは、失敗から学んで、ステップアップするか否かである。
圧倒的な「他者」の脅威に挑むのは無謀である。他者は敵というライフスタイルを選択して、「君子あやうきに近寄らず」と、挑戦を避けるのは、安全なようで得策ではない。
挑戦して、失敗して、失敗から自分が目をつむって避けていたボトルネックに挑むことが、かえって安全だったりする。
森の火事はデモステネスの作戦か?
ある者が別に他意なく森の一部で火をつけると、風が吹いて来て、思わぬ間に森の大部分を焼いてしまった。
こうなるとどれほど多くのラケダイモン人が島上にいるかを見渡すことができたが、前には彼らが送った食糧の量から判断して、もっと少人数であろうと想像していただけであった。
島に上陸するのもやさしくなった上に、アテナイ人も目覚ましいことをしたいと思っていたやさきだったので、デモステネスは決戦の準備を整えるために、近隣の同盟諸国から兵士を派遣させたり、必要な用意をした。p331-332
こも森の視界を開くこと、明確にアウェイの弱点を撤去することこそ、デモステネスの学びであり、意図的にデモステネスが、放火させたのかもしれない。
ラケダイモン軍を挟撃戦術
クレオン着任
クレオンは、自分の到着を前もってデモステネスに知らせておいてから、自分の要請した兵力をもってピュロスに着いた。p332
クレオンもすばらしい。デモステネスに、自分の到着を知らせておくことは、それまで頑張ろうと安心させる。
デモステネスの挟撃作戦でファランクスの弱点を突く
一方アテナイ軍は、まだ天幕の中で武具をつけようとしていた前哨隊を駆け足で襲って滅ぼした。p332
そしてデモステネスの計策は、全体を約二百名ずつの部隊にして中にはそれよりも少ない部隊があったが、高地を占拠させた。
これはこのために敵を八方から塞いで窮地に陥れ、正面衝突の白兵戦を避け、両側面から大勢でできるだけ襲撃するためであった。p333
スパクテリア島上のラケダイモン人部隊の主力であるエピタダスと共にいた者たちは、前哨部隊が撃滅されて戦況が不利になると、隊列を整えてアテナイ重装兵に挑戦しようとした。p333
ラケダイモーン人は、平地戦のファランクスで対応しようとした。
メッセニア人、挟み撃ちを提案
こうして戦いがいつ果てるとも分らない時に、メッセニア人の指揮官がクレオンとデモステネスの所に来て、彼らは難儀をしていると述べ、もしも彼に弓兵と軽装兵の小部隊を委ねるならば、敵の背後に廻って路を見出して、攻撃の突破口を得るであろうと言った。p335
メッセニア人が、ラケダイモーン人とのゲリラ戦法が、役立つと提言する。
ここでは、上司が、モブ将たちや、モブ提督など、「味方にいる敵」ではなく、100%バックアップを惜しまないクレオンである。
デモステネスは、賢明なクレオン上司の下、はじめて、意見が入れられたのである。
つまり、上司と部下の戦略が一致したのである。
これは、モブ将どもが、アルクマイオーン家の利権のためにうごく保身と我田引水のライフスタイルを採用していたのに対し、デモステネスとクレオンは、同一のライフスタイル、「自分は、アルクマイオーン家ではなく、アテーナイ市民全員から委任された将軍である」に則って行動したからである。
挟み撃ちに対応できないファランクス
ラケダイモン人は両側から射撃を受けて、大げさな例をとれば、ちょうどテルモピュライの場合のようで、あの時、ペルシア軍に近道を迂回されて撃滅されたように、両面の敵には抗する能わず、しかも衆寡敵せず、糧秣の欠乏に弱まった体力ゆえにラケダイモン人が後退すれば、アテナイ人は突破口を確保した。p336
ラケダイモーン人のファランクスの弱点は、挟撃に対応できないことであった。
スパルタ人へ降伏勧告
クレオンとデモステネス降伏勧告
こうなるとクレオンとデモステネスは、あと一押しでもすれば、自分たちの手勢がラケダイモン軍を全滅してしまうことを認め、戦闘を止め、軍勢を押え、もし布告使の言葉に従って、現在の窮状に屈して、心を曲げて武装解除に同意すれば、捕虜にしてアテナイに送ろうとした。p336
ラケダイモン側の指揮者エピタダス戦死、ステュポンが交渉して降伏
これを聞いたラケダイモン人の大部分は盾を置き、手を上げて振り、布告に従うことを身振りで知らせた。この後、停戦となって、クレオンとデモステネスはラケダイモン側のパラクスの子ステュポンと会談に入った。
ラケダイモン側を初めに指揮していたエピタダスは戦死し、その後を継いだヒッパグレタスは生きてはいたがもはや死体の並べられた中に一緒に横たわっていたので、ステュポンが法に従って、もしヒッパグレタスが傷ついたら指揮をとるように選ばれていた。p336
クレオンとデモステネスは、降伏勧告をする。
すると、アテーナイ人にとっては、おどろくべきことに、アカイア人のようなヒステリー的玉砕を選ぶのではなく、降伏勧告に応じたのである!
スパルタ人、降伏受諾
420名中、捕虜292名、残りは戦死
島に上陸した総数は四百二十の重装兵であったが、そのうち二百九十二名は捕われ、残りは全部殺された。捕虜の中でスパルタ人は百二十名もいたが、アテナイ側の死者は数はわずかであった。p337
420名中、捕虜になったのが292名、つまり戦死者は、約1/4であった。
これは、ラケダイモーン人が、フェニキア人であることを示している。
捕虜にスパルタ人は120名であった。
デモステネスの優秀さは、アテーナイ方の戦死者がわずかであったことである。
クレオンの気狂いのような約束成就
そして二十日以内に敵を捕えて連れて帰ると公言したクレオンの気狂いのような約束が成就したのである。p337
クレオンがデモステネスという優秀な将軍に自由裁量を許したからで、クレオンの総帥的力量も勝利の原因にちがいない。
スパルタ人の狂戦士のイメージは妄想と判明
この大戦中にヘラスでは、これが一番予期に反した出来事であった。
つまりラケダイモン人は飢えにも、いかなる困難にも、負けて武装解除に甘んずることなど絶対にせず、死に到るまで武器を捨てずに戦うと考えられてきたからである。p338
スパルタ人ーラケダイモーン人の貴族階級は、もとフェニキア人であるから、不毛の土地ラコニアに来るまでは、日常生活を大切にする常識人であっただろう。
不毛の土地という環境が、生来の性格をスパルタ人の性格に変えただけであり、スパルタ人気質は後天的なものであったといえよう。
また、スパルタ人とヘイロータイの不和もアテーナイ人のつくった妄想である。
下衆の勘ぐりであり、アテナイの寡頭派と大衆派の不和が投影されたのであろう。
「スパルタ人(ラケダイモーン人)=狂戦士」イメージや、「スパルタ人とヘイロータイの不和」は、アテーナイ捏造班のつくった偽のイメージであったのだろう。
狂戦士は、アカイア人であり、女子供を物のように燃やして玉砕するのは、アカイア人である。
スパルタ捕虜はアテナイへ、ピュロスにメッセニア人植民
捕虜はアテナイへ送致し牢屋へ
捕虜たちがアテナイに着くと、アテナイ人は条約が成立するまでその捕虜たちを牢屋に監禁し、もしその間にペロポネソス軍がアッティカに侵入するようなことがあれば、牢屋から引き出して殺すことを決定した。p338
メッセニア人をピュロスに送還し帰郷
ピュロスの従来の住民であったメッセニア人をナウパクトスからピュロスに送還し、その中で一番適した者たちはラコニアに侵入して土地を荒したが、彼らが同じ方言を使い、敵味方の区別がつかないので、ラケダイモン人は多くの被害を受けた。p338
このピュロス戦線の勝利は、デモステネスとクレオンの武功といえよう。
クレオン(Κλέων)、その名は、テーバイ帝室の乙種王家の帝王クレオーン(Κρέων)を想起させる。
もっとも、日本語にすれば二人ともクレオーンであるが。クレオンはΛ、クレオーン王はPであり、別なのだが、皮なめし業者の富裕な商人層で、デマゴーグというトゥキュディデスの描き方は、クレオンをペリクレスと比較して、卑小にみせている。
商人階級のクレオンは、やはり、それでもフェニキア系のにおいがする。
しかし、実際は、ペリクレスよりアテーナイ市民に、遥かに貢献したのである。
第4章 コリントス戦線
ニキアスによるコリントス攻め
同じ夏、この事件の直後に、アテナイ軍は八十隻の船と二千のアテナイ重装兵、および馬匹運送船に騎兵を乗せてコリントスに遠征した。
ニケラトスの子ニキアス、および二名の幕僚がともに指揮官となった。p339
ケルソネソスとレイトスの中間地点の丘
夜明けとともに出航し、ケルソネソスとレイトスとの中間でソリュゲイオスの丘に面した海岸に接近した。
ここは昔、ドリス人が住みついてコリントス市の住民アイオリス人に戦いを挑んだところである。
コリントス市には六〇スタディオン、「地峡」には二〇スタディオンの距離にあった。p339
クロンミュオンとケイクレイアで兵力分散
コリントス側に用意の合図が上がると、コリントス軍はアテナイ軍がクロンミュオンに来る場合も考えて、その半分をケンクレイアに残した後、現場に急行した。p339
クロンミュオン(クロミュオン)とケンクレイア(ケンクレアイ)はサロン湾岸の都市でイストミアを挟んで立地する。
両面戦闘は、オネイオン山が視界遮断してコリントス軍敗北
戦歌を歌いながらファランクスを組む
コリントス軍は一度石壁内に後退はしたが、再び上から声高く戦歌を歌いながら石を投げつけて逆襲に出てきた。p340
戦歌を歌いながら戦うのは、テーバイ人からラケダイモーン人、コリントス人共通。
音楽を戦闘に使用するのはフェニキア人の特徴。
オネイオン山が視界を遮断
アテナイ軍がクロンミュオンに航行することを恐れて、その防衛のためにケンクレイアに設陣していたコリントス勢の半分にとっては、この戦闘の模様がオネイオン山にさえぎられて見えなかった。p341
ニキアス、コリントス軍を撃破
この戦闘でコリントス側の損害は死者が二百十二名。アテナイ側のそれは五十名弱であった。p341
デモステネスほどではないが、ニキアスも勝利を獲得している。
このペロポンネーソス戦争の功労者デモステネスとニキアスそしてクレオンはみな戦死および処刑されている。
最大の戦犯は、アルクメオン家のペリクレスとアルキビアデスであり、こやつらは病死及び敵軍に亡命してしている。
コリントス領の諸都市掃蕩
クロンミュオンに航行
そこで同じ日に、アテナイ勢は錨を上げるとこの島を離れて、コリントス領のクロンミュオンに航行した。
この地点はコリントス市から一二〇スタディオンの距離にある。p341
エピダウロス、トロイゼンなどを掃蕩して帰国
そしてここに投錨するとこの地を荒し、夜営して一夜を過ごした。翌日彼らはまずエピダウロスに向って沿岸を航行し、そこに上陸して、エピダウロスとトロイゼンの中間にあるメタナに来ると、その半島の峡部を占領して、防壁を築いた。そして守備隊を設置してから、トロイゼン、ハリエイス、エピダウロスの諸地域を順次に荒した。この後、船団は帰途についた。p341
第5章 ケルキュラ戦線ー大衆派による寡頭派虐殺
シケリア遠征軍のモブ将たち、反公民派のケルキュラ人を掃蕩
ちょうどこのような状態が進行していた頃に、エウリュメドンとソポクレスに率いられたアテナイ船団はピュロスを離れ、シケリアに向う途上、ケルキュラに寄港した。
そこでは例の叛乱の後にイストネ山にたてこもって、その地方に大きな被害を与えて来たケルキュラ人に対して、アテナイ軍は、街にいたケルキュラ人と共に攻撃をかけた。p342
イストネ山に立て籠もったケルキュラの少数派を、モブ将「エウリュメドンとソポクレス」が掃蕩する。
ケルキュラ少数派公民派によって惨殺ーケルキュラがアテナイ側に固定
この事実を知ると捕虜たちは、アテナイ人の名を呼び、もしアテナイ人が望むならば、その手で自分たちを殺してくれと頼み、その建物からは一歩も出ないし、また誰も入らないように全力をつくすと言った。
大部分の者は敵の射た矢を自らの喉に突き刺して死んだり、たまたまそこにあった寝具から引き出した紐や、着物で作った帯で首を吊ったりした。
山に立てこもったケルキュラ人は、公民派の人々によって殺され、紆余曲折のあった反乱も、今次大戦中は一応の段落がついた。p343-344
モブ将たちは、ケルキュラの寡頭派を弱い者いじめで虐殺したのみ。
ペロポンネーソス戦争勃発の発端となったエピダムノスの内乱(前435年)にはじまった、それに続く大衆派に牛耳られたねじれ現象でアテーナイと同盟したケルキュラが、ペロポンネーソス側のコリントスと海戦をおこなったシュボタの海戦(前432年)を経て、ねじれ現象がもどり、ケルキュラがペロポンネーソス側について戦った内乱を経て、スパクテリアの戦い(前425年)が決定打となって、ケルキュラ少数派が壊滅した。
約10年に及ぶ内乱であった。
ここにきて、アテーナイは、ケルキュラというシケリア遠征の橋頭堡を、確保した。
塞翁が馬、これで敗北していれば、シケリア遠征の大災害はなかった。
キュテラ島、ニキアスに投降
キュテラ島の立地
キュテラはラコニアのマレア岬の沖に浮かぶ島である。
ラケダイモン人の周辺民が主にこの島の住民で、キュテラ判官と呼ばれる役人が毎年スパルタから派遣されて来ていた。
この島にエジプトやリビアからの商船が寄港する上、シケリア海およびクレタ海に面したラコニア沿岸にはキュテラ以外に港がなく、ラコニアが海からの攻撃を受ける地点としては唯一の場所なので、ラコニアのこの種の被害を軽減してきたからである。p346
キュテラ島のマレア岬の沖に浮かぶ島で、アプロディーテーの上陸地である。
エジプトやリビュアから商船が寄る中継地であり、エジプトやリビュアからプロト・フェニキア人が南ペロポンネーソスに上陸する橋頭保であったのだろう。
ラケダイモーンから、キュテラ判官と呼ばれる代官が派遣されていた。
キュテラはニキアスに友好的降伏
彼らはニキアスとその幕僚に降って、死刑にしないことを条件にアテナイ軍に彼らの身柄を託した。これに先立って、ニキアスとキュテラ人の一部とは交渉を進められていたので、そのために降服条約は迅速に、かつ現在にも将来にもキュテラに有利なように締結された。
さもなければ、キュテラ人はラケダイモン系であることと、ラコニアの海岸に近い島国であるために、アテナイ人によってこの島から追放されるところであったろう。p347
ニキアスらアテーナイの寡頭派と、ラケダイモーン貴族は、客人関係にあり、互いに命の保証をしあっていたのだろう。
ニキアスにみるラケダイモーン人とアテーナイ人の上流階級の交流
アテーナイの寡頭派ニキアスは、ラケダイモーンの上流階級と、上流同士の交流があったものと推定できる。
ペイシストラトス時代、アテーナイとラケダイモーンは友好的となり、それ以来通婚も行なわれたと推定できる。
そこで、ラケダイモーン系といわれるアルキビアデスの家系や、逆にエウリュポン朝の王の多くが、アテーナイとの戦争に消極的で弱腰なのを見れば、母方からアテーナイ人の血が混入していたのかもしれない。
いずれにせよ、ニキアスは、ラケダイモーン人に友好的で、戦争に消極的であった。
最悪のシケリア戦争も賢明にも全力で止めた。ニキアスが、シケリア人でなくラケダイモーン人に投降したがったのもそのためだ。
第6章 シケリア島内の全代表会議・・・ヘルモクラテス登場!
シケリア島内の全代表会議
同じ夏、シケリア島ではカマリナ人とゲラ人との間に初めて紛争が起きていた。そこで他のシケリアの全都市の代表たちはゲラに集まって、妥協点を求めて会議を開催した。
とくに説得力の強かったシュラクサイの代表でヘルモンの子ヘルモクラテスは、次の要旨を会議に出席した代表たちに話した。p349
ヘルモンの子ヘルモクラテスが初登場。
新参のカマリナが浮くのは想定内であろう。
ヘルモクラテスとは?
出自はヘルメースの子孫のヘルモンの子である。
ヘルメース神官家系であろう。フェニキア系が想定される。
彼の活躍は、トゥキュディデス『歴史』、およびディオドーロス・シケリオーテス『歴史文庫』に詳しい。
「汎シケリア主義」の主唱者。
エパミノンダスのシケリア版ともいえる。こういうところもフェニキア的。
ペロポンネーソス戦争のシケリア遠征時のシュラクサイの指導者である。
アテーナイのシケリア遠征は、前414年に、アテーナイ軍を壊滅させて勝利する。
そののちも、ねばったアテーナイ艦隊に、キュジコスの海戦で敗れ、全艦隊を焼却逃走して、シュラクサイ兵士の命を救った。
しかし、その責任を問われ、前409年、シュラクサイ提督の任を解かれ、国外追放となる。
前409年、ヘルモクラテスの去ったシケリアに、カルタゴからギスコの子ハンニバルが上陸して、マゴの敗戦の雪辱として、シケリアの因縁のヒメラ、アクラガス、セリヌスを蹂躙する。
ヘルモクラテスを追放したディオクレスは、ヒメラを解放できずシュラクサイに撤退する。
ヘルモクラテスは、ペルシアの援助で、艦隊を再建し、私兵を率いてメッサナから上陸、セリヌスを解放し、ヒメラのシュラクサイ兵の遺骨を拾って本国に送る。ディオクレスが失脚する。
前408年から407年、3000人の私兵を率いてシュラクサイ入城を強行するが戦死する。
後に、ヘルモクラテスの私兵を受け継いだ娘婿ディオニューソス一世は、シュラクサイの僭主となる。
ペロポンネーソス戦争は、前404年ラケダイモーンのリュサンドロス将軍のアイゴス・ポタモイの海戦で決着がつく。
ヘルモクラテスの汎シケリア主義
「シケリア全体をアテナイの策謀から我々がまだ救えるか否かの問題を議するためにここに我々が集まっていることを確認しなければならないと私は考える。」p351
ペロポンネーソス戦争でのシュラクサイの代表であり、汎シケリア主義の主唱者。敗戦でいったんペルシアに亡命し、対カルタゴ戦で捲土重来し、シュラクサイに入城を計るが戦死、あとを婿のディオニュシオス(後の一世)が後継する。
ドーリス系もカルキス系も一致団結して反アテーナイ帝国主義
また何人もドリス系の都市のみがアテナイの敵であって、カルキス系の都市はアテナイと同じイオニア族であるから安全であると考えてはならない。
それは彼らが違った部族であるために、他の部族を嫌って攻撃してくるのではなく、我々が共に享受しているシケリア島の富を奪うために来るからである。p352
ヘルモクラテスは、シュラクサイのドーリス系のみの家系とは違い、おそらくフェニキア系であっただろうから、カルキス系もドーリス系同様に親族であったのだろう。
だから、「汎シケリア主義」という発想がでてくる。
エパミノンダスの「汎ペロポンネーソス主義」や、ハンニバルの「反ローマ包囲陣」などと同じく、フェニキア的「友愛」思想からの発想である。
第7章 ブラシダスのメガラ救援
メガラ占領に、ブラシダスが救援に急行
ちょうどこの頃、ラケダイモン人テリスの子ブラシダスはシキュオンとコリントス付近にあって、トラキア侵攻への準備をすすめていた。
そこでメガラの長壁が占領されたことを知ると、ニサイアにいたペロポネソス人の安否を心配し、またメガラ市が占領されることを恐れて、ボイオティア人に急遽派兵を命じて、トリポディスコスで自分と合流するように指令した。p360-361
ブラシダスもまたフェニキア的である。
自分は、トラキア遠征を命じられていたのみであったのに、自発的に、メガラのニサイアにいたペロポンネーソス軍の兵士の安否を気遣って、援軍を編成する。
ボイオーティアが自発的に救援にかけつける
夜明けとともに、ボイオティア軍がブラシダスの所に到着した。ボイオティア人は、ブラシダスがメガラへの援軍を要請する前に、その危険を他人事と思えずに、プラタイアにいた部隊の全兵力を挙げて出発したが、ブラシダスからの報告がもたらされると、ますます士気を旺盛にして、二千二百の重装兵と六百の騎兵隊をブラシダスに送って、その主力部隊と共に、再びメガラに戻った。p362
ペロポンネーソスの前半戦において、ラケダイモーンの王たちはアテーナイに同調的で、蹂躙されるにまかせていたが、ひとりテーバイ市率いるボイオーティア連盟が孤軍奮闘で、勝利を勝ち取っていた。
例外は、ブラシダス将軍で、彼は積極的にペロポンネーソス軍を守った。
ボイオーティアも、汎ペロポンネーソス主義であるのは、フェニキア的同族意識からであろう。
ブラシダスの熱意でメガラはペロポンネーソス側に
亡命した者たちを支持するメガラ人は、アテナイ勢が戦わなかったので、ペロポネソス勢が勝利を得たものとして、ブラシダスと各都市勢の指揮官に対して壁門を開いて彼らを受け入れた。こうなると、アテナイ側と内通していたメガラ人は大いに苦しい立場に立たされた。364
ブラシダスのメガラとメガラに展開したラケダイモーン兵士を見捨てないという熱意に、感銘を受けたメガラ市民は、積極的に城門を開いてブラシダスを受け入れた。
メガラは、もともとプロト・フェニキア人とテーバイ帝室系の築いた領域で、プロポンティス海領域に植民してビュザンティオン、カルケドンの二大都市を建設し、シケリア島にはメガラ・ヒュブラエア建設し、そこからセリヌスを二次植民したほどのギリシア人の中では、カルキス人・ボイオーティア人(テーバイ帝室系)、コリントス人に次ぐ、海洋都市であった。
アテーナイの隣国として、不倶戴天の都市であった。
アテーナイ・シンパが、ここにおいて完全に駆逐された。
メガラ寡頭派の牙城に
残ったメガラ人は、亡命者を支持する者たちと協議の結果、ペガイにいる者たちの召還を決めた。
そしてメガラに極端な寡頭政権を樹立したのであった。
この革命はきわめて少数派の人々によってなされたのにもかかわらず、長い間続いた。p364
このメガラ革命は、アテーナイ側から見れば、また「寡頭派」の復権という観点から、「反革命」のようであるが、安定して続いたのであって、貴族と大衆の両方が協力して、メガラ人全体の利益を図った政体であったのであって、文字通りの「革命」、もしくは、「アテーナイ帝国主義」からの解放であった。
ブラシダスのメガラ救援総括
まずブラシダスは、カルキディケ領域のアンピポリスの戦いだけではない。
ケリュキュラ救援にも活躍し、このメガラ解放も、ブラシダスの大きな功績の一つである。
ブラシダスは、エパミノンダスやハンニバルのようなフェニキア系の友愛主義の将軍であることは、次のカルキディケ領域の興亡でいかんなく発揮されるが、ここにもそのライフスタイルが現われている。
人命尊重、フェニキア的通商国家の友愛思想である。
さらに重要なことは、裏切りのアテーナイ人の縁戚が大きな可能性で疑われる三男クレオンブロトス系の王アルキダモスやその配下のへぼ提督と違って、監督官ステネライダスや長老会のフェニキア系のクランに属していたらしく、ラケダイモーンの国防にもっとも積極的であった。
テーバイは、テーバイ帝室の末裔として、同じく監督官たちや長老会の面々とは、常に共闘していたようで、メガラは、テーバイ帝室系として身内であり、ラケダイモーンに要請されずとも、自発的に救援を送ったことは、重要で、見逃せない。
エパミノンダスのテーバイが身内であるラケダイモーンとなぜ戦争したのかが、わかる。
ラケダイモーンは一つの国家ではなく、自分たちの利権しか念頭にない三男クレオンブロトス系の王たちは、アテーナイ人と言ってもよい裏切り者で、ケルキュラ人の寡頭派や、ミュティレネ人のレスボス島をわざと見殺しにした連中と、ラケダイモーンの貴族スパルタ人からヘイロータイにいたるまでのラケダイモーンの全住人の公益のために戦う監督官と長老会、そして忠実なブラシダス、リュサンドロスなどの名将たちとの二大国家が存立した国家といえよう。
そして後者の監督官の国家は、むしろテーバイやメガラやシケリアのヘルモクラテスらなどのようなフェニキア系の友愛思想によって、国際的な大きな国家の一員であったとみるべきであろう。
デリオンの戦い:ボイオティア戦線ーテーバイ人の知られざる強さ!
デリオンの戦いの準備、複数都市同時「革命」の陰謀
発端:テーバイのアカイア人末裔のアテーナイ人内通
この同じ夏に、アテナイの将軍デモステネスは、メガラ領から引き揚げた直後、四十隻の船をもってナウパクトスに到着した。
その理由は、デモステネスとヒッポクラテスのところにある者たちから、ボイオティアの政体を変えてアテナイのそれと同じように公民政体にしたいという話があったからである。p365
ボイオーティアのアテーナイ・シンパの一団が、ナウパクトスに待機していたデモステネスとヒッポクラテスを訪ねて、ボイオーティアに侵入して、ボイオーティアの政体を「公民政体」に変えてほしいと打診があった。
ここで重要なのは、アテーナイは民主主義の手本ではないということだ。アテーナイの「公民政体」は、公民主義ではなく、一部のアルクマイオーニダイとアイアキダイの利権だけを考え、全アテーナイ市民と全世界の他国家の住民を奴隷にする国家的には、独善的な全体主義であり、国際的には帝国主義である。
「革命」という言葉は、現状の体制を激変させることを意味するにすぎない。アテーナイの「公民政体」は、名ばかりの「公民政体」であることに注意が必要である。
ボイオーティア領域の旧アカイア人が「謀叛」を画策
そしてこの運動の首謀者は、テバイから追放されたプトイオドロスであった。
そしてこの派のある者たちは、シパイ市に謀叛を起させようとした。(シパイ市はテスピアイ領内にあって、クリサ湾に面している港町である。)
そしてさらに昔、ミニュアイと呼ばれたボイオティアのオルコメノスに現在は属しているカイロネイアをオルコメノスから離反させて、ペロポネソスからは人を雇って、オルコメノスから追放されていた人々にこの都市の主導権を握らせようとした。
そしてこの動きにはポキスの一部の者たちも参加していた。p365-366
このボイオーティア「アテーナイ化」陰謀の首謀者は、「テバイから追放されたプトイオドロス」すなわち、テーバイ市のアテーナイ・シンパである。
テーバイの南西のテスピアイも、プラタイアと並んで、アテーナイ人が流入して、境界をなしていたため、テスピアイ領内のシパイ市に謀叛を起させようとした。
古都オルコメノスは、テーバイ帝室と共闘したアイオロス王家の拠点の一つであった。
オルコメノス領内に、ポーキス領内との境界にあるカイロネイア市が属しており、テーバイのシンパの都市となっていた。
ここは、パウサニアスの時代(ローマ時代)は、ポーキス領に組み込まれてしまっている。
つまり、ローマ帝国は、テーバイ帝室系のギリシアを完全解体し、アカイア人くれてやったのである。
そのカイロネイアをパックンちょするために、野盗の末裔ポーキス人も参加した。
デリオンがターゲット
アテナイ勢はエウボイアに向いているタナグラ領内のアポロンの神域デリオンを奪うことになっていた。
そして以上の動きが定められた日に同時に行われるようにした。これはボイオティア軍が各地の防衛に忙殺されて、デリオン救援のために結集することのできないようにするためであった。P366
デリオンの戦いの名になっているのは、ボイオーティア領内のタナグラ領内にあるアポローンの神域デリオンである。
アテーナイは、シパイ市やカイロネイア市で、同時多発テロを起す計画である。
ヒッポクラテスがボイオーティアへ進撃準備
そこで、ヒッポクラテス自身はアテナイからの軍勢を率いて出撃の準備を整え、時が来ればボイオティアに進撃しようとしていた。一方デモステネスがすでにナウパクトスへ四十隻の船で先発したのは、アカルナニアやその他の同盟諸都市から兵員を徴発してから、謀叛を起そうとしているシパイしへ向うためであった。
ヒッポクラテスは、アテーナイから軍勢を率いてボイオーティアへ出発する。
デモステネスは、ナウパクトスによって、アカルナニア人らを徴発して、シパイへ向う。
到着時間差で、同時多発テロ計画くずれる
両将軍の到着時刻に誤差
さて、ボイオティアの諸地域はアテナイの将軍ヒッポクラテスとデモステネスに恭順することになっていた。
そこで冬になるとすぐにデモステネスは、船で自分がシパイに着く日と、ヒッポクラテスがデリオンに着く日とを同時にする計画を立てた。
ところが両者が進攻すべき日時について誤差があったために、デモステネスが先にシパイに到着してしまった。P376-377
計画に不備があり、ヒッポクラテスとデモステネスの到着時間に「誤差」が生じた。
デモステネスは、先にシパイに到着してしまった。
計画がポーキス人のテーバイ・シンパにばれる
デモステネスはアカルナニア勢とこの地方の多くの兵士を連れて行ったが、ポキスのパノティスのニコマコスはこの計画をラケダイモン人に洩らし、ラケダイモン人はボイオティアにこれを知らせたので、デモステネスは何もできなかった。
全ボイオティアから救援隊が集結したので(これは、ヒッポクラテスはボイオティアの地に未だ侵入して、それを荒していなかったからできたのである)、シパイとカイロネイアは確保されてしまった。p376-377
おそらくヒッポクラテスが遅れたため、ポーキス人にもテーバイ・シンパがおり、そのニコマモスという男が、ラケダイモーンの監督官らに洩らし、ラケダイモーンが、ボイオーティア連盟に洩らしたため、同時多発テロは阻止された。
デモステネスは、身動きがとれなくなった。
ヒッポクラテス、デリオンに籠城
遅れたヒッポクラテス、デリオンに籠城
一方、ヒッポクラテスはアテナイ兵ばかりでなく市内にいた居留人や外人を率いて、全兵力でアテナイを出発したが、デリオンに着いたときはすでに時遅く、ボイオティア勢はシパイから引き返して来ていた。
そこでヒッポクラテスは、布陣してから、〔アポロンの神域である〕デリオンの周りを次のような方法によって壁で囲んだ。p377
遅れたヒッポクラテスは、デリオン神域で、シパイから引き揚げてきたボイオーティア勢と鉢合わせし、デリオン神域に逃げ込んで、壁で囲って籠城する。
廃墟となっていたデリオン神域を要塞化
彼はまず土豪を神域と神殿のまわりに掘った。それからこの土豪から、壁の代りに土を盛り上げ、その周りに矢倉を組んだ。
またかつてあった廻廊家屋が壊れて、神域の建物の残されていない所にも胸塔を建てた。
この工事はアテナイ出立後三日目に開始され、四日目は終日工事に費やされた。そして五日目の夕飯時になってようやく大部分が完成された。p377-378
まず、このデリオン神域は、今は廃墟になっていたことがわかる。
そこに、その廃墟を再利用して、二日弱で、簡易要塞を築いた。
重装歩兵とヒッポクラテスが残留
軽装兵の大部分は即時帰途についたが、重装兵はそこに留まって待機していた。
ヒッポクラテスは防塁に残って、警備隊の配置や防塁の未完成部分の完工の指揮をとっていた。p378
おそらく外人などの軽装兵は、帰途につき、アテナイ市民の重装兵とヒッポクラテスが残留したのだろう。
ボイオーティア連盟
11名のボイオティア連盟長官の総司令官はテーバイ代表
この数日の間に、ボイオティア勢はタナグラに集結していた。そして諸都市の部族が全部そろった頃、アテナイ勢が帰途についているとの報告を受けた。
そこで十一名いる汎ボイオティア連盟長官のほとんどが、アテナイ勢はすでにボイオティア地域外に出てしまっているからと、戦闘を勧告しなかった。
それにもかかわらず、テバイからの汎ボイオティア連盟長官で、アイオラダスの子パゴンダスは、自分自身が総司令官であったことから、リュシュマキダスの子アリアンティダスと共に戦闘を希望し、危険を冒した方がよいと考えた。p378
11名のボイオーティア連盟長官の頂点に位置する総司令は、テーバイの連盟長官パゴンダスであった。
第8章 デリオンの戦い開戦
テーバイ連盟長官パゴンダス軍、デリオン防塁を攻撃
テバイ勢とその連盟部隊が右翼を占め、中央にはハリアルトス、コロネイア、コパイス、その他コパイス湖周辺の部隊が位置し、左翼にはテスピアイ、タナグラ、オルコメノスが位置した。p381
ボイオーティア軍の布陣は、連盟筆頭のテーバイが、右翼を占める。
戦歌に合わせて戦うテーバイ人
そこでボイオティア人は、パゴンダスの短い激励の後に、戦歌を歌いながら丘の上から攻撃を始めた。p382
テーバイ人、ラケダイモーン人、コリントス人などテーバイ帝室系は、戦歌を歌いながらリズムで規律を整える。
左翼テスピアイ勢は敗北
ボイオティア軍の左翼は中央の辺りまでアテナイ人に圧迫され、この部分ではテスピアイ勢がもっとも大きな被害を受けた。テスピアイ勢は最後まで踏み止まったので、最後には狭い所に囲まれ、手と手で戦う乱闘の後テスピアイ勢は、殲滅された。p382-383
左翼のテスピアイ勢は、伝統的に裏切り者が多く、あまり熱心でなかったためか、殲滅された。
テーバイ軍の知られざる強さ!!
ところがテバイ勢のいたボイオティア軍の右翼ではアテナイ勢に対して優位にたって初めのうちは徐々ではあったがアテナイ勢を圧迫して、執拗に食い下がった。
こうした戦況の時に、パゴンダスは、ボイオティア軍左翼の苦戦を助けるために丘を廻ってアテナイ側からは見えない地点から騎兵の二部隊を送った。そしてこの騎兵隊が突如と丘上に現われると勝っていたアテナイ側の左翼は、新手が攻撃して来たと大いに狼狽した。
そしてこの騎兵隊の攻撃とテバイ勢の前進によってアテナイ勢の両翼の戦列が乱されてしまうと、全体が浮き足だって敗走しはじめた。p383
テーバイ軍司令官パゴンダスは、ハンニバルのように、回り込んでアテーナイ軍を挟撃し、(おそらく左翼のテスピアイ勢を餌にしたか)、アテーナイ軍を敗走させた。
アテナイの不法占領を論理で示すテーバイ人
これに対してボイオティア側は、もしアテナイ軍がボイオティア領内にいることを認めるならば、そこを撤退してから死体を引き取るべきであって、その反対に、占拠地点を占拠者の領域と主張して譲らないならば、アテナイ領下にあるオロポスの戦場にアテナイ人の死体があるのだから、それを引き取りたければ勝手に引き取ればよいものを、力づくではそれもできないでいるではないかと反論した。p385-386
アテーナイの死体引き取りを巡って、論理で戦うテーバイ人。
建築術で防壁を破壊
そこでボイオティア側は、・・・デリオンにただちに送った。
そしてその防壁に種々な攻撃をかけた。
まず大きな木を縦に二つに割って、中をくりぬいた二つの筒の先から鉄筒を延ばして、木部の大部分を鉄板で覆った。
巨大なフイゴをその木の筒の下に置いて、その中へ風を送り込んだ。
風は筒を通ってその先端に吊るしてある鍋に吹き込み、そこにあった硫黄とタールをかけた木炭に吹きあたったので、大きな炎が上った。
そしてこの火が防壁に移ると、防壁の上にいたアテナイ警備隊は、いたたまれず退却し、防壁はボイオティア側の手に落ちた。p386
デリオンの戦いに勝利したパゴンダスは、余勢を駆って、アテーナイ人の立て籠もるデリオン防塁を攻囲した。
そして、フェニキア人伝来のタールを利用した古代式火炎放射機で、防塁を焼き払った。
この科学兵器を使うところが、フェニキア人である。
ハンニバルが、アルプスの断崖を通過するために、化学の知識を用いて溶かして通過したように、フェニキア系の強みは、高等科学である。
デリオンの戦いの圧倒的勝利
この戦闘におけるボイオーティア側の死者は五百を少し下回る程度であったが、アテナイ側は将軍ヒッポクラテスを含めて一千人弱を失い、・・・多くの死者を出した。p387
このボイオーティア連盟の勝利は、もっと評価されるべきであろう。
第9章 ブラシダスのトラキア(カルキディケ)遠征
カルキディケまでの行程:トラキスーテッサリア経由
トラキスのヘラクレイアに到着
ブラシダスは、この夏の同じ頃、千七百の重装兵を筆記射てトラキア地方に入り、トラキスのヘラクレイアに到着すると、自分より先にパルサロスの同志たちに使者を送り、自分とその部隊を案内して導いてくれるように要請した。p367
テッサリアを案内により通過
さらにその他にテッサリアの者たちも彼を案内し、・・・テッサリア地方を案内なしに、武器を持って通ることは容易なことではなかった。p367
ペルディッカスのディオンまで
この地点でテッサリアの案内人たちは引き返し、テッサリアの支配下にいたペライビア人が、ペルディッカスの領地であるディオンまで案内した。このディオンはオリュンポス山麓にあって、マケドニアのテッサリア領に面した町である。p368
カルキディケ領に入る
このようにしてブラシダスは、誰も彼に邪魔をしない前にテッサリアを駆け抜けて、そしてペルディッカスの所に着き、さらにカルキディケ領に入った。p368
まず、ラケダイモーンが、カルキディケ遠征の基地として建設したトラキスのヘラクレアに向かった。
ヘラクレアからテッサリア人の案内で、マケドニア領のディオンまで行った。
ブラシダスの人徳と叡智
正義と中庸の士ブラシダス
ブラシダスが一応、正義と中庸をもって諸都市に対処したので、多くのアテナイから謀叛する都市を獲得したが、そればかりでなく策略を使って得られた都市もあった。それゆえ、ラケダイモン人が結局戦争終結を願った時に、彼らは平和の条件として返還したり要求したりするに足る多くの地域をペロポネソス側に確保することになった。p370
ブラシダスは、アテーナイの暴力による征服ではなく、説得による友愛的征服を、無血征服を行なった。ここもハンニバル的(フェニキア的)。
ブラシダスの人徳と叡智
この時代のブラシダスの人徳と叡智については、シケリア戦後になると、それを経験した者たちはますます感じて、話しに聞いた者もそれを信じるようになり、とくにアテナイ同盟諸都市はラケダイモン人に対する魅力を彼のために大いに感じた。p370
ペルディッカスとのスタンスの違い
ペルディッカス、アラバイオス王と紛争
ペルディッカスはブラシダスとその軍勢を得ると、ただちに自分の手勢をこれに加えて、隣国のマケドニア人のリュンコス地方の王、プロメロスの子アラバイオスに向った。p371
和平的なブラシダス
ブラシダスは、開戦の前に一度アラバイオス王の所に行って、できたらラケダイモンと同盟を結ぶように交渉してみたいと言った。このわけは、もうすでにアラバイオス王はブラシダスに、もしブラシダスだ仲介するならば交渉に応じる用意のあることを申し入れて来ていたからであった。p371
マケドニアのペルディッカスは、自国のことしか考えないが、ブラシダスは、汎ヘラス同盟という意識がある。
つまり、マケドニアは、アラバイオス王と領土争いをしているが、ブラシダスは、みんなのためにアテーナイ帝国主義と戦っている。アラバイオス王も友人であるわけだ。
カルキディケ遠征
アカントスを無血攻略
ブラシダス、アカントス攻略へ
同じ夏、ブラシダスは時を移さず、葡萄の穫り入れの少し前に、カルキディケの兵士を率いてアンドロスの植民都市アカントス攻略におもむいた。p372
〔註〕アカントスはアクテ半島北東部の付け根にあたる所にある。
最初の紛争の舞台は、一番西のパレネ半島の付け根のポテイダイア。
今度は、一番東のアクテ半島の付け根のアカントス。
ラケダイモン人にして演説上手のブラシダス
しかし、穫り入れ前の野にある農作物を失うことを恐れて、大衆はブラシダスだけを受け入れて、その言い分を聞いてから協議することに賛成して、ブラシダスを入れた。
ブラシダスは(ラケダイモン人としては話が非常にうまかったので)、一同の前に立って以下の要旨を述べた。p372
アカントス人を説得する
全ヘラス解放戦争
「ヘラス解放のためにアテナイに挑戦するという名目の筋を通すためにである。」p372
力を貸してほしいというスタンスが自尊心とボランティア精神をくすぐる
「つまり、注目に値する都市アカントスをヘラス世界に誇示し、されに賢明をもって鳴るアカントス人たる諸君の所に、まず第一に我々が来て拒絶されたとすれば、我々の行く所、我々に反対する者は諸君のみならず、どこへ行こうとも我々に耳をかしてくれる者はいよいよ少なくなるであろう。」p373
アカントス人、アテーナイ同盟を離脱
アカントス人・・・そしてブラシダスの巧みな話術に影響されたのと、まだ穫り入れ前の農作物に対する懸念から、多数決でアテナイからの離反を決めた。p376
スタギロスも離脱
その後間もなく、アンドロスの植民都市スタギロスもアテナイ同盟を離脱した。p377
ブラシダスの雄弁と、ジモティーの生活重視は、ハンニバルに似ている。
第10章 アンピポリス攻防戦
アンピポリス市のアテーナイ人の征服
アンピポリスは、もとは、地元のトラキア人とタソスから植民したフェニキア人が共存共栄して、「九路」(エンネア・ホドイ)とよばれていた。
ミレトス僭主アリスタゴラスの植民失敗
同じ年の冬、ブラシダスはトラキアの同盟軍を伴って、ストリュモン河畔のアテナイ植民都市アンピポリスに向った。
今日この都市が所在するこの地方は、以前、ミレトス人アリスタゴラスが、ダレイオス王の手を逃れてここを占領しようとして、エドノイ人に撃退された地方である。それから三十二年経た後に、アテナイが一万余のアテナイ人と有志の者をこの地に送ったが、これまたドラベスコスでトラキア人に滅ぼされてしまった。p387
ここは、フェニキア人が独占的に、ジモティーと友好することで、鉱山資源と木材資源をほしいままに使っていた地域であった。
この利権を、力づくで獲得しようとした者は、ミレトスのアリスタゴラスも、そのあと押し寄せた一万人のアテーナイ人も、ジモティーの反感を買って滅ぼされた。
ニキアスの子ハグノンが建設者となって占領
さらにこれから二十九年後に、再びアテナイ人は、ニキアスの子ハグノンが都市創立者となる予定でこの地に向い、エドノイ人を追い出して、従来は「九路」と呼ばれていたこの地方をようやく奪った。p388
ニキアスの子ハグノンが都市創立者となる予定でこの地に向い、エドノイ人を追い出して、従来は「九路」と呼ばれていたこの地方を初めて奪った。
エドノイ人は、友好的に共存を許したフェニキア人を好いており、力づくで資源豊かな故国を奪い、追放されてアテーナイ人には反感しかなかった。
アテーナイ人の制圧下、アンピポリスに居残ったエドノイ人やフェニキア人は、面従腹背で、解放者の現われるのを心待ちにしていた。
(このハグノンは、あのニキアスとは別のニキアスの子である。)
商港エイオンを占拠して市に侵攻
ストリュモン河口に面した商港エイオンを占拠し、そこからこの地に侵攻した。p388
ハグノンが命名
この都市がハグノンによってアンピポリスと名付けられた由来は、ハグノンがこの都市の位置を、ストリュモン河が都市の両側を流れ、陸地からも海上からもよく望見できる所に決めたからであった。p388
〔註〕アンピポリスの「アンピ」は「両側」の意であり「ポリス」は「都市」の意である。だが実際にはストリュモン河はこの都市の北、東、南の三方をめぐって流れている。
アンピポリス市は、まず商港エイオンを占領し、そこから出撃して、エンネア・ホドイを占領することで、アテーナイのハグノンによってはじめて占領された。
ハグノンは、都市建設者となって、アンピポリスと名づけた。(ほんとうは都市破壊者)。
ブラシダスのアンピポリス遠征
ブラシダス、次々に都市を味方に
アルギロスがブラシダス側に
アンドロスに属する植民都市アルギロスの住民とその他の者は、ある者はペルディッカスに、他の者はカルキディケ人にそそのかせれて、この挙に呼応することになっていたからである。p388
アンドロス島は、ディオニューソス信仰の島で、アルギロスは、アンピポリス近郊の植民都市。
アンピポリス市以外は、皆フェニキア系の都市であったと想定される。
アンピポリス市以外の居住地域の占領
そしてブラシダスをアルギロスに迎えると、その当夜にアテナイに叛旗をひるがえして、夜の明ける前にストリュモン河の橋まで軍勢を導いた。
アンピポリス市はこの橋の地点からまだだいぶ離れていたし、それに現在あるような城壁もなかったので、警備が手薄になっていた。
そこでブラシダスは橋を渡ると、アンピポリス以外の全居住地域を占領してしまった。p389
当然、同族フェニキア系のブラシダスを大歓迎する。
アンピポリス市のアテーナイ勢、タソス島に救援要請
一方、市内の反内応者たちは主導権を握って、市壁の即時開門をおさえ、アテナイからの配属司令官エウクテスの同意の下に、タソス島にいた、彼の僚将でこの書の著者であるオロロスの子トゥキュディデスに連絡をし、来援を要請した。p389
トラキア王オロロスの子トゥキュディデスとは、著者である。
トラキアのジモティーの王オロロスとアテーナイ人のハーフであるトゥキュディデスは、フェニキア人から制圧したタソス島の代官であった。
トゥキュディデス、タソス島から救援に向う
トゥキュディデスはこの報に接すると、直ちに配下の七隻の船をもって急航し、できることならばアンピポリス市の落ちる前にそこに着こうとした。しかしもしそれが不可能なれば、エイオンだけでも先取しようと考えていた。p390
金鉱採掘権をもっていたトゥキュディデス
ブラシダスがタソス島から援軍の船のくることを恐れて、できるならばアンピポリスを早く占拠してしまおうと焦っていたのも、トゥキュディデスがトラキアのこの地方の金鉱採掘権を持っていて、陸側の実力者たちを動かすことができるのを知っていたからである。p390
トゥキュディデスは、オロロスの息子と呼ばれるようにトラキア王のオロロスの息子で、姉妹はミルティアデスと結婚していたため、ミルティアデスの外戚である。トラキア人でジモティーとのハーフ。
アンピポリス市引き渡し決定
そこでブラシダスは比較的に穏健な条件で、次のような宣言をした。
公然とブラシダスの宣言を肯定し、支持したので、その条件のままで受諾することに市民の意見が一致した。p390
アンピポリス市占領するとエイオン奪取に出撃
このように市中の者たちがアンピポリス市の引き渡しをした同じ日の夕刻、トゥキュディデスとその船団はエイオンに入港した。
ブラシダスアンピポリス市を獲得すると、その夜ただちにエイオンを取るために出て来た。p392
トゥキュディデスは、エイオンに入港してエイオンを固め、ブラシダスは、エイオンに出撃したが、成功しなかった。
船材の供給地
さて、アンピポリス陥落はアテナイ人に大きな衝撃を与えた。
とくにこの都市がアテナイ人にとって、船材の輸入と貢納金の面で、きわめて重要であったばかりでなく、・・・p393
ストリュモン河に造船所建設の発想
一方、ブラシダスもラケダイモンに増兵の派遣を要請し、彼自身ストリュモン河に造船所を建設する準備を進めた。
しかしラケダイモン人上層部の彼に対する妬みと、スパクテリアの捕虜の返還および戦争終結を望む気運のために、彼らはブラシダスの要請を拒否した。p394
フェニキア系ならではのブラシダスの「造船所建設の発想」。
しかし、アテーナイ・シンパの王の派閥の反対に遭い、実現しなかった。
ハンニバルが、大ハンノの補給の非協力によって、ローマを制圧できなかったのも同様の方程式である。
第11章 ブラシダスのカルキディケ帰還
アクテ半島へ侵攻
ブラシダスはアンピポリスを奪取した後に、盟友諸軍を集めて、アクテと呼ばれる半島に侵攻した。
この半島はクセルクセス王の築いた運河からエーゲ海に突出していて、高山アトスがその突端にある。p395
アンピポリスを奪取したブラシダスは、カルキディケ戦線に戻って来た。
まずは、一番東のアクテ半島に侵攻した。
シトニア半島のトロネに侵攻
さらに、アテナイ警備隊が中温していたカルキディケのトロネ市がブラシダスに服従しないことを知ると、ブラシダスはさっそくこの市に赴いた。p395
まだ夜も明けぬうちにトロネに到着したブラシダスは、トロネ市から約三スタディオンほど離れた所にあるディオスクロイ社に軍勢を留めた。p395
次いで、真中のシトニア半島の先端のトロネ市の反アテーナイ派が、自発的にブラシダスを呼び入れた。
トロネの平和的征服
トロネを征服、レキュトスに籠城するアテーナイ勢に声明
朝になると、トロネ市は平静を取りもどした。
そこでブラシダスはレキュトスに逃げ込んでアテナイ人の中にいるトロネ人に対して声明を発し、希望者は何の懲罰もなく復帰が許され、市民権も確保されるとした。
またアテナイ人には使令を送って、トロネはカルキディケ諸邦に属するから、所持品をまとめて休戦条約の下にレキュトスからの撤退を求めた。p397
ほとんどトロネをブラシダスは、無血制圧した。
アテーナイ側、ブラシダス側、無関心の三者すべてを安心させるブラシダスの心遣い
そしてブラシダスはトロネ人を集会に召集して、
アテナイ側に加担した者に関しては、何の懲罰もなく、
またこれと同様にトロネ市陥落に内応した者たちも、裏切り者として悪者扱いはされてはないらないと言った。
さらに、こうした挙に係わり合わなかった者たちが、無関心だったからといって、同じ恩恵に浴せないと考えてはならないとも言い、このような者たちやトロネ市や、またその市民一人たりとも、傷つけるために自分は来たのではないからであると言った。p398
誰も敵にしない友愛主義のブラシダス。
一年の休戦条約
次の夏の季節が始まり春が来ると、ラケダイモン人とアテナイ人は一年の休戦条約を結んだ。p400
パレネ半島のスキオネがブラシダス傘下へ
人々が休戦条約成立のために往来をしていた期間に、パレネ半島の一都市スキオネがアテナイ傘下から離脱して、ブラシダスの下に走った。p403
今度は、いちばん西のパレネ半島の先端のスキオネが、ブラシダスの人格のうわさを聞いて、自発的にブラシダスを迎え入れた。
ブラシダス、スキオネで演説
さて、ブラシダスはスキオネに到着すると、集会を招集して、アカントスやトロネで発言した内容と同様な趣旨を述べ、それに加えて、スキオネ人はもっとも高い称賛に値すると言った。p404
おそらく住民は、フェニキア系が圧倒的に多かったのだろう。
ブラシダスもスキオネに格別の愛着を示した。
ブラシダス、スキオネを保持して保護
ブラシダスは、スキオネの同盟離脱は条約成立以前であったと強く反対の意見を述べ、スキオネを手離さなかった。p405
アテナイ系のエレトリアの植民都市メンデも離反
この頃、パレネ半島上にあって、エレトリアの植民都市であったメンデがアテナイ同盟を離脱した。
そしてこれをブラシダスは承認した。p406
エウボイア島のエレトリアの植民都市メンデまで離脱。
アテーナイ帝国主義が、エレトリアをカルキス同様使い捨てにしたからである。
エウボイア島で、角突き合わせているフェニキア系のカルキスとアイオリス系のエレトリア。
長らく、エレトリアは、アテーナイ側であった。
そのエレトリアまで離反したのである。
ブラシダスのスキオネを見捨てなかった信頼性メンデは基本アテナイ・シンパ
この事実はメンデ人の行動をさらに積極的なものにした。
このわけは、ブラシダスがスキオネを見捨てなかった事実、
離脱派が少数で、ここまで事を運んでしまった以上は中止することもできず、・・・p406
マケドニア王のために一時離脱するブラシダス
ブラシダス、アラバイオス王攻撃に離脱
一方、ブラシダスとペルディッカスはこの頃、リュンコスのアラバイオス王に二度目の攻撃をかけた。p407
ブラシダスは、リュンコスのアラバイオス王は、仲間なので戦いたくなかった。
ペルディッカスとブラシダス意見衝突、メンデが気がかり
ペルディッカスは、・・・さらにアラバイオス王領の諸集落に攻撃をかけて進軍しようとしたが、
これに反してブラシダスはメンデが気がかりで、自分がもどる前にアテナイ船団が襲って被害を受けてはならないと考えた上に、・・・引き揚げることを望んでいた。p407
ブラシダスは、メンデが気がかりで、一刻も早くもどりたかった。
イリュリア人の裏切りで撤退
ちょうどこの両者の意見が相違しているところへ、イリュリア人はペルディッカスを裏切ってアラバイオス王に味方したと報せが入った。p408
フェニキア系イリュリア人が、アラバイオス王に寝返り、ペルディッカスとブラシダスが窮地に陥ったので、二人は退却し、ブラシダスはカルキディケ戦線にもどれた。
ブラシダス、カルキディケ戦線に帰還
メンデ陥落を知る
ブラシダスはマケドニアからトロネに帰って来ると、アテナイ勢がメンデを押さえてしまっているのを発見し、パレネに渡ってメンデを救える見込みはないと考え、トロネの守りを固めて行動と控えた。p411
ハンニバルが、もはやカプアを救えなかったように、ブラシダスもメンデを救えなかった。
アテーナイ人は、裏切ったメンデ人を虐殺した。
スキオネ市に防壁構築
その間にスキオネ勢とペロポネソス勢は、スキオネ市の前面にある高地を固めていた。p413
スキオネは、断固守るという意志を固めた。
ペルディッカス、アテナイと条約
スキオネ市の包囲壁工事が進行中に、ペルディッカスはアテナイの将軍たちに使令を送り、アテナイと盟約を結んだ。p414
ブラシダスと決裂したペルディッカスは、アテーナイと盟約を結んだ。
カルキディケ戦線ーポテイダイア戦へ
ポテイダイア襲撃へ
同じ冬、すでに春も近くなってから、ブラシダスはポテイダイアに襲撃を企てた。
そしてこの冬は終り、トゥキュディデスが記録した今次大戦の第九年も終った。p416
ブラシダスは、一番西のパレネ半島の地峡に位置するポテイダイア市に襲撃を企てた。

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