著述 本70 トゥキュディデス『歴史』下 第6巻 シケリア島植民史/迎撃のヘルモクラテス

ギリシア
  1. 第6巻の概要
  2. シケリア遠征本格化
  3. 第1章 シケリア島の歴史:シケリア植民の起源
    1. キュクロペス人
    2. シカノス人
    3. シケリア島の古名は「トリナクリア島」
    4. シカノス人西部居住
    5. エリュモイ人が合流
    6. ポキス人もエリュモイ人と共存
    7. シケロイ人
    8. シケリアの名祖はシケロイ人
    9. フェニキア人全域にエンポリオン
    10. フェニキア人、西部に集約
  4. シケリア島へのギリシア人の植民の歴史
    1. カルキス人のナクソス市
      1. ナクソス市はタオルミナ近郊
    2. コリントス人シュラクサイ市
      1. シュラクサイの「島」
      2. オルテュギアー島の要塞化
    3. レオンティノイ市とカタネ市(カルキス系)
      1. レオンティノイ市
      2. カタネ市
    4. メガラ人 メガラ・ヒュブライア市
      1. シュラクサイとカタネの間
    5. セリヌス市(メガラ・ヒュブライアの植民)
    6. ゲラ市(ロドスとクレタからの植民)
      1. ゲラの立地
      2. ゲラの名の由来
    7. アクラガス市
  5. ザンクレからメッセネへ
    1. ザンクレ市(キュメと母市エウボイアのカルキス市から植民)
      1. キュメ人の植民
      2. オキピア地方
      3. ザンクレの名はシケロイ語のザンクロン(鎌)
    2. サモス人の入植
    3. ザンクレをメッセネと改名
    4. ヒメラ(カルキス系ザンクレ人の植民)
  6. シュラクサイ系の都市
    1. シュラクサイ人の創建のカマリナ
    2. ゲラ僭主ヒッポクラテスの再建
    3. ゲロンによる三度目の再建
  7. シケリア島植民史 総括
    1. ジモティーの四民族
    2. フェニキア人(カルタゴ人)の植民
    3. ギリシア人の植民
      1. カルキス人
      2. ドーリス人
      3. メガラ人
  8. 第2章 シケリア遠征、プロとコントラ
  9. エゲスタからの救援要請に乗って深みにはまる
    1. エゲスタからの救援要請
      1. エゲスタVSセリヌス
      2. アテナイ人、エゲスタに調査団派遣を票決
  10. 第十六年目終り
  11. シケリア遠征プロとコントラ
    1. ニキアス、アルキビアデス、ラマコスを全権将軍に
    2. ニキアスの遠征反対演説
    3. アテナイ帝国主義を個人的に利用するアルキビアデス大悪人
  12. ニキアスの反対演説
    1. 豊かで大規模なシケリア島の七大都市
      1. 自前の馬と食糧
    2. 製パン夫の装備必要
    3. 第一日目で電撃勝利を得ない限りムリゲー
    4. ニキアスの助言が逆効果
  13. 第3章 ヘルメス角柱の前面損傷事件
    1. ヘルメス角柱の前面損傷事件
      1. 不吉な兆と革命一派の陰謀論
      2. シュラクサイの将軍ヘルモクラテスの守護神ヘルメス威力減少がねらいか?
      3. 在留外人とヘルメス秘儀
      4. 秘儀の真似ごと事件
  14. ペイライエウスの出港式
    1. ペイライエウス港にて
      1. 物量に安心する軍備
      2. ラッパで進軍するアテナイ
  15. 第4章 迎撃のヘルモクラテス
    1. 砂に首をつっこむシュラクサイ人
    2. ヘルモクラテス登場
      1. シケロイ人との友好を提言
      2. カルケドン(カルタゴ)に送使の提言
      3. カルタゴこそ最大の軍事力経済力を所有する国
      4. ラケダイモンとコリントスへも救援要請
  16. 第5章 アテナイ、イタリア沿岸都市の不歓迎
    1. 同盟のタラス市沖でアテナイ海軍を向い討つ
    2. イタリア沿岸都市、アテナイを敵国扱い
      1. イタリア沿岸都市水と投錨権のみ許す
      2. タラス市とロクリス市、すべて拒否
      3. レギオンで初めて市場と陸揚げが許可される
      4. レギオン、中立を主張
  17. アテナイ三将軍、戦略で論争
    1. エゲスタの詐欺
    2. ニキアス説:エゲスタ・セリヌスの和解のみ
    3. アルキビアデス説:全シケリア離反作戦
    4. ラマコス説:シュラクサイ直行
    5. バカのアルキビアデス説採用の愚
    6. アルキビアデスに帰国命令
  18. 第6章 「僭主殺害者」の真実
    1. ハルモディオスとアリストゲイトンの事件は僭主殺害事件ではない!
    2. ペイシストラトス一党は善政の典型
      1. ヒッパルコスは大衆に善政
      2. ペイシストラトス一党の善政:わずか5分の税金で公共事業
      3. ペイシストラトス一族の善政の象徴 「五分の税金」
      4. 執政官職独占以外の違法行為なし
    3. 僭主はヒッピアスであってヒッパルコスではなかった
      1. ヒッピアスの子ペイシストラトスが執政官
        1. オリュンポス12神の祭壇は全ヘラス共和の象徴!
      2. ヒッピアスの子ペイシストラトスの執政官就任の証拠
      3. ヒッピアスが長男で、僭主の後継者
        1. ヒッピアスの妻はカリアスの娘でミュリネ
        2. ヒッピアスは長男
    4. 事件後初めて厳しい政治
    5. 亡命準備の賢明なヒッピアス
      1. ランプサコスの僭制君主に娘を嫁がせる
      2. ヒッピアス、ランプサコスとシゲイオンで余生を過ごす
  19. 第7章 ヘルモクラテスとアルキビアデス/カマリア争奪戦論争
  20. アルキビアデス、ばっくれ敵ペロポネソス陣営へ
  21. カマリナ市争奪戦論争:ヘルモクラテスVS
    1. 論者はヘルモクラテスとエウペモス
    2. カマリナ市争奪戦
      1. ヘルモクラテスの演説:アテナイ人はカルキス人を大切にしない!
        1. カルキス市と娘市レオンティノイ市について
      2. アテナイのエウペモスの反論
        1. レオンティノイ市には軍事力の貢納要求「アテナイ帝国の合理支配の原則」
        2. 軍備を持たせず貢納金を使って枷を作るアテナイの自白
  22. 絶句!アルキビアデスの「真の愛国者」
  23. 第17年目の終り

第6巻の概要

①シケリア島植民史
②シケリア遠征プロとコントラ
③ヘルメス角柱の前面損傷事件
④迎撃のヘルモクラテス/パン・シケリア主義
⑤売国奴アルキビアデス

シケリア遠征本格化

同じ冬、アテナイ人はラケスとエウリュメドンの部隊よりも大規模の装備をもった部隊をシケリア島に再び派遣して、できればそれを征服しようとした。p72

第1章 シケリア島の歴史:シケリア植民の起源

キュクロペス人

シケリア島の全体を通してもっとも古い住民は、キュクロペス人とライストリュゴネス人であったといわれているが、これらの種族がどこから来てどこへ行ってしまったのか私は知らない。p72

シケリア島の最古の原住民は、キュクロペス人
キュクロペス人の正体は、冶金術にたけたフェニキア人の投影か。

シカノス人

これに次いで、シカノス人が移住してきたように見えるが、彼ら自身に言わせると、彼らこそ初めからいた先住民であると主張する。
しかし実際には彼らはイベリア人で、リグリア人に追われてイベリアのシカノス河から来たようである。p73

最古の民族は、シカノス人
自称「生え抜き」トゥキュディデスイベリアからの移住者と断定する。
イベリアから移住者とするならフェニキア人(ヘーラクレース)の植民の可能性大である。

シケリア島の古名は「トリナクリア島」

そしてこのために、以前はトリナクリアと呼ばれていた島名が、この頃になってシカニアと呼ばれるようになった。p73

キュクロペス人が居住していた時代、トリナクリア島=三角島というのが、一番最初のこの島の名前。
今であるシチリア島のシンボル「トリナクリア」
中央はメドゥーサの首
これこそシケリア島がアトランティスであり、その女王メドゥーサの首が据えられている整合性を見ることもできる。

つまり、シケリア島は、アトランティスの一部もしくは中心で、キュクロペス人と呼ばれたフェニキア人が統治していた。火山資源の多いこの地域で、冶金によって栄えていたと想定できる。

シカノス人西部居住

彼らは今日でもシケリア島西部の地域を占めている。p73

これこそ、ここへ、イベリア半島から里帰り植民したのが、フェニキア人とイベリア人の混血のシカノス人と想定できる。

エリュモイ人が合流

トロイアの陥落に伴って、アカイア人の手を逃れたトロイア人のある者たちは、船でシケリア島に着き、シカノス人の隣接地に一同が住みつき、エリュモイ人と呼ばれた。
これらの人々の都市はエリュクスとエゲスタである。p73

ついで入植したのが、エリュモイ人エリュモイ人は、トロイア人の末裔。

ポキス人もエリュモイ人と共存

トロイアから彼らと一緒に移住したポキス人は、一度は嵐でリビアに流されたが、そののちそこからシケリア島に運ばれた。p73

ポーキス人がリビア経由でシケリア島に?
トロイア人とポーキス人が一緒に、エゲスタとエリュモスを建設したということか。
しかしエリュモスアシュタルテの聖域があるので、「ポーキス人」とはボイオーティアからリビュアへ里帰り植民したフェニキア人であろう。
リビア経由で移住したのは、フェニキア系のポキス人ということになる。

シケロイ人

シケロイ人は、(最初に住んでいた)イタリアからオピキア人に追われて、シケリア島に渡った。p73

〔註〕この場合、イタリアとはほぼ現在のカラブリア、すなわちタラント市から西南の地域を指すにとどまる。

シケロイ人の中には今でもイタリアに住む者もいるが、イタリアという地名は、シケロイ人の王イタロスの名をとって呼ばれるようになったものである。p73

シケロイ人は、南イタリアに住んでいてオピキア人に追われた南イタリアの「生え抜き」原住民の可能性が高い。

シケリアの名祖はシケロイ人

彼らは大群をもってシケリア島に渡り、シカノス人を打ち破って、これをシケリア島の南部と西部に追い詰め、島をシカニアの代りにシケリアと呼ばせ、島の一番良い地域を占領して住み着いた。p73

彼らがここに移住したのは、ヘラス人がシケリア島に現われるより三百年も近く前のことで、彼らは現在でもシケリア島の中部と北部を押さえている。p73-74

キュクロペス人ーシカノス人ーエリュモイ人ときて、最後の原住民が、シケリア人

フェニキア人全域にエンポリオン

フェニキア人もシケリア島の周辺部全域にわたって居住し、海に突出した岬、沖合いの島々も、シケロイ人との通商のために占拠していた。p74

ついで、フェニキア人が到来し、西部の島や岬に居住した。
キュクロペス人は、プロト・フェニキア人であろう。
このフェニキア人は、カルタゴ人であろう。

フェニキア人、西部に集約

しかし多くのヘラス人が海を渡ってくるようになると、フェニキア人は居住地の大部分を放棄して、エリュモイ人近いモテュエ、ソロエイス、パノルモスに集まって住みついた。
そのわけは、エリュモイ人が信頼のおける同盟者であったからでもあるが、またこれらの諸地点はカルケドンとシケリア間の最短航路の起点になるからでもあった。p74

カルタゴ人は、エリュモイ人近いモテュエ、ソロエイス、パノルモスに集まって住みついた。

シケリア島へのギリシア人の植民の歴史

カルキス人のナクソス市

他方ヘラス人の中では、まずエウボイアからカルキス人がトゥクレスを開祖としてナクソスに移住した。
彼は現在、ナクソス郊外にあるアルケゲテス・アポロンの祭壇を築いたが、諸祭礼に出席する使節団がシケリア島を離れる時にはいつでも、まずこの祭壇で犠牲を捧げるのを習慣とした。p74

ヘラス人の最初はカルキス人。開祖トゥクレス。主神はアポローン。
すでにエウボイア島で、ヘルメースやディオニュソスがアポローンに制覇された時代の植民である。
ナクソス市というからには、カルキスのみならず、ナクソス島からも来たのだろう。
ナクソス島は、ディオニューソス信仰である。

ナクソス市はタオルミナ近郊

〔註〕ナクソスは現在のタオルミナ市郊外のスキソ岬と呼ばれる所にあって、前四〇三年にシュラクサイの僭制君主ディオニュシオスに滅ぼされたが、現在でもその嗜癖を見ることができる。

コリントス人シュラクサイ市

その翌年、コリントスからヘラクレス族の一員であるアルキアスがシュラクサイに移住したのであるが、それに当って彼はまず、シケロイ人を現在は内部の市が存在する島から追放した。p74

第二派は、コリントス人。(これもヘーラクレイダイだからフェニキア人)。
シュラクサイ市で、開祖はアルキアス(ヘーラクレイダイ)。
戦闘的で、シケロイ人をオルテュギア島から追放。ここが通商都市のフェニキア人との違い。

シュラクサイの「島」

〔註〕現在のオルテュギアのこと。
つまり後に要塞化されるオルテュギアー島のこと。

オルテュギアー島の要塞化

この島は現在地続きになっているが、後年には、内部の市の外側をも含めた嗜市壁が巡らされ、人口が稠密になった。p74

レオンティノイ市とカタネ市(カルキス系)

レオンティノイ市

トゥクレスとカルキス人は、シュラクサイ移住の年より五年後にナクソスを出て、レオンティノイに入植し、シケロイ人を戦いに破って追放しそこに住みつき、この後カタネにも移住した。p74

ナクソス市(カルキス人)の植民都市がレオンティノイ
だから、エウボイアのカルキス市出身だから、アテーナイ人とは縁もゆかりもない。おそらく先祖は、ヘーラクレイダイと同じフェニキア人。

カタネ市

この後カタネにも移住した。
そしてカタネ人自身の手で、エウアルコスをカタネ市の開祖とした。p74-75

カタネ市ナクソス市の二次植民

メガラ人 メガラ・ヒュブライア市

同じ頃、ラミスが移民を率いてシケリア島に来て、・・・
しばらくの間レオンティノイのカルキス人といっしょに住んだ。
そしてカルキス人に追われるとタプソスに移り住んだ、
ラミスの死後、他の者はタプソスからも追われたが、
シケロイ人の王ヒュブロンがメガラの植民都市であった地域を提供したので、その地に住みつきヒュブライア人と呼ばれるようになった。p75

メガラ人の創建。メガラ人ラミスが開祖。
シケロイ人と共和的シケロイ人の王ヒュブロンの接待で都市建設に注意。

シュラクサイとカタネの間

〔註〕レオンティノイ、タプソス、メガラはすべてカタネとシュラクサイ間にある。

シュラクサイは、パキュノン岬より北にあり、さらに北にカタネがある。
つまり、レオンティノイ、メガラ・ヒュブライア、カタネは、シュラクサイとともに、シケリア半島の東北辺に並ぶ。

メガラ人とは?

アッティカのアテナイの隣国。アルゴリス圏に属する。
神話の祖王は、ポローネウス。
ヘーラーとポセイドーンのアルゴス市の主権争いでヘーラーに勝利判定した王。
それもイナーコスの息子とされる。
これからヘーラー信者のフェニキア系であったと想定される。


息子のカル王は、「メガロン」といわれたデーメーテール神殿の創始者。
もとは「カリア」と呼ばれていた、おそらく「メガロン」から「メガラ」となったのだろう。
小アジアのカリア経由でギリシア本土に入植したカドモス一行の一分枝が、メガラに入植したのが、このメガラ古王朝であろう。

もとのメガラの先住民は、ヘーラーやデーメーテール信仰のテーバイ人であろう。
ヘーラクレイダイの降下以降、ヘーラクレイダイ率いるドーリス人支配へ。
つまり、メガラの古王朝は、カドモス一行の子孫のフェニキア系、
ヘーラクレイダイも同じ子孫のため平和的に共存したのだろう。

メガラは海洋民族として、ビュザンティオンやカルケドンを建設する。

セリヌス市(メガラ・ヒュブライアの植民)

そして二百四十五年の間ここに住んだが、シュラクサイ僭制君主ゲロンによってこの都市と地域から追放された。
しかしこの追放に先立って、移住百年後に彼らはパミロスを派して、セリヌス市を設立した。
パミロスは母都市メガラから彼らの所に来たので、彼らと一緒に移住した。p75-76

ドーリス系メガラ人が、メガラ・ヒュブライア創建100年後に、メガラ本国から移住したばかりのパミロスをリーダーに植民した都市。

ゲラ市(ロドスとクレタからの植民)

ゲラ市はロドス島から来たアンティペモスによって創建され、クレタ島出身のエンティモスも植民者を連れてこの移住に加わった。
これはシュラクサイ創建四十五年目のことである。
ゲラという市名はゲラス河に因んでつけられたもので、今日のゲラ市がある地域は、最初は壁が巡らされていて、リンディオイと呼ばれた。
政体はドリス形態を採用した。p76

ロードス人によって創建され、のちクレタ人が参加した。
ロードス人は、この時代ドーリス人化していた。
つまり、この二種の民族が共同植民したと言う事実は、両方フェニキア系の傍証である。

ゲラの立地

〔註〕ゲラ市はシケリア南部にあって、後年、ギリシア悲劇詩人アイスキュロスはこの地で没している。

ゲラは、シュラクサイと違って、パキュノン岬より西にある。
つまりカマリア、ゲラ、アクラガスの順に東から西へ、シケリア島の南辺に並ぶ。

ゲラの名の由来

〔註〕ゲラとはシケロス古語で「氷」を意味した。

ゲラは、シケロス語で「氷」を意味する。
雪が降るからだろう。
ジェラートの語源であろう。

アクラガス市

ゲラ人はアクラガスを創建した。
アクラガスの名はアクラガス河に因んだ名で、アリストヌスとピュスティロスを創祖として、ゲラと同じ政体を採用した。p76

ゲラ市の植民ドーリス人

ザンクレからメッセネへ

ザンクレ市(キュメと母市エウボイアのカルキス市から植民)

キュメ人の植民

ザンクレは、初めにオピキアにあるカルキスの都市キュメから来た海賊によって創建された都市であるが、後には多くの人がカルキスやエウボイア地方からやって来て、この地に一緒に住んだ。
開祖にはキュメ出身のペリエレスとカルキス出身のクラタイメネスがなった。p76

イタリアのオキピア地方のヘラス人初の植民都市キュメラテン語でクーマエ)人のペリエレスが開祖。
母国からもクラタイメネス率いる植民団が合流して創建した。
このキュメ人は、カルキス人である。

オキピア地方

〔註〕現在のカンパニア地方。

つまり、カンパニア地方は、ヘラスの植民の始まりがカルキス人であった。(カルキス人=フェニキア人だろうから)ハンニバルが、カンパニアと共闘したはずである。

ザンクレの名はシケロイ語のザンクロン(鎌)

ザンクロンと言う言葉はシケロイ語で鎌の意味であるが、この土地の形が鎌型をしているところから、シケロイ人はこの地を最初はザンクレと呼んだのである。p76

ザンクレの語源は、シケロイ語で「鎌」(ザンクロン)から。

サモス人の入植

しかし後にはサモス人やその他のイオニア人がペルシア人に追われてシケリアに着き、この地に来てザンクレの住民を追い出したが、p76

実際は、ザンクレの王スキュテスサモス人を友好的にまねいたが、
サモス人はレギオンの僭主アナクシレオスに説得されてザンクレを占領したが、ザンクレ救援に来たゲラの僭主ヒッポクラテスは、サモス人と手を結び、ザンクレ人を追放し、重鎮はサモス人に処刑するように引き渡した。
しかし、サモス人ザンクレ人の重鎮を処刑せずいっしょに住んだ。
ここでザンクレ人(カルキス人)サモス人共存都市となった。

ザンクレをメッセネと改名

間もなくこのサモス人をレギオンの僭制君主アナクシラスが追放して、混合民族をこの地に住まわせ、自分の出身地の名前をとってメッセネと改名した。p76

レギオンの僭制君主アナクシラス=アナクシラオス(ヘロドトスでは)は、もともとサモス人を招いたのだから、サモス人を追い出していない。
ゲラのヒッポクラテスはサモス人に土地はすべて任せて去った。
サモス人がアナクシラスと共同で、アナクシラスの故郷のメッセニア人を植民して共同で住んだ。
ここで、ザンクレはメッセネと都市名を改名し、
カルキス人、サモス人、メッセニア人の共同体となった。

ヒメラ(カルキス系ザンクレ人の植民)

またヒメラは、ザンクレ出身のエルクレイデス、シモス、サコンによって創建されたが、移住民の主な者はカルキス系の移民であった。
それにシュラクサイの政変に破れて亡命したミュレティダイと呼ばれる一族がこれに加わった。
使用言語はカルキス語とドリス語の混った言語が主であったが、政体はカルキス形態が支配的であった。p77

後カルタゴ人と共闘するヒメラは、カルキス系が主体で、ドーリス系も混じる。

シュラクサイ系の都市

シュラクサイ人の創建のカマリナ

カマリナは最初にシュラクサイによって創建されたが、これはシュラクサイ創建後ほぼ百三十五年目のことであった。
カマリナの開祖にはダスコンとメネコロスがなった。
しかしカマリナ人は、シュラクサイに対する叛乱に失敗すると、この地から追放された。p77

カマリナは、シュラクサイ市の二次植民シュラクサイに反乱を起して追放された。

ゲラ僭主ヒッポクラテスの再建

後になってゲラの僭制君主ヒッポクラテスがシュラクサイ人の捕虜の代償としてカマリナの地を獲得し、ヒッポクラテス自身が開祖となってカマリナを再建した。p77

ゲラ僭主ヒッポクラテスが再建するも、ドーリス人でただ一つのアテーナイ側の都市となる。

ゲロンによる三度目の再建

しかしこれも再びゲロンによって滅ぼされ、ゲロンの手で三度目の都市建設がなされた。p77

シケリア島植民史 総括

ジモティーの四民族

キュクロペス人:プロト・フェニキア人。「トリナクリア」建国。
シカノス人:イベリアからのプロト・フェニキア人×ケルティベリア人。西部から移住。
エリュモイ人:トロイア人。東部から移住。
シケロイ人:南イタリアのジモティーが、オピキア人に追い出されて、北部から移住。

フェニキア人(カルタゴ人)の植民

西部に、モテュエ、ソロエイス、パノルモス建設。

ギリシア人の植民

カルキス人

ナクソス市:タオルミーナの土地に建設。一番の景勝地。
レオンティノイ市:カルキス人の植民。東辺のナクソスの南。シュラクサイのすぐ北。
カタネ市:ナクソス市の二次植民。ナクソスとレオンティノイの中間地点。
ザンクレ市:カルキス人の都市南イタリアのキュメ(クーマエ)から植民。+サモス人。+メッセニア人。

ドーリス人

シュラクサイ市:コリントス人の建設。
ゲラ市:ロードス人の創建。
アクラガス市:ゲラ市の二次植民。

メガラ人

メガラ・ヒュブラエア市:メガラ人の建設。シケロイ人に協力してもらい。カタネとシュラクサイの中間地点に。
セリヌス市:初めてギリシア人として南西辺に、建設。

つまりギリシア系もすべてテーバイ帝室系!!!

第2章 シケリア遠征、プロとコントラ

エゲスタからの救援要請に乗って深みにはまる

以上がシケリア島に住むヘラス人と異語族のあらましであるが、このように大きな島に向ってアテナイは遠征を企てたのであって、・・・
本心ではシケリア島全土を征服しようと望んでいた。p77

エゲスタからの救援要請

とくにエゲスタからの使節団はアテナイ人に援助を促して、ますますその欲望を煽りたてた。p77

エゲスタVSセリヌス

このわけは、エゲスタ人が隣国セリヌスと、ある結婚問題と領土紛争のために戦争をしていたからである。p77-79

アテナイ人、エゲスタに調査団派遣を票決

アテナイ人は、・・・
まず使節団をエゲスタに派遣して、エゲスタが主張するような資金を実際に神財や公財として保存しているか否かを確かめると共に、対セリヌス戦の実情を知ろうと票決した。p79

エゲスタは、主にエトルリア人の都市セリヌスは、メガラ人の都市といえる。結婚問題が発端であり、ともに遠い先祖はフェニキア人であり、メガラはヘーラクレイダイである。ほぼ同族の兄弟げんかのようなものである。

アテーナイは、最初にカルキス系のレオンティノイのゴルギアスに説得されて、このやばい儲け話の詐欺商材に手を出した。
その時、アテーナイには、シケリアの豊穣の財を武力で、何の功績もなく横取りしようという魂胆があった。
その欲によって、レオンティノイに「だまされた」である。
そこで、やめときゃいいのに、今度は、エトルリア系のエゲスタ人に「だまされて」さらに、シケリア遠征の深みにはまるのである。

フェニキア人なら、けんかしている二都市を仲介して仲直りさせるであろう。
アテーナイは、レオンティノイのことも、エゲスタのことも、あとで食ってやろうと思っていたのである。
友愛思想のフェニキア系シュラクサイの将軍ヘルモクラテスは、まさにそこを理解して、汎シケリア主義を提唱した。

アテーナイ人に欲(煩悩)を制御する、そしてウィンウィンのまっとうな商売で、シケリア人を助ける思想があれば、大惨事にはならなかった。
アテーナイの自業自得であり、この戦争の根底には、「基本構造」が存在する。

ヘルモクラテスのシュラクサイ:フェニキア的共存共栄思想。
アテーナイ:自ら何も作らず、弱小国を武力で制圧して奪う弱肉強食思想。

フェニキア的共存共栄指嗾 VS アテーナイ的弱肉強食思想 である。

前2000年~西暦0年は、フェニキア的共存共栄思想が、基調にあり、(通商国家による共存共栄思想)、
0年から2000年は、アテーナイ的弱肉強食思想、中世、絶対王政など一神教的独善搾取思想が、基調にあり、(武装貴族による弱肉強食思想)
2000年から4000年は、再び、共存共栄思想が、基調となるとみている。
グーグルとアマゾンの友愛平等思想を援助するシステムの繁栄がカギであろう。

第十六年目終り

そしてこの冬は終った。こうしてトゥキュディデスが記したこの戦争の第十六年目も終った。p80

シケリア遠征プロとコントラ

ニキアス、アルキビアデス、ラマコスを全権将軍に

そしてエゲスタ人や自国の使節団から、都合のよい話や、エゲスタの神財、公財には豊富の貯えがあるという真実性のまったくない話を聞かされ、シケリア島に六十隻の船団を送ることと、クレイニアスの子アルキビアデス、ニケラトスの子ニキアス、クセノパネスの子ラマコスをその全権将軍とすることを議決した。p80-81

ニキアスの遠征反対演説

不本意ながら将軍の一人に選ばれたニキアスは、アテナイ市が誤った判断をしており、全シケリア島にかかわるような重大事件に対して、表面的な理由で軽々しく着手しようとしていると考え、彼らの企てを変えようと、前に出て次の要旨をアテナイ人に訴えた。p81

アテナイ帝国主義を個人的に利用するアルキビアデス大悪人

ことにアルキビアデスは遠征軍の指揮官職につきたかったし、またシケリア島とそれを通してカルケドンを押えて個人の富をふやし自己の財力には過ぎた欲望を競走馬の育成やその他の消費で満たそうとしたからであった。
そしてこのことが後にアテナイ市を滅ぼすおおきな要因となったのであった。p87

アルキビアデス大悪人
アルキビアデスは、シケリア島やカルタゴを侵略しようとしていた。
ヘルモクラテスが、カルタゴとも共闘して、西地中海総力を挙げてアテナイ帝国主義を打倒しようとしたのは正しい。
アルキビアデスの欲望の犠牲にデモステネスらがなって、アルキビアデス自身は災難をまぬかれたのはいかにも不公平である。

ニキアスの反対演説

豊かで大規模なシケリア島の七大都市

ニキアスは再び演台に立って次の要旨を述べた。
「ナクソス市とカタネ市はレオンティノイ市の関係から我々に味方してくるとしてもその他に七つの都市があり、それらはすべてアテナイ市とほぼ同質の装備を持っており、ことに最大目標であるセリヌス市とシュラクサイ市がその最たる都市である。」p92

つまり、シュラクサイをはじめセリヌス、ゲラ、アクラガス、、メッセネ、ヒメラなどシケリア島の都市国家の個々が、本土一豊かなアテナイ同じ規模の富を持ち、軍備を持つ都市という事情に、ニキアスは精通していた。
シケリア島は豊かな農作物と交易の富で、不毛のギリシア本土よりはるかに豊かだった。

〔註〕セリヌス、シュラクサイ、ゲラ、アクラガス、メッセネ、ヒメラ、カマリナの諸都市。

自前の馬と食糧

「とくに彼らが我々にもっとも優る点は、馬匹の所有量と、輸入穀類に頼る必要がない点であろう。」p93

地元でホームで戦うシケリア連合軍は、馬を好きなだけ調達でき、地理にも詳しい。ジモティーの協力も望まれる。補給において圧倒的に有利である。

製パン夫の装備必要

「自給自足のできるように適当な数の製パン夫を製粉所から、賃金に糸目をつけず雇ってこなければならない。」p94

アテーナイは、船で補給をしなければならず、最初に莫大な備蓄が必要である。

第一日目で電撃勝利を得ない限りムリゲー

「上陸第一日目に勝利を得て早急に領土を確保できる態勢を整えないかぎり、万一その一戦に敗退するようなことがあれば、八方に敵が現われるであろうことを覚悟しなければならない。」p95

ニキアスの助言は、まことに的を得ている。
アルキビアデスは、大馬鹿であり、大悪人である。

ニキアスの助言が逆効果

ところがこの装備の規模の大きさのために、アテナイ人の遠征熱は冷めるどころかますますこのことに熱中するようになって、ニキアスの思惑は大きく外れてしまった。
つまりアテナイ人は良い助言を得たので、今や遠征はますますその安全度を増したと考え、皆同じように遠征に夢中になったのである。p95

ニキアスの助言に、かえって欲を増大させたアテーナイは、衆愚政治の悪い面が噴出したと、トゥキュディデスは見ているようである。
しかし、これが、アテーナイのペリクレスが自慢する「公民政体」の本性である。
その実体は、健全で成熟した「民主主義」ではなく、一部の家族アルクマイオーニダイとアイアキダイが、自分たちの利益のために、アテーナイの弱小市民をだまして、構造的に強制して、戦争に狩り出し、他国には帝国主義で迷惑をかける独善主義である。
これは、まさに現在の日本が、自民党の現在のアルキビアデスであったアベノマスクが、旧統一教会などと組んで、日本国民の財を搾取して、献上したのに等しい。
日本の民主主義は未熟だというが、商業的市民団体が、国を健全化するしかないだろう。
グーグルやアマゾン、国連などの国際的なシステムの力を借りて、弱小国民が、自ら主権者であるというほんとうの地位を奪還する必要があるのだろう。

第3章 ヘルメス角柱の前面損傷事件

ヘルメス角柱の前面損傷事件

この準備に人々が従事している頃、一夜にしてアテナイ全市の大部分のヘルメス石像の前面が傷つけられるという事件が起った。
(このヘルメス石像というのは例の角型の像で、多くの個人の家の戸口や神殿の入口に置いておくのが習慣となっているものである。)97

〔註〕ヘルメス石像は通例、角型の石柱の上に胸像が刻まれ、髭のある顔と直立した男根を持ち、両肩から支えが出て輪飾りを置くようになっている。
前五世紀末期までには種々の像ができているので、ここで毀された像がヘルメス神像に限られたとは断定できない。

このヘルメース神は、フェニキア系帰化人の秘儀と関係があったと思われる。

不吉な兆と革命一派の陰謀論

そして人々がこの事件を必要以上に真剣に考えたのは、これは遠征にとって不吉な兆であると同時に、革命を起し公民政体を覆そうと目ろむ一派の仕業であると考えたからである。p97

アルキビアデス一派が、民主主義を倒して僭主政の革命をもくろんでいると見られていたことを暗示させる。

シュラクサイの将軍ヘルモクラテスの守護神ヘルメス威力減少がねらいか?

〔註〕ヘルメス石像打毀が不吉の兆となるのは、この何者かの仕業によってヘルメス像が毀れてたために、ヘルメス神が怒って、その仕返しにアテナイのシケリア遠征を敗北に終わらせる恐れがあるという意味である。

シュラクサイの反アテーナイ帝国主義のための汎シケリア大同団結を提唱した当時のシケリアの第一人者が、ヘルモクラテスというのも意味深長である。
アルキビアデス一派は、ヘルモクラテスを象徴するヘルメース神の威光を傷つけようとしたのかもしれない。
だから、ヘルメースの繁殖力を削ぐためヘルメース角柱の前面(勃起生殖器)を棄損して回ったと想定される。

在留外人とヘルメス秘儀

しかし在留外人や召使いの中には、ヘルメス事件に関しては何の情報をもたらす者もなかった。p97

ヘルメース信仰が、とくに在留外人と関連していたのではないかと示唆させる一文である。
ヘルメースの生誕の地は、アルカディアペラスゴイの信仰が起源である。
ペロポンネーソス半島出身の神であり、シュラクサイの植民者コリントス人も近い。
ヘルモクラテスの父は、ヘルメースの子孫を称するヘルメース神官家系であった。
アテーナイには、ヘルメース信仰「在留外人」により輸入されたらしい。
つまり、アテナイに帰化したペイシストラトス一派と近しいタナグラに移住したテーバイ帝室系フェニキア人の間で、ヘルメース信仰が盛んだったのだろう。
これは、後にフェニキア人ピュタゴラスの影響を受けたヘルメス・トリスメギストスの密教に発展する。

秘儀の真似ごと事件

けれども以前に他の石像を酒と若さにまかせて傷つけ、また個人の家でふざけて秘儀の真似をした者の名を告げる者たちがいて、その中にはアルキビアデスの名も入っていた。p97

これは若者で、旧来の信仰や秘儀を冒涜する涜神の輩が横行していることを意味するだろう。
父祖伝来の信仰に対する破壊者としてソクラテスが挙げられよう。
アルキビアデスソクラテスにかぶれて社会秩序の破壊者と見られていた。

アルキビアデス国粋的アテーナイ至上主義者として、在来外人を敵視し、その秘儀を茶化して冒涜していた半ぐれ集団の一員だったのだろう。

〔註〕もっとも有名なものにエレウシスの秘儀があるが、入会式には何かが唱えられ、見せられ、演じられていたらしい。この内容を明かした者は掟を破った者として厳しく罰せられた。

エレウシースの秘儀もフェニキア人が導入したもので、すべての死と再生の秘儀は、フェニキア人が、カドモスと入植した時にギリシア本土に持ち込んだものだろう。
紀元をまたいで、ヘルメース学やフリーメイソンに発展していく。

ペイライエウスの出港式

ペイライエウス港にて

アテナイ人たち自身はアテナイに来ていた同盟諸勢と共に、所定の日の夜明けにペイライエウス港に下り、出航のために船に乗りこんだ。p99

物量に安心する軍備

そして今や、・・・人々はこの遠征を投票決定した際よりもさらに強い恐怖感に襲われたが、遠征軍の各部門の物量を目撃するとその眼前にある力に元気づけられた。p99

ラッパで進軍するアテナイ

さて船の乗組みが終って、携行物資の積み込みもすべて完了すると、ラッパが鳴り静粛が命ぜられた。p99

アテーナイ人は、サルピンクスと呼ばれる現代のラッパで進軍した。
ラッパ最初の突撃命令を出すに適するが、足並みをそろえるには適さない。
ファランクスを組み整然と行進して戦う陸軍を発展させたラケダイモン人は、テーバイ帝室の時代から、木笛と歌(行進歌)によって戦った。
隊列を組み、整然と戦うことができてこれが音楽を生かしたフェニキア系の軍隊の強みである。

第4章 迎撃のヘルモクラテス

砂に首をつっこむシュラクサイ人

さて出航の報は八方からシュラクサイにもたらされたが、人々は長い間この報を信じようともしなかった。p101

ヘルモクラテス登場

そこでヘルモンの子ヘルモクラテスは、この件についてはよく知っていると考えていたので、人々の前に立つと次のように言って勧告した。p101

ここでシケリア遠征の敵キャラヘルモクラテスが登場する。
ラケダイモーン人のブラシダスやリュサンドロスより、また、アテーナイのアルキビアデスなどより人口に膾炙していないが、このアテーナイ帝国主義の野望を挫いた最大の貢献は、このヘルモクラテスであろう。
テーバイ人のデリオンの戦いも見逃せない。

シケロイ人との友好を提言

「それゆえ気を落すことなく、市内の物資をもって準備を整え、
シケロイ族に使節を送り、彼らの同盟都市とはその紐帯の強化を図り、
他の都市とは同盟あるいは友好関係の設立につとめなければならない。」p103

カルケドン(カルタゴ)に送使の提言

「カルケドンにも使節を送った方が良いと思う。
なぜならば、彼らは自分たちの都市にアテナイの侵略を予期していないどころか、かえって何時その来襲があるかと常に脅かされているからである。」p103-104

フェニキア人起源のキュクラデス諸島が、アテナイ帝国主義にいためつけられていることを、母国テュロスを通じて、カルタゴは既に知っていたのだろう。だから、シケリア島のカルキス系の都市は、友好関係にあるが、アテーナイに援護を送ることは論外であった。

またシュラクサイコリントス人の植民のため上流階級の多くは、フェニキア系ヘーラクレイダイなので、ヘルモクラテスフェニキア系であろう。ヘルメース神官の家系であり、ハンニバルを予告するようなフェニキア系の大同団結を提唱する。

「この状態を放置しておけば、必ず彼らの上にも災難がふりかかってくると考えるのは当然である以上、
方法は秘密であれ公然であれ、また他の方法を使用しても、我々を助けようとするであろう。」p103-104

ヘルモクラテスは、カルタゴが、アテーナイではなく、ドーリス系のシュラクサイを助けようとすると想定している。
まず、ヘルモクラテス自身がヘルメースの末裔を自称する家柄の出で、フェニキア系の可能性が高い。
それゆえ、水面下で、カルタゴの物資面からの助勢をとりつけていたのかもしれない

カルタゴこそ最大の軍事力経済力を所有する国

「しかも彼らこそその気になりさえしてくれれば、現在ではもっとも強力な都市なのである。
つまり彼らの金銀の豊富な所有量は、この戦争も他の事件も余裕をもって始末することができるほどだからだ。」p104

ヒメラの戦いで、シュラクサイに敗北して、シケリア島から撤退したのが前480年
次に、アテーナイが撃退され、カルキス系の都市が危機に陥った時に救援に赴くのが、前410年
この間のカルタゴ史はほぼ資料が残っていない。ローマに破壊されたからだ。
しかしこの70年カルタゴは内地を開拓し、都市が領域へと発展し、
前430年には、国力を復帰させるどころが拡大を遂げていた。

ラケダイモンとコリントスへも救援要請

「ラケダイモンにもコリントスにも使節を送らねばなるまい。
彼らには急遽来援を要請するとともに、ヘラス本土における動乱を促す必要がある。」p104

シュラクサイドーリス系だから、当然母市コリントスはじめ、ドーリス系の都市に救援要請するのは自然だ。
しかしヘルモクラテスは、おそらくフェニキア系だけに
フェニキア人=イオニア系(カルキス系)の味方という認識がない。
フェニキア人は、キュクラデス諸島の都市の創建者であり、イオニア人の祖であるとともに、ヘーラクレイダイの祖であり、(ヘーラクレイダイはテーバイ人=テーバイ帝室系、ラケダイモーンの二王家はヘーラクレイダイ×テーバイ王家の子孫)、つまりドーリス系の祖でもあるからだ。

第5章 アテナイ、イタリア沿岸都市の不歓迎

同盟のタラス市沖でアテナイ海軍を向い討つ

「タラス市沖およびイアピュギア半島沖にてアテナイ勢に挑戦するということである。
もしこれが実現されれば、敵は驚き、我々は好意のある土地にーつまりタラス市は我々を受け入れているのでー基地を置いていることを敵にはっきり判らせるであろう。」p104

タラス市は、ラケダイモーン人の植民で、ドーリス系の都市である。
そしてイオニア海を渡ってきた最初の玄関口である。
そのタラス市が、アテーナイの上陸を拒否する算段である。
タラス市は、ハンニバル戦争時、ローマに制圧されタレントゥムとラテン語に都市名を変えていたが、上流階級は、フェニキア系ラケダイモーン人であったので、ハンニバルを受け入れ共闘した。

イタリア沿岸都市、アテナイを敵国扱い

イタリア沿岸都市水と投錨権のみ許す

全軍はそれぞれ順調な航海の後にイアピュギア岬とタラス市沖に達し、
そこからイタリア沿岸を航行したが、イタリア半島突端のレギオン市に到着するまでは、その都市もアテナイ勢には水と投錨権以外には、市場、市街地ともにその扉を閉じ、p113

タラス市とロクリス市、すべて拒否

タラス市とロクリス市にいたっては水と投錨権さえ拒絶した。p113

ドーリス系のタラス市とロクリス市は、「水と投錨権」すら認めなかった。

レギオンで初めて市場と陸揚げが許可される

レギオン市にようやくアテナイ勢は集結したが、市内の立入りが禁止されたので、市外のアルテミス神域に陣を張って宿営した。
そしてそこに彼らのために市場が設けられ、船も陸に引き上げられて、アテナイ勢は休息した。p113

一応、カルキス系のレギオンにおいて、初めて、上陸が許されたが、さりとて、市内への立入りは許されなかった。
いかに、悪辣なアテーナイ帝国主義の本性が、フェニキア系の諸都市にバレバレであったかがわかる。

レギオン、中立を主張

しかしこの間にもレギオン市とは交渉を行ない、レギオン人はカルキス族として、他のカルキス族レオンティノイを助けるべきであると主張した。
これに対してレギオン人はどちらの側にも味方をしないと言明し、他のイタリア語都市の決定にならってレギオンも行動するであろうと回答した。p113

レギオンは、シケリア島のカルキス系諸都市を助けるべきとのアテーナイに、同胞のカルキス系諸都市を助けたいのはやまやまだが、うしろにアテーナイの野盗がついているから、中立を保つというスタンスである。
すでにヘルモクラテスによって、水面下で中立要請がなされていたのであろう。

アテナイ三将軍、戦略で論争

エゲスタの詐欺

エゲスタの手持ちの金は僅か三十タラントン位であることを報告した。p114

エゲスタに騙されたことが判明。
大詐偽団体アテーナイが、小さな詐欺師に騙された。
しかし、これは自ら望んで騙されたのである。エゲスタを助ける気など端からなかったのだから。

ニキアス説:エゲスタ・セリヌスの和解のみ

ニキアスの見解は、今次遠征の種目的であるセリヌス市に全兵力で向い、・・・そのエゲスタ市との和解を、成立させ、・・帰国するということであった。p115

ニキアスの献策は、賢明の限りである。
ここで、正義の立場をとって、エゲスタとセリヌスを和解させて帰国すれば、ローマのように、世界の警察への道も開けたかもしれない。

アルキビアデス説:全シケリア離反作戦

一方アルキビアデスは、・・・シケリアの全都市をシュラクサイから離反させるように仕向け、・・・まずメッセネ市をその手始めとするとこを主張した。・・・シュラクサイとセリヌス市を攻撃すべきであると説いた。p115

無謀無責任のアルキビアデスは、強大なシュラクサイと全シケリア連合軍との全面戦争を検索する。

ラマコス説:シュラクサイ直行

ラマコスは、シュラクサイに直行し、敵の準備がまだできていないで狼狽しているうちに早急に討つべきであるという意見であった。116

ラマコスは、先手必勝策で、これもニキアスの次点としてよい。

バカのアルキビアデス説採用の愚

ラマコスは以上のように自説を明らかにしたが、それにもかかわらずアルキビアデスの意見を支持した。117

ラマコスは、アルキビアデスに与して、アテーナイ終わった。

アルキビアデスに帰国命令

そこで彼らを待ち受けていたのはアテナイからの公用船サラミニア号で、それはアルキビアデスに対して帰国命令を持って来ていた。p119

アルキビアデスに帰国命令がでて、アルキビアデスは責任のがれして、同胞を大惨事に投げ込みながら元凶の自分だけ助かる。

第6章 「僭主殺害者」の真実

ハルモディオスとアリストゲイトンの事件は僭主殺害事件ではない!

つまりハルモディオスとアリストゲイトンの挙はたまたま恋愛関係のために起った事件で、
つまり老ペイシストラトスの死後、その僭制政体で君主になったのは、多くの人が思っているようにヒッパルコスではなくて、その兄にあたるヒッピアスだからである。p119-120

ペイシストラトス一党の単なる内輪もめであったハルモディオスとアリストゲイトンの事件「僭主殺害事件」に仕立てたのは、アルクマイオーン家のクレイステネスだったから。

ペイシストラトス一党は善政の典型

ヒッパルコスは大衆に善政

ヒッパルコスは何かあからさまには判らない方法でハルモディオスに恥をかかせようとは考えたが、もちろん暴力を使う気はなかった。
なぜならばヒッパルコスは他の施政面では大衆に対して乱暴でなく、反感をかうようなことはなかったからである。p120

ヒッパルコスも、大衆には善政を行なっていた。

ペイシストラトス一党の善政:わずか5分の税金で公共事業

事実これらの僭制君主たちは明敏で有能な能力をもっともよく発揮して、わずか五分の税金をアテナイ市民から徴収したのみで、自分たちの都市を美化整備し、戦争を完遂し、神殿に奉物を献じた。p120

ペイシストラトス一族の善政の象徴 「五分の税金」

〔註〕当時は一割の税金がほぼ通例であったので、この五分の税金はとくに低く見えた。

ふつう当時のギリシア諸都市でも、現在の日本同様、税10%だが、ペイシストラトス一族税5%で、どの都市よりすごい公共事業を提供した。
ペイシストラトス公共事業や文化育成など平和的な方法で、アテーナイを大発展に導いて企業利益から市民に減税を実現できた。

執政官職独占以外の違法行為なし

他の面ではアテナイ市は従来通りの法の下に自らを置いていたが、法に反した例外は、僭制君主一族の誰かが常に執政官職にあるように仕組まれていたことだけである。p120

ペイシストラトス一族の僭主政治は、ペリクレスの「公民政治」なるものより、100倍民主的であった!
フェニキア系と共闘したペイシストラトス一族は、女性も大切にした。市民も、外国人も、他国も、すべて共存共栄の思想で統治した。

僭主はヒッピアスであってヒッパルコスではなかった

ヒッピアスの子ペイシストラトスが執政官

オリュンポス12神の祭壇は全ヘラス共和の象徴!

僭制君主ヒッピアスの子として祖父の名を持つペイシストラトスは、
自分が執政官の時に、アテナイ市場とピュティアスのアポロンの神域に十二神の祭壇を建立した。p120

オリュンポス12神の発想は、ペイシストラトス一族のアテーナイ統治時代からか?!!!
アポローンの神域ということは、この一族はアルテミス神域のブラウロン出身なだけに、アポローン・アルテミスを祀るアイオリス系であったからだ。ピュロスからのアイオリス系王族の子孫。それもフェニキア系のテーバイ帝室と共闘していたアイオロス王家の一分枝。
古典時代になっても、それゆえアイオリス系のペイシストラトス一統テーバイ系のラケダイモーン王家は、蜜月関係であった。なぜならエレウシースの秘儀を導入し、ディオニューソスの秘儀も導入している。これら二つの秘儀は、フェニキア人の導入である。

オリュンポス12神の起源

トゥキュディデス下巻P120-121に、(「トゥキュディデスの第六巻54章」
次の記述がある。

「僭制君主ヒッピアスの子として祖父の名を持つペイシストラトスは、
自分が執政官の時に、アテナイ市場とピュティアスのアポロンの神域に十二神の祭壇を建立した。」

これは、各都市がそれぞれの主神を祀っていたギリシア諸都市が、共通で崇拝できるパンテオン体系を、ペイシストラトス一統が創始したことを証拠づけよう。
全ヘラス共存共栄の社会を目指したのである。
彼らがアイオリス系だったため、アテーナーを贔屓せず主神アポローンとした。
友好国のラケダイモーンでも、ヘーリオスアポロン・アミュクラオスに継承させたのは、このころであろう。もともとのアミュクライの主神は、生え抜きの創始時は、ヘーリオステーバイ帝室がラケダイモーン王家を内部征服してからは、ヒュアキントス王アミュクライオスであったようだ。
ペイシストラトス一統と共闘して、アテーナイから多数の上流階級の通婚がなされた時期に、アミュクライオスがアポローンとなったと想定できる。

このあたりから、テーバイ帝室の主神ヘーラーと婿殿ゼウス、またその子ヘーラクレースから、アポローンが主神の地位をさらっていったのであろう。

ヒッピアスの子ペイシストラトスの執政官就任の証拠

後にアテナイ公民派が市場にあったこの祭壇を拡張した時に、前からその上に刻まれてあった碑文を抹消してしまったが、
ピュティアスの祭壇の方は読み難くはあるが今でも次のように読める。
「ヒッピアスの子、ペイシストラトスはその執政官の碑をピュティアスのアポロンの神域に建立せり」p121

僭主の地位は、長男のヒッピアスが継ぎヒッピアスの子ペイシストラトスが、それを後継するという形であった証拠がある。

ヒッピアスが長男で、僭主の後継者

ヒッピアスの妻はカリアスの娘でミュリネ

アテナイ市のアクロポリスに立っている僭制君主の悪行を記した祭壇と石碑が明らかにするところによると、ヒッピアスの兄弟で庶子でない者の中ではヒッピアスだけが子供を持っていたらしく、この子供たち五人はヒュペロキデスの息子カリアスの娘ミュリネを母としているからである。p121

ヒッピアスは長男

つまり長男が最初に結婚したとみるのが自然で、この同じ石碑にヒッピアスの名前はその父親のすぐ次に刻まれてあるが、これとてヒッピアスが長男で、僭制君主の父の後を襲ったからこそ当然のことである。p121

僭主はヒッピアスだけで、ヒッパルコスは僭主の弟にすぎなかった。
それを「僭主暗殺者」の像を建立することで、僭主政を打倒を捏造したのは、アルクマイオーン家のクレイステネスである。

事件後初めて厳しい政治

この事件後はアテナイ市民に対する僭制政府の圧迫は厳しくなり、ヒッピアスは恐怖からますます多くの市民を殺害し、さらに革命の起きた場合に何か安全を守る策を講じておこうと国外にすでに目を向けていた。p123-124

ヒッピアス初めて圧制に転じるきっかけとなった「ヒッパルコス殺害事件」は、アルクマイオーン家のクレイステネスによってしくまれたものであった。
その経緯は周藤先生の本にくわしい!

亡命準備の賢明なヒッピアス

ランプサコスの僭制君主に娘を嫁がせる

後にランプサコス人でランプサコスの僭制君主ヒッポクロスの子アイアンティデスにヒッピアスは、自分がアテナイ人であるにもかかわらず、我が子を嫁がせた。
そのわけは彼らがダレイオス王に強い影響力を持っているのをヒッピアスが知っていたからである。p124

聡明なヒッピアスイオニア亡命の準備を怠らない。
後にランプサコスに嫁がせた娘の近くにシゲイオン本拠を構えて、ペルシア戦争を利用して捲土重来を計る。

ヒッピアス、ランプサコスとシゲイオンで余生を過ごす

ヒッピアスはそれから三年もアテナイに僭制政治を布いていたが、四年目にラケダイモン人と亡命中のアルクメオニダイ一族の手で僭制体制を倒されたので、この者たちの了解の下にシゲイオンに行き、さらにランプサコスのアイアンティデスの地に渡った。
ここからダレイオス王の下に走り、それから二十年後に年老いてペルシア軍と共にマラトンの戦いに参軍している。p124

ヒッピアスは、一族の女子の命を尊重して、アテーナイから撤退し、ランプサコスの近隣のシゲイオンで、余生を安泰に送った。ペルシア戦争にも参加したが、戦死した形跡はない。
シゲイオンに帰って、平和に余生を送ったようである。

第7章 ヘルモクラテスとアルキビアデス/カマリア争奪戦論争

アルキビアデス、ばっくれ敵ペロポネソス陣営へ

アルキビアデスは自分の船でサラミニア号とともにアテナイに赴くという名目でシケリア島を離れ、トゥリオイ市まで来たが、サラミニア号の後に従わず、姿を消した。
その後間もなくトゥリオイ市からペロポネソスに渡航した。127

自分がはじめたバカげた戦争の責任を取らず、旗色のいいペロポンネーソス側について、自国アテーナイを攻撃するゲスアルキビアデス

カマリナ市争奪戦論争:ヘルモクラテスVS

論者はヘルモクラテスとエウペモス

そこで彼らの前に立ったのはヘルモンの子ヘルモクラテスであった。この男は諸事に関し誰にも劣らず聡明で、とくに軍事に関しては十分な経験と抜群の勇気を持っていた。p135-136

アテナイ使節団のエウペモスが以下のように述べた。p143

カマリナ市争奪戦

ヘルモクラテスの演説:アテナイ人はカルキス人を大切にしない!

カマリナ市の会談が開かれた。ヘルモクラテスはまず先にアテナイを非難するために、次のように語った。p138

カルキス市と娘市レオンティノイ市について

「エウボイアのカルキス市をアテナイが支配下に置いている以上、その直接の植民都市であるカルキス系のレオンティノイ市を、同族という理由でアテナイが特別な考慮を払うとする考えの根拠はどこにもない。」p139

カルキス系アテーナイの同族ではない。不倶戴天のテーバイ帝室系である。
イオニア人は、テーバイ帝室系×アイオリス人であり、アテーナイ人の末裔ではない。
それはアイオロス王家の一分枝ピュロス王家が、アテーナイを支配していた時の植民である。
イオニア人=アテーナイ人の同族は、アテーナイ捏造班の捏造である。
エウボイアでもアテーナイは、カルキスではなくエレトリアに味方している。
カルキスの同族はアテーナイの不倶戴天の敵テーバイ帝室系であり、エレトリアは、当時のアテーナイ王家のアイオリス系である。
そのギリシア本土のカルキス人の馬を巻き上げておきながら、エレトリア人すら残酷に搾取しておきながら、イオニア人がアテーナイ人の同族はない。
古典期のアテーナイは、アルクマイオーン家とアイアキダイの奴隷である。

ギリシア本土のカルキスシケリアのカルキス系諸市の母市を、奴隷占領しているアテーナイ人が、シケリアのカルキスの植民市レオンティノイ助けるわけがない。
ヘルモクラテスは、お見通しであった。

アテナイのエウペモスの反論

アテナイ使節団のエウペモスが以下のように述べた。p143

レオンティノイ市には軍事力の貢納要求「アテナイ帝国の合理支配の原則」

「同じ観点から、レオンティノイ市の復権も理解できるのであって、
彼らはエウボイアにある彼らの同族都市のようにアテナイの隷属都市とはならず、可能な限り強力な都市として復権され、シュラクサイ市に隣接して、我々のためにその邪魔となってもらうことが目的なのである。」p146

軍事力でアテーナイに貢献してもらう都市は、隷属させない
メロス市に提示したアテーナイ帝国主義の「合理的支配」の論理である。
軍事力を貢納するか財力を貢納するか、いずれにせよアテナイ帝国の属国

軍備を持たせず貢納金を使って枷を作るアテナイの自白

かの地カルキス系諸都市は何ら軍備を持たずに我々に貢金だけを支払っていれば我々にとってそれが都合が良いからであり、この地においては、レオンティノイ市およびその他の都市にできるだけ独立した友好国となってもらうことが我々の利益なのである。p146

絶句!アルキビアデスの「真の愛国者」

「真の愛国者とは、己れに不正を働いた母国に刃向かうことを拒絶する者を指すのではなくて、望郷の念から、あらゆる手段を講じて祖国を取り戻そうとする者のことである。」p156

アルキビアデスにとって故郷とは自分の支配するアテーナイであろう。
アルキビアデスは、アテーナイ人をシケリア遠征や本土の戦いでも大量に殺すことに尽力した。いずれアテーナイが、アルキビアデスを必要として召還させるためである。
ラケダイモーン人は、いずれアルキビアデスが裏切ることを、明確に理解したであろう。
つまりアルキビアデス究極のエゴイストである。
アルキビアデスの祖国とは自分ひとりの謂いである!

第17年目の終り

トゥキュディデスの記録した本次戦争の第十七年目も終った。p157

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