第7巻の概要
①デモステネスの参戦
②アテーナイ軍の撤退地獄、愛国者デモステネスと不運なニキアスの最後
第1章 デモステネスの参戦
ラケダイモーンの将軍ギュリッポスの援軍参戦
ラケダイモン人の派遣したクレアンドリダスの子で司令官のギュリッポスの来航を告げた。p169
ギュリッポスとシュラクサイ勢の突然の襲撃に初めはアテナイ勢は慌てたが、早速、抵抗の戦列を布いた。
ギュリッポスは「神域台地」と呼ばれる所に部隊を導き、そこで宿営した。p170
ギリシア本土のラケダイモーンから、ヘルモクラテスの援軍要請に応じて、ギュリッポスが派遣されてきた。
ニキアス、解任要求の手紙を書く
ニキアス、アテナイに書簡
アテナイに派した使者たちが、口下手であったり、記憶があいまいだったり、あるいは大衆を喜ばせるために真実を報告しないことを恐れたニキアスは書簡を書いた。p174
僚将デモステネスら派遣
それを聞いたアテナイ人はニキアスの解任を認めなかった。
そしてニキアスの正式の僚将としてアルキステネスの子デモステネスとトゥクレスの子エウリュメドンを選出した。p179
第十八年目
トゥキュディデスの記録した戦争の第十八年目もこうして終わった。
ボイオーティア勢の援軍到着
テーバイ人指揮官のボイオーティア勢、ラケダイモン側の遠征に参加
ラケダイモン人は農奴と自由民から選んだもっとも質のよい者たち六百名を重装備させ、スパルタ人エックリトスを隊長として送り、
ボイオティアは三百の重装兵を送った。この指揮官にはテバイ人クセノンとニコンおよびテスピアイ人ヘゲサンドロスがなっていた。p181-182
エパミノンダスがカドモス末裔名乗ったように、テーバイ人はフェニキア人の意識があったから、当然フェニキア本国やカルタゴとも連絡は頻繁にあっただろう。
当然、カルタゴは、シケリア島の戦争に中立を守ったのだろう。
ラコニアのタイナロン河から海へ
さてこうしてこの船団は第一部隊としてラコニアのタイナロン河から海に出ていった。p182
シュラクサイ、ラケダイモーン連合軍、海軍創設決意
一方、シケリア島では・・・ギュリッポスがシュラクサイ市に帰って来ていた。
そこでシュラクサイ人はギュリッポス、ヘルモクラテスその他の者に説かれて海戦を試みることに決意して、船の取り組みを始めた。p184
窮地のアテーナイ人、残虐戦法採用
プレンミュリオン防砦失ってアテナイ劣勢に
プレンミュリオンにおける敗退は、アテナイ軍が劣勢に立たされる転機となる最大の原因となった。
つまりこの機に到ってはもはや物資が安全に供給される人口をアテナイ側は失ってしまい・・・p186
アテナイ、トラキア傭兵に帰路破壊を命令
二九 そこでデモステネスの出航に間に合わなかったトラキア勢は、・・・
ディエイトレペスがこのトラキア勢の指揮官をつとめていたが、アテナイ人はこのディエイトレペスに、・・・・・・その途上可能な限り敵に損害を当るように命じた。p190-191
トラキア人、ヘルメース神殿に宿営してミュカレッソス市襲撃
(トラキア勢は)まずタナグラに上陸し、・・・略奪した。
それから夕刻になってエウボイアのカルキスからウポリスに渡り、ボイオティアに上陸し、ミュカレッソスに手勢とともに向った。
そして一夜を発見されないままに、ミュカレッソスから約一六スタディオンの所にあるヘルメス神殿で過し、夜明けと同時に小都市ミュカレッソスに行って、無防備のこの都市を急襲したが、それまで海から上ってきた敵にこのような攻撃をしかけられた経験はミュカレッソス人になかったので、予想だにしていなかった。p191
このころボイオーティアにヘルメース信仰が浸透。
ミュカレッソスのヘルメス神殿
〔註〕このヘルメス神殿はテバイ市からミュカレッソスに向う街道にあり、ミュカレッソスから約三キロの地点。
残虐なトラキア人
あまつさえ彼らはこの地区で一番大きな学校を襲って、登校したばかりの子供たちを残らず殺害した。p191
野盗アテーナイ人の手先のトラキア人は、非戦闘員の子どもも殺す。
ボイオーティアの警察テーバイ人
さてこれを知ったテバイ人は早速救援に赴き、・・・
トラキア側の損害の総数は全兵力千三百名の中で二百五十名で、救援に赴いたテバイ人その他の損害は約二十名であった。
この中には騎兵、重装兵それにテバイのボイオティア連盟長官スキルポンダスも含まれていた。しかしミュカレッソスの人工の相当数は失われた。p192
ボイオーティアの警察が、テーバイ人であったことは確かである。
しかも、テーバイ人はなかなかやる。それほど舐めるなよ。
デモステネス、イオニア諸島経由でシケリアへ
デモステネス、イオニア諸島で徴兵後、アナクトリオンへ
この後デモステネスはザキュントスに到り、ケパレニア重装兵を自軍に編入、ナウパクトスよりメッセニア兵を召集し、大陸側の対岸に渡って、アカルナニア地域に上陸、・・・従来アテナイの支配下にあったアナクトリオンに入った。p192-193
アナクトリオンとは?
〔註〕アナクトリオンはコリントスの植民都市であったが、前四二五年にアテナイとアカルナニアが協力してこれを奪い、異語族アカルナニアが統治してきた。
デモステネスは、窮地のニキアスを救援するために、死地シケリア島に派遣された。
デモステネスもニキアスも、アルクマイオーニダイでも、アイアキダイでもなかったから、犠牲にされたのだろう。
イオニア三島のこの領域は、完全にアテーナイ人が制してした。
住民は、アテーナイ人(もとダナオイ人)と共闘のアカイア系である。
アカルナニア人は、アカイア人の子孫であろう。
デモステネス、トゥリオイに上陸
デモステネスの僚将エウリュメドンと合流
この作戦に専念していたデモステネスの所にシケリア島からエウリュメドンが現われた。
さてエウリュメドンはすでにデモステネスの僚将として任命されていたので、ここで早速その任に就いて、二人で船団の編成に努力することになった。p193
トゥリオイに上陸
ちょうどトゥリオイではその少し前に内乱があって、反アテナイ派が追放されたところだったので、・・・アテナイ勢はここに留まり、諸事の進行を計った。p195
トゥリオイは、アカイア人の植民市であった背徳の都市シュヴァリスの跡地に建設された南イタリアの都市であり、ペリクレスが大植民団を仕立ててアテーナイ人が植民していた。
ヘーロドトスもその一人であった。
従って、アテーナイシンパであった。
第2章 アテーナイ軍、撤退地獄
アテナイ船とコリントス船の違い
コリントス船の厚い舳先
これは船衝戦法にコリントス側が通常より厚い舳先を用意して当ってきたために、船側上部が破壊されたことによるものであった。p196
太短い舳の厚いキャットヘッド
前回の海戦の経験から有用と思われることは取り入れ、舳を切って短く丈夫にし、その両脇のキャットヘッドを厚くし、・・・コリントス船がそのキャットヘッドに採用した型である。p197
迂回して船腹貫通の為の長くもろい舳
この理由は、シュラクサイが、アテナイの船は強度において劣っていることを悟り、舳と舳をぶつけあう戦法の目的よりも、迂回して敵の船腹にあたる戦法用に船が作られていて、その舳は長く鋭く、しかしそれだけに強度が足りないことを知っていたからである。p197
衝舳戦法VS転船戦法と破舷戦法
シュラクサイ側は敵の弱い船体に補強して厚くしたキャットヘッドを打ち当て、衝舳戦法を使って敵船の首部を破壊できるが、アテナイ船は港内が狭いためにその得手とする転船戦法も破舷戦法も起用できないからであった。p197-198
転船戦法
〔註〕転船戦法とは船足の速さを利して急速に船を敵船の廻りで一回転させ、敵の船腹に舳先を当てる戦法。
破舷戦法
〔註〕破舷戦法は敵の船とすれ違いざまに敵の舷側を破壊して、敵船を航行不能にする戦法。
コリントス船団は、太短い厚い舳先(キャットヘッド)を利用した伝統的な「衝舳戦法」であり、
アテーナイ船団は、ポカイア人がペルシア戦争で発明した「転船戦法」であった。
しかし、港内が狭いため、「転船戦法」が利用できなかったのである。
アテナイ人、撤退行軍の地獄
ドリス族の戦勝歌で混乱
しかし被害の最大の原因は戦勝歌にあった。
つまり、アルゴスとケルキュラ人はドリス族でありながらアテナイ側に味方していたので、彼らが戦勝歌の喊声をあげるたびに、それが敵の戦勝歌にそっくりで、アテナイ人を驚かしたからである。p206
撤退経路の選択ミス
海路撤退を提唱するデモステネス
そこでデモステネスは、・・・総撤退を提案し、
救援に来たアテナイ船を加えてアテナイ船団がまだ敵に勝てる可能性があれば、海を通れる間に早速、躊躇せずに行動すべきであるとした。p207-208
ニキアスが優柔不断で壊滅
ところがニキアスが同意を示さなかったので、何かニキアスがその考えの根拠になるような情報を手にしているように見え、即時引揚げを主張する者に一種の自信のなさと躊躇が生れてしまったのである。p210
ニキアスの判断で引き揚げ遅れる
早急に引揚げなかったことを後悔しはじめ、ニキアスとてもはや自説に固執することはなく、・・・p211
デモステネス、海路強行脱出を提案
アテナイ人たちはあまりの現状のひどさに、死体や漂流物資収拾を申し入れることも忘れて、夜半ただちに撤退しようとした。
しかしデモステネスはニキアスの所に来て、現在でも使用できる残されたアテナイ船の数は敵船よりもまだ多いのであるから、できるならばこれらの船にもう一度兵士を乗組ませて、夜明けと同時に再び港外強行脱出を試みようと提案した。p230
兵士たち乗船拒否
ニキアスもこの案に賛成して、彼らは兵士に船の乗組み方を要求したが、船員たちは敗戦に完全に士気を失い、勝算のありようはずもないと乗船を拒否した。p230
敵の情報に撤退を延期する
彼らはこの話を信じ、この情報に基づいてその夜は行動を起さなかった。
しかもどうおせただちに移動を開始しなかった以上は、あと一日滞留して、将兵ができるだけ便利なように荷造りをし、余計な物資tを捨て、撤退時に必要な身の回り品だけを携行できるようにすることに決した。p231
勇敢なデモステネスは、海上からの即時撤退を一貫して主張していたが、ニキアスの優柔不断によって、海上撤退が却下され、しかも、陸上撤退も、ぐずぐずしていたために大惨事を呼び込んだ。
アテナイ軍の降伏
デモステネスの降伏
しんがりデモステネス
先頭の部隊をニキアスが率い、しんがりをデモステネスが指揮した。p235
デモステネス、条件降服
この後、デモステネスの指揮する全部隊との間に、アテナイ側は武装を完全に解除し、シュラクサイ側は暴力、投獄、必要品欠乏などによる殺人行為を行なわないという条件で降伏条約が結ばれた。
この条約に基づいて武装解除した者は総計六千人ほどであった。p240
ニキアスの降伏
ニキアスに降服勧告
その翌日シュラクサイ勢はニキアスに追いついて、デモステネスが降伏したことを伝えて、ニキアスも同じように降伏するよう要求した。p241
ニキアス、ギュリッポスに降服
ニキアスはシュラクサイ人よりもギュリッポスを信頼していたので、ギュリッポスに自分の身柄を預けた。そしてギュリッポスとラケダイモン人に、自分は彼らの思い通りの処遇を受けてかまわないが、他の将兵は殺さないように要請した。p242
おそらくニキアスは、ラケダイモーンのギュリッポスと客人関係にあったのだろう。
デモステネス、ニキアスの処刑
石切場に投獄
そして捕えられたアテナイ人とその同盟軍諸兵は石切場に投獄された。
シュラクサイ人は石切場が囚人を入れておくのに一番安全だと考えたからである。p244
ギュリッポスの反対に関わらず2将軍処刑
ニキアスとデモステネスはギュリッポスの反対にもかかわらず殺された。
つまりギュリッポスの反対した理由は、敵の将軍をラケダイモンその他の地に連れ帰ることこそこの戦いの栄光であると考えていたからである。p244
デモステネスとニキアスの立場
それはたまたまデモステネスはピュロスとスパクテリア事件でラケダイモンにとっては不倶戴天の敵であり、またニキアスはこの同じ事件でもっともラケダイモン人に好意を示した者であったからである。p244
ニキアスとデモステネスは、ラケダイモーン人ギュリッポスの反対にかかわらず、シュラクサイの意向で処刑された。


コメント