著述 本29 引用テンプレ  長谷川修一「聖書考古学」

本の内容

著者:長谷川修一
書名:「聖書考古学 遺跡が語る真実」
出版:中公新書
出版年月日:2013年2/25
最新刊:2019年3/5

目次

第一章 聖書はなぜ書かれたか
第二章 考古学は聖書について何を明らかにするか
第三章 アブラハムは実在したか
第四章 イスラエルはカナンを征服したか
第五章 民族の栄光と破滅
第六章 一神教の形成からキリスト教へ
第七章 聖書と歴史学・考古学

引用文

要約本文
11章目次第一章 聖書はなぜ書かれたか3
11節目次旧約聖書と新約聖書の違い3
11旧約聖書の構成旧約聖書は大きく三つ、「律法」、「預言者」、「諸書」に分けられる。これら三つの部分はヘブライ語でそれぞれ「トーラー」「ネヴイイーム」「ケトゥヴィィーム」と呼ばれる。5-6
11「律法」=「モーセ五書」「律法」は「モーセ五書」とも呼ばれる。6
11「預言者」の二分割「預言者」は「前の預言者」と「後の預言者」の二つに大別される。6
11前の預言者
後の預言者
前の預言者は「ヨシュア記」、「士師記」、「サムエル記」、「列王記」から成り、
「後の預言者」は「イザヤ書」、「エレミヤ書」、「エゼキエル書」そして「一ニの小預言書」と呼ばれる書物の集まりである。
6
11前の預言者
後の預言者
「前の預言者」はイスラエル民族のたどった「歴史」を綴っており、「後の預言者」は民族史上に登場した預言者たちの言動や活動の記録を集めたものである。6
11「諸書」そして「諸書」は、上記以外の書物である。これには「詩篇」や「雅歌」などの詩歌、「箴言」や「コヘレトの言葉」など、神や美徳に関する知恵の確言を集めた知恵文学が含まれている。6
12節目次古写本が語る複数の「聖書」の存在9
12最古のファクト
レニングラード写本
現在私たちが手にする旧約聖書の原本は「レニングラード写本」と呼ばれ、今から一〇〇〇年ほど前の一〇〇八年に書き写されたものである。9
12より古い断片実は、旧約聖書の一部に限って言うなら、レニングラード写本よりもさらに古い写本は存在する。11
12死海写本さらに一九四七年から一九五六年にかけて、今日のイスラエルとヨルダンの国境にまたがって存在する死海の北西に点在する一一の洞窟から約八五〇巻の巻物が見つかった。一般に「死海写本」と呼ばれるこれらの巻物には旧約聖書の古い写本が含まれていた。11
12ギリシア翻訳/前3-1世紀旧約聖書は、紀元前三世紀から紀元前一世紀にかけてエーゲ海のアレクサンドリアでギリシア語に翻訳された。12
12ユダヤ人がヘブライ語を解さない聖書がヘブライ語からギリシア語に翻訳された背景には、ユダヤ人の中にヘブライ語を解さない者が増えてきたという事実があった。
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これは、ユダヤ人、ユダヤ教徒に、ギリシア語やフェニキア語しか解さない人々、つまり旧フェニキア人・カルタゴ人が流入したからではないか。
12
12「七十人訳」今日このギリシア語訳は「七十人訳」と呼ばれている。この名は、七ニ人の訳者が七ニ日間で翻訳を成し遂げたからだ、という伝承に基づいている。12
12七十人訳/紀元4-5世紀写本現存七十人訳の完全な写本には、レニングラード写本よりはるかに古い紀元四-五世紀の写本がある。12
13節目次旧約聖書はいつ書かれたか13
13フェニキアのアルファベット以降ヘブライ語は、イスラエルの北隣のフェニキアで発展したニニ文字から成るアルファベットを用いて書かれた。14
13前9世紀以降考古学的データは、古代イスラエルにいつ文字が普及したかを示している。パレスチナにおいて土器などにヘブライ語のアルファベットが刻まれ始めるのは、いくつかの例外を除いて紀元前九世紀で、紀元前八世紀に入るとその数は飛躍的に増える。16
13前8世紀以降に書かれた旧約聖書中の最も古い部分は、紀元前八世紀以降に書かれたのではないかと想像されるのである。
16
13分裂王国時代紀元前八世紀というのは、古代イスラエル史における、「分裂王国時代」に当る。
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北イスラエルに、イゼベルが、フェニキア文字を伝えたのはヘブライ語が文盲を脱却した始まりであろう。
16
14節目次「申命記」史家の活動18
14「申命記」史家仮説   このように、列王記には描かれた事件の解釈として書き手のメッセージが述べられている部分があり、事件を端的に描く部分と時として明確に区別できる。このようなメッセージの部分に使われている語彙やそこから汲み取れる思想を分析した結果、一人の人物が列王記の編纂に関与していた、という仮説が生れた。19-20
14「申命記」から「列王記」の5書が一人の手による説この仮説を唱える研究者たちは、この人物が列王記の編纂のみならず、「モーセ五書」最後の書である「申命記」から列王記にいたる一連の書物の編纂に積極的に関わったと結論したのである。20
14マルティン・ノートの説この説を最初に声高に主張したのはドイツ人のマルティン・ノートという研究者であった。一九四三年のことである。20
14「申命記史」ノートは申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記をまとめて「申命記史」と呼んだ。20
14申命記に特徴的な思想申命記史中に顕著な語彙が用いられ、申命記に特徴的な思想に調和した文言がこれらの書物にちりばめられているからである。20
14「申命記史観」そしてノートは、申命記を編纂した人物を想定し、これを「申命記史家」と呼び、同人物の歴史の見方を「申命記史観」と名づけた。
換言すれば申命記史は申命記史観に基づいて編纂された書物、と言えよう。
20
14申命記史家=
「バビロン捕囚」時代人
ノートは、申命記史家が活躍した年代を紀元前五八六年のユダ王国滅亡後の時代、と考えた。王国滅亡により、ユダ王国のエリートたちはバビロンへと連行され、そこに住まわせられた。いわゆる「バビロン捕囚」である。20
14「罪と罰」という思想ノートによれば、捕囚のユダの民は、何が自分たちをこのような運命に定めたのか、考えた。
そしてそこに「罪と罰」という思想を当てはめたのである。
20
15節目次ヨシヤ王と政治的プロパガンダ23
15「良き王」ダビデ列王記に登場する数多の王のうち、最も良き王として描かれているのは、ダビデである。23
15「良き王」ヨシヤ王ダビデに匹敵するほどの良き王として描かれている人物が列王記には登場する。ヨシヤという王である。24
15ヨシヤの治世の一部が非常に詳しい列王記はヨシヤの治世の一部を非常に詳しく記述している。24
15大祭司ヒルキヤ列王記下ニ二章三ー八節によれば、ヨシヤは治世第一八年、エルサレムの神殿を修復するため、そこに書記官シャファンを遣わした。すると、神殿の大祭司ヒルキヤはシャファンに、神殿で「律法の書」を見つけた、と告げた。
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そんな大事なものなら厳重に保管してるだろ、何で見つけんねん!
24
15「律法の書」発見によって儀式を創設列王記によれば、この「律法の書」はモーセが書いたものであったにもかかわらず、長年失われていたものであった。この「発見」によって、以後この「律法の書」に基づいて儀式が行われることになった、と列王記はのべている。
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サドカイ派的儀式を創設したのが、このヨシヤ王だとする。
つまり、ヨシヤまでの王は、ヘブライ人特有の儀式を持たなかった。
25
15「発見された律法の書」とはモーセ五書の最後の書「申命記」ここで言及されている「発見された律法の書」とはモーセ五書の最後の書「申命記」である、と古代から言われており、現代の研究者も異論なくこの説を受け入れている。25
15「唯一つの聖所」の必要性そして思想の上でも、「唯一つの聖所」の必要性を訴える点で他の四書と大きく異なっている。25
15エルサレムを独占神殿に(独善的原理主義の創設?)ヨシヤはこの「発見された律法の書」に基づき「宗教改革」を行なったとされる。これまで「聖所」と呼ばれる神を崇拝する施設がユダ王国の各地にあったが、この改革でこれらすべて破壊された。そしてエルサレムの神殿だけが、全イスラエルの神を崇拝し、犠牲を捧げることのできる唯一の公式の場所として残されたのである。25
15ヨシヤの「中央集権の強化」ヨシヤの宗教改革の真の目的は、「崇拝のエルサレムへの集中」を通しての「中央集権の強化」であったと見ることも可能ではなかろうか。25
15北イスラエル領内のベテルの聖所破壊ヨシヤは宗教改革の名のもとに「ベテル」という場所にあった聖所を破壊している。
ベテルはエルサレムからは遠くないが、ユダ王国の領内ではなく、かつての北イスラエル王国の領内にあった。
26
15ヤロブアム一世=北イスラエル王国建設の初代王列王記上一ニ章によれば、ベテルの聖所は、ソロモンの死後、北イスラエル王国の最初の王となったヤロブアム一世が築いたもので、そこには金の子牛が祭られていた。
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北イスラエル領内のユダ王国国境のベテルに聖所を築いたヤロブアム一世こそ、ヘブライ人の王国の真の建設者であったと想定される。
それまで、ヘブライ人には王国はなかったであろう。
「イスラエル王国」というベテルを中心とした小王国をヤロブアム一世は建設し、それはヘブライ人の普通の小都市国家の大きいものであったのだろう。
26
15列王記下23章この預言はヨシヤの時代に成就した。列王記下ニ三章一五ー一六節から読んでみよう。27
15ベテルにあったアシェラ女神の祭壇を破壊「彼はまたベテルにあった祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムが造った聖なる高台、すなわちその祭壇と聖なる高台を取り壊し、更に聖なる高台を焼いて粉々に砕き、アシェラ像を焼き捨てた。」27
15300年前の預言として捏造された「事後預言」もし聖所破壊の預言がヤロブアムの時代ではなく、もっと後に書かれた、つまり「事後預言」だったと考えたならどうだろうか。ヨシヤによるベテルの聖所の破壊を正当化するため、これを三〇〇年前の預言の成就としている、と考えると辻褄が合う。28
15かつての北イスラエル王国の首都サマリアの聖所も破壊この後ヨシヤは、かつての北イスラエル王国の首都サマリアの聖所も破壊したとされる(列王記下ニ三章一九ー二〇節)。30
15アッシリア帝国の支配下ベテルやサマリアは北イスラエル王国が滅んだ紀元前八世紀末以降はアッシュル帝国の支配下にあった。30
15ユダという小王国の王ヨシヤが乱入?この強大なアッシリア帝国の領土に、ユダという小王国の王ヨシヤが踏み込み、そこにあった聖所を勝手に破壊するなどということは歴史的に可能だったのだろうか。30
15ヨシヤが即位時=
アッシュル・バニパル王治世
ヨシヤが即位したころ、アッシリアはアッシュル・バニパル王(在位前六八五ー六ニ七年)のもと、繁栄の極みに達していた。30
15ベテル破壊時=
アッシリア弱体化
こうした背景を踏まえると、ヨシヤがベテルやサマリアの聖所を破壊したころ(前622年頃)までに、アッシリアによる同地域の実効支配は相当弱体化していたと考えてよいだろう。30
15サマリア人は混血当時の旧北イスラエル領には、かつての北イスラエル王国の民の末裔と王国滅亡後にアッシリアによって他の地域から強制移住させられた人々とが混血した人々が住んでいた。30
15申命記史の編纂をヨシヤの時代説のモデル申命記史の編纂をヨシヤの時代とするこの説は、アメリカのフランク・ムーア・クロスという研究者が一九七〇年代に唱え、その後主として英語圏で広く受け入れられている。32
15ベテルの破壊は考古学的ファクトでない!しかし、このモデルにも問題がある。その一つは、ヨシヤの時代に関する列王記の記述をほぼそのまま歴史的事件として捉えている点である。実際のところ、ヨシヤによるベテルやサマリヤの破壊は考古学的に実証されていない。32
16節目次古事記と旧約聖書32
21章目次第二章 考古学は聖書について何の明らかにするか37
22節目次「テル」=遺跡の丘39
22アラビア語遺丘「テル」アラビア語ではこうした遺跡の丘のことを「テル」と呼ぶ。39
22トルコはホユック
イランはテペ
同じものをイランあたりでは「テペ」、トルコでは「ホユック」などと呼んでいる。39
22なぜ丘状のテルに?古代の町や集落がなぜ丘状のテルになっていったのだろうか。39-40
22瓦礫の上に新しい町をつくったその町が戦争や災害で破壊されても、また同じ場所に人々が集まった。瓦礫の上に新しい町をつくったのである。40
22崩れたレンガが堆積した分だけ土地が盛り上がり、丘にこれらのレンガが崩れたら大変な量の土ができる。そこで、町が破壊されると、崩れたレンガが堆積した分だけ土地が盛り上がり、丘になる。41-42
23節目次発掘は一期一会42
231個の壁を足掛かりに石の壁が一つあると、それに接する壁があるかどうかを確認する。43
23壁の内外を確認二枚の壁が直角に接すれば、その角の内側が壁の内側だとわかる。43-44
23遺構ごとに分類イスラエルの発掘では、出土遺物を遺構ごとに別々のバケツに入れておく。土器片が入った一つ一つのバケツに遺構の番号、日付、調査地区などの情報を記載したカードをつける。44
24節目次年代はどうやって決めるか54
24ヘブライ人の王の碑文ファクトゼロ残念ながら聖書に登場する王たちが残したと確証される碑文は現在まで見つかっていない。57
31章目次第三章 アブラハムは実在したかー族長時代65
31節目次「族長たち」の物語65
31族長アブラハムが始祖ユダヤ人は最初の族長「アブラハム」を今日まで自分たちの「信仰の祖」と考えている。65
31「カナンの地」という人の土地を与えるという神契約の一つは、神がアブラハムとその子孫に、当時「カナンの地」と呼ばれていたパレスチナの地を与える、というものであった。66
32節目次聖書による「族長時代」年代66
32族長時代族長時代はいつごろの出来事を物語っているのだろう。67
32エジプト滞在期間430年/出エ12章出エジプト記一二章四〇節によれば、最後の族長ヤコブがエジプトに来た時から出エジプトまでの期間は四三〇年であった。67
32出エジプトから神殿建設の期間480年/列上6章また、列王記上六章一節によれば、イスラエル人がエジプトを出てからソロモン王が神殿を建築するまでの期間は四八〇年であった。67
32ソロモン治世第4年同説は同時にこの出来事が、ソロモン王の治世第四年であったとしている。67
32ソロモンの治世/前10世紀中ごろソロモンなど、王国時代の王の治世は後述する他の歴史史料などからある程度蓋然性の高い数値を計算できる(一五八ー一五九ページ)。この計算に従えば、ソロモン王の治世は紀元前一〇世紀中ごろであった。67
32ソロモン治世4年=前960年に措定仮にソロモン王の治世第四年を紀元前九六〇年とするなら、その九一〇年前は紀元前一八七〇年になる。67
32最後の族長ヤコブのカナン出発ー神殿建設の期間その九一〇年前は紀元前一八七〇年になる。
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最後の族長ヤコブのカナン出発ー出エジプト(430年)
出エジプトー神殿建設(480年)
合せてヘブライ人がカナンの地をはなれて帰還し神殿建設までの期間が910年。
67
32族長たちの時代の始まりと終わりの年代措定/前2160年-前960年アブラハムの誕生は先ほどの一八七〇年よりもニ九〇年前、すなわち紀元前ニ一六〇年ごろと計算できるのである。これで族長たちの時代の始まりと終わりの年代の両方がかわった。67-68
32聖書の年代に問題点しかし、今日ではこの数字をそのまま使って族長時代の年代を計算することはまずない。聖書に記載されている年代にはいくつかの問題点があるからだ。68
32族長一人一人の年齢が驚くほど長いその問題点とはまず、族長一人一人の年齢が驚くほど長い、ということだ。68
32アブラハム、イサク、ヤコブの寿命アブラハムは一七五歳(創世記47章28節)、イサクは一八〇歳(創世記35章28節)、ヤコブは一四七歳(創世記47章28節)まで生きた。68
32メトシェラの九六九歳もっとも、族長より前に生きていた聖書中の人物はメトシェラの九六九歳(創世記五章ニ七節)を筆頭にさらに長命である。68
32ファクト「シュメル王名表」メソポタミア文明の遺産に「シュメル(シュメール)王名表」とよばれるものがある。この王名表はメソポタミアにおける諸王朝の交替を、その王の統治年とともに記したものである。68
32シュメル王名表の万を超す長命こちらに記載されている人物の統治年は数百年どころか万を超している。68
32メソポタミア文明の記録から剽窃確定!族長たちやそれ以前の聖書の登場人物の寿命が今日では考えられないほど長いのは、このシュメル王名表に記載された初期の王の治世年がべらぼうに長いことに似ている。ここにメソポタミア文明の聖書への影響を見ることができよう。
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おそらく、バビロンの捏造班のラビどもは、テュロスのフェニキア人の保管していた記録から、この「シュメル王名表」の記録を剽窃したのであろう。
68-69
32日本に入ったシュメル・フェニキア・ユダヤ文明また、日本の例を引くと、古事記に記載されている初期の天皇たちの寿命もやはり長い。例えば初代神武天皇は一ニ七歳、第六代孝安天皇は一ニ三歳、第七代孝霊天皇が一〇六歳、そして第一〇代の崇神天皇は一六八歳まで生きたと記されている。
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古代日本には、ネストリウス派キリスト教(景教)のユダヤ人秦氏をはじめ、もっと古くから、シュメル系ーフェニキア系ーユダヤ系の豪族が日本の書記の天皇家の一翼を担っていたと想定できる。(日向族、出雲族、ユダヤ人・・・シュメル人もフェニキア人の多神教で原理主義者でなかったので日本に来たユダヤ人は、フェニキア起源の多神教的異端の景教信者と想定できる)ところで、日本の天皇が長命なのは、正統竹内文書によると「月読暦」を取っているからだ。出雲族は、ユダヤ人が一神教化する前のウバイドーシュメルーフェニキア系であると想定される。占星術をよくし、月を太陽より重んじる月神崇拝者である。シュメル・アッカドでは月神シンが最高神的であった。「月読暦」では半年が1年のため、寿命が二倍になるという。
69
32他の箇所との矛盾第二の問題点は、ここで計算した数字が、聖書の他の箇所に記述される数字とうまく整合しない点にある。69
32レビ家は平均143で世代交代エジプト滞在は四三〇年間だった。モーセとアロンの兄弟は、ヤコブの息子レビの四代目の子孫である(歴代誌上五章ニ七ーニ九節)。この年月から計算するとレビからモーセまでの三世代の平均は一四三歳になる。つまり、平均して一四三歳で子供が生まれたことになるのである。69
32ヨセフ家は平均39で世代交代一方、モーセの後継者ヨシュアは、ヤコブの息子ヨセフの一ニ代目の子孫であった(歴代誌上七章二〇ーニ七節)。これに従えば、ヨセフからヨシュアまでは四三〇年間に一一世代存在し、平均して三九歳で子供が生まれたということになる。69-70
32二つの家系の間の差異二つの家系の間の差異は大きい。70
32文献や考古学との矛盾第三の点は、聖書による出エジプトの年代、カナン定着の年代というものが、文献や考古学で確認できる当時の時代状況と合致しない点である。70
33節目次考古学が語る族長時代71
33考古学ファクト検証/前2200-1900今度は、六七ー六八ページで紹介した聖書の数字に基づき、紀元前のニ二〇〇年から一九〇〇年前後を族長時代としたうえで、考古学がこの時代について何を示すのか見てみよう。71
33文献史料は族長ども全滅ところが、文献史料はその期待にこたえることはなかった。
族長のうち誰一人、膨大な数にのぼる西アジアやエジプトの文献史料に言及される人物はいなかったのである。
71
33今度は、考古学的アプローチ/1950年代~そこで一九五〇年代に入ると、今度は考古学が族長時代の開明に寄与できるのではないか、と期待が寄せられるようになった。
考古学者たちは、父祖たちの物語の主要な舞台であるパレスチナの地で大がかりな発掘を行い、父祖たちの物語の史実性を実証しようとしたのである。
72
33オルブライトこの時代の代表的な考古学者にアメリカのウィリアム・F・オルブライトがいる。72
33「カルデアのウル」出身アブラハムは「カルデアのウル」と呼ばれる地の出身であった(創世記11章31節)。73
33前3千年紀のウル「ウル」は、一般に紀元前三千年紀に栄えたメソポタミアのウルの町だと考えられている。73
33カルデアは、新バビロニア以来の呼称「カルデア」というのは南メソポタミアの沼沢地の多い地方であるが、この名前は紀元前二千年紀の文献には登場しない。後に南ユダ王国を滅亡に追い込んだ「新バビロニア帝国」はこの「カルデア人」の王朝であった。73
33マリ人=アモリ人メソポタミアから見てユーフラテス川の上流に「マリ」という古代都市の遺跡がある。文書に登場する人名の分析から、マリの支配者たちがアモリ系の人々であったことがわかっている。74
33「アブラム」や「ヤコブ」の人名これらの中には、「アブラム」や「ヤコブ」といった人名が散見される。族長たちの名前は当時のアモリ人のグループに属していた、と考えた。74
33オルブライト族長=アモリ人仮説これらのことから、オルブライトらは、族長たちがアモリ人のグループに属していた、と考えた。74
33ヌジ文書上メソポタミアで「ヌジ」という古代都市が発掘され、五〇〇〇点に及ぶ紀元前二千年紀の楔形文書群が発見された。これらの文書には、創世記に見られるような慣習と類似しているものが見られたのである。
**************
ヌジ文書は、フルリ人時代のものであるとされる。フルリ人に男尊女卑の思想があったのか。
74-75
33奴隷の妾取得を法的に拘束例えば、ヌジの結婚契約文書には、妻が子供を産まなかった場合、奴隷の女を夫に与えて子供を産ませるようにしなければならない、という記述があった。75
34節目次族長時代にラクダはいたか76
34ラクダ登場ラクダは父祖たちの物語の中にも登場する(創世記一二章16節節etc)。77
34リベカ嫁入りの行父祖たちの物語の中でラクダが一番登場するのは、アブラハムの息子イサクが「リベカ」という名の娘を花嫁に迎えるくだりだ(創世記24章10-64節)。77
34「ヒトコブラクダ」と「フタコブラクダ」ところでラクダには「ヒトコブラクダ」と「フタコブラクダ」がいる。すでに紀元前一千年紀の西アジアにはどうやら両方とも存在していたようだが、ヒトコブラクダの方が圧倒的に多かった。フタコブラクダの方は中央アジアが原産である。80
34ラクダ/前16世紀以降遺跡から出て来る骨の研究により、西アジアでラクダが家畜化されたのは後期青銅器時代、つまり紀元前一六世紀年以降、というのが今日の定説である。80
34マリ文書、アマルナ文書、ウガリット文書にラクダ言及なしまた、遊牧民について多く言及しているマリ文書、アマルナ文書、ウガリット文書など、紀元前二千年紀の文書にはラクダが登場しない。81
334「時代錯誤」が聖書に満載その時代にあるはずのないものが作中に描かれるとき、それは「時代錯誤」と呼ばれる。父祖たちの物語には他にも時代錯誤が少なくない。81
35節目次族長たちの町の発掘82
35ネゲヴ地方パレスチナ南部に「ネゲヴ地方」と呼ばれる地域がある。82
35都市ベエル・シェバこの地方の中心都市は「ベエル・シェバ」と言う。
もともとはほとんど何もない場所で、一九四八年のイスラエルの独立後、ネゲヴの中心都市として次第に発展してきた町である。
82
35ベエル・シェバの町を舞台とした物語実はベエル・シェバの町は、父祖たちの物語の舞台の一つでもある。アブラハムとその息子イサクの二つの物語がベエル・シェバで展開するのだが、これら二つの物語には奇妙な点が一つある。82
35アブラハム、「ペリシテ人」の地滞在アブラハムの物語の方から見てみよう(創世記21章22-31節)。
カナンの地にやってきたアブラハムは、飢饉のために「ペリシテ人」と言われる人々の土地に長い間滞在していた。
82
35ゲラル王アビメレクと平和条約その一都市「ゲラル」という町の王「アビメレク」とアブラハムはいわば「平和条約」を結ぶ。82-83
35アブメレクの井戸を7匹の子羊で買うアブラハムは七匹の子ヒツジを取り分けてアビメレクに贈って誓った。一方、その子ヒツジを受け取ることで、両者の争いの種になっていた井戸はアブラハムが掘ったものと認めてほしい、とアビメレクに伝えている。83
35「誓いの井戸」or「七つの井戸」「ベエル・シェバ」とは「ベエル(井戸)」と「シャバ(誓った)」、あるいは「シブア(誓い)」との組み合わせで「誓いの井戸」、また「シェバ(七)」との組み合わせで「七つの井戸」という意味があることを語り、この名はアブラハムの時代の出来事に由来していると説明しているのだ。83
35イサクが井戸条約を更新さて、息子イサクの時代になってまたもや飢饉があり、イサクはペリシテ人の地に身を寄せた。
こうして、アブラハムとアビメレクの間の契約はイサクとアビメレクの間で更新された。
83
35イサクの僕が掘り当てたという矛盾妙なのはその後である。この互いに誓いを交わしたその日に、イサクの僕が井戸を掘り当てた。三三節は「そこで、その町の名は、今日にいたるまで、ベエル・シェバ(誓いの井戸)といわれている」と結んでいる。83-84
35「テル・ベエル・シェバ」遺跡発掘創世記に登場するこのベエル・シェバは一九六〇年代から一九七〇年代にかけて発掘された。古代のベエル・シェバは今日のベエル・シェバの町の郊外にある「テル・ベエル・シェバ」という遺跡である。84
35ペリシテ人の町ベエル・シェバ/前1000年紀この発掘によって紀元前一千年紀、ここに立派な町があったことがわかった。しかし、肝心の族長時代と考えられている時代のものは何も発見されず、その時代、ここに人が住んでいたとは到底考えられないことが明らかになった。
*************
「テル・ベエル・シェバ」遺跡は、前一千年紀のペリシテ人アビメレクの都市のあとであろう。それを、アブラハムとイサクの都市として、横取りしたのである。
84
35ペリシテ人も時代錯誤物語に登場するアビメレクらペリシテ人がパレスチナに登場するのは、聖書が示す族長時代の数百年後、後期青銅器時代の終わりであり、ラクダ同様、族長時代にはいなかった存在だったのである。84
35シケム、ベテル、ヘブロン父祖たちの物語の舞台となった他の町の遺跡ではどうだろうか。
パレスチナの三つの重要な町、シケムとベテル、そしてヘブロンの遺跡を紹介しよう。
87
35シケムは、カナン人の聖所のある町シケムは、アブラハムがカルデアのウルを出発後、最初に入った「カナン」、すなわち今日のパレスチナの町で、そこには「カナン人」と呼ばれる人々の「聖所」があった。そこで神が現れたため、アブラハムは祭壇を築いた、とされる(創世記12章6-7節)。
また創世記三四章はアブラハムの孫ヤコブとシケムの土地の住民たちとの確執を描いている。
87
35シケムの立地はパレスチナ自治区シケムが位置するのは、現在「パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区」と呼ばれ、将来独立後のパレスチナ国家に属するはずの地域である。「テル・バラータ」と呼ばれる遺跡があり、シケムと同定されている。87
35「ベテル」=「神の家」「ベテル」とはヘブライ語で「神の家」という意味である。シケムを出発したアブラハムが到着した場所がベテルで、彼はそこにも祭壇を築いた。88
35「天まで達する階段」の伝説創世記ニ八章ではアブラハムの孫ヤコブが旅の途中ベテルで一夜を過ごしたエピソードが語られている。そこで「天まで達する階段」の夢を見たヤコブは、・・・枕にしていた石を記念碑として立て、その地を「ベテル」と呼んだことが書かれている。88
35「ベイティーン」という村に同定古代の町ベテルはエルサレムの北およそ一五キロメートルのところにある「ベイティーン」という村にあった遺跡と同定され、発掘調査が行われた。族長時代と並行する中期青銅器時代には町を囲む城壁があったことがわかっている。88-89
35ヘブロンアブラハムと妻サラが葬られたのはヘブロンという場所である。89
35現代も大都市このヘブロンだが、今でもヨルダン川西岸地区の大きな町として有名である。89
35ヘブロンの立地ヘブロンはエルサレムの南西約三〇キロメートル、標高一〇〇〇メートルの高所に位置する町だ。89
35「ハベル」(友人)から「ヘブロン」という言葉の意味はヘブライ語で「友人」を意味する「ハベル」という言葉だという。89-90
35ヘロデ時代の建造物のファクトあり今日見られる建物はマクベラの洞穴の上に、紀元前五世紀のヘロデ大王時代によって建てられた。90
35ヘブロンの町と同定「テル・ヘブロン」のファクト近郊にある「テル・ヘブロン」が青銅器時代と鉄器時代のヘブロンの町と同定され、発掘もなされた。発掘によって、族長時代と並行するとされる中期青銅器時代の町は巨石で築かれた城壁によって囲まれていることが明らかになった。この時代からは楔形文字の刻まれた粘土板が見つかっている。テキストの内容は引き渡すヒツジのリストであり、王に言及していることから、ヘブロンが当時この地方の行政中心地であったことが想像される。91
35もともとは赤の他人の伝説の寄せ集めおそらく父祖たちの物語の中には、物語が書かれた当時人口に膾炙していた伝承が含まれており、そうした伝承の中には、いつの間にか自分たちの大いなる「民族の父」に起こった出来事として伝わるようになったものもあるのではないだろうか。
そうであるなら、これらの「民族の父」たちは、もともとは赤の他人で、一人一人にまつわる伝承が地域ごとに異なって伝えられていたとも考えられる。
91
41章目次第四章 イスラエルはカナンを征服したかー土地取得時代95
41「出エジプト記」 
「ヨシュア記」
「士師記」
旧約聖書では創世記に続く「出エジプト記」と「預言者」の最初の二書である「ヨシュア記」と「士師記」がこの時代を描いている。95
41「土地取得時代」この時代はイスラエル史では「土地取得時代」と呼ばれることが多い。カナン人から土地を奪って自分たちの土地にしていく過程を「土地取得」という。96
41「ピトム」と「ラメセス」唯一の手掛かりはイスラエル人がその建設活動に従事させられた「ピトム」と「ラメセス」の町の名である。102
41「ゴシェン」地方
東デルタ地方の「テル・エル・レタバ」
聖書によれば、イスラエル人が住んでいたのは「ゴシェン」と呼ばれるエジプトの東デルタ地方だった、と記されていることから、東デルタの「テル・エル・レタバ」という遺跡がピトムの候補に挙げられている。104
41「ペル・ラメセス」ラメセス二世の建てた「ペル・ラメセス」と「ラメセス」が同じだ、という説はすでに紹介した。104
41「テル・エル・ダブア」と「カンティール」一九九六年から始まった発掘調査で、「テル・エル・ダブア」と「カンティール」という遺跡がペル・ラメセスであった可能性が高いことが明らかになった。104
41「フウト・ワレト」=ギリシア名「アヴァリス」ラメセス二世時代より前には「フウト・ワレト」という名で呼ばれ(ギリシア名「アヴァリス」)、アジア系の「ヒクソス」という王朝の都でもあった場所である。104
41「シナイ山」同定未さて、このシナイ山だが、確実な道程はやはりなされていない。伝統的に「シナイ山」とされているのはシナイ半島の南部に位置する標高二〇〇〇メートルを超す山である。107
41「エツヨン・ゲベル」「カデシュ」は同定これら出エジプト後の行程の中には、わずかながら同定されている場所もある。「エツヨン・ゲベル」と「カデシュ」である(民数記33章35-36節)。107
41エツヨン・ゲベルエツヨン・ゲベルは今日のアカバ湾近郊の遺跡、「テル・エル・ヘレイフェ」だと考えられている。107
41エイラト(イ)と
アカバ(ヨ)
現在のアカバ湾には、現在のアカバ湾には、イスラエルが「エイラト」、ヨルダンが「アカバ」という港湾都市を保有しており、船舶が紅海を通ってここにたどり着く。という港湾都市を保有しており、船舶が紅海を通ってここにたどり着く。107
41エイラトは、イスラエルの港アジアからの物品、またアジアへの物品は主としてエイラトを通して貿易されている。107
41エツヨン・ゲベル/前一千年紀~エツヨン・ゲベルの発掘の結果、ここは紀元前一千年紀前半に栄えていたことがわかったが、出エジプト時代のものはあまり見つかっていない。
***********
テュロスが、エドムと組んで紅海貿易と冶金の拠点をつくったと思われる。
108
41ヨルダン川東岸から侵入この後、イスラエル人たちは「エドム人」と「モアブ人」の領土であるヨルダン川東岸の地域に入っていく。108
41エドム人、イスラエルの通過を拒否し迂回エドム人たちはイスラエルが彼らの領土を通過するのを拒んだため、イスラエル人は迂回を余儀なくされる(民数記20章14-21節)。
******************
イスラエルが侵入したとき南部はエドム人の領域だった。
108
41ネゲヴ地方を通過結果として彼らは、前にベエル・シェバのところで紹介したパレスチナ南部のネゲヴ地方を通った。108
41アラドの王と戦争して勝利このとき、「アラド」という地の王との間に戦いが勃発し、イスラエルは勝利をおさめている(民数記21章1-3節)。108
41アラドの真実アラドは今日、ベエル・シェバに次ぐネゲヴ地方第二の都市である。その郊外に「テル・アラド」という古代の町の遺跡がある。この遺跡の発掘では、紀元前二千年紀には人が住んでおらず、その後の一千年紀に栄えていたことが明らかになっている。
****************
捏造ラビどもは、カナン人の都市国家「アラド」が立派な都市だったので、自分のものだったと捏造したのだろう。
108
41「モアブの谷」その後、イスラエルは「モアブの谷」というヨルダン川の東岸地域で「アモリ人」といわれる人々と交戦した。109
41「ヘシュボン」を占領イスラエルはアモリ人に勝ち、その都「ヘシュボン」を占領した。109
41「ヘシュボン」/前1千年紀~ヘシュボンは、ヨルダンの町マダバの北方にある「テル・ヘスバン」に同定されて、発掘が行われた。この発掘の結果でも、紀元前二千年紀に人が住んでいた痕跡は見つからなかった。ここに人が住み始めたのはやはり紀元前一千年紀に入ってからであった。109
41時代錯誤多数このように、出エジプトの行程に登場する地名にも時代錯誤が多く見られる。109
41前一千年紀の地理を元に捏造これは、この物語には紀元前一千年紀の地理的現実が反映されていることを示している。109
41高峰ネボ山で、約束の地(ヨルダン川西側)を見渡すその後イスラエル人たちはヨルダン川東岸の高峰ネボ山(標高約800メートル)に登り、そこでヨルダン川西側の約束の地を見渡す。ここでモーセは死に、葬られるのである(申命記34章1-6節)。109
41ネボ山から「約束の地」は見渡せない聖書ではこの山上でモーセが「約束の地」すべてを見渡したことになっているが、実際にはそこからパレスチナ全土を見渡すことは無理だ。109-110
42節目次エリコの城壁は崩れた110
42ヨシュア時代偉大な指導者モーセの死後、ヨシュアが後継者となってヨルダン川を西へ渡、イスラエル人たちはカナンの地へと入っていった。110
42ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の7民族当時の「約束の地」カナンには、多くの異民族が住み着いていた。「ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人」というこれら七つの「民族」の名が申命記七章一節およびヨシュア記三章一〇節に記載されている。110
42エリコの住民ヨルダン川を渡って最初に遭遇したのはエリコの住民であった。111
42ヨシュア記六章ヨシュア記六章はこのエリコの町をヨシュア率いるイスラエル軍が征服する物語である。111
42神の力で呪術的に城壁崩し?非常に堅固な城壁で囲まれた町であったが、ヨシュアらが一日一度城壁の周りを回り、七日目に七度回って鬨の声を上げ、角笛を吹き鳴らすと城壁が壊れて、そこからイスラエル人は町の中へ侵入してこれを征服した。111
42ケニヨンの発掘で、「土地取得時代」に破壊の跡無しが判明エリコの遺跡は「テル・エッ・スルタン」と呼ばれる丘である。この発掘調査では、紀元前二千年紀前半の中期青銅器時代にこの町が非常に繁栄していたことがわかっている。一九五〇年代のイギリス人考古学者キャスリーン・ケニヨンによる発掘では、後期青銅器時代の終わり、つまり一般に土地取得時代と考えられている時代に破壊の跡が見られないとされた。111-112
42ウィリアム・G・ディーヴァーの皮肉このことから、アメリカの有名な考古学者ウィリアム・G・ディーヴァーは「奇蹟がお望みなら、ここにその奇蹟がある。ヨシュアはそこに存在していなかった町を破壊したのである」と皮肉を言っている。112
425つの都市の王を制圧ヨシュア記の一〇章によれば、次にイスラエル人が交戦したのが、「エルサレム」、「ヘブロン」、「ヤルムト」、「ラキシュ」、「エグロン」の五人の王たちであった。113
423都市同定これらの町の中でエルサレムを除いて確実に同定されている町はラキシュとヘブロンである。113-114
42ラキシュ=「テル・エッ・ドゥエイル」という遺跡に同定ラキシュは「テル・エッ・ドゥエイル」という遺跡に同定されている。今日世界遺産にも指定されているこの遺跡はダヴィッド・ウスィシュキンらによって発掘され、後期青銅器時代に町が非常に繁栄していたこと、そして同時代末に破壊されたことが明らかになった。後期青銅器時代は土地取得時代と重なるわけだから、ヨシュア記の記述とおおむね一致することになる。114
42ヘブロンの遺跡は無住の地一方、ヘブロンの遺跡の方には同時代に人が住んでいなかった。114
43節目次生き返った王ヤビン114
43ハツォルの王ヤビン最後の大きな戦いはハツォルの王ヤビンとの戦いだった。114
43ハツォル王とガリラヤ地方同盟ヤビンはパレスチナ北部ガリラヤ地方の王たちと同盟してイスラエルに挑むが、イスラエルはこれを撃破し、ハツォルの町を破壊した(ヨシュア記11章)。115
43ハツォル=イスラエル最大のテル型遺跡ハツォルはガリラヤ湖北方に位置し、総面積が八〇ヘクタールにも及びイスラエル最大のテル型遺跡であり、ユネスコの世界遺産にも指定されている。115
43玄武岩の切石宮殿発掘により、ハツォルが後期青銅器時代に大変な繁栄を誇っていたことが明らかになった。今日そこを訪れる人々は、一面黒い玄武岩の切石で建てられたこの時代の巨大な宮殿の威容に目を見張る。115
43ハツォル王ヤビン、士師記で復活!?しかし、仮にヨシュア率いるイスラエル軍が本当にハツォルを破壊していたとしたら、別の問題が生じる。
ヨシュア記の後の時代を描く士師記の中に、ハツォルの王ヤビンが再び登場してイスラエル軍と対峙するのである(士師記四章)。
116
43ヨシュア記と士師記で、何度も連戦連勝なのに、都市を受け継がず?実は、士師記とヨシュア記の記述には矛盾が少なくない。二度イスラエルに破れるヤビンの他に、ヨシュア記の中でイスラエル人たちが一度滅ぼしたはずのヘブロンやデビルが、もう一度攻略されるエピソードも士師記の中で語られている。116
44節目次士師記が描く土地取得と考古学118
44士師記、共生から征服へ?士師記は、カナン人と部分的に共生していたイスラエル人が「士師」と呼ばれる指導者のもと、徐々に自分たちの勢力を強めていく様子を描く物語である。118
44初期鉄器時代士師時代は一般に初期鉄器時代、すなわち後期青銅器時代直後の時代を指し、紀元前一二〇〇年ごろから紀元前一一世紀の中ごろとされる。118
44ユダは山地、鉄の戦車を持つカナン人は平地「主がユダと共におられたので、ユダは山地を獲得した。だが、平野の住民は鉄の戦車を持っていたので、これを追い出すことはできなかった。」119
44「中央山地」に力を持つイスラエルこうした記述から、当時のパレスチナは、「中央山地」に力を持つイスラエルと、主として平野部において勢力を以ていたカナン人勢力とに二分されていた様子がうかがえる。119
44初期鉄器時代のパレスチナ山地に集落が激増一九四八年のイスラエル国家成立後、パレスチナ各地でイスラエル人考古学者による広範な領域調査が開始されると、初期鉄器時代、パレスチナ山地に集落が激増することが明らかになった。120
44防御壁もない
建築技術をもたない貧困集団
これらパレスチナ中央山地の遺跡には物質文化に共通した特徴があることが指摘されている。
集落を囲む防御壁がほとんど見られないこと、集落の規模がごく小さいこと、神殿や宮殿等の大型の公共建築物がないことなどである。
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これからイスラエルの中央山地の集落の特徴は、自ら野盗的軍事集団ではありえなかった。なぜなら、鉄の戦車を持つ高度なカナン人を襲撃すれば、いくら友愛的カナン人でも、ケチな小屋をぶち壊しにくるだろうから。小規模の貧困集落であったと想定される。
120
44中央山地の住民が後のイスラエル人へ今日多くの研究者が、初期鉄器時代に中央山地に住んでいたこれらの人々が、後に自分たちをイスラエル人として認識していくにいたった人々の集団であったと考えている。122
44イスラエル人研究者アヴラハム・ファウストの見解イスラエル人研究者アヴラハム・ファウストが興味深い見解を提出している。123
44平地の民との差異を意図的に保持してアイデンティティ形成初期鉄器時代の中央山地に見られる特徴的な物質文化のいくつかは、それらの地域に住んでいた人々が、平野部の住民の文化との差異を自ら意識し、その差異を保持すべく、あるいは逆にそれを自らのアイデンティティに連なるものとして、意図的に再生産していった結果である、という見解だ。123
44無彩文土器に固執例えば、後にイスラエル人となる人々が敢えて無彩文の土器を使い続けたのは、当時地中海沿岸部を中心に展開した、彩色豊かな「ペリシテ土器」と呼ばれる土器に対しての差異を認識したからこそである、と解釈される。123
45節目次「古代イスラエル人」とは何者か124
45「カナン人」と民族的にも近い関係言語学的に言えばヘブライ語は北西セム語という原語グループに属している。一番近い親戚の言葉は、カナン語と言われる下語やモアブ語なのである。このことからも、イスラエルの民族が当時平野部に住んでいた「カナン人」と民族的にも近い関係にあったことがうかがえる。124
45豚の骨の出土の差異初期鉄器時代の平野部の遺跡からは豚の骨が多く出土する。一方、山地の遺跡からはほとんど出土しない。124
45豚の忌避山地に住んでいた人々が・・・・別の言葉で言えば豚を忌避していた、という可能性も考えられる。124
45原理主義の衰退面白いことに、今日のイスラエルではこうした規定がややもすると軽視されがちである。126
45禁止食材食べるし、同性愛も今日のイスラエルのユダヤ人の中には豚肉やエビ、カニなど、食物規定で禁じられている食材を平気で口にする人が少なくない。また、ユダヤ教では固く禁じられている同性愛も珍しくないのである。126
46節目次「海の民」とペリシテ人126
46ペリシテ人とイスラエル人居住開始「海の民」の一派であるペリシテ人たちは、エジプトに敗北した後、エジプトの承認のもとパレスチナ南部の海岸地方に居住を解ししている。時を同じくしてパレスチナの中央山地では、やがてイスラエル王国を建設する人々の中心となる人々が出現し始めていた。126-127
46イスラエル人とペリシテ人との抗争士師記の後半は、イスラエル人とペリシテ人との抗争を描いている。127
46「海の民」は印欧語族これら「海の民」と呼ばれるのはもともとエーゲ海地方に起源を持つ人々であったようである。人名などの研究により、彼らの言語と古典ギリシア語や「印欧アナトリア語」と呼ばれるアナトリア半島の諸言語との類似が明らかになっている。
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「海の民」は、ギリシアのテーバイ帝室系がほとんどだろうから、民族的にはセム系と印欧系の混血、言語的には印欧系であろう。
127
46「ガトの王アキシュ」士師記の二つ後の書である「サムエル記」には「ガトの王アキシュ」という人物が登場する。「ガト」はペリシテ人の「ペンタポリス」と呼ばれる中心的な五つの都市の一つで、ダビデは自分が仕えていたイスラエル初代の王サウルに疎まれ、一時ここの王アキシュのもとに身を寄せた。127
46非セム系の名「アキシュ」と「イカウス」実はこの「アキシュ」という名前は、他のカナン人の多くが持っていたセム系の名前ではない。アッシリアの碑文は、やはりペンタポリスの一つ「エクロン」という町の「イカウス」という王に言及している。127-128
46「パレスチナ」という言語は「ペリシテ」に由来ちなみに、今日の「パレスチナ」という言語は「ペリシテ」に由来している。この名をこの地域につけたのはローマの五賢帝の一人、ハドリアヌス帝である。128
46ハドリアヌス帝が命名彼は自らの治世中に起ったユダヤ人の大規模な叛乱を心底憎み、聖書の中でイスラエル人の仇敵とされるペリシテ人の名を、彼の時代に「ユダヤ」と呼ばれていた地域につけたのだ。129
47節目次現代まで生きる「出エジプト」の伝統129
47平野部のカナン人の一部が山地に移住してイスラエル人が形成説平野部にいたカナン人の一部が山地に住むようになり、彼らが次第に独自のアイデンティティを形成して後にイスラエル人として「出現」した、という説を先だって紹介した。129
47出エジプトとカナン人征服説の否定この説は、イスラエル人がエジプトから脱出し、「先住民」であるカナン人を征服した、という出エジプト記とヨシュア記の記述とは大きく異なる。129
51章目次第五章 民族の栄光と破滅ーイスラエル王国時代133
51節目次最後の士師サムエル133
51士師の時代士師の時代が終わるのは、時代として紀元前一一世紀の中ごろとされる。考古学の年代区分では初期鉄器時代と呼ばれる時代である。133
51一二人の士師士師記には全部で一二人の士師が登場する。そのうち五人の物語のみ細部にわたって描かれていること、・・・133
51士師記の後に「ルツ記」多くの旧約聖書の配列では、士師記の後に「ルツ記」という、ダビデの祖先についての小さな物語がある。133
51最後の士師サムエルその後に続く物語がサムエル記である。サムエル記にはさらに「エリ」と「サムエル」という二人の士師が登場する。このうちサムエルが最後の士師である。134
52節目次初代王サウルー王政の導入136
52王政が普通(神聖政治は異常)「イスラエルの民は自分たちの上に「ほかのすべての国のように」王を求め始めた(サムエル記上8章5節)137
52王政に否定的な祭司「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。」
ここに王政に対する非常に否定的な視点が反映されているのは一目瞭然だ。
138
52サウルは祭司の特権に介入ところがサウルはあるとき、犠牲を自ら捧げてしまう。神への犠牲を捧げることは祭司にのみ許されていた行為であり、王がそれを行なうことは「越権行為」とみなされた。神はサウルを王位から退けたのである。139
52ダビデを聖別神はサウルの代わりにダビデという少年に油を注ぐようサムエルに命じる。140
53節目次巨人ゴリアト対ダビデ140
53青銅の重装備のゴリアト「ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアトといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五〇〇〇シェケルの重さのあるうろことじの鎧を着、足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。……」141
53エーゲ海地方の重装備ここでもう一度ゴリアトの武装に注目してみよう。彼が身に着けているのは「青銅の兜」、「うろことじの鎧」、「青銅のすね当て」、「青銅の投げ槍」、そして盾持ちが必要なほど大きな盾であった。142
53ギリシアの重装歩兵以降しかし、、その後の研究により、エーゲ海地方の戦士が金属製の兜や鎧を一般的に用いるようになったのは、紀元前七世紀以降、ギリシアに重装歩兵が登場するようになってからであることが明らかになった。143
53ゴリアテ殺しは、エルハナン「ゴブで、また、ペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム出身のヤアレ・オルギムの子エルハナンが、ガト人ゴリアトを打ち殺した。ゴリアトの槍の柄は機織りの巻き棒ほどもあった。」(サムエル記下21章19節)145
53ダビデが倒したゴリアトと同一人物この短い記事に登場するゴリアトはダビデが倒したゴリアトと同一人物と考えてよいだろう。145
53ダビデのゴリアテ殺しは捏造もともとイスラエルの人々の間に伝わっていたのは、エウルハナンという人物がゴリアトを倒した、という短い説話で、後代になってからこの話をもとに、ダビデの勇敢さと神の偉大さを強調するため、神の加護により、重装備の巨人戦士にヒツジ飼いの投げる石で勝利する、という奇蹟的な話がつくられたのだ、というのである。146
54節目次ダビデによる国づくり146
54サウルの息子に助けられるという都合のよさ危険を察知したダビデは、サウルの息子で友人でもあったヨナタンの忠告を助けに、サウルのもとを出奔する。146
54ペリシテ人に仕える?この間、敵であったペリシテ人の王に仕えたこともあった。146
54都合よく邪魔者消え、ヘブロンで挙兵サウルとヨナタンがペリシテとの戦いで命を落とすと、まずヘブロンで自分の出身部族であるユダ族の王になる。146-147
54イスラエルにサウル王家があるのにイスラエル全体の王を宣言?イスラエルではサウルの別の息子イシュ・ボシェトが王位に就いていたが、彼が家臣に暗殺されると、ダビデはエルサレムでイスラエル全一ニ部族の王に即位した。
このときはじめてエルサレムが王国の都となった。
147
54ペリシテ、アンモン、モアブ、ダマスコを制圧??その後、ダビデ率いるイスラエル軍はペリシテに勝利し、ヨルダン川東側のアンモンやモアブといった外敵をも征服し、ダマスコのアラム人も服従させる。147
54「ダビデ帝国」は実在したか?聖書によれば、ダビデの王国の版図は広大であった。ダビデの王国が時として「ダビデ帝国」と呼ばれるのはこうした記述に基づいている。147
55節目次イスラエル黄金期はあったか147
55ソロモン、神殿と宮殿建設?ソロモンは七年かけてエルサレムに神殿を、その後に一三年費やして自分の王宮を建てている。147-148
55統一王国の考古学ファクトは?これほど繁栄したとされるソロモン時代のイスラエル統一王国だが、考古学的にその繁栄が裏づけられているのだろうか。148
56節目次ダビデは実在したか150
56ダビデ、ソロモンの言及は聖書のみ聖書以外の文献が、栄華を誇ったダビデやソロモンについて、あるいは当時のイスラエルについて何らかの言及をしているだろうか。151
56エジプトもアッシリアもだんまりエジプトの文献にはソロモンもダビデも登場しない。
アッシリアの碑文にもダビデ、ソロモンの名前が登場しない。
151
56「テル・ダン碑文」一九九三年から一九九四年にかけて、イスラエル北部に位置するテル・ダンという遺跡からアラム語の碑文が見つかった。151
56アラム・ダマスコの王ハザエル建立と推定碑文を立てさせた人物は、イスラエルの仇敵、アラム・ダマスコの王ハザエルだ、と一般に考えられている。152
56「ダビデの家」の言及話題を巻き起こした理由の一つが、そこに「ダビデの家」という文字が刻まれていたことにある。152
56アッシリアの碑文の「ビート何某」アッシリアの碑文には「ビート何某」という単語で王国を指す言い回しがよく使われている。「ビート」というのはアッシリアの言葉で「家」を指す言葉の変化形であるから、「何某家」という意味になる。153
56ダン碑文の意味するものダン碑文は内容や書体などから、紀元前九世紀終わり、つまりダビデの死のおよそ一五〇年後につくられたと考えられている。ダン碑文が明らかにしているのは、ダビデがいたとされる時代よりも一五〇年後ほど後に、自分たちをダビデの子孫だと称する人々がいたことである。154
56「オムリの家」のオムリはファクト例えば、イスラエルはアッシリアの碑文中、「オムリの家」として言及されることがある。彼の活動は他の碑文にも言及されているので、彼は「歴史的存在が確認された」とみなせる。155
56アラム・ダマスコの王ハザエルも実在確認同様にアラム・ダマスコの王ハザエルはアッシリアの強敵として何度もアッシリアの碑文に言及されることから、彼も歴史的存在が確認されている。155
56「ハザエルの家」その後のアッシリア碑文においては、彼の名を冠した「ビート・ハザイリ」すなわち「ハザエルの家」という言葉で、アラム・ダマスコ王国を示している。155
57節目次南北朝時代ー王国の分裂156
57北はヤロブアム一世/南はレハブアムソロモンの死後、王国は二つに分裂した。北はヤロブアム一世という王が北イスラエル王国を樹立し、南にはソロモンの息子レハブアムがエルサレムに残って南ユダ王国を継承した。156
57サウルの息子イシュ・ボシェトが北/ダビデがヘブロンで南ダビデの治世の最初にも、北と南が別々の王を擁立していた時代があった。サウルの息子イシュ・ボシェトが北を、ダビデがヘブロンで南の王国を支配していたときのことだ。156
57広大・肥沃な北イスラエル北イスラエル王国は首都こそ山地のサマリアであったが、その版図は海岸平野やイズレエル平野といった肥沃な平野部にも伸び、またヨルダン渓谷をも支配していた。さらにヨルダン川の越えた東側、ギレアドの地も支配したとされる。156
57港も交易路もないやせた山地のみの南ユダそれに対し南のユダ王国は、農耕に最適とは決していけない山地を中心に支配していた。西にはペリシテ勢力があって地中海の港を持つことはなかったし、海岸平野やヨルダン渓谷など比較的交通の便がよく、国際的隊商の主要交易路となるようなところも支配していない小さな王国であった。156
57南北格差列王記下一四九節には、二国がそれぞれ、「レバノンのあざみ」、「レバノンの杉」と象徴的に表されている。前者はおそらく南ユダ王国を指し、後者は北イスラエル王国を指していると思われる。158
57サマリアとエルサレム北イスラエルの首都は二転三転するが、分裂後半世紀もするとサマリアに決まり、ここが王国滅亡まで北イスラエルの首都となる。一方南のユダ王国の首都はダビデの時代よりその滅亡まで一貫してエルサレムであった。158
58節目次碑文は裏づける159
58実在確証された初代イスラエル王は
「オムリ」王
聖書以外の文献に最初に登場するイスラエルの王の名は「オムリ」といい、紀元前九世紀初頭にイスラエルを支配した王である。159
58首都はサマリア彼は新しい都をサマリアに建設した(列王記上16章23-24節)。159
58モアブ王国の王メシャ王の「メシャ碑文」「メシャ碑文」と呼ばれる碑文がある。「メシャ」というのはヨルダン川東岸、今のヨルダン・ハシェミット王国にあった「モアブ王国」の王である。159
58モアブ語の碑文この碑文は、モアブ語といって、聖書が書かれたヘブライ語と非常に近い言語で書かれている。159
58モアブの神ケモシュの聖所を記念してこの碑文が書かれたのは紀元前九世紀後半のことで、モアブの神ケモシュに対して、王であるメシャの功績を報告し、さらにケモシュのために建てた聖所を記念するために作成された。159-160
58イスラエルの王オムリの圧迫同碑文には「イスラエルの王オムリは長い年月モアブを圧迫した」という一文がある。160
58オムリの息子の時代に、占領地を奪還「彼(オムリ)の息子」の時代、メシャは自分がイスラエルに占領させれいた地域をモアブ領に回復したことなどを述べている。160
58オムリの時代、イスラエル拡大メシャ碑文の内容からうかがえることは、オムリの時代、イスラエル王国が勢力を拡張し、東ヨルダンにあったモアブ王国を圧迫していたことである。160
58オムリの息子の代でイスラエルいったん滅亡ところがオムリの息子の時代になると形成が逆転する。
メシャは「イスラエルの滅亡を見た」(七行目)、と記述している。
160
58アハブ王オムリの息子「アハブ」は、悪王多きイスラエルの諸王の中でも、「彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」と、札付きの悪者として描かれている(列王記上16章29-33節)。
罪状は異教の祭儀をイスラエル国内に持ち込み促進させたことである。
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アハブが異教を持込んだのは嘘だろう、王権はイスラエルの建国当初、オムリ王朝のオムリ王もしくは、ヤロブアム朝のヤロブアム一世のころより、バアルとアシェラの祭儀を行っていたのだから。むしろ、ユダヤ教一神教こそがマイナーな狂信的な新興宗教、今の日本でいうならオウム真理教や旧統一教会のような犯罪肯定殺人宗教であったことは十分想定できる。なぜなら、異教徒を戦争で皆殺しにし、王族も皆殺しにして首をどうするとかを「神への善行」と認定しているからである!
160-162
58アッシリア史料にも、カルカルの戦いで言及彼の名はアッシリアの碑文にも登場する。紀元前八五三年、アッシリアの王シャルマネセル三世はユーフラテス川を西に渡り、カルカルという現在の北シリアの都市近郊でシリア・アナトリア・パレスチナ連合軍と遭遇した。連合軍は一ニの国や民族から成っていたが、その中にアハブが言及されている。162
58アハブの二〇〇〇両の戦車と一万人の軍隊アッシリアの碑文はアハブの軍勢を連合軍の三番目に、「イスラエル人アハブの二〇〇〇両の戦車と一万人の軍隊」と記している。162
58戦車は最大戦車の数だけ取ってみれば、連合国中最大である。162
58新ヒッタイト諸都市の中で第三位この記述から、イスラエルが当時のシリア・パレスチナ地方の国々の中でも強国であったことがうかがえる。162
58ユダ王国はまだ不成立一方、この碑文にはユダ王国への言及がない。
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このころユダの領域ののちのユダ王国の住民はまだ、山猿として山中の村に点在だったのだろう。
162
58聖書はカルカルの戦いを無視聖書にはカルカルの戦いもシャルマネセル三世の名も一切登場しない。反アッシリア連合の存在をほのめかすような記述さえない。
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アハブ王がレジスタンスの愛国者の王であったことを暴露されるのを恐れたのであろう。
162
58「イエフ」クーデターでオムリ朝を滅ぼすアハブの死後、まもなく、アハブの息子「ヨラム」の時代に、イスラエルではクーデターが勃発した。
イスラエル三度目のクーデターである。
新たに王となったのは「イエフ」という人物であった。
162
58メシャ碑文のイスラエル滅亡は、イエフのクーデターを指す先ほどのメシャ碑文には、メシャの時代、「イスラエルは永遠に滅んだ」(七行目)と記されている。
この表現が指しているものはおそらくイエフによるこのクーデターだったと思われる。
163
58セム語の「息子」は子孫をも指すメシャ碑文はイスラエル滅亡を「オムリの息子」の時代としているが、セム語では「息子」と言っても文字通りの息子に限らず、孫や曽孫を含めた子孫を指す場合もある。163
58メシャ碑文はイエフの反乱のファクトメシャ碑文は「ヨラムの時代にオムリ朝が滅んだ」ことに言及していると解釈しえる。163
58モアブ王メシャの反乱/ファクト実際、列王記下三章四ー五節はメシャの名前に言及し、「アハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に反旗を翻した」と述べている。
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強大な宗主国オムリ朝のアハブが戦死すると、半属国だったモアブが完全独立を果たしたと解釈できる。テュロスの絶大な物質的支援を得ていたイスラエルがアッシリアによって滅亡に追い込まれたのである。
163
58「オムリの家のイエフ」とは?さて、クーデターを起こしたイエフは、アハブと戦ったアッシリア王シャルマネセル三世の碑文に、「私(シャルマネセル三世)はオムリの家のイエフから貢納を受けた」と記されている。
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イエフはどこの馬の骨とも知れぬ野盗の反逆者である。というか、原理主義者のヤハウェ一神教集団の一員であったのであろう。こやつが、正統なイスラエル王国の王朝の後継者を、アッシリア王に騙ったのである!なぜなら、アッシリア王は、イスラエル王国の代表として馬の骨を信用しなかっただろうから。
163
58アッシリアの属国に=イスラエル滅亡/前841年アッシリアに「貢納」すること、これはアッシリアの宗主権を認め、その属国となることを意味する。つまりイスラエルは、アハブの時代にはアッシリアの敵であったのに対し、イエフの時代にはその属国になってしまったのである。
この出来事が起こったのは紀元前八四一年のことである。
163
58シャルマネセル三世に土下座のイエフ実はイエフは唯一、その図像が残っているかもしれないイスラエルの王だ。
シャルマネセル三世に向って額づいている人物がイエフ、または彼の送った使節団の代表者である。
164
58ブラック・オベリスク/ファクト前9Cシャルマネセル三世に額づくイエフあるいは北イスラエルからの使節代表 前9世紀後半のブラック・オベリスク。大英博物館蔵。164
58「アラム・ダマスコ」王国紀元前の九世紀後半から八世紀前半にかけて、北イスラエル王国の不倶戴天の敵とも言える存在だったのが、「アラム・ダマスコ」という王国であった。164
58現シリアの首都ダマスカス「ダマスコ」というのは「ダマスカス」のことで、今日のシリア・アラブ共和国の首都のことである。164
58アラム・ダマスコ王家聖書には「ハダドエゼル」、「ハザエル」、「ベン・ハダド」、「レツィン」という名前のアラム・ダマスコ王が登場する。これらの王たちもアッシリアの碑文にその名が言及されている。164
58「ベン・ハダド」が頻出聖書によれば、ハダドエゼルはダビデ時代の人で、アハブの時代、つまりカルカルの戦いの当時は「ベン・ハダド」という王がアラム・ダマスコの王であった。165
58「ベン・ハダド」そのため、「ベン・ハダド」というのはアラム・ダマスコ王の「通称」であったのではないか、と推測されている。165
58ベン・ハダドはハザエルの「主君」列王記下八章七ー一五節に、このベン・ハダドの死とハザエルの即位の経緯が描かれている。ここではベン・ハダドはハザエルの「主君」として描かれている。165
58「誰の息子でもない者」ハザエルは簒奪者?この情報からするとハザエルはベン・ハダドの王位継承者ではなかったようである。シャルマネセル三世の碑文にもハザエルの名前は言及されているが、「誰の息子でもない者」と呼ばれている。165
58アラム・ダマスコ独立死守ハザエルはイスラエルを含め周辺の小王国がアッシリアに貢ぎ物を差し出して臣従するのに対し、最後まで徹底抗戦した。そのためダマスコは二度もアッシリア軍に包囲されたが結局落城することなく、シャルマネセルはアッシリアに引き揚げていった。165
58イスラエルとユダを併呑アラム・ダマスコはハザエルのもと、近隣諸国の中で勢力を強め、やがてイスラエルもユダもその属国になってしまったようである(列王記下10章32節、12章9節)。
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ファクトとしての「テル・ダン」碑文に載っている。
ここで、そのイスラエル王は「ダビデの家」の子である、と読める。つまり、イスラエル王アハズの孫ヨラムはイエフに誅殺されたのではなく、戦死したのかもしれない。
165
58ハザエル、ガトも攻略列王記下一二章一八節によれば、ハザエルはガトというペリシテ人の都市の一つを攻略している。ガトと同定されるテル・エッ・ツァフィの発掘では、紀元前九世紀の後半、まさにハザエルの時代に大規模な破壊の跡が見つかっている。165-166
58ハザエルの子が「ベン・ハダド」という名前で登場列王記下一三章三節では、ハザエルの子が「ベン・ハダド」という名前で登場している。ハザエルの先王も「ベン・ハダド」であった。この呼称がダマスコ王の通称ではないかという説の所以である。166
58アラム語碑文にも登場ハザエルの子ベン・ハダドの方は、北シリアで見つかったアラム語碑文にも登場する。166
58ヘブライ語の「ベン・ハダド」=アラム語の「バル・ハダド」「ベン」というのはヘブライ語で「息子」という意味で、「ハダド」は天候神の名前だから、ベン・ハダドは「ハダドの息子」という意味になる。アラム語で「息子」は「ベン」でhなく「バル」というので、アラム語の碑文には「バル・ハダド」という名前で登場する。166
58「ハマト」の国の王「ザクル」この碑文は、「ハマト」の国の王「ザクル」が作成させたものである。ハマト王国はカルカルの戦いに臨んだ連合国中、ダマスコに次ぐ二番目の勢力を誇っていた。166
58ハマトとダマスコの同盟は崩壊/前800年頃碑文がつくられたのは、この出来事の半世紀ほど後、紀元前八〇〇年ごろのことである。このころまでに、ハマトとダマスコの同盟は崩壊していた。166
58「バアル・シャマイン」の加護で、ダマスコ軍ひとりでに撤退碑文によれば、ザクルはダマスコのバル・ハダド率いる新連合軍によって包囲されたが、「バアル・シャマイン」という神の加護により、包囲軍は奇蹟的に去っていった。167
58ハザエルの息子のベン・ハダドのシリア・パレスティナ覇権の弱体化このバル・ハダドは聖書の中のハザエルの息子のベン・ハダドと同定できる。父ハザエルからのその勢力を受け継いだ彼は、このころまでシリア・パレスチナの覇権を握っていたようだ。167
58「アダド・ネラリ三世」のアッシリアの西方遠征「アダド・ネラリ三世」というシャルマネセル三世の孫に当る人物が再び西方に遠征を開始したのである。167
58ダマスコ王ベン・ハダド降伏この一連の遠征でアラム・ダマスコのベン・ハダドはアッシリアに降服し、アラム・ダマスコの勢力は著しく弱まった。167
58「サマリア人ヨアシュ」=イスラエルの王ヨアシュアダド・ネラリの碑文には「サマリア人ヨアシュ」としてイスラエルの王ヨアシュがアッシリアに貢ぎ物を贈ったことが記録されている。
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イエフの孫であるヨアシュがまたダマスコ王のシリア・パレスティナ連合から抜けがけし、虎の威をかる狐のごとく、アッシリアを呼び込んで、アッシリアの属国にした。
自分は、アッシリアの属国の王として存続させてもらったようだ。
167-168
58結局アッシリアがダマスコを制圧したヨアシュがアラムを撃退できた背景には、アダド・ネラリ三世の西方遠征によるダマスコの弱体化があったと考えてよいだろう。168
58「テル・エン・ゲヴ」という遺跡イスラエル北部、ガラリヤ湖の東岸に「テル・エン・ゲヴ」という遺跡がある。169
58「ケースメート式壁」図5-9の写真は「ケースメート式壁」と呼ばれる壁で、並列する二本の壁とその内部を仕切るように垂直方向に壁がついている。仕切られた小部屋一つ一つを「ケースメート室」と呼ぶ。169
58エン・ゲヴはダマスコ近郊エン・ゲヴはその位置がダマスコに近いことから、列王記上20章26節、同29-30節にアラム人の町として描かれる「アフェク」という町ではないか、と考えられてきた。169-170
58アハズヤはじめて聖書以外の文献に登場するユダの王は、紀元前九世紀半ばの王アハズヤである。170
58イエフに殺されたユダ王アハズヤはイエフのクーデターの際に、イスラエル王ヨラムとともに殺害されたユダの王であった(列王記下8章26-29節)。170
58イエフがヨラムとアハズヤを討ち取る/聖書列王記下九章によれば、イエフはまず自分の主君ヨラムを、そして次に逃げるユダの王アハズヤを、ともに自ら討ち取っている。170
58「ダン碑文」のヨラムとアハズヤ一方、ヨラムとアハズヤは前に紹介したダン碑文に次のように言及されている。170
58イスラエル王ヨラムとダビデの家の王アハズヤフを殺した「私は数千両の車と数千騎の騎兵をつないだ強力な王たちを殺した。
私はイスラエルの王〔アハブ〕の子〔ヨ〕ラムとダビデの家の〔王ラム〕の古〔アハズ〕ヤフを殺した。」
170
58「ダン碑文」ではヨラムとアハズヤは国防戦による戦死碑文の作者がハザエルというアラム・ダマスコの王だったことを思い出してほしい。ダン碑文は、ヨラムとアハズヤを殺したのは、私であるハザエルだ、と述べていることになる。171
58イエフが自分が討ったと偽ったか、ハザエルの手先に成り下がったか「イエフがハザエルに利用されて殺害の実行犯となった」という説と「本当はハザエルが殺したのだが、イエフが自分を殺害者に仕立て上げた」という説の二つである。
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いずれにせよ、イスラエル・ユダの愛国者は、オムリ朝のヨラム王と「ダビデの家」のアハズヤであり、イエフは売国奴であったことになる。
171
58聖書は二次史料聖書は言わば「二次史料」であり、どうしてもその史料の価値といった観点において一次史料に劣る。171
58ヨアシュの息子は「ヤロブアム二世」さて、ヨアシュの息子は「ヤロブアム二世」と言った。ヤロブアムは北イスラエル最初の王の名前である。
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はたして、イエフの家系のひ孫がヤロブアム二世なら、イエフの王朝が続いたというのも疑問になる。アシェラの祭壇を築いた王の名を、原理主義者の家系が踏襲するだろうか。
172
58ヤロブアムの名前の刻まれた印章このヤロブアムの名前の刻まれた印章が、イズレエル平野にある「メギド」という遺跡の発掘で見つかった。172
58ヤロブアム二世の死後ヤロブアム二世の死後、イスラエルではクーデターが度重なった。172
58ティグラト・ピレセル三世一方、アッシリアでは紀元前七四五年にティグラト・ピレセル三世が即位し、再び国力を増強する。172
58ティグラト・ピレセル三世は列王記にはじめて言及されるアッシリアの王ティグラト・ピレセル三世は列王記にはじめて言及されるアッシリアの王で、またこの記述はイスラエルの王がアッシリアに貢納したことをはっきりと言及するはじめての記述でもある。172
58「プル」という名ただし、テゥグラト・ピレセル三世は、「プル」という名で言及されている。172
58「サマリアのメナヘム」がアッシリアに貢納イスラエル王メナヘムが貢納した、という列王記の記述は、「サマリアのメナヘム」がティグラト・ピレセル三世に貢ぎ物を送った、と記録するアッシリアの碑文から裏づけられている。173
58ペカが簒奪メナヘムの子は「ペカフヤ」と言った。ペカフヤは「ペカ」という人物によって殺害され、今度はペカがイスラエルの王になった。173
58ユダ王がアラム・ダマスコをアッシリアに売るヨタムの子アハズの時代、イスラエルとアラム・ダマスコの連合軍に攻撃されたユダ王国は、ティグラト・ピレセルに頼んでダマスコを攻撃してもらい、その結果アラム・ダマスコは滅亡した。173
58「シリア・エフライム戦争」この戦争のことを「シリア・エフライム戦争」という。「シリア」というのは「アラム」のことで、「エフライム」というのはここで「イスラエル」のことを指している。173
58ホシェアがペカから王位簒奪このときイスラエル王国内部ではまたもやクーデターが勃発した。列王記下一五章三〇節によれば、「ホシェア」という人物がペカに謀反を起して王位を簒奪した。173
58アッシリアがホシェア王をした同じ出来事が、アッシリアの碑文では、「彼ら〔イスラエル人〕は自分たちの王ペカを殺し、私〔ティグラト・ピレセル〕はホシェアを彼らの上に〔王として〕置いた」と記している。174
58北イスラエル王国の滅亡そしてその後、ホシェアはアッシリアに対して叛乱を起こし、これが最終的に北イスラエル王国の滅亡につながった。174
58アッシリア文献の
「ユダのヨアハズ」
アッシリアの文献には、当時アッシリアに貢納した王国のリストに、「ユダのヨアハズ」という名前が見える。「アハズ」という聖書に出てくる名前は「ヨアハズ」という正式名称から「ヨ」(ヤハウェの短縮形)という神名に当たる部分を取った省略形だったようである。175
58ヒゼキヤの時代、アッシリアの侵攻さて、アハズの子は「ヒゼキヤ」という名前であった。このヒゼキヤの時代、史上はじめてアッシリアがユダを攻めた。176
58ユダの町はセンナケリブにより征服この叛乱の結果、ユダの町はセンナケリブにより征服された。176
58ヒゼキヤ攻囲に窮するセンナケリブの碑文によると、エルサレムは攻囲され、ヒゼキヤは「籠の中の鳥」のようにされた。178
58アッシリア軍からの解放で奇蹟捏造列王記下19章35-36節は、このアッシリア軍からの解放を次のように説明している。178
58一夜で18万5千人のアッシリア兵が死?「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で一八万五〇〇〇人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。」178
58裏取引で民衆をだますおそらくヒゼキヤとの間に交渉が成立し、ヒゼキヤは罰として重い貢納を課せられたのであろう。178
58ヒゼキヤの息子マナセヒゼキヤの息子マナセは、王位に就くと、父ヒゼキヤとは逆にアッシリアに再び服従した。181
58マナセのアッシリア服従のファクトアッシリアの碑文には「エサルハドン」というセンナケリブの息子がニネヴェに宮殿を建てた際に動員した西方の王の一人として「ユダのメナセ」として言及されている。181
58列王記はマナセ=邪悪な王列王記はマナセをユダの王の中でもとりわけ邪悪な王として描いている。181
58ヒゼキヤのヤハウェ宗教推進の宗教改革を逆行させたからヒゼキヤが宗教改革を行い。ヤハウェ宗教を推し進めたのに対し、マナセは父の行った宗教改革に逆行するような行いをした、と責めている。181
58マナセ治世55年で最長の安定しかし、マナセの時代は政治的には安定していたようで、マナセは実に五五年もの間王位にあった。この治世の長さはイスラエル・ユダ両王国の王の中で最長である。181
58マナセの息子「アモン」が家臣によって殺害マナセの息子「アモン」が家臣によって殺害されると、その子「ヨシヤ」が八歳で王位に就いた。アモン殺害の背景はわかっていないが、彼が反アッシリアの動きに内応した可能性もあるだろう。181
58ヨシヤのヤハウェ原理主義宗教改革アモンの子ヨシヤがユダ王国内の宗教改革に乗り出したのは、ちょうどアッシリアが衰退していくこの時代のことであった。182
58ヤハウェ崇拝の正しい場所を唯一と限定申命記には、ヤハウェ崇拝の正しい場所を唯一と限定する、など、他のモーセの律法の書には見られない事柄が含まれており、本当に他の律法の書物と同じ筆者が書いたのかどうかは、かなり昔から疑われていた。182
58申命記史家が捏造そのため一部の研究者は、申命記が、ヨシヤの宗教改革を実行するうえで、改革の基盤を権威づけるために編みだされたものだろう、と考えている。
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ヨシヤの時代に、申命記史家が聖書の捏造をはじめたと推定される。
182
58ヨシヤが理想の王として列王記はこうした宗教改革を断行したヨシヤに対して非常に積極的な評価を下している。ヨシヤが理想の王として描かれているのだ。183
58最期はあっけないこうして並ぶ者なき王として列王記に描かれているヨシヤだが、その最期はあっけないものであった。183
58エジプトのネコにメギトで殺害「彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向ってユーフラテス川を目ざして上って来た。ヨシヤ王はこれを迎え撃とうと出て行ったが、ネコは彼に出会うと、メギトで彼を殺した。183
58ヘブライ語原文に(ネコを「迎え撃とうとし」た)はないこの訳は新共同訳だが、ここでは少し誤解を与える訳になっている。原文のヘブライ語にはヨシヤ王がネコを「迎え撃とうとし」た、とは書かれていない。この部分の原語は「彼に向って出て行った」と言う意味であり、「出て行った」理由・目的が何であったかには触れられていない。183
58山国の小国ユダの王はエジプトと野戦する軍事力なし山がちな小国ユダの王ヨシヤには、エジプトの軍勢を率いるネコに野戦を挑むだけの軍事力はなかったであろう。184
58エジプトはアッシリアを助けるために来たアッシリアと同盟していたネコがユーフラテス川に向って言った理由は、アッシリアの王と戦うためではなく、むしろアッシリアの王を助けてバビロニア軍を戦うためであった。184
58イスラエルの歴史家ナダウ・ネエマンの推測ではなぜ、ヨシヤはネコに会いに行き、そして殺されたのだろうか。以下はイスラエルの歴史家ナダウ・ネエマンが推測する一つのシナリオである。184
58ヨシヤ、アッシリアの弱体化につけこんで旧イスラエル領域に進出を画策ヨシヤはアッシリアの弱体化に乗じてユダヤの勢力を北に、つまり当時すでにアッシリアの直轄領であったかつてのイスラエル王国の領域にまで伸ばそうとしていた。184
58ベテルとサマリアの聖所を破壊(これは捏造)ヨシヤはかつての北イスラエル王国の領土であったベテルに行き、そこの聖所を破壊したこと、またサマリアの聖所も破壊したことが列王記に記述されている(これが史実であった可能性は低いが)。184
58エジプトの領土侵犯によって処刑された北イスラエルの旧領土は、エジプト側にしてみればアッシリアから受け継いだエジプトの支配領域であり、ヨシヤがかつての北イスラエルの領域の一部に触手を伸ばしたことは、アッシリアに代わるユダの新しい宗主を自認していたエジプトへの忠誠を破ったと解釈され、その結果ヨシヤは罰として処刑された、というのである。184-185
59節目次エルサレムの陥落とバビロニア捕囚184
59ネコが、ユダの王の首すげ替えヨシヤが死ぬと、民はその子「ヨアハズ」をユダの王に立てたが、エジプトの王ネコは彼を廃位し、ヨシヤの別の息子「ヨヤキム」を王に据えた。185
59ヨヤキムの治世にネブカドネザル侵攻ヨヤキムの治世に、ネブカドネツァル王率いる新バビロニアの軍隊がはじめてユダを攻撃し、ヨヤキムは三年これに服従したのち反逆した。185
59ヨヤキムはおそらく戦死、ネブカドネザルの傀儡「ヨヤキン」を王位にヨヤキムが反逆すると、ネネブカドネツァルは再びエルサレムを攻囲したが、その最中にヨヤキムは死に、その子「ヨヤキン」が王位に就いた。ヨヤキンを王位に就けたのは親バビロニア勢力だったのかもしれない。185
59ヨヤキンを捕囚し、叔父つまりヨシヤの息子を王位に?ネブカドネツァルはヨヤキンに代わってそのおじの「ゼデキヤ」、つまりヨシヤのもう一人の息子をエルサレムの支配者に据えた。ヨヤキンは、というと、彼はバビロニアに連れていかれたのである。185
59聖書はゼデキヤが王
バビロニアの史料は
ヨヤキンが「ユダの王」
聖書はゼデキヤを王として描いているが、バビロニアで発見された食糧配給記録には、首都バビロンに滞在していたヨヤキンが「ユダの王」という称号とともに記されていた。186
59ゼデキヤが実際にはバビロニアから認知されず次の例は、ゼデキヤが実際にはバビロニアから王として認められていなかった可能性を示しているかもしれない。
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おそらくそうだろう。では、ゼデキヤをネブカドネザルが据えたというのは虚偽の記述であろう。捏造班は、ゼデキヤを正式の王とするために、ネブカドネザルによって据えられたことにしたのだろう。
186
59アッシリアの「代官」=ジモティーの「王」北シリアのテル・フェヘリイェという遺跡から見つかった紀元前九世紀の石製の人物像をは、アラム語とアッシリア語の二言語によって碑文が刻まれていた。186
59アッシリア語は「アッシリアの代官」
アラム語は「王」
その中では、碑文を刻ませた人物を、アッシリア語の方では「アッシリアの代官」と呼び、アラム語の方では「王」と呼んでいる。おそらく、自分の支配民の間では「王」と名乗り、宗主であるアッシリアに対しては「代官」としてふるまっていたのだろうか。
***********************
ヒッタイトも「副王」を、ヒッタイトの代官として、王族が派遣する場合と、遠い国は、地元の王をそのまま「副王」=「代官」として採用する場合があったようだ。アッシリアも征服すると、地元の王族から傀儡の王を選び、地元民の「王」にして、アッシリアの「代官」として据えたと思われる。
186
59ゼデキヤの叛乱から
エルサレム破壊
バビロン捕囚
ゼデキヤもやがて新バビロニアに対して叛乱を起こし、ついにエルサレムは新バビロニア軍によって破壊され、民の多くはバビロニアに連行されてしまった(バビロン捕囚)。186
59親衛隊の長ネブザルアダンの神殿焼却「第五の月の七日、バビロンの負うネブカドネツァルの第一九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。」186-187
59エルサレムの城壁破壊「また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の壁を取り壊した。」187
59投降者は捕囚「民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。」187
59貧民は残留「この地の貧しい民の一部は親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。」187
59神殿の規模は不明神殿のあったはずの場所は発掘できないために、神殿自身が燃やされたのか否かについては考古学的証拠が残っていない。187
59破壊の痕跡はありしかし、他のいくつかの場所では、この時代の大火の痕跡のある厚い堆積層が発見された。・・・エルサレムがこのとき大規模に破壊されたことを物語っている。187
61章目次第六章 一神教の形成からキリスト教へ189
61節目次エルサレム帰還とユダヤ教の成立189
61聖書の主張するユダ王国の滅亡紀元前五八七年あるいは五八六年、新バビロニアに滅ぼされたユダ王国はダビデ王朝樹立から数えて四〇〇年以上にわたるその歴史を閉じた。189
61キュロスによる解放/エズラ記エズラ記によれば、バビロニアに連行され、そこで暮らしていたユダの人々は、ペルシア王キュロスの宣言によりエルサレムに帰還することが可能になった。190
61「キュロスの円筒碑文」/ファクト「キュロスの円筒碑文」と呼ばれる碑文で、長い間バビロンに略奪品として収められていた各地の神像などを、キュロスがもとの場所へ返却したことが記されている。190
61ユダの人々を解放したとは実は一言もない少なからぬ研究者は、こうしたキュロスの異民族政策と関連して、ユダの人々のエルサレムへの帰還も許可されたのだと推測している。190
61「エズラ」や「ネヘミヤ」といった指導者による「帰還」と「第二神殿建設」はあったか?こうして「解放」された人々は「エズラ」や「ネヘミヤ」といった指導者を中心にエルサレムに帰還し、バビロニアによって破壊された主の神殿を再建する。この神殿を「第二神殿」と呼ぶ。「第二」なのは、「第一神殿」がソロモンの建てた神殿を指すからである。190
61三つの神殿建設の真実第二神殿はその後のローマ時代、ヘロデ大王によって大規模な改修工事をされるものの、紀元後七〇年、ローマ軍によるエルサレム陥落のときに破壊された。
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第一神殿は建設されず、第二神殿の建設もあやしいが、ケチな神殿が建ったのかもしれない。かなり壮麗な神殿を立てたのは、エドム人のギリシア系のヘロデ大王であると推定される。
190
61ペルシア時代のユダは「イェフード」ペルシア時代のユダは「イェフード」と呼ばれていた。後にこれがヘレニズム時代を経てローマ時代までには「ユダヤ」と呼ばれるようになり、そこに住む人々のうち、特にユダヤ教を信奉する人々を「ユダヤ人」と呼ぶことになった。192
61ペルシア時代、パレスティナに資料なしペルシア時代については十分な文献・考古学的資料が不足しており、その時代のパレスチナの現状は十分にわかっているとは言いがたい。
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つまり、キュロスは解放したかもしれないが、ペルシアは弱小のユダヤ人に国家を復帰する利点を見出せず、直轄領のままとしたのだろう。優秀なフェニキア人は独立国家にして彼らから多大な利益を得ることができた。パレスティナには、ネブカドネザルの残した民の子孫とそのあと流入した人々が住み続けただろう。もちろん立派な神殿が建てられたとは思われない。何しろ、あれだけの史料を残したヘーロドトスが何一つ記録を残していないのだから。
192
61旧約聖書の多くの書物が編纂いずれにせよバビロン捕囚時代とペルシア時代こそ、ユダヤ教がその宗教共同体としての基礎を形成した時代と言ってよいだろう。旧約聖書の多くの書物もこの時代に編まれた。192
62章目次東西文化の融合194
62ヘレニズム時代に
ダニエル書
パレスチナはヘレニズム時代を迎える。
ダニエル書が書かれたのも一般的にこの時代だと考えられている。
194
62ヘレニズム時代の歴史は「続編」にまたこの時代を描いた物語は旧約聖書の続編に含まれている。194
62「ハスモン朝」/最初のユダヤ原理主義国家ヘレニズム時代後期には、ユダヤ人が「ハスモン朝」と呼ばれる独立王国を一時的にユダヤに打ち立てた時代でもあった。
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ラビどものいう形でのユダヤ人の王国は、この「ハスモン朝」からヘロデ朝成立までであろう。
ヘロデ朝は、エドムによるユダ王国の征服である。
196
62「ヘリオドロス碑文」近年テル・マレシャから碑文の断片が見つかり、依然すでに見つかっていた碑文断片と接合することがわかった。
二つの断片を合わせて「ヘリオドロス碑文」と言われ、セレウコス朝のセレウコス四世が紀元前一七八年に残したものであることが明らかになった。
197
62「コエレ・シリア」当時、ユダヤ地方を含むシリア・パレスチナは「コイレ・シリア」と呼ばれていた。198
62オリンピオドロスを「監督官」として任命この碑文によれば「オリンピオドロス」という人物がコエレ・シリア一帯の「監督官」として任命されている。198
62ヘリオドロス宛の命令この命令はセレウコス四世から発せられ、「ヘリオドロス」なる人物に宛てて送られた。198
62「続編」マカバイ記の子供だましの作り話このヘリオドロスは、旧約聖書続編のマカバイ記ニの三章に記されている同名の「宰相ヘリオドロス」とおそらく同一人物であろう。マカバイ記の話によると、ヘリオドロスはセレウコス四世の代官であった。彼はエルサレムの神殿の宝物を盗もうとするのだが、神殿に侵入した彼の前に神の使いたちが現れ、驚く彼を鞭で打擲したのである。
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コエレ・シリアは、セレウコス朝の領土であり、ユダヤ人どもはその民衆であった。ケチなエルサレムの神殿に「宝物」といえるものはあろうはずもなく、あれば、それはセレウコス四世のものであろうから、盗み出そうとしたのは、レジスタンスのユダヤ教原理主義者どもの野盗集団であるマカバイ朝を形成するユダヤ人どもであろう。
198
62セレウコス四世の死この三年後セレウコス四世は暗殺され、弟のアンティオコス四世が王位に就いた。
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セレウコス四世が神罰で死んだというなら、ハドリアヌス帝はなぜ神罰で死なない。
198
63節目次栄光の再来198
63ハスモン家がユダヤ人の王国を「再興」このセレウコス朝下でユダヤ人は叛乱を起こし、ハスモン家がユダヤ人の王国を再び樹立することに成功した。198-199
63アンティオコス四世が神殿を汚したことから叛乱勃発/前167年きっかけは紀元前一六七年、アンティオコス四世が神殿を汚したことにあった。ダニエル書11章31節、同12章11節ではこの事件のことが「憎むべき荒廃」として描写されている。199
63神殿奪還セレウコス朝との戦いに勝ち、異邦人の手から神殿を奪還したユダヤ人たちは、神殿を清める儀式を行った。この儀式はろうそくを八日間ともさねばならなかったが、神殿には一日分の油しか残っていなかった。ところが、この一日分の油で、八日間ろうそくがともる、という奇蹟が起こったとされる。
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ハスモン朝が前167年神殿を奪還したのだから、それまではセレウコス朝の所有物であった。
199
63エルサレムが神権政治の聖都へユダヤ人の王朝であるハスモン朝のもとで、ユダヤ教は繁栄した。特に神殿のあったエルサレムは政治と宗教の中心地として大いに栄えた。200
63「剣とコーラン」はハスモン朝の発明ハスモン朝は征服していった地域の住民に、ユダヤ教に改宗するか土地から出て行くかを迫ったという。
人々が出ていった後の土地には、ユダヤ人を入植させた、というのである。言わばパレスチナの「ユダヤ化」が進んだ時代であった。
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「剣かコーランか」の始祖はユダヤ人原理主義者であったということになる。
ユダヤ人の中にも、もとフェニキア人やアラム人で、合理的な人々はいただろうが、ユダヤ教を強制されたということだ。これは日本国憲法の精神に悖る。
日本国憲法「第19条 良心の自由」「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」に抵触する。
宝塚自殺事件の自称「被害者」の家族が、特定の宝塚の生徒と名指しして「加害者」と呼び、良心に反して「謝れ、謝れ」と、言うのは、この侵害に該当する。
これまでのユダの王も、イスラエルの王も、宗教の押し付けはしなかった。征服しても、「心の中」だけは個人の「聖域」であり、そこに土足で踏み込むことはしなかった。ハスモン朝が、はじめて、この「神聖な掟」に土足で踏み込み、フェニキア人の「友愛と民主主義・男女平等」などの鉄則を「汚した」のである。ユダヤ教原理主義の一部のラビどもは、対多数の原理主義者でないユダヤ人の生命をこれから未来永劫にわたって危険にさらし、憎しみの的とした。ユダヤ人が一神教を剣で押し付けるなら、それに対して武器を取ることは正当防衛である。ナチスドイツのホロコーストは、この時のハスモン朝の原理主義者の責任である。
200
63ガリラヤ地方のユダヤ化後にイエスが育ったガリラヤ地方が「ユダヤ化」されたのもこの時代である。
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北イスラエルは、歴史的にずっと異教信仰が栄え、ユダヤというより、フェニキアであった。イエスも、フェニキア人ローマ市民とユダヤ人の身持ちの悪い女との間の私生児であろう。
200
64節目次ヘロデによる神殿建築とその崩壊200
64イエスはヘロデ王の時代に生誕マタイによる福音書二章一節には、イエスが生れたのはヘロデ王の時代であったと書かれている。200
64ヘロデの生誕/前74年頃ヘロデが生れたのはハスモン朝の末期、紀元前七四年ごろのことと言われる。200
64イドマヤ人の武将の息子(エドム人)彼は異邦人、つまり非ユダヤ人であったイドマヤ人の武将の息子として生まれた。200
64父親はユダヤ教に改宗し、ハスモン朝に仕える/ローマのカエサル支持へ彼の父親はユダヤ教に改宗し、ハスモン朝に仕えていたが、ローマがパレスチナで勢力を強めると、ローマ軍の軍事行動を積極的に支援し、ローマのユリウス・カエサルの信任を得ている。200-201
64ローマ支持続行カエサルの死後、ヘロデはマルクス・アントニウスの支持に回った。しかしアントニウスが敗北すると、今度はオクタウィアヌスを支持するようになる。201
64ローマの力を背景にパレスチナに勢力このように常にローマの勢力を後ろ盾にしながら、巧みに同盟相手を乗り換えることによって、ヘロデは着実にパレスチナでの権力を強固なものにしていった。201
64ハスモン朝の王女と結婚彼がユダヤ教に改宗したことや、ハスモン朝の王女を妻に迎えたことは、自分の統治していたユダヤ人に受け入れられやすいようにするための方策だったと言われている。201
64ローマからユダヤ王として承認/前37年ヘロデは、紀元前三七年にローマからユダヤ王として認められると、自分に叛乱を起こしそうなハスモン朝の末裔たちを次々に殺害していった。201
64ユダヤ人の妻とその間の子殺害自分の妻と二人の息子をも含めた親族たちもである。201-202
64ヘロデ王死亡/前4年ヘロデが死んだのは紀元前四年である。先ほどの福音書の記述に従えば、イエスはそれよりも前に誕生していたことになる。202
64エルサレムの神殿の修復と拡張自分の息子まで手にかけるという残忍な一面を持っていたヘロデ大王であったが、他方、彼はその生涯中に行った様々な建設活動でローマ世界に名を轟かせている。とりわけ特筆すべきはエルサレムの神殿の修復と拡張である。202
64神殿の構造はそのままに拡張当時のエルサレムの神殿は、ペルシア時代に建てられた第二神殿であった。律法の細かい指示に則って建てられた神殿自体の構造・装飾を変更することは避け、ヘロデは神殿を取り囲む部分の拡張と装飾に集中した。202
64叛乱とエルサレム破壊/70年その結果、紀元六六年、ユダヤ人はローマに対する大規模な叛乱を開始した。そして紀元七〇年になると、エルサレムはローマ軍によって破壊され、その住民は奴隷となり、ヘロデが大拡張した美しい神殿もまた破壊されてしまったのである。202
64バル・コホバの乱/132-135年紀元一三ニー一三五年にユダヤ人は再びローマに対して叛乱した(バル・コホバの乱)あるいは「第二次ユダヤ戦争」。203
64紀元三〇年代、イエスの時代、神殿建設中紀元三〇年代、イエスがエルサレムとその神殿を訪問したころ、神殿の一部はまだ建設中であった。ヘロデが着手した建築計画はヘロデの死後も続けられ、着手からほぼ一〇〇年経ってようやく完了したのである。204

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