本の内容
書名:『メソポタミア文明』
著者:ジャン・ボッテロ/マリ=ジョセフ・ステーヴ
監修:矢島文夫
シリーズ:知の再発見双書43
出版社:創元社
出版年月日:1994年12月20日
目次
第1章 ペルセポリスの楔形文字の謎
第2章 歴史を遡る解読者たち
第3章 アッシリアの王宮
第4章 歴史はシュメールに始まった
第5章 メソポタミアの歴史を彩った王国
資料編
1 世界文学になった『ギルガメシュ叙事詩』
2 領事たちの発掘
3 バビロン、その失われた栄光
4 マロワンの業績
5 考古学のレッスン?
6 ルーヴルのアッシリア展示室
引用文
| 章 | 要約 | 引用文 | 頁 |
|---|---|---|---|
| 1 | 章目次 | 第1章 ペルセポリスの楔形文字の謎 | 17 |
| 1 | スペインのユダヤ人ベンジャミン/1160-1173 | ヨーロッパ人として最初にこの地に足を踏みいれたのは、スペインのユダヤ学者ベンジャミンである。ベンジャミンは1160年から1173年にかけて現在のイラン、イラクを旅行し、ティグリス河畔のモースルやその近郊の廃墟を訪れた。 | 19-20 |
| 1 | イタリア・フランス・ドイツ人/1620-1765年 | 1620年にはイタリアのピエトロ・デッラ・ヴァッレ、1632年にはフランスのジャン=バティスト・タヴェルニエ、そして1765年にはドイツのカールステン・ニーブールがベンジャミンのあとに続き、メソポタミアからペルシアにかけての地域を旅行する。 | 20 |
| 1 | ニーブールの楔形文字発表で解読の気運/1774年 | 1774年にカールステン・ニーブールがそれまでの資料をもとに現地での調査結果を加えて、めっみつに校訂したその文字の写しを著書のなかで発表すると、学者たちの間ではこの文字の解読に挑戦しようという気運が一気に盛りあがった。 | 20 |
| 1 | 3種類の書体 | ニーブールの筆写した碑文は、一見、同じような楔形の文字で記されているように見えて、よく見ると3種類の書体が使われていることがわかった。 | 22 |
| 1 | 高校教師グローテフェント | やがて、ドイツの高等学校で教鞭をとっていた若き古典語学者ゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントによって、解読の最初の一歩がしるされる。 | 24 |
| 1 | フランスの碩学シルヴェストル・ド・サシ | 1793年、フランスの碩学シルヴェストル・ド・サシが、パハラヴィー語で書かれたササン朝ペルシアの碑文の解読に成功する。 (1758年、公証人ジャック・アブラアム・シルヴェストルの次男として生まれた。「ド・サシ」の部分は長男と区別するために当時のパリのブルジョワジーの習慣に従って追加したものである。1781年に造幣裁判局(Cour des monnaies)の顧問に任命され、1785年に碑文アカデミーの準会員となり、1792年には正規会員になったが、革命の嵐のために同年公務から退き、パリ近郊に隠棲した。1795年に活動再開。Wikipedia。つまり、ユダヤ系で、デュポールらの合法的革命の時期には活動し、革命が有事政権になったころに地下に潜った。 「ド・サシ」にブルジョワジーの「ド」フェッチが現れている。真正貴族が「ド」にこだわらず、ブルジョワジーが「ド」をつけたがる風潮を如実に示している。) | 27 |
| 1 | グローテフェントのド・サシ研究利用しての解読に先鞭 | ド・サシの研究によって、ササン朝の碑文には、「何某、偉大な王、諸王の王、何王の息子」という定型句が使われていることがわかった。ササン朝の碑文にそのような定型句があるなら、アケメネス朝の碑文にも同じような定型句が使われているにちがいない。 (グローテフェントは、これを利用して、アケメネス朝のペルシア語の第1種を解読した。) | 27 |
| 1 | 素人論文として無視 | 1802年9月、グローテフェントは解読の結果を論文にまとめて、母校のあるゲッティンゲンの学士院に提出した。だが、その論文は、憶測に憶測を重ねたものとして無視された。 | 27 |
| 1 | 第1種文字は節文字の性格も | 第1種文字の解読は容易に進まなかった。第1種文字は純粋なアルファベットではなく、音節文字の性格も備えていたからである。 | 28 |
| 1 | ビストゥーンの断崖 | 1835年から2年間にわたって、イギリスの青年士官ヘンリー・ローリンソンが、ザグロス山脈の山あいにあるビストゥーンの断崖で採取した碑文の存在が大きい。 | 29-30 |
| 1 | ローリンソン、第1種文字解読 | グローテフェントが最初の一歩を刻んでから数十年後、第1種文字が表した言語である古代ペルシア語はほぼ解明された。そうなると、学者たちの関心は、第2種、第3種の文字の解読に向けられた。 | 36 |
| 1 | 第2種文字=音節文字 | まずこの第2種文字が基本的に音節文字であるということである。 | 37 |
| 1 | 第2種文字は無秩序 | 単音節文字と、複音節文字があることもわかった。単音節文字をふたつ使って表される場合があることも明らかになった。 さらに多くの表意文字が見つかったことである。 | 37 |
| 1 | 第2種文字=エラム語 | 第2種文字で書かれた言語はエラム語であることがわかっている。 | 37 |
| 1 | スーサ発掘/1897年 | スーサ・・・・1897年、フランスの考古学者ジャック・ド・モルガンによって、ついに本格的な発掘が始められる。 | 37 |
| 1 | スーサで第2種文字多数出 | 第2種文字の文書が数多く発見された。 | 37 |
| 1 | イギリス・ロマン派の画家ロバート・カー・ポーター | イギリス・ロマン派の画家ロバート・カー・ポーター(1777-1842年)は、風景画家としての名声を得たあと、1810年代に中東、特にペルシアのあたりを旅行する。 | 31 |
| 1 | 古代の有名な遺跡や廃墟をスケッチ | 旅行の目的は、画家としての才能を活かして、古代の有名な遺跡や廃墟をスケッチすることにあった。 | 31 |
| 1 | 200枚の絵画が、興味をかきたてる! | ポーターは風景を忠実に描き、200枚ほどの絵画を残した。 ぽーたーの描いたこの貴重な絵画によって、ヨーロッパの人々はビストゥーンの岩山に興味を持つことになる。 | 31 |
| 1 | ボルシッパの遺跡 | バビロンの近郊には、南に約20km行ったところにビルス・ニムルード(古代名、ボルシッパ)という場所があった。 | 35 |
| 1 | テルと塔 | 砂漠のなかに廃丘(テル)が1つぽつんとあって、塔のようなものがそびえていた。 | 35 |
| 1 | ナブ神のジッグラト | 新バビロニア時代(前600年頃)にナブ神に捧げられた聖塔(ジッグラト)であることがわかった。 | 35 |
| 2 | 章目次 | 第2章 歴史を遡る解読者たち | 41 |
| 2 | 第3種の文字 | この第3種の文字については、それが解読される以前から、同じような文字を刻んだ粘土板や石碑、彫像がメソポタミアの各地で見つかっていた。 | 42 |
| 2 | 500を超える文字 | 第1種文字が42文字、第2種文字が113文字であるのに対して、第3種文字では、少なくとも500を超える文字が使われている。 | 43 |
| 2 | シャルマネセル3世の黒色オベリスク/ファクト | 〔註〕レヤードが発掘したシャルマネセル3世のオベリスク アッシリア王シャルマネセル3世(在位 前858-前824年)は、戦勝を記念するため、首都カラフ(現ニムルード)の宮殿に、高さ2mの黒いアラバスター製のオベリスクを建てさせた。 王に服従を誓う他民族の様子を描いたものなど(そのなかにはイスラエルもあった)、1面に5つ、4面で合計20のレリーフが彫られていた。 ロンドンの大英博物館にほとんど完璧な状態で展示されている。発見者は、イギリスのアッシリア学者ヘンリー・レヤード。 (黒色オベリスクというものの、太陽神のオベリスクと違って、頭頂がピラミディオンではなくジッグラトである。) | 42-43 |
| 2 | 表音文字と表意文字の組み合わせ | 第3種文字で書かれた言語が表音文字と表意文字を組み合わせて使っているという結論に達した。 | 43 |
| 2 | 単音節文字と複音節文字 | エラム語と同じように、それには単音節文字と複音節文字があり、複音節文字は単音節文字ふたつで表現できることもわかった。 | 44 |
| 2 | 表意文字1文字でも表音文字2文字でも | 〈王〉の意味をあらわすのに、〈sarru〉という表意文字1文字で書くことも、音節文字を使って、〈sar-ru〉と二文字で書くこともできたのである。 | 44-45 |
| 2 | 限定符 | やはりエラム語と同じように、限定符が存在することも明らかになった。たとえば、神の前には〈an〉という表意文字が置かれ、国名の前には〈土地〉や〈場所〉を意味する〈ki〉という表意文字が置かれる。 | 45 |
| 2 | 別の発音をもつ | さらに不思議なことには、同じ文字が別の発音を持つこともあった。たとえば、〈su〉という文字は、〈su〉とも〈kat〉とも発音できる。 | 46 |
| 2 | セム語族 | この第3種の文字で書かれた言語が、ヘブライ語やアラム語、アラビア語など、この地域で使われた、あるいは現在も使われている「セム語族」に属することがわかってきた。 | 48 |
| 2 | アッカド語 | 最初、学者たちはこの言語を「アッシリア語」と呼んだ。 アッシリア語とバビロニア語が方言ほどのちがいしかない、きわめて近い言語であることもわかっている(そのため、現在では、両者を総称して「アッカド語」と呼んでいる)。 | 48 |
| 2 | 筆写の効用 | アッシリア学者たちは、文字を忠実に写していった。 その間に文書になじみ、内容をより深く理解することができるようになる。その意味でも、これは大切な作業だった。 (写すということが、理解の第一歩。) | 49 |
| 2 | 絵文字から楔形文字へは進化か? | 〔註〕上の図と下の図は、絵文字から出発した文字が次第に抽象化され、「楔形文字」になっていく過程を示している。「楔」を使って表わすようになってからも、文字の形が簡略化されていくことがわかる。 (ただし、画数はほとんど変わらず、絵文字は、即物的に意味がわかるが、楔形文字は抽象的で、牛と魚の区別がつかない。アルファベットが爆発的に効率化を促進したことがわかる。) | 52-53 |
| 2 | すべてが表意文字 | この文字はアッカド語とは何のつながりもなく、すべてが表意文字であるらしいことがわかってきた。 | 60 |
| 2 | シュメール語 | 学者たちはこの言語を「シュメール語」と呼び、その文字を発明した人々を「シュメール人」と呼んだ。 | 60 |
| 3 | 章目次 | 第3章 アッシリアの王宮 | 67 |
| 3 | ボッタのモースル赴任 | フランスの外交官ポール=エミール・ボッタは、1842年、領事としてティグリス河畔のモースルに赴任した。 | 69 |
| 3 | ニネヴェはモースルの対岸 (東岸) | モースルに着任したボッタには、河をはさんで対岸に広がるこの廃墟のどこかに、聖書で有名なニネヴェの遺跡が眠っていることがわかっていた。 | 69 |
| 3 | クユンジク発掘に成果なし | 着任早々、ボッタは目の前のクユンジクの廃丘に手をつけた。だが、、文字の刻まれた煉瓦がいくつか見つかっただけで、目立った成果をあげることはできなかった。 | 69 |
| 3 | 隣のコルサバード | ところが、ある時、隣のコルサバードに行けば遺跡が見つかるという情報を得た。 | 69 |
| 3 | ニネヴェではなくドゥル・シャルルキン | 最初、ボッタはニネヴェの遺跡を発見したと思って大喜びした。だが、その後の調査の結果、そこはアッシリア王サルゴン2世(在位 前721-前705年)の築いたドゥル・シャルルキン(サルゴン城)の遺跡であることがわかった。 | 69 |
| 3 | 画家フランダン | また、先にペルセポリスの遺跡を描いた、画家のユージェーヌ・フランダンを派遣した。フランダンは、ボッタの指示にしたがって、発掘された彫像や、壁に張られたレリーフ板をスケッチしていった。 | 69-70 |
| 3 | 出土品をパリに輸送 | だが、ボッタはこれがすべてだと思いこんだ。王宮の図面ができあがると、ボッタは美術的に価値のある出土品を選んでパリに送った。 | 70 |
| 3 | 世界初のアッシリア展/inパリ、1847年 | 1847年2月、ボッタの送った荷物は、無事パリに到着した。その年の5月1日、パリではルーヴル宮殿の美術館を使って、世界初のアッシリア展が開かれた。 | 70 |
| 3 | イギリス人外交官レヤード | 発掘の試みは、イギリス人によっても行われた。1845年、当時モースルに滞在していたオースティン・ヘンリー・レヤードが、ボッタの成功を知って、自分も近くの廃丘を発掘してみようと思いたったのである。 | 72 |
| 3 | ニムルードの廃丘 | レヤードは、モースルから35km南にくだったニムルードの廃丘に狙いをつけた。 | 72 |
| 3 | 有翼人面牡牛像見て、ニネヴェと誤認 | 行ってみると、そこには城門の守護神である有翼人面牡牛像が地面から半分、身体を覗かせていた。レヤードはこれこそがニネヴェの遺跡だと思い、ボッタと同じように地下坑道を掘って、発掘を進めていった。 | 72 |
| 3 | ローリンソンが救援 | やがて、レヤードのもとに強力な援軍が現われた。楔形文字解読の立役者、ローリンソンである。 | 72 |
| 3 | 楔形文字を解読 | ローリンソンは、その頃、研究を進めていた第3種文字(アッカド語)の知識を使って、壁や像に刻まれた文字を読んでいった。 | 72-73 |
| 3 | カラフの遺跡と判明 | その結果、このニムルードの遺跡は、ニネヴェではなく、カラフの遺跡であることがわかった。 | 73 |
| 3 | 出土品を大英博物館へ | レヤードは、発掘したものをロンドンの大英博物館に送ると、1847年にニムルードをあとにした。 | 73-80 |
| 3 | レヤードとラッサム、クユンジク発掘 | しかし、あいかわらずニネヴェの遺跡は見つからない。そこで、1849年、モースル駐在のイギリス領事ホルムズド・ラッサムとともに、ボッタが発掘しかけて諦めたクユンジクの廃丘を掘ってみることにした。 | 80 |
| 3 | センナケリブ王宮発掘/ニネヴェと確定 | すると、廃丘の南西部から71の部屋があるセンナケリブ王(在位 前704-前681年)の王宮跡が見つかった。ニネヴェの遺跡はクユンジクに眠っていたのである。 | 80 |
| 3 | アッシュル・バニパル図書館発見 | 廃丘の北側を発掘してみると、2万5000枚の粘土板を含むアッシュ―ルバニパル王の図書館跡が見つかったのである。 | 80 |
| 3 | フランス領事プラスの赴任 | ちょうどその頃、モースルのフランス領事館には、ボッタに替わってヴィクトル・プラスという領事が赴任してきた。 | 81-82 |
| 3 | プラスはコルサバードを再発掘 | プラスはコルサバードの遺跡を見て、ここにはまだそれ以外の遺跡が埋まっているのではないかと考えた。そこで、ローリンソンとともに発掘を行ってみると、210もの部屋や多くの中庭を含む壮麗な王宮跡が見つかった。 | 82 |
| 3 | 出土品移送命令 | 1855年、プラスは、発掘品をパリに移送するよう政府から命令を受ける。 | 82 |
| 3 | 岸辺輸送の困難 | 何体もの巨大な有翼人面像をティグリス河の岸辺まで運ぶのは大変だった。 | 82 |
| 3 | アラブ人部族の襲撃の生き残りは有翼人面牡牛像一体だけ | 何とか発掘品をいかだに乗せたとき思いがけない不幸が起こった。ティグリス河とユーフラテス河の合流点にさしかかった時、アラブ人の部族に襲われ、いかだが沈没してしまったのである。パリに到着したのは、有翼人面牡牛像一体だけだった。 | 82 |
| 4 | 章目次 | 第4章 歴史はシュメールに始まった | 85 |
| 4 | サルゼックのシュメル発見 | エルネスト・ド・サルゼックの発掘に端を発する、いわゆる「シュメールの発見」である。 | 86 |
| 4 | テルローの廃丘 | バスラ駐在のフランス副領事、エルネスト・ド・サルゼックは、ある時、メソポタミア南部のテルローの廃丘に興味を持った。 | 86-87 |
| 4 | フランス隊/1877-1900年 | ド・サルゼックは1877年から発掘を開始した。発掘は1900年まで続き、1903年から1904年にかけては小規模の発掘も行われた。 | 87 |
| 4 | シュメル人発見 | 学者たちは、この民族を「シュメール人」と呼び、その言語を「シュメール語」と呼んだ。 | 87 |
| 4 | ラガシュの遺跡 | その後、テューロー=ダンジャンらの努力によってシュメール語が解読されると、ド・サルゼックの発掘したのは、シュメールの都市国家ラガシュの遺跡であることがわかった。 | 88 |
| 4 | ペンシルヴェニア大学のアメリカ隊、ヌファル発掘 | テルローで遺跡が発掘されると、それに刺戟を受けたのだろう、ペンシルヴェニア大学をはじめとするアメリカのいくつかの調査隊が、1889年から1900年にかけて、やはり南部のヌファルの遺跡を発掘する。 | 90 |
| 4 | ニップールと判明 | そこはニップールという古代の宗教都市の遺跡であることがわかった。 | 90 |
| 4 | バビロン発掘へ | そのバビロンがついに発掘される日がやってきた。 実を言うと、バビロンの遺跡は「発見」されたわけではなかった。現在イシュタル門として知られる大門とそこに至る大通りに沿った高い壁が、19世紀に入ってからも地中から、頭を出していたからである。 | 96 |
| 4 | ドイツ人学者コルデヴァイ | この壁にローベルト・コルデヴァイというドイツの学者が興味を持った。コルデヴァイは1899年から1917年にかけて大がかりな発掘を行ない、広大なバビロンの遺跡を太陽のもとにひきずりだした。 | 96-97 |
| 4 | 大都会 | その結果、街は50近くの監視塔を持つ2重の壁に囲まれ、内側には大小あわせて1000以上の神殿があったことがわかった。 | 97 |
| 4 | エ・テメン・アン・キ | その中心となるのはバビロニアの主神マルドゥクを祀ったエ・サギラ神殿で、楔形文字の文書などから、そこにはエ・テメン・アン・キ(天と地の境の家)と呼ばれる7階だての聖塔がそびえていたこともわかった。 | 97 |
| 4 | 新バビロニア時代の遺跡 | こういった神殿や、街の北部で発掘された王宮は、ナボポラッサル王からネブカドネザル2世をへてナボニドス王にいたる新バビロニア時代のものであった。だが、街の歴史はもっと古い時代に遡る。 | 97-102 |
| 4 | 古・中バビロニアは氾濫したユーフラテス河の下 | 古バビロニア時代、あるいはその後のカッシート王朝時代の遺跡は、街を流れるユーフラテス河が氾濫した時に川底に沈んでしまったのである。 | 102 |
| 4 | イギリス考古学者ウーリーのウル発掘/1922年~ | しかし、1922年、イギリスの考古学者レナード・ウーリーによって、ついにこのウルの遺跡に最初の鍬が入る。発掘は1934年まで続けられた。 | 112-113 |
| 4 | エ・テメン・ニグル残留 | 遺跡から月の神を祀るエギシュヌガル神殿が発見された。神殿には、当時の形を比較的正確に伝える、高さ20mの聖塔が残されていた。 | 113 |
| 5 | 章目次 | 第5章 メソポタミアの歴史を彩った王国 | 117 |
| 5 | イギリスの考古学者マックス・マロワン | 一方、同じメソポタミアの北部では、イギリスの考古学者マックス・マロワンによる精力的な発掘が開始されていた。 | 122 |
| 5 | テル・ブラク/1935-1939年 | また1935年から1939年にかけては、ニネヴェから北西に180kmほど行ったテル・ブラクとチャガル・バザルの遺跡を調査した。 | 123 |
| 5 | 目の神殿発見 | テル・ブラクではジェムデト・ナスル期(前3200年頃-前2700年頃)の神殿やアラバスター製の偶像が見つかった。 | 123 |
| 5 | アンドレ・パロの指揮するフランス隊 | マロワンがアルパチャーの発掘に取りかかった1933年頃、そこから300kmほど南西に行ったテル・ハリリでは、アンドレ・パロの指揮するフランス隊が発掘を行なっていた。 | 124 |
| 5 | マリ王国発掘 | その結果、そこは前18世紀頃に最盛期を迎え、やがて滅亡したマリ王国の遺跡であることがわかった。 | 124 |
| 6 | 資料編 | 領事たちの発掘 | 138 |
| 6 | 領事たちの発掘 | 1847年、モースル駐在のフランス領事エミール・ボッタがコルサバードを発掘すると、1845年にはやはりモースル駐在のイギリス領事オースティン・ヘンリー・レヤードがニムルードの発掘を始める。 また、1852年からは、ボッタにかわって赴任してきたヴィクトル・プラスがコルサバードの発掘を引きつぐ。メソポタミアの発掘は、こうした領事たちの活躍を抜きにしては考えられない。 | 138 |
| 6 | レヤードの本 | ヘンリー・レヤード著『ニネヴェとその遺産』 | 138 |
| 6 | アッシリアの彫像を神と思うイスラーム | 男たちは像を見ると、その場にひざまずき、お祈りを始めた。「これは神以外のなにものでもない。マホメットは、この神によって遣わされた預言者なのだ」誰かが言った。 | 140 |
| 6 | プラスの本 | ヴィクトル・プラス『ニネヴェとアッシリア』 | 141 |
| 6 | チャーターされた大型船が待機 | バスラに特別にチャーターされた大型船が待機してくれる手筈になっていた。 | 142 |
| 6 | 石の塊の重さを計る | 最初の仕事は、石の塊の重さを計ることである。 | 142 |
| 6 | 牡牛の彫刻32トン | 大男を彫刻した石の塊は、ひとつが13トンあることがわかった。牡牛を彫刻した石の塊は、ひとつが32トンもあった。 | 142 |
| 6 | 同じ牡牛の彫刻の運搬設置の場面が! | そもそも王宮にあったレリーフを見れば、この同じ牡牛の彫刻をアッシリア人たちが運び、私たちが発見した場所に設置している場面が描かれているではないか。 | 143 |
| 6 | 偶像崇拝者だと言って馬鹿にしている古代人の知識 | 私はそのレリーフを職人たちに見せ、君たちが偶像崇拝者だと言って馬鹿にしている古代の人々がこれだけのことをしているのに、それができないとは恥ずかしいとは思わないのかと言ってやった。 | 143 |
| 6 | アラブ人襲撃 | クルナの近くまで来た時、アラブ人の部族に舟といかだが襲われた。 | 144 |
| 6 | 発掘品をオープンに | 発掘を行なっている間、あるいは今回の輸送の間も、私は何を発見したのか、何を運んでいるのか知りたい人間がいたら、実際に見せて確かめさせるようにしていた。そうすれば、どんなに疑い深い人間でも、発掘品が自分たちの興味をそそるものではないとわかるからである。 | 144 |
| 6 | 2艘の展示品 | それでも幸いなことに、いかだのうちもう2艘は、広い川幅を利用してアラブ人たちの追撃をふりきり、バスラまで到着することができた。私が発掘したもののうち、現在ルーヴルで見ることがきるのは、いずれもこの2艘のいかだに乗っていたものである。 | 144 |
| 6 | ジャーヌの本 | ジャーヌ・ディューラフォア『ペルシア、カルデア、スシアーナ』 | 146 |
| 6 | マルセル・ディューラフォアの妻ジャーヌ | スーサを発掘した考古学者マルセル・ディューラフォアの妻ジャーヌは、中東を旅行したおりにバビロンのあたりに立ち寄る。 | 146 |
| 6 | バビロンを偲ぶ旅行者の思い | バビロンとボルシッパが一つの都市であったとするなど、現在の知識から見れば誤りも多いが、少なくとも彼女の文章は、いにしえのバビロンを偲ぶ旅行者の思いを伝えてくれている・・・。 | 146 |
| 6 | ローリンソンの訳の円筒文書 | ローリンソン卿が塔の一角から発見された円筒文書を解読した結果、ユダヤの伝承に、事実の裏づけがあることがわかったのである。 | 148 |
| 6 | 古い時代のボルシッパの塔 | 文書のなかでネブカドネザル王は、こう言っている。「もうひとつの神殿は、この〈7つの光の神殿〉である。この神殿の記憶は、ボルシッパのいちばん古い時代、はるか昔にひとりの王がここに神殿を建てた時代に遡る。」 | 148 |
| 6 | 聖書のラビは、この円筒文書から盗んだ | 「だが、人々はこれを完成させることがなかった。洪水のあとで言葉が乱れ、途中で諦めてしまったのである。地震が生の煉瓦を揺らし、雷が表面の焼いた煉瓦を割った。生の煉瓦でつくられた支柱は崩れ、丘の形になった。」 (大洪水前に、ボルシッパに円柱形の塔が企画されたが、大洪水で未完成に終わった。まさに聖書の元ネタである。) | 148 |
| 6 | ネブカドネザルがボルシッパの塔再建 | 「偉大なるメルダック(マルドゥ―ク)は、私の心にその神殿を再建するように命じた。」 | 148 |
| 6 | ボルシッパのジッグラトは円形 | 「そして、螺旋状の斜面をつくると、門の上部に栄光ある私の名を刻んだ。」 (つまり、ナブーのジッグラトは、円形で螺旋状につくられたのである。) | 148 |
| 6 | ナブーとマルドゥクの塔を混同 | 「7つの光の神殿」は―これからは、この塔のことをほんとうの名で呼ぶことにしよう、「7つの光の神殿」は、バビロンの中心部にあったわけではなかった。城壁に近い、町のはずれのボルシッパに建っていたのである。」 | 148-149 |
| 6 | マロワンの業績 | キャンベル・トムソンの助手として、1927年から1932年にかけてニネヴェの発掘に参加したあと、マックス・マロワンは1949年からニムルードの発掘を指揮する。 | 152 |
| 6 | 美しいアッシリアの風景/イラク人の人夫たちに対する感謝 | その著書には、美しいアッシリアの風景や、発掘に従事したイラク人の人夫たちに対する感謝の気持ちが、愛情のこもった繊細な筆致で描かれている。 | 152 |
| 6 | 仔羊を意味する「クユンジク」 | ニネヴェの遺跡は、トルコ語で仔羊を意味する「クユンジク」と呼ばれる丘にあった。 | 152 |
| 6 | 発掘の30年 | 早いもので、ニネヴェのいちばん高いところに作業場をつくり、そこに眠る遺跡を発掘してから、もう30年以上になる。 | 153 |
| 6 | 深い感動 | この原稿を書いている今も、あの作業を進めていた時のことがまるで昨日のように思い出され、深い感動が蘇ってくる。 | 153 |
| 6 | マロワンとウーリーの写真 | 〔註〕1928年から1929年のウルの発掘隊。左からマロワン、レナード・ウーリー、ウーリー夫人・・・。 | 153 |
| 6 | ウーリーの助手 | それまでにも私は、レナード・ウーリー卿のもとで6年間、ウルの発掘に従事し、考古学の基礎を学んでいた。 | 154 |
| 6 | ニムルード発掘の日々 | 煤で真っ黒になった小さなやかんを岩にぶつけて鳴らしながら、丘を登って200人ばかりの人夫たちがやってくる。そいうったことが、来る日も来る日も繰り返される。 | 157 |
| 6 | アガサ・クリスティー | マックス・マロワンの妻であったアガサ・クリスティーは、マロワンと一緒にメソポタミアに行き、発掘現場に滞在した。『メソポタミアの殺人』は小説であるが、当時の考古学者の生活の一端を伝えてくれている・・・。 | 160 |
| 6 | ルーヴルのアッシリア展示室 | ルーヴル美術館には、アッシリアの展示室がある。そこにはコルサバードのサルゴン2世の王宮で発見された遺物や、ニムルードやニネヴェで出土したレリーフが並べられている。 | |


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