- 1 アマチュア考古学者たち
- テンプル騎士団の正十字(ギリシア十字):ナブのシンボル→シャマシュのシンボル
- 四人の先駆者:ローリンソン、レヤード、ボッタ、ラッサム
- 学術研究の基盤:バグダッド
- ローリンソン:1843年、バグダッドのイギリス人駐在員
- ローリンソン:1827年、陸軍将校としてインドへ。語学の素養と興味
- ローリンソン:1833年、ペルシャのケルマーンシャーへ
- ベヒストゥン碑文の発見
- ベヒストゥン通い:1835年~
- ベヒストゥンへの再来と不退転の決意:1842年
- クルド人の少年とアッカド語原文にいどむ
- ボッタ、フランス領事としてモースルに到着、クユンジク研究
- クユンジク:古代都市ニネヴェの遺跡での発掘は成果なし
- ボッタ、コルサバートの発掘へ
- イスタンブールの帝国の「ファルマーン」
- ルーブル美術館へ到着:1846年、バスラ港からフランス海軍船で
- レヤード、イスタンブールでイギリス大使秘書
- ローリンソン、レヤードに連絡し考古学打診
- レヤード、モースル(古代都市ニムルド)発掘ですぐ成果
- オスマン帝国高官が介入
- レヤード、ラッサムを助手に得る、現地人との交渉
- 2 古代の遺物をめぐっての争い
- 3 対をなすふたつの河川の土地
- 4 ニネヴェの王室図書館
- 5 アッシリアの学者たちからの手紙
- 6 前兆に関する名高き双書、『エヌマ・アヌ・エンリル』
- アンミサドゥカの金星書字板/最古の『エヌマ・アヌ・エンリル』=天と地の神の本
- アンミサドゥカの金星書字板/前17世紀から前7世紀の1000年で変造
- 金星の公転の計測
- 金星の朔望=会合周期は584日
- 金星の会合周期
- アンミサドゥカ以前の断片
- アッカド王朝サルゴン王の時代の断片
- ウル第三王朝のイビ=シン王の時代の断片
- ハンムラビによる天空の改編:弱小神マルドゥクを最高神に
- 木星はマルドゥクほど傑出した地位を与えられなかった謎
- ヒッタイトにも伝播
- エラムにも伝播
- シリアのカトナにも伝播
- 紀元前2千年紀の長い期間をかけて発展
- 『ムル・アピン』
- 北緯36度(=ニネヴェの北緯度数)を中心とする宇宙図
- 北緯32度(バビロン)でなく36度(ニネヴェ)の紀元前千年
- 『エヌマ・アヌ・エンリル』として編集・結実されたのはアッシリア
- 双書『エヌマ・アヌ・エンリル』を再構築する上での現在底本
- 月の前兆
- 『エヌマ・アヌ・エンリル』の書字板
- 8 シン 月、時間の父
- 9 シャマシュ 太陽、天空と地との審判
- 10 イシュタル 金星、天空の女王
- 11 ニヌルタ 土星、火星の兄弟
- 土星は「憂鬱の著者」/ウィリアム・ラムゼイ『復元された占星術』(1653年)
- 強化された土星=家の建設・堅実な農産的富・まじめな努力を守る星
- 弱化された土星=冷えが増し・忍耐を強いられ・風雨による損傷を受ける
- 弱化された土星=「憂鬱の著者」
- 気難しい憂鬱な老人のイメージ/ラムゼイ発
- 「人生を制限・支配する力」「運命の厳しさ」/マーガレット・ホーン(1951年)
- 伝統的な土星のイメージ=制限・抑圧など否定的イメージ
- 堅実かつ確固たる教師/深層心理学を擁した現代の占星術家たち
- 征服を果たした英雄/アッシリア&バビロニアの古代の占星術師たち
- 混沌に法の支配をもたらした英雄
- 土星=サグッシュ=ニヌルタ
- 土星と火星を時々同一視/バビロニア人&アッシリア人
- 夜空の太陽=ニヌルタとネルガル/戦争の神の崇拝の中心地であるキシュ
- 武器を持つ鷲/ニヌルタの図像
- ニヌルタの象徴=獅子頭の鷲、双頭の鷲
- 豚がトーテム=聖書の豚肉消費の禁忌
- サクト神=モレク神崇拝の流行を非難する預言者アモス
- サクト神=日の出の神としてのニヌルタの称号
- ニヌルタ崇拝のイスラエル中での定着/紀元前8世紀預言者時代のイスラエル
- 土星=シャマシュ=ヘリウス
- 最初期の特徴「法と秩序の星」/エヌマ・エリシュから現代までの4千年間
- 土星=「真実と正義の星」
- 土星=「アッカドの星」
- 土星の属性=「重量のある・密度の高い鉱物」を支配
- ニヌルタの石どもの制圧と支配
- 火星と土星との合=飢饉
- 土星=「法と秩序・真実と正義」を司る
- 土星と他の天体との合=繁栄、火星・土星の合=飢饉
- 「国家の基盤」「社会的、法的に許される構造上の制限」を支配
- 12 ネルガル 火星、死の星
- 13 マルドゥク 木星、バビロンの救世主
- 14 ナブ 水星、神々の書記
- 15 天文学『ムル・アピン』
- 数学上の規律の導入/前529年のペルシア支配時代
- 閏月の挿入が規則的になる/前529年(カンビュセス即位の年)
- 朔望周期の発見と恒星周期という概念
- 土星向けに用いられた周期は59年
- 12均等の獣帯の宮で規定
- マンディーン占星術からネイタル占星術への変化
- マンディーン占星術とバビロニアの多神教/ネイタル(出生)ホロスコープとペルシャの一神教ゾロアスター教との相関?
- ゾロアスター教の自由選択と不死の魂の理論が影響か?
- ピュタゴラスの影響、ピュタゴラスのエジプト留学?(イアンブリコスの捏造か)
- バビロニア捕囚説とゾロアスター教のマギから音楽調和理論習得の捏造
- 天文学者エウドクソスがカルデア人占星術に敵対的
- 占星術師と天文学者がギリシア世界で分化
- ヘレニズム時代のバビロンの占星術学校
- バビロンのバアル神官ベロッソスのコス島への占星術の伝承/前281年
- ストア派ゼノンの占星術の承認
- アセンダントの利用はクラウディア朝の皇帝の占星術師
- バビロンからアレクサンドリアへ
- 新プラトン派のプロクルスもまだ、バビロニアの占星術師たちに敬意
- アカデメイアの新プラトン派哲学者たちハッラーン移住
- 新アッシリア滅亡後1900年生き延びる、1271年鳥の巣に
- 月神シン信仰のメッカ
- 異教の灯
- ダマスキウスとシンプリキウスがアカデメイアを再建/10世紀まで存続
- キリスト教に続いてイスラームの迫害
- 月神シンの寺院
- 太陽の寺院
- 水星の寺院
- 金星の寺院
- 火星の寺院
- 木星の寺院
- 土星の寺院
- 概念に捧げられた寺院
- 十字軍に守護される
- 発掘中止命令
- サービア教徒
- イスラム教かキリスト教に転向/コーランで是認証明にイスラム法の専門家を雇う
- 『ヘルメティカ』を聖典として提出
- 宗教のるつぼに
- ポルピュリオス
- ナグ・ハマディ文書と『アスクレーピオス』
- 新プラトン主義とグノーシス主義との確執
- 世界は悪/グノーシス主義者 VS 世界は善/新プラトン派とヘルメス主義者
- 前550頃から地下へ
- ハッラーンのサービア教徒によってイスラームへ
- ハッラーンのヘルメス思想
- 『ピカトリクス』
- バビロニア占星術≠決定論、ストア派(新プラトン派)=決定論
本の情報
著者:マイケル・ベイジェント
出版社:株式会社 太玄社
出版年:2021年11月16日
導入
マンディーン占星術とネイタル占星術
人間社会での出来事にかかわる占星術をマンディーン占星術といいます。マンディーン占星術が扱う範囲は王国、国民国家ならびにそれらの統治者などです。マンディーン占星術は現代の私たちにとってよりなじみのある占星術である、ネイタル(出生)占星術とは区別されます。
p7
最初の占星術の記録:古バビロニアのアンミ・サドゥカ王治世
私たちが知っている最も初期の占星術はここ1世紀半のあいだにメソポタミアで発掘された古代の粘土板に刻まれているものです。
なるほどたしかに、歴史上の記録として残っている個人の出生図は、マンディーン占星術の中でも最初にまとめられたとされている記録である、紀元前2千年紀前半でのバビロニア王アンミサドゥカの頃から1200年も後のものなのです。
p7
本書の二大目標:古代メソポタミア占星術の探求/現代の占星術における継承
本書の目的として最初に掲げるものとしてはふたつあります。
ひとつはバビロニア、アッシリアの各王国で行われたいた占星術を探求すること。
ふたつめは現代で行われている占星術の実践が、これら古代占星術での解釈ならびに解釈のための技術を受け継いでいるとすれば、それらをどの程度受け継いでいるかを調査することであす。
p7-8
三つ目の目標:初期バビロニアの宇宙論の思索
しかしながら、これらふたつを調査する過程で、3つめの目的である初期バビロニアの宇宙論を思索するという、重要で宗教的かつ魔術的な側面にかかわってゆくでしょう。
p8
歴史家の占星術を探求する重要性の軽視
しかし占星術を学ぶことが有益であり、それにより過去の知的伝統を明らかにしてゆく洞察力が得られることが自明であるにもかかわらず、占星術の研究を考慮に入れようとする歴史家はほとんどいないのです。
p8-9
レオ・オッペンハイム教授
この領域を調査するために時間を割いた数少ない人物の一人であるシカゴ大学東洋学研究所のレオ・オッペンハイム教授は、メソポタミア文化を理解する上での占星術の重要性を繰り返し強調していました。
p9
エリカ・レイナー:『エヌマ・アヌ・エンリル』の翻訳
レオ・オッペンハイムのもとで学んだエリカ・レイナーは、エルンスト・ウェイドナーが1930年代に最初に着手した、占星術の双書『エヌマ・アヌ・エンリル』の翻訳という重要な仕事を継続しています。
p10-11
第一部 発見
1 アマチュア考古学者たち
テンプル騎士団の正十字(ギリシア十字):ナブのシンボル→シャマシュのシンボル
「ギリシャ」あるいは「テンプル騎士団」の十字である横木と軸木とが同じ長さで構成された十字の象徴は、太陽神であるシャマシュの象徴としてかつてはありふれたものでした。後に見てゆきますが、この十字はむしろバビロニアの神であり現在の水星であるナブを象徴しているのかもしれません。
p16
四人の先駆者:ローリンソン、レヤード、ボッタ、ラッサム
アマチュア・愛好家の先駆的の考古学者たちは、・・・・・・シュメール、アッカド、バビロンといった地中に埋もれた王国を白日の下にさらし出して見せました。
これら先駆者たちの中でも際立っている4人の人物はイギリス人のヘンリー・クレズウィック・ローリンソンとオースティン・ヘンリー・レヤード、フランス人で最初にアッシリアの彫刻を掘り出したことで名声を博したポール・エミール・ボッタ、現地中東生まれのカルド・ホルムズド・ラッサムです。19世紀半ばから後半にかけ、彼ら4人がメソポタミア考古学の基礎を敷きました。
p17
学術研究の基盤:バグダッド
掘り下げが必要な学術研究を行う上で政治的基盤の地となったのは、19世紀のあいだは停滞し衰えつつあったオスマントルコ帝国の眠れる州都にすぎなかったバグダッドでした。
p17
ローリンソン:1843年、バグダッドのイギリス人駐在員
その後任の外交官はヘンリー・クレズウィック・ローリンソンで、アッシリアの言語、現在正確にはアッカド語と呼ばれる言語を最初に解読する定めであった人物です。
ローリンソンは1843年にバグダッドのイギリス人駐在員(政府公認)として任命されましたが、この時の任命は巡り合わせによるものではありませんでした。実際ローリンソンは、より高給なインドの職を辞退しバグダッドに赴任していたのです。彼はイラクとイランの境界で見出した古代の碑銘を解読するという、自身の人生で既に支配的な位置を占めていたであろうプロジェクト、研究の継続を望んでいました。
ローリンソン:1827年、陸軍将校としてインドへ。語学の素養と興味
1827年、若きローリンソンはインドでの軍事活動のためイギリスを旅立ちました。彼は学生時代にラテン語・ギリシャ語を学ぶことを通じ語学に魅了されていたので、インド滞在中もペルシャ語・アラビア語・ヒンドゥスタン語を学び、自身の興味を追求していました。
p18
ローリンソン:1833年、ペルシャのケルマーンシャーへ
1833年、彼は情報部隊に加わるや否や、イラン国王向け代表団の一員としてペルシャに送られました。2年もしないうちに、彼はイラン国王の兄弟の軍事アドバイザーに任命されました。この職に就いて以降、彼はイランの南方の町であるケルマーンシャーに赴任しました。
p18
ベヒストゥン碑文の発見
ケルマーンシャーから東へ22マイルほど行った場所であるベヒストゥン山でローリンソンは、切り立った断崖の表面に刻まれた、読み解き難い莫大な碑銘を発見しました。
p18
ベヒストゥン通い:1835年~
ローリンソンはこの碑銘の原文の重要性を認識し、3つの言語すべての正確な筆写版を手に入れ解読を試みるために、この碑銘がある場所を1835年から定期的に訪れ始めました。
碑銘は古代ペルシャ語、エラムト語、アッカド語の3ヶ国語で書かれていました。
p19
ベヒストゥンへの再来と不退転の決意:1842年
再び戻ってくる機会は1842年、すなわち彼が軍隊を去りバグダッド駐在員としての雇用を得た際に訪れ、バグダッドの地を実際に踏んだのは1843年12月でした。
この時、彼はどのような身の危険があろうとも、三つの言語の碑銘の筆写を全て済ませる決意をしていました。
p20-21
クルド人の少年とアッカド語原文にいどむ
ローリンソンがアッカド語の原文をなんとか筆写するには3年の月日が必要でした。クルド人の少年が彼の成功の代理人となりました。
p22
ボッタ、フランス領事としてモースルに到着、クユンジク研究
ローリンソンがいまだインドで働いていた1842年、フランス人のポール=エミール・ボッタはフランス領事としてメソポタミア北部にある町、モースルに到着しました。
彼は大変な好古趣味者だったので、その年の12月までモースルからティグリス川を横切る場所にあったクユンジクの大きな塚を研究していました。
p23
クユンジク:古代都市ニネヴェの遺跡での発掘は成果なし
この塚はかつてアッシリアの首都であった古代都市ニネヴェの遺跡に覆われ、アッシュールバニパル王と彼の父エッサルハドゥン王の王宮もあった場所です。しかしながら、・・・・・・何も見出せず、・・・・。
p23-24
ボッタ、コルサバートの発掘へ
1843年初め、奇妙な碑銘がある崩れていない多くのレンガならば、自身の住む村であるコルサバードで採れるとの北方の村人の忠告に従い行動しました。ボッタはクユンジクでの研究を辞め、その年の3月、情報提供者の村へと臨みました。
p24
イスタンブールの帝国の「ファルマーン」
イスタンブールの帝国の権威からきわめて重大な勅令である「ファルマーン」を受けるまで、ボッタは長官からの圧力により発掘作業の停止を余儀なくされたました。
p25
ルーブル美術館へ到着:1846年、バスラ港からフランス海軍船で
それらを積載した船がティグリス川を下りバスラ港に到着したその年の年末まで続きました。それら彫刻は1846年にフランス海軍船により母国に運ばれ、「失われた文明」から始めてヨーロッパにやってきた最初の物体として大評判を巻き起こし、ルーブル美術館の展示品として配されました。
p26
レヤード、イスタンブールでイギリス大使秘書
この旅行者であるオースティン・ヘンリー・レヤードはイスタンブールへと旅立ち、そこで彼はイギリス大使秘書を数年努めました。
p26
ローリンソン、レヤードに連絡し考古学打診
ローリンソンが公務に就くのにバグダッドにやってきたのは同じ年である1843年12月でした。
それに伴い、1845年初旬、彼はまだイスタンブールにいたレヤードに連絡を取り、レヤードが考古学を始める可能性があるか否かをたずねました。
p26-27
レヤード、モースル(古代都市ニムルド)発掘ですぐ成果
これにより大いにやる気になったレヤードは待ちきれず、助成金を入手するや否や永らく再訪を思い描いていた採掘現場であるモースルへと向かいました。そこはティグリス川沿いにある町ニムルドで、河川を5時間ほど下ったところでした。彼の発掘は1845年11月に始まり、ほぼすぐに成果をあげました。
p27
オスマン帝国高官が介入
あいにくこの時点でモースルのオスマン帝国高官が介入し、かつてのボッタの場合と同様、すぐに発掘をやめるよう仕向けてきました。
p27
レヤード、ラッサムを助手に得る、現地人との交渉
続行が不可能となったレヤードは南方のバグダッドに旅行する機会を得、そこでローリンソンとクリスマスを過ごしましたが、1846年1月レヤードはモースルに戻るにあたり、モースルのイギリス副領事の兄弟であるホルムズド・ラッサムを助手として連れてきました。ラッサムはやがてレヤードにとって重要であると判明する人物でした。彼は山を採掘するのに雇った、一癖も二癖もある現地労働者の一団を管理する能力を見せただけでなく、必要な場面で現地の人手を調達できる、顔の広い人物でしありました。
p27
1847年の8月、レヤードの最初の発見であるニムルドの彫刻を施した厚板が大英博物館に展示されましたが、・・・・・・
その2年後にレヤードの出版本『ニネヴェとその遺跡』が続きました。この著書はイギリス市民の想像をかき立て、5ヶ月で4刷を重版しました。
p29
2 古代の遺物をめぐっての争い
ティグリス川での遺物の破壊事件/1855年
この時代が始まったのは1855年のティグリス川での遺物の破壊という、アッシリア考古学史上最大の致命的な出来事が起きた頃でした。
p33
アッシリアの遺物の価値を知らぬ一神教のサルども
シャットゥルアアラブ水路の水源近くで、いかだが宝物を積載しているものと思い込んだ現地の部族に攻撃されました。彼らは、・・・・・・・石でできた彫像やレリーフしかないことに激昂し、怒りに任せ古代の遺物をすべて船外に放り込みました。
p34
フランスチームのヴィクトール・プレイス
この際最も多くを失ったのはフランスの考古学者、ヴィクトール・プレイスでした。
p34
あらくれ現地労働者を使うラッサム VS フランス人プレイス
1852年、ホルムズド・ラッサムが大英博物館の公式外交員として再びモースルにやって来ました。彼のチームは、ヴィクトール・プレイスに雇われた人々とたびたび衝突を繰り返していた、手に負えない労働者を率いていました。
p35
プレイス、クユンジク発掘を先行
クユンジク発掘の権利についてラッサムは大きな窮地に直面しました。・・・・・・
彼が発掘に最もふさわしいと考えた場所はすでにプレイスに手がけられていました。プレイスはモースルに到着するにあたり、従来はイギリスの特権でのちにレヤードの土台ともなったクユンジクでの発掘の許可をローリンソンに求めていました。ローリンソンはプレイスにこの塚の大部分を気前よく譲っていました。
p35
ラッサム、夜間に発掘の暴挙
1853年12月初旬プレイスの前線が、現地の人々が発掘の価値があると常日頃から見なしていたクユンジクの塚の地域に徐々に近づいてきました。ラッサムはこの地域に一番乗りで手をつけることを決意していましたが、ローリンソンとプレイスとの間の「紳士協定」によりそれを禁じられていたので、夜間に極秘裏に行なうことにしました。
今日、これらの作品はもともとの配列順が再現された形で、大英博物館のアッシリア展示室の特設コーナーで見ることができます。
p36
プレイスの紳士的振る舞い
コルサバードで他の発掘作業にあたっていたプレイスはこの知らせを聞き、クユンジクに至急戻ってきました。彼は実際起きたことに対し、怒りを大いにあらわにすることも許される立場にありましたが、なんと既成事実を受け入れたうえで優雅にふるまい、ラッサムの幸運を祝福したのです。
p36-37
セイス博士の出版
まだ明らかになっていない、より大いなる神秘がある、という意識に対しされにやってきたのは、前述のジョージ・スミスの図書の出版の前年にあたる1874年、アーチボルド・セイス教授が古代バビロニアならびにアッシリアの占星術にまつわる最初の研究を出版したことでした。
p39
3 対をなすふたつの河川の土地
シュメル人は、ディルムンから来た!
シュメール人たち自身は「洪水前に」生きていた王たちの子孫が住んでいたディルムン島からやって来た、と書いています。今日、考え得る考古学上の調査にならえば、この伝説の島が現在のバーレーン島であることは確かです。
p47
ビビーのバーレーン島発掘
1954年4月、バーレーン島の数多くの墓のうちのいくつかを発掘し始めたデンマーク人考古学者ジェフロイ・ビビーが、砂で覆われた塚の下からシュメール時代の寺院を見出しました。
2年後、3度目の発掘活動のため島に戻った彼は、都市ウルとおおよそ同じ規模にあたる40エーカーの遺丘を調査しました。
このようなわけで、ビビーが見つけたものにより、バーレーン島がシュメールのいくつかの都市と同じ規模の、ウルとモヘンジョ=ダロとの間の大規模な貿易の中心地であったことが推測されます。
p47-48
オマーンにもシュメル文明
これに加え、砂漠の表層のおそらく20フィート下にビビーは並はずれた建設物を発見しました。古代の技師たちは地下に隠れた水路を築いていました。これらは砂漠の下に、壁で囲まれ屋根も設けられた上で数マイルにわたり延びていました。似たような水路が小さなシュメール風の寺院とともにオマーンの砂漠で見つかっています。
p48
シュメル人の13の都市国家
おもしろいことに初期のシュメールには13の都市国家があるのですが、これは13の太陰月との関係があるのでしょうか?しばしば12に1を足したものとして記録される、13という数字が後世で重要と見なされるようになったことの起源なのでしょうか?
p49
13都市の最初の帝王キシュ王
初めて知られるようになった王室の碑銘は紀元前2700年頃のキシュの王のものです。
この最初の帝国にふさわしい碑銘から結論づけられるのは、歴史におけるこの段階までは、キシュの王は13の都市を含むすべての領地を支配する、シュメールで最も有力な人物として知られていたということのみです。
p50
4 ニネヴェの王室図書館
蝋でコーティングされた「本」
1949年から1963年まで続いたニムルドでの発掘の間、興味深い「本」が掘り出されました。
ちょうつがいで閉じられた一連の象牙製の「ページ」があり、それぞれの「ページ」には少しだけふくらみ立ち上がった縁があり、それゆえ平面に蝋状のものを塗り固め保存できるようになっていました。
p56
蝋状のものを用いた書字板
一連の占星術にまつわる情報を記録するこの手法が粘土板での記録による手法と同時に利用されていたという証拠が、占星術師バラシによる報告文書中のわずかな言及で示され、彼は自身が記録した引用文が蝋状のものを用いた書字板からもたらされたと述べています。
p56
ギョリュウの木でできた書字板
木材も同様に、情報を記録するのに用いられました。
「ギョリュウの木でできた書字板に書かれている内容によれば・・・・・・・・」との記載があるのがその例です。
p56
所有者
15人のかつての所有者の名前、そして彼らのうち9人は職業も記録されています。その9人のうちの2人は祈祷師、3人は占者、別の3人は占星術師あるいは占星術師の息子(トゥプシャル)であり、1人は司祭の息子ですが、・・・・・・
p58
個人の蔵書
実際、個人の蔵書が単に存在したことはー一見したところでは広く行き渡った現象ですがー古代メソポタミアの知的世界に深みがあることの証明です。
p58
占星術師が毎日夜空を観察し記録
日々天空を観察し続けることが占星術師たちの任務の一部としてあったことは明らかでした。
p60
占星術の教科書の大部である『エヌマ・アヌ・エンリル』
これらの未来予知ならびに天の出来事はおおむね占星術の教科書の大部である『エヌマ・アヌ・エンリル』に基づき描かれましたが、その書の題名は最初の1行にある「神であるアヌとエンリルが・・・・・・」から名づけられました。
アヌは天空の神でエンリルは地の神、ゆえに天と地ふたつの領域が互いに関係しているのがここではほのめかされているのです。
p60
末尾の特別な項に大部全部の題名と大部での続きの書字板の最初の一行
各書字版の見分けを簡単に行うため、それぞれの書字板は末尾の特別な項に大部全部の題名と大部での続きの書字板の最初の一行とを載せていました。
p60
書棚と検索札
展示室を二分する真ん中の部分には、数千の木製あるいは粘土製の箱入り焼成粘土板を収納していた木製の長机あるいは棚があったことはわかっています。それぞれの箱には焼成粘土板の目録が書かれた小さな三角形状の年度札が付され、検索がしやすくなっていました。
p61
莫大な楔形文字書字板
今日、世界中の図書館ならびに博物館に保存されている楔形文字の書字板の数は膨大です。
シュメールから新バビロニアに至るまで商業、文芸、科学などあらゆるタイプの書字板が現時点で50万以上存在します。大英博物館だけで13万点の所蔵がありますが、その地下階には「誰も考えたくない」ほどにぼろぼろのものもたくさんあります。イスタンブール博物館には8万5千点、パリならびにベルリンには2万5千点ほど。エール、フィラデルフィア、シカゴなど北アメリカの諸大学が全部合わせて7万5千点ほどで、この数値はあらゆる個人での所蔵分は含みません。
p61
天地平等の思想
地と天とは互いを補うものであり、一方が他方に信頼を置いているがゆえに両方とも同等に重要なのです。たとえばの話ですが、地が天よりも何らかにおいて「劣る」などといった概念はありませんでした。
p65
天地相応
これらの前兆は空を見上げ目の当たりにできた出来事からと同様に、地上での出来事からも容易に描き得るのでした。
すなわち「上空に現れた兆候は地上のそれら同様、私たちに警告をもたらす」と。
p66
平等に神が宿る存在
メソポタミア人の姿勢を理解するための第二の鍵となるポイントは、かなり初期の頃から彼らが人類を神の「血肉」から出来上がった創造物であり、部分的に神であり神々が実体化した存在と見なしていたことです。
p66
ダニエルのバビロニア名
『ダニエル書』にはバビロニアのネブカドネザル王が夢により悩まされたことが記録されています。
バビロニア名ベルシャツアルであるダニエルを含む全員を処刑すると言いました。
p70-71
5つの専門分野:書記・腸卜僧・祈祷師・医師・歌手
報告を書いている学者たちは5つの専門的技術分野に分類されます。まずひとつめは書記(ドゥプシャル)で、彼らは占星術師であり天空や気象にあらわれた前兆を解釈する専門家でした。ふたつめは腸卜僧(バル)で、たいていは雄羊ですが動物の内臓を学ぶことで未来予知を行う専門家です。3つめは祈祷師(アシプ、マシュマシュ)で、不吉あるいは病気を回避するのに必須の魔術儀式を行う人々です。4つ目は医師(アス)で、疫病を薬や他の治療法を用い医療的手段で対応する人々です。最後になる5つめは歌手(カル)で、神々の錨を鎮めるべく複雑なチャントである賛美歌を詠唱する人々です。
p72
占星術師の一族
記録されていた「側近者」の四分の一は著名な名家の一族で、占星術を含め250年以上にわたる専門知識の連綿とつながった伝統を有していました。
p73
ラビ・エシェルテは「10人の集団の首領」の訳語
少なくともアッシリアではこのチームは10人の学者から成るのが標準的で、なぜなら指導者の肩書きであるラビ・エシェルテは「10人の集団の首領」の訳語だからです。
p74
科学的天文学の萌芽
蝕と天体の相にまつわる多くの予知が旧式かつ太古の科学的技法に基づいていた一方、「正典と認められた」教科書には見いだせない、よりずいぶん洗練された天文学的手法に由来をもつ技術をより深い精査に基づき試み証明した人もいました。
この経緯があったがゆえに、紀元前5世紀ならびに後の古代ギリシャなど古典期での典型となった、数学に基づく天文学が起きたのです。
p74
ヘレニズム時代でもバビロンは占星術のメッカ
古代ギリシャ、ヘレニズムなどの古典時代、すなわちアッシュールバニパル王より600年ほど後の時代にはバビロンとウルクは占星術師の都市として有名でした。2世紀のギリシャの旅行家、地理学者であるパウサニアスは他の住人たちはティグリス川沿いの新たな州都であるセレウキアに移り住んだとはいえ、占星術師すなわち「カルデア人」たちはバビロンのベル寺院の近くの地域にまだ済んでいるとしていました。ストラボ(紀元前54-24)、プリニウス(23-79)、占星術師ヴェッティリウス・ヴァレンズ(2世紀)の3人全員がバビロニアの占星術師の学校が自身が生きた時代頃まで続いたと述べています。
p75
占星術師のフリーランス化が科学性を促進
その到達点はペルシャの侵略者たちのもとで起きましたが、その際占者たちはもはや宮廷や寺院に所属していませんでした。これによりーまだ不明点はあるものの、何らかの方法でー占星術に数学が入ってゆくための下地ならびに占星術師が国家よりも個人と関わるようになることが強調されるための下地がもたらされました。まず黄道が用いられるようになり、次いで個人の出生図、そして千年紀の転換の頃にアセンダントー出生の瞬間、東の地平線に上昇している宮を表すーが発明されました。
p76
5 アッシリアの学者たちからの手紙
新月を観察し暦を管理する
夜が訪れ、メソポタミアじゅうに影を落とし始めると、占星術師たちのチームは寝ずの番に備えました。
空を見上げ続け、目撃したであろう天の出来事に見合った前兆を記録するだけでなく、月が一月の終わりに見えなくなって以降再び現れる瞬間をとらえ観察するのに躍起になっていました。新たな月が最初に現れるのはバビロニアの太陰暦にとって重要な「きっかけ」で、それは新たな一月の始まりを示していました。
というのは古代の占星術師たちは空に現れた意味を読むことだけでなく、国の暦を管理することも務めだったからです。
p77
ハンムラビ治世より/蝕の予知と新月初出
それより千年前、ハンムラビ王がバビロニア王国に公式の暦を導入しました。これにより占星術師たちはふたつの務めが要求されることとなり、それらは蝕の予知ならびに新月が最初に見える夕刻はいつか、あらかじめ計算し割り出すことでした。
p78
占星術師のミスは肉体労働者への転落(死刑ではない)
占星術師タビアは詳細は不明ながらいくつかの重要な職務怠慢を犯したのち名誉ある立場から凋落し王に食糧を求めたびたび泣きを入れましたがのちに占星術師としては正式に追放され、レンガ造りの役割を任ぜられ生計を立てました。彼の不名誉は別の占星術師アダド=シュム=ウシュールにも繰り返され、彼は王に物乞いをいつつ言いました。・・・・・・
p81-82
寺院からの追放、食糧の不足、処刑?回避のための「緩い予言」
寺院からの追放、食糧の不足、おそらく(聖書のダニエル書にあるような、バビロニアの占星術師たちの運命である)処刑といった、失敗による恐ろしい結末から推して、占星術師たちが身を守るべく不幸が降りかかるようなあらゆるお咎めを逃れるべく未来予知を大まかに、緩く述べることがありました。
p87
6 前兆に関する名高き双書、『エヌマ・アヌ・エンリル』
アンミサドゥカの金星書字板/最古の『エヌマ・アヌ・エンリル』=天と地の神の本
それは金星の動きから描かれた前兆を組織立ったかたちで編集したもので、ここでの実例は比較的最近になってからの写しですが、その起源となる原本は紀元前17世紀中頃のバビロニア王であったアンミサドゥカの頃に書かれました。今日の学者たちにアンミサドゥカの金星書字板として知られているこの書字板は占星術の標準的な双書として形作られた教科書である『エヌマ・アヌ・エンリル』、すなわち天と地の神の本のひとつでした。
p90
アンミサドゥカの金星書字板/前17世紀から前7世紀の1000年で変造
この教科書が紀元前7世紀のニネヴェにたどり着くまでの数百年のあいだ、複写され広まりまた原文が変造されたりもしたということです。その比較対象となるバビロン第一王朝時代に書かれた、起源となる版である教科書は存在しませんが、変造された教科書があまりにも多くの編成のし直しがなされたものなので、天文学的にみて真に秩序立った原版の形に戻す必要があるものとわかりました。
p90
金星の公転の計測
この書字板に一覧として記録されている前兆は、金星が最初に地平線上に見えた日から再び見えなくなる直前の最後に見える日の期間より引き出されており、すなわちこれら前兆は金星が太陽のまわりを動くその動きにかかわっているとわかります。
p90
金星の朔望=会合周期は584日
金星はそのようなひとつの周期(朔望あるいは会合周期と呼ばれるもの)をまっとうし、584日を経たのちに元の位置に戻ります。
p90
金星の会合周期
金星が東の空に最後に見える瞬間、金星は地球から最も離れようとしています。それから2ヶ月と少しののち、金星は再び姿を現しますが今度は西の空に見えます。約8ヶ月間西の空にとどまり、再び見えなくなりますがその期間は2週間程度までなど様々で、再び東の空に見えるようになり新たな周期に入るのです。
p90-91
アンミサドゥカ以前の断片
ふたつの素朴で原始的な原本が考古学者たちのあいだで知られています。
p93
アッカド王朝サルゴン王の時代の断片
紀元前2334年から紀元前2279年、すなわち金星書字板が編集される700年ほど前までアッカドを統治したサルゴン王の時代にさかのぼります。
p94
ウル第三王朝のイビ=シン王の時代の断片
二番目の書字板は紀元前2028年に始まる24年間、ウルを統治したとされている、イビ=シン王の時代のものと思われます。
「木星が振り向き、西に向かい上昇し、空にあるのを見たとき風が吹いていなければ、飢饉が起き災害が優勢となるでしょう。ウルの王であるイビ=シンが鎖に繋がれアシャンへ行き・・・・・・。
p94
ハンムラビによる天空の改編:弱小神マルドゥクを最高神に
彼は王朝の天空をみだりに変更し始め、王国にとってよかれと考え神々を変更する決意をしました。彼はそれまでは目立たぬ神であったマルドゥクをバビロニアの都市神へと昇進させ、メソポタミア神殿の新たな首領としました。
p97
木星はマルドゥクほど傑出した地位を与えられなかった謎
マルドゥクが至高の地位に昇り詰めたことにより、古代占星術にまつわる別の謎が出てきました。マルドゥクは木星と同一と見なされましたが、そうであればマルドゥクが神殿で得ていたのと同様の、傑出した高い地位を木星も空で得、認められていたに違いありません。しかし、木星がこういった高い地位を与えられたとして、ではなぜ金星が前兆の出処として体系的に記録された最初の天体だったのでしょう?
占星術師たちは木星の周期と異なり、金星のそれは容易に観察し得ました。
p98
ヒッタイトにも伝播
ヒッタイト語で書かれたにもかかわらず、それらの少なくともいくらかはバビロニアを起源とする文献からの直訳だったのです。
p99-100
エラムにも伝播
バビロニアの占星術書字板がヒッタイトの首都のみならずエラムトの首都であるスサの東部でも見つかったことにより、バビロニアの占星術がその形成期である紀元前2千年紀後半にも自身の時代を謳歌していたに違いないことが裏付けられました。
p100
シリアのカトナにも伝播
古代シリアの都市カトナの旧跡を発見したフランスの考古学者チャールズ・ヴィロローは1927年、寺院を発掘しそこにかつて図書館が存在したことの証拠ともなる、数多くの焼成粘土板を発見しました。
カトナは紀元前1360年頃、ヒッタイトに滅ぼされたので、この頃より以前に『エヌマ・アヌ・エンリル』は編集されたのみならず、それらがシリアへもたらされるほどの知名度を誇っていたと言って差し支えないでしょう。
p101
紀元前2千年紀の長い期間をかけて発展
結論として言えるのは、ニネヴェの聖職者たちによる集中的な知的活動が勃発したことによって、占星術が組織立った形でまとまったわけではないということで、さらに遡っての古代である、バビロニアの第一王朝時代に発展しその頃の聖職者たちによって完全に受け入れられ発展したのでもありません。むしろ、紀元前2千年紀のあいだの長い期間を掛け発展したのです。
p101
『ムル・アピン』
これらの占星術師たちは特に、その最初の行に書かれた言葉からとられた『ムル・アピン』(アンドロメダ座ガンマ星とともに現代の三角座をなしている『アピンという星』)と呼ばれるふたつの書字板には実証が可能な天文学上の出来事が載っており、それらには恒星のヘリアカル・ライジング(明け方に上昇すること)の詳細やそれら恒星の位置、南中や西の空に沈むことについても書かれていました。
p103
北緯36度(=ニネヴェの北緯度数)を中心とする宇宙図
この書字板はまた北緯36度(=ニネヴェの北緯度数)ならびにほぼその頭上で天頂から天底まで走っている想像上の円で、地球の赤道上の南北の点を通る子午線を通過する恒星の一覧を有していました。
p103
北緯32度(バビロン)でなく36度(ニネヴェ)の紀元前千年
彼らは北緯32度(バビロン)ならびに36度(ニネヴェ)上で紀元前2千年から紀元前千年までの間に計算上現れたと思われる200の恒星を投影し、結論として天文学上の資料に照らし合わせた場合最もしっくり来るのはニネヴェの北緯での紀元前千年であるとしました。
p103
『エヌマ・アヌ・エンリル』として編集・結実されたのはアッシリア
この結果により推測されるのは、占星術上の前兆が永きにわたりバビロニア人により研究され用いられた一方で、落とし込まれた事実情報が決定的な双書である『エヌマ・アヌ・エンリル』として編集・結実されたのはより北方のアッシリアにおいてであったというものです。
というのは2千年紀の終わり頃、メソポタミアにある複数の王国が崩壊し始めたというのがあります。
p104
双書『エヌマ・アヌ・エンリル』を再構築する上での現在底本
双書『エヌマ・アヌ・エンリル』を再構築する上で現在底本となっているものは、1944年にウェイドナー教授により研究、出版されたふたつの公式目録である損傷を受けた遺物でした。
部分的に残っているのみで書字板39から60を掲載しており、・・・・・・・
損傷ゆえ、この目録は書字板1から26のみを掲載したところで終わっています。
月の前兆
これらの教科書はふたつの組み分けが識別可能で、書字板1から14、同15から22がそれぞれひとつのものとしてまとめられています。これらふたつの組み分けは両方共、月の前兆を扱っていますが、最初のものは実際に現れた月の姿から判断した前兆を、2番目のものは月蝕の前兆をそれぞれ扱っています。
p106
『エヌマ・アヌ・エンリル』の書字板
書字版1~14:月の姿、出現
書字板15~22:月蝕
書字版23~30:太陽の姿
書字板31~38:日蝕
書字板39~41:太陽/気象上のこと
書字板42:雲
書字板43:稲妻
書字板44~46:雷
書字板50~51:恒星
書字板52:イク座(ペガサス座)
書字板53:プレアデス
書字板56~58:火星
書字板59-62金星
書字板63:金星書字板
書字板64~65:木星
第二部 神話と天体
8 シン 月、時間の父
シュメール人のパンテオン
シュメール人の神話は複雑多岐にわたる神々の集まりを有する、高度なまでに洗練されたものでした。
p144
セム人の3柱神パンテオン:月・太陽・金星
それとは対照的に、セム人の宗教の起源は3柱の神々にあったようで、それらはすなわち月、太陽、そして金星でした。
p144
シュメル・アッカドのパンテオンの融合
それに応じて、セム人は紀元前2334年、サルゴン王の頃シュメールから権力を引き継いだ際、シュメールの神殿すべてを獲得しつつも、彼らは自身の星の神々である月の神シン、太陽の神シャマシュ、そして金星の神イシュタルの三位一体をその頂点に据えました。
p144
太陽と金星の性転換
この経緯にはいくらかの興味深い点があり、元々セム族は月、金星を男性とする一方、太陽を女性としていたと考えられています。シュメール人の神殿を取りいれたのに続き、彼らは月を男性とし続けたものの他の2天体の性別は変えました。すなわち太陽は男性、金星は男性・女性の両方を同時に、のちに専ら女性としました。
p144-145
註1:金星の性転換:南アラビアのアッタール・アッタールトがイシュタルへ
これら金星の変化にまつわる議論はロバーツ著『最も初期のセム人の神殿』39~40頁参照願います。金星の男性、女性の局面についての話の中で、彼らが「朝の星(男性=アッタール)」として夕の星(女性=アッタールト)として、つたつの局面での金星」につき言及しているとしまとめていますが、「この区別は西方でのみ失われぬよう保護されています。東方では男性性が両方の機能を占め、女性性は用いられなくなりました。ですが、東セム語族はアッカド人のアッタールがその文法的性とは対照をなす女神として発展した要因である金星の両性具有的性質の記憶を保持し続けていたようです。(元々は南アラビアの男性神位の名である)アッタールはのちにアッカドの女神イシュタルの名前に変形しました。
p159
月が最高神
シュメール人にとってナンナ、アッカド人にとってはシンである月の神は、星の神位の長であり続けました。彼は神位の双子である太陽と金星の父と考えられ、シュメール時代初期以来卓越した存在でした。
p145
闇から光が生まれる宇宙生成論の観点から
この天のヒエラルキーの観点は昼は夜から出てくるものであり、太陽は月から生まれ、光は闇から生ずるものであるという古代の概念を忠実に反映しています。
p145
時間と暦とを統治
日没の際、姿をあらわす三日月が新たなひと月を先ぶれしていた時の翁、いにしえの「青ひげ」は星の神々の中でおそらく最も重要でした。彼は時間と暦とを統治しました。王たちの像のほとんどに刻まれている彼の象徴は三日月で、しばしば三日月の尖った先端に接合し円形を完成させている線とともに描かれています。
p145-146
『エヌマ・アヌ・エンリル』の最初の22もの書字板は月の前兆に関するもの
双書『エヌマ・アヌ・エンリル』の68あるいは70の書字板のうち、最初の22もの書字板は月の前兆に捧げられました。
p146
7日ごとの聖なる日々の体系と安息日(14日=満月)
月の周期をもとにひと月を4つに分けることにより聖なる日々という体系が生じました。ひとつの例外を除きこれらは週の終わりにあたります。こうして7日目、14日目、変則的ですが19日目、21日目、28日目が特に重要かつ危険を伴う日と考えられるようになりました。
これらの命令がユダヤ教の安息日を連想させるのは理由のないことではありません。
ひとつが特に意義があり他にくらべて重要とされましたが、それが満月が見られ祝賀や祈りに捧げられた14日目でした。この日はシャバットゥと名づけられ、ヘブライ語のシャバットならびに英語の安息日(サバス)の語源となります。
p148-149
古代ヘブライ人と月神シン崇拝の密接な関係
古代ヘブライ人にとって、月神シン崇拝は見知らぬものではありませんでした。
創世記には家長アブラハムの父であるテラがカナンへの移住を計画し、自身の出身地ウルを去るも貿易都市ハッラーンへと至り、そこに腰を落ち着けたという記録があります。ウル、ハッラーンという、これらふたつの都市はシン崇拝の最高位である中心地でした。
p149
シナイ山はシンからきた
シナイ山ーそのふもとで黄金の子牛が崇拝され、頂上でモーセが嫉妬深い男性の神から法が書かれた石板を受け取ったーその山の名はシンから出たとの議論もあり、ゆえにそれはすでに信仰の盛んな場所として設けられていたとの推測もありました。
p150
〔註〕:シナイ=「シンに属する山」説の出典
シナイという名の意味は「シンに属する山」ベイリー著『黄金の子牛』114~115頁参照願います。
p159
月のコンジャンクション=合の観測
月の前兆の主な情報源は月の光輪中にある天体あるいは星々を観察することでしたが、これは現代の用語でいうところのコンジャンクション、すなわち合です。
p150
アッシリアの4世界
アッシリアの学者たちは自身の世界を4つに分けられたものと見なしましたが、それはまずアッシリアそのもの(アッカド王国)、次に北方のスバルトゥです。これら双方は現代のイラクの範囲内にあります。東方には今日のイランであり永年の敵であるエラムがあり、現代のシリアがある西方にはアムッルの土地、アムルがありました。
p152
月の表面の4区分で照応する地上の前兆を占う
地上でのこの4区分は月の表面での似たような区分けにも反映されていたと彼らは信じていますた。結果として、不吉な出来事が月のどの部分に関与しているかにより、月の前兆はこれら王国のうちのひとつ、あるいはそれ以上と関連づけられました。
それは「すべての土地の前兆、月の右側はアッカド、左側がエラム、月の上部はアムッルで下部はスバルトゥ」というものです。
p152
月の女性化
月はギリシャの母神セレーネーからエジプトのイシス、後のキリスト教の聖母マリアまでを象徴する女性となりました。この性別の変換がいつどこで起こったかはわかりませんが、これらは本質的に重要性が高いことではありません。重要なのはなぜそうなったか、です。
p158
9 シャマシュ 太陽、天空と地との審判
アッシリア王国の家族関係との相関性
神たちの相互関係は天での複雑な王朝を形成し、ニネヴェあるいはバビロンの統治者たちの家族の間に存在する複雑なもつれと、あらゆる点で等しいものでした。月神シンは多くの子供たちの父親となりましたが、その中に双子の兄と妹であるシャマシュとイシュタル、すなわち太陽と金星がいました。
p160
至高の裁判官シャマシュ
ナムブルビのような魔術上あるいは崇拝上の儀式において、彼は苦悩や不正からの解放が認められるよう申請される至高の審判、神位の正義の法廷の長として崇拝されていました。
p160
円に収まった正十字
彼の象徴は正十字で、それはしばしば円の中に納まっています。
p161
メソポタミア神話での支援役の位
現存する神話は太陽を天の出来事においてさほど重要でない役割のみを演ずる存在としています。
メソポタミアの暦が太陽ではなく月に基づいていたので、彼の描写・肖像が支援役を超えて描かれることはありませんでした。
p161
さまざまな象徴
多くの王たちの像において神位の象徴は卓越した形で表示され、王の頭上にはシャマシュの象徴である正十字とともに三日月、金星の八ヶ条八端星、アダドの曲がった火箸、エンリルの王冠が彫られました。
p161
クロスパティー
王が首まわりに身に着けているのは、現代の軍の勲章に似たシャマシュの十字の紋章であるクロスパティーです。
p161
十字のいろいろ
①正十字=ギリシア十字
同じ長さの十字、テンプル騎士団の十字。スイスの国旗の十字。
②ラテン十字
キリスト教のシンボルである磔刑台形
③クロスパテー
パティはフランス語で「足」の意味で、特に初期の形状が足に似ていた事に由来する。アームが曲がった末広十字。ドイツ軍のシンボル。
④マルタ十字
4つのV形をした紋章がその底部で結合した形をしており、突き出た8つの角をもつ。
アマルフィの紋章で、アマルフィ商人がエルサレムの聖ヨハネ修道院跡に建設した病院に発した「聖ヨハネ騎士団」に由来し、「ロドス騎士団」「マルタ騎士団」と変遷したため、「マルタ十字」と呼ばれる。
〔註〕:「十字はナブ神の標章」の出典
ある報告によれば「十字はナブ神の標章」で「皇太子の威厳はこの十字にある」とのことです。パーポラ著『アッシリアの学者たちからの手紙』318、巻1,275頁参照願います。
パーポラは自著の覚え書きで翻訳を修正しています。すなわち「このようなかかわりゆえ、閣下なる王は十字が皇太子の記章として役立つことをご存知です」(同右巻2,330頁参照願います)。
p170
〔十字=ナブの象徴であったため、マルドゥク-ナブの関係は、王-皇太子の関係に照合され、もともと十字はナブの象徴であったと推定されるとなったのか。〕
丸に十の太陽のシンボルは、もとはナブーのシンボルであったという説への援軍は、
ヲシテ文字のこのシンボルが、ヲシテ・アルファベットの「な」に当たることである。
王=人民の太陽
ここで私たちにもたらされる印章は、原本で王が人民の太陽と呼ばれていることに言及がなされているのもこのことに対しいくらか信憑性を高める結果となっています。
p161
シャマシュの名=太陽と土星
彼らはしばしば太陽、土星双方について同じ名前、シャマシュの名を用いました。この同一視はギリシャの歴史家シケリアのディオドロスによりずいぶんのちになってから明確に表現され、彼はバビロニア人にとって土星は「太陽の星」と考えられていたと説明しました。
p162
土星=「夜の太陽」
これら双方が同一視されたことにより、混乱を招く数多くの文章が導き出されました。たとえばある報告には、太陽が真夜中に目撃されれば人口が大いに減じるとの明らかに不条理な記述があったりします。・・・・・・実際には「夜の太陽」としての土星に触れているというものです。
p162-163
「土星は太陽の星」「土星は王の星」
土星が月とコンジャンクション、すなわち合との報告をしている手紙には、太陽が月とともにある場合の前兆からの解釈がそえられていました。
すなわち「土星は太陽の星です」、また「土星は王の星でもあります」と加えられました。
p163
日蝕
古代の統治者たちならびに彼らの忠告者たちを真に怖気づかせた出来事は日蝕でした。
p163
身代わり王
彼らは王を変えたのです。彼らは「代理の」王を選び否定的な影響の及ぶ期間彼を王位に座らせ、予期された悪いことを彼に吸収してもらい、公式の王が代わりの人物よりも優位にあることをはっきりと示しました。・・・・・・その報告はまた、儀式期間の終わりにその変わり身が「命運が尽きる」ことにも触れています。
p165
身代わり王の殺害
明らかにこの身代わりと王女、そしておそらく彼の「廷臣」さえもが通常百日に及ぶ儀式期間の終わりにはすべて殺されました。
p166
10 イシュタル 金星、天空の女王
イシュタルは男女の双子
イシュタルは男性、女性双方を体現していました。アッシュールバニパル王の時代からの書字板では夕刻の星としてのイシュタルは女性で、朝の星としてのイシュタルは男性とあります。
p172
シュメール人のイナンナ=ジェニーの語源
金星にかかわるシュメールの星の神位の起源となるものはイナンナとしてしられているもので、・・・・・・ジェニー(Jenny)という名はこのイナンナ(Inanna)の名から語源を引き出すでしょう。
p173
セム人のイシュタルは、アッタールという男神
セム語族が徐々にメソポタミアへと移動し、金星にかかわる神位を持ち込みましたが、彼らの場合それはアッタールという名の男性の神位でした。
p173
アッタールからイシュタルへ
南アラビアからのセム語族の神であるアッタールは男神アシュタールへとつながり、そののちシュメール文化の影響を受けた女性であるイシュタルは出てきました。
p174
アッタートからアスタルテへ
南アラビアの神であるアッタールもまたアッタートと呼ばれ、のちにアスタルトあるいはアステレトとなった女性としての面をも有していました。カナンの女神アシュトレスは後者の形態が堕落したもので、ギリシャ人がアスタルテと描写しているものです。アスタルテからギリシャのアフロディーテが生じました。
p174
八ヶ条八端星
アッシリアで最も普遍的なものは八ヶ条八端星で、おそらく彼女にとって8という数字は神聖なものでした。
p175
イシュタル寺院の女教皇
メソポタミアのイシュタルの寺の建物群は宿泊設備ならびに農場を有していましたが、それは公式にかつ社会階級により区分された女性のヒエラルキーを支持するためでした。ヒエラルキーの頂点は女教皇で、たいてい王の娘でした。
p175-176
寺院の遊女
寺院に所属していたされなる女性のグループはいわゆる寺院の遊女で、イシュタルの称号である”クァディシュトゥ”あるいは”ハリムトゥ”ー双方ともに「売春婦」を意味しますーのふたつのタイプがありました。最初の者は寺院の「聖なる遊女」で、後者は商売を営んでいる遊郭から配された「働き手の少女たち」でした。
クァディシュトゥがまた乳母としての役割をも演じたことは興味深く、それはおそらく彼女たちが常に妊娠する可能性にさらされていたからでしょう。
p176
一夫一婦制ゆえの遊郭の必要性
それはまず男性は他の女性とかかわらないことで、自身の妻に忠誠を維持するべきというものですが、その上でクァディシュトゥと性的な関係を持つ目的であれば都市へ赴いてよいというのです。
p178
軍神アッタールとしての性質の残留
イシュタルの軍事的な側面もまた占星術上の書字板にその表現を見いだせます。たとえば金星がてんびん座に入れば、王国にとってよろしくないであろう戦が予知されます。
それはすなわち、戦争が伝統的には天秤宮の支配星という位置づけにあることです。
p180
11 ニヌルタ 土星、火星の兄弟
土星は「憂鬱の著者」/ウィリアム・ラムゼイ『復元された占星術』(1653年)
土星は「憂鬱の著者」と占星術師ウィリアム・ラムゼイは著書『復元された占星術』の中で書いており、この本は1653年に英語で印刷・出版された最古の占星術教科書のひとつです。
p186
強化された土星=家の建設・堅実な農産的富・まじめな努力を守る星
土星が「うまく強化され」「一年を司る天体」であれば、「人々は家を建て、土地は潤い、人々は称えられ、富は増え、そして努力は報われるでしょう」と彼は書いています。
p186
弱化された土星=冷えが増し・忍耐を強いられ・風雨による損傷を受ける
土星が弱い配置であれば「冷えがひどくなり……人は悲しみや喪失を耐え忍ばなくてはならなくなり……嵐、風雨による損傷が大きいでしょう……。
弱化された土星=「憂鬱の著者」
彼は冷たく無味乾燥となり憂鬱で、孤独の著者となるでしょう」
p186
気難しい憂鬱な老人のイメージ/ラムゼイ発
ラムゼイは概して人類に重くのしかかり、肥え過ぎた余り身動きもままならず、病むがゆえ笑顔もなく、そして慈悲を求め怒っている、断固として気難しい神位という明確な印象を私たちにもたらしています。
p186
「人生を制限・支配する力」「運命の厳しさ」/マーガレット・ホーン(1951年)
土星にまつわる、この気難しいという見方は20世紀にも至りました。英国の占星術家マーガレット・ホーンは1951年、占星術の初心者にとって永年にわたり標準的な教科書でありつづけた作品を書きました。その中で彼女は土星が「人生を制限したり支配したりする力」を有しているとし、それが「運命の厳しさ」の源となっていることを強調しています。
p186-187
伝統的な土星のイメージ=制限・抑圧など否定的イメージ
占星術師たちは、永きにわたり土星を恐れていました。土星は伝統により制限、制約が課された構造、抑圧された運命などを象徴するものとして、その個性を維持し続けてきました。結果、それは否定的な影響と見なされましたが、なぜなら自身に課された制限を喜んで受け入れる人などはいないものであるという、人々がこれまで口にしなかった憶測が浸透していたがゆえです。
p187
堅実かつ確固たる教師/深層心理学を擁した現代の占星術家たち
しかしながら、現代の占星術家たちが深層心理学を擁したことにより、この象徴へのアプローチにも変化が起こり、制限と構造は今では成長のために欠かせない要素として理解されています。厳格な審判である土星は、堅実かつ確固たる教師となりました。
p187
征服を果たした英雄/アッシリア&バビロニアの古代の占星術師たち
古代の占星術師たちは土星に対し、まったく違った見方をしていました。アッシリアならびにバビロニアの人々にとって土星は厳格で冷酷な家長などでなく、征服を果たした英雄でした。
p187
混沌に法の支配をもたらした英雄
最も初期の伝説では、土星は原始の発端の場より生じた古代の混沌の力と争い、盗まれた法の書字板を取り戻しました。これを所持することにより、運命を統治する存在となりました。
p187
土星=サグッシュ=ニヌルタ
神聖上の兄弟である土星と火星は、双方戦士の神々でした。占星術上の文書ではサグッシュと呼ばれていた土星は、原本では神位として公式には位置づけられておらず、ニンギルス、ニニブあるいはニヌラシュとしても知られるニヌルタという天体として知られていました。
p187
土星と火星を時々同一視/バビロニア人&アッシリア人
実際、土星と火星とは密接な関係にあったので、バビロニア人とアッシリア人は時々両者を分けて考えなかったほどでした。
p187
夜空の太陽=ニヌルタとネルガル/戦争の神の崇拝の中心地であるキシュ
この天での両者の一致にまつわる具体例が、戦争の神の崇拝の中心地であるキシュの町で考古学者たちが発掘したレリーフ上に現れています。そこには戦争の神の長の両側にニヌルタとネルガル(火星)双方の象徴が置かれているのが示され、それら双方は共に太陽の神位の性質を分かち合ってもいたので、太陽の円盤として描かれていました。
p187-188
武器を持つ鷲/ニヌルタの図像
標石や石碑に刻まれ、粘土に型押しされたあるいは円筒印章上に彫られたニヌルタの図像は、武器を持つ鷲というものでした。
p189
ニヌルタの象徴=獅子頭の鷲、双頭の鷲
象徴は鷲の頭のついた武器であったり、獅子の頭を持つ鷲だったり、時々互いに反対方向を向いているふたつの頭を有する鷲もあったりします。この奇妙な象徴は今でもヨーロッパの紋章に残っていますが、神話地下世界を通じて何らかの象徴の共鳴があるのか否かは明言できません。
p189
豚がトーテム=聖書の豚肉消費の禁忌
ニヌルタの称号のひとつは豚の主で、彼にとって豚は聖なるものでした。ここに、聖書における豚肉消費の禁止の起源を見ることも論じ得ます。というのは豚肉の消費を禁じることにより、ニヌルタは事実上侮辱され拒まれるからです。
p189
サクト神=モレク神崇拝の流行を非難する預言者アモス
2番目の関連性はアモス書に現れます。この書の預言者は、約束事の実践が侵略と追放をもたらすというサクト神(欽定訳聖書では「モレク」と翻訳されています)崇拝が広まりつつあったことを受け、自身の民を声高に非難していました。
p189
サクト神=日の出の神としてのニヌルタの称号
戦の、そして太陽の神としてのニヌルタ崇拝はメソポタミアより西方に広まり、太陽神ゆえ昇る太陽すなわち「日の出の門を開ける者」としての神を体現する存在と考えられました。日の出の神としてのニヌルタの称号のひとつが、アモスに敵対するという点で同じであるサクトでした。
p189-190
ニヌルタ崇拝のイスラエル中での定着/紀元前8世紀預言者時代のイスラエル
ニネヴェでのアッシュールバニパル王統治より1世紀前である紀元前8世紀、すなわち預言者の時代に、ニヌルタ崇拝がイスラエルじゅうで定着したことにつき私たちは裏付けが十分あると確信し得るのです。
p190
土星=シャマシュ=ヘリウス
紀元前56年頃、歴史家であるシケリアのディオドロスは、……さらに土星が「ヘリウス[太陽]と呼ばれている」とつけ加えました。これまで見たきた通り、これは太陽と土星の双方が原本において、しばしばシャマシュとして言及がなされていたメソポタミアでの習慣における、古風で廃れたそして混乱をもたらす可能性がある認識です。
p190-191
最初期の特徴「法と秩序の星」/エヌマ・エリシュから現代までの4千年間
土星につき論じられている特徴の中で最も初期のものは、バビロニアの創世記である”エヌマ・エリシュ”において見いだされます。”エヌマ・エリシュ” はバビロニア第一王朝の頃、その決定版が校合されました。なかには紀元前1800年頃のものと推測する人物もいます。
”……その星[土星]、法と秩序の星……”
現代の占星術家たちからすればこれはとてもなじみのある属性で、というのはこの土星にあてがわれた特徴づけが今日のものとちょうど同じ特性、すなわち土星は「規律でありそれらを実施する者」であることを含むからです。これは初期のバビロニアの神話が、そのほぼ4千年後に存在する占星術の必須な部分を形作ったものであり得ることのさらなる証拠です。
p191
土星=「真実と正義の星」
月に光輪があり土星がその中にあれば、土地の者たちは真実を語り、息子たちは自身の父と真実を語らうでしょう。
2番目の原本は土星が「真実と正義の星」とされているという、右記のかかわりを明快にするものです。
p191-192
土星=「アッカドの星」
太陽[土星]は王の星……。太陽[土星]が月の上か下にある時、王位の基盤は不動で、王は正義の名のもとにいるでしょう。
さらなる報告により土星が「アッカドの星」で、「王にとっての幸運」であることが明示されています。
「神々はアッカドの幸せを望んでおられる。」
p192-193
土星の属性=「重量のある・密度の高い鉱物」を支配
ニヌルタの興味深い属性のひとつとして、千年紀を経てよみがえり現代占星術の教科書の土星の項の中に現存するものがあります。これは地球の岩石との関係のもので、「マンディーン」の属性を扱う現代の占星術教科書では土星が支配するものとしては、「石炭、その鉱山ならびに鉱夫。鉛、建物の基盤……」を含むでしょう。明らかなのは土星が重量のある、あるいは密度の高い鉱物を支配しているということです。」
p193
ニヌルタの石どもの制圧と支配
ニヌルタと敵対する地上の石につき語られるものがあるからです。それらを打ち負かし鎮圧するや否や、彼はそれら鉱物の運命の善し悪しを分配しました。
p193-194
火星と土星との合=飢饉
さらなるふたつの属性が言及されており、飢饉は火星と土星との合から予知され、土星が獅子座にあるとライオンとジャッカルが3年間うろつき、自由に歩き回る彼らが攻撃し殺し、人々と財産の往来が深刻なまでに台無しになると予示されているとのことでした。
p194
土星=「法と秩序・真実と正義」を司る
結論として、アッシリア人ならびにバビロニア人にとって土星は、アッカドの土地じゅうでの堅固さを維持する上で重要と見なされた要因である法と秩序同様、真実と正義とを司っていたのは明らかであるということです。
p194
土星と他の天体との合=繁栄、火星・土星の合=飢饉
しかしながら土星と他の天体との合では示された利益が、火星との合がある場合無効となる可能性があるのです。少なくとも火星・土星の組み合わせは否定的なものとして見られ、飢饉や困難を告げるものとされていました。
p194
「国家の基盤」「社会的、法的に許される構造上の制限」を支配
土星は今日「国家の基盤」「社会的、法的に許される構造上の制限」を支配するとされています。
p194
12 ネルガル 火星、死の星
地獄の火ならびに人間と農作物とを台無しにする夏の獰猛な熱の主
古代の占星術師たちは、火星をニヌルタの兄弟であるネルガルという神と見なしていました。ニヌルタ同様ネルガルも元々は太陽の神性だったようですが、兄弟とは対照的に悪いもの、地獄の火ならびに人間と農作物とを台無しにする夏の獰猛な熱の主と考えられていました。
p196
ルガルメスラム=「夜になると太陽が横たわる、より下位の世界の王[ルガル]
ネルガルの最も古くから知られていた名前は、シュメールのルガルメスラムで、それは「夜になると太陽が横たわる、より下位の世界の王[ルガル]の翻訳です。
p196
地下世界の神、墓の神、死の審判へ
それ以降ネルガルとその妻であるエレシュキガルは、地下世界であるアッラルを統治し分かち合い、ネルガルは地下世界の神、墓の神、死の審判ともなりました。
p197
ネルガル=戦争の神
加えてネルガルは、神話では兄弟のニヌルタ同様戦争の神、戦いの主であるようです。
p197
ネルガル=疫病・発熱・悪疫の神
ネルガルはまた疫病・発熱・悪疫の神とも考えられ、……。
p198
火星から冥王星へ
20世紀初めの占星術著述家により記録された火星に伝統的にまつわるものは、戦争・暴力のみならず疫病・伝染病そして熱病もあります。そしてさそり宮の支配星としての火星は、その最も初期の神話に立ち戻り、死と地下世界とを統括するといまだ考えられていました。しかしながらこれから見てゆく通り、1930年以降後者の属性は冥王星により包摂される形へと進みました。
p199
冥王星=火星と土星の属性を統合
現代における冥王星の化身がネルガルとニヌルタの兄弟、すなわち火星と土星の属性を統合したものを含むというのは妥当性があるでしょう。冥王星はニヌルタのように運命の裁定者で、ネルガルのように地下世界の支配者です。冥王星はさそり宮を支配するとされてもおり、さそり座あるいはさそり宮はメソポタミア人に恐れられましたが、おそらく彼らからすればそれが彼らを文明ごと追い払う混沌・闇・未知のものを象徴したからです。
p201
13 マルドゥク 木星、バビロンの救世主
バビロニア・アッシリアの新年=春分のニサンヌ月
古代バビロニアならびにアッシリアでは春の到来は新たな一年の始まりを告げました。最初の月であるニサンヌは春分に最も近い夕べで、三日月が最初に見られた夕刻から始まりました。
現代ではこの日付は、3月13日から4月11日までの間のいずれかになります。
p204
ニサンヌの11日間の祭礼
ニサンヌはバビロニア人にとって特別な月で、その最初の11日間はまさに古代の、そしてメソポタミア社会のいまだ不確かであった根幹に触れる、宗教上の大いなる祭事にあてられましたが、それはおそらく人類がはるか有史以前に最初に定住し社会をつくって以来居残っている混沌、未開ぶりが持つ恐ろしさに触れる機会でした。
p204
マルドゥクの寺院エサギラの式典に残る新年祭
バビロンでの祝祭の中心的名士は、この都市の神の長であるマルドゥク(木星)と息子のナブ(水星)でした。似たような春の祝祭は、アッシュール、ニネヴェ、ウル、ウルク、ディルバット、アルベラそしてはるか地中海へ至る道の途上にあるハッラーンでも行われていたことで知られています。
p205
王の捕囚と解放するナブの到着
同日ののちには寺院内にある、翌日やってくることになっていたマルドゥクの息子であるナブ神(水星)に捧げられた場所に配された、金の天蓋のある奉納の机を労働者たちが準備し始めました。
翌日、祝祭の6日目には、捕らえられた王を救うことになるナブがバビロンに到着しました。
p210
木星=マルドゥクの星=幸運の星
マルドゥクはバビロニアとアッシリアの神話で、世界の救世主として栄えある地位を占めました。従って、「サグメガル」あるいは「ムル・ディンギル・マルドゥク(マルドゥク神の星)」のいずれかとして原本に書かれた彼の天体である木星は、例外はありますが彼らの占星術においては同様にベネフィック、すなわち幸運な立ち位置を占めています。
p213
14 ナブ 水星、神々の書記
ナブ崇拝の謎
興味深いことに、ナブ崇拝についてはほとんど知られていません。このことがことさら驚きに値するに至ったのは、紀元前千年紀のあいだナブ崇拝はあまりにも広まり人気を博したので、マルドゥク崇拝に匹敵するほどとなったことが明らかになったからです。なるほど、崇拝は4世紀すなわちキリスト教の時代に至るまで生き残ったと信じられています。しかしあらゆる儀式を論じた文書、あるいはその崇拝に不可欠な原本がほとんど見いだされておらず、ゆえにこの大いなる神は私たちにとって本質的に謎であり続けています。
p219
ボルシッパのエジダ
ナブ崇拝の中心地はバビロニアの都市であるボルシッパで、その地域の政治的統治を行っていたバビロンから約10マイル南方、ユーフラテス川近くの湖のそばにありました。ボルシッパの存在は紀元前2千年紀の初めから記録があります。ナブの寺院であるエジダには、アッシュールバニパル王が珍しい書字板を求め使者を送った立派な図書館がありました。
p219
ナブ=使者=水星
彼の名は字義上「使者」で、これはのちに神々の使者であるローマでの水星により繰り返し使われました。
p220
ナブ寺院の多色の段
ローリンソンはここで奇妙な点に気づきました。寺院の段のいくつかがそれぞれ異なる色からなるレンガでできている、あるいはそれらにそれぞれ色が異なる物質が覆っているようだったのです。
p222
ボルシッパのジッグラト/黒、赤、黄、グレー、水色
この寺院は7つの段からなるジッグラトの塔で、……黒い樹脂が上塗り……赤いレンガで……明るい黄色……グレーのレンガの段……2番目に高い段としてガラス状の「青い鉱滓」……。
p222
1黒、3赤、6水色
私はすぐにその偶然の一致に心打たれましたが、最初の段は黒、3番目は赤、6番目と思しきものは青で、それらはサービアの天体システムでの1番目、3番目、6番目の天球の色であり……それぞれが土星、火星そして水星に属する色で、しかもそれら天球が支配する色でした!
p222
ハッラーンのサービア教徒の色
サービア教徒は6~8世紀の宗教集団で、活動の拠点はアッシリア、バビロンから地中海に至る道中にある大都市ハッラーンでした。
p223
定礎埋蔵物の刻まれた「7つの天球」とは?
バビロニア人は……円筒形の彫刻を、新しい建物の基礎となる場所の四隅に埋葬する習慣を有していました。……それら同一の円筒は「寺院は7つの天球にある天体」に捧げられた」と記録されていたのみならず「7つの天球の舞台」と呼ばれてもいました。
p223
土星=黒、木星=茶色、火星=赤、太陽=金、金星=黄色、水星=水色、月=銀
寺院のそれぞれの段は異なる天体に捧げられ、それぞれに天体の色を付されたとのことです。サービアの天体の順番を土星、木星、火星、太陽、金星、水星そして月としつつ、彼は最初の段、すなわち漆黒の樹脂が塗られたものは土星に、赤茶色のレンガの2段目は木星、より明るい赤のレンガの3段目は火星にそれぞれ捧げられたと推測し、4番目の太陽はレンガの色の違いを認め得ませんでした、5番目は黄色いレンガの金星、6番目はガラス状の青である水星に捧げられたと推測しました。そして7番目は月ですが4番目同様、色の相違を見だせませんでした。彼は4番目は元々金の化粧板、7番目は銀の化粧板で覆われていたと推測しました。
p223
「GU.UD」=シートゥ/「雨を降らす存在」
ニネヴェの貯蔵庫に見いだされた報告の中に、水星がしばしば”Gud”と翻訳されるシュメールの形象である「GU.UD」として書かれていました。それはアッカド語でシートゥと発音され、意味は「飛ぶ」で、おそらく他天体にくらべての速さを反映しているものと思われます。その最もよく知られた効果は雨を降らせることで、春の祝祭の5日目の祈祷のひとつに「雨をもたらすGudの星よ」とあります。
水星が「雨を降らす存在」であるとの指摘は報告により裏づけられています。
p224
「水星は皇太子」
「水星は皇太子」だからです。
p225
15 天文学『ムル・アピン』
新月出現のあらかじめの計算
占星術師たちが実際の観察における困難により引き起こされる不確実さを克服し得る唯一の手段は、新月が最初に出現する日時の計算をあらかじめ効率よく行う工夫をすることでした。このように彼らは臨時の月を暦に入れるか否かをあらかじめ決めることが可能となり、常用暦を太陰月と一致したものに戻すことができたのです。
p229
アンミサドゥカの金星書字板時代=原始的
紀元前2千年紀の初めにおいては、星の地理学はじつに原始的なものでした。アンミサドゥカの金星書字板でのこの天体は、地平線との接近ぶりによる位置づけがなされた程度でした。
p230
天体同士の関連付けと「指」や「腕尺」での測定
紀元前千年紀に王の宮廷に宛てた手紙を書いている占星術師たちは、天体同士を互いに関連付けさせたり月や恒星、星座と関連付けさせたりしました。加えて初歩的な測定法が多く行われましたが、それらは「指」や「腕尺」で星の距離を計算するというものでした。
p230
彼らの原始的な時間管理ならびに継続的な観察により、占星術師たちはついに太陽、月、天体そして星々の長期間での動きを発見し、それらの未来での位置を予知するようになりました。
p230
バビロニアとアッシリアの観測地点上の相違問題
とは言え多くの難題が引き続き存在し、バビロニアとアッシリアとの観測地点上の相違もその少なからぬものでした。これらふたつの都市間には緯度上で4度の差があるので、天体の上昇はニネヴェで観測される前にバビロニアでまず起こりました。
p230
星座一式を4つのまとまりとして標準化、書字板「アストロラーベ」に記録
これら星座一式は4つのまとまりとして標準化され、「アストロラーベ」として知られる書字板に記録されました。多くが残存し紀元前1100年あたりからのものが最古です。
p232
水船渠、日時計あるいは太陽時計で時間を計測
数学上の技術が天文学に紹介されるまでのあいだは、より大いなる正確さは実現困難でした。
時間の経過を計算するには水船渠、日時計あるいは太陽時計はその移り変わる影の長さから一年での変化を見極めました。
p233
『ムル・アピン』と呼ばれるふたつの書字板/前千年紀
アストロラーベの正確さは紀元前千年紀の切り替わりの頃、確かなものとなりました。この時点での天文学的知識の総量は、その最初の行の記載から『ムル・アピン』と呼ばれるふたつの書字板にまとめられた編集物に含まれています。
p233
『ムル・アピン』の18の部門分けされた部分
『ムル・アピン』は18の部門にグループ分けされています。これらはエア、アヌそしてエンリルの通り道にある恒星の一覧すなわち36の恒星、星座が朝上昇する日付、天体の期間、季節、春分ならびに秋分そして夏至・冬至、月の見える期間を表す表、暦に挿入する上での規則、影の長さを詳述した日時計表、水時計に用いる水嵩などを含んでいます。この書字板にはまた、彗星ならびに恒星からもたらされた前兆をも含んでいます。
p234
『ムル・アピン』の獣帯の原型の部分
のちの天文学上の重要な概念のおそらく模範となる、もうひとつの部門が書字板にあります。『ムル・アピン』には月が動き通る道、すなわち「月の通り道」にあたるすべての星の一覧があります。……「月の通り道」をなすべく用いられた星座の数が徐々に12へと減じましたが、この12という数字はのちの獣帯のサイン(宮)の数と同じです。
p234
『エヌマ・アヌ・エンリル』と『ムル・アピン』だけでは不十分
『エヌマ・アヌ・エンリル』と『ムル・アピン』により例示されたように、占星術、天文学上の観察ならびに未来予知において明らかな自信があるにもかかわらず、疑いが依然として存続したのは明白でした。
p235
”ナサル・シャ・ギネ” =「定期的な監視」という日記編纂
彼らは”ナサル・シャ・ギネ” あるいは「定期的な監視」と呼ばれた「日記」を編纂し始めました。
p235
併記された通商情報
古代の商業界についても記載があり、その最後には銀通貨で購入可能な小麦、ナツメヤシ、胡麻そして羊毛といった基本的な商品の市場価格、ならびにひと月のあいだに起きた価格変動で疑問に付されているものが書かれていました。
p237
併記された政治的な情報
実際に起きた戦、死、条約といった政治上の出来事、私たちが読み得るすべての日記が書かれた町についての一覧もありました。
p237
最古の日記と次の日記
最も古いものとして知られている日記は、アッシュールバニパル王統治下の紀元前652年の日付を有する断片です。原本と思われるものの後世での写しで、次に古いものはおおよそ100年後の紀元前568年すなわち「ネブカドネザルの37年目」になります。
p237
第三部 余波
16 侵略
前539年、ナボニドゥスVSキュロス二世のティグリス河畔の決戦
紀元前539年9月の終わり頃、現代のバグダッド領域内にあるティグリス川沿岸でふたつの軍隊が互いに向き合いました。
バビロンの王ナボニドゥスは10年に及ぶアラビアでの軍事運動から戻ったばかりでしたが、彼の息子であるベルシャッザール率いる経験に富んだ彼の軍隊は、深刻なまでに数において圧倒されていました。ナボニドゥス軍にに対峙したのは数週間前バビロニアの領土を侵攻した、ペルシャ王サイラス二世の巨大勢力でした。
p242
ハッラーンでシンの女教皇の母を有するナボニドゥス、シン一神教へ
ハッラーンでシンの女教皇を務めていた母親を有するナボニドゥスは、統治を始めたころからこの神に信奉を捧げるようになり、その崇拝ぶりを一神教の方向へ向かわせつつありました。
……ハッラーンにある彼の思いのたけを刻んだ碑銘を見ると、彼がシンを「神々のなかの王」「神々の中で最も偉大」としていたことがわかります。
p142
ナボニドゥス、マルドゥク・ナブの新年祭を停止の暴挙
なるほど、たしかにナボニドゥスに敵意を抱くのちの「ナボニドゥスの韻文の記述」の匿名の著者はそのように考えたでしょう。ナボニドゥスがシンを崇拝する寺院をバビロンに建立したこと、マルドゥク崇拝を拒み毎年恒例の新年の祝祭を行わなかったことにつき彼は辛辣に不満を述べており、記述のとあるくだりには「王は狂っている」との忌憚なき記述があります。
p243
新年祭、ナボニドゥス統治7年から17年まで中止
『ナボニドゥス年代記』には、ナボニドゥスが統治7年目の年に新年の祝祭は中止とされ、祝祭が元通りに行なわれたのはその10年後すなわちペルシャが侵略した際であるとの記載があります。
p243
ゴブリャスのアッシリア軍が寝返りバビロニア軍が敗北、ベルシャザール戦死?
バビロニアならびにペルシャの軍隊は互いに向き合いましたが、戦はアッシリア軍の統括者と彼の分遣隊がだしぬけに寝返るや否や勃発し、これによりナボニドゥスは命運が尽きました。アッシリアの統治者であるゴブリャスがサイラスと極秘裡に交渉・結託していたのは明らかで、彼はバビロニア軍を攻撃しベルシャッザールを殺しました。
p244
シッパルにいたナボニドゥス逃亡、まもなく捕獲
結託した軍はシッパルを攻撃し労せず陥落させ、そこにいたナボニドゥスは逃走しましたが、ゴブリャスと連合軍がバビロンを攻撃し、短い抗戦を経て降伏させました。ナボニドゥスはまもなく捕えられましたが、ここで歴史上の記録は途絶えています。
p244
サイラス、ほとんどバビロンを無血制圧、ゴブリャスの不可解な死
17日後にあたる紀元前539年10月、サイラスは征服者として都市に入りました。8日後、都合の良いことにゴブリャスが亡くなりましたがその経緯は書かれていません。
p244
バビロン、略奪・破壊なし
バビロンはサイラスの侵略により略奪も破壊もされず、サイラスは自身の軍隊を統治し続け、征服された人民からは好意を得ました。
p244
キャムビィセス、マルドゥク新年祭を復活
その後新年の祝祭については、彼の息子であるキャムビィセスがバビロニアの統治者としてよりも先にマルドゥクの神性上の是認を儀式をもって受けました。
p244
バビロニア・アッシリアとメディアの一枚岩
キュロスによるバビロン制圧
バビロニアのマルドゥク・ナブの水神信者によるソフト・クーデタと解される。
当然バビロニア・アッシリア混血のベルシャザルは、水神信者側との仲立ちゆえに、月神信者の父ナボニドゥスとともに、エラム総督として移遷されることで、メディア王キュロスと手打ちができていたと想定される。
キュロス・カンビュセスのメディア人はバビロニアにやさしい君主
堅実さ、ならびに経済的繁栄がサイラスの息子であるキャムビィセスの統治のあいだを通じ続きましたが、彼の死後王国じゅうに反乱が起きました。
p245
ダリウスのペルシア人が簒奪
多数の死傷者を出す交戦ののち、反乱者たちはついに血縁であるダリウスにより打ち負かされ、ダリウスは王となり堅実な長期政権を推進しました。
p245
メディア王国の正体
出典:Wikipedia「メディア王国」2025.3.11
主要資料:Dandamayev, Muhammad; Medvedskaya, Inna (2006). “Media”
一、アマダイ(Amadai)→マダイ(Madai)
①歴史的初出:シャルマネセル3世(在位:前859年-前824年)の黒色オベリスク
「メディア」という固有名詞が文書史料上に初めて登場するのは前835年または前834年のことである。アッシリア王シャルマネセル3世(在位:前859年-前824年)の黒色オベリスクに残された碑文によれば、この時シャルマネセル3世はアマダイ(Amadai)からハルハル(Ḫarḫar)という土地に攻め入った。このアマダイはメディアを指す。
②マダイ(Madai)へ/ティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)時代
前8世紀以降、メディアはアッシリアにとって重要な敵となり、アッシリア王たちはメディアに対して攻撃を繰り返した。およそ100年後のティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)の記録においてもマダイ(Madai)を攻撃し略奪したことが記されている。 シャルマネセル3世とティグラト・ピレセル3世の間のアッシリア王たちもメディアへの遠征を行ったことが年名などの記録からわかるが、史料の欠乏により詳細は不明である。
二、アマダイ(Amadai)・マダイ(Madai)は土地の名前
同じ頃にメディアと共に近傍のマンナエやペルシア(パルスア)がアッシリア人の記録に登場するようになる。ペルシア人の登場はメディア人よりやや早いが、これをもってペルシア人のイラン高原への到来がメディア人に先行するものであると見ることはできない。アッシリア人の記録を正しいものと仮定するならば、当時ペルシア人はオルーミーイェ湖(ウルミヤ湖)の西から西南にかけて、メディア人はその東南(現代のイラン・ハマダーン州周辺)にいたことになる。ハマダーン州のエクバタナ(ハグマターナ、「集会所」の意、現在のハマダーン市)は後のメディア王国の首都とみなされる。ただしアッシリア人が語るパルスアやアマダイ(マダイ)は必ずしもペルシア人やメディア人という特定の集団を指すものではなく、前9世紀頃から「ペルシア人」や「メディア人」が居住していた地域そのものを指すと考えられる。
三、ティグラト・ピレセル3世による民族強制移住(前744、前737)
ティグラト・ピレセル3世の攻撃は前744年と前737年に行われ、アッシリア軍は「メディアの最も僻遠の地」にまで到達し「塩の荒野の境」と「ビクニ山の際に」までに至るメディアの諸都市の支配者たちに臣礼を取らせた。彼はイラン北西部からシリア・フェニキアへと6,500人を強制移住させ、逆にシリアからはアラム人をイラン高原に移住させたとしている。そしてビート・ハンバン(Bit Ḫamban)とパルスア(ペルシア)をアッシリアに併合し、総督と駐屯軍を置いたという。
※これにより、アラム人(前8世紀にカナン地方に里帰り植民したヘーラクレース帝国の人々)が、メディア地方に移住した。
四、サルゴン2世によるエラム(ウライ以東)の制圧、ハルハル→カール・シャルキンへ
前8世紀の末、アッシリア王サルゴン2世(在位:前722年-前705年)は前716年に新たなアッシリアの州としてハルハルとキシェシム(Kišesim)を設置し、メディア西部がそれに加えられた。これらの州はその後、カール・シャルキン(Kar-Šarrukin)とカール・ネルガル(Kar-Nergal)と改名され、メディアの支配を拡大するために強化された。
五、ウラルトゥに同調した王の名前としてダイウック登場=デイオケスか?
この頃、アッシリアの北方の大国であったウラルトゥの王ルサ1世はアッシリア攻撃のために周辺諸部族との同盟を試みた。この時ウラルトゥに同調した王の名前としてダイウックというメディア人の名前が登場する(ただし、彼はマンナエの王国の半独立的地方的支配者として登場する)。しかし前715年に始まったルサ1世によるアッシリア攻撃は失敗に終わり、ダイウックもまた捕虜となってシリアに送られた。このダイウックはヘロドトスの『歴史』に登場するメディアを統一した王デイオケスに相当するという見解がある。もしもこの同定が正しく、ヘロドトスの見解が信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は公正な裁判によって名望を高め、メディア人諸部族の推戴を受けて初めて統一されたメディアの王となった人物である。ヘロドトスによればデイオケスは首都エクバタナを建設して七重の城壁を張り巡らし、独裁権を確立したとされているが、アッシリアに対する敗北は記録されていない。
六、カシュタリティが統一的王朝建設か?
一方で同じ前672年には同盟諸国と共にアッシリアに反乱を起こしたメディア人の首長たちもいた。アッシリアの記録によればこの時反乱を起こしたのはキシェシム州(Kišesim)のサグバト(Sagbat)にある都市カール・カッシ(Kār-kašši)の「市長(city lord)」カシュタリティ(Kaštariti[注釈 7])、サパルダ(Saparda)の支配者ドゥサンナ(Dusanna)、メディアの「市長」マミティアルシュ(Mamitiaršu[注釈 8])の3名で、特にカシュタリティが首謀者とみなされている[1]。この反乱は成功したものと見られ、前669年(この年エサルハドンは死亡した)の文書ではメディアはウラルトゥ、マンナエなどと共に独立した勢力として言及されている[1][25]。アッシリア人が彼に「市長」以上の称号を付与して記録したことは無いが、カシュタリティはメディア人の統一的な政治勢力を形成した可能性がある[25]。
七、ヘーロドトスのデイオケスの息子フラオルテス=カシュタリティか?
ヘロドトスの記録では、ペルシアの征服という業績は初代王であるデイオケスの息子フラオルテスに帰せられている[28]。このフラオルテスはメディア人の「市長」カシュタリティ(フシャスリタ)に対応するかもしれない[1]。既に述べたようにカシュタリティはアッシリアに対する反乱を成功させており、恐らくは独立したメディア人の「王国」を形成することに成功した人物である。しかしメディアの一部はなおアッシリアの支配下に残されており、カシュタリティ(フラオルテス)によって率いられた独立したメディアの領域は正確にはわからない。
八、マシュ・シュム・ウキンに味方して反乱
アッシュルバニパルは前648年にシャマシュ・シュム・ウキンを打倒した。この反乱におけるシャマシュ・シュム・ウキンの破滅はアッシュルバニパルの年代記において詳細に記録されているが、「グティ人」(メディア人)については彼に与したこと以外言及がない[33]。これはシャマシュ・シュム・ウキンの反乱におけるメディア人との戦いはアッシリアが直接従事したのではなく、スキタイ人の手によったためであるかもしれない[33]
九、メディア王フラオルテス戦死、息子キャサクレスが継承
ヘロドトスはメディア王フラオルテスが「同盟国が離反して孤立していた」アッシリアを攻撃したものの戦死したこと、さらにその息子キュアクサレスが父親の仇を討つため、アッシリアの首都ニネヴェ(ニノス)を包囲した際、スキタイ人の王マデュエスの攻撃を受け敗れたことを伝えている。アッシリアとの戦いにおいてメディア軍が打ち破られ、メディアの王が戦死していれば、それがアッシリアの年代記で言及されないことは想定し難く、フラオルテスの死後、メディア人がニネヴェを包囲している最中にスキタイ人の攻撃を受けたというヘロドトスの伝える時系列は誤りである可能性が高い。しかし、基本的な事実についてヘロドトスの記述に従うならば、フラオルテスの死とスキタイ人の侵入の間の時間的隔たりは大きくはなく、同時代の出来事であることは明らかである[35]。
十、キャサクレスの娘アミティスとネブカドネザルが結婚か?
アッシュル市をメディア軍が占領した後、ナボポラッサル率いるバビロニア軍もアッシュル市に到着した[1]。なお、彼も前年春にアッシュル市の城壁にまで迫っていたが、この都市を占領することはできなかった。このためアッシュル攻略自体にはバビロニア軍は直接関与していない。この地でキュアクサレスとナボポラッサルは「互い平和と友好を約した」。ここでキュアクサレスの孫(アステュアゲスの娘)アミティス(Amytis)とナボポラッサルの息子ネブカドネザル(2世、ナブー・クドゥリ・ウツル)の結婚も恐らく決定され、両国の外交関係の強化が図られた。
※ベルシャザルに流れるメディア王家の血
メディア王キャサクレスの孫娘と「アミティス」とネブカドネザルが結婚して、生まれた娘がナボニドゥスと結婚したヘーロドトスの「ニトクリス女王」だとすれば、ベルシャザルは、バビロニア人・メディア人・アッシリア人の血を引く三者共闘の鎹であることになる。
またメディア王家も、ティグラト・ピレセル三世の強制移住で入植したアラム人=ヘーラクレース帝国人であったとするなら、この三者が共闘するのは自然である。
11、ハリュス川での戦闘(日食の戦い)でリュディア王国と和解・婚姻/前585年5月
キュアクサレスはその後さらに勢力を拡張しようと試み、リュディアを攻撃したものと考えられる[1]。メディアとリュディアの戦争は5年間続いたが決着がつかず、ハリュス川での戦闘(日食の戦い)中、日食が発生したことで両軍が恐れおののいたことで和平の機運が高まったという。そしてバビロニアとキリキアの仲介で、同川を国境としキュアクサレスの息子アステュアゲスとリュディア王アリュアッテスの娘アリュエニスの婚姻が決定され、講和を結んだとされる。これが事実とすれば、この日食は前585年5月の出来事である。
12、アンシャンの王キュロスがメディアを征服
この物語に反し、バビロニアの記録はキュロスがメディア王アステュアゲスの孫であるとは述べておらず、またキュロスがメディア王の臣下であったともしていない。キュロスは単に「アンシャン(アンザン)の王」と呼ばれており、アステュアゲスはイシュトゥメグ(Ištumegu)と言う名前で「ウンマン=マンダ(Umman-manda、メディア)の王」と呼ばれている。メディア軍が「アンシャンの王」キュロスと戦ったことは、新バビロニアの王ナボニドゥスの年代記(B.M.353782)にも記述があり、それによればナボニドゥス治世6年にメディア王アステュアゲス(イシュトゥメグ)が軍を招集しアンシャンに向けて行軍したが、軍隊が反乱を起こしてアステュアゲスを捕らえキュロスに引き渡した。その後キュロスはアガムタヌ(Agamtanu、エクバタナ)まで進み、銀、金、その他の戦利品を獲得したという。キュロスの出生にまつわるヘロドトスの情報を確かめる術はないが、バビロニアの年代記の記録とヘロドトスの記録はその経過について概ね整合的である。アンシャンの王キュロスは、いわゆるハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の建国者とされるキュロス2世(クル2世)にあたる。彼がメディア王国を征服したのは前550年のことと見られ、メディアの旧領土はハカーマニシュ朝の支配に組み込まれた。この王朝はペルシア帝国とも呼ばれる。
※ヘーロドトスの物語にいくばくかの事実があるなら、キュロスはメディア人の血を引いていることになる。
キュロス二世にメディア人の血が入っているかの確証はないが、ペリシア人のハカーマニシュの正統な子孫であることはたしか。そして簒奪者ダリウスは、このハカーマニシュ王家に自分の平民の祖先を接ぎ木したと想定される。
13、キュロス二世がメディア人のハーフであった証拠
独立したメディアの歴史叙述は通常ここで終了するが、しかしメディア王国の枠組み自体が完全に解体されたわけではないと考えられる。メディアはハカーマニシュ朝において特権的地位を維持し、メディアの首都エクバタナはハカーマニシュ朝の夏宮が置かれ、この州はペルシアに次ぐ第二の地位を占めていた。さらにハカーマニシュ朝がバビロニアを征服した際、その地に赴任した総督は、ナボニドゥスの年代記でグティ人と呼ばれていることからメディア人であった可能性があり、その他のバビロニアの文書からも、数多くのメディア人がハカーマニシュ朝の重要な官吏、将軍、王宮の兵士として仕えていたことがわかる。ギリシア人やユダヤ人、エジプト人たちはしばしばハカーマニシュ朝の支配をメディアの支配の継続とみなし、ペルシア人を「メディア人」とも呼んだ。こうして、メディア人はハカーマニシュ朝の歴史に大きな影響を残しつつ、ペルシア人と同化していった。
14 ハカーマニシュ朝正統の血筋
※メディア人の血
キュロス二世は、ハカーマニシュ朝正統の血筋で同族のパルナスペスの娘カッサンダネと結婚し、正統の息子カンビュセスを生んだ。
カンビュセスは、死後、馬の骨のペルシア人(広義のフェニキア人の血の入らない馬の骨)のダレイオスによって簒奪される。
しかし、ダレイオスは、正統のカンビュセスの妹アトゥッサに婿入りして簒奪した。
クセルクセス一世には、正統の血が半分流れることになった。
従って、キュロス二世にメディア人の血が入っていたからこそ、のちにギリシア人からペルシア人がメディア人の名で呼ばれることになったと推定される。
バビロン総督がメディア人であったということは、ベルシャザルの故にナボニドゥス・ベルシャザル父子をエラムのスサに島流しにする形に存続させたと推定される。
占星術が民間化
数学上の規律の導入/前529年のペルシア支配時代
ペルシャの支配の時代においては占星術の実践上での重要な進歩、すなわち数学上の規律の導入がもたらされました。
p245
閏月の挿入が規則的になる/前529年(カンビュセス即位の年)
バビロニアの1年は私たちのそれ同様12ヶ月から成りますが、季節との調和を取り戻すべき閏としての13番目の月を暦に加える必要がある場合がありました。それら閏月は組織だった秩序がないまま占星術師たちが必要と考えるたびごとに加えられましたが、それは紀元前529年までのことでした。私たちが有する記録上ではこの日以降紀元後73年まで3つの例外を除き、月の挿入が規則的に行われたことがわかります。これは占星術師たちが、暦上の規則性が依拠している天の周期に関する理解を大いに高めたことの証拠にもなっています。
p245
朔望周期の発見と恒星周期という概念
星の動きにおける規則性を調査することは、天体の朔望周期の発見とともに続きました。朔望周期は地球からみた天体と太陽のコンジャンクション、合が引き続き起きる周期です。これに対して天体が獣帯の12宮を通過し元の場所に戻ってくる時間の長さを表す、恒星周期という概念が加わりました。
p245
土星向けに用いられた周期は59年
たとえば土星向けに用いられた周期は59年であり、これはふたつの恒星周期、すなわち29年半または57の朔望周期から成ります。
p245-246
12均等の獣帯の宮で規定
またこの頃、天体は獣帯の星座よりもむしろ獣帯の宮で規定されるようになりました。数学上の関与により空が均等の長さからなる12宮に分けられることとなりました。
p246
マンディーン占星術からネイタル占星術への変化
この頃占星術は数学上の技術を加えた結果、その構成を修正・変更したのみならず、その方向性をも変えました。
それは政治・集団志向である「マンディーン」占星術から個人を重要視するそれへの変化でした。
p247
マンディーン占星術とバビロニアの多神教/ネイタル(出生)ホロスコープとペルシャの一神教ゾロアスター教との相関?
初期の占星術史における専門家であるファン・デル・ワルデン教授は『エヌマ・アヌ・エンリル』を擁するバビロニアの古典的占星術とバビロニアの多神教とのあいだに緊密なかかわりがあり、同時にネイタル(出生)ホロスコープすなわち出生図に基づく占星術とペルシャの一神教でありゾロアスター教とのあいだにも、互いに共鳴するかかわりがあると述べています。
p247
ネイタル占星術と数学の導入の起源
バビロニアの上層階級で独占されていた秘教の保持者が、バビロニア王国の崩壊で、フランス革命で、宮廷の料理長が民間のレストラン発生につながったように、民間に降りて、個々人を教化するようになったと推定される。
ゾロアスター教の自由選択と不死の魂の理論が影響か?
この宗教の基本はゾロアスターの書いたもの、すなわち至高神アフラ・マズダーが出てくるもののうちに見いだされますが、そこには良いものと悪いものとのあいだでの自由選択を有する個人の不死の霊魂の概念も一緒に見だし得ます。ファン・デル・ワルデン教授はこの教義をピタゴラス、プラトンを通じギリシア人に影響を与えたものと見なしており、「ペルシャの神話は出生時の星の配置が浮上したことに決定的な影響を与えた……と私は信じています。」と彼は書きました。
p248
ピュタゴラスの影響、ピュタゴラスのエジプト留学?(イアンブリコスの捏造か)
最初の人物ではなかったようではあるものの、その有名な具体例としてサイラスがバビロニアを奪った時点で19歳だった、紀元前558年生まれのピタゴラスがいました。後世の伝記作家を信じ得るのであれば、ピタゴラスは20歳で学問のためエジプトへ赴きました。彼は紀元前525年、カンビュセス率いるペルシャの侵略を受け捕らえられるまで、25年ほどそこにいました。
p250
バビロニア捕囚説とゾロアスター教のマギから音楽調和理論習得の捏造
ピタゴラスは捕虜となりバビロニアへ連れ去られましたが、そこにいるあいだの数年間、彼はゾロアスター教の主導者であるザラタスの教えを受け、ゾロアスター主義の最高位の秘教的神秘に迎え入れられましたが、年代記によればその神秘にはかの有名な宇宙の音楽的調和の教義も含まれていました。
しかしその教義の起源についての真実は、ペルシャのマギ以上にバビロニア人に負っていたのかもしれません。
p250
天文学者エウドクソスがカルデア人占星術に敵対的
キケロはギリシャの知的サークルにおいて、出生での星の配置にまつわる古い知識の文献上の証拠をもたらしています。彼はプラトンの生徒でのちに天文学において評判を得るエウドクソスが「出生の日の星々の位置から人物の未来を予知するという、カルデア人の占星術師たちにどのような信頼もおかない」と述べた上で、占星術に対しじつに批判的であったとしています。
p251
占星術師と天文学者がギリシア世界で分化
キケロが触れている文章が正しく帰せられたとすれば、個人のホロスコープを描くバビロニアのネイタル占星術は、ギリシャ世界に至るや否や天文学者たちといくらかの衝突があったことがうかがえます。占星術師と天文学者という、古典的なバビロニア時代には区分けがなく、一体だったふたつの職業がギリシャでは分割されたことがわかるという意味でこの敵意は興味深いです。
p252
ヘレニズム時代のバビロンの占星術学校
ギリシャ人が本当にメソポタミアに至ったのは紀元前331年10月1日、アレクサンドロス大王の軍隊がペルシャ軍を制圧してまもなく、勝利を喝采しつつバビロニアに乗り込んだ際でした。ほどなくして数千人のギリシャ人が征直後立ち上がった新たな都市を訪れそこで学び、あるいは住むに至りました。多くの人々が占星術を学び占星術学校は繁栄しました。のちにギリシャ人によって言及された2人のバビロニア人教師が存在したことが考古学者たちにより証拠づけられ、それはギリシャ人たちにキデナスと呼ばれたキディンヌとナブリアノスとして知られるナブ=リマンヌでした。古典時代の著者であるストラボによればウルク、ボルシッパにも学校はあったようです。
p252
バビロンのバアル神官ベロッソスのコス島への占星術の伝承/前281年
ベロッソスはバビロンにあるベルの聖職者でしたが、紀元前281年のあるとき西に向け出発し、知性の中心地としての名声をすでに得ていたコス島に落ち着きました。バビロニアの占星術上の伝統の知識のすべてをコス島に持ち込み揺るぎないものとしたのはベロッソスで、これによりギリシャ人は占星術を学ぶことができるようになりました。
p254
ストア派ゼノンの占星術の承認
その後紀元前264年に亡くなったゼノンに始まるストア派の哲学者たちが占星術を承認したことにより、占星術はギリシャの知的世界へと急速に広まりました。
p254
アセンダントの利用はクラウディア朝の皇帝の占星術師
ローマ皇帝ネロならびにウェスパシアヌスに仕えた占星術師バルビリウスは初期のふたつのチャートについて書いており、それらは紀元前72年12月27日ならびに紀元前43年1月16日のものです。彼はそれら双方にアセンダントをもたらしていますが、その資料の拠り所はティベリウス、クラウディウス両皇帝に仕えた彼と同じ占星術師で、彼の父親であるトラシュロスである可能性があります。
p256
バビロンからアレクサンドリアへ
この頃までにアレクサンドリアとアテネは、バビロンに代わり学びと宗教とが混交した大いなる中心地となっていました。のちに新プラトン主義あるいはヘルメス主義の哲学者として知られるに至ったピタゴラスとプラトンの伝統に学ぶ哲学者たちは『ティマイオス』などで学びを継続し、後者にとってはヘルメス・トリスメギストゥスに帰せられた文章は至高の真実の福音でした。
p257
新プラトン派のプロクルスもまだ、バビロニアの占星術師たちに敬意
5世紀のアテネのアカデメイアの長でもあったプロクルスは、プラトンの『ティマイオス』への注釈の中でバビロニアの占星術師について触れ、「彼らの観察は宇宙の周期の全体を網羅し、未来予知は個人、政治上の出来事の双方において反駁できないものである」と記しています。
p257
アカデメイアの新プラトン派哲学者たちハッラーン移住
プラトン主義のアカデメイアとして知られるアテネの学園は、ユスティニアヌス帝の要請により529年閉鎖されました。キリスト教徒に激しく追跡された最後の哲学者たちは東へ移動し、ペルシャ王の宮廷に一時的に身を寄せ留まりました。自身の状況を性分に合わぬものと判断した彼らは、ペルシャを離れてあてもなく旅立ちました。彼らが自身の最後の避難所として見いだしたのは、城壁に囲まれた月神の都市ハッラーンであったと言われています。
p257
17 ハッラーン 寺院の都市
新アッシリア滅亡後1900年生き延びる、1271年鳥の巣に
この都市は、……ニネヴェの最後よりほぼ1900年後まで生き永らえました。十字軍の時代である1259年、ハッラーンはその2年前イスラム国家に荒々しく降りかかったモンゴル軍の残党により乗っ取られました。1271年、モンゴルの推進力は敗走しましたが、ハッラーンは「鳥たちが自身の巣のために」顧みるのみとなりました。
p259
月神シン信仰のメッカ
しかしながら古代ではその商業上ならびに戦略上の重要さにかかわらず、ハッラーンの真の名声はその信仰上の重要性のうちにあり、月神シン崇拝の中心地でその寺院は古来では最も有名なもののひとつでした。
p260
異教の灯
ハッラーンはますます他宗教に不寛容となって行った一神教信仰へとすっかり転換させられた地域にありつつ、異教の灯として光り輝き続けました。
p260
ダマスキウスとシンプリキウスがアカデメイアを再建/10世紀まで存続
これまで述べてきた通り、アテネのプラトン学園の閉鎖に伴い、教師であるダマスキウスとシンプリキウスは自身の仲間とともに亡命し避難所を探し求めました。ここ最近まで謎であり続けましたが、1986年、フランスのミシェル・タルデュー教授はアラブの著述家であるアル=マスディがそこを訪れた際、彼らが最終的にハッラーンに落ち着き少なくとも10世紀まで存続したプラトン学園をそこで築いたことを受け入れて良い理由を得ました。
p261
キリスト教に続いてイスラームの迫害
キリスト教信仰は、じきに福音のイスラム教に取って替わられましたが圧力は継続しました。
p261
月神シンの寺院
ハッラーンにとって中心となるのは月神であるシンの寺院でした。これは3段の台座の上に銀製の偶像を有する円、五角形あるいは八角形のものなど様々な形で描写されていました。関連する色は白でした。この寺院は破壊され紀元前千年紀のあいだ3度再建されましたが、アラブの著述家によれば最後の建造は回教徒が建てた1032年のものでした。
p262
太陽の寺院
太陽の寺院は四角い金色のものとして表現されていました。その神の像は真珠がつるされ王冠をかぶった金色のもので、6段の台座の上に立っていました。関連する色は黄色でした。
p262
水星の寺院
水星の寺院は外側が六角で内側が四角でした。偶像は他のすべての金属が混ざった合金でできており、その中空には水銀が詰まっていました。4段の台座の上に立ち、関連する色は茶色でした。
p262
金星の寺院
金星の寺院は二辺にくらべ一辺が長い三角形でした。偶像は5段の台座の上に立ち、銅でできていました。寺院の内外に塗られた色はおそらく青でした。
p262
火星の寺院
火星は赤い長方形の寺院で、外か内かは不明ながら壁には武器がつるされていました。像は哲西で7段の台座の上に掲げられていました。
p262
木星の寺院
木星の寺院は三角形の土台上にとんがり屋根付で建てられました。建設に用いられた石は緑色で壁も同じ色が塗られていました。像は錫でできており、8段の高座上にかかげられた玉座上に座していました。
p263
土星の寺院
最後に土星の寺院は六角で黒い石でできていました。状況ははっきりしませんが、メッカのカーバ神殿のように外側か内側のいずれかに黒い幕が吊るされ偶像は鉛製、9段の高座上に掲げられた玉座に座していました。
p263
概念に捧げられた寺院
これら天体の寺院はハッラーンの心臓部をなしましたが、他にも「最初の原因」を守る寺院、「最初の理由」を守る寺院、「世界の秩序」や「必要性」に捧げられた寺院、そして「魂の寺院」などの様々なものもありました。
p263
十字軍に守護される
興味深いのは12世紀初めから1146年まで、エデッサ近くの国が十字軍に守られていたということです。
p263
発掘中止命令
そして1986年にローレンス・ステイガー教授のもと、シカゴ大学東洋研究所からアメリカの遠征隊がモスクならびにその近辺の発掘調査を行うべくハッラーンに到着しましたが、予期せぬことに全構成員が現場に到着する前にトルコの権威たちが割り込み、アメリカの教授は直ちに全発掘をあきらめるべきと主張しました。
p266
サービア教徒
ハッラーンの異教徒たちは歴史上「サービア教徒」として知られています。
p266
イスラム教かキリスト教に転向/コーランで是認証明にイスラム法の専門家を雇う
困惑した彼らの多くがイスラム教かキリスト教に転向しましたが、サービア教徒はコーランで認められた民であると忠告するイスラム法の専門家を雇った者もいました。
p267
『ヘルメティカ』を聖典として提出
しかしながら自身の新たな地位をまっとうするためには、彼らが聖書と考える書を示すことが要求されました。イスラムの著述家によれば、彼らはヘルメス・トリスメギストゥスに帰せられる書の集成である『ヘルメティカ』の見本を図書として提示したということです。
p267
宗教のるつぼに
たしかにピタゴラス思想の復興は不可欠で、それらはのちに新プラトン派の傘下に収まりましたが、それはおそらく中世にヘレニズムの都市で教鞭を取っていた「裸行者」と呼ばれるインドのヨギの影響でした。加えてエジプトからの強い影響もあり、それらの寺院は引き続き活動していました。最後に異教ならびにキリスト教の双方と、密接な関係のあったグノーシス主義がありました。
p267
ポルピュリオス
現代では「ヘルメス思想」と呼ばれるこの新たな哲学的文献に対する疑問の余地なき最初の論及は、3世紀後半に活躍した新プラトン主義者ポルフィリウスの書きものに現れています。この執筆運動は”ヘルメティカ”として知られ、主に架空の人物である主人ヘルメス・トルシメギストゥスとその生徒たちとの会話として表現されていました。
p268
ナグ・ハマディ文書と『アスクレーピオス』
これらヘルメス的作品が広く行き渡ったのは1970年代でしたが、古代コプトの原本の集成がナグ・ハマディ近くのエジプトの砂漠で見つかり、それらは発見場所の名を冠されました。これら原本の多くはグノーシス主義のものでしたが、その中にはコプト語で書かれた『アスクレーピオス』のふたつの断片を含むヘルメスの小冊子もありました。
p268
新プラトン主義とグノーシス主義との確執
ふたつの伝統のあいだに緊密な関係性がありながらも、プロティノスに始まる他の古典的新プラトン主義者たちがヘルメスの原本に言及していないのは興味深いです。彼らは神秘主義において共通の興味を分かち合い、さらに「グノーシス主義」的な経験にもともにかかわっていた一方、グノーシス主義そのものとは異なっていました。
p269
世界は悪/グノーシス主義者 VS 世界は善/新プラトン派とヘルメス主義者
グノーシス主義者たちは世界が悪、堕落した神位の創造物であるがゆえに克服されなければならないとの考えを有していましたが、新プラトン主義者たちとヘルメス思想者たちは世界を神の創造物が表現されたもの、そのいずれの部分もがこの神性で満たされているとしました。彼らは世界を愛していたのであり、グノーシス主義者たちは世界を憎んでいたのです。
p269
前550頃から地下へ
ギリシャ、ラテンの学者たちが知る限り、これらヘルメス思想の原本は550年頃まで広く行き渡り、のちに姿を消しました。
p269
ハッラーンのサービア教徒によってイスラームへ
それらが次に現れたのは、アラブあるいはシリアにいたハッラーンのサービア教徒の手においてでした。グリーン教授は考証が困難であったにもかかわらず、「ハッラーンはおそらくヘルメス思想をイスラムにもたらす上での入口のひとつとしての役割をほぼ果たした」と述べています。
p269
ハッラーンのヘルメス思想
『ヘルメティカ』を聖なる教科書とし続けていたハッラーンのサービア教徒たちは、自身の星信仰にまつわる他のすべての教えを慎んではいませんでした。実際彼らは自身の上演目録として新プラトン主義、占星術そして魔術思想の他にヘルメス思想を加えました。
『ピカトリクス』
それはたやすかったのですが、なぜならヘルメス思想がハッラーンですでに実践されていた、タリスマン魔術と調和した強力な魔術的要素を有していたからです。そしてこうした環境からハッラーンで書かれたであろう『ピカトリクス』という魔術作品が出来ました。
『ピカトリクス』は魔術師たちの教科書なのです。
p269-270
バビロニア占星術≠決定論、ストア派(新プラトン派)=決定論
バビロニア占星術が決して決定論的でなかった一方、ギリシャの、特にストア派の影響下にあったそれは決定論的でした。魔術は明らかに運命づけられた未来予知から抜け出す方法をもたらしていましたし、星の影響が魔術師たちに有利になるよう働きかける機会をもたらすものでした。これはもちろんバビロニアのナムブルビの儀式が悪いことに対し行ってきたと推測されることそのもので、バビロニア人はたとえば出産や恋愛など自身の生活すべてにおいて用いられた他の魔術儀式を有していました。
p270
ヘルメス学、新プラトン主義、グノーシス派の違い
ヘルメス学:ヘーラクレース帝国→フェニキア→バビロン→ハッラーン
世界(物質界)に親和的・非決定論
この世は秩序だった神的世界と照応し善である=ハルモニアー、天地照応、エ・テメン・アンキ
アン(天)とキ(地)、アンとエンキ(後にエンリル)の照応、『エヌマ・アヌ・エンリル』
法則によって、良いことも悪いことも起きるか、行動=魔術で変更可能。占いの余地。
陰陽双方を肯定的。自由選択可能、悪を選択してもOK。ゾロアスター教のように悪を選択したら殺されることはない。
新プラトン主義:ヘーラクレース帝国→フェニキア→シケリア・南イタリアのピュタゴラス派→プラトン(アテーナイ)→アレクサンドリア→ローマ→ハッラーン
世界(物質界)に親和的・決定論
ゼノンのストア派に顕著なように、世界は善=神に満たされている汎神論。
この世は、善なる目的によって動いている。人間は神=自然を読んで、その目的=運命に従って生きることが人生の目的。占星術によって運命を読むことができる。運命を読んで世界の進化のために貢献する。陰陽の陽に偏る。アテン教的。善の勝利は決定している。運命を無視して生きるのは自由だが、真の幸福は運命を感知し、それに従って生きること。
グノーシス派:エジプト(アケト・アテン/ギザ台地)とヘーラクレース帝国→イスラエル(ナザレ)→イエス→アレクサンドリア→ハッラーン
世界(物質界)に非親和的・決定論
この世=悪の領域。常に、反体制的、反伝統的。ミレニアム思想。
世界を最も楽観的に見ているのが、新プラトン派=ストア派、中立的に見ているヘルメス主義、悲観的に見ているグノーシス派。
友愛的汎神論という点では一致する。グノーシス派は、極悪=独善的一神教に焦点を合わせすぎるため、革命や反乱へ向かったり、ハードランディングを選択しがち。
バビロニアの神像崇拝→タリスマン利用
さらにこれらタリスマンの利用は神々が自身の像に内在するという、バビロニアの概念に類似しています。神の存在は日々の務め、すなわち彼らへのお供えなどを通じ偶像中に維持されました。
p270
『ヘルメティカ』に伝わるバビロニアの神像崇拝
バビロニアでの実践が少なくとも『ヘルメティカ』で表現されている概念の一部の背後にあることは会話の一部で明らかにされており、それによれば古代人たちは神性の「魂に呼びかけていた」、そして「ある神聖な儀式を用いそれらを像の中に吹き込んだ」のだそうです。
p270
『ヘルメティカ』の原本のヘルメスとアスクレピオスの会話/バビロニアの神像崇拝の実態
生徒であるアスクレピオスはヘルメス・トリスメギストゥスにこれらの神々がどのように像の中に住まうのかを尋ねると、ヘルメスはバビロニア、あるいはアッシリアの聖職者たちが数千年前に行なったことであるが、と前置きし次のように答えました。
p270
ハーブ・香水・音楽の使用で、神々を作り出す魔法
「それらは……なにか神性を有するものを含むハーブ、石そして香水を用い引き起こされます。そしてなぜ犠牲が讃美歌と称賛、天空の調和を模した甘美な音の旋律とともにもたらされたかご存知ですか?これらは最後まで行われ崇拝が何度も繰り返されたことで喜ばれ、その像のうちにある天空の存在は永きにわたり人間との交わりに黙って従い続けるかもしれません。こうして人間は神々を作りだすのです。
p271
『ヘルメティカ』とは?
『ヘルメティカ』はヘルメス・トリスメギストゥスに帰された文章の大全に与えられた名前です。
現代の形態は、15世紀初頭のヨーロッパにやってきた集成の原稿の大元からの日付を有しています。
p272
マイケル・プセルス(ミカエル・プセルロス)11世紀
たいていの学者たちはこの集成の最もふさわしい編集者は、中世の著名な学者であったマイケル・プセルスだとしていました。
プセルスは11世紀のコンスタンティノープルでじつに卓越した地位を得ており、国の秘書かつ哲学教授でもありました。彼は新プラトン主義研究の復興の道を開き、その著名ぶりはアラブ人やケルト人たちが学ぶためにわざわざ彼のもとを訪れるほどでした。
p272
プセルスがハッラーンの破壊以後に文書を受理して継承
1050年頃、彼はヘルメス風の原本で損傷のある原稿を発見するか受理するかしました。おそらくシンの寺院であろうハッラーンの大きな月の寺院の破壊があってからさほどの時間は経っていなかったので、それは重要なことだったかもしれません。
p272-273
コンスタンティノープルからフローレンスへ
コンスタンティノープルは1453年5月29日火曜日早朝のアラブ人による捕獲まで、新プラトン主義ならびにヘルメス主義の研究の中心地となっていました。7年ほどのちに『ヘルメティカ』の原稿がフローレンスにあるコジモ・デ・メディチの図書館に到着し、フローレンスではコジモの庇護のもとプラトン思想の復興が起こりました。
1463年コジモはフィチーノにすべての他の活動をやめ『ヘルメティカ』を翻訳するよう主張しました。
p273
18 バビロンからボッティチェリへ
マイケル・プセルス自身が書き写した『ヘルメティカ』の翻訳
マイケル・プセルス自身が書き写した『ヘルメティカ』の翻訳に全精力を注ぐよう告げられ、その翻訳はコジモが亡くなる直前の1464年に完成しました。
p283
フィチーノの座右の書:『ヘルメティカ』ーなかでも”アスクレーピオス”ーと『ピカトリクス』
しかし彼の世界観の礎石となったのは2冊の図書による影響で、それらはすなわち『ヘルメティカ』ーなかでも”アスクレーピオス”と呼ばれる対話ーと『ピカトリクス』でした。
p284
太陽の色・香り・植物
たとえば太陽により授与された力を望む人がいた場合、太陽の色である金色ノマントを身に着け、太陽に捧げられた植物を原料として造られたお香を焚きながら、太陽の像が乗せられた祭壇の正面での儀式をなす必要がありました。
p285
フィチーノ『リベル・デ・ヴィタ(生命の書)』
フィチーノ自身はヘルメス主義的な実践を順守することを通じ、生命に調和がもたらされることを望むすべての人々向けの手引きを書きましたが、これが1489年に出帆された『リベル・デ・ヴィタ(生命の書)』でした。
p285
クリームを塗るなど
概してフィチーノはタリスマンでなく、クリームや油のように飲んだり塗ったりする医薬品を調合する要領を取りいれ、星あるいは天体の影響を引き付けるのを好みました。
p286


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