- 両詩の神々の関係/しゃしゃりでるアテーナーは『オデュッセイア』時代
- 英雄とならず者分化前
- アレクサンドリアで最終的な捏造がなされた
- しょぼいアテーナイ人の役割
- サラミス領有の正統性主張のための捏造
- ペイシストラトス時代の挿入
- 前六世紀のアテーナイでの校訂
- ホメリダイ
- ペイシストラトスは介入できなかった
- トロイア戦争は史実であるか?
- シュリーマン、ヒッサリクを発掘
- トロイア第七層aの破壊とミュケナイ時代のギリシアを結びつけるファクトゼロ
- 大遠征の痕跡なし
- 大遠征の動機もなし:トロイア第七層a=貧しい小さな町
- ヒッタイトにもアッシリアにも、史料に何の言及もない
- テーバイの英雄ヘクトルが『イリアス』の英雄の原型!!!
- ミュケナイ文明のミュケナイ/前1400-1200年
- ホメロスの英雄=鉄器時代、ミュケナイの遺跡=青銅器時代
- 二大叙事詩の世界と線文字B文書の世界の乖離
- ホメロスの世界:社会制度も財産目録もない原始的な世界
- ホメロスの原始社会/ミュケナイのアジア型官僚社会
- トロイア第二層=プリアモスのトロイアより古い都市/1890年
- あきれたトロイア戦争=史実宣言/シンシナティ大学派遣団のブレーゲン/1958年
- トロイア第七層aの考古学証拠「鏃」一個のみ/フィンリーの弾劾
- トロイア第七層aの埋め込み壺貯蔵庫は、有事の貯蔵?
- アカイア人来襲を予言して「床下壺倉庫」をつくったのか?
- トロイア第二層=財宝ありが「プリアモスのトロイアではなかった」ことをシュリーマン認める
- 財宝と地勢が頼みの綱
- トロイア第七層a=財宝皆無の貧困の哀れむべき小さな町/1890-94年
- 「従軍記者ホメロス」論の固執して、仮説から発掘をするシュリーマン
- シュリーマンが報告書の改竄疑惑をぶちあげる論敵ベティヒャー
- シュリーマン専門家雇ってベティヒャーの告発と主張を一蹴する「報告書」/1890年
- シュリーマン、一度見捨てたトロイアに立ち戻り1890の発掘
- エドゥアルト・マイヤー/プリアモスのトロイア=架空をシュリーマンの発掘が証明した!
- エドゥアルト・マイヤー、物語の中に歴史的な核が潜んでいることは支持
- この問題にのさばってきた五つの点
- 1、シュリーマンの功罪/「ディレッタント」「良心の欠如」VS疑問に答える考古学
- 2、トロイア第七層a=ホメロスのトロイアのモデル
- 3、ホメロスは長い口頭伝承の末期に出現
- 4、『イリアス』と『オデュッセイア』≠歴史・従軍記者の報告
- 5、歴史学や考古学の諸問題は、両詩の文学的価値とは関係ない
- トロイア戦争=歴史上の事実の証明のための発掘/1871年第一次発掘調査
- まったく無根拠、ブレーゲンの克明な言葉:アカイア人=ミュケナイ人、トロイア戦争=史実
- もはやアニメの世界、『ピュロスのネストルの王宮』、クノッソス人と同じフェニキア人の王宮を!
- ブレーゲンはトロイアでもピュロスでも、その仮説を支持する考古資料を発見せず
- ホメロスからエウセビオスまで、誰一人、トロイア戦争の年代決定ができない
- 『ニーベルンゲンの歌』のアナクロニズム
- エドゥアルト・マイヤーの『古代の歴史』
- 「トロイア文化」「ミュケナイ文化」衰退期「幾何学模様式陶器文化」
- マイヤー、トロイア遠征の史実を否定
- フルマルクのミュケナイ時代の陶器の年代学
- カスキーがトロイア第七層aの破壊の年代=一二六〇中年頃
- シュリーマンやその直接の後継者たちが享受した勝手に動き回る自由には狭すぎ
- 口頭伝承 VS 記録文書 なら口頭伝承を放棄せよ!
- チャドウィックの結論
- トロイア市の事実の歴史
- ホメロスのトロイア戦争はギリシア青銅器時代の歴史から締め出さねばならない
はじめに
ベストセラーから再販/翻訳
ニ二年前に初版が出て以来何度も再販され、十もの言語に翻訳されてきた本の新版に序文をつけるというのは、著者にとって具合の悪いものである。
p7
『イリアス』と『オデュッセウア』の綿密な読み
すなわち、『イリアス』と『オデュッセウア』の綿密な読みに基づき、それらの詩の中の曖昧な点を解明するために他の諸々の社会の研究をも裏付けとして、一社会の見取り図ということである。
p7
ホメロスとミュケナイに関連する研究書を読んだことではナンバー1
この四半世紀に、ホメロスとミュケナイに関連する研究書を、私よりも多く、規則的かつ系統立てて読んだ専門家はほんの数人であろうが、それは多くの者に求めるのが無理というものである。
p8
オデュッセウスの世界=ミュケナイ文明説/1950年代
私がこの本を書いた一九五〇年代前半には、オデュッセウスの世界は大体において前一二〇〇年頃に暴力的なやり方で突然の終焉を迎えたミュケナイ文明の世界に他ならない、という観念が幅を利かせていた。
p9
線文字Bの解読と考古学が古めかしい定説を打破
線文字Bの解読と考古学が一体となって古めかしい定説を打破したのである。
p9
第一章 ホメロスとギリシア人
線文字Bのファクト/前14-13世紀
それは前一四、三世紀に由来する線文字Bで刻まれた二、三千枚の粘土板と、考古学者たちによって発掘された石、陶器、金属製品等の無言の証言に限られている。
p15
文盲の原ギリシア語話者/前2000年頃~
そうした遺物や地名の込み入った分析から明らかになったところでは、ギリシア語(あるいは原ギリシア語)を話すが書き方は知らない民族が最初に舞台に登場したのは、前二〇〇〇年以前のことである。
p15
民族混交の数世紀
人種と文化の両面において、それは徹底的な民族混交の数世紀だったのである。
p16
民族混交の証拠『オデュッセイア』
『オデュッセウア』(19・一七二ー七)の中でオデュッセウスが、ギリシア語と先住民の言葉をごっちゃにして次のように語るとき、そこにはそのような状況の明らかな名残が認められる。
「話す言葉もさまざまに混じり合い、アカイア人や
豪胆なエテオクレテス人、キュドネス人や、
波打つ髪のドーリス人、また高貴なペラスゴイ人が住んでいます。」
p16-17
「ヘレーネス」「グラエキー」「イオニア人」
ギリシア人自身の言葉によると彼らは「ヘレーネス」であり、その国は「ヘラス」である。「グラエキー」というのはローマ人によって彼らに与えられ、後にヨーロッパで広く用いられるようになった名称なのである。そのうえ古代には、東隣の諸民族が彼らを呼ぶのにさらに第三の名ーすなわち、旧約聖書のヤワンの人々に当たる「イオニア人」ーを用いていた。
p18
ギリシア人の総称の呼び名
ギリシア人の自称:ヘレーネス
ローマ人=西地中海人の呼び名:グラエキー
西アジア人の呼び名:ヤワン=イオニア人
ヘーラクレース帝国:テーバイ帝室系とアイオロス王家系の「エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼」の呼び名が「イオニア人」(その古称がペラスギ人)、西地中海での呼び名が、出身のグライアーからギリシア人、ギリシア本土での自称がヘレーネス。
狭義のヘレーネスは、アイオロス王家の末裔(その代表はイアーソン)。
「アカイア」と「アルゴス」が「格下げ」/「ヘラス」と「グライア」が「格上げ」
こうした呼称の歴史はきわめて曖昧である。ホメロスで「ヘラス」は単にテッサリア地方南部の一地域のことであり、「グライア」はボイオティア地方の、アテナイとの境界を指す。ホメロス以後、「アカイア」と「アルゴス」という呼称は生き残ったものの、「格下げ」されて、ギリシア南部の地方名となった。「ヘラス」と「グライア」がなぜ「格上げ」されたかは、ローマ人が後者を包括的な名称として採用した理由と同じく、はっきりしたことはわからない。
p18
これは明らか、当時アルゴスを占拠した「アカイア人が、ギリシア本土のトロイア戦争の終盤のヘーラクレース帝国の「レコンキスタ」で、敗北し、アカイア地方に押し込められたからで、
(アカイア地方、イオニア三島とアカルナニア、サラミス島に逼塞した。)からで、ヘーラクレース帝国は、その他の旧勢力域を回復した。上記を除くギリシア本土と西地中海、エーゲ海沿岸諸都市・諸島嶼を支配した。これが筑替えされるのは、アテーナイ帝国主義の「ペルシア戦争」と「ペロポンネーソス戦争」の中間の時期だけである。マケドニア人とエペイロス人は、やはりヘーラクレース帝国の子孫である。ローマ人も大きくラテン人、カンパニア人などのジモティーとエトルリア人とギリシア人のヘーラクレース帝国人の混血であるから、半ばヘーラクレース帝国である。
ホメロスの言語/イオニア方言の骨組みにアイオリス方言の基部
ホメロスの人工の加わった詩的言語は、イオニア方言の骨組みにアイオリス方言の基部をはめ込み、韻律の関係で必要になった造語や定型表現を多用したものだが、それすらギリシア世界全域の教養人ばかりか無学な人々にも十分理解されたことは自明である。
p20
線文字B=前1500年頃、フェニキア・アルファベット=前800-750年頃
ギリシア人が文字を書き始めたのは正確にはいつか、という問題は長いあいだ線文字Bで書かれた粘土板に封じ込まれた秘密であった。ごく最近の研究はその年代がはるか前一五〇〇年までさかのぼりうることを示唆している。しかしながら、山場はこれよりだいぶ下って、ギリシア人がいわゆるフェニキア文字を引き継いだときにやって来た。……正確な年代決定をすることもできないが、証拠は前八〇〇年から前七五〇年を指し示している。
p20-21
第二章 吟唱詩人と英雄たち
両詩の神々の関係/しゃしゃりでるアテーナーは『オデュッセイア』時代
両詩のもっと顕著な相違は英雄たちと神々の関係について観察される。オリュンポス山頂でなされる神々の決定はどちらの詩でもしばしば取り上げられるけれど、『イリアス』では神々が場当たり的に介入するのに対し、『オデュッセイア』ではアテナがオデュッセウスとテレマコスを一歩一歩着実に導いていく。
p48
英雄とならず者分化前
ペネロペの求婚者たちはならず者であるーここには何かしっくりしないものがある、というのは、「英雄」と「ならず者」はまだ本当の反意語にはなっていないからである。これらは共通の基盤に立った用語ですらない。したがって『イリアス』にはならず者が登場しない。
p49
アレクサンドリアで最終的な捏造がなされた
現存するテキストで両詩は各々二四「巻」に分けられており、ギリシア語のアルファベット二四文字が各巻の巻号となっている。この配分はたぶん後代に行なわれたもので、アレクサンドレイアの学者たちの仕事であろう。
p51
しょぼいアテーナイ人の役割
例えばアテナイ人にとって、トロイアに対する「全国民的」大戦争において彼らが演じた哀れなほど小さな役割は、ギリシアの政治に占める彼らの地位が高まっていくにつれて、しだいに釣り合わないものに感じられるようになった。
p57
サラミス領有の正統性主張のための捏造
「サラミス島からは、アイアスが一二隻からなる船団を率いてきた。
そして、アテナイの軍勢が布陣するところへ導き、停泊させた。」
これに対するメガラ側の回答は一つしかなかった……そして、その唯一の回答とは、改竄の非難を浴びせることだった。メガラ人は、「そして、アテナイの……」以下はアテナイ人による意図的な挿入であり、真正のテキストには全く存在しない一節である、と主張したのである。
p57-58
ペイシストラトス時代の挿入
このサラミス島のケースについて、後代のアレクサンドレイアの学者たちは、どちらかというとメガラ側に加担する傾向があった。彼らの考えによると、贋作者は前五四五ー五二七年のアテナイの僭主で、ソロンとともにサラミス島をメガラから奪ったペイシストラトスであった。
p58
前六世紀のアテーナイでの校訂
このペイシストラトスこそ、専門家たちを駆使してホメロス原典を校合・確立し、いわばその定本を出版することでホメロスの真作問題に最終的決着を付けた、として広く喧伝されたその人に他ならない。
現存する『イリアス』と『オデュッセイア』のテキストの根底に前六世紀アテナイ校訂本があったことは、両詩の言葉の綿密な研究によって既に証明されたように思われる。
p58
ホメリダイ
そのあいだ始終主要な役割を演じたと推測されるのがホメリダイー文字通りにはホメロスの後裔を意味するーと自らを呼んだキオス島の集団である。彼らは一種の同業組合として組織化された、ホメロスの直系たることを自認する職業的な叙事詩吟唱者たちであった。
p61
ペイシストラトスは介入できなかった
ホメリダイは二、三世紀間にわたり、ホメロスの権威たることを一般に認められていた。従って、ペイシストラトスであろうが他のだれであろうが、全面的な改訂を経たテキストを作ることでホメリダイの特権的な知識を掘り崩し、彼らの専門家としての特別の地位を弱体化するようないかなる試みにも、彼らが猛烈に反対したであろうことは想像にかたくない。
p61
トロイア戦争は史実であるか?
だがなによりも、トロイア戦争なるものは現実に起こったのだろうか。
p67
シュリーマン、ヒッサリクを発掘
ダーダネルス海峡から三マイル程入った、今日ヒッサリクと呼ばれている場所に、ほぼ確実に古代の住居跡と思われる塚のひとつがあった。シュリーマンは、古代文書に記された地勢の綿密な分析によって、後代のギリシア人がトロイア跡と考えた場所に建設し、ローマ帝政期を越えて存続したイリオン市の廃墟が、その塚の下に埋もれているという結論に達した。
p67
トロイア第七層aの破壊とミュケナイ時代のギリシアを結びつけるファクトゼロ
シュリーマンとその後継者たちが発見したものの中には、トロイア第七層aの破壊とミュケナイ時代のギリシアを、あるいはどこか他の方面からの侵入を結びつけるものは何ひとつ、一片のかけらすらない、というのが論争の余地のない事実なのである。
p70
大遠征の痕跡なし
ギリシアからトロイアへ大規模な船団が大挙して押し寄せたというホメロスの物語に符合するものは何もない。
p70
大遠征の動機もなし:トロイア第七層a=貧しい小さな町
また、そんな遠征の適当な動機も思い浮かべることができない。トロイア第七層aも蓋を開けてみれば、財宝もなく、聳え立つ大建築物もなく、どうにか宮殿を思わせるものすらない、みすぼらしく貧しい小さな町であったことが判明した。
p70
ヒッタイトにもアッシリアにも、史料に何の言及もない
トロイアは、いや「トロイア戦争」なるものすら、ヒッタイト語やその他の言語による同時代のどんな記録にも言及されていない。
p70
テーバイの英雄ヘクトルが『イリアス』の英雄の原型!!!
ヘクトルというのはギリシア名であるし、はるか後の紀元二世紀半ばになっても、ギリシア本土のボイオティア地方にあるテーバイの町を訪れた旅行者は、オイディプスの泉の傍にあるヘクトルの墓を示され、その遺骨がデルポイの神託のお告げに従ってトロイアから運ばれてきたという話を聞かされたという。このいかにも作り物めいた話は、古のテーバイの英雄ヘクトルという、ホメロスの詩より古い伝説に謳われたギリシア人がいたことを意味するに違いない。
ミュケナイ文明のミュケナイ/前1400-1200年
ギリシア勢についていえば『イリアス』に挙げられている重要な地名と、近代の考古学者たちによって再発見されたいわゆるミュケナイ文明の中心地とのあいだにはーオデュッセウスのイタカ島で発掘されたものの貧しさは注目に値する例学の一つであるがーある程度相関関係がある。ミュケナイ文明は前一四〇〇年から一二〇〇年にかけてギリシア本土で栄えた。
しかし、ここでもまたホメロスと考古学はたちまち袂を分かつのである。
p73
ホメロスの英雄=鉄器時代、ミュケナイの遺跡=青銅器時代
ホメロスが描く武具はミュケナイのものとはまったく異なるホメロス時代の武具に酷似しているが、それらはいつも鉄でなく、ホメロスの時代には廃れていた青銅で鋳造されたことになっている。ホメロスの神々は神殿を持っているが、ミュケナイ人は全然神殿を建てなかった。その一方で、ミュケナイ人はアーチ状の天井をもつ壮大な霊廟を建設してそこに彼らの族長を埋葬したのに、詩人はその長たちを火葬に付している。
p73-74
二大叙事詩の世界と線文字B文書の世界の乖離
二つの詩の世界と線文字B文書によって明らかになった社会の対比もこれに劣らず見事なものである。いや、粘土板の存在そのものが決定的なのだ。
p74
ホメロスの世界:社会制度も財産目録もない原始的な世界
ホメロスの描いた世界は、書いたり記録を保存したりすることがなかったばかりでなく、社会制度があまりに簡素で、その運営があまりに小規模な限定されたものだったため、財産目録つまり管理状態を粘土板に記録したものが必要のないような世界だったのである。
p74
ホメロスの原始社会/ミュケナイのアジア型官僚社会
線文字B文書には分かっている限りでもおよそ百種ほどの農工関連の仕事が記載されている。これに対し、ホメロスは十数種の仕事しか知らなかったし、豚飼いエウマイオスにとって、それらすべてをオデュッセウスの家畜目録と一緒に頭の中にしまっておくことは、なんの造作もないことだった。他方、ミュケナイの官僚制度と生活のあらゆる側面にまで及ぶその管理力に匹敵するものは、同時代の近東諸王国には見いだされようが、ギリシアではホメロスの時代からアレクサンドロス大王の東征以後に至るどの時代にも存在しなかったのである。
p74
第三章 富と労働
商人=フェニキア人のみ
しかしながら『イリアス』にも『オデュッセイア』にも、事実上「商人」の同意語とされる言葉はただの一語も見いだされない。概して、ギリシア世界が外部から平和的な手段で手に入れるものの供給はすべて非ギリシア系民族、とくにフェニキア人の手に握られていた。フェニキア人は本当の意味で貿易民族であり、当時知られていた世界の端から端まで航海して、奴隷、金属、宝石、上等の塗るなどを運搬した。
p126
補遺Ⅱ シュリーマンのトロイアー百年を経て
トロイア第二層=プリアモスのトロイアより古い都市/1890年
一八九〇年の第四次発掘調査は五ヶ月にわたって行われ、莫大な財宝を蔵していた都市、トロイア第二層が、シュリーマンやその追随者たちがみな固く信じていたようにプリアモスのトロイアであるどころか、それより遙かに古いものであったという、センセーショナルな発見をもたらした。
p311-312
あきれたトロイア戦争=史実宣言/シンシナティ大学派遣団のブレーゲン/1958年
シンシナティ大学派遣団の最終報告が現れ始めたのは一九五〇年のことだった。一九五八年刊行の、本書の問題に関わる今日第七層aとして知られる層を扱う第四巻でブレーゲンは、……
その五年後、一般向けの解説の中で彼はその生硬な発言を敷衍して次のように書いた。「……アカイア人あるいはミュケナイ人の連合軍が、大君主としての地位を認められた王の支配の下、トロイアの国民およびその同盟者たちと戦った、現実かつ史実としてのトロイア戦争が本当に起こった事実であることは、もはや疑うことができない」と。
p312-313
トロイア第七層aの考古学証拠「鏃」一個のみ/フィンリーの弾劾
私と他の数人は訊ねたものだ、ヒッサリクにおける長年月におよぶ発掘調査で、大君主としての地位を認められた王の采配の下にあるアカイア人ないしミュケナイ人の連合軍なるものを指し示すいかなる証拠をあなたは、あるいはシュリーマンは、あるいはデルプフェルトは見いだしたのか、と。私が知りうる限りでは、その答はトロイア第七層a第七一〇区で発見されたただ一個の青銅製の鏃だけなのである。
p313
トロイア第七層aの埋め込み壺貯蔵庫は、有事の貯蔵?
トロイア第七層aは二つの建築技術上の特異性を具えている。粗末で小さな家屋は雛壇状にごたごたと立て込んでおり、また、ありふれた大きな貯蔵用の壺は住居の床に縁まで埋め込まれ、上を歩いて渡ることができるように石板で蓋をされていた。ブレーゲンは、「われわれは、包囲攻撃に持ち堪えるために十分な飲食物を貯蔵するという、脅威に曝された共同体の企図を、ある程度の確信をもって、認めてよいかもしれない」と書いている。
p315-316
アカイア人来襲を予言して「床下壺倉庫」をつくったのか?
ホメロスはトロイアの包囲攻撃を十年作戦に引き延ばしたが、アカイア軍の補充兵や糧秣を考慮に入れることは怠った。……トロイア人は包囲攻撃を予期していたのだ、と。……「いつの日かアカイア人が大君主と認められた者の采配の下に攻め寄せてくるであろう。それゆえ、われわれは密集して住み、床に壺を埋めようではないか。……」
p316
トロイア第二層=財宝ありが「プリアモスのトロイアではなかった」ことをシュリーマン認める
一八九〇年、六八歳という高齢で彼が、トロイア第二層、すなわち莫大な財宝を蔵していたトロイアは、どうやらプリアモスのトロイアではなかったことをほとんど即座に認めたのは、決して生半可なことではなかったのである。
p320
財宝と地勢が頼みの綱
このとおり、従軍記者ホメロスという支柱を即座に放棄した後も、……シュリーマンは別の二つの支えにしっかりとしがみついていた。その第一は財宝だった。
その後間もなく、ミュケナイの竪穴式墳墓でもっと多くの財宝を発見したとき彼の確信は強まった。そして、第二の支えはトロイア地方の地勢だった。
p321
トロイア第七層a=財宝皆無の貧困の哀れむべき小さな町/1890-94年
それから一八九〇年が訪れ、一八九三年と一八九四年のデルプフェルトによる発掘調査が行われ、この調査のおかげで財宝の出る幕はなくなってしまった。
トロイア第七層aは貧困に打ちひしがれた哀れむべき小さな町であり、財宝はなく、大きな堂々たる建物すらまるでなく、いささかでも宮殿らしきものもなかった。
p321
「従軍記者ホメロス」論の固執して、仮説から発掘をするシュリーマン
一七八五年、ルシュヴァリエがヒッサリクの一〇キロメートルほど南東にあって、ヒッサリクよりもさらに海から離れた村ブナルバシの外れにある「要塞」をホメロスのトロイアと同意視し、この説は反対論が散見されたものの大方の支持を受けた。一八六三年、そこで行われたフォン・ハーンの発掘は大失敗に終わり、その四年後、イタカにおける「発見」をなし遂げたばかりのシュリーマンは、ブルナバシはトロイアではなりえないという確信を持った。その論拠は、一つは「従軍記者ホメロス」論であったが、そればかりでなく反駁しようのない根拠も挙げられた。すなわち、彼が速やかに掘った試掘用の溝から先史時代の住居跡が認められなかったと言うのであり、……
p322
シュリーマンが報告書の改竄疑惑をぶちあげる論敵ベティヒャー
一八八三年、ドイツの砲兵士官エルンスト・ベティヒャーが立て続けに論文を発表し始め、シュリーマン(およびデルプフェルト)は、ヒッサリクが古代の広大な火葬場以外の何ものでもないことを隠蔽するため、故意に報告書に手を加えているのだと非難した。
p323
シュリーマン専門家雇ってベティヒャーの告発と主張を一蹴する「報告書」/1890年
そこで翌一八九〇年、彼は再び自分の費用で専門家からなる国際的な調査委員会を組織した。彼らはヒッサリクに集合し、その年の五月三〇日、全員一致でベティヒャーの告発と主張を一蹴する正式の「報告書」を公表した。
p323
シュリーマン、一度見捨てたトロイアに立ち戻り1890の発掘
妙なことに、ベティヒャーの狂気じみた攻撃のおかげでシュリーマンは永久に見捨てたはずのトロイアに立ち戻ることになり、これが一八九〇年の運命的な発掘につながったのである。
p323-324
エドゥアルト・マイヤー/プリアモスのトロイア=架空をシュリーマンの発掘が証明した!
『イリアス』に描かれたプリアモスのトロイアがいまだかつて存在しなかったことはシュリーマンの仕事によって証明された(その当時は年代について全く誤った考え方が支配的だったことを思い出す必要がある)、というものであった。この書物の著者はエドゥアルト・マイヤーという弱冠二二歳の青年だった。
p324
エドゥアルト・マイヤー、物語の中に歴史的な核が潜んでいることは支持
歴史家たちはシュリーマンの最大の関心事だったヒッサリク説を支持することにかけては一枚岩のように堅固だったし、エドゥアルト・マイヤーは、シュリーマンが最も親密な関係を保ち続けたマックス・ミュラーに優るとも劣らず、物語の中に歴史的な核が潜んでいることを認めるのに吝かでなかったのだから。
p325
この問題にのさばってきた五つの点
しかしながら、私はまず、いつもこの問題にのさばってきた狂信的な少数派を別とすれば重大な相違があるとは思わない五つの点を、簡単に概観してみたい。それは末梢的な問題や、もはや論ずるに足りない問題を一掃するためである。
p326
1、シュリーマンの功罪/「ディレッタント」「良心の欠如」VS疑問に答える考古学
一、シュリーマンはさまざまな形容を呈せられがちだったし、……
「通俗」「ディレッタント」「良心の欠如」「精神的」「利己的、ロマンティック、苦しみもだえる、子供じみた」
シュリーマンは馬鈴薯を掘るように遺跡を掘ったのかもしれないが、……
彼はまたーその意義が認められることはめったにないのだがー考古学の最大の目標はさまざまな疑問に答えることにある、ということに十分気づいていた。
p327
2、トロイア第七層a=ホメロスのトロイアのモデル
二、古代トロイアは、事実上古代世界全体がホメロス以来信じていたようにヒッサリクにあった。また、仮にトロイア戦争が実在したとすれば、アカイア人に包囲攻撃を受けて陥落したトロイアは、前一三世紀後半に暴力的に破壊された、今日トロイア第七層aと呼ばれる都市に他ならなかった。
p327-328
3、ホメロスは長い口頭伝承の末期に出現
三、われわれがホメロスと呼ぶ詩人ないし詩人たちは長い口頭伝承の末期に現れた。
p328
4、『イリアス』と『オデュッセイア』≠歴史・従軍記者の報告
四、口頭伝承の性質から、また『イリアス』と『オデュッセイア』が歴史でもなければ従軍記者の報告でもなかったことから、規模や詳細に関する誤謬は予想してしかるべきだし、
私としては「反対派」が、『イリアス』に一度言及されている猪の牙で飾られた兜がミュケナイ時代のギリシアに実在したことを発見した、というような希な機会をつかまえて戦勝踊りを踊らぬよう希望したい。
p328
5、歴史学や考古学の諸問題は、両詩の文学的価値とは関係ない
五、われわれの頭を悩ませる歴史学や考古学の諸問題は、両詩の文学的価値ないしそれを読む楽しみとはあまり関係がない、ということである。
p329
トロイア戦争=歴史上の事実の証明のための発掘/1871年第一次発掘調査
シュリーマンは、一八七一年の第一次発掘調査に着手すべくトルコ政府の正式の許可を得ようと奮闘して、「トロイア戦争は作り話ではなかったこと、また、プリアモスのトロイアとペルガモスは現実に存在したことを証明する、という純粋に学問的な目的」を自分が抱いていることを、手を変え品を変え、何度も書き送った。
p329
まったく無根拠、ブレーゲンの克明な言葉:アカイア人=ミュケナイ人、トロイア戦争=史実
ブレーゲンの克明な言葉は再掲に価する。「アカイア人あるいはミュケナイ人の連合軍が、大君主としての地位を認められた王の采配の下、トロイアの国民およびその同盟者たちと戦った、現実かつ史実としてのトロイア戦争が本当に起こった事実であることは、もはや疑うことができない。」
p330
もはやアニメの世界、『ピュロスのネストルの王宮』、クノッソス人と同じフェニキア人の王宮を!
ブレーゲンはこのときさらに歩を進めた。彼はトロイアからピュロスに話を移し、その発掘調査に関する最終報告は、以前の報告がたんに『トロイア』だったようにたんに『ピュロス』ではなく、『ピュロスのネストルの王宮』と題されたのである。
p330
ブレーゲンはトロイアでもピュロスでも、その仮説を支持する考古資料を発見せず
だが、腹蔵のない事実をいうと、ブレーゲンはトロイアでもピュロスでも彼の歴史学上の結論を保証してくれるものを何一つ、文字どおり何一つ発見しなかったのである。
p330
Carl Blegenは、ミネソタ州生まれのノルウェイ人移民のアメリカ人である。
1932-39年の第二次世界大戦中に、トロイアを発掘して、世迷いごとを言った。
1939年、ピュロスを発掘、戦後の1952-1966年、彼のいうところの「ネストルのピュロス宮殿」を発掘した。出土物は、Archaeological Museum of Chora ホラ考古学博物館に収蔵された。
彼はアメリカのゴールドメダルのみならず、アテネ大学やイスラエルの大学からも表敬されている。イスラエルのシオニストに評価されていることからも、誤った党派的仮説によって発掘物を曲解しようと言う意図の一致を感じる。
出土物には、鼎やタコのモチーフやケルト人=隼人の渦巻がある。クレタ島のクノッソス人、アダナに移住したフェニキア人と同族のテーバイ帝室系と想定される。
ペイシストラトスはじめアテーナイに王族として占領民として乗り込んだピュロス王家は、アイオロス王家とテーバイ帝室の混血だったと想定される。
ホメロスからエウセビオスまで、誰一人、トロイア戦争の年代決定ができない
ホメロスはもちろん、ヘロドトスからエウセビオスに至る古代の年代記作者たちも、なんら年代決定上の根拠を与えてくれない。
p332
『ニーベルンゲンの歌』のアナクロニズム
なるほど、あらゆる伝承が『ニーベルンゲンの歌』の伝承ほど歪曲されているわけではない。なにしろこの作品は、……
(五世紀のフン族の王アッティラと、10世紀の巡礼者を、同時代に登場させている)
下敷きは、「ニーベルンゲン伝説」であるが、類する話が、古ノルド語の一連のサガに描かれている。
エドゥアルト・マイヤーの『古代の歴史』
年代を付された記録文書がない以上、われわれに年代決定の骨組みを与えてくれるのは考古学であり、考古学のみなのである。
エドゥアルト・マイヤーの『古代の歴史』のうち、一八九三年に刊行された巻を考えてみるだけでよい。
p333
「トロイア文化」「ミュケナイ文化」衰退期「幾何学模様式陶器文化」
すなわち、石器時代に続いてエーゲ海の両側で、彼が「トロイア文化」と呼ぶ共通の文化が興り、それがギリシア本土ではとくにミュケナイ文化にとって代わられた。ミュケナイ文化は技術と「文明」の点で非常に進歩していたから、われわれは恐らく前二〇〇〇年頃に始まった長い揺籃期と、今日「幾何学模様式陶器」(前一〇世紀ー前七〇〇年頃)と呼ぶものが出現するまでの長い衰退期があったことを認めなければならない、と。
p333
マイヤー、トロイア遠征の史実を否定
マイヤーは、……「トロイア遠征はしっかりとした歴史的背景の中に収めることができない」ことを明確に主張した。
p334
フルマルクのミュケナイ時代の陶器の年代学
ただ、フルマルクによってミュケナイ時代の陶器の年代学が確立されたことにだけは言及しておこう。
p334
カスキーがトロイア第七層aの破壊の年代=一二六〇中年頃
カスキーがトロイア第七層aの破壊の年代についていった、「一三世紀末に近くおよそ二〇年か三〇年の幅があることを認めなければならない」というような言い方は、考古学的方法に基づくどんな年代決定にもあてはまることである。専門家は考古学関係出版物の至るところに一二六〇中年頃というような年代の記述が散らばっているのを見るとき、そのことを十分に意識している。
p334-335
シュリーマンやその直接の後継者たちが享受した勝手に動き回る自由には狭すぎ
しかし、この幅はシュリーマンやその直接の後継者たちが享受した勝手に動き回る自由のためにはあまりに狭すぎ、そして、それこそ増大する知識のパラドックスについて私が語った所以である。
p335
口頭伝承 VS 記録文書 なら口頭伝承を放棄せよ!
ホメロス(あるいは何であれ他の口頭伝承)が、記録文書(この場合は線文字B文書)ないし考古学的発掘物と真っ向から対立する場合、ホメロスの方が放棄されねばならない、ということである。
p337-338
チャドウィックの結論
チャドウィックが近年この問題に関する彼の結論を以下のごとく締めくくったのである。「ホメロスの証言はほとんど無価値であると私は信じている……その一つの大きな理由はまさしく、一方粘土板や考古学から今日知られているミュケナイ地理学と、他方ホメロスの記述から知られるそれとの間に、全くなんの接点もないということである。
p338
ジョン・チャドウィック(1920-1998)
イギリスの考古学者。マイケル・ヴェントリスと線文字Bの解読を行なった。彼に、ギリシア語の知識を与えてバックアップした。
トロイア市の事実の歴史
結局、われわれがトロイア戦争と呼ぶものは、今から三〇〇〇年以上昔に起こったと推定される、ある要塞化された都市に対するある一回の包囲攻撃に過ぎなかった。そして、その年はその後少なくともさらに一五〇〇年間にわたりたえず人の住む所として存続し、その間には、毎年のように行われるふつうの建築と取り壊しは別として、大規模な再建工事が二度行われた。
p340
ホメロスのトロイア戦争はギリシア青銅器時代の歴史から締め出さねばならない
われわれの中にはもっと懐疑的な者もいる。すなわち、ホメロスのトロイア戦争はギリシア青銅器時代の歴史から締め出さねばならない、という説もあるのである。
p342


コメント