本の情報
書名:『ギリシア神話』
著者:アポロドーロス
訳者:高津春繁
発行:岩波書店
文庫:岩波文庫
発行年:1953年04月25日 第1刷
現刊年:2020年11月5日 第90刷
著者について
以前は、「紀元前二世紀後半のころの、『神々について』および『年代記』を著わした有名なる同名の学者」と同一視されてきたが、
「しかし最近、特にローベルトの研究以来、この両アポロドーロスは全くの別人であり、我々の著者は最も早くて紀元前一世紀以前におくことはできないという説が有力である。」
その理由は、「文法家アポロドーロスの合理主義的神話解釈と我々の著者の単なる古代文学より伝承せられた神話の無批判なる編纂者としての立場との相反はあまりにも大きく、この矛盾を同一人の中に融和せしめることは困難であるうえに、」とあるように、
このアポロドーロスは、極力主観を廃し、矛盾する伝承を平気で併記しているからである。
もう一つの理由が、紀元前一世紀の著者と思しきカストールからの引用があることである。
つまり、われらがアポロドーロスは、どんなに古くても紀元前一世紀以前におくことができないとのことなのだ。
だから現存する最古のギリシア神話について書かれたとされるホメロスの叙事詩より信用ならないかっていうと、そんなことはない。
ホメロスが最終的に成立したのは、アテーナイにおいてであり、アテーナイ人による加筆、捏造が、満載されていると考えうるからである。
私にいわせれば、極端に主観的なホメロスなんかより、こっちの方がはるかに古い伝承を正確に伝えている。
ホメロスのオリュンポス12神の扱いや表現を見れば、オヴィディウスまであと一歩と言わざるを得ない。
写本について
著者はアポロドーロス(Απολλόδωρος)、生存は紀元前一世紀ころというほかまったく不明。
書名は、ビブリオテーケー(Βιβλιοθήκη)。「図書館」という名前である。
まず19世紀までは、尻切れトンボの写本しかなかった。
「従来伝承せられていた本書の写本はすべて第三巻のテーセウス伝説の中途で突然に切れている。
したがって相当に数多く存在する写本(R.Wagnerによれば十四本)はすべてこの所以下が欠本となっていた或る不完全な原本よりの書写であると断ずべきである。」
つまり、19世紀までは、「尻切れトンボの原本」からの写本が出回っていた。
それゆえ、この本も「第一巻」「第二巻」「第三巻」「摘要」となっており、「摘要」は19世紀に発見された「ちょんぎれたしっぽ」の部分なのである。
「しかるに一八八五年にいたって、前記のワグナーは、ヴァティカン宮所蔵写本第九五〇(十四世紀終末ころのもの)の中に本書の要約を、
また一八八七年にパパドプーロス・ケラメウスはイェルサレムにおいて同種類の要約の残欠を発見した。後者は現在ではイェルサレムの長老の文庫の中に保存されているが、もとは聖サバス僧院に属していたので、『サバス本』と称せられる。
つまり、19世紀になって、「ちょんぎれたしっぽ」が二種類発見された。
つまりこのギリシア語で書かれた古典は、東ローマ帝国で保存され、帝国滅亡によって、ルネサンス期に到来し、ヴァティカン宮の書庫に収まったのだろう。
聖サバス僧院は、イェルサレムにあり、この聖サバスは、5世紀から6世紀を生きた小アジアのカッパドキア生まれの修道士であり、イェルサレムに修道院設立に尽力したようである。
このカルケドン信条の支持者であった聖サバスは、キリスト教の聖人ということだが、キリスト教僧院で、ギリシアの古典が保存(なかば隠されて)されて来たものが、今ユダヤ教の長老の文庫に収まっているというのだろう。
本書の特徴
出典(ソース)の選択の特徴
①紀元前五世紀以前の作家の作品
「本書の特徴は、著者がギリシア神話の伝承として拠ったところのものがすべて純粋に古いギリシアの著述によっているところにある。」(P5)
註に出ている作家と作品は、下表のとおりである。
見ての通り、アテーナイではなく、小アジア、島嶼、アルゴスとコリントスのようなペロポネソス半島の作家である。つまり、アテーナイ人の偏見に毒されていない、古来の伝承を忠実に伝えているソースであるといえよう。ともあれ、アテーナイの注釈・加筆の入ったホメロスも典拠としているのであり、
両者を無批判に併記しているわけだから、読み手が解釈を加えながら読むことになる。
つまり「紀元前五世紀以前の作家を典拠としている」のであり、
「アポロドーロスの拠ったところは常に古典期のまたはそれ以前の最上の作家であり、彼はそれ以後の権威をあまり重んじていないのである。」
| 著述家 | 出身 | 説明 | 頁 |
|---|---|---|---|
| ペレキューデース | レロス島 | 〔註〕ペレキューデースは紀元前五世紀の散文家。レロス島の人で、神々の系譜に関する書十巻を著わした。 この書は散逸したが、多くの断片が残っている。 アポロドーロスがしばしば引く参考書の一つである。 | 211 |
| パニュアッシス | ハリカルナッソス | 〔註〕Panyassisはハリカルナッソスの人でヘーロドトスの叔父にあたる有名な叙事詩人。前四五四年に僭主リュグダミスによって殺された。彼はヘーラクレースに関する叙事詩を著わした。 | 212 |
| アンティマコス | コロポーン | 〔註〕「テーバーイス」はボイオーティアーのテーバイ市のことを謳った叙事詩。現存せず。コロポーンの人アンティマコス(前五世紀後半の人)がその著者である。 | 213 |
| Antimachus of Colophon | Colophon | プルタルコスによれば、Stesimbrotus of Thasosの弟子で、 第一次テーバイ攻めを歌った叙事詩『the Thebais』の著者。 | OCD |
| ヘーシオドス | 小アジアの キュメ | 〔註〕Hesiodosは前八世紀の教訓詩の作者、叙事詩人。その「神統記」は本書の最初の部分の種本である。 | 213 |
| ペイサンドロス | ロドス | 〔註〕Peisandros(前七、六世紀)はロドスの人。ヘーラクレースの事跡を歌った叙事詩の作者。ただし湮滅して現存せず。 | 213 |
| アポロドーロス | ロドス | 〔註〕ロドスの人アポロドーロス(およそ前二九五ー二一五年)はアクレサンドレイアにおいて活躍した学者詩人。そのアルゴナウタイの冒険を主題とした長篇の叙事詩が現存している。 | 214 |
| アクーシラーオス | アルゴス | 〔註〕Akusilaosは前六世紀後葉のアルゴスの散文家。ヘーシオドス流の神々の系譜を著わした。 | 214 |
| アスクレーピアデース | トラギルス (マケドニア) | 〔註〕Asclepiadesは前四世紀のギリシア神話に関する著作で有名な人。 *************** トラギルスのアスクレーピアデース。神話学者。悲劇がいかに神話を伝えているか研究した。(OCD、P180のAsclepiadesの1番さん) | 214 |
| 読み人知らず | 〔註〕「ノストイ」(Nostoi)とは、トロイアーに遠征したギリシアの英雄たちが帰国の途上の物語を歌った叙事詩であって、今では散逸して伝存していないが、種々の材料によって間接的にその内容をおおよそ窺うことができる。 | 215 | |
| ピンダロス | キュノスケパライ(ボイオティア) | 〔註〕なおピンダロスは前六ー五世紀のギリシア古典時代の抒情詩人。 ************ テーバイ近郊のキュノスケパライ出身(ボイオーティア)。 518BC生れ。ペルシア戦争に中立し、戦後アテーナイに無関心。 | 215 |
| エイメロス | コリントス | 〔註〕Eumelosは前八世紀(?)のコリントスの詩人。コリントス市の歴史を詩形で綴ったと言われる。 | 223 |
| アシオス | サモス | 〔註〕Asiosはサモスの人、英雄の系譜を詩形で綴った。 | 223 |
| ステシコロス | シケリア島のヒメラ | 〔註〕Stesichoros(およそ前六四〇ー五五五年)大抒情詩人。 | 223 |
| シモニデス | ケオース島 | 〔註〕Simonides(およそ前五五六ー四六八年頃)はケオース島の人、ピンダロスとともにギリシア三大の抒情詩人である。 | 225 |
| 読み人知らず | 〔註〕「小イーリアス」はトロイアー戦争を歌った多くの叙事詩よりなる一群の叙事詩圏の中の一つである。 | 226 |
②ローマの神話、ヘレニズム以降のソースを無視
「次に彼の特徴の著しい点は、ローマの神話伝説を、故意にともいうべきほどに完全に無視していることである。これはフレーザーも言うごとくに、著者がローマの最盛期の人と考えれば、確かに顕著な特質であると言わざるを得ない。」(P7)
ローマ建国神話は、おそらくローマ人の捏造神話であろうから、たとえ帝国の神話でも無視するところはすごい。
またオヴィディウスの『転身譜』は、すでに各地方で別々に崇拝されてきた神々を家族にして、オリュンポス12神が、ローマのカピトリウムを投影したような宮殿に人間のように住んでおり、人間のように人格下劣で、卑近な性格に描かれている。
しかし、これは、ホメロスも同じである。神々が家族になってしまっているし、神々が人間と本気で喧嘩をしたり、アテナが異様にしゃしゃりでていたりする。
③書物にのみ典拠し、民間の伝承を採取せず
「なおここに特記したいのは、アポロドーロスは常に書物のみよっている、ことにそれも悲劇とか叙事詩とかそのほかの標準的な著書に拠っていて、民間の伝承を自ら採集したりする人ではないことである。」(P7)
これは重要である。アポロドーロスは、前五世紀以前の書かれたものだけを典拠としている。
つまり、教養人の書いたものであるということ。
また悲劇には、その題材となった神話が消滅していても、複数の悲劇作家が取り上げることで、ある程度その元となった神話を復元しうる部分もある。
例えば、オイディプースやヘーラクレースなどの神話は、テーバイやアルゴスが重要な都市であり、安定した家系が統治していたことを投影している。
それに引き換え、アテーナイの英雄テーセウスは流れ者であり、プティアーのアキレウスも実は地盤を持たない流れ者であることがわかるのだ。
さらに注目すべきは、民間伝承には、征服支配者によって湮滅された古い伝承が保存されている可能性がある。したがって、アポロドーロスの欠損を補うために、民間伝承をチェックする必要があるということだ。
この民間伝承は、実際に旅をして、ジモティーから話を聴取したパウサニアスやヘロドトスの著作が役に立つだろう。
パウサニアスは、主観を交えて評価しており、アテーナイびいきであるから、そこは割り引かないといけないが。
ヘロドトスは、アテーナイびいきとも言われ実際そうなのだが、諸国の伝承や地理誌の部分は、ジモティーに聴取したことを、自分が信じられなくても、荒唐無稽と思えても、無批判にそのまま提示し、読者に解釈を委ねる姿勢を見せ、また矛盾する異説も並記するという、ある意味で、トゥキュディデスより「科学的」である一面がある。それゆえ、ヘロドトスは貴重な資料である。
叙述の特徴
「著者は神話の伝承に対して極めて僅かの例外を除けば、全然批判をせず、また異なる伝承間の比較や研究は行わない。」
「彼は平然として相反し相矛盾する伝承を語るのであって、したがって同じ物語に関して異る場所において異る伝承がしばしば語られる。」
実は、これこそが科学的態度である。
もし数ある資料を自分の解釈という色眼鏡を通して提示するならば、発掘した品を、自説に都合の悪いものは隠蔽して、都合のよいもののみを公表する悪徳考古学者のようなものである。
かれはまさに、誠実で科学的な良き考古学者のように、資料を並列するのである。
「しかしこれは一方において著者が忠実に原典の筋を伝えていることの間接証明となるのであった、我々は原典の失われている多くの悲劇の筋に関してアポロドーロスをほとんど無条件に信用してもよいということを示している。」

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